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<PCシナリオノベル(シングル)>


鬼雨
 しと、しとと。
 そぼ降る雨音が闇に溶ける。
 ライティア・エンレイは柔らかな暖色の灯を頼りに、膝の上に置いた分厚い本の文字を蒼い眼差しで追っていた。
 白磁の肌に映える紺の浴衣姿の居住まいもよく、縁に備え付けられた籐椅子に体重を預ける姿が、実に様になっている。
 義父の影響からか、和風を好む傾向にある彼が宿泊先に選んだ旅館は古びているものの、それが却って良い風情であり、頁を繰る僅かな空気の動きに香木の落ち着いた香りにふと気付く、そんな穏やかな気遣いが行き届いて端々に見える。
「ライティア。」
するりと。
 蛇の下半身で器用に足を伝い、テーブルに乗った女悪魔ネイテの呼びかけに目を上げる。
「どうしたんだい、ネイテ?」
穏やかに応じる主に、使い魔であるネイテは布で覆われて見える筈のない眼を、その視線に合わせる仕草で見上げた。
「もう寝んだ方がよくない?また熱が出るわよ?」
ライティアは避暑を目的に訪れたこの中ノ鳥島に着いたその日からまる一昼夜、高熱を発して寝込んだのである。
 その部屋、黄色い野の花が飾られた床の間には「お見舞い」と称して持ち込まれた…素朴なトコロで浜辺で拾った貝殻や森で摘んだ野イチゴ、携帯用ゲーム機に花火、熱があるならコレ、とばかりに売店で買ってきたスポーツドリンクと携帯していたらしい風邪薬、ちょっと対処に困る『お口冷え冷え!涼感キャンディ!ミント味』にすいかが丸ごと一個…そんな心尽くしが積まれている。
「別に体調が悪いワケじゃないよ……言ってみれば、知恵熱かな。」
反論しながらも、ネイテの心配を汲んだライティアは皮装丁の重い本をパタリと閉じた…背表紙に意匠化されたドイツ語で書かれた表題、『ファウスト』。
 世界の三大文豪の一人に数えられるゲーテの代表作の一つである…悪魔ネフィストフェレスに魂を売り、代償として魔力と悪魔を操る術を授かった錬金術師、ファウストの物語。
 背表紙の文字を指でなぞるネイテに、ライティアは微笑んだ。
「蓮さんが貸してくれたんだよ。折角の旅先で寝付いてたんじゃ面白くないだろうってね。」
原書を貸す方も貸す方ならあっさり読む方も読む方、と言われるだろうが。
 けれど、其処までドイツ語に堪能ではなかったはずだ。
 学びさえすれば、忘れていた事を思い出すかのように呑み込みの早いライティアだが、日常的に不必要な言語まではカバーしていない。
「……面白い?」
問いかけるネイテに、ライティアは手を差し出した。
「台詞回しと展開が『劇的』ではあるかな。詩人は概してロマンチストだというけれど、本当だね。」
そう笑う。
 ライティアの腕を伝い、定位置である肩に戻ったネイテは、抱く疑問を口にしかけたが思いとどまった。
 それは、今更な問いである為だ…損なった魔力が、戻りつつあるのだ。
 ライティアの力を恐れてるあまりに疑心にかられた権力者に陥れられ、人間界に逃れてから20年…その兆しすらなく、人のそれよりは魔に近い程度であった物が、急速に力を増している。
 空の器に水を注ぐように。
 濃密すぎる霊気に光でもなく闇でもない影の世界が現出している島、限りなく魔界の空気に似たこの場所で、ライティアの身に起きた異変はある意味、正常な反応であると言えるのだろうが…。
「明日こそは皆と泳ぎに行きたいね。」
本人に変わりがなさ過ぎる。
「あ、もう今日か…。」
ライティアの独言に、壁にかかった古びた振り子時計が時を告げた。
 時刻は深夜を回っている。
 他の宿泊客は日中、体力の限界まで海を堪能したのか、建物はシンと静まりかえって人の気配が薄く、静寂に似た雨音に包まれている。
 そこに、声が混じる。
 時計の運針にすら紛れて消えそうに小さく、低く、いくつもの声が唱和している。
 ワレラハナニダ。ヒトデハナイノカ。
 唱うように節に乗せ、雨音に紛れて微かに、幽かに。
 ワレラハナンダ。モノデモナイノカ。
「ライティア…。」
ネイテが名を呼ぶ声に警戒の響きを込めるのを、ライティアは片手で制す。
「判ってる。」
 ポタン、と。
 雨とは別の水音が、重く空気を震わせた。
 部屋の中央、畳の上で弾く水音。
 天井板を支える竿縁を伝い、滴る。
 だが、それは染み込みはせず張力のままに広がり、次々と落ちる水滴を受け止めた。
「雨漏りだね…明日、修理を頼まないと。」
「それより今日は何処で寝るの?」
いつも通りすぎるライティアに、ネイテもうっかりつられてボケ返す、魔物にとっても20年の重みは大きいらしい。
 その間にも、水はひたひたと領域を広げ急激の下がり始めた室内の気温に靄つき…その中央付近がずるりと持ち上がった。
 オマエハダレダ。オマエハナンダ。
 細部も何もなく、ただ水が立ち上がっただけのそれ、声らしき響きにその表面が震え、次々と…天井に届くものから膝下まで、様々な大きさのでゆらゆらと揺らめく。
 コタエヲヨコセ。
 最初に形を得たそれが、ズルリと跡を引きながら縁へと進んでくる。
 ワレラトオマエノサカイヲ。
 その表面が、ぽかりと黒く凹んだ。
 叫びに開かれた口を思わせてひとつ、けれどそこには空虚しかなく。
 ネイテを制したまま、ライティアは静かに言を紡いだ。
「ボクとキミ達とのサカイは…。」
僅かに眉を開いておどけた風に続ける。
「………無いよ。」
その瞳、透明すぎる青玉の内に炎を点したかのような光の一点。
 コタエガナクバ。サモナクバ。
 ライティアの返答に、水の固まりの群れが、揺れながら続ける。
 ソノバヲユズレ。ワレラニユズレ。
 至近の水が一旦天井近くまで伸び上がり、先端から重力に任せてライティア目掛けて落下した。
 衝撃で内包した空気を気泡にして外に逃しながら、水が獲物を溺没させようとその全身を包み込んだ次の瞬間、それは四方に弾け散った。
「……ほら、ボクもある意味仲間だ。」
微笑みながら。
 肩の上、ネイテがライティアの身を守るための障壁を支えて突き出した腕を引く。
「人でない、その意味で。」
形を無くして天井に散った雨水が注ぐのに指で弾く仕草を合図とするように、現出する輪郭に添う蒼い炎の揺らめきに似た魔の力。
「今まで幼少の記憶が無かったり、悪魔を操れたりはするけど、それでも普通の人間だと思ってたんだけどね。」
ライティアの指が、戯れるように宙に円を描いた。
 その軌跡のままに蒼い光が残り、それを外円として複雑な様式の文字が内へと向かって展開し、その中心、何もない空間から陣を手がかりに身体を持ち上げて姿を見せるのは…人に似た姿で皮膜の翼と嘴、爪を持って黒い、ガーゴイルだ。
「まさか、魔界の住人だったなんて、ね。」
それらはギイギイと耳障りな声を上げながら、次々と姿を現し、召喚者であるライティアの前に出る。
「キミ達の相手なら、この程度で十分かな?」
 ネイテは息を呑んだ。
「ライティア………様?」
 害為す者を前にして、微笑いの内に宿る、傍らにあっても恐怖を覚えるかつての冷徹さ…やはり、と納得し、この時を望んで待ち続けていた気持ちの裏で、何故、と問う声がある…今更、と。
 それは、人間として過ごした、短くはない時間。
 彼が地位に依らず、力に依らず、自身で得たもの、守ったもの…それらを失くすという意味である。
 ライティアがそれらを如何に大切に想っていたか…それは見守り続けていたネイテが、多分、本人よりもよく知っている。が、かつてのライティアならばためらわずにそうするよう、記憶も魔力も戻った今となっては、それらに価値を見いだしはすまい…その、他を疑う必要のない日々を。
「ボクに危害を加えようとした事…その身で償ってもらおう。」
ついと人差し指を立てるライティアの動きに、ガーゴイルの群れが応じて動く。
 その先を水の群れに向ければ、それを依代とする…自我を失った死霊、苦痛の内に閉じた運命を呪い、それを与えた何かを生きている者に転化させられ、生を失った寂寥感に眠る事すら出来ない忘れられた者たちの…呪いとしか言いようのない、哀れな過去の具現を一片の慈悲も示さず、消滅せしめるだろう。
 その指先が、ことさらゆっくりと動き…。
「……なんちゃって。」
音を立てて、ボタボタとガーゴイル達が畳に落ちた。
「ライティア!?」
わざわざ知能の低い種族を選んで喚んだのはその為か。
 緊張感を台無しにしたライティアは、困惑してか動きの鈍くなっている死霊に向かっていつもの調子で語りかける。
「キミ達が、存在意義を求めているというのなら、ボクが与えて上げられると思うよ。死の瞬間の疑問に囚われ続けて苦しむより、ボクに力を貸してみないかい?」
今なら洗剤が一ヶ月分位つきそうだ。
 けれどそういうつもりはないのか、ゆらめく雨水は、タプン、トプンとそれぞれに音を立てて形を崩し、消える。
 後に残るは、体重をかければ水が染み出すほどに濡れた畳ばかり。
「ふられちゃったよ、ネイテ。」
何処まで本気か分からない声で、ライティアが笑う。
「ダメよ、アレ、全然人の声が届いてなかったもの。」
つられていつもの調子で答え、ネイテは口を押さえた。
 ライティアの青い眼差しが彼女の姿を捉える。
「ネイテ……本当は全部、知ってたんだね?」
他から与えるのでは意味のない、失った記憶とその真実を。
「……お待ち申し上げておりました。ライティア様。」
ネイテは深く頭を垂れる。
 彼はもう、五つの頃から彼女が見守って来たライティア・エンレイではないのだ。
「謀った者達の罪咎、全てを明るみに出す準備は整っております。後はライティア様の帰還を待つのみ。」
それで全てに決着がつく。
 が。
「どうして?」
あっさりと、本人は否定の響きを疑問の内に込めた。
「ライティア様…?」
「還らないよ、まだ。」
ぐしょぐしょと足下を湿らせる畳を踏み。床の間に進む。
「海水浴に行ったら西瓜割りをして、その夜のうちに花火をする約束なんだよ…それだけじゃない。他にもたくさん約束があるからね。」
歳月を積む間に、幾つも、幾つも。
 素性の知れぬ子供に想いを注いでくれた家族に、闇の眷属を操る彼を怖じなかった友人達に、関わって来た様々な事柄に。
 それが、虚実の上に築かれたものであったとしても。
 一瞬、辛そうに眉を顰め、ライティアはポンと良い音を立てる西瓜を叩いた。
「そう……ライティアが、そう言うのなら、構わないわ。」
ネイテは呟き、大きく息を吐く。
「報復はいつでも出来るからね。コレは単なるボクの我が侭だけど…戦々恐々とする期間が長いほど、彼等もボロが出やすいだろうさ。」
策士の表情で少し笑うと、ライティアは心底困った風に両手を肩の位置まで上げた。
「ところで、今夜は何処で寝よう?」