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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


狩手霊

<序>
「なあ、美晴」
 午後の日差しが窓辺から差し込んでいる。
 何もかもが白い部屋で、ベッドに横たわったまま白い枕の上にある頭をわずかに動かして、彼は口を開いた。
「俺、夜中に自分で自分の首絞めてるみたいなんだけど……首になんか痕、残ってねえ?」

          *

 ソファに腰を下ろした、都内の某女子高の制服を着た少女は俯きがちにため息をついた。まっすぐな黒髪が肩から滑り落ちる。
「確かに、彼の首には赤い、人の手形みたいなのがアザになって残ってるんです。毎夜、首を絞めてるみたいでアザは濃くなる一方で」
「その彼が寝ぼけて自分の首絞めてるってだけじゃないのか?」
 その少女の向かいのソファに座っていたこの興信所の主・草間武彦は、少し体を伸ばしてソファにもたれかかった。天井を見上げて、頭をかりかりとかく。
「夢遊病とかさ」
「いいえ、それはありません」
 きっぱりと言い切り、少女――皆川美晴(みながわ・みはる)は顔を上げた。迷いなく断言する様に、草間が天井から少女の方へと視線を戻した。
「検査とかしてもらったのか?」
「いいえ。でも、彼は……」
 清楚な感じの小作りな顔が、わずかな悲しみをたたえた。黒目がちの瞳が伏せられる。
「七沢くんは、先日バイクで事故して、両腕、失ってしまったから」
 その言葉に草間は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに小さな吐息と共に視線を窓の方へとそらせた。赤みを帯びた光が斜めに差し込んでいるのをしばし見つめ、またひとつ、吐息を漏らす。
 確かに、両手がないなら自分で首を絞めることは不可能だろう。
 だが、手がないのにどうして彼は「自分で自分の首を絞めている」というのだ?
「その七沢くんとやらは自分の手がないことをまだ知らないのか?」
「はい。ショックのこととか考えるとまだ教えられないってご両親が。七沢くんはまだ一人で体を満足に動かせないから、自分で腕は見れないし……。ご両親のほうでもその首のアザのことを心配されていて、それで私がここに」
 ふと、草間は浮かんだ疑問を口にした。
「そういや、君はどうしてうちなんかにそんな話を?」
「それが……一昨日、七沢くんの病室の前に、黒いスーツの男の人が立っておられて。その方が、こちらで彼のことを相談してみたほうがいいって言われたので」
「黒いスーツの男?」
「鶴来那王(つるぎ・なお)、って言えば通じるからって」
「…………」
 紡がれた旧知の名にまたあいつか、と口の中でぼそぼそと呟くと、草間は壁の方を見た。そこに掛けられている時計は、文字盤がわずかに黄昏色に染まっていた。針は午後5時過ぎをさしている。
「病院、見舞いの時間過ぎてる頃に入り込んでも問題ないかな」
「え?」
 美晴が首を傾げた。それに草間は小さく笑った。
「夜に何かが起きてるんだろ? としたら、調査は夜になるかもしれないからな」
「それじゃ、調べていただけるんですか?」
「その、七沢…なんだっけ」
「七沢唯斗(ななさわ・ゆいと)くんです」
「そう、その七沢唯斗っていう大事な人に一体何が起きてるか心配なんだろ?」
 片目を閉じて悪戯っぽい表情を作って軽く笑いながら言うと、美晴は頬をわずかに赤らめた。が、すぐにぺこりと頭を下げる。
「よろしくお願いします」
 それに小さく手で答えながら、草間は何かを思索するような深い眼差しでまた窓の外を見やり、誰にこの依頼を回そうかと知人の顔を次々と頭の中で思い描いていた。

<ヒトリ、デ……>
 一人でいることは、基本的に苦手ではない。
 けれど、往々にしてそばにあるものがないというのは、妙な感じがする。
 妙というよりは――……言葉に出来ないほどの喪失感、のような。
 そこまで思い至り、ふっと吐息をもらしてそれ以上の思考を禁じるように緩く頭を振ると、斎司更耶はポケットの携帯電話を取り出してディスプレイを覗き込み、その電源を落とした。
「……ちぇっ」
 小さく呟くと、思いを振り切るようにポケットに携帯電話を押し戻し、腰掛けていたガードレールから腰を上げる。
 薄曇の空の下、気分が重い。
 閉塞された空間に押し込められたような感覚に陥り、更耶は両腕を思い切り空に向けて伸ばした。その伸ばした手の平を見上げ、目を細める。
「つないだ手、離さないっつったのにさ」
 そんなことを言っても詮無いことだとわかってはいるのだが。
「オマエが、そう言ったのにさ」
 今日隣にいないのは一体どういうことなのだろう。
 そう思い、やはり拗ねているだけにすぎない自分の思いに苦笑する。
 そばにいることがもはや普通すぎる従兄が、今はそばにいないという、たったそれだけのことなのに。
 大きくため息をつき、億劫そうな足取りで道路を挟んだ向かい側にある白い建物に向けて歩き出す。
 ――いつまでも自分は子供ではないのだ。
 一人で、歩いていける。
 一人でも、大丈夫だ。

<先輩と後輩>
 見知らぬ他人と密室空間に閉じ込められるという、自分にとってはやや薄ら寒く感じられるその状況を避けるためにエレベーターを避けて、階段を使って教えられた病室に向かいながら、更耶はため息をついた。
 病院、という場所。
 昔から、あまり好きではなかった。
 息が詰まるのだ。見知らぬ者がわらわらといて、そしてそこに漂う鼻腔をかすめる薬品の匂い。
 そして、生と死が交わる場所だけに、いろいろと「ある」から。
 ――いや。それ以上におそらく、この息苦しさ。それが、自分の家を思い出させるからだ。
「……まあ、とりあえずは七沢クン、とやらに会っとくか」
 小声で一人ごちながらこめかみを指で押さえ、意識を無理矢理「仕事」の方へと向ける。
 今は自分の過去の古傷をなぞっている場合ではない。通り過ぎる部屋の扉近くにつけられている部屋番号と名札を目で確認しながら、廊下を進む。奥へ進むたびに記憶している番号に近くなっていく。
「……っと、ここか」
 たどり着いた部屋の前。名札は確かに「七沢唯人」となっている。どうやら個室のようだ。
 軽くドアをノックする。と、中から返事が聞こえた。
 素早く頭の中でこれから交わす会話の台本を作り上げてから、ゆっくりとドアを開く。
「よ、七沢」
 人懐っこく言い放った更耶に、ベッドの横の椅子に腰掛けていた少女が不思議そうな顔をした。かまわず、更耶は言葉を紡いだ。
「オマエ、ヘマしたんだってなぁ。ったく、相変わらずどんくせぇんだから」
 ベッドの方へ歩み寄りながら、軽い口調で言い放つ。少女がベッドに横たわっている七沢を見、そして更耶へと視線を返した。
「七沢くんのお知り合いですか?」
「あー、俺? オマエは覚えてるよなぁ七沢?」
 ひょこっとベッドへ近寄ってその顔を覗き込む。頭に包帯を巻き頬に大きなガーゼを貼った少年が、そこに横たわっていた。見るからに痛々しい格好である。少し日焼けした肌が健康そうではあるが、目の下にはかなり濃いクマが出来ていた。
「え? あ、えーと……」
 どうやらこれが七沢唯人のようだ。更耶の言葉に困惑したように目を泳がせている。必死に記憶を手繰っているらしいが、どうやら更耶のことを思い出せないらしい。
 やむなく、更耶は少し芝居がかった仕草で肩をすくめてみせた。
「俺のこと覚えてねえの? ったく、薄情な後輩だなぁ」
「す、すみません」
「ったく、事故ったって聞いたから心配してきてやったんだよ。まあちょっと高校ン頃に関わっただけだしな、俺のことなんか忘れてても仕方ねえけどさ」
「はぁ……」
「懐かしいよなぁ。元気してたか? って、あんまり元気じゃねえよな、そのザマじゃ」
「はあ、まあ確かにこれじゃあ元気です、とは言えませんね」
 ガーゼで固定されている頬を動かさないように笑うためにかなり歪んだ微笑ではあったが、軽い更耶の口調と人当たりに、どうやら少しは気がほぐれたらしい。
 それを見て、傍らにいた少女が椅子から腰を上げた。椅子を更耶に手で勧める。
「あの、私お花の水換えてきますから、どうぞ、ごゆっくり」
「あ、悪ィな。にしても七沢、オマエいつの間にあんなかわいい彼女作ってたんだよ」
「えっ、いやあのそんなんじゃ……っ。わ、悪いな、美晴」
 慌てて言う七沢に頬をわずかに赤らめて小さく首を振って答えると、少女――皆川美晴は、更耶にも小さく頭を下げて部屋を後にした。
 なんだか初々しい奴らだなぁと、更耶は小さく笑う。そして、すすめられた椅子に腰を下ろす前に、ふと顔を七沢の方へと向けた。
「そういや、首がどうとかって聞いたんだけどさ。ちょっと見せてみろよ」
「え? ああどうぞ。ちょっと俺、身体動かせないんで、勝手に見てください」
 はにかむように笑いながら七沢が言う。それじゃちょっと失礼して、と断りだけ入れて、更耶は掛け布団をめくり上げ、その喉元を見た。
(他人が絞めるのと自分が絞めるのとじゃ、やっぱ手形のつき方って違うもんな)
 手形を確認してから、自分の喉元に両手を当ててみる。
(……自分が絞めたにつく形とは違うな)
 手形は、他人がつけた時につくと思われる形に残っている。
「……先輩?」
「あ? ああ、ハデにアザになってるよなぁ」
 言って、ちらりとその七沢の手の辺りに目を落とす。
 長袖のパジャマは、肘の辺りまでは普通に膨らんでいるが、それから先は平らになっている。手がない、と一目見ればわかる。
「かわいい彼女が出来たのやっかんでるヤツが呪いでもかけてんじゃねえのか?」
 視線に気づかれないように、他愛ない軽口をたたきながらそっと布団をかけ直してやる。七沢は、何言ってるんですか、と照れたように苦笑した。
 それにしても、他人が絞めた形になっているということは、やはりこれは七沢自身が首を絞めているというわけではないらしい。
(……やっぱり、アレか?)
 七沢以外の第三者の存在。
 それは人間かもしれないが、更耶はもっと別口の方を気にかけていた。
 霊、という、この世ならざるものの存在。
 のわりに、別に今はそれらしい姿を室内に確認することはできない。気配か何かが残っていたら調べ物もしやすいというものだが……。
「それにしても、知り合いだったら覚えてるはずなんだけどな、俺」
 わずかに首を傾げながら、七沢が言った。
「ホント、おかしいなあ。事故で頭でも打って記憶飛んだかなぁ?」
 再び記憶の中をさぐるが、やはりそのどこにも更耶の顔は見当たらなかったようで、申し訳なさそうに笑う。そんな七沢に更耶も小さく笑った。
「ま、あんまり気にしねえでいいって」
 思い出せないのも当然だ。
 理由は簡単。
 先輩、後輩、なんていうのは嘘だからだ。そのほうが七沢自身に疑念も抱かせずに済むし、面倒な説明もしなくてすむと思ったから、ついた嘘。便利な嘘。
 と、その時、静かにドアが開いた。ちらりと見やると、皆川ともう一人、そこには見知らぬ少年が立っていた。

<嘘つき兄弟>
 わずか一瞬目を合わせただけで、それがどういう者なのか、斎司更耶には判った。
(コイツ……)
 同じく、その視線の先にいた雨宮薫も、更耶に向けていた目を細める。
(彼は……)
 顔をあわせるのは初めてだが、身に纏う、わずかばかり常人とは違う雰囲気が、お互いが何者であるかを知らしめていた。
 草間興信所から回されてきた者だ、と。
 ふっと先に目をそらせたのは更耶のほうだった。さっきまで薫に向けていた時のような冷めた眼差しではなく、普通の表情で七沢を見やる。
「そういやさお前、バイク何乗ってたんだっけ?」
「事故ったバイクですか? カワサキのZZ−R250です」
「どっかぶっ壊れてたんじゃねえの? 乗る前点検したのかよ。教習所で習ったろ? 乗る前には点検するようにーってさ」
「そんなの、イチイチ先輩だって乗るたびごとにしないでしょ?」
「はは、まあな」
 そこまで言うと、更耶はまたちらりと薫の方へと視線を向けた。薫は入り口にたたずんだまま黙って二人のやりとりを見つつ、時折遠くを見るような眼差しで部屋の中を見渡している。
 妙な「気」が漂っていないか、室内を霊視しているのである。
 けれども、とくにこれといって霊的なものは薫の感覚のアンテナに引っかかってこなかった。邪気などというものも感じない。
「おい。突っ立ってねえで、座れよ」
 自分の傍らにある丸椅子を目で指し示しながら言われて、薫はおとなしくそれに従うように更耶の方へ歩み寄り、腰を下ろした。そして素早く小声で呟く。
「七沢の先輩なのか、あんた」
「ちげーよ」
 短く答え、更耶は七沢の方へと目を向ける。
「身近なヤツのほうが話聞きやすそうだろ。こいつにも変な気苦労かけねえで済むし」
 こそこそと会話している二人に、七沢が不思議そうな顔をする。それに慌てて笑い返し、わしゃわしゃと薫の頭をかき回した。
「ああ、コイツ、俺の弟なんだ」
 ……嘘ばっかり。
 突然のその発言に呆れたように薫は更耶の横顔を見たが、特に何も言わなかった。その言葉に窓辺にいた皆川が驚いたように薫を見た。
「兄弟だったの?」
「あ、ああ」
 こんな嘘すぐにバレそうなものだが、更耶も薫もひどく秀麗な容貌をしていたため、皆川は「さすが兄弟ね」などと納得したように呟いた。顔の作り自体はさほど似ているわけではないのに「綺麗な顔」というその共通項だけで皆川は納得してしまったらしい。
 変なことになったな、と思いつつ、けれども今更言葉を翻すわけにも行かずに薫は一つため息をついてから七沢に顔を向けた。
「自分で首を絞めていると皆川さんに言っているそうだが、どうしてそう思うんだ?」
「俺の手、掌に小学校の頃に怪我して縫った痕があるからなんとなくわかるっていうか。それに、自分でその手を振り払おうとしても俺の手は動かないし……だったらやっぱ絞めてるのは自分かなと思って」
 七沢の言葉に、更耶の顔から笑みが消える。それを横目に見て、薫が眉宇をひそめた。
「どうした」
 七沢に聞こえないように問うが、緩く頭を振って更耶は手で小さく上げて薫の問いを封じ、腰を上げた。
「七沢、お前どこで事故ったって?」
「え? ああ、峠ですよ。ちょっと都心から外れたとこにあるんですけど」
「そっか。あ、皆川サン、だっけ? ちょっといいか? ほら、お前も行くぞ。んじゃ七沢、大事にしろよな」
「はい。わざわざすみませんでした」
「いいっていいって。じゃなっ」
 言いながら、更耶は素早く薫の腕を引いて病室を後にした。

<廊下での出会い>
 からから、と軽い音を立てて病室の重めの引き戸が閉まる。七沢の病室から廊下へと移動した斎司更耶と雨宮薫、そして皆川美晴は、その廊下の先から歩いてくる一人の僧衣姿の男に気づいた。
 病院、という場所に似つかわしいのか似つかわしくないのか。
 しゃらん、と澄んだ錫杖の音が廊下に響く。
「あれ?」
 階段を使って上がってきたらしいその僧は、顔を上げて少し眠そうなその目を瞬かせた。その眼差しは更耶の顔に止められている。
「キミ、更耶くんじゃないか」
「あーあんた……白鬼サン、だったっけ?」
「そうだよそうだよ。いやあ、久しぶりだねえ。元気そうでなによりだ」
 のんびりとした口調で言いながら歩み寄ってきた抜剣白鬼は、ほがらかに笑いながら軽く更耶の肩を叩いた。そしてちらりとその傍らにいる薫へ顔を向ける。
「あれ? 今日はあの時の彼じゃないんだね」
「あー……まあ、たまにはな」
 曖昧に答える更耶にそれ以上深くは問わずにうんうんと頷いて答えながら、薫に向けて後頭部に手を当てながら小さく会釈する。
「おっと失礼、挨拶が遅れた。はじめましてだね。キミも草間興信所から回されてきたんだろう?」
「ああ」
 手短に初対面の挨拶を交わす。更耶と薫も、改めて自分の名を名乗った。と、近くにいた皆川が首を傾げる。
「ご兄弟じゃなかったんですか?」
「あー悪ィ、あんまり彼氏に変な心配かけたくなかったからさ」
「みえみえの嘘つくから俺も驚いた」
 傍らにいた薫にも言われ、更耶が文字通り手を上げてお手上げのポーズを取る。
「あーはいはい悪かった悪かった」
 変に子供っぽいその仕草に、皆川が小さく笑う。薫も呆れたように腰に片手を当ててため息をついた。少し前にあった時と変わらないその更耶の態度に、白鬼も小さく笑う。
「さて、それじゃ俺は中の彼に話を聞いてこようかな」
「あー、俺この後峠に行って事故現場見てくるつもりだけど」
 更耶の言葉に、薫も頷く。
「俺も行く」
「そうか。なんだか雨降りそうな空模様だから、濡れないうちに戻ってくるんだよ。勝負は夜になるだろうしね」
 わしわしと大きな手で薫と更耶の頭を順番になでて、そして皆川ににこりと笑いかけてから白鬼は病室へと消えていった。なでられて少し乱れた髪を同じように手で直すと、ニセ兄弟はなんとはなく同時に顔を見合わせた。
 勝負は、夜。
 確かに、そうかもしれないと思った。

<手>
 室内に今現在の時点でなんの異変も見受けられなかった以上は、やはり夜を待って再調査するしかないのだろう。
 思いながら、薫は更耶を見た。
「何か気づいたことがあるんだろう?」
 さっき、どうして自分の手だと思うのか、という問いに七沢が答えた瞬間に更耶が浮かべた表情を、薫は忘れていなかった。
 更耶は壁際に設えてある簡素なソファにどさりと腰を下ろした。そして天井を見上げ、かりかりと頭をかく。
「首絞めてるの、アイツじゃねえと思う」
「?!」
 はっと薫と皆川が更耶を見やった。
「どうしてそれを?」
 薫が問う。それに、更耶が顔を天井から戻して薫を手招きする。そして自分の隣に座らせると、やおら手を伸ばして薫の喉に手を絡めた。
「な……っ」
 ひやりとしたその手の感覚といきなりの行動に驚いた薫が身を引こうとする。それに、更耶は小さく笑った。
「俺の手の上から自分の首絞めてみろよ」
「…………」
 とりあえず、言われたとおりに自分の首を更耶の手の上から絞めてみる。
 手がうまく重ならない。
 はっと薫が目を上げて真正面にいる更耶を見た。更耶が目だけで頷く。
「あいつの喉元にあった手形は、自分で首を絞めた時につく手形じゃねえ」
「だが、七沢は自分の手で絞めていると言っている。どういうことだ?」
「そーだなぁ……。絞めてるのはあいつじゃねえかもしれねえが、絞めてる『手』はあいつのものなのかもしれない」
 するりと薫の喉元から手を下ろすと、立ったまま二人の様子を見ていた皆川を見やる。
「事故のこと、もう少し教えてもらいてえんだけど。やっぱアイツに聞くのはちょっと酷だと思うしな」
「ええ、構いませんけど」
「あ、サラッとでいいからな。あんまり何回も思い出したいもんでもねえだろうし」
 先輩と自分のことを偽ったところといい、この言い回しといい、妙に気が回るヤツだな、と思いながら薫は隣に座る更耶の横顔を見た。天井につけられている電灯の明かりが、その耳元にある銀色のピアスの上で小さな光を生み出していた。

<事故現場にて>
 結局、皆川から聞き出せたのは大した情報ではなかった。とりあえず事故現場だけは聞き出せたので、そちらに向かうことにする。
 どうせ調査費用は経費で落とせばいい、ということで病院から結構な距離を、更耶と薫は遠慮もせずにタクシーを使った。
 都心から離れた山腹。わずかに山桜が残るその場所に、現場はあった。ミラーの欠片などがわずかにアスファルトの上に散らばっている。
 周囲一帯には新緑の強い生気がみなぎっていた。
 路面上にはブレーキをかけた痕跡は見当たらず、七沢がそのまま減速せず壁に突っ込んだらしきことが伺える。
 タクシーを道幅に余裕がある場所に停めて、二人は壁に近づいてみた。山の地崩れを防ぐためにコンクリートで固めたその壁には、黒いスプレーで意味不明な文字だか絵だかが書き付けられていた。
 その壁にそっと手を触れ、薫が少し目を伏せて意識を集中させる。
 鼻腔へ舞い込んでくる、濃い緑の匂い。その澄んだ空気に乗せるように、感覚という名の手をさらに伸ばしていく。
 更耶もしばし集中している薫の様を眺めていたが、ややして自分も周囲をゆっくりと見渡してみた。
 風が、無数の枝葉を揺らす。さざなみのような葉擦れの音が鼓膜を振るわせる。
 自然の紡ぎ出すこの上もなく優しい音色。
 そこには一点の穢れも曇りもない。
 何者かの邪悪な意思も、その場には感じられなかった。
 と、その鼻先にぽつりと水滴が落ちてきた。頬にも落ちてきた雫に指を滑らせ、薫と更耶は集中を解いて空を見上げた。
 雨だ。
「……とりあえず、ここには何もなさげだな」
「やっぱ七沢自身を夜に張ってみたほうが早そうだな」
 タクシーに向かって駆け足で移動しつつ、ポケットから携帯電話を取り出してそのディスプレイの時計に目を滑らせる。
「ん、ちょっと夜までに時間あるな。図書館かどっかで新聞漁るってのもアリか」
 更耶の呟きに、薫が目を眇める。
「ターゲットはおそらく、七沢自身だろう。他に何かのケースがあるとは思えないが。ここにも他に事故の形跡もないようだし」
「あー。確かにな。他にもここで事故があったら、もっとこう……」
 何かの感覚が意識の端に引っかかってくるはずだ。が、ここには何もない。
 だがそれは死亡事故がなかったというだけで、何らかの事故は起きているかもしれない。そう思うと、やはり図書館には行っておくべきじゃないかとも思う。
 雨脚が強くなってきた。慌ててタクシーに乗り込むと、少し濡れた髪をかき上げ、更耶がタクシーの運転手に言った。
「とりあえず、さっきの病院へ」
 隣で、薫も濡れた前髪をゆるく指先でかき上げた。

<思い、馳せて>
 結局、病院で薫をタクシーから下ろすと、更耶は一人で図書館に赴いた。
 テーブルの上に気だるげに頬杖をつきながら、ここ数年の新聞を積み上げてぱらぱらと地域面と社会面に目を通していく。
 ふっと短い吐息をついて、開いていた新聞を閉じ、次の新聞を山から下ろして開く。機械的に目を通し、また次へ。
「……らしくねぇことしてるよな、俺」
 目の前でゆらりと前髪が揺れる。それを指でかき上げ、新聞から目を離して窓の外へと視線を移す。
 外は灰色に煙っていた。
 頭脳労働は本来なら自分の仕事じゃない。本当なら、それは……。
 思い、緩く頭を振って薄い笑みを唇に乗せる。
 おかしなくらいその存在に依存している自分に対しての苦笑だった。
 少し背を逸らせて大きく息を吐くと、気合を入れなおしてまた紙面に目を落とす。
 どうせ、この仕事が終わればまた会えるのだ。
 ただ、今は、そばにいないだけ。それだけのこと。
 それ以上考えることを己に禁じるように、更耶は必死に大見出しから小見出しまでを目でさらっていくが、これと言ってめぼしい記事も見当たらないまま新聞の山を読破してしまっていた。
 マナーモードにした携帯電話のディスプレイの時計は、図書館の閉館時間少し前を差している。
「……出るか」
 なんだか変に疲れただけだったな、と思いながら、更耶は新聞の山を胸に抱えた。

<午前2時の待ちぼうけ>
 非常灯の緑色の明かりが、ぼんやりと闇を溶かしていた。手入れの行き届いたリノリウムの床に光は鈍く反射している。
 静かだった。
 建物の外で降りしきっている雨音と、走り去る車がはねる水の音が、ひどく大きなものに聞こえる。
 患者もすでに寝静まっているのだろう。時計の針は午前2時を回ろうとしていた。
 草間興信所から回されてきた4人――雨宮薫、久我直親、抜剣白鬼、斎司更耶は、ひとまず、都合よく空いていた七沢の隣室に身を潜めて「時」を待っていた。
 何度か廊下を見回りに来たらしい看護婦の足音に反応し、全員が素早い動きでベッドの影やカーテンの影に隠れたりしたが、それ以外特に動きはない。病院側になんの事情も告げずに侵入しているため、発見されたら厄介なことこの上ない。よって、まるで泥棒か何かのように息を潜めて室内に潜んでいた。
 ベッドの端に腰を下ろして手の中でぽいぽいと携帯電話を投げていた更耶が、ごろりと仰向けにベッドに転がって大きくため息をつく。
「まだかよ」
「丑三つ時だ。動きがあるとしたらそろそろじゃないかと思うが」
 窓辺に立って外を眺めていた薫が、肩越しに振り返って更耶に言った。そして、更耶と同様の大きなため息をつく。
 動きがないままかれこれ5時間近く、彼らはここに閉じこもっている。待つにしてもいい加減疲れる時間だ。
 ひょい、と更耶と反対側のベッドの端に腰掛けていた白鬼が腰を上げた。大きく一つ伸びをすると、傍らに置いていた錫杖を手に取る。
「ちょっと外の様子見てこようかな」
 その時。
 部屋の扉のわずかなすりガラスの部分に、人影が映った。はっと全員がその影に気づいて口を閉ざして息を殺す。見回りのナースに気づかれたのか?!
 だが。
 からから、とドアを開けて現れた人影は、薄ピンク色のナース服ではなく、すらりとした長身に黒いスーツを纏っていた。
「……あの。そろそろ丑三つ時ですし、動きがあるかと思うんですが」
 現れたのは、鶴来那王だった。全員が詰めていた息を短く吐く。白鬼が苦笑いを浮かべた。
「なんだ鶴来くんか。おどかさないでくれよ」
「ああ、すみません」
 苦笑しながら答える鶴来に視線を向け、直親が問う。
「今日はここからご同行か?」
 それに、鶴来が小さく頷いた。
「これから皆さんどうなさるんですか」
 鶴来は誰へともなく問いかけた。その言葉に、薫が答える。
「隠行法の結界を使って姿を隠して部屋に直接張り込むか」
「だな。いい加減ここにいるのも飽きた。息詰まって死にそう」
 更耶がベッドから体を起こして頷いた。

<影、現る>
 看護婦の見回りはついさっき来たところだから、おそらくこの後1時間か2時間くらいは来ないだろう。
 それでも念のために廊下の様子をちらちらと確認し、素早く七沢の部屋に全員で滑り込み、静かにドアを閉める。室内は暗く、七沢はすでに熟睡しているようだった。かすかな寝息が聞こえる。
「よく寝てるな」
 少し近くに歩み寄ってその寝顔を見下ろし、更耶が呟く。毎夜こんなにぐっすり寝ているところを、首を絞められてたたき起こされたんじゃさぞかし気分も悪いだろう。
 窓辺にいた自分の式神を伸ばした腕の上に呼び戻し、直親が部屋の隅で呪符を四方に置き、その中心に正座して密やかな声で術を唱えながら結界を構築している薫を見やる。
 緩く符が光り出す。す、と伏せていた目を開き、薫は刀印を結んだ右手で宙に五芒星を描いた。
「バン、ウン、タラク、キリク、アク」
 そして軽く手を打つと、ゆっくりと立ち上がった。
「中へ」
 短いその言葉に従うように、全員が薫の張った結界の中へ身を置く。結界外にいる者の視界から隠れると共に、その気配でさえきれいに覆い隠せるそれに、白鬼がふむ、と頷いた。
「後は何かが現れるのを待つばかり、か」
 七沢の枕元に置かれている時計が、暗闇の中、蛍光で縁取られた数字をぼんやりと浮かび上がらせている。
 指し示す時間は、午前2時20分。
 変化は、意外と早く訪れた。
 ふっ、と空気の質が変わったのはその数分後だった。室温が急に5度くらい下がったかのような、ひんやりとした感覚がその場にいる者たちの身を包む。
「う……ぅ……っ」
 それまでおとなしく眠っていた七沢がうなされ始めた。全員の視線が七沢の方へと向かう。
 眠っている七沢の喉元に、ぼんやりと靄のような黒い影が現れていた。それはまるで七沢の首を締め付けるかのようにくるりと首の周囲を覆っている。
「来たか!」
 白鬼が結界から走り出て、素早く懐から五鈷杵を取り出して、その黒い靄に向かって投げつける。七沢の首筋ギリギリ、黒い影を射抜くように。と、その靄が飛ばされた五鈷杵の風圧に吹き飛ばされるように消え去った。中から、黒く焼け爛れたかのような人間の手首が現れる。影が吹っ飛んでも手はそのまま七沢の喉元に絡みついたままである。
「こういう陰湿な手ェ使うヤツ……」
 更耶が自らの右の手首を掴み、七沢のそばに駆け寄った。
「ムカつくんだよ俺はっ!」
 ぽう、と蒼銀の光が更耶の腕に宿る。その手で手首をなぎ払おうとしたが、二つの手はかさかさとせわしなく指を動かして七沢の首から離れてベッドの下へと逃げ込む。まるでゴキブリのような動きだ。
 短く舌打ちして更耶がベッドの下を覗き込む。と、いきなりその手が更耶の顔めがけて飛びかかってきた。
「なっ?!」
 顔に取りつかれるその寸前、横から滑り込むように飛んできた直親の式神が手を打ち落とす。弾かれた二つの手首はまたかさかさと指を動かして部屋の隅の方へと移動する。
 手が離れたことを見、すかさず薫が七沢のベッドの周囲に、手が七沢に再び近づくことがないように結界を張った。ベッドの四隅に符を投げつけ、印を結ぶ。
「オンサンマジハンドメイキリク、オンサンマジハンドメイキリク……」
 その間に、床の上に落ちた五鈷杵を拾い上げ、白鬼が部屋の隅でうごめいている手の内の一つに向けて投げつけた。
「ナウマクサンマンダ、バサラダンセン、ダマカロシャダソワタヤ、ウンタラタカンマン!」
 素早く右手で宙に不動明王の種字を描く。五鈷杵が逃げる手首の片方の手の甲に突き刺さった。ふうっとその姿が煙のように消える。
 そしてもう一方の手を、更耶が力を宿した手刀で貫いた。バシュッ、と風船の空気が一気に抜ける時のような音がして、手は煙のようにかき消される。
 ふっとひとまず片がついたかと息をついた、その時。
 部屋の壁から強い呪詛の力が吹き込んできた。はっと全員が目を見開く。
 手の霊など比べ物にならない強い波動だった。ビリビリと肌が刺されるような痛みを覚える。
 すぐさま全員が七沢を守れる位置に動いた。
 なぜこれほど強い力があるのに、手の霊などでちまちまと七沢を今まで狙っていたのか、と同じことを4人が考える。
 だが。
 すさまじいその力は、七沢ではなく、ドア近くに立っていた鶴来の左胸を貫いた。鶴来が声もなく壁に身体を預けるようにして崩れ落ちる。
「な……っ、鶴来くん!」
 慌てて白鬼が駆け寄り、片膝を落としてその頬を軽く打つ。ごほ、と口許を手で覆って濁った咳を一つし、鶴来が眼差しを上げた。
「呪詛、やんだでしょう。俺はいいから、早く、手の呪詛の首謀者を追ってください」
 確かに、さっきまでの鳥肌が立つような寒い気はすっかりと消え去っている。
 だが、何故、七沢ではなく力はまっすぐに迷いなく鶴来のほうへ向かったのか。
 ふと、薫が何かに気づいたように七沢に歩み寄った。騒ぎにまったく気づくこともなく眠っているその七沢の、枕の下。
 手を差し入れる。
 夕方霊視をした時に感じた「何か」と同じ力をそこから感じたのだ。
「……これか」
 枕下から抜かれた手には、黒い紙と人の形に切り取られた紙があった。黒い紙の方を直親に見せる。直親のその怜悧な双眸がわずかに眇められた。
「逆さ五芒星の呪符……」
「術が使われたばかりだから波動がまだ残っている」
 いつもこれほど熟睡しているのであれば、七沢が寝ている隙にこれを枕下に忍び込ませるくらいは容易いことだろう。昼間は巧妙にその呪符が発する波動を隠せていても、やはり術をかけた直後ではその残り香を消すことはできないようだ。
 そのとき、ガタリと隣室でドアが開く音がした。続いて、廊下を駆けていく足音が響く。
 はっと薫と直親、そして更耶が顔を上げる。そしてドアを勢いよく開いた。
「逃がすか!」
 直親、薫が飛び出していく。更耶もちらりと鶴来に目を向けたが、すぐさま廊下へ駆け出していく。
 白鬼は少し躊躇するように鶴来を見たが、目で鶴来が行けと示すので、やむなく廊下へ飛び出す。前方で、直親と薫が五芒星と九字で逃げる影を足止めしようとしていたが、何かに弾かれるように彼らの生み出した力が影の手前で霧散する。
「くっ、ならば!」
 直親と薫が同時に符を投げつけた。
「急々如律令!」
 同時に声をあげる。投げつけられた符は黒い鴉と白い三つ目の鷹に変貌し、その黒い式服の男の背に突っ込んだ。加勢するように白鬼も印を結ぶ。
「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ!」
 悪人調伏の効力を持つとされる地蔵菩薩の真言に乗り、光が走る。
 だがそれらをいずれもひらりと軽くかわし、男は天井が高くなった喫煙所のあるフロアへと駆けていく。
 その姿が、一瞬窓ガラスの向こうから差し込んできた車のサーチライトに照らされた。
 黒い式服。うなじのあたりと袖に、金色の逆さ五芒星の縫い取りがあった。
「あれは……もしや」
 直親が目を瞠る。そこに、
「卑怯くせぇ真似しやがって!」
 耳元のピアスを引き抜き、蒼銀のオーラを立ち上らせて更耶が走りこんできた。立ち止まった直親のその肩に手をかけて軽々と飛び越えると、更耶は蒼銀の光を宿した右腕で男の右首の辺りから背を切り伏せた。
 殺傷力が備わっているようにしか見えないその攻撃に、白鬼が思わず声を漏らしかけた。が、その黒服の姿は次の瞬間、ふっと輪郭がぼやけ、その場にひらりと一枚の呪符になって舞い落ちた。逆さ五芒星を描いた呪符は、床に落ちたとたんに真っ二つに裂ける。
「……なんだコレ?」
「呪符で術者の幻影を作り出していたんだ」
 呆然とその破れた呪符を見下ろす更耶に、直親が言った。追いついた白鬼が二つに裂けた呪符を拾い上げる。
「偽物を追わされていたのか」
 もうそこには何の力も痕跡も残されていない。
 この場にいる、霊力の高い者を綺麗に欺くとは、何者なのか。
 薫が白い自分の式神を腕に乗せながら眉を寄せる。逆の手にはさっき七沢の枕の下から取り出した紙の人形が乗っている。
「まだ手の方の波動が残っている」
「さっきの黒服とは別の奴がやっているのか」
 直親の言葉に、薫が頷く。白鬼が手の中の五鈷杵を強く握り締める。
「……ま、手のほう片付けるのが今回の仕事だしな。行くか」
 外したピアスを握りしめ、更耶が低く呟いた。

<手を操りし者>
 ナースステーション前を、身を潜めて通過し、呪詛の波動を追って裏口から外へ出た4人は、そこにある自転車置き場に人影を見つけた。雨がトタン屋根に当たって軽い音を立てている。
 波動は、そこから放たれていた。
「……なんで上手くいかないんだ……」
 ぼそぼそと呟く声がする。どうやら子供のようだ。
 ふ、と短く直親が吐息を漏らす。
「ガキが遊び歩くには、少しばかり時間が遅すぎやしないか」
 聞こえよがしなその台詞に、はっとそこにいた者が振り返った。あわてて逃げ出そうとするその小さな背中に、能力の封じであるピアスを外して現在運動能力倍増中の更耶が容易く追いついて容赦のない飛び蹴りを食らわせた。思い切り顔から泥水の中に転んだその者の襟首を掴んで仰向けにさせると、更耶が不機嫌そうにその顔を覗き込んだ。
 小学生高学年くらいの少年だった。
「お前か、七沢にちょっかいかけてんのは」
「おい、怖がってるぞ」
 薫が傍らから呆れたような声を発する。それに短く舌打ちすると更耶は掴み上げた服を突き放すようにして手放した。ひどくイライラしているらしい更耶の頭をひょいひょいと撫でて後ろへ下がらせると、白鬼がその少年の前にしゃがみこんだ。
「七沢くんの手、どうやって操ったんだい」
 本物の僧を前にしてもう隠しようがないと思ったのか、少年はまるで叱られた子犬のようにうなだれた。
「……手の骨を墨に溶かし込んで、これに祈ったらできるって」
 言いながら、手の中にあった小さな人の形の紙を差し出した。そこには白い粒が目立つ墨で、逆さ五芒星と、七沢の名前、生年月日、そしてその両親の名前や住んでいる場所などが書き付けられていた。そして人形の首には、その人形の手が絡みついていた。
「あいつの家に行ったら、ちょうど窓が開いてて……そこから中に入ったら骨壷があって。すぐにあいつの手の骨だってわかった。だから、そこから一欠けらだけ盗んで……」
 少年の手の中にある人形を見て、薫と直親はわずかに眉宇を寄せた。明らかに、それは呪殺用の人形(ひとがた)だった。
「お前、どうしてこんな方法を知っているんだ」
 薫の問いかけに、少年がさらに身を小さくして答える。
「学校の帰りに、黒い着物みたいなのを着た男の人に会って……そいつが、憎いヤツがいるならこうすればいいって……」
「どうしてそんなに七沢くんのことを憎むんだい」
「……だって……っ」
 涙目になり、少年は白鬼の方を見た。
「美晴お姉ちゃんが、あんな、あんな奴なんかのそばにずっといるから!」
「美晴お姉ちゃん?」
 怪訝そうに問い返す直親に、少年は頷いた。
「そう、美晴お姉ちゃんだよ」
「お前、あの子の弟か?」
「そうだよ……」
「バイクに何か仕掛けたのもお前か」
「……そうだよ。全部黒い着物の人がどうすればいいのか教えてくれたんだ」
 ぽつりぽつりと答える少年に、直親はため息をついてゆるく頭を振った。強すぎる姉への思慕で弟が起こしていた事件だと皆川が知れば、どう思うだろうか。
 ぽん、と白鬼がその少年の頭に手を置いた。そしてまっすぐに目を合わせる。
「キミがこんなことしてたってお姉さんが知ったら、きっと悲しむぞ。もう少しで七沢くんは死ぬところだったんだからな。お姉さんが悲しむところ、そんなに見たいのかい?」
「…………」
 少し考え込んでから緩く頭を振る少年に、白鬼はにこりと穏やかに笑った。
「よし。じゃあこれはこのお兄ちゃんたちに預けて、もうこんなことしたらダメだからな?」
 少年の手から人形を取り上げて薫の方へ差し出す。それを受け取ると、薫はちらりと更耶を見た。
「……お前、こいつがやっていたことはともかくとして、こんな子供に容赦なく飛び蹴り食らわすなんて何考えてるんだ」
「あ? ……仕方ねえだろ。俺はガキが大っキライなんだからさ。つい力も入っちまうってもんよ」
「…………」
 とても自分より年上とは思えないその言葉に、薫はやれやれとでも言うようにため息をついた。相変わらずな子供嫌いっぷりに白鬼も苦笑し、直親は目を伏せて小さく笑った。
 空から落ちてくる雨は、いつのまにか霧雨へと変わっていた。

<任務完了報告>
 少年を家に帰らせると、彼らは七沢の部屋の前へと戻った。ソファに鶴来が座っている。スーツの上から左胸を押さえていた。
「大丈夫か、鶴来くん」
 駆け寄って尋ねる白鬼に、鶴来は顔を上げて微苦笑を浮かべた。その顔色は暗がりの中でもそうとわかるほどに、悪い。
「ええ、なんとか」
「……あまり大丈夫そうには見えないが」
 薫が言いながら、手の中にあった白い紙の人形を差し出す。
「仕事は終わった。黒幕は――」
「報告の必要はないな」
 くしゃりと薫の頭を後ろからかき回して、直親が口を挟んだ。頭に乗せられた手を振り払い、薫が振り返る。
「何を言ってるんだ、久我」
「七沢を襲う呪詛はもうなくなった。皆川が望んでいたのはまさにソレだろう。その呪詛を行っていたのが誰かを調べろ、という依頼ではなかったはずだが?」
「そうだね。知らなくていいことならば、耳に入れる必要はないと思うよ」
 白鬼にも言われ、ああ、と短く薫は吐息と共に呟いた。
 皆川の心情を慮れば、ということか。
 差し出された人形を手にし、鶴来は目を伏せた。
「……皆さん、遅くまでご苦労様でした……。ああ、抜剣さん」
 つと顔を挙げ、鶴来は自分を心配そうに見下ろしている白鬼を見やった。
「すみませんが、彼を……表のバス停のベンチまで運んでくれませんか」
「え? 彼?」
 鶴来の視線を追って、白鬼が自分の後ろを振り返る。と、ベンチに頭を乗せて床の上に腰を下ろして突っ伏している更耶がいた。
「ど、どうしたんだい更耶くん?」
 驚いたようにその場に片膝を落として問いかけるが、更耶は答えなかった。どうやら意識を失っているらしい。何が起きているのかよくはわからなかったが、とりあえずひょいとその体を軽く背負う。
「表のバス停のベンチだね、わかった」
「後で俺も、行きますから……」
 その目で、次は薫を見やる。
「室内の結界の解除を、お願いします」
 そういえば、張ったままだったなと思い出し、小さく頷いて七沢の部屋へ足を運ぶ。
 特に指示もなく残された直親は、しばらく黙って肩で浅く息をついている鶴来の様を眺めていた。

<終>
 ふと、意識がゆるやかに覚醒してきた。鈍い頭痛を覚えながら、ゆっくりと目を開き、横向きに寝そべったまま頭を持ち上げる。
「……あ?」
 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。半眼のまましばし目の前に広がる景色を眺める。
 外だ。
 つつじが咲いた歩道。バス停。ごみ箱。道路に車の影はなく、がらんとした静けさが満ちていた。
 まだ早朝なのだろうか。
 そんなことを思いながら、ゆっくりともう一度頭を下ろす。が、下ろした頭の下に何かがあることに気づいて、それを見る。
「……?」
 うまく働かない頭でそれをしばらく見、更耶ははっと目を見開いて体を起こした。
「な……なんだっ、どうなってんだ…っ?」
 自分の横たわっていたベンチには、黒いスーツの男が腰を下ろしていた。さっき頭の下にあった黒いものは、その男の足だった。
「ち、ちょっとまて……なんで俺がこいつの膝枕で寝てるんだこんなとこでっ」
 大混乱しながら頭に手を当てた更耶は、その時触れた耳元に、いつものピアスがないことに気づいた。それで、ようやく記憶を取り戻す。
 ピアスを外して力を解放したのだ。
 お陰で数時間、意識を失っていたのだろう。まだ頭がすっきりせず妙な頭痛が残っているのは、おそらく、まだ睡眠による体力の充填が足りていないせいだ。
 ……にしても、だ。
 ポケットに手を突っ込んでそこから銀のピアスを取り出して耳にはめながら、更耶はベンチに座っている男を見た。彫像のようにその場に腰を下ろしたまま動かないその姿は、白い顔色と相まってまるで死んでいるかのようにも見える。
「……おい」
 恐る恐る声をかけてみる。そっとその肩に触れ、ゆるく揺すると、ふと男がその双眸を開いてゆっくりと顔を上げた。
「……ああ、目覚められましたか」
「目覚められましたか、じゃねえよ。なんだよお前何やってんだよ」
「こんなところで眠っていたら頭が痛いかと思ったので」
「いや、膝枕はこの際どうでもいい。よくねえけどどうでもいいことにしとく。っつか、俺なんかほっといて帰ればいいだろ」
「あなたの従兄に連絡するつもりだったんですが、勝手に携帯電話を触るのは悪いかと思ったので……放って帰るわけにもいかないでしょう。何かあったら困りますし」
「何かってなんだよ……」
 なにやらぼんやりと話す男――鶴来那王にげんなりしたように言うと、更耶はポケットから携帯電話を取り出した。切ったままだった電源をオンにし、時間を確認する。
「4時過ぎか……」
 こんな時間でも、電話をすればすぐに迎えにくるだろう、アイツは。
 そう思いながらふと鶴来を見る。視線に気づいたのか、少し目を伏せて左胸を押さえていた鶴来が眼差しを上げて、かすかに微笑んだ。
「お疲れ様でした」
「死にそうな顔してまで他人に気ィ使うなんて、ご苦労なことだな」
 言って、ベンチに腰を下ろす。ふぁ、とあくびを漏らして更耶は鶴来の傍らに寝そべった。そして携帯電話のアラームをセットし、鶴来の膝の上に放り投げる。
「3時間寝る。お前もそこで寝てろ」
「……斎司さん」
「更耶でいい。死にそうならおとなしく寝とけ。それ以上喋るな、俺が寝るのに邪魔だ。具合悪くなったら声かけろ」
 言いたいことだけ言うと、自分の腕を枕にして横向けになり更耶は目を閉ざした。普段は人前でなど眠れないのだが、今は封じている力を解放したせいで、ひどい気だるさと眠さが体中に渦巻いていた。
 しばしそれを眺めていたが、ややして鶴来は短く吐息をついて目を伏せた。
 これが彼なりの優しさなのだろう。
 その厚意を受け取ることにし、鶴来もまた眠りへとすべりこむ。

 街が動き出すまで、あと3時間。
 癒すための眠りは、朝の静寂に守られる。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/     PC名      /性別/年齢/職業】
【0065 /抜剣・白鬼(ぬぼこ・びゃっき) /男/30/僧侶(退魔僧)】
【0095 /久我・直親(くが・なおちか)  /男/27/陰陽師】
【0112 /雨宮・薫(あまみや・かおる)  /男/18/陰陽師(高校生)】
【0226 /斎司・更耶(ときつかさ・さらや)/男/20/大学生】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 今回もまた、長い作りになっています。少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 斎司更耶さん。お久しぶりです。再びこうしてお会いする日が来たこと、とてもうれしいです。
 プレイングは「先輩と嘘をつく」が更耶くんらしいなぁと思いながら、楽しんで書かせていただきました。あと、特に気を使っているわけでもなさそうなのにさらりと皆川や七沢に柔らかく当たれるところ。相棒さんがおられなかったことで、新たな更耶くんの一面を見ることができた気がします。
 初めてピアス外して本領発揮するところだったのに、イマイチ暴れっぷりが足りませんね…次回があれば、そのあたり気をつけて書かせていただきたいと思います。
 あと、ラスト。…寝覚めが男の膝枕の上、ですみません(汗)。

 今回は4名参加で総合30シーンの構成になっています。
 個別部分があったり他PCさんとの共通部分に入ってもすぐに分かれてしまったり、など、少し時間差等を考慮して展開してみました。自分が動いている時間に他の方がどこでどんな調査をされていたかは、他の方のシナリオに目を通していただければお分かりいただけるかと思います。

 よろしければ、お手隙の時にでもこの作品についての感想などいただけるととても嬉しいです。
 それでは、また会えることを祈りつつ。
 今回はシナリオお買い上げ、本当にありがとうございました。