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<東京怪談ノベル(シングル)>


戻れない道

 身体を苛む痛み。耐えきれない現実。
 認めたくない思いが、心を何度壊した事か。
 もう今は数えることすらしなくなった。そんなことには慣れてしまったから。

 大丈夫。まだ大丈夫。
 わたしの名は、みあお。海原みあお。
 うん、まだ憶えてる。
 それだけを心の片隅で確認して、寝ていた体をゆっくりと起こした。
 ここは白亜の檻。周りを白い壁に囲まれ、唯一の出入り口には冷たく重い扉。自分からは決して開けない。
 無慈悲なまでに殺風景なその部屋で、みあおは大きく腕を伸ばした。
 痛みは…ないよね。よし、大丈夫。
 さっきまで聞こえていた『音』がまだ耳の奥で鳴ってる気がするけど、なんとか自分を抑えられたかな。そう心の中で安堵し、少しだけホッと息をつく。
 恐怖と不安がいまだこびりつく胸の内。それでもみあおは、『音』に影響されずに己が保てたことに喜びを覚えていた。
 そうして。
 束の間、小さな嬉しさを噛みしめ、決意を新たにする。

 次なる段階。

 大丈夫、きっとうまくいくわ。
 泣いてばかりいた。逃げてばかりいた。
 与えられた現実に目を背け、過去を振り返ってばかりいた。
 でも、これは嘘じゃない。
 ――なんとか…受け入れるの……。
 みあおは静かに目を閉じた。心を落ち着け、集中に入る。
 『声』が――聞こえる。何か言ってる。だが、みあおはその『声』に耳を傾けることをしなかった。あれに引きずられれば、また同じ事の繰り返しだと本能で察していたから。
 みあおは…みあおの意志で……。
 ゆっくりと、ゆっくりと、意識を深く沈めていく。不安に震える心を制し、自らの意志であれを呼び覚ます。
 だいじょうぶ…怖くない…怖くないんだから。
 やがて変化が訪れる。
 青い燐光。仄かな煌めきがみあおをゆっくりと包んでいく。
 こんな光を放つ人間なんかいない。ふと脳裏を過ぎった思考を無理矢理抑え、集中を続けた。
 白く殺風景な空間に遮蔽物はない。だからみあお自身が光ってしまえば、そこに影は一切なくなってしまう。
 そして光は、部屋を全て覆う程に強く膨れ上がっていった―――。



 ――…輪郭が泡のように崩れていく。
 青い光が肌より浮き上がり、光はやがて幾粒もの固まりに。その粒が徐々に形を持ち始めた時、触れる筈のないものが物質へと変容した。
 すらりと伸ばした腕。その瞬間、ふわりと光が宙を舞った。
 いや、光ではない。青白い燐光を纏った――一枚の羽根。
 ゆるやかに…ゆるやかに…。
 みあおの周囲を羽根が舞う。
 いたわるように。包みこむように。
 流れる光に促されるように、髪の毛が静かにうねる。それまで肩までの長さだったものが、今では腰に達するぐらいに伸び、その先端は柔らかな羽毛を思わせる。
 徐々に光の囲いは頭から肩、二の腕から背中を抜け、露わになった腰から下へと移動する。
 すらりと伸びた足。かつてのみあおにはない、成熟した大人のもの。
 だが、それに感動する術はない。
 泡立つ光は、例外なくみあおを異形へと導く。人のものではない、硬質の肌触り。肉の柔らかさも、滑らかさもない。
 膝より上を覆うのは完全な羽毛。
 そして、その下には――。

 やがて。
 光は沈黙し。
 白い部屋は、再び殺風景さを取り戻す。そこに立つのは、みあおただ一人。
 物も言わず。身動ぎもせず。
 ただ、そこに佇む青い影が一つ。
 すでにみあおは、みあおではなかった。光の消えたその場所に、一人佇むその姿は――――『青い鳥』……。



 ――痛みが全身を襲う。
 耐え難い、まるで体をバラバラにするような痛みの前に、みあおは叫び出しそうになるのを必死で堪えていた。
 何度この苦痛を味わえばいいのか。考えても答えは出ない――出る筈がない。
 それでもみあおはやらなくちゃいけない。これ以上、他人の誰かに自分を弄られたくないから。もう泣き続けるのはイヤだから。
 だから、今はこの痛みに耐えなきゃ……一歩でも前に進まなきゃあ。
 それは絶望にも似た希望。
 壊れ続けることに慣れた心が導いた最後の自我。どうしようもないほどの葛藤の末、それでも自分はまだ生きているんだという現実。
 それを理解したとき、みあおは自分自身をようやく思い出せた。
 そうして決意する。
 このまま流されるんじゃなく、みあおの足で歩いていこうと。
 全身が作り替えられていく痛みの中、肌に感じる柔らかさはやがて心地よさになる。……慣れるものじゃないけど。
 そうしてどれだけの時間が流れたのか。
 実際はほんの僅かだったんだろうけど。今のみあおにはひどく長く感じられた。痛みは治まり、手足に感じる違和感も――以前程じゃない。
 目は閉じたまま。呼吸を数度繰り返す。
 意識はハッキリしていた。泣き叫んでいた今までとは違う。
 大丈夫、みあおはここにいる。どんなになってもみあおはみあおよ。

 やがて。
 意を決したみあおは、ゆっくりとそのまぶたを開いていく。
 大丈夫…大丈夫……。
 心の裡で何度も繰り返す。
 大丈夫…怖くないよね…。
 そして、見開いたその瞳に映る己の姿は――――。



「これが……」
 ――…みあお?
 覚悟していたほどの衝撃はなかった。これまで散々見てきた姿だったから。何故か、不思議と落ち着いた感すらある。
 自分の意志で、完全に制御した状態で変化した。怖れも、迷いも、不安にも当てはまらない心中。
「なんだ…大したこと、なかったじゃ…ない……」
 呟かれた声はどこか遠くで聞こえ、まるで自分が喋ってるんじゃないみたい。変なの、みあおは全然平気なのに。
 うん、平気、大丈夫。
 何度その言葉を繰り返したのか。
 その時、不意に視界が歪んだ。
 そして、頬を伝う冷たい水。止まることを知らず、頬を、顎を濡らしていく。
「なんで……?」
 どうして泣くの? みあお、自分の意志でちゃんと変化したのよ。痛みにも耐えたし、もうなにも怖いものなんてないじゃない。
 そんな自問自答が脳裏を過ぎる。
 だけど、涙は止まらない。次々と溢れ続け、もはや何も見えなくなる。


 自分の意志でその変化を制御出来た、その時。
 本当の意味で自分は人でなくなったのだと、みあおは知った。

 後戻りは、もう出来ない――――。