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<PCシナリオノベル(シングル)>


もしもあなたに逢えるなら。

 海を正面に望むその部屋は、窓から差し込むオレンジ色の光によって、一面夕焼けの茜色を帯びる。
 神棚の設えられた八畳ほどの広さの客室。
 滞在者に不便を感じさせない最低限の家財道具や、品を損なわない程度に日に焼けた襖から、その建物は建造されてからそれなりの年月を経ている事が推察できた。
 ふと視線を馳せた年季の入った土壁には、海面を見上げたような水の紋。
 鼓膜を震わす潮騒にたまに混ざる高く短い水音に合わせて、部屋の中の海はユラユラと揺れる。
 それを黒のボンテージパンツに包まれた膝を抱えながら見つめるのは、おおよそこの宿の雰囲気とは不釣り合いな青年。
 赤い髪が空を覆う朱色に染まって、開け放たれた窓から流れ込む潮の香りを含んだ風に揺れた。
「……そろそろ、頃合かな?」
 青年の唇が、外見には似合わぬ折り目正しい響きを纏った言葉を紡ぎ、一人ごちる。
 彼の名は間宮甲斐。
 アルバイトでカメラマンを営む甲斐の本当の顔を知る者は、極限られた世界の住人達だけ。
 日頃から普通の人間の常識では到底解釈する事の出来ない世界を生きる彼は、巷で囁かれる噂に惹かれて、中ノ鳥島を訪れていた。
 形の良い指先が、慣れた手つきで目の辺りに触れた。軽いまばたきに淡い黒に色付いた薄いレンズが零れて甲斐の掌に落ちる。
「少しの間だけ、預かっておいて下さいね」
 甲斐は、自宅から持ち込んだガラスの鉢の横に、キチンとケースに収められたコンタクトレンズを置いた。
 了解する意の様に、ツイっと金魚が水をかくと、尾鰭に叩かれた水面が小さな高い音を立てた。
「それじゃ、行ってきます」
 飼い主の呼び掛けに返事をするように、ガラス鉢の中でひらひらと優雅に尾鰭を舞わす二匹の動きに、壁に映った水紋が陽炎の如く踊る。
「たした、たつた。留守番をお願いしますね」
 二匹の名を呼び立ち上がり、そして背を向けた。
 甲斐の背中を吸い込んだ扉が静かに閉まると、残されたのは水が作り出す音だけ。
 自然が奏でる旋律に身を任せた二匹は、一度くるりとガラス鉢の中を泳ぐと、まるで手を取り合うように身を寄り添わせた。

 たしたは今はもうこの世にいない弟の上総が甲斐に遺してくれた金魚。
 さほどなサイズではないが、一匹には大きすぎる金魚鉢の中にポツンと泳ぐたしたを見て、彼女はいつも不憫そうに眉を寄せていた。
 熱く焼けた砂を踏みしめながら、甲斐は目蓋の裏に浮かぶ女性の影を思い出す。
 まるで猫のようにしなやかに歩を進める彼の足元で、数時間先には水底に変わる砂が、錨入りの革ブーツの厚い底に踏まれて、軋む床板にほんの少しだけ似た音を立てて鳴く。
 その音が、甲斐の脳裏に懐かしい彼女の声となって鮮やかに蘇った。

「命なんて儚いんだから。せめて友達か彼女くらい作ってあげなさいよ」
 そう言い聞かせるように笑っていた彼女は、ある日たしたの金魚鉢にもう一匹の金魚を連れてきた。
「やっぱり一人は寂しいでしょ?」
 名前はたしたに準えて『たつた』。
 一匹には広すぎた空間に、二匹納まる事で何やら言葉に出来ない安堵感が生れる事を、金魚鉢を眺めて甲斐は教えられた。
 そしてもう一つのことに気付く。

『一人は寂しいでしょ』

 別段、寂しがりというような女性ではなかった。
 年上という事もあってか、とてもしっかりとした人というイメージが今以って先に立つ。
 けれど、どうしてだかこの時。
 たしたに向けられた筈の言葉が、彼女自身の言葉であるように甲斐の耳には響いた。
 二匹になった金魚を、並んで座る彼女の瞳が楽し気に追いかける。
 だから、側にいる時間が多くなった。
 アルバイトと本業を出来るだけ効率的に仕上げ、二人でいられる時間を増やす。
 まるで、今までひとりぼっちだったたしたが、たつたと一緒になって、狭くなった筈の水の中を、今まで以上に自由に泳いでいるように見えるように。
 二人で寄り添う時間をより長く。
 彼女が「寂しい」なんて思わないように。
 彼女が「ひとりぼっち」だなんて悲しくならないように。
 けれど、彼女の死の瞬間まで甲斐は彼女の多くを知らないままだった。

 甲斐の踏みしめていた大地が、砂浜からゴツゴツとした岩場に変わる。
 彼方此方に亀裂が入り、時折上がる高い飛沫が甲斐の頬に小さな水滴を残す。
 西の空に大きく傾いた太陽は、水平線まであと少し。加速度を増して行く日没に、足を速めた甲斐は僅かに額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
 東の空は既に濃紺色に侵食され、都会からは見る事の出来ない星々が小さな輝きを放ち始めている。
 夕日が沈むその瞬間に、今はいない者に逢いたいと強く願えば、その願いは叶う。
 それがこの中ノ鳥島にある伝承。
 海に面した岩場には似たような形の洞窟が幾つも並ぶのにも関らず、この噂に引かれて中ノ鳥島を訪れた者は、たった一つの洞窟を決して間違う事はない。
 それは、魂を引き寄せる強い想いが働いているからだ、とか、逢いたいと願う相手が呼んでいるからだ、などの諸説があったが、実際に何らかの『能力』を有した者達にはその答えは明らかだった。
 そして、甲斐もその一人。
「……これは……目を瞑っていても分かる……かな?」
 黄金色に染まる海の輝きを遮るように瞳をすがめて呟く。
 さして気にはならなかった足場の不安定さが、目の当たりにした目的地に、急にいつ足元を掬われるか分からないような緊張感を覚えさせる。
 一箇所だけ、明らかに自然では有りえない霊気を放出する洞窟。
 まるで黄泉路への入り口のように、漆黒の口を開けて側を通る者を絡め取るように手招きをしている。
「ただの噂じゃなかった、ってことですね」
 ポケットの中に忍ばせてある固く鋭い感触を一度だけ確かめ、甲斐は更に急になる岩場を軽やかに進んだ。
 緊張感はあるが恐怖感はない。
 何があるとも知れないその先に進む事を躊躇し逃げ出すほど、甲斐は安穏とした人生を送ってきた訳ではないのだから。

 洞窟の中は、まるで外界とは別世界のようにひんやりとした空気に満たされていた。
 奥へ奥へと進むにつれて潮騒は遠退き、今は甲斐の靴音だけがこの世界の静寂を打ち破る唯一の音。
「ここまで、か」
 分岐の一切なかった洞窟は、目が暗闇に慣れて暫く立つ頃に終着地点を迎えた。
 両腕を精一杯広げても壁には手が届かないほどの適当な広さのあるその場所は、何があるわけでもなかったが、凝るような霊気に満ちていて長時間いて気持ちの良い場所ではない。
 行き止まりを確認するように冷たい壁面に触れながら零した言葉は幾重にも反響し、今この場には甲斐一人しかいない事を改めて知らしめる。
「でも、こう暗いと『夕陽が沈む瞬間』がいつか分かったものでは……」
 ないですね――そう続く筈だった呟きは、不意に出現した幻想的な景観によって呑み込まれた。
 闇に慣らされた目が、急来した光に一瞬だけ視力を奪われる。
 我知らず握り締めた掌に力が篭った。
「これが……」
 太陽が水平線すれすれまで西の空に傾いた事によって、日差しが洞窟の最奥まで届くようになったのだろう。
 すぐさま明るさに慣れた甲斐の目に、無数の隆起を潮風にも負けずにむした苔に飾られた岩肌が、朱色の光に彩られ胸を裂くような切ない色合いに映った。
「逢いたい人」
 忍び寄る想い。
 甲斐は声には出さずに、たった一つの言葉を伝えられなかった人の名を思い描く。
『逢いたい』
『逢って言えなかったことを伝えたい』
 不意に、周囲を満たしていた霊気が一点に凝縮して行く気配を甲斐は悟った。
 濃度を増したそれは、緋に染まった世界でゆっくりと常人の肉眼にも認識可能な実体を象る。
 そして完全に人の形を成した瞬間、期待に息をつめていた甲斐は、長く失望の溜め息を吐き出した。
「私を……憶えていてくれたのね」
 甲斐の冷静な視線の先で、薄い紅を引いた女性の唇が喜色を湛えて綻ぶ。
 表面に見えるのは懐かしい顔。
 鼓膜を震わせるのは、まだおぼえていた声。
 けれど、甲斐の胸に込み上げて来るものは何一つありはしない。
「ねぇ……一緒に来て」
 細く頼りない腕が甲斐の腕に絡む。
「生憎と……」
「一人は寂しいの」
 耳に吹き込まれる艶を含んだ吐息。
「俺にはこの手のまやかしは通用しないんですよ」
 言い放った瞬間、甲斐の右の瞳が黄金の輝きを帯びた。
 様々な能力を有す、奇跡に等しい力を持つ『浄眼』。平素はカラーコンタクトで覆い隠してはあるその瞳は、常に金の光を宿している。
「それにね、俺の知ってる彼女はそういう事を口にする人ではなかったんですよ」
 しがらみを振り払うように軽く首を振ると、表情を縁取るように前に流してある前髪がフワリと揺れた。
 より鮮やかになる黄金。
 それは静かな怒気を孕み、暮れ間際の太陽よりも鮮烈な灼熱を密やかに燃やす。
 
 寂しかったのかもしれない。
 けれど、それを自らの事としては言葉にしなかった。
 そして死ぬ間際まで己に課せられた使命を甲斐にすら悟らせることのなかった、自分一人の足で立てる女性だった。
『大切な人、いるんでしょ?』
 死の色を濃く湛えた表情が鮮やかに笑む。「ちょっと悔しいんだけど」と付け加えたのは、すねて時折見せたものと同じ。
 けれど、その瞳に宿る決して嘘と哀れみを許さない強さに、甲斐は静かに肯いた。
 張り詰めていた息を吐き出すように、彼女の肩から力が抜けるのが分かった。抱き留めていた甲斐の腕にかかる重みが増す。
『その大切な人を守って、そしてなお生き抜く事』
 甲斐の頬をあやすように撫でる細い指は、既に体温を失いかけて冷たかった。
『それが、私と貴方の最後の約束よ』
 同業者だった。
 違う一族で、仕えるべき存在は違ったけれど。
 闇に潜み、主命の元で人の命を狩ることを本当の生業とする仲間だった。
 それを全く気取られぬ程に強かった女性。
『約束、よ?』

「一緒に……来て……一人は……寂しいの」
「だから、そういう事を言う女性ではなかったと言ってるでしょう」
 噂は噂だったのだ。
 死んでいなくなってしまった人に、会えるなんてそんな都合の良いことがある筈がなかったのだ。
 甲斐の目にはハッキリと、それらが己の求める人の姿とは似ても似つかない死霊兵の姿であることが映し出されていた。
 寄る辺なき魂たちが、新たな仲間を求め獲物の望むべき姿を取る。
 常識の範囲ではないが、少なくないことだ。
 それは、甲斐のような仕事を持つ者にとってはなおのこと。
 絡みついたままの冷たい腕を振り解く。
「誘うべき相手が悪かった、そう言う事です」
 そう言い切った甲斐の手には九字の描かれた符。
「朱雀、玄武、白虎、勾陣、南斗、北斗、三台、玉女、青龍!」
 人差し指と中指の間に挟み短く唱えると、符を舞わせるように宙へと放つ。続けざま、素早くポケットの中から取り出したナイフを一切無駄のない流れるようなモーションで投じた。
「なっ……っ!?」
 払われた腕にバランスを失った死霊兵が、何が起こったのか理解する間もなく、見事に空で符を捉えたナイフに眉間を貫かれ四散する。
「これ一体っきり――なんて事はやはりないですよね」
 濃密に凝っていた霊気がそこかしこで実体化を果たす先駆けを感じ取り、甲斐は僅かに唇の端を上げて笑った。
 固い靴の底で二、三度トントンと岩盤で出来た地面を蹴り、タイミングを計り一瞬の間隙を縫って三歩ほど後方へ飛び退る。
 衣服が動作に合わせて風を孕んだのが納まる前に、再び複数の符とナイフが空を裂く。
 一点の濁りもない銀の刃が、洞窟内に満ちたオレンジ色の光を反射させて、まるで血塗られた様に赤く煌いた。
「急々如律令!」
 甲斐の呪により符から放たれる力が、死霊兵を打つ。
 浄眼はその威力を最大限に発揮し、散った念を速やかに癒し、次の輪廻に送り込むベく黄金の光を湛える。
 辺りに再び静寂が戻るまで、時間はかからなかった。
「…………」
 他に何の気配もなくなった、いまだ夕射しの届く洞窟内で、甲斐は僅かに上がった息を落ち着かせる為に肩の力を抜く。
 結局、こういう結果にしかならないんだ。
 本当に逢いたい人になんて逢えるものではないんだ。
 嘆きではなく、諦めと自嘲の溜息が甲斐の口をつこうとした瞬間、背後に膨れ上がった気配に甲斐は小さく身震いした。
 未だ忘れていない、その懐かしさ。
『手助け……しようかと思ったのだけど。要らなかったみたいね』
 そっと手の置かれた肩に、ポッと小さな熱が燈る。
 夕暮れ色に染まる世界に溶けて、ほのかに暖かな橙色を帯びた細い指、優しい手。
 永遠の別離を告げたあの日、甲斐の頬を撫でてくれた、あの手。
「っ!」
 言葉に出来ない想いを全身に満たして、甲斐は手の主を振り返る。洛日間際の光に照らされた赤い髪が、視界を灼く烈火のように紅に燃えて靡いた。
「――――」
 詰まる想いに胸を突かれ、喉まで出かかった言葉が吐息に混ざる。
 背なに立つ気配。
 朧にそこに在るのは、間違いなく彼女。
 まやかしの一切通用しない甲斐の金の右目に真実として映る、伝えたい言葉のある彼の人。
『約束、守ってくれてるみたいで嬉しいわ』
 まろやかな曲線を描く指が、フワリと甲斐の頬を撫でた。
 その懐かしさに、甲斐は無言で瞳を閉じる。忘れかけていた感触を、もう一度魂の記憶の中から呼び覚ますように。
 洞窟内に真っ直ぐ差し込んでいた陽が陰り始める。
『取り敢えず、出ましょうか』
 再び闇に閉ざされる前に、とその女性は甲斐の手を取って歩き出す。
 潮騒が近くなる洞窟に、甲斐の足音だけが響く。そのことが、触れる指先の存在感の非現実さを甲斐に、そして甲斐の手を引き歩く女性自身にも伝えていた。
『たしたとたつたは元気?』
「元気だよ。今日も二匹一緒に連れてきてるよ」
『そう……良かった』
 開けた視界。ともすれば耳を打つ波の弾ける音にかき消されそうな会話を、二人は寄り添う事で静かに続けた。
 陽は水平線に半分以上姿を沈め、南から西にかけての空も濃い藍色のグラデーションに移り変り始めている。
『それじゃ、私はいくわね』
 一瞬の静寂の後、絡んでいた二人の指が解かれた。
 何処に? とは問えずに甲斐は黙って彼女を見返す。
『私の事、喚んでくれて嬉しかったわ』
 鮮やかな微笑。
 あの日、彼女が最後に見せた表情も同じものだった。
 嘘をつく事は出来ない誠実さで、甲斐は彼女の問いに肯いたけれど。本当はもう一つ、伝えるべき言葉があったのだ。
 それもまた、偽らざる真実として。
 時間を引き伸ばすように、甲斐は手を差し伸べた。
 徐々に希薄になる存在感。先程まで指先が触れ合っていた事が、まるで幻だったかのように、甲斐の手は実感を伴い彼女の髪に触れる事は出来なかった。
 けれど、祈りを込めて一房、掬い上げる。
 そして伝えられなかった言葉を、今度こそ口にした。
「好きだったよ、天音」

 一際大きな波が割れ、高く上がった飛沫が甲斐の頬を濡らし、雫がそっと滑り落ちる。
 甲斐の右目にだけ映る天音であった白い残像が、海の向こうで一本のオレンジ色の線になり今日の命を終えた太陽の輝きに、ゆらゆらと赤く染まった。
 まるで金魚の尾鰭みたいだな。
 ふと思いついた事に甲斐は僅かに頬を綻ばせ、海水の伝った跡を人差し指で一度だけなぞると、一気に拭い去った。
 帰ろう。
 宿でたつたとたしたが待っている。
 そして生者の世界で多くの人が甲斐のことを待っている。
 既に夜の支配下に置かれた海際を、甲斐は洞窟に背を向けて歩き出す。
 夏の夜空を晴れやかに飾る天の川へと姿を消した幻の金魚は、もう甲斐の瞳にも見えなかった。