<東京怪談ノベル(シングル)>


人間エル・クローク


 本当の名店は、看板さえ出していないという。
 残念ながら、とエル・クロークは思う。自分の店は、そのような境地には到底、達していない。だから洒落た看板を掲げ、客を引き寄せなければならない。
 看板も何もない、客を呼ぶ気が全く感じられない店の前に今、クロークはいる。
 一見すると、単なる民家である。
 ドアノッカーを手に取ろうとした瞬間、扉の向こうから声をかけられた。
「開いとるよ」
「……失礼する」
 クロークは扉を開けた。
 刻み煙草の香りが、ぷんと漂った。
「新しい配合だね、これは」
「お前さんは、あれじゃ。お香の調合は出来ても、煙草の扱いはまるでなっとらん。わしが自分でやった方が良い」
 1人の老人が、揺り椅子に身を沈めながらパイプを咥えている。
 クロークが様々な香料を調合するように、この老人は数種類の刻み煙草を配合してパイプで吹かし、独自の香りを作り出すのだ。
 クロークの店では、煙草の葉も扱っている。この老人は、得意客の1人である。
 一方クロークも、この老人にとっては得意客であった。
「また、お願いしたいのだけど……」
 持参した包みを、クロークは老人の眼前の卓上に置いた。
 馴染みの交易商人から、品物を仕入れて来たところである。
 懐に入れて持ち運べる香料。目的の品であったそれの他に、ある珍しいものを発見したので、買い求めた。
 この老人への、報酬としてだ。
 クロークが差し出した、その包みを、老人は手に取った。少しだけ、匂いを嗅いだようである。
「ほう、これは……南方の民が、回し飲みしておるものではないか? 懐かしいのう」
「さすが、ご存じのようだね。その通り、ソーン全土に出回っている煙草の原点……南方の部族が、宗教儀式で用いている品種さ。このままパイプに入れて火を点けても、貴方好みの味にはならないと思うけど」
「なに、色々と配合を試してみるさ」
 刻み煙草の包みを、老人は受け取った。報酬として、受け取ってくれた。
 クロークの依頼を、受けてくれたという事だ。
 この老人は、金では絶対に動かない。金などというものは、とうの昔に卒業しているのだ。
「煙草もね……程々にしないと、身体に良くないよ? 貴方の正確な年齢なんて僕は知らないけれど、煙草のせいで何百年かは寿命を縮めているのではないかな」
「お前さんも年かのう。あの御嬢と、同じ事を言いおる」
 老人が「御嬢」と呼んでいた女性は、もうこの世にはいない。
「まだ200年も生きておらぬ若造が、年寄りじみた事を言うものではないぞ」
「183年も生きれば、もう充分に年寄りさ。身体じゅうにガタが来ているよ。貴方のおかげで、どうにか持ちこたえているけれど」
「お前さんのような安物の時計が……よくもまあ、ここまで長持ちするものよ」
 感慨深げに、老人は煙を吐いた。
「わしが作った安物を、御嬢はずいぶんと大切にしてくれたんじゃのう」
「誕生日の贈り物だ、と彼女は言っていたよ。5歳だか6歳の時の」
 老人に「安物」と評された物品を、クロークは懐から取り出した。
「そんな年齢の女の子が、こんなものを欲しがるなんてね……小さな頃から、変わり者だったみたいだ」
 プラチナの鎖が付いた、金の懐中時計。
 この老人の、作品の1つである。
「わしが、まあこんな物を作れますという見本として、小手先でちょいちょいと作った時計じゃよ。店先に飾っておいたら、あの御嬢が気に入ってくれてのう」
 あの頃この老人は時計屋として、こんな客を寄せつけぬ店ではない、もっと洒落た店舗を構えていた。今やクロークが決して足を踏み入れようとしない、あの土地に。
 老人が御嬢と呼んでいた少女が、成人して結婚し、子を生み育て、老いて天寿を全うし、骨を埋めた、あの土地にだ。
 183年前から、この老人は老人だった。エル・クロークが183年間、青年であるように。
「貴方が一体、何者なのか……気になって仕方がない時期も、確かにあったよ」
 卓上に置いた懐中時計に向かって、クロークは片手をかざした。
「僕の生みの親である、時計職人……今はもう、それだけでいい。さあ、時計の……メンテナンスを、お願いしようかな……」
 クロークの姿……細身に黒衣をまとう、金髪に赤い瞳の青年の姿が、幻影の如く薄れて消えた。懐中時計に、吸い込まれるかの如く。
 エル・クロークは消えた。
 否、そうではない。エル・クロークそのものと言うべき懐中時計が、老人の眼前に残されている。
「お前さんの生みの親は、わしではないよ……わしはただ、この時計を作っただけじゃ」
 この世にエル・クロークという存在をもたらしたのは、この懐中時計の持ち主であった、あの少女なのだ。
「……御嬢はな、お前さんに会いたがっておったぞ?」
 物言わぬ懐中時計となったクロークを片手に取って、老人は揺り椅子から立ち上がった。
「わしはの、お前さんを直してやる事は出来るが……今更もう、御嬢に会わせてやる事など出来はせん。ま、夢でも見られれば良いのう」


 ベッドの上で、ただ息をしていただけの老婆が、ゆっくりと目を開いた。
「……来て、くれたのね……エル……」
 そんな事を言っている。
「私が……誰だか、わかる? もう、わからないでしょ……こんな、お婆ちゃん……」
「そうだね。貴女はもう、僕の……お姉さん、お母さんを通り越して、お婆ちゃんになってしまったね。魔女殿」
 クロークは微笑みかけ、老婆の片手を握った。
 温もりの尽きかけた、冬の枯れ枝のような手だった。
「会いたかったのよ? エル……結婚式にも、来てくれなくて……」
「会いに来るつもりなんて、なかったよ。貴女と……こんなにはっきりと、お別れをしなければならないんだから」
 自分が人間であれば、涙を流しているところであろうか、とクロークは思った。
「貴女は幸せだったんだね、魔女殿。御家族の方々が、一丸となって貴女を介護している。みんな、貴女を愛している」
「みんなに迷惑をかけてしまったわ。だけど、それも今日で終わり……私はね、死ねるのよ」
 そんな事を言わないで、もっと生きて、とクロークは言えなかった。
 家族に愛されながら、息を引き取る。それは、とても幸せな事に違いないからだ。
「貴女は、とても幸せ……だけど僕はどうなる? 貴女のいない、この世界で、いつまで生きるかわからない僕は……」
「辛くても我慢しなさい……としか、言いようがないわね……」
 老婆が微笑んだ。
 枯れ枝のような指が、クロークの頬を撫でた。
「エル、貴方は……ずっと生きられる……それはね、いくらでも幸せになれるという事なのよ……」


 そんな夢を見た、という気がするだけだ。
 眠っていたわけではないから、夢など見るはずがない。
 ただ漠然と思うだけだ。彼女に会えた、と。
「終わったぞい」
 老人に声をかけられ、クロークは目を開いた。
 時計の中に吸い込まれていた姿が、いつの間にか現れている。まるで幻影のように。
 黒衣をまとう、金髪の青年。瞳の赤い美貌。彼女が愛してくれた姿。
 これが幻影なのか、生物的な肉体であるのか、クローク自身にもわかってはいないのだ。
「そろそろ1度くらい、帰ってみてはどうなんじゃ」
 工具を小箱にしまい込みながら、老人が言う。
「もちろん御嬢はもうおらん。墓参りをしたところで、会えるわけでもない。お前さん自身が、それを受け入れるためにも……1度くらい帰ってみよと、わしは言っておる」
「受け入れているさ、僕は。魔女殿は亡くなった、もう会えない……誰よりも、僕は理解している」
「頭で理解しておる。それはのう、受け入れたという事とは少しばかり違うんじゃよ」
 言いつつ老人は、パイプに火を入れた。
「エル・クローク。お前さんは、御嬢の作り出した幻みたいなものじゃ。それが今、人間になりかけておる。悩む心を持った人間に、もう御嬢もおらず1人で生きてゆくしかない人間にのう……それが良い事なのかどうか、わしにはわからん」


 店を開けた途端、喫茶スペースが女性客で一杯になった。
 どちらかと言うと上流階級向けの香り物には手を出しにくい、庶民の女の子たちが、華やいだお喋りに興じている。時折、店主エル・クロークにも話しかけてくる。
 失礼にならぬ程度に軽く受け流しながら、クロークは思う。
(時計は、1日の時を刻むだけ。あの頃の僕は、かけがえのない1日を貴女と共に重ねていた)
 あの老人のおかげで、体調はすこぶる良い。
 だが心の中では、何やらはっきりとしないものが渦巻いている。あの老人の吐き出す、煙草の煙のようにだ。
(これからは、貴女のいない1日を重ねてゆく……いつまでも、ずっと……)
 辛くても我慢しなさい、と彼女は言っていた。
 彼女は自分に、別れを告げに来たのだ、とクロークは思った。