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鬼雨
眠りは長ければ長いほど、夢と現の境が曖昧になる。
何物にも代え難いまどろみの心地よさ…朏棗はベッドのシーツをくしゃくしゃにしてくるまりながら、その至福の時間を満喫していた。
避暑地に出掛けて来てまでやる事か、と彼のパートナーは呆れ顔で部屋を出て行ったままだが、日が暮れれば夕食に誘いに来るだろう…うつらうつらとそんな事を思ってふと気付く。
深い眠りから浅い眠りへの移り変わりの狭間に入り込む雨音。
独特の空気が鼻腔を湿らせ、冷えた空気に日光が混じる気配も人の気配もない。
(今、何時だ…?)
ベッドサイドに据えられたサイドボード、備え付けのデジタル時計の文字色は睡眠を妨げぬ配慮から常は黒なのだが、夜間でも時刻の確認が出来るよう、液晶画面に触れればグリーンに点灯する仕組みになっている。
ものぐさにもシーツの中から手だけを伸ばし、隙間から時刻を確認しようとするが、距離感がおかしい…手が届かないのだ。
「ニャア(あぁ、そっか)。」
独り言が小さな鳴き声として喉を震わせる。
どれだけ懸命に腕を伸ばしても届かない筈だ。
ぽふぽふと枕を叩いていた肉球のついた前肢、滑らかな銀毛に覆われたそれが寝台に突っ張り、輪郭をぼかす…と同時、それは人間の手へと変じる。
「届くわけねーな。」
布の中で小さな盛り上がりもそれに応じて大きさを変え、寝台についた左手に支えられた上体、白い裸身の背に沿ってシーツが流れ落ちる。
銀毛の猫から、人の姿へ。
鬼の末裔である彼にとって、変化は息をするのと同様に容易い事である。
物憂く薄く開いた瞳の、青の強い紫にかかる銀の髪を右手で掻き上げ、棗は大きく欠伸をした。
「雨か………眠い筈だ。」
雨のせいにするな、とツッコむ相手が居ないため、今現在の眠気の理由を天候に押しつけ、再度シーツに潜り込みかけるが思いとどまり、棗は立てた右膝の上に細い顎を乗せた。
眠りに沈みたがる意識を引き留める何かが、心の内でざわめいている…日常に紛れて考えを巡らさないよう…半ば無意識に封じ込めているその疑問が首をもたげる。
それは、夢に朧な問いかけが引き金か。
ワレラハナニダ。ヒトデハナイノカ。
唱うように節に乗せ、雨音に紛れて微かに、幽かに。
ワレラハナンダ。モノデモナイノカ。
己の存在を他に向ける問いかけが、胸の奥の疑問に同期する。
握り締めた両の手を広げる…細く長い五指は、一見華奢だ…だが、この手は雷を放ち剣を振るう手だ。人のそれではない。
オマエハダレダ。オマエハナンダ。
身を変じ、他を惑わし、その意を奪う、それは鬼である為だ。
けれど。
(人でなく…人を恋しがる故に鬼になりきる事すら叶わない。それは鬼と呼べるのか?では俺は?)
ぞわりと肌が粟立った。
室内の気温が急激に下がり、空気に晒された肌から熱を奪う…明らかな異変。
「変な島だな。」
吐息に混ぜた言葉が白く凍る。
その冷気の源は、カーテンの向こうから…ひたと絶え間ない雨水が窓を打ち、流れを作る音。
ベランダに面して大きな窓は、強い風が吹き込まない限り雨が硝子を打つ事はない…が耳に届くのは静けさに似た絶え間ない水音ばかり。
その窓の下部からじわりと染み込んだ水が絨毯に染みを作り、広がる。
棗はその異変に背を正し、白い息を吐きながら成り行きを見守る。
コタエヲヨコセ。
声はとりとめのない夢の産物でなく、今度は耳朶を打つ響きとして。
ワレラトオマエノサカイヲ。
絨毯の半ば以上の色を変えた雨水が、ずるりと持ち上がった。
コタエガナクバ。サモナクバ。
芯に黒く蟠る何かを取り巻くように水は厚い膜で伸び上がり、それは水の領域にひしめくように…大きなものは天井に届くほど、小さなものは膝丈くらい、とサイズを取り混ぜてゆらゆらと揺れる。
ソノバヲユズレ。ワレラニユズレ。
囁く声で唱うような節で。
幾度も同じ言葉を繰り返す。
「行儀がなっちゃねぇな。普通、人の部屋に入る時は扉から、ノックを二回、名前と来訪を告げ、手土産を持参するのが常識だろ。」
怪異を前にしても寝台から動かないのは、彼に馴染んだ世界である為か…ただ、室内の気温が0に近く、彼が鳥肌を立てたままだという事実に、単に寒いからという線も考えられるが。
水の固まりの内のひとつ。
棗の背丈ほどのものが、ずり、と移動した。
絨毯に湿った跡を歪に残しながら、ぎこちなく棗へと近付く。
人が顔を覗き込む仕草に似て、寝台の傍らに立ったそれは棗の至近に先端を寄せた。
「答えてやるよ。」
棗の静かな言葉に、問いかけが止まった。
棗は己が胸に…心臓の位置に手を当てる。鼓動。
「自分が何者かなんてそんな事どうでもいい。」
不安な時は、そうしてみろと。教えられてから幾度となく意識してきた生の証。
「ただ自分がどうしたいか誰かを必要としているのか、されているのか。」
護りたいのは心地よい空気、安らいで眠れる場所、狂おしいまでに焦がれ続けていた、人の暖かさ…そしてそれを護る、鬼の力。
「俺は朏。それでいい。今俺の居場所がありここに生きてる。」
それ以上動きを見せない水を、紫の…鬼の瞳で見据え。
「お前達本当は居場所が欲しいんだろ?誰かにお前達の存在を気付き、忘れないで欲しかった。認めてほしかった。違うか?」
それは過去の、棗自身の望み。
怪異がそれと同じ物を抱えていると感じるからこそ…今、その空虚を満たされた自分が与えてやりたいと、そう思う。
「お前達は確かに人でないかもしれないけどちゃんと存在してる。」
そう、手を伸ばす…ひた、と水面に似て波紋を走らせたそれは触れられても逃れる様子はない。
雨水を殻に…これは自我を失った死霊か。
この奇妙な島、所々に人の恨み悲しみが吹き溜まるように凝る、これもまたその一部か。
苦痛の内に閉じた運命を呪い、それを与えた何かを生きている者に転化させられ、生を失った寂寥感に眠る事すら出来ない忘れられた者たちの…呪いとしか言いようのない、哀れな過去の具現。
棗は静かに、水の内に掌を潜らせた。
「本当の居場所見つけろよ?手伝ってやるからさ。」
その過去…最も幸福であった記憶が残っていれば、幻として見せてやれる。
その不幸であったろう最後の瞬間に重ねれば、安らいだ眠りにつく事も出来るだろう。
棗の手が死霊に触れる寸前。
ぽっかりと、開いたそれはただ闇を湛えた真円でしかないけれど、棗の眼差しを捉える形に眼に似せて。
光を吸い込む。
心を読む為に開いていた棗の意識に、イメージが流れ込む。
恐怖と苦痛をひたすら重ねて塗り込めた、ただ黒いとしか言いようのない記憶…魂を恨みと憎しみだけで染め上げろと、死して後に滅びを願いとするよう、死の半ばで生かされ続けたその記憶が。
「ッあァ……ッ!」
人間の、脆い身体に与えられた痛みの感覚だけが流れ込み、棗は咄嗟に腕を払い、身を抱くように両の肩をきつく掴んで苦痛をやり過ごそうと奥歯を噛みしめる。
その動きに水は容易に砕けて形を失ってシーツの上に散り、それに併せるかのように、形を為していた水の全てが輪郭を失って床に広がった。
そして唐突に、生々しいまでの感覚が消える。
棗は堪えていた息を吐き出すと、強張っていた筋肉から力を抜けた。
「痛ェ……。」
片腕で目を覆い、そのまま仰向けに寝台に転がる。
身体に重く圧しかかる、言いようのない倦怠感と疲労感…けれど、もう一度眠れるとは思えなかった。
嘆きを隠して。
雨は、まだ、降り続いている。
翌朝、レストランのテラスで朝食を取っていた棗は、昨夜は結局部屋に戻らなかった相棒の姿があるのに眉を寄せた。
フレンチ・トーストをグレープフルーツジュースで流し込んでいる棗のテーブルに、何の断りもなくトレイを載せる…バイキング形式の朝食、ご飯にみそ汁、納豆、焼き魚…と和風でチョイスした品々に何故だか牛乳が混じっているのが謎である。
「珍しいなこんな時間に…寝過ぎで時差ボケか?」
「眠れなかったんだよ。」
それ以前に20時間以上寝てたのは別計算らしい。
椅子を引きかけた手を止め、なんとも言えぬ表情を浮かべた彼に、空になったトレイをそのままに棗はとっとと席を立つと、軽く伸びをして雨に洗われて澄んだ朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。
「どっか調子でも悪いんじゃないか?」
決まり悪げに案じる言葉をかけるのに、棗はすいて歩み寄ると、その胸に頬を擦り寄せた。
「朏?」
いきなり甘えられて、相手が困惑するのを気にせず、棗は耳を澄ます…聞こえる鼓動。同じ律。
「使えねぇよな、俺。」
小さな呟きは至近であった為か耳に届く…自嘲の響き。
何が、と問いはせず、郷は棗の髪をくしゃりと撫でた。
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