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<PCシナリオノベル(シングル)>


もしもあなたに逢えるなら。

 月が、光を孕んでいく。
 それに比例するように、彼女の中の狂気も日々少しずつ重みを増していっているようだった。

 月の光が零れる。
 彼女の正気が、崩れてゆく。

 彼女の常から白い肌は、夜の帳の中でひどく蒼白く見えた。窓から差す月光に照らされるそのすべらかで肌理の細かい肌は、まるで長い間海の中でひっそりと眠っていた真珠のようだった。
 触れると、きっとひんやりしているに違いない。真珠というよりは白磁に近い感触を持っているかもしれない。
 まるで淡く発光しているかのようにも見える、その肌。
 思わず注視してしまったことに、なんだか訳もなく罪悪感を覚えてすぐさまわずかばかり目を逸らせる。
 別に、触れたいと思ったわけではない。なのにひどく悪いことをしたような気になった。
 こちらが抱いた戸惑いに気づく様子も無く、彼女はただ、伏目がちに静かに微笑んでいた。
 黒目がちな双眸はひどくぼうっとしていて、まだ眠りの淵から覚めきっていないようだった。夢という皮膜に包まれたまま、非現実だけを見つめているのか――その眼差しは確かに開かれてはいるが、目の前にある時の流れを認識しているようには見えない。
 彼女は、その細く白い腕に赤黒く腐蝕しはじめた猫の死骸を抱いていた。
 月と共に彼女の内に宿り行く狂気は、けれども彼女の中から優しさを奪いはしなかったのか。優しい眼差しでその亡骸を見つめ、変わらず微笑を浮かべている。
 その猫に最後の時を与えたのは、彼女。
 壊れ行く精神の狭間で、それだけは決して忘れてはならない「自分に科せられた使命」だとでもいうかのように、彼女は動物たちを屠っては、こうしていとおしそうに肉が朽ちるまでその腕に抱き、微笑みを向け続けていた。
 彼女が狙うのは、とある事件で傷ついたものたち。
 その痛みから少しでも早く動物たちを解放してやることが、彼女の使命なのだろうか。それとも、彼女の中から消えずに残り続けている優しさの成せるものなのだろうか。
 自らも病で余命幾ばくもない上、すでに精神をも蝕まれていると言うのになぜそこまで動物の事を気にかけているのか、自分にはわからなかった。
 ただ、分かった事は。
 白い病室に添えられた真紅の血痕による鮮やか過ぎる彩り。そこに差し込む蒼白い月明かりと、照らし出される真珠の如き白き肌、黒い眼差し。たおやかな腕に抱かれた猫の死体、儚すぎる微笑。
 それらを目にした時、自分はあまりにも強く彼女に魅かれてしまったのだ――ということだった。

「私は、待っているの。あの人がまたここへ来るのを。
 約束したのよ、一緒に桜を見ると……だから、待っているの。いつまでも」

 その約束が果たされる前に。
 時は残酷に、彼女を、もう二度とこの手が届かないところへと連れ去ってしまった。

          *

 急速に意識が覚醒へと向かう。
「……っ」
 目を開くと、闇の向こうに見慣れない天井が見えた。自宅の自室の天井とは違うそれに一瞬自分がどこにいるのか分からなくなったが、すぐに中ノ鳥島に来ているのだと思い出す。
 短く吐息をついてから、白い敷布から身を起こして雨宮薫(あまみや・かおる)は額に手を当てて緩く頭を振った。カーテンの隙間からわずかに差し込んでくる月明かりが彼の黒髪に細い光を落としている。
 視線だけを動かして、時計を見やる。薄闇の中、金色の針が二時過ぎをさしているのが分かる。空調が効き過ぎてやや肌寒く感じられるこの室内で、その時計の秒針が動く音と窓の外から聞こえてくる波の音だけが今、ここにあるすべての音だった。エアコンプレッサーの音は夜の闇の中にまぎれているかのように、ほとんど聞こえない。
 冷えた空気をわずかばかり厭うようにもう一度吐息を漏らしてから、少しずれてしまっている掛け布団を肩の辺りにまで引き上げて自らの膝を抱く。そしてゆっくりと、細い指先で目にかかる前髪をかき上げた。
 夢を、見ていた。
 いや、夢と言うよりは「記憶」と言うべきだろうか。
 懐かしい「思い出」だった。
「…………」
 ゆるりと頭を振り、薫は布団から出ると、窓辺に寄って勢いよくカーテンを開いた。
 ガラス越しに見える、白い月と無数の星を擁する紺碧の空。絶え間なく揺らぎ続ける海も、同様の紺碧。
 ふいに、昼間耳にした噂話が耳元に蘇る。
『夕日が沈むその瞬間、今はいない者に逢いたいと強く願えば、その願いは叶えられる』
 そういう言い伝えがある洞窟が、この中ノ鳥島にはあるらしい。
 ガラスに額をつけて、薫はその黒い双眸を閉ざした。
 聞こえてくる、波音。心地いい自然が奏で出す音色。
 閉ざされた瞼の奥に、さっき夢で見た少女の顔がちらつく。
 会いにいった自分を「桜を見る」と約束をした相手だと認識できないまま、「あの人を待っているの」とあどけない微笑をこちらに向けて浮かべていた少女。壊れて行く彼女の心の前で、自分は何もできず、ただその細い体を抱きしめる事しかできなかった。
 彼女の精神崩壊の前に、あまりにも自分は無力すぎて。
「……美咲……」
 久々に、唇からこぼれた少女の名前に、ふと我に返ったように薫は目を開いた。そしてゆっくりと月を見上げる。
 虚空に浮かぶ月はひどく白く、まるであの時の、少女の肌のようだった。桜を見たいと言って微笑んだ、あの時の。
「……約束を……」
 叶えられなかった約束を、今、果たしたいと強く思った。
 たとえ霊でもいい。会って、桜を見るというあの約束を果たしたかった。


 穏やかに、波が揺れていた。空を占める夕焼け色が海にも映り、一面を黄昏色へと染めている。
 燃え残る太陽の光が海面をきらめかせている。その様はまるで、一足早く姿を見せた無数の星が、水面に落ちてまたたいているかのようだった。
 波に洗われたせいか、それとも長い間雨に吹き晒されているせいか、やや尖った岩が多い海岸線の洞窟の入り口でその様をしばし眺めて目を細めていた薫は、濃い潮の香りを含んだ風に前髪をなぶられながら、ふっと短い吐息を漏らした。
 踵を返して海に背を向ける。
 数ある洞窟の中から噂の洞窟を見つけるのは、案外と容易いことだった。
 胸の内に「大切な人」の像を抱えている人間というのは、少なくないのだろう。おそらくは、そういう思いを抱く者がこの場へと足を踏み入れて行くのだ。
 今の自分と同じように。一縷の望みを抱いて。
 ゆっくりと中へと足を進める。波音と、海の上を滑ってきた風が、背中を撫でるように通り過ぎて行く。差し込むオレンジ色の光線は、奥へ進むごとに弱くなり、やがて周囲は薄闇に包まれはじめた。波音もじょじょに遠くなる。
 ぴんと張り詰めた空気が内部には満ちていた。長い間光にさらされていないせいか、少し肌寒い。
 洞窟内は、思ったより広めだった。どこかで水が滴る音がする。時折頭上から垂れてきた水滴がシャツの袖から覗く腕や首筋などに落ちてきて、そのたびごとに薫は形のいい眉をわずかにしかめた。
「……そういえば、どこまで行けばいいんだろうな、一体」
 何度目かの分岐で進む方向を選んでいた薫の唇から、疑問がついて出た。
 そのまま、呟いた自分の唇にそっと指先を当て、無言でわずかに視線を斜め後ろへとずらす。
 何かの気配を感じての動きだった。ひんやりとしたそれは洞窟内の空気の流れにより感じたものかと思ったが、違う。そういう類いのものではない。
 警戒心を抱きながら、ゆっくりと、薫は肩越しに振り返った。
 その双眸が、見開かれる。
 真っ白なワンピースを纏った少女が、そこに立っていた。薄闇の中、淡くその身は光っているようにも見える。まるで蛍火のように、その体からは一つ二つと白い光が舞い上がり、闇の中へと溶け込むように消えて行く。
 少女が、わずかに首を傾げて清楚な微笑を浮かべた。
「……美咲……」
 思わず、その名を呼んだ。
 ぼうっと遠くを見るような眼差しは、あの時と変わらず無垢なままだった。あの、死を前に――心の崩壊を前に、自分が命の幕を引いてやった猫を腕に抱いていた時と、何も変わっていなかった。
 けれどもその眼差しは、あの時とは違い、確かに薫を見ていた。
 朽ちかけた猫の死体ではなく、薫を。
 今なら、自分の言葉はまっすぐ彼女に届くかもしれない。あの時伝えられなかった言葉を、今なら伝えられるかもしれない。
 そう思い、薫が口を開きかけた、その時。
「?!」
 冷えて滞っていた空気が、揺れた。ただでさえひんやりとしていた周囲の空気が、肌が粟立つほど一気に下がっていく。
 それは予兆。
 よく覚えのあるそれは、霊的現象が起きる時の変化だ。意識の針を伸ばし、少女を守るように身構え、符を数枚取り出す。
「……っ、そこか!」
 奥へと続く洞穴から、蒼白い人影が現れる。すぐさま構えていた符を投げ打つ。眼窩が落ち窪み、白目を剥いた兵隊姿の霊が次から次へと溢れてくる。鋭く一つ舌打ちを鳴らし、符を持つのとは逆の手で素早く宙に五芒星を描く。
「天為我父、地為我母、在六合中、南斗北斗、三台玉女、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、前後扶翼、急々如律令!」
 符が、凛とした声音で薫から紡がれる言葉により悪しき物に対し絶大な攻撃力を持つものへと変わる。薄闇の中、光の尾を引き現れた悪しき者たちに襲い掛かる。
 ふと、薫は肩越しに少女を振り返った。
「心配ない、すぐに終わる」
 その言葉に、けれども彼女はゆるりと頭を振った。まっすぐに伸びた髪が音も無く揺れる。そのままほっそりとした手を持ち上げ、両手で自らの耳を覆う。さっきまでの微笑みは消え、まるで耳を覆っていてもどこからか不快な音色が聞こえるかのように、眉宇がわずかに寄せられていた。
 怪訝そうに彼女を見る薫に、符を逃れて来た悪しき者が襲い掛かったのはその時だった。はっと振り返りざまに素早く刀印を結んだ指先で五芒星を描く。
「臨兵闘者皆陣列在前!」
 描かれた五芒星が蒼白い輝きを放つ。その光は瞬間を重ねるごとに光の強度を増して行く。
 薄闇に包まれていた洞窟内は一瞬にして清浄な退魔の光に満たされた。


 またそのまま洞窟内にいたらいつあの兵士の霊が現れるかもしれないと考えた薫は、少女を伴って入り口へと戻った。
 波のさざめきが聞こえる。
 洞窟内では、風が無く、すべてが止まっている感じがした。
 けれども今は、頬に当たる風と繰り返し寄せてくる波が、確かな時の流れを教えてくれる。
 繰り返し紡がれるその波音をしばし目を伏せて聞いてから、薫はゆっくりと眼差しを上げて少女を見た。
 オレンジ色の光の中、白い少女のワンピースも緋色に染まっている。白かった肌も、少し赤らんで見えた。
 少女は、さっきまでのつらそうな表情がまるで嘘のように、またその容貌に微笑を浮かべていた。真っ赤に染まる水平線を見つめていたが、薫の視線に気づいたように振り返る。
 言葉はなかった。ただ、澄んだ眼差しがまっすぐに薫を見つめていた。
 沈黙の間を、波の音が緩やかに埋めて行く。どこか遠くで鳥が鳴いた気がした。
 ゆっくりと、薫は言葉を紡いだ。
「約束を果たしに来た」
 その言葉に、少女は微笑みを浮かべたまま、かすかに目を伏せた。
『人の眠りを妨げてまで?』
 返された言葉に含まれた小さな棘に、わずかばかり薫が眉宇を寄せる。少女は目を伏せたままだ。白い瞼まで、綺麗に黄昏色に染まっている。長い睫がかすかに震えた。
『エゴだとは思わなかった?』
「何がだ」
『守れなかった約束を、今更、眠りについたものを目覚めさせてまで果たそうだなんて』
 静かに眼差しを上げる。変わらずその容貌には微笑に彩られている。
『さっきの霊たちも、無念の中亡くなった人たち。なのに自分の身を守るためにあなたは迷いも無く手を下した』
 金色の光に縁取られながら、少女は緩く首を傾げた。さらりと長い髪が風になびく。
『私とあの人たち、一体何が違うの?』
 薫は、言葉に詰まった。
 違うところがあるとすれば、人に害を成すかどうか。
 けれどもおそらくは、彼女が求めている答えはそういうものではないのだろう。
 朽ちて行く命と精神の前に、それでも優しさを一滴も自我という器からこぼさず保ち続け、傷ついた動物を屠り続けた彼女。自らのことよりも他者の事を考えていた彼女。
 彼女にとっては、自分の身を守るために相手の負った傷など構いもせずに手を下したということが、許せないことだったのかもしれない。
「……それでも」
 まっすぐにその彼女の瞳を見つめ返し、薫は言った。迷いのない口調で。
「俺は自分が守るべきものを守るために、戦わないわけにはいかない。できることがあるのなら、やらずにはいられない」
 そしてゆっくりと、頭を一つ振った。視線を斜め下に落とす。
「死へと向かって行くお前を前にして、俺は何もできなかった。もし今、そんな俺にでもできることがあるのなら、俺はそれをしたいと思う。たとえそれが俺の自己満足を満たすものでしかないとしても」
 できないのと、できるのにしないのとでは違うから。
「だから俺は、あの約束を果たすため、ここに来た」
 もう一度まっすぐに目を上げて言う薫に、少女はふっと短く吐息をついて、今にも黄昏の景色に滲んで消えてしまいそうなほど細い肩を小さくすくめた。微笑みは微苦笑へと変わる。
『けれど、今……どこにも桜なんて……』
 熱をはらんだ潮風は、桜の季節にはそぐわないもの。時間が希望の季節まで巻き戻り、願いを――約束を叶えてくれようはずがない。
 薫は、無言のまま自らの両手に符を乗せた。持ってきていた符、すべてを。
 ふわりと、薫のその足元から風が舞い立つ。緩やかに天へ向かって黒い髪がなびく。広げた手に乗っていた白い符が、一斉に空に向かって舞い上がって行く。
 飛び行く符を見上げ、右手で印を結ぶ。
 少女も、つられるようにその符を見上げた。
 ふっとその符の輪郭がぼやける。と思ったら、次の瞬間、符から無数の真珠色の羽を持つ蝶へと転じた。
 赤い空の下を舞う、無数の蝶。夕陽を受けた羽は不思議な色へと変化する。その羽自体が発光しているのか、ぼんやりと輪郭がにじんでいる。
 少女は、息を詰めるようにしてその様を見つめていた。蝶が羽ばたくたびに舞う鱗粉が、きらきらと金色のベールのように幾重にも空気の中で重なって行く。
 ゆっくりと、薫が印を結んでいた右手を持ち上げた。そして一つ、指を鳴らす。
 とたん、飛んでいた蝶が、まるで手品のように一斉に無数の桜の花弁へと変わった。
 潮風にさらされ、黄昏の中を舞う金のオーロラと桜のはなびら。
『桜の、はなびらが……』
「きちんとした形で約束を果たしたわけではないけれど」
 空を見上げて、薫は目を細めた。
「これが今の俺にできる、精一杯のことだ」
 それに、少女はゆるく頭を振り、顔を薫の方へと向けた。
『ありがとう』
 微笑むその少女の姿が、徐々に透けて行く。あるべきところへと戻って行くのだろう。
 舞う花弁の中、本当に、これが最後の別れ。
 いろいろと伝えたい言葉はあった。
 別れに相応しい言葉。命の灯火が消えて行く彼女を前にして何もできなかった事、そして約束を果たすまでに時間がかかってしまったことへの謝罪。
 そして、自分が抱いていた想いを――
 けれどもそのいずれも口にせず、薫は静かに微笑んだ。
 今、自分が言わなければならない言葉を、きちんと選び取る。そして、そこに全ての想いを乗せて。
 伝える。
「おやすみ……美咲」
 安らかに、眠りにつけるように。
 心からの、祈りを込めて。


 彼女の姿が空気に溶けるように消え去ってからも、しばし花弁は赤い空に舞い続けていた。
 その様を見上げ、薫は短く吐息を漏らす。
 頬に、夕陽が彩りを添える。音も無く黒い瞳から零れた一滴の感情の欠片を、優しく撫でるように。


 何事もなかったかのように、海は変わらず、絶えず潮騒を紡いでいた。