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甘美ノ海
あの時のことを、わたくしは今でも鮮明に思い出すことができます。
(あの瞬間の)
感情のすべてを。
"神"に抱かれながら、幾度となく反芻した記憶。
それがわたくしを、さらなる恍惚へと導くのです。
(それは――)
わたくしが人を捨て、人魚に"堕ちた"日の物語。
あれは、6年ほど前のことでした。一口に6年といっても、それは現実世界の時間の流れであり。わたくしの精神世界では、その数百倍もの時間の流れを感じるのですが。
そんな遥か遠い日の体験を、わたくしがこんなにも鮮明に思い出せるのは。
(それが)
酷く苦痛に満ちていて。
(それが)
酷く快楽に満ちていたから。
わたくしはその日、初めて人魚に――深淵の巫女になったのです。
その時わたくしがまず感じたのは、脚への違和感でした。不思議に思い足元を見ると、穿いていた物は既にありません。
わたくしの視線の先で、人の脚だったそれは徐々に形を変えてゆきます。
(? ……何?)
両の脚は開けなくなり、感覚もおかしくなってゆきました。
(い……やぁ……)
一体化した脚には次に、青光りする鱗が浮き出てきます。
(――どうして……?!)
その時のわたくしは、驚愕と強い拒絶感を覚えました。人であった身体が、異なる姿へと変わってゆくことに。
それを目の当たりにして強いショックを受けたわたくしは、きっとわかっていなかったのでしょう。
(巫女になるということが)
一体何を意味するのか。
(あるいは――)
わかっていても、自分の身体でそれを示されたことに、耐えられなかったのかもしれません。
そんなふうに2つの感情に囚われたわたくしを、次に襲ったのは。
(その数十倍の、苦痛)
変化した身体のあちこちが痛み出したのです。あまりの痛みに身を丸めて自分を抱きしめたわたくしは、そこでやっと、着ていた服も無くなっていることに気づきました。わたくしは完全に裸だったのです。
(だからこそ)
人のものではなくなった脚が、哀しいほどに目立っていました。
「――あ……ぅ」
痛みで恥ずかしさを感じる余裕もなく、わたくしは耐えることで精一杯でした。身体の外からも中からも、これまで感じたことのない痛みがとめどなく襲ってくるのです。
(人魚と化した……脚)
この痛みは、エラでもつくられているのかしら。
やがて耐えることもあきらめて、わたくしはそんなことを考えました。せめて忘れたいと思ったのです。
(そして――)
どこかもわからぬ空間で、這いつくばってもがくわたくしを、次に襲ったのはそのさらに数十倍の悦楽と快楽でした。
(! これは……何?)
痛みの中に混じり出した快感は、徐々にその痛みを超越していきます。
(あぁ……っ)
今だからわかります。あの痛みと快感の交じり合った感覚は、"神"に抱かれる瞬間と似ているのです。そしてそれよりもずっと、心地よいのです。
(あの瞬間)
わたくしは堕ちたのでしょう。
快感に屈服し、それを"欲しい"と認めたのです。たとえそれが、禁忌であっても。
(もしかしたら)
禁忌であるからこそ。
その快楽は高まったのかもしれません。
(人魚へと、変わる瞬間)
それは肉体的にも精神的にも、確かに凄まじい苦痛でした。しかしその先に待つ快楽は、わたくしを虜にしてやみません。
(もう一度)
訊かれたら迷わず答えるでしょう。
(もう…一度)
何度でも。
おそらく実際に体感したことのある人なら、誰でもそう答えるのだと思います。体感しなければわからない真実が、そこにあるのです。
(痛い快感)
何度も求めてしまう、甘美な罠――。
汗ばんだわたくしの胸を、神の唇が這ってゆきます。
「ぁ……」
あの日を思い返しているわたくしは、いつもより敏感でした。
「海神さまっ」
その反応に当然神も気づいておいでなのでしょう。神はわたくしの顎をすくうと、優しい瞳で見つめました。……愛しい瞳で。
《どうした?》
神に隠しごとなど無駄であることを知っていますから、わたくしは正直に答えます。
「巫女になった日のことを、思い返していたのです」
(あの、始まりの快楽を)
すると、わたくしを包みこんでいる神の胸が、少し上下しました。笑っているのです。
《痛みを忘れるほどの快楽、だろう?》
「ええ。……この腕の中に、とてもよく似ておりました」
だからこそ、離れられないのです。
(どんなに望んでも)
あの瞬間はもう訪れないことを、わたくしは知っていますから。
神はまた笑うと、愛撫を再開しました。
わたくしはそれを余す所なく享受しながら……ふと、妹たちのことを考えました。
(あの子たちにも、権利がある)
いつかはここへ、やってくるかもしれない。
けれどそれは、できれば避けたい――と。
("堕ちて"欲しくない)
どんなに快楽に満ちていても、ここから抜け出せないわたくしのようには、なって欲しくはないのです。ここは麻薬の海。
「――んっ……あぁ!」
神のすべてでもたらされる痛みと快感に、わたくしは嬌声をあげました。自然と、涙もこぼれてゆきます。
(でも……)
でも本当は。
「海神さま……」
意識が飛んで何も考えられなくなる前に、わたくしは言葉を残しました。
「今この瞬間……わたくしだけを……」
(わたくしだけを見て欲しい)
そう思うわたくしの心にあるものは、やはり嫉妬なのでしょう。
(こんなふうに、神に仕え)
それ以上の苦痛と快感を、味わえるあの瞬間。
わたくしが今口にしたことは、精一杯の強がりでもあったのです。
《……わかっている、みその》
耳元で囁いた神の声が、わたくしの快感をさらに高ぶらせてゆきます。
その感情も。
(何もかもすべて)
やがてわたくしの中で弾けて、消えてゆきました。
わたくしの意識も、ゆっくりと――。
(了)
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