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終戦
焼けるような日差しが目を居る。
58年前の薄暗い場所から、突如炎天下に飛び出したのだ。
軽い頭痛を覚え、レイベルは掌で目元を覆った。
中ノ鳥島には数カ所の砂浜がある。レイベルが立っているのはその内で一番小さなものだった。
中ノ鳥島の西端。ここから海に入って岬をぐるりと回ると、基地への入り口がある。
そして、レイベルはふと気づいた。
謎の少女が見えるという、あの洋館。あの場所は、58年前は基地の入り口だった筈だ。
洋館へ行くか、海から入るか。
シュラインは当たりを見回した。
砂浜は孤立した形になっている。切り立った崖が壁のように視界を遮る。崖の隙間に出来た砂浜なのだ。
「よじ登れない事はないが、面倒だな。だが泳ぐのも……ん?」
モーター音が近づいてくる。レイベルは身体を屈めようとして、周囲に何一つ自分の身体を隠すようなモノが無いことに気づく。
仁王立ちのまま首を巡らせた。
遠くに、小さなボートが見える。こちらに向かって、かなりのスピードで走ってくる。
小さなモーターボートだ。
初老の男性がハンドルを捜査している。口を一文字に引き結び、まっすぐこちらを見ていた。
レイベルに気づいたのか、ボートの速度が落ちる。
レイベルは医療カバンを胸に抱き、砂浜を蹴る。
ボートの後部席に飛び込んだ。
ボートが大きく揺れ、傾ぐ。
「なっ、何だ!?」
運転席の男が悲鳴を上げた。
「そのまま真っ直ぐだ。船は止めるなよ」
レイベルは医療カバンを後部座席に置き、運転席の男の後ろ頭を押さえる。
「左へ曲がれ」
「お前は何者だ……この先は」
男が低い声を上げる。レイベルは無視した。
「あの洞窟だ。入れ」
レイベルが基地の入り口を示す。
「あの基地に、何の用事があるんだ」
男が乱暴にレイベルの方を振り返った。
首の骨を折らぬよう、レイベルは手を離した。
「お前は何者だ?」
レイベルは男の問いには答えず、そう言い返した。
男はハンドルの脇にあるエンジンキーを捻る。モーターボートゆっくりと停止する。
洞窟の入り口が、すぐそばに口を開けている。波が打ち付け、白い泡が海面を覆っていた。
「私は、葛城――葛城宗一郎という。お前は」
「レイベル・ラブ。医者だ」
レイベルは足元のカバンを指で示す。
「若い女のくせに、尊大だな。女医か」
「さて、実際そう若くもないがな。お前はあそこに何をしに行く」
レイベルはケープの間から腕を伸ばし、洞窟の入り口を指さした。
「お前こそ」
「つまらぬ押し問答をする積もりはない。私はせっかちなんだ。ボートから落とされたくなければ答える方がいい」
「落とされる、な。甘く見られたものだ」
葛城を名乗った男が笑った。
年齢の割に太い腕が伸びる。レイベルの腕を掴む。
ひねり上げられる。
「これでも昔は帝国軍人だ。お嬢さん、余り大人を甘く見ない方が良い」
「昔取った杵柄というわけか」
レイベルは腕を背中にねじり上げられたまま、冷静にそう呟く。
「あの洞窟の奥に一体何の用事がある」
「医者が出かけていく理由はただ一つだ。患者を助けるため――他にはない」
レイベルはねじり上げられていた腕を引き抜く。
葛城の胴を蹴りつけた。
斜めに胴を蹴られた葛城が傾ぎ、ボートから外へと放り出される。
レイベルは手を伸ばし、葛城の襟首を掴んだ。
引き寄せる。
葛城の足が水を蹴立てた。
「ではこっちの番だ。葛城、お前はあそこに何をしに行こうとしている」
レイベルは腕一本で葛城の身体を支えたまま、静かに言った。ボートが傾きかけている。
喋らねば沈めるか黙らせるかするまでだ、とレイベルは付け加えた。
「あの洞窟の奥には、終戦を知らぬ哀れな者がいる。私は彼に、終戦を伝えに来たのだ」
「ふん」
レイベルは葛城の身体を引き上げ、運転席に戻した。
「私は、あの奥にいる患者を治療しに行く。それはもしかしたら、お前の目的と同じやもしれん」
「何だと?」
「いい。目的が同じである以上、中まで同道しようじゃないか」
×
葛城はレイベルを、入り口よりもさらに西に回った場所へと案内した。
そこは将校専用の隠し通路だという。レイベルの知る入り口から入れば、死霊兵どもに襲われるのは必至だと葛城は言った。
「なぎ倒して進めばいい」
「無駄な体力は使わないことだ。こっちは若くない」
少し遠回りになるが、と断り、葛城はレイベルを横穴へと引き入れた。
薄暗い洞窟が続く。中は湿った潮の匂いが満ちており、息苦しいほどだ。
熱気はここまで伝わってこないらしく、中はひんやりと涼しい。涼しいが息苦しいというのも気分の悪いものだった。
葛城はレイベルの先をゆっくりと歩いている。あたりを伺いながら進んでいる様子もない。これは一本道なのだろう。
「何処へ通じている」
レイベルは心なし小声で、葛城に話しかけた。
「中枢まで一本道だ。途中合流するところはない。この先に、佐伯数馬がいるというわけだ」
レイベルは葛城の隣に並んだ。二人並んでギリギリというところだ。成人男子ならば一人で――武器装備を抱えて丁度いいというところか。
「怨霊式計算機を、佐伯と呼ぶのか」
レイベルは葛城の横顔を見る。
「怨霊式計算機……か。我々は怨霊機と呼んでいた。怨霊機の核になった男が佐伯というのだ。佐伯は私の説得に応じるだろう。私は彼に終戦を伝えねばならない。しかし、それをさせてはくれぬだろうな……」
「させぬとは」
「礼子が、彼を守っている」
葛城は小さくため息をついた。
「昔話だ。ある男が怨霊機の核に志願した。そして、たった一人で戦う彼を守ろうと、祖の身を捧げた少女がいた。それが礼子だ。桜木礼子。彼女は今、霊鬼兵として彼を守っている。来るはずのない敵をひたすらに待っているのだ。哀れな者だ」
「それで」
「その、哀れな者の存在を記憶の淵に埋めていた愚かな老人がいた。老人はもう、余命幾ばくもない。そんな状態になってようやく思い出したのだ。いや、思い出す勇気を持ったというべきかも知れないな。老人は逃げていたのだ。来るはずのない敵に相対するためだけに、未だ島の奥で待っている――かつての部下のことを。その、恋人のことをな」
葛城が足を止めた。
通路を、鉄の扉が塞いでいる。
懐から鍵を取り出し、葛城はその鍵をじっと見つめた。
「お嬢さんは、どちらを治療しに来たのだね」
「ドクトルと呼べ」
レイベルは葛城の手の中から鍵をひったくった。
「迷っている時間はない。私に開けられたくなければ、とっとと開けるのだな。時間がない。あと僅かしかない命を、悔いの中で終わらせたくはないのだろう?」
レイベルは鍵を手の中で弄ぶ。
右手から左手へ。大きく弧を描いて鍵は移動する。
葛城の手が、空中で鍵を奪った。
そのまま、鍵穴に差し込む。
「安心するがいい。ここに名医がいるんだ、目的を果たすまでに死ぬなんてコトだけはないと、保証してやろう」
重たい音を立て、扉が開いた。
×
「来ました。敵です」
霊鬼兵・零がそう呟いた。
少女の姿をしたままの彼女は、冷ややかな赤い瞳で開いてくるドアを見つめている。
「武装はしていません。私で大丈夫」
制御室の奥で佇んでいた怨霊機に、零はそう囁く。
一歩、前に出る。
目の前の重たい扉が、ゆっくりと開く。
零は走り出した。
×
振り下ろされた手刀が、葛城の首を狙う。
レイベルは葛城の身体を突き飛ばし、その手刀を受け止めた。
対象が変わっても、霊鬼兵・零の攻撃は躊躇する素振りを見せない。
右足を跳ね上げ、レイベルの頭部を狙う。
レイベルは身体を屈め、掴んだままの零の腕を強く引く。
投げ飛ばした。
「葛城!」
レイベルに突き飛ばされて床に倒れていた葛城が、起きあがる。
葛城の見ているものはただ一つ。怨霊機だけだ。
「私はお前を治療しに来たんだ」
葛城に追いすがろうとした零の足元を、レイベルが払う。
空中に飛んだ零が身体を一回転させる。壁を蹴り、レイベルに向かってくる。
「お前たちの待っている敵はいないぞ」
レイベルは零の腕を捉えた。
ねじり上げる。
ひねり上げられたそのまま、零がくるりと回転する。膝が、レイベルの首筋を襲う。
レイベルは零の身体を投げ飛ばした。
×
どおん、と重たい音が響く。すぐ横の壁に、零が叩きつけられていた。
彼女の表情に苦痛はない。視線はレイベルだけを見つめている。
葛城は走った。
目指すは怨霊機。部下、佐伯数馬の元だ。
「佐伯!」
葛城は怨霊機の前に立ち塞がる。
怨霊機の冷たい目が、じろりと葛城を見た。
「帝国海軍少佐、葛城宗一郎である! 佐伯。俺だ」
怨霊機の手が、葛城に伸びる。敵だと見なしているのか、葛城だと判っているのか。その動きは決して素早くはない。
怨霊機の手が、葛城の首を捉えた。
持ち上げる。
「ぐっ……あ。か、数馬ッ……。もういい、もういいんだ……」
息苦しさと苦痛に耐えながら、葛城は口を開く。
「戦争は終わった……。お前の役目も、もう、終わったんだ……」
×
「ドクトル!」
葛城の声が響く。
レイベルは零の攻撃をかわしながら、葛城の方を見る。
彼は怨霊機に持ち上げられ、顔を真っ赤にしていた。
「葛城!」
「来なくていい!」
葛城の腕が、怨霊機の腕を掴む。
つま先が、古びたコンソールの上を這っている。震えるつま先が目指すのは……
ガラスケースに収められた、赤い大きなボタン。
「ここは……爆破するっ……こいつはもう、いらないんだ……。ドクトルは、逃げろ」
「お前を置いていけというのか!」
「いけっ」
葛城のつま先がガラスを割る。
赤いボタンを踏みつけた。
赤いランプが光り、遠く静かにサイレンが響き渡る。微かなサイレンは、どうやら先ほどの通路内だけに響くようになっているらしい。
玉砕用の……自爆ボタンということか。
レイベルは向かってきた零のみぞおちを殴りつけた。
十分な力を込めたレイベルの一撃に、さしもの霊鬼兵も動きを止める。
レイベルは零の身体を肩に抱き上げた。
「葛城」
「ドクトル……彼女はまだ……」
「判っているぞ」
レイベルは葛城を振り返り、唇を歪めて笑みを作った。
「私の患者はこちらだ。最後まで面倒を見るさ」
×
通路を駆け下りる。
爆音が響き渡った。
「くぅっ」
狭い通路の中で反響した爆音が、レイベルの鼓膜を痛めつける。右耳から、血が流れ出す感触があった。
くそ、右の鼓膜を飛ばしたか。
レイベルは足を止めず、通路を走り抜ける。
背後から、熱と炎が迫りつつあった。
レイベルの肩の上で、零が目を覚ます。
「数馬さん!」
身をよじった。
「離して! 離しなさい! 数馬さんがっ」
零の足が、レイベルの腕を思い切り蹴りつけた。身体を押さえていた力が緩む。
零はレイベルの肩から飛び降り、床に転がった。
炎が、彼女の身体を包み込もうと赤い手を伸ばす。
「数馬さん!」
炎の中へ、彼女は飛び込んでゆこうとする。
レイベルは彼女の服を掴んだ。
引き戻す。
「眠らせてやれ!」
レイベルの掌が、零の頬を張り飛ばした。
「だが、お前は生きろ」
「イヤぁっ!」
零がレイベルの腕を引きはがそうともがく。
炎が、レイベルと零を包み込んだ。
「くっ!」
熱風と炎に炙られ、皮膚が悲鳴を上げる。着こんだケープが燃え上がる。
零の腕にも、火傷の水ぶくれが出来る。
レイベルは零の腕を掴み、炎から抜け出した。
体中が痛む。あちこちに火傷を受けたようだ。だが、炎はまだ追ってくる。
洞窟内全体が、恐ろしいほどの熱さに包まれていた。
レイベルは零の悲鳴や叫び声には耳を貸さなかった。引きずるようにして、出口を目指す。
ボートが見えた。
揺れるボートの中に、零を放り込む。
キーを回し、ボートをスタートさせる。
入り口を抜けると、レイベルが入ろうとしていた入り口から、紅蓮の炎が吹き出した。
×
砂浜に零の身体を放り出し、レイベルは医療カバンを開けた。
火傷が酷い。治療しなければ痕が残るだろう。
自分の傷は、放置していても治る。痛みもじきに引くだろう。こちらが先だった。
零が、目を開いた。
「動くな。包帯が巻けん」
レイベルは叱咤し、手早く応急処置を済ませてゆく。
「数馬さん……」
零の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
レイベルは応急処置を済ませ、零に背を向けた。
炎は収まり、水面は静かだ。恐らく、零の姿が目撃されたという洋館も、燃えていることだろう。ここからは確認が出来なかった。
零が飛び起きる。
海に向かって走り出した。
すぐさま彼女の胸あたりまで水が来る。
レイベルは止めなかった。
彼女は足掻きながら、洞窟の入り口を目指している。だが、あまりにも遠い。
「死にたいか」
レイベルは彼女に問いかけた。
零が振り返る。
「死ぬのは楽だ。もっと深くまで泳いでいけばすぐだぞ。好きな男を追って死ぬのもいいだろう。だが、それでは男の墓前を弔う者はおろか、彼の58年間を知るものも、いなくなるな」
零は、波間を漂っている。何度も水をかぶりながら、洞窟の方向とレイベルを交互に見つめていた。
「こうしているお前にはまだ、何か男のために出来ることがあるのかもしれない」
レイベルはざばざばと水に入った。
手を差し伸べる。
「生きるというのならば、戻ってこい。手を貸してやろう」
零の頭が、波の中に消える。レイベルは黙って手を差し伸べ、立っていた。
零は出てこない。十数分にも思える時間、零は浮かんでこなかった。
レイベルは根気強く、手を差し伸べたままの姿勢を保っていた。
零の顔が、波間に浮かぶ。
水を跳ね上げ、零はレイベルの元へ泳いできた。
レイベルの手を取る。
「よし」
レイベルは零の手を握ったまま、浮かんでいるモーターボートに近づく。
零と二人で乗り込んだ。
「やれやれ。互いに、火傷に潮水は効いたな。ああ痛い」
レイベルは金髪をばさりと払い、キーを回した。
「まず、真水で洗わなければな」
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