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<PCシナリオノベル(シングル)>


深く静かに・・・
●3種類の想い
 その日も中ノ鳥島上空には青い空が広がっていた。雲は全く見えず、海の青さは空の青さがそのまま写っているのではないかと思える程の天気だった。
 そして海は穏やかで、沖合いにはヨットが1隻浮かんでいた。いや、風任せに漂っているといった方がより正確かもしれない。
「まるで天の海ね」
 そのヨットの上に居た慧蓮・エーリエルは、空を見上げてぽつりとつぶやいた。普段は漆黒のドレスに身を包んでいることの多い慧蓮だったが、珍しいことに今日は水着姿であった。まあ、服を着たまま泳ごうとする者はまず居るはずもないし、上にはパーカーを羽織っているのだけれど。
「ニー」
 ヨットに乗っていたのは慧蓮だけでなく、いつものように黒猫の斗南の姿もあった。だが、その斗南の表情はどことなく浮かないように見えた。
「せっかくのクルージングなのに浮かない顔ね、斗南」
 血のように紅い瞳で斗南を見つめ、くすっと笑みを浮かべる慧蓮。視線はすぐに海面へと移った。
「ニー」
 斗南が『白々しい』と言いたげに鳴いた。慧蓮とは500年以上一緒に居るのだ。慧蓮が何を考えているのか、ある程度は斗南にも分かっていた。
「噂を検証と言うつもりはないわ」
 慧蓮がそんな斗南に答えるかのように言った。
 慧蓮の言う噂とは、ホテルで聞いた『海で死んだ人の霊が出る』という噂のことだ。何でもその霊は、海中へと引きずり込もうとするが、1つだけ『想い出』を蘇らせてくれるという話で――。
 その話を聞いた慧蓮は、すぐにヨットをチャーターしてこうして沖合いにやってきたのだった。
「……ただ、本当に望む物を見られるのなら、思い出せずにいる心の奥の想いも見られるのかしらって思ったの」
 静かに斗南に語る慧蓮。
 想いには大きく分けて3種類ある。1つはいつでも思い出すことの出来る想い。自らの有意識下にある想いのことだ。
 もう1つは今慧蓮が言ったように、思い出せずにいるが心の奥には残っている想い。無意識下へと移ってしまった想いのことだ。
 そして最後の1つは、忘却の彼方へと消え去ってしまった想い――すなわち『無』である。
 このため、実質的には2つと言うことも出来るのだが、何かのきっかけで消え去ってしまった想いが蘇ってくることもあるのだから人の心というものは面白い。閑話休題。
「例えば、私の初恋の相手とか」
 慧蓮はぼそっとつぶやき、謎の微笑みを浮かべた。慧蓮にとって初恋は遥か彼方の出来事。思い出せずにいる想いでもあるし、ひょっとすると忘却の彼方へと消え去ってしまった想いかもしれない。この2つ、どうにも区別がつけにくいのである。
「記憶にある想い出じゃないとダメかしらね?」
 再度つぶやく慧蓮。記憶にある方が想い出を蘇らせるのは容易だと思われるが、こればかりは実際に体験した本人でなければ分からないだろう。

●幽霊を探す理由
 それから慧蓮は、無言でじっと海面を見つめていた。時間にして約30分か。
 相変わらず穏やかな海。けれどもその下に待ち受けているものは、人の心へと干渉をしてくる幽霊である。
「この幽霊さんがくれるものは」
 久々に慧蓮が口を開いた。視線は斗南の方へ向いていた。
「命と引き換えかもしれない強い想い」
 慧蓮は海の中に手を入れた。太陽の熱い日射しで熱されているはずなのに、海水は妙に冷たかった。ぶつぶつと何やら唱えてから、慧蓮は言葉を続けた。
「彷徨える者、縛られた者にとっては渇望に似たその感情はご馳走に思えて」
 淡々と語り続ける慧蓮。斗南は身動きすることもなく、じっと慧蓮の言葉に聞き入っていた。
「溺れさせるとかもあまり感心出来ないし」
 慧蓮は海から手を引き上げた。飛沫が斗南の方へと飛び散り、斗南は慌ててそれを避けた。
「だからね、斗南。幽霊の正体と事情が知りたいっていう、好奇心よ」
 ようやく本心を語る慧蓮。慧蓮が動いた理由は好奇心、その一言に尽きた。何者なのか、そして何故にそのようなことをしているのか、知りたいと思うことは自然な欲求だった。
 慧蓮はパーカーに手をかけ、すすっと脱ぎ始めた。
「さぁ、ちょっと泳いでくるわね」
 自らの好奇心を満たすため、慧蓮は海中へと乗り込もうとしていた。幽霊が手ぐすね引いて待っている海中へと。
「…………」
 斗南がそんな慧蓮を無言で見つめていた。慧蓮の身を案じて。
「大丈夫よ」
 斗南の気持ちを読んだのか、慧蓮が安心させるように言った。
「水が私に害なすことはないわ、知ってるはずよ?」
「ニー……」
 『それは分かっているけれど……』と言いたげな斗南。分かってはいても、慧蓮のことが心配なのだ。
「……それに」
 慧蓮はなおも心配そうに見つめている斗南に対し、駄目押しの一言を放った。
「私の危機に貴方が居なかったことなどないでしょう?」
 そう言って、慧蓮はくすりと微笑んだ。
「ニー」
 斗南が高らかに鳴いた。確かにそうだ、慧蓮が危機の時には自分はどこに居ようとも駆け付けていたのだから。

●忘れられないために
 慧蓮は錨を降ろしてヨットをその場に停泊させると、斗南を残してするりと海の中へと潜り込んだ。
 冷たい海水が慧蓮の身体を包む。慧蓮は自ら深く深く潜っていった。予め海水に働きかけていたおかげか、息は全く苦しくない。溺れ死ぬということは、まずないはずだ。
(さあ、どこに居るのかしら?)
 周囲が次第に暗くなってくる。太陽光が徐々に届かなくなってきているからだ。このまま延々と潜り続ければ、待っているのは漆黒の世界である。もっとも普通の人間であればそこに辿り着くまで息は持たないし、何よりも水圧で押し潰されてしまうのだが。
 幽霊の姿を求めて泳ぎ続ける慧蓮。と、突然慧蓮の身体がぐんと沈んだではないか。慧蓮の足が、強い力で引っ張られたのだ。
(来たわね)
 慧蓮は慌てることなく、海の力を借りてその強い力から逃れた。そして身体の向きをくるりと変える。
 そこには無数の気泡があった。気泡は徐々に固まってゆき、やがて人の形へと変化した。断言は出来ないが、女性のように見えた。これが件の幽霊なのだろうか。
(……何故拒絶するの……?)
 慧蓮の頭の中に女性の声が響いた。恐らく目の前の幽霊が語りかけてきているのだろう。
(拒絶? ああ、そうなのね……そういうことなのね)
 微笑む慧蓮。その笑みはどこかしら自嘲気味に見えた。
(私の無意識が、あなたの干渉を拒絶したんだわ。あなたには触れられたくないと思って)
(想い出を拒絶するの……?)
 なおも語りかけてくる幽霊。しかし慧蓮はこう切り返した。
(想い出を拒絶した覚えはないわ。拒絶したのは、ただあなたの干渉だけ。不幸にも水難で亡くなり、想い出に捕らわれてしまったあなたの、ね)
 足を引っ張られた瞬間、海が慧蓮に教えてくれた。幽霊がここに存在している理由を。
(捕らわれている……私が?)
(想い出という名の強い想いは、あなたがこの世に存在し続けるための大切な糧。人心に干渉し、想い出を蘇らせることによって、あなたはそれを享受する。同時にあなたの存在は、想い出を蘇らせた者へと植え付けられる。すなわち――)
 慧蓮は言葉を切って、幽霊を見つめ直した。
(あなたの存在を、忘れさせないために。あなたが恐れているのは、あなた自身への想いが全て忘却の彼方へと消え去ってしまうこと。……違うかしら?)
(……どうしてそれを……)
 慧蓮の考察に驚いた様子の幽霊。まさしくその通りだったからだ。
(海が教えてくれたのと……残りの半分は、経験を踏まえた上での推理よ。あなたと似たような人を、私は幾人も知っているのだから)
 静かに語る慧蓮。歴史には決して記されることなく忘れ去られていく者たちは大勢居る……つまりはそういうことだ。
(……お帰りなさい、あなたのあるべき場所へ)
 慧蓮は両手を広げた。まるで幽霊を受け入れるかのように。しかし幽霊は動こうとしなかった。忘れ去られることを恐れ、躊躇していたのだ。
(心配はいらないわ。誰か1人でも覚えていれば、人は存在し続けるのだから。それに……想いが忘却の彼方へ消え去っても、何かのきっかけでそれが蘇ることがある。ゆえに、真の意味での忘却は死が訪れない限りはありえない。そう、死が訪れない限り)
(…………)
 幽霊はゆっくりと慧蓮に近付いていった。
(おいでなさい。私があなたを覚えていてあげるから……)
 幽霊が慧蓮の腕の中へと入った瞬間、慧蓮はぎゅっと幽霊を抱き締めた。気泡が激しく発生し、次第に海に溶けてゆく。やがて海に静寂が戻った。
 想い出に捕らわれた幽霊は、もう居ない。

●潮風に消える言葉
「ニー」
 無事にヨットへと戻ってきた慧蓮に対し、斗南は濡れるのも構わずにじゃれついていた。
「終わったわ、斗南。もうこの海に幽霊は存在しない。居るのは……」
 慧蓮はまず頭を、それから胸を指差した。心の中に居る、そういうことだ。
「……これで幾人目かしらね、斗南」
 バスタオルで銀色の髪を拭きながら、慧蓮がぼそっとつぶやいた。名もなき人間を覚えているということは覚えていた。けれども、その全てを今すぐに思い出せるかと問われたならば、答えはNOだった。無意識下に移ってしまった想いもあるのだから。
「思い出せないけれど確かに存在している想い……ね」
 その慧蓮の言葉は、潮風に乗って消え去った――。

【了】