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<PCシナリオノベル(シングル)>


鬼社
 いつもならばまず出される事のない上物の煎茶、玉露とまで行けない財政を匂わせたりはしているが、丁寧に淹れられて澄んだ香りの湯気は鼻腔を擽って清しい。
「全く…」
興信所の主…草間武彦はいつものデスクに足にをかけた行儀のよろしくない体勢で、煮詰まって泥のようにカップの底に残った珈琲を一息に干し、取り出した煙草に火を点けた。
「その程度の調査、自分ですればいいだろう…それこそ弟子を使え、弟子を」
知った仲であるからこそ遠慮のない草間の言い分に、久我直親はクリップで纏められた書類に目を通しながら、手にした湯飲みを茶托に置いた。
 長身に隙のないスーツの着こなし、緩く撫でつけられた黒髪に強い意志を湛えた瞳の黒…ついでにこれまでかというほどに尊大な雰囲気を纏った彼がここの興信所の所長だと、言って信じる者は9割に昇る事は保証する。
「情報収集こそが興信所の本来の仕事だろう。それとも妙な事件でないと満足出来なくなってるのか?怪奇探偵」
本人が嫌がる渾名を敢えて口にし片眉を上げる直親。
 本日は依頼人として来訪した為、客人待遇である…とはいえ事件の持ち込みではなく、仕事の関連で必要になった調査を草間に頼んだだけの事だ。
 何れは陰陽師の旧家を束ね、現当主に比肩する…どころか凌ぐ実力を持つとも評されて依頼は引きも切らない多忙の身、情報収集位は使える所を使わねば。
「では、報酬は口座に振り込んでおこう…それともツケの溜まっている飲み屋に直接払っておいてやろうか?」
「いらん世話だ」
軽口の応酬が続く中、コンコン、と控えめなノックが扉を叩く。
「はい」
短く応じたのは、この夏、草間に降って湧いた義妹…である。名目上は。
 インターフォンがあるのに、何故ノック?と開かれた扉に視線が集まる。
「いらっしゃいませ。ご依頼ですか?」
その彼女の向こうに人の姿は見えない。
 しかし声は聞こえる…しゃくり上げる、子供の声だ。
「どうぞ」
彼女に促されて室内に招き入れられたのは…年の頃は10かそこらの小柄な少年…インターフォンに手が届かなかったのかと納得する。
「お、おねが…」
左手でしきりに零れる涙を拭い、少年は草間と直親のどちらに声をかければいいのか悩んだ風で、結局手前のソファに座る直親に固く握った右拳を差し出した。
「おねがい、しま…ボク、の友達、助け…下さ…」
小さな掌にはくしゃくしゃに握られた幾枚かの紙幣。
 草間は机から足を下ろし、少年に応接ソファを示した。
「話を聞こう」
柔らかく背を押されて直親の前に腰を落ち着けた少年は、吃りながらその依頼を話し始めた。


 荒れ果て、詣でる者もなき社…大人ですらその境内に足を踏み入れるのは年に一度、神木とされる楠に張られる注連縄が張り直される時のみ、近隣の子供達は外出を禁じられ、その日のみに訪れる神職も必ず二人が組みとなり片の手首を繋ぎ合っての作業にあたる、というから何ともものものしく厳重である。
 当然として、立ち入りを禁じられたその場所は大人の目が届かず、子供達の格好の遊び場になっていたのだという。
「子供は恐れを知らないからな、全く」
話を聞いて貰えた安堵と泣き疲れた為か、少年はソファに凭れて寝息を立て始めている。
 そして今日、少年の友人が神木に登ろうと注連縄に足をかけた…途端に縄が切れ、木の中から現れた「女の人」に彼は掴まってしまったのだという。
「楠は祟るというからなぁ」
どこぞの田舎の老人のような感想を紫煙と一緒に吐き出した草間は天井の一画に視線を据えた。
「だが、注連縄を切って現れたのが鬼だというのならば…木霊では有り得ない」
 友人を捕らえた和装の女はにこう告げた。
『この子の親御を呼んできやるなら、お前は帰してやろうほどに』
若く美しいその女の…額には角があったという。
 直親の指摘に眉を上げ、草間は吸い殻で一杯になった灰皿の僅かな隙間に煙草をねじ込んだ。
 禁域へ立ち入った事を知られれば叱られる…身近な大人に、最も信頼すべき両親に明かす事なく真っ直ぐに興信所に訪れたのはそれを恐れての事ではない。
 たとえ大人でも禁域にこれ以上人を入れるに行かない訳を少年は神社の場所を書き記しながら説明した。
 鬼は、子の命と引き替えにその二親を食らうのだという。
 そのメモと一緒に机上に並べられた皺だらけの千円札は、少年にとって精一杯の金額だろう。
「鬼ならば陰陽師の領分だな」
直親の言に、分かり切った風でいながら草間が問う。
「報酬はごらんの通りだが?」
「仕事は仕事だ」
纏めるに多少の苦労が要る三枚の札を揃えて二つに折ると、直親はそれを懐に入れた。
「そうか、行ってくれるか」
どこかほっとした風の草間に恩を売る口振りを返す。
「他に話を回そうにも時間がないだろう?」
只人が、長く鬼の邪気に接していれば身体に障る。
「まぁな。彼はしばらくここに寝かせておこう。神社の場所を清書させたから、持って行ってくれ…零」
草間の呼び掛けに、彼の義妹…零、が四つに折った紙片を差し出した。
 受け取りかけた手が、ふと止まる…草間が口にしたその、名の持つ響きに。
「久我様?」
小さく首を傾げた少女に、直親は「…いや」と曖昧な返事で地図を受け取った。
「お仕事…頑張って下さい」
「あぁ」
笑みを絶やさぬ少女の声を背に受け、直親は興信所を後にした。


 竹林を断つ形の細い道、渡る風はまるで人を招くような細い枝先を揺らして頭上から葉擦れの音を降らせる。
 奇妙な既視感を覚えるのは、懐かしい名を耳にしたせいか。
 見上げれば、トンネルのように枝先を合わせた竹の間に濃淡の重い雲が流れる様が見える…雨が近い。
「…ここだな」
日の陰りに竹林は影を深め…その狭間に隠れるような朱の鳥居の前で直親は足を止めた。
 否、それはもう朱と呼べるような代物でもない。
 風雨に晒されて剥げ落ちた彩はくすんで変色し、意図的に忘れられた宮には似合いの風情だ。
 鳥居に掲げられた名は、もう読めぬ程に朽ちているが、地図を書きながらの少年の言葉を思い出す。
「みんな、いつもは『御社』って呼んでるんだ…おばぁちゃんはホントの名前は秘密だから、口に出しちゃいけないよッて…」
拙い文字で、駅からの道を懸命に記した…鳥居を模して四本の線を組み合わせた記号に横に添えられる本来の名は、『鬼社』。
 その鳥居を境に渦巻く邪気。
 神域に有り得ない、その濁った気は鬼が発するそれ。
 だが直親は躊躇する事なく、その中に足を踏み入れた。
 ねとりと肌に絡む、慣れた感覚…ヒュ、と鋭く吐き出した息で纏い付く邪気を断ち切る。
 濃密に空気を澱ませ、満ちた邪気の場に捕らわれた子供は、そう長く耐えれまい…僅かな傾斜に木材を埋め込んで段を作る、境内へと通じる参道は竹林の間をぬう形で続き、朽ちて茶色く変色し、半ばから自重に折れた竹もそのままになっている。
 手入れの成されていない竹林が鬱蒼と作り出す影は濃く、荒んだ印象を強め、それを更に助長するのは連ね鳥居…入り口のそれと同じに破魔の朱色を失っている。
 鳥居とは、神と人との世界を隔てながらも本来交わらぬはずの場を固定し、不浄を通さぬ結界の役割を果たす。
 が、詣でる者もなき社に異様な数で連なる鳥居、それでいながら朽ちるにまかせた…これは、外からの穢れを防ぐものではない。
 内から穢れを逃さぬ為のものだ。
「土地の者は…何をそこまで恐れてお前を封じたんだ?」
連ね鳥居が途切れた先に広がる境内…まず目につくのは楠の巨木、それを祀る形の小さな社、その根本に落ちた注連縄と…女。
「……子を迎えに来たのかや?」
ぐったりと力を無くした子供を抱く、女の黒い光を宿した瞳が直親に向けられた。
 透石膏のような白い頬に添って滑る長い銀の髪は足下まで流れ落ち、纏った着物は肩の真紅から裾へと向けて徐々に淡く変じて純白となる。
 女は緯線を腕の中の子供に戻し、鮮やかな朱唇で言葉を紡ぐ。
「坊よ、可哀そうにな。父御も母御もまだ来られぬな…じゃがもうしばし待ちや。すぐに二方揃ってお出でになるに違いない…」
抱いた子供に優しく声をかける、その額の両脇から伸びる、角。
「この男が戻らねば、今度こそ坊を迎えに来てくれよう…」
寝付いた子供をあやす仕草で…女は、その鬼女は唇の両端を上げた。
「さすれば骨も残さず食い殺し、妾が坊の母となってやろう」
愛おしげに子供の髪を撫で慈しむ瞳が、ゆっくりと上げられてもう一度、直親を見据える…その芯に宿るのは、狂気。
「ぬしは死ね」
敵意はなく、ただ視線に込められた邪気が貫く鋭さで直親へ襲いかかり、弾ける音が空気を震わせた。
「おぬし……?」
頭を割るその筈が、寸前で弾かれた邪気は四散し、直親は僅かに髪が額に落ちかかるのに不快な表情を浮かべただけである。
「俺の言っている事が理解出来るか」
くしゃりと指を入れ、整えられていた髪を下ろす。
 前髪の狭間から覗く眼差しが、強い。
「その子を渡せ。お前の邪気は人に障る…長く傍に置けば殺す事になるぞ」
「何をそのような…」
鬼女はくつ、と喉を震わせた。
「妾は母じゃぞ」
有り得ないと笑う。
 直親はひとつ息を吐き、鬼女を見据えた。
「口伝のみで何処まで信憑性があるかは知れんが…近隣の古老に子を取る鬼の話を聞いた」
 昔、この地域には雨毎に氾濫する川があったという…その度に作物は実るより先に水に流され、近隣の村の生活は貧しく、苦しかった。
 だが年貢を取り立てる役人は年毎に代わり、村人の窮状を知る事なく定められた穀を容赦なく持ち去って行く…ある年。役人の子が水鎮めの社の神木を汚した祟りに命を落とした。役人の妻は狂い、子の骸を離す事なく神木の根本で息絶えたという…そうして死後、親を殺して子を攫い、その子を食らう鬼となったのだという。
「何をぬけぬけと…!」
鬼女が眦が吊り上げた。
 面差しの美しさはそのまま、秘めたる狂気の顕れに、銀の髪が乱れて波打つ。
「流行病で夫が死した途端に吾等を神域に引き出した者達が!子は神木に吊されて贄とされた!妾は幹に縛られ吾が子が弱って行く様を、子の身体が烏に啄まれるのを、首が腐って落ちるのを舌を噛む事も許されずに見続けるしかなかった…!」
 鬼女はふと笑んだ。
「あの年だけは不思議と雨が降らなんだ…子は、水を請う為に、妾の嘆きで雨を呼ぶ為に殺されたのだ…」
腕の中の子供に、愛しげに頬擦る。
「今度こそ、母様が守ってやろう…誰にも渡さぬ、誰にも侵させぬ…ずっと母様と一緒じゃ離しはせぬ…」
鬼にも、なろう。
 直親は僅かに眉を顰め、再度鬼女に呼び掛ける。
「誰も、お前の子の代わりになりはしない。自分の子を失った悲しみを知る者が、同じ罪を犯すのか」
「妾の子を殺した者の中にも、子を持つ親は多かったぞ」
ゆるりと首を巡らせて、鬼女は笑む。凄絶、としか呼べぬ微笑み。
「そう…そうか。ぬしは親の心を知らぬのだな?早くから母のぬくもりと離されたな?父はぬしを許す者ではなかったな?」
すい、と足を踏み出す素足の白さが目を引く。
「可哀そうにの…寂しかったろうな。妾が抱いてやろう、眠るまで歌ってやろう、何に代えても守ってやろう、妾が母じゃ…」
いつの間にか、周囲は暗く、鬼女の姿のみが薄く闇に浮かび上がる…鬼を出さぬ為の結界、だがその内は鬼女自身のテリトリーとも言える。
 動こうとしない直親に歩み寄り、見上げる…鬼女は子供を片手で抱き、空いた掌を直親の頬に添えた。
 見上げる鬼女の目は、慈愛を湛えて優しい。
「…残念だが、不自由はしていない」
鬼女の表情が凍り付いた。
 幻惑に捕らえた筈の獲物は、彼女の細い首に一枚の呪符を巻き付けるように掴む。
「お前の言うそれはどれも、身に過ぎる程与えられた…親でこそ、なかったがな」
誰もが持つ親を慕う心を操り、虜とする鬼女の力は直親に及ぶ事なく霧散した。
「な、何故…?」
「さぁな」
 鬼女は子供を取り落とした両手で直親の腕にギリと音を立てて指を立てた。
「その衣は元は白装束か…殺した人間の血で染まったか」
だが、直親は痛みに眉一つ動かすでなく、鬼女の狂気と敵意に満ちた眼差しを受け止めた。
「母である事が望みならば叶えてやろう…1000の子を持つ母であった鬼女は他の親の子を食らって生きていたが、たった一人の子を見失ってその情を知り、以来、子を守る神となった…鬼子母神なら、お前の哀しみも苦しみも悼んで受け止めてくれるだろう」
服を通して腕に食い込んだ爪は肌を破り、血が滴る…鬼女の衣に落ち、純白の裾に紅の花が散ったようだ。
「オン・ドドマリギャキティ・ソワカ」
真言は直親の気に炎の形を得、一瞬の業火に鬼女は声すらなく灰と化した。

 
 長く空気の流れすらなかった場…連ね鳥居をぬって届いた風音が直親の背から吹き抜け、その足下…小さな灰の山をさらさらと流して共に空に舞い上がり…後に残されたのは小さな若木の鮮やかな緑は無花果の…別名を吉祥果という。
 鬼子母神が、人の血肉の代わりに食す果実。
 直親は倒れたまま意識のない少年の呼吸と脈を確かる…少し顔色が悪いが、命に別状はない…最も、もう二度とこの社に足を踏み入れようとは思うまいが。
 けれどもこの社に鬼は居ない。
 子を守る母の心だけを残した鬼女が救われたかは、直親自身にも知ることは出来ない。
「因果なものだな」
善も罪と過ちに転じるに何と容易い事か。
 それで居ながら、何処までも変わらず遺される想いがある事も。
 鬼女の幻惑に重なるべき姿は、母のそれでなく、もう呼びかける事のない思い人の…。
「……零」
久しく唇に乗せる事のなかった名を、呟く。
 半ば無意識であった独言は、直親自身の耳に届く事すらなく竹の葉擦れに紛れて消えた。