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++ 死神の噂 ++
「ホラースポットねえ……またえらく時期外れな……」
三下の机の上を勿論当人に無断で漁っていた凪が、企画書らしきものを発見して目を通す。
「あ、駄目ですよ凪さんそれは社外秘なんですから。返してください〜!」
編集部の隅で凪のためにコーヒーを淹れていた三下が、慌てた様子で机へと戻ってくると、凪は企画書を取り戻そうと手を伸ばしてきた三下の額をぴしゃりと叩いた。
「うるさい馬鹿。黙れ馬鹿。ああ……もう場所は決めてあるのね。そこのことを記事にするってこと、へーえ。三下この場所ってのはどーやって決めたのよ?」
「読者からコンスタントにそーゆー手紙が届くんですよ。それでせっかくだから特集でもしてみようかってことに……」
「へーえ。あ、でも面白そうなのもあるわねー」
紙片を机の上に置くと、凪は企画書の一部を指で指し示す。
そこには『死神が住む病院』なる文字。
「今は廃屋と化している病院の建物に死神が出るという噂がある……病院の近くに行くと、女の呼び声が聞こえるらしい……ですって。でもコレ私も聞いたことないわよ……変ねえ……この手の情報は網羅してるはずなんだけれど」
凪はアトラス編集部が扱うような――幽霊やオカルトといった情報を集めることを趣味としている人物である。面白そうな話題がある時など自分から編集部に売り込みにくることもあるので既に三下や碇とも顔馴染みだ。
三下は首を傾げる。
「でもいくら凪さんだって、都内全てのホラースポットを把握してるわけじゃないでしょうし……」
「馬鹿。救いがたく馬鹿。もう失せろ――あのねえ、大抵のホラースポットって幽霊が出るってそれだけでしょーが。それを『死神が出る』よ。こんな変なの私が知らないわけないじゃないの。これも読者からの情報なんでしょ? 元になった葉書とか手紙とかはドコ?」
「そういう台詞は僕の机の上からどいてから言ってください……」
「うるさい馬鹿。黙って探せっての」
がさがさと机の右の引き出しを探し始める三下を横目で見下ろして凪は首を傾げる。
「本当にコレ聞いたことないわねぇ……で三下手紙は?」
「うーん。ここにあったはずなんですけれど……」
難しい顔をしながら机の中をあちこち探している三下に凪はあからさまにため息をついてみせた。
「なくしたのね。手紙の管理もマトモに出来ないの三下……」
「違いますよ! だってその証拠に他の手紙はここにこーしてありますし……おかしいなぁ……女の人のものっぽい手紙だったと思いますよ。僕大抵の仕事は苦手ですけれど何かを大事にとっとくのは得意だったと思うんですけど……」
「仕事苦手って致命的じゃないの……しかし妙ねぇ……」
「凪さんは人事だからいいですよ……僕はココに取材に行かないといけないんですよ。誰か頼りになる人いないですかねぇ……やっぱり怖いですし……」
途方にくれたように三下が呟いた。
どうやら、問題の病院を取材するのは三下の役目らしい。
++ 消えた手紙 ++
吹き付ける風は冷たいにもかかわらず日差しは明るい。そんな冬の日だった。
アトラス編集部を訪れた水無瀬・龍凰(みなせ・りゅうおう)は、不機嫌そうな表情を隠そうともしていない。
「いい方なんです。いつもお世話になっていますし」
傍らに立っていた少女――物静かで大人びた雰囲気の少女は、その芯の強さが見え隠れする凛とした瞳にやわらかな光を浮かべて龍凰を見ていた。彼女の名は崗・鞠(おか・まり)という。
ちなみに鞠のいう『いい方』というのは、つい先ほど編集部を出て行った村上・涼(むらかみ・りょう)という人物のことであり、彼の不機嫌の原因とは彼女と幾つか交わした言葉のやりとりにあった。はっきりといえば、単に『からかわれた』というだけのことだ。
「鞠……お前な、さっきのやりとりを横で聞いてて、なんでそういう台詞が出てくんだよ」
「二人とも楽しそうでしたよ、とても」
「楽しくねぇよ全然」
「――でも、こそこそと陰口を叩いたりするような方よりも、ああやってさばさばしている方のほうが見ていて気持ちいいと思いませんか?」
「そりゃ見てる方はな。実際にからかわれる方の身にもなってみろよ」
涼にからかわれたのが余程気に入らないのか、龍凰は不貞腐れたようにぷいと窓の外を向いた。拗ねてしまった子供を思わせる仕草に自然と笑みを誘われる。だが笑みの理由を口にすれば彼の機嫌がさらに悪くなるのは分かりきっていたので、あえて沈黙を保つことにした。
編集部には涼や凪の姿はない。
凪はいつもの如く、ふらふらとどこかに出かけてしまったし、涼は病院に向かう前に自分なりに調べてみたいことがあるのだという。
その代わりに、凪たちに荒らされた机を半泣きになりながら片付けている三下の姿が見える。そしてそれを手伝っているのは、夜藤丸・月姫(やとうまる・つき)という名の少女だった。
床に散らばった書類を白く細い指で拾い集めている月姫は、腰まで伸ばされた艶やかな黒髪を、長い朱色の組紐で結い上げた少女だった。控えめな少女ではあるが、まるで世の中のあらゆるものを見透かすかのような神秘的な金色の瞳や、透明で、美しくも清い雰囲気を持っている。
そしてその傍らに、常につき従っているのが夜藤丸・星威(やとうまる・せい)だった。月姫の影のように側に控えていた星威は、黒い皮手袋をはめた方の左手で散らばった紙片を拾い上げている。
床に散乱したさまざまな書類や葉書、そして手紙の数々。
鞠は月姫と星威の作業を手伝いつつ、ふと口を開く。
「消えた手紙のことが、気になります――」
気になるのは、手紙のことだけではなかった。
病院に出現するモノが、何故幽霊ではなく『死神』と呼ばれるのだろうか?
それは病院に出現するモノが、人の命を奪うような恐ろしいものであることを指しているのだろうか?
そんなことを考えていた鞠の前で、三下は拾い上げた封筒を一枚一枚裏返し、送り主の名前を確認していた。消えてしまった手紙のことは、三下も気にはかけているのだろう。
「手紙は確かにここに保管していたと思うんだ。それにあの一通だけがなくなってるなんて変だよ」
「三下様のおっしゃる通りです」
月姫が綺麗にそろえた書類を三下に手渡しつつ言った。
「もしかしたら、これもまた『呼び声』の一つであるのかもしれません――手段は違いこそすれ、あの病院に人を集めるための……」
「だとすると罠の可能性もあります。あえて病院に行くのは危険では?」
星威の言葉に、月姫がかぶりを振った。
「三下様の仕事はあの病院の取材です。病院に行かずして取材を行うことは不可能でしょう」
「では、月姫様も病院に行かれるつもりなのですね?」
「三下様をお一人で、かように危険な場所に行かせることなど出来ません」
決然と言い切った月姫の姿に迷いは感じられない。星威は静かに頷いた。
「ならば、私も参りましょう。月姫様が在る場所に、私もまた在るのです。それが私ですから」
淡々と告げられた星威の言葉が、紛れもない真実であることを月姫は知っていた。彼は饒舌なほうではないどころか、とても無口だ。だが語られる少しの言葉が、全て真実であるならばそれはそれでよい、と月姫は思う。
そんなことを思いながら、月姫が顔を上げた。その視界に映るのは編集部の隅に置かれた小さな鉢植えの前にしゃがみこんでいる鞠の姿だった。
気分でも悪いのだろうか?
月姫と星威が顔を見合わせた。そしてその後、ゆっくりと月姫が鞠の肩に向けて片手を伸ばすと、龍凰がそれを制止した。
「今はちょっと黙って見てろって」
「彼女は何を――?」
「会話してるんだよ。お前らはそういうのに理解ありそうだから教えてやるけどな、鞠は動物とか植物と会話できる。もっともその力のせいで、合わなくていい嫌な目も見たけどな」
「けれど、それだけではないのでは?」
あまり多くを語らない星威の言葉は、とても重い。
頷き返した龍凰が鞠の背に向ける眼差しが、いつもより少しだけ穏やかな光に彩られる。龍凰は薄く目を伏せて笑った。
「――まあ、悪いことばっかじゃねえよ。多分な」
星威が、鞠の背から視線を外して龍凰をじっと見つめた。
「では、あなたはどんな力を?」
「そんなの秘密に決まってんだろ、秘密に」
あまりに真っ直ぐすぎる星威の問いかけに、龍凰がにやりと笑った。
すると、鞠がようやく鉢植えの前で立ち上がる。いち早く反応した龍凰が軽く片手を上げた。
「おう、どーだった?」
「手紙は消滅したそうです。盗まれたということではなく、ただ消えただけなのだと」
「勝手に消えたってことか?」
「そのようですね。ただ、危険であると警告を発しています。力を持つものが、あの病院を訪れるのは危険だと」
すると三下がびくびくと怯え始めた。鞠の言葉をしっかりと聞いていれば、特殊能力を持たない三下の身の安全は確保されたも同然である。だが三下はそこまで気が回らないらしい。
「……本当に取材しないと駄目かな……」
「ご安心くださいまし三下様。わたくしも、星威も参りますから三下様には傷一つ……」 じっと三下の瞳を覗き上げる月姫に、三下はうんありがとう、と言葉を返す。それでもやはり不安の全てが拭いされれた訳ではない。
いつまでもはっきりとしない三下の姿に、龍凰がちっと舌打ちする。
「いくら説得してでも駄目だろこーゆーのは。蹴りだしたほうが早いんじゃねえの?」
「なりません。三下様はこのわたくしが見込んだお方です。そのようなことをなさらずとも、必ずご立派に取材をなさるに違いありませんし、わたくしもそのためには出来うる限りの努力をするつもりです。暴力など必要ありません」
きっぱりと言い切った月姫と、ぶるぶると震えている三下とのあまりに対照的な様子に、龍凰と鞠は互いに顔を見合わせ、小さく笑みを交し合った。
++ 導くもの ++
病院の前で、彼らは二手に分かれた。
鞠はやはりアトラス編集部で、鉢植えに忠告された内容が気になっているのだろう。もう少し、情報を得るために公園など動物がいるような場所に行きたいとのことだった。そして龍凰もそれに反対する理由は見つからなかった。
そして月姫たちは、せめて夜遅くなる前に――という三下の懇願のために、いち早く病院の探索を開始したようだった。
ばさばさという羽音と共に、小さな羽根が幾つか宙に舞った。
龍凰はふわふわと舞う羽根と、その向こうに立っている鞠の姿をじっと見つめる。
鞠は真っ直ぐに空を見上げていた。その足元にはごろごろと喉を鳴らして擦りよる猫や、集まってきた野良犬たち。そして空からは、鳩や雀といった鳥たちが舞い降りてくる。
「よくこれだけの数が集まったもんだな」
鞠の能力は知っているが、こうして目の当たりにすると改めて感心せざるを得ない。
「聞きたいことがあると言ったら、近くにいる仲間を呼んできてくれると――」
そう答えると、鞠は動物たちの中心へと歩いていく。龍凰がその後に続くと、動物たちは大人しく道を開いた。
鞠は足元の動物たちに幾つかの質問をした。だが龍凰には当然の如く動物たちの言葉を理解することはできない。ここは大人しく、鞠が会話を終えるのを待つのが得策だろう。
やがて、しばしの沈黙の末に鞠がゆっくりと龍凰のほうを振り返る。
「彼女が求めているのは、力のある人間だから――だから病院には行かないほうがいいと……」
「同じ、だな」
不吉な予感に眉をひそめながら龍凰が問いかけると、鞠もまた編集部で話をした鉢植えのことを思い出したのだろう――こくりと頷く。
「それでも、行くんだろ?」
++ 導くもの ++
病院近くで、ふと視線を感じた鞠がその場に立ち止まる。思わずつられるようにして足を止めた龍凰は、視線の主の姿を見つけて思わず顔をしかめた。その人物――今朝方龍凰をアトラス編集部でからかい倒した涼は、隣にいるシュライン・エマ(―)と共にこちらに向けて歩き出している。
「…………」
龍凰と涼は今朝アトラス編集部で顔をあわせたばかりであったが、シュラインとは初対面である。
鞠が龍凰の方を斜めに見上げて、右手をシュラインたちに向けて紹介しようとした矢先の出来事だった。鞠の言葉が終わるよりも速く、涼がちゃっかりと鞠の腕に自分のそれを絡めると首を小さく傾げながら龍凰をちらりと――挑発するような眼差しで見上げた。
「…………」
「…………」
不機嫌そうな龍凰の視線と、涼の何故か勝ち誇ったような視線とが交錯する。
「……なんだよ?」
「べつに」
ふふんと鼻で笑う涼とは裏腹に、ぴくりと片方の眉だけを上げる龍凰。
何故か見えない火花が散る二人をよそに、シュラインと鞠はしごく友好的で一般的な挨拶を交わしていた。だがこれも場所が深夜の、それも廃屋と化した元病院の前とあっては奇妙な光景ではあるだろう。
「この間の事件以来ね――元気だった?」
「はい。お二人も例の『死神』の件で?」
「ええ。一応調査はしたんだけれど、直接ここに来るのが一番の近道のような気がして」
和やかに交わされる会話の横で、龍凰と涼は無言の睨み合いを続けている。勿論、涼はしっかりと鞠の腕にしがみついたままだ。
無言での睨みあいに先に耐え切れなくなったのは龍凰だった。
「……だからなんだよ?」
「……べつに」
さらにふふん、と鼻で笑うととうとう龍凰が動いた。とはいってもくるりと涼に背を向けただけだったが。
夜闇の中でうっすらと浮かび上がるようにそびえる白い病院の建物。目の前のそれをしばし無言で睨みつけた末に、龍凰は自分の肩ごしに僅かに振り返り鞠に視線を向けた。
「鞠、行くぞ」
はいと、鞠がそう返事するよりも速く涼が口を開いた。
「私たちも行くわよ――一緒に」
嫌そうな顔をしつつ龍凰が振り返ると、初めて涼はにっこりと笑みを見せる。だが龍凰にとってその笑みは、『何かを企んでいるに違いない』笑みでしかない。
「鞠の知り合いだと思うから遠慮してやってれば調子に乗りやがって……タチ悪ィ女だな……」
「友達に会ったから一緒に行きましょうって言ってるだけで、別に不思議なことは言ってないと思うけど」
ねー、と首を傾げてシュラインと鞠を見やると、二人がこくりと頷く。そしてそれがさらに龍凰の不機嫌を加速させたらしい。
龍凰の機嫌が悪くなればなる程に、涼の機嫌は良くなっていく。
つまり涼は、龍凰をからかっているのだろうとシュラインは思う。涼の性格ならば実に有り得ることだ。
「いっぺん死ぬかお前?」
「……ああ、つまりそういうことね」
「人の話聞いてねぇだろお前?」
くるりと龍凰に背を向けた涼が、ぽんと手を打つ。
そしてちらりと、横目だけで龍凰を見た。
「……嫉妬ね」
「人の話聞いてねぇんじゃなくて、さては聞くつもりねぇんだろお前?」
だがやはり涼は龍凰の話に耳を傾ける様子はない。
「鞠を独り占めしたいのよね。それならそうと先に言ってくれれば、私もシュラインも邪魔したりしないのに」
何故かシュラインまでもが当然のように巻き込まれている。
剣呑な眼差しで龍凰が涼をじろりとねめつけたが、涼はどこ吹く風といった様子でさらに言葉を続ける。
「女にまで嫉妬するようじゃ鞠もタイヘンねー」
「さてはお前、俺に喧嘩売ってんだな!」
「喧嘩なんてしないわよ。からかってんのよ」
「……マジでいっぺん死ぬかお前?」
二人のやりとりに、鞠とシュラインがそれぞれため息をつく。
業を煮やしたシュラインが涼と龍凰を停めるべく、二人の間に割って入った。
「こんなことしてる場合じゃないでしょ。病院に行くんじゃないの?」
「そうですね――この場所で夜明かしするのは得策とは言えません」
鞠にまで言われてしまえば、流石の龍凰といえども頷くしかなかった。渋々といった様子で涼との会話を打ち切った彼は、気だるげに首の後ろに手を添えて頭を左右に振りながら問う。
「本当に行くんだな?」
その言葉は、鞠に対する確認だった。
「まだ反対ですか?」
「鞠が行くなら俺も行くだろ普通。けどな、ホラースポットなんてのは本当なら放っとくのが一番だってことくらい、お前も分かってんだろ? 下手に手ぇ出すからヤバくなんだよ」
「ただのホラースポットならば、干渉するつもりはありません。けれど、あの病院は違います」
あの病院は多くの人を呼び寄せている。
そして呼び寄せられた人々の生死は今も不明のままだ。どうしてこれを放置しておくことなどできよう?
鞠が静かな眼差しで龍凰を見上げた。この少女が、実はとても芯が強い人間であること、そしてその根本にあるのが優しさであることを龍凰は知っている。
「……しゃーねえなぁ……」
がしがしと、赤い髪の中に手をつっこむ龍凰。
病院に向かう意志を固めたらしい龍凰の横を擦りぬけ早くも病院に向けて歩き出した涼が、すれ違いざまにぽつりと囁く。
「惚れた弱味」
「……お前マジでいっぺん死ねよ」
その言葉には構わず、涼はずんずんと雑草の生い茂った中を歩き続ける。
そして龍凰と鞠、シュラインがその後に続こうとしたその時だった。
『こちらに、おいで――』
小さな声が、風にざわめく木々の音の中で小さく響く。
隣を歩いていたシュラインと鞠は、息を呑んで病院のほうを見つめた。
『こちらに、おいで――』
再び女の声が響く。
立ち止まった涼の額には、冷や汗が浮き出ていた。そんな彼女の背を、シュラインが軽く叩く。
引き返すことはできない。
「行きましょう――」
シュラインの言葉に、涼がぐいと額の冷や汗を拭い頷いた。
++ 死神が住む処 ++
呼び声に導かれるようにして雑草を踏み分け古びた病院の正面玄関の前に立つと、今は作動していない筈の自動ドアが静かに開いた。
明滅する蛍光灯の明かりの下、開いたばかりの自動ドアに涼が顔をしかめる。
「危険じゃない?」
「でも、あそこで立ち止まっている訳にもいかないわ」
シュラインの言うことももっともである。
『ここへ、おいで――』
再び響いた声に龍凰が顔をしかめ、病院の奥を指差した。
「まだ奥からみたいだぜ。行くんだろ?」
「…………」
龍凰が指差した方向にじっと目を凝らす鞠。
その先には真っ直ぐ奥に続く廊下と、階段が見える。
「地下のほうから聞こえているようですね――声は」
「ああ。お前ら腰引けてんじゃねえよ」
びくびくとした様子でシュラインにしがみついていた涼が、ぴくりと眉をしかめた。
「誰の腰が引けてるってのよ誰が!?」
慌てて食ってかかるが、既に龍凰はひらひらと片手を振りながら奥へと歩き出している。そして、鞠も。
むー、とうなっていた涼だったが二人の影が小さくなっていくに連れて不安になったらしい。おそるおそる、傍らのシュラインに向けて小さく言った。
「い、行く?」
「そうね」
その様子に小さく笑いながら、シュラインは頷いた。
白い階段を降りたその先は、薄暗い廊下が続く。
そしてさらに歩くと、突き当たりに鉄製のドアがあった。ドアの上には『手術室』という表示板が張られている。
「手術室って、ありきたりね」
この状況でありながらきっぱりと告げるシュラインに、流石の龍凰も感心したような視線を向けたが、すぐにその視線は再びドアへと向けられることになる。
ぎぎい、と耳障りな音とともに開かれるドア。
それはまるで涼たちを歓迎しているかのようだ。
「でも、ロクな歓迎じゃないんでしょうけどね……」
シニカルに呟き、シュラインは再び歩き出した。涼と鞠も緊張にごくりと喉を鳴らしてその後に続く。
そして、四人全員が手術室に足を踏み入れたその時。
ドアが、ひとりでに閉まった。
「ちょっと、何よコレ!!」
慌てて涼がドアノブをがちゃがちゃと回すが、ドアは開こうとはしない。鍵がかかっているのだろうか、と思ったがどうやらそれも違うらしい。
『ここで、私は死んだ――』
その声は、女のものだった。
龍凰たちをこの病院の、この手術室に呼び寄せた女。
今まで幾多の人々をこの病院に呼び寄せた、『死神』と称された女。
そして今このドアを開かないようにしたのも、この女の仕業なのだろう。
歌うような声に、皆の視線が手術室中央にある手術台へと向けられた。軽くウェーブした長い黒髪が白い服を身に纏う細身の女の腰までをゆるやかに覆っている。
「今まで、この病院で人々を呼び寄せていたのは――……」
鞠の静かな問いかけに、女は赤く塗られた薄い唇に笑みを刻み頷く。
そして音もなく――まるで床の上を滑るように鞠へを歩み寄った。すると龍凰が僅かに腰を落とし女を睨みつけるが、鞠が首を横に振ってそれを制すると龍凰はちっと舌打ちした。
女はそっと両手を伸ばし、鞠の頬を包み込むようにして触れると間近で顔を覗きこむ。
吐息が、冷たい。
それは彼女が紛れもない『死者』であることの証。
だが鞠は目を逸らすことも、目を閉ざすこともしなかった。
『そう――けれど意味はなかった。かつて私に教えた人はこう言ったの――強い力を持つ人の命と引き換えに、お前を蘇らせてやると。だから私はずっと、ずっと探していた。気の遠くなるような長い時間、ずっと』
「そのために……この病院に人を呼び寄せていたのですね」
『けれど彼らは力を持たなかった。ただの人間だった――けれど、貴女は違う』
女が、笑みを浮かべた。それは今まで浮かべていた空虚な笑みなどではなく、長い間探し続けていた獲物を見つけた捕食者の笑み。
涼が、ドアに背をつけたままで言った。
「騙されてるのよ! 鞠を連れてったって生き返れるはずなんてない!」
「言っても無駄だろ」
女が鞠をターゲットにした時点で、龍凰は女を倒すことを心に決めていた。人間達を呼び寄せていたこともまた確かに許しがたいかもしれないが、鞠を危険に晒したことの方が彼の中では大きい。
「おい、俺はもう決めたぞ。あの女が泣いたってもう絶対に許してやらねえことに決めたかんな」
「後半部分は同意しかねるけれど……そうね」
龍凰の言葉に、シュラインは鞠たちに視線を向けたままで頷いた。
彼と同じくシュラインも、みすみす鞠を連れていかせるつもりは毛頭ないのだ。
「――で、どこに鞠を連れていこうっていうのよ?」
ドアの前にいた涼が、ドアの前から右手に――見たこともない機材が並ぶほうへと歩く。あえて龍凰から距離を取った涼の行為の意味に気づいたシュラインは、涼の隣へ並ぶ。二人は龍凰を一人にし、女の注意を自分たちに向けさせることで鞠を救出する機会を伺おうというのだろう。
それに気づかず、女は鞠を腕の中に抱きしめていた。その様子は愛しげですらある。
『必要なのは、体だけ』
生き返るのではない。抜け殻となった体に自分が入り込むだけのこと。
女の言葉に込められた本当の意味に、真っ先に気づいたシュラインの顔は蒼白に近い。彼女の表情の中に秘められた恐れと怒りを見て取った涼もまた、女の真意に気づく。
「じゃあ、今まで呼び寄せた人たちも……」
問いかけた涼の声は震えていた。
『彼らは力を持っていなかったから――だから使えなかったの。でも今度こそ大丈夫』
「殺したの? 全員を?」
『だって、殺さなければ私が体を使えるかどうかなんて、確かめようがないでしょう?』
夢見るように紡がれる言葉に、シュラインは頭の芯が冷えていくような感覚に襲われた。
それは涼も同じであったが、だが涼はシュラインほどに辛抱強くはない。怒りに身を任せた彼女は女に駆け寄り、襟元を掴み上げようとする。
「ふざけるのも大概にしなさいよ……!」
いきなり距離をつめてきた涼に、女は目を奪われて気づかなかった。涼と同時に真横から足音を殺して走り寄った龍凰の姿に。
「調子に乗るのも大概にしとけよ……!」
気配を消して間合いをつめた龍凰が、女の手首を捕まえるともう片方の手で鞠の肩を押した。シュラインが鞠に駆け寄るのを視界の隅に映し、龍凰は言う。
「お前が死んだのはここなんだろ? だからお前はここを動けず、その声で人を呼び寄せるしかなかった――違うか?」
にまりと笑った龍凰の笑みに、女は不思議そうに首を傾げる。
『――どうして、邪魔するの……』
「俺は鞠みたいに寛大なタチじゃねえからな――」
この女は、してはならぬ罪を犯したのだ。
人々を殺したこともそうだが龍凰にとってはそれ以上に、女が鞠に目をつけたことが気に入らなかった。
龍凰がふと右手を自分の頭の位置まで上げる。赤い瞳で見つめた掌の中に、少しずつ集まってくる熱。
『やめて――!』
炎の奔流。
龍凰の右手に生み出された炎は、眩いばかりの真紅。凪ぐようにして右に滑らせた右手から放たれた炎は、瞬く間に手術室の床を、壁を食らうようにして飲み込んでいく。
『やめて。やめてやめてやめてやめて――』
その場に膝をつき顔を両手で覆うようにしている女を、龍凰は冷めた視線で見下ろしている。
「ふざけんなよ。お前に殺された連中だって、同じこと言ってたんじゃねえの?」
『……おな、じ?』
呆然と、女は炎の中で呟く。
無垢な、まるで今生まれたばかりのような女の眼差し。まるで先ほどまでの女の姿とは別人のようなそれに、龍凰は少しだけ胸が痛むのを感じた。もっと、手段はあるのではないかとの思いがちらりと胸を掠める。
龍凰がぎゅっと右手を握り締めると、鞠がそっと両手で包み込むようにして彼の手を握り目を閉じ、彼の拳を自分の額に押し当てた。
「ちょっと! 開かないわよ!」
手術室のドアノブをがちゃがちゃと回していた涼がシュラインたちの方を振り返った。 シュラインが鍵の部分を動かしてみるが、やはりドアはびくともしない。
『そう……おなじ、なのね……』
ゆらりと女が顔を上げて人差し指をドアに向けると、それまで沈黙を保ち続けていたそれが開いた。炎に舐めつくされた手術室から、四人は走り出す。
正面玄関を出たところで、龍凰たちは振り返る。炎に包まれた白い病院を。
燃え盛る炎の中で、何故か女の姿だけがはっきりと見える気がした。女は空を見上げている――真っ直ぐに。
『私は、自分の我が侭でいろいろなものを、いろいろな人から、奪ったのかな――?』
女は空を見上げたままだった。
老朽化した建物は、炎の中にたやすく陥落する。
がらがらと音を立てて崩れる建物と炎の中に、女の姿は消えていった。
++ 交差する地点 ++
その後、新聞で病院の火災のことが報道された。
だが、不思議な点が一つだけある。それは病院で発見された焼死体のことだ。
「吾妻恭介? それが黒幕かよ?」
場所はアトラス編集部。あの夜、龍凰たちに先んじて病院を探索していた月姫たちは、病院内でこの男に出会ったのだという。
「――彼女が失敗したから、自分が出ざるを得なかったと、そう語ったのですから間違いはないと思います。今、水無瀬様からお伺いしたことから考えると、女性の幽霊にそのような嘘を教えたのは、間違いなくあの方でしょう」
そう言う月姫の首筋には、気をつけて見なければ分からないほどの小さな傷があった。傷はごくごく小さなもので血も完全に止まっているようだ。これならば一週間もすれば傷跡が残ることなく綺麗に直るに違いない。
龍凰は編集部内に放置されたままの新聞を手にする。
病院の火災による死者は一命。その名は吾妻恭介。
「逃げ送れたってことか?」
すると、星威が首を横に振った。
吾妻という男が死んでしまった今、男の内にあった真実など知りようもない。
「見届けるため、だったのかもしれません」
「どちらにしろ、あそこはサラ地になって、もう死神の声が聞こえることもなくなったってよ。ホラースポットじゃなくなっちまったら、三下の取材も無駄だな」
分からない、何も。
ただ、事件は確かに解決したのだということだけが救いだった。
編集部の隅で、鞠は前に彼女に忠告を与えた小さな鉢植えの正面に腰を落としている。誰も手入れすることができないこの鉢植えを、鞠は碇から貰い受けることが出来たらしい。
「このままではきっと枯れてしまうでしょうし――これも縁ですから」
確かに、と龍凰は思う。編集部では大抵の人間が常に出払っているか忙しそうな様子で仕事をしているのが当たり前の風景だ。たとえ暇そうな三下が鉢植えの世話をしたところで、あの男では間違いなく枯らせてしまうだろう。
龍凰はまだ、鞠に吾妻恭介という男のことを話してはいない。
だが彼女は彼女なりに、何かを考えているのだろうと思う。もしもその想像が綺麗なものであるのならば、壊さないままでいるのもいいだろう。それは、願いにも似た思いだった。
真実は違うのだろう。けれど、せめて少しだけでいい、救いくらいあってもいいではないか。
「死んだ人は、蘇ることが出来ると思いますか?」
鞠が問いかける――彼女の胸のうちにあるのは、うす暗い手術台で蘇ることを望んでいた女のことだ。
「――無理だろ」
死者と生者の世界は隔たっていなければならないのだ。
だが、自分たちはその二本の線が交差する境界線ぎりぎりにある存在なのかもしれないと、そんなことを思いながら龍凰は鞠にそう、言葉を返す。
『私は、自分の我が侭でいろいろなものを、いろいろな人から、奪ったのかな――?』
あの言葉は、そんな自分たちであるからこそ、聞こえたに違いないのだから。
―End―
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0381 / 村上・涼 / 女 / 22 / 学生】
【0445 / 水無瀬・龍凰 / 男 / 15 / 無職】
【0446 / 崗・鞠 / 女 / 16 / 無職】
【1124 / 夜藤丸・月姫 / 女 / 15 / 中学生兼、占い師】
【1153 / 夜藤丸・星威 / 男 / 20 / 大学生兼姫巫女護】
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■ ライター通信 ■
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こんにちわ。久我忍です。
今回のシナリオの最後に出てくる吾妻という男についての詳しいところは、夜藤丸・月姫(1124)さんと夜藤丸・星威(1153)さんの二人のノベルに描写されています。興味があったら是非一度読んでみて下さい。
つい一週間前から一日一時間のウォーキングを開始したのですが、これがなかなか疲れます。しかもウォーキングしてお風呂に入ると眠くなって仕方がないので、今回は毎日が睡魔との闘いでしたが、無事に書き終えることができてほっとしています。
それでは、ご縁がありましたらまたよろしくお願いします。
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