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未到ノ壁
わたくしが何も知らなければ。
それを疑問に思うこともなかったでしょう。
(人は無知であればあるほど)
その人自身にとっては、幸せだから。
けれどわたくしは知ってしまった。
陸(おか)の上の惨状。
人類同士が大義すら忘れ戦争をくり返し、復讐の連鎖は続いてゆく。
自然環境は無残にも破壊されてゆき、あとには有害な現象だけが残る。
その報いを示すかのような、様々な変質。
わたくしは訊かずにはいられなかったのです。
(何故)
「何故今の人類は、滅亡しないのですか?」
わたくしがその疑問をぶつけたのは、夜伽の間に訪れたまどろみの時間でした。
これまでたくさんの言葉を交わしてきたわたくしとあの方。それによりわたくしは、あの方が古に詳しいということを知っておりました。ですからきっと幾度か人類の――もしくは他の何かの滅亡を"見て"きたのだと思ったのです。
(そんなあの方から"見て")
今の人類が滅亡しないのは何故なのでしょう?
わたくしは問いました。
妹の影響で、陸に上がることが多くなり。地上の様々なことを見聞きしました。
その中には真実も虚偽もあるでしょう。しかし半分――いえ、たとえ真実がたった1割だとしても。わたくしは十分滅びるに足る状況だと思っていたのです。
(何故、滅びないの?)
あんなに皆、自分勝手で、自分本位で。
あの方のためだけに尽くし続けるわたくしたちから見れば、生きる価値もない人々がほとんどで。
疑問をぶつけたわたくしに、あの方は何も答えて下さりませんでした。そこで、質問を変えてみます。
「――何故、他の神々は滅ぼさないのでしょうか?」
この世の神は深海のあの方だけではありません。他にもたくさんの神が存在します。
その中でも、少なくとも歴史の闇に隠れている神々や、現実の裏に存在する人々の力ならば、人類を自然に滅亡へと追いやることも可能だと思ったのです。
するとあの方は、こう仰いました。
(それは、人類も自然の一部であるから)
と。
どういうことかとお訊きすると、返ってきた答えはあまりにも意外なものでした。
(神々の仕事は、見守ること)
手出しは可能だけれど、無闇に手を出したのでは人間と一緒なのです。
手を出さず、自然のままに見守ること。逆に自然を崩そうとするものを排除すること。
(そしてだからこそ)
神々は人類に手出しすることはできない、と。
わたくしは反論しました。人類こそが、自然と崩すものだと思ったからです。わたくしには、人類=自然とはとても思えませんでした。
するとあの方は笑って。
(人類を自然と認めているのは)
他でもなく自然自身だと、教えて下さいました。
何故かというと、自然は自分の意思で、人類の数を調節しているから、だそうです。
(何故?)
何度目かの"何故"に、苦笑してあの方は。
("人類を生かすために")
わたくしは、何とも言えない気分になりました。あの方の言葉の続きを、ただ聴いておりました。
(自然は人を生かすために、自らの意思で数を調節している)
それを証明するのが"自然災害"であり、それがなかったなら、とっくに人類は滅亡していたのでしょう。
(自然には感情がないから)
それが許される。
それにより大切な人々を失った人々は、自然を憎むことなどできません。
何故なら自分たちは。
(どうしようもないくらい)
自然に生かされているから。
けれど人間自身が、人を間引いてはならないと、あの方は仰いました。
引き金を引く手には、必ず何らかの感情が存在します。そしてそこに憎しみが生まれ、その対象はいくらでも変わってゆくのです。たとえそれが果たされても、別の場所に同じ憎しみが生まれ、それには終わりがない。
(だから自然だけが)
それを許される。
自然は人類をその身の一部と思っているからこそ、自分で調節しているのだと。
わたくしは、改めてあの方の偉大さを知りました。
(わたくしはまだ小さいのです)
自然災害で大切な誰かを失った時。
きっとわたくしは喜べない。
自分が生きていることを。人類が生かされていることを。
(わたくしはまだ)
そこまで行けないのです。
あの方と同じ場所には……。
堪えきれず泣き出してしまったわたくしに、あの方はひとつの言葉を下さいました。
(そこへたどり着けるのが)
神である所以。
わたくしたちが神でないからこそ、自分たちは神でいられるのだと。
(人類が)
自然によって生かされるものならば。
(わたくしは)
あの方によって生かされている。
そしてあの方も。
(わたくしによって)
生かされればいい――
到底越えることのできない壁を前に。
わたくしはそんなことを、思い巡らせたのでした……。
(了)
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