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<PCシナリオノベル(シングル)>


狙われた瞳

 ふわりと毛の長い絨毯に、先の尖ったヒールが立てる筈の音が吸収される。
 豊かな曲線を描く形の良い胸の<魅せ方>を熟知した、ツンと背を反らせた優雅なウォーキングに、ロビー内に設けられた喫茶スペースで談笑していたエグゼクティヴクリエーター然とした黒スーツの一団が、吸い寄せられるように振り返った。
 トワイライトを髣髴させる藍色から緋色への見事なグラデーションに染め抜かれた袖の長いチャイナドレス。
 濃紺の縁を金糸でかがったスタンドカラーは、キュっと引き締まった印象にまとまり、髪がかかりあまり視界に覗かない首を、より細い物に見せる。
 世の男性諸君にとっては残念極まりないであろう控え目なスリットが刻まれた紅のスカートの裾には、緋銀の糸で模様が縫い取られているらしく、<彼女>の少し固めの印象のあるヒップが左右に動く度に、シャンデリアから降り注ぐきらびやかな輝きに、大きく羽を広げた蝶がホテルのロビーを舞った。
「それにしても、本当に……」
 女性にしては低いハスキーヴォイスが、高い天井を眺めてボソリと一人ごちる。
 しかし、少し離れた場所に存る<彼女>の後ろ姿に視線を奪われたままの男性陣には、物憂げに天を仰いだ濃い飴色をした印象的な瞳が垣間見えただけ。
 <彼女>がフロントで三つ揃えのスーツに身を包んだホテルマンと一言二言、言葉を交わしホテルの奥に姿を消す。
 その最後の揺らめきまで見送った彼らは、僅かの間だけそれまで何を話していたのかを思い出すことに労力を裂き、そしてほんの少しの余韻に浸りながら元の自分達の世界へ帰って行った。


「ほーんと、さっきのロビーでも思ったけど」
 ぺた。ぺたぺたた。
 主に結婚式などで親族に利用される更衣室の片隅で、彼女――アンジェラは羨望とも皮肉ともつかない溜め息を吐き出した。
「こぉぉんなトコまで大理石張りってのは、そうそうお目にかかれるものじゃないわよねぇ」
 ぺたぺたぺたぺた、ぺぺぺぺた。
 備え付けの化粧台。大きな鏡が埋め込まれた壁はレプリカとは明らかに一線を隔する天然の大理石。
 遠慮なく腰を下ろした椅子も程よくクッションが効いていて、どれほど動こうがスプリングの軋む音一つ立てはしない。
「ここまで来ると、なんだか妙な<貧富の差>ってのを意識しちゃうわぁ」
 ぺたぺしぺたぺし…………グイッ。
「よし、完了」
 なんとも形容し難い色に変わり果てたメイク落し用コットンを手近なダストボックスに放り込み、<アンジェラ>→<室田充>へと華麗なる転身――の逆を遂げた青年は、小さな鞄に仕舞い込んでいたせいだけでヨレたわけではないスーツの上着に、両手を通しながらすっくりと立ち上がった。
「っと、いけない。忘れるところだった」
 先ほどまで身に着けていた宝飾品や衣装からは少し離れた場所に置きっぱなしだった、僅かに銀色がかったウィッグを充は拾い上げる。
「なんだか、ホント場違いって感じ」
 長かった髪は短くなり、ふくよかに盛り上がっていた胸は今は地平線が見える大地のごとくまっ平。
 歩き方さえ様変わりした充は、会社帰りのサラリーマンの荷物にしてはやや大きめの旅行用鞄に丁寧にウィッグを仕舞い込むと更衣室の扉に手をかける。
 開ける視界に写るのはロビーと変わらぬ絨毯が敷き詰められた廊下。クリーム色の壁には品のよい明かりを仄かに咲かす常夜灯。
 こげ茶の革靴が、少しだけ鼻白むように一歩を踏み出す。小一時間前まではほんの少しの気後れも感じなかった――否、一種の高揚感で忘れていた――世界へ。
「なーんでこんなことになっちゃったんだっけ?」
 アンジェラでいた時と唯一変わらぬ飴色の瞳が、ほんの少しの不安に小さく翳った。


「……あんた、綺麗な目だな」
「は?」
 らしくない返事をしてしまった。
 思わず充としての反応が出てしまったことを悔恨しながら、いきなり声をかけてきた赤毛の青年を、アンジェラは気を取り直した優雅な笑顔で見返す。
 場所は新宿駅。
 乱立する映画の広告板を背中に、雑多な人種で溢れ返る街路樹付近で<友人>達とパーティ後のお喋りに興じていたアンジェラは、自分より年若い突然の乱入者の姿をしげしげと眺めやった。
 燃えるような赤い瞳と髪。それが生まれついてのものかは判断できなかったが、褐色の肌だけは、日本人がどうこうして手に入れられる色ではない。
 とどのつまりが、外人さん。
 綺麗に蝶のペインティングが施された爪で、二・三度こめかみを突付く。
 えぇーーっと、知り合いにこんなん……いないわよねぇ? 今日のパーティでも見かけた覚えはないし。
 アンジェラは記憶の辞書を手繰りながら、数多い知り合いの中に彼という該当者がいないことを断定した。これだけ印象的な外見の青年ならば、一度見たことがあれば自分が忘れる筈はないのだ。
 無論、その出会いがネットの中――だと事態は変わってくるのだが。
 しかし、それでもいきなりアンジェラにこんな風に声をかけてくる人間は、インターネットの中で<癒し系・アンジェラ>として日々を送る彼女の記憶にもない。
「何か、御用かしら?」
 俄かに色めき立った友人達を軽く一睨みして黙らせ、アンジェラは長い付け睫毛に縁取られた飴色の瞳を瞬かせた。
「見事な限りだ」
 肌が触れ合うほどに不意に接近され、アンジェラは無意識に体を引く。無機質な笑みを浮かべる赤い瞳に、なぜだか全身が泡立つように身震いする。
「ちょっと……っ!」
「今夜、そこで待ってる」
 いきなりのマナー違反を咎めようとしたアンジェラの手の中に、一枚の紙切れが忍ぶ。
「いいか……必ず、来るんだ」
『だから何なのよっ! もうっ!』
 継ぎたいはずの二の句が喉を震わせる前に、青年はアンジェラの視界の中でクルリと踵を返した。
 煌くネオン光に赤い髪が、先鋭な炎のようにアンジェラの網膜を灼く。
「――ちょっ! アンタの名前は!!」
「……エイラム・ヴァンフェル」
 途切れることのない人いきれの中にその存在を掻き消しながら、青年の背中がそう答えを返したのを、アンジェラは残された紙片をぼんやりと眺めながら聞き取った。
 友人たちの聳やかす声が耳を賑わせたような気がしたが、なぜだか記憶はそこから曖昧に霞んでいる。
 そして気がついたときは赤毛の青年――エイラムに指定されたホテルの前にアンジェラは立っていたのだった。


 渡された紙片に記されたルームナンバーをもう一度確認して充は深々と溜息をこぼす。
 手荷物のほとんどはフロントに預けたので、今は身一つで随分と身軽な状態。しかし、心はどこか暗雲を孕み重く濁っていた。
 やっぱりねぇ、そうなんじゃないかと思うんだよね。
 声には出さず、自分の中に宿った思いを確認する。
 ふと視線を馳せた腕時計の指し示す時間は、普段ならば充が<アンジェラ>となり自宅のパソコンの前で自由を満喫している時分を表示していた。
 鈍紅に塗られた扉がいくつも連なる中、充は一つの扉の前でゆっくりと足を止める。
 インターネット社会で色々な情報を得られる彼だから、ではなく、多少この手の話題に耳聡い者ならば知らぬ筈はない。
 最近話題の猟奇事件。どこかしらから圧力がかかっているのか、警察はおろか殆どの報道機関からも情報が齎される事がないので、いまいち信憑性に欠けないわけでもないのだが。
 なんでも眼球を奪われ、替わりに白い義眼を入れられるのだという。
 被害者の数は既に十数名に及ぶというが、それらの年齢・性別はバラバラ。
 しかしたった一つだけ、共通点があった。
 被害者の全員が<綺麗な瞳>を自慢していたという事だ。
「だって、開口一番『……あんた、綺麗な目だな』じゃねぇ……疑いたくもなるってもんだよね」
 立ち止まった扉に刻まれたルームナンバーを確認するようにそっと右手の人差し指で充はなぞった。
 その指には、先ほどまで施されていた蝶のペインティングはもうない。
 声をかけられた時は<アンジェラ>の姿だったが、なんだかそのままの姿で彼の元を訪れては怒られるような気がしたから、既に魔法を解いて<室田充>という、29歳サラリーマンの素顔に戻っていた。
 唯一、飴色の仮面を被った瞳を除いて。
「さてっと、行くとするかな」
 危険を察知するシグナルは先ほどからけたたましく鳴り響いている。しかし、ここで思い留まるほど、充は単純な生活からはかけ離れた世界に首を突っ込むことに慣れてしまっていた。
「ま、何かあったらフロントが気付いてくれるでしょ」
 その為に宿泊の予定も何もないのに、フロントに手荷物を預けたのだから。
 身元の確認と、万一のことがあったらすぐに捜索の手が伸びてくれるように。
 高ぶる心音を宥めるように大きく息を吸い込んで、充は迷わずドアをノックした。


「一人で泊まってるの?」
 見渡した室内にはベッドはない。つまりはリビングルームとベッドルームが仕切られた二間以上で構成されている部屋だということだ。その分お値段のほうも跳ね上がるのは、言わずもがなである。
 クッションの効いたソファに深々と身を沈め、充は向かい合わせて座るエイラムの真紅の瞳をマジマジと眺めた。
 まるで血を筆で刷いたような色合いに、最初に彼を見た時の背筋が寒くなった感覚が蘇って来る。
「まぁな、長い滞在ではないし。それに日本人はこういうゴージャスな雰囲気に弱いんだろう?」
 そういう人間は一部に限定されるんだけどね。
 相変わらず有機的な感情を見せないエイラムの瞳に、彼の言葉のどこまでが本心なのかを見抜けず、充は口にしようとした言葉を呑み込んだ。
 最初、扉の前に充の姿を認めたエイラムは、少しだけ不信感をあらわにしたが、充の瞳を見てすぐに事情を悟ったらしく、無言のまま彼を室内へと誘った。
 アルコールにするか、それもともノンアルコールにするかと尋ねられ、外聞に違わず高級感に満ち溢れた室内をしげしげと観察してしまっていた充は『ノンアルコールで』と、やや決まり悪い心地でリクエストを返した。
 その結果、二人の間を隔てるガラス製のテーブルの上には、よく磨かれたコップにおそらく烏龍茶と思しき液体が氷を添えられて鎮座している。
 使うようだったら、と渡されたストローの先で氷をコップの中で転がせば、カランと言う冷たく澄んだ音が会話の途切れた室内に響いた。
「なんだ、喉は渇いていないのか?」
 勧められて、充は僅かに首を横に振る。
 先ほどから微妙に鼻腔を擽る匂いに、とてもではないが素直に出されたソレに口をつける気にはなれない。
 <アンジェラ>には友人が多い。
 それだけ、色々な職に従事する人々と出会う機会は多くなる。
 今日のパーティに参加していたメンバーの中にも医療に携わる者がいた。その<彼女>に以前、少しだけ嗅がせてもらった薬品の匂いは充の脳に記憶され今現在に活きている。
 幽かだけど……匂っちゃってるんだよねぇ……麻酔薬。
 これだけで目の前の青年を猟奇事件の関係者だと決定付けるのは尚早なのかもしれないが、これまでの出来事全てを組み上げれば、完成するパズルは一つの絵しか示さない。
 そんな状況下において、出された飲み物に素直に口を付けるほど、充は大胆でも考えたらずでもなかった。
 しかし、このままでは事態には何の変化も訪れはしない。
 充はガラスのテーブルの下で、両手を固く握り締めた。
 にこやかな笑みを浮かべたままの顔に、密やかな緊張感が走り抜ける。
「エイラム――って言ったよね。君、人間の瞳なんか集めて何をやってるの?」
 この上ないほど単刀直入な問いかけ。
「別に。蘇らた死者に埋め込んでいる瞳がどうやっても腐敗していくから、代わりを調達しているだけだ」
 ストレートな回答。
 微塵の動揺も見せず、そう語ったエイラムに充は大きく目を見開いた。
「……って言って、お前は俺の話を信用するのか?」
 カッと充の頬に朱が差す。
「冗談?」
「さぁ? 信じるも信じないもお前の自由だ」
 テーブル越しにエイラムが大きく身を乗り出し、優雅な仕草で充の顎に指をかける。
 引き寄せられて息が絡む。
 脳髄の奥にジンッとした痺れを感じつつ、充は受け流すように真紅の瞳をまっすぐに見返した。
 無機質な輝きに、一瞬だけ熱が灯る。 
「本当は漆黒の瞳が好きなんだが……たまにはこういう色の瞳も悪くはない」
「そう言ってもらえるのは嬉しいケド、所詮作り物だからケッコウ内心複雑な感じだね」
 今にも舌を這わせそうなほど瞳に執着されるに至り、充は緩慢な動作でエイラムを払い退けた。
 そしてゆっくりと飴色の瞳を手で覆い、この夜最後の魔法を解く。
「悪いけど、これカラコンなんだよね。色もそうだし、専門の人に作ってもらったってのもあって、見分けはほとんどつかないんだけどさ」
 エイラムの表情が驚愕に動くのをどこか満足した思いで眺めつつ、充は飴色のレンズを、濃い琥珀色をした液体を湛えるグラスの中にそっと落とした。
「それに……君の言ったことがホントか嘘かはわからないけれど。僕の瞳を上げるわけにはいかないんだ」
 エイラムの体が対面のソファに沈むのを漆黒の瞳の端に映しながら、充は穏やかな表情で目の前のグラスをストローで掻き混ぜる。
 既に溶けかけて角の取れた氷が、グラスの中でカチカチと鳴る中に、思い出したように何かが躓くような音が響いた。
「個人的には、君の話は真実だと思う。それを思わせるだけの要因が少なくないから。それが実現可能なのかどうなのかはこの際棚に上げてしまって」
 それにこの世界には不可思議なことがあまりに多いからね。
 そう付け加えた充の言葉に、僅かにエイラムの表情に苛立の色が走る。
 その色が激昂に変わる前に、充はただ静かに自分の中にある思いをひとり言のようにゆっくりと紡いで行く。
「からかわれたのかと思った時は、ちょっと迷いもしたけど。でも、君の言葉に嘘があるとは僕には感じられなかった」
 目の前に座っているのは猟奇事件の犯人。
 そう分かってしまっても、何故か充の心は波のない水面のように穏やかで澄みきっていた。
 それは、何かの覚悟にも似ていて。
「僕は君が何の目的で、何を作ってそれに人間の瞳を埋め込んでいるのかは知らない。けれど、たった一つ言えるのは」
 一度目蓋を落とし、そしてゆっくりと相手を温かい視線で包み込む。
「そんなことが可能な君に、こんな手間とリスクをかけさせるってことは……その作成されたモノが、与えられた瞳を望んでいないってことじゃないのかな?」
 カラン、と一際高い音が室内に染み渡った。
 充は弄んでいたグラスからストローを引き抜くと、そっとエイラムの前に押しやる。
「望まれないものは代わりが必要ない――違うか、代わりになるものが望まれるほど、この世界は安直には創られてはいない……そういうこと」
 ソファに深く体を預けエイラムは動かない。
 室内灯の光に赤髪が夕焼け色に燃え、彼の表情を充の目から隠してしまっていた。
 それでも、充は言葉をつなぐ。
「それにね、僕の瞳は君が求めているものほど『キレイ』じゃないから」

 刑場に引き出された断罪される者。
 覚悟を決めた咎人に恐怖はなく、ただ自分の胸の内にある全てのものを吐露し、最後の癒しを求める。

 ……僕は汚い人間だから。
 明るくふるまってはいるけれど、それはいつだって何かの裏返し。
 そして何かに代わりを求められずに、まだココに踏み止まっている。
 ――もう、命がけの恋なんて出来ないから。
 したく、ないから。
 だから、僕は汚い人間。

 告白は断罪。
 そして癒し。
 <アンジェラ>は癒しの具現者。
 けれど、それはひょっとすると…………

「だから、君ももうこんなことは終わりにしたら? いつまでも得られないものに手を伸ばしても、最後には自分が傷付くだけ――――」
「帰れ」
 不意に反対側から腕をつかまれた。
 引きずられるように立ち上がった時に、膝がテーブルにぶつかり、その衝撃で派手な音をたててグラスが倒れる。
 今にもなくなりそうなほど小さくなった氷が、無秩序にガラスのテーブルの上に散乱し、零れた濃琥珀色の液体がポタリポタリと室内の絨毯にシミを作った。
 水深の浅い海で、飴色をしたコンタクトレンズが泳ぐ。
「ちょっと! いきなり何をっ」
 追い立てられるようにドアに急かされ、充が抗議の声を上げたが、それはエイラムの無言の反応に一蹴される。
「今日話したことは全て冗談だ。瞳の美しいものを眺めるのが俺の趣味だが――そもそもコンタクトを使うヤツに興味はない。そういうことだ」
 だから忘れろ。
 あまりに理不尽な物言いに、さらに充が言い募ろうとした瞬間、訪れたときと同じように音もなくドアが開かれた。
 ただ違うのは、招き入れられるか、見送られるか。
 背を押されて廊下に一歩を踏み出す。
 手を離され、バランスを崩した充の体が大きく傾いだ。
「……お前には黒い瞳のほうが似合う」
 躓きかけ、右手を廊下に敷かれた絨毯につく。突然の重圧に手首が悲鳴を上げ、充は鮮烈な痛みに眉を寄せる。
 だから、充の耳には扉の閉まる寸前、エイラムが投げた言葉を確認することは出来なかった。


「うわっ、今頃来ちゃったよ」
 既に終電の終わった新宿駅で、タクシーを待つ人の列に混ざりながら、充は小刻みに震えだした手を固く握り締める。血の気を失ったそれは、驚くほど青白く染まっていた。
 エイラムがなんと言おうと、彼が猟奇事件の関係者であることは間違いない。
 そのターゲットに選ばれながら、何事もなく生還できたことを、そのときになって初めて実感し、充は硬く固めた拳をゆっくりと解いていく。
 思わず握り締めてしまい、クシャクシャになってしまったパーティで頂戴したタクシーチケットを、落とさないようにそろそろとポケットの中に移す。
 高揚した気分はまだ暫く落ち着きそうになかった。
 今から帰ると自宅に戻れるのは、日ごろであれば既に就寝している時間。
 けれど、幸運にも今日は金曜――否、既に日付変更線は回ったから土曜日。
 眠れぬ夜を過ごす者達が、ネットという世界でその生を謳歌しているに違いない。
 もし何だったら、この手の話が好きそうな友人を明日朝一番で茶のみ口実で捕まえるのもまた一興。
 不意に駆け抜けた心地よい冷気を孕んだ風が、充のジャケットの裾を攫った。
 見上げた空には、いつもと変わらぬ都会の夜空。様々なネオンの光に照らし出されて星々の瞬きを飲み込んでしまっている。
 それはまるで、多くの不可解な事象を内包したまま、素知らぬ顔で流れ続ける現代社会を写し取る鏡のようで。
 列に並ぶ充の一人前。飲んで正体不明寸前のサラリーマンの丸い背中がタクシーの中に押し込まれ消えていく。特有の排気ガスの匂いが鼻先を掠めた後に、充の漆黒の双眸の前で音もなくタクシーのドアが開かれた。
 行き先を告げると、タクシーがゆっくりと走り出す。
 徐々に速度を上げる反動に任せて、後部座席のシートに身を沈める。
 電車で帰るつもりだったけど、チケット貰っておいて良かった。
 深夜料金で割り増しになるタクシー代に、充は不安を覚えることなくそっと瞳を閉じる。
 一瞬だけ目蓋の裏に赤い色が過ったが、もう言い知れぬ不安は襲ってこなかった。

 美しい瞳を求めるていた、エイラム。
 彼の目的が、例え理に叶い人道的なものであったとしても、充は彼に自分の瞳を与えることは絶対に出来なかっただろう。
 それは決して保身の為ではなく、美しいと類されるに自分自身が値しないと誰よりも充が思っているから。
 自分は汚い人間だから。
 失う怖さに怯えて、弱く脆い人間だから。
 けれど、けれど。
 聞き取ることの出来なかったエイラムの言葉は、充の信じる思いとは何か異なる事を告げていたような気がする。
 もう、確認する術はないのだけれど。

 いつの間にか手の震えは止まっていた。