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<PCシナリオノベル(シングル)>


前編/過去からの来訪者

 暖かみのある仄赤い照明が薄暗い店内を包み込む。
 …ここはバー『暁闇』。
 カウンターの中にはふたり。
 アイボリーホワイトのブレザーに黒いネクタイを締めたロマンスグレーの紳士――マスターと、赤いベストにボータイをした、少し小柄なバーテンダー。
 紫藤暁(しとう・あきら)に真咲御言(しんざき・みこと)。
 今は開店して間も無い時間。客はひとり――カウンター席に座った、仕事帰りの綾和泉汐耶のみ。
 オーダーはジョン・コリンズ。
 頷いた紫藤はまず氷、ジュネヴァジンとレモンを絞ったフレッシュジュース、砂糖と順にシェーカーに。確りと混ぜ合わせ、からんと一度氷を鳴らし、仕上げてグラスに注ぎ込む。そこに氷。ソーダを注ぎ、軽くステア。
 最後にレモンのスライスが飾られ、汐耶の前に供された。
「どうぞ」
 汐耶は差し出されたグラスをほんの少し手許に寄せる。
「有難う」
 言って、カウンターの中の紫藤の隣、作ったかち割り氷をアイスシンクに入れ終えたところのバーテンダーに目を遣る。銀縁眼鏡の奥で光る理知的な青い瞳。知った顔が居る事でか、中性的なその顔立ちが和らぎ、女性らしさが覗いた。
「…ここが真咲さんのお店だったんですね。入ったのは偶然なんですけれど」
「そうでしたか。入店、有難う御座います」
 バーテンダー――真咲は顔を上げ、汐耶に向け静かな微笑みを見せる。
「知り合いか?」
「ええ。草間さんのところで」
「それは。…真咲がお世話になっているようですね」
 真咲の科白を聞くなり、紫藤は汐耶に目礼。
「いえ、そんな。こちらこそ」
 否定するよう小さく手を振り、汐耶は小さく笑い返す。
 そしてジョン・コリンズのグラスに口を付けた。
 と。
 そこに。

 からん

 ドアベルが鳴り響く。
 入ってきたのは黒い帽子にコート、サングラスと言った出で立ちの、わざとらしいまでに黒尽くめの男がふたり。
 瞬間。

 ――気のせいか、空気が一瞬凍り付いた。

 入ってきた見るからに胡散臭い黒服の男ふたりは、黙ってカウンター席に陣取る。汐耶の座っている場所からふたつだけ離れた席に、並んで。
 オーダー。
「ジャック・ダニエルを、ストレートで」
「…俺もだ」
「承りました」
 静かな表情は殆ど動かず、物腰柔らかなまま真咲は後ろを向く。棚からボトルを取り出し、グラス、氷。
 冷やされていたグラスの中に、入れられた氷。そこに鮮やかに静かに、液体が注がれる。
「どうぞ」
 それ程の時を置かず、そのグラスはす、と黒服ふたりの前にそれぞれ差し出された。
 黙ってグラスに手を伸ばした黒服の片方――幾分背の低い、体格の良い方の男はバーテンダーの指先を見て、瞬間的に停止した。バーテンダーの顔は見なかった。そもそもこんな店に於いて店員の――バーテンダーの顔など見ても意味はない。店の機能の一端、それだけであるのだから。
 自分たちの使命には関りない。
 …筈だった。
 けれどこの男は、この指先は、手は。
 黙って見逃せる訳もなかった。
 男は隣に座る淡い茶色の髪を長く伸ばした連れに、それとなく合図する。
 次。
 バーテンダーの『何か』に気付いた体格の良い男は、バーテンダー――真咲の顔を衒いなく真っ直ぐ見上げた。
 そこにあったのは、何故黒服が自分を見上げているのか不思議そうにしているようにも見える、静かな、穏やかなままの顔。客に相対する、控えめな。…顔を背けて隠す事すら、しない。
 …「わかってしまった」身にすればそれは確信犯にしか見えない表情だった。
 他では有り得ない金色の瞳、ひとたび拳に握られれば、攻撃の意志を持ち振るわれれば誰も敵わなかった、その指先、手――今目の前にあるその静かな――腑抜けた表情さえ、除けば――紛う事なき。
 記憶にも鮮やかなひとりの男。

 ――死んだ、筈の。

「…おわかりですね。『白梟(シロフクロウ)』」
 押し殺した声で黒服が言う。
「何がでしょう」
「…真咲御言、IO2所属、心霊テロ対策班…日本支部、捜査官統括代行――コードネーム、『白梟』」
 その場に居るすべての者に聞こえるように。
 紡ぐ。
「…忘れたとは言わせない」
 じろり、と。
 黒いサングラスの奥から、厳しい瞳が真咲を見据えて来る。
「…どなたかと、間違われていらっしゃるのでは?」
 真咲はゆっくりと瞼を伏せ、もう一度開けると、じっ、と男を見返す。
 目を逸らしはしない。
 …いずれこうなる事は、読めていたが。
 それでも否定してしまう。
 真咲は足掻く自分に内心で自嘲した。
「私は貴方を直に知っているんですよ。統括代行」
 黒服の男は押し殺した声のまま、続ける。
 大声を上げて罵ってしまいそうになるのを、抑えているような、声。
 …否定の言葉は発していても、表情と態度はあまりにも明瞭に、『そうだ』と認めていて。
 言及せずにはいられなかった。

 ――何故貴方はこんなところに居るんだ!

「今そこにいる貴方はあまりにも変わってはいますが…私がかの『白梟』を間違えるとお思いですか」
「黙れ」
 ぞくりと。
 一声で威圧する、背筋が凍る声。
 それを発したのは――真咲。
 汐耶の、紫藤の知る普段とは、あまりに違うその声音。
 直後。
 すみません、マスター、と普段通りの口調――否、少し硬い声だった――で小さく紫藤に声を掛けてから、真咲はカウンターから出、男たちの横に来る。
 そしてまた元通りの丁寧な口調に戻り、告げる。
「…わかりました。お話を伺いましょう」
「真咲さん…?」
 訝しげに汐耶が真咲を見上げる。
 普段通りの静かな笑みが向けられた。
 けれどその瞳の奥には、普段とは違う、何処か諦めたような、冷たく凍り付くような光があって。

 先程唐突に張り詰めた、凍り付くような凶暴な緊張感の源は――この真咲だと汐耶にも察しが付いた。

「綾和泉さん、申し訳ありません。お騒がせしまして――おふたりともすみません。お話の続きは店の外で――」
 科白の後半で、黒服の男たちを促す。
 が。
「それは答えと取らせて頂きましょう――『白梟』」
 ぽつりと。
 言うと同時に跳ね上がるよう、銃口が真咲の胸に向いていた。

「裏切り者は許さない」

 間、髪入れず銃爪を――引こうとしたところで、
 グラスの酒がびしゃりとこぼれた。
 有り得ない角度で、踊るよう、黒服の握っていた拳銃に、掛かる。
 文字通り水を差されて黒服は訝しげに眉を顰めた。
 銃爪を引こうとしていた指は、反射的に止まっていた。何か異変が起これば、咄嗟であってもそのくらいの事が出来る分別は持ち合わせている。身を守る為。黒服たちが棲む世界では必須の、生死を分かつ勘働き。
 ――グラスは、倒れていない。
 ただ、中身が減っている。
 こぼれている。
 黒服は胡乱げに――それでも常人から比べれば隙無く――周囲を確認した。
 今この場に居るのは黒服ふたりに真咲、汐耶、他にはまだ誰も――客は居ない――ならば居るのはあとひとり。
 マスター――紫藤。
 紫藤は素知らぬ顔でグラスを磨き始めていた。
 けれど自分を見ている視線に気付くなり、ゆっくりとそのグラスを置く。
「…この店の中に居る以上、酒くらい、静かに飲んで頂きたいのですがね」
 言って、黒服の前にあった、中身の殆どがこぼれたグラスを下げ、新しく冷やしてあったグラスを出し、氷を入れてジャック・ダニエルを注ぎ直す。
 それを当然のように黒服の前に滑らせた。
 有り得ない動きで液体が空を舞ったのも、真咲に拳銃が向けられていたのも全く見えているだろうに、それらについて気に留めもしない。当然とわかっているような、平静過ぎる反応。
 紫藤のその普段通り過ぎる所作を見て、真咲が無防備に頭を巡らす。移動。黒服にあっさりと背を向け――汐耶の後ろを通り、カウンターの内側。一枚の清潔な布巾を取り上げ、また戻る。
 そして黒服の手許から、拳銃までに付いた酒を、丁寧に拭き取った。
 店員が、『お客様』にするように。
「…クリーニング代も必要ですね」
「貴方は!!」
 あくまで黒服を店の客として扱おうとする、丁寧な手付きに、激昂する。
 思わず、と言った声。
 黒服の叫び。
 真咲は黒服の顔を見てから、紫藤に視線を流した。
「…俺は撃たれても構わなかったんですがね。こいつになら」
「今更バーテンがひとり減られても困るんだよ」
 ぽつりと、紫藤。
「…知り合いか?」
「…ええ。『昔』の」
「『七年』以上、前の、か」
「はい」
 今度は素直に、肯定。
 そんな真咲の胸倉を、体格の良い黒服は乱暴に掴み上げる。
 けれどそれ以上はどうも出来ず、ただ何か言いたげな姿で黙っているだけ。
 真咲も黙ってされるままになっていた――本気を出したなら、立場はすぐに逆転できる。それは真咲の事を知る以上、黒服の方もわかっている筈で。
 なのに、そうするしかなくて。
 と。
「何を甘ったるい事をやっている」
 別の声。
 上がった途端に、今度は淡い茶色の髪を伸ばした黒服の持つ拳銃の銃口が真咲を捉えていた。
 が。
 銃爪を引く形に躊躇い無く力が込められた筈の指が、動かない。…否、指が動かないのではなく、銃爪が、動かない。
「…な、なんだ!?」
 思ったように銃爪が引けず、黒服は動揺する。
 ――拳銃におかしなところは無かった筈だ。ここに来る前に確かめた。安全装置も外してある。無論そんな初歩的な事でも無い。
「こう言う使い方も、出来そうね。…初めて気付いたわ」
 横合いから汐耶が口を挟む。
「黙っていて下さい。これは貴方には関りの無い事だ――否、巻き込まれる前にここから出て行く事を推奨する」
「出て行くのはそちらじゃないかしら? …ここに入ってくるまでは良いけど、いきなり何の騒ぎ?」
「貴方には関りの無い事だと言っている――」
「関りの無い事じゃないでしょう? 私は静かに飲みたいの。
 それからもうひとつ、真咲さんとは、この店以外でも顔を合わせる事があるのよ――つまり、こう言うのを黙って見てるのは嫌って事」
 言いながら、茶色の髪を伸ばした黒服、彼の持つ拳銃を見る。
「…今、その銃の『能力』――弾を発射するって言う機能――は『封印』させてもらったわ」
「何!?」
 黒服は声を上げる。
 …汐耶の持つ能力は、『封印』。
 ありとあらゆる能力を封じるもの。
 …その対象は、選ばない。
 仕事先の危険な書籍や、強力過ぎる兄の能力『以外』でも、何でも。――『封じる事が出来るのなら』。
「そんな!?」
 黒服は自分の持つ拳銃を見直し、確かめる。銃爪が引けない。だからって、いつの間に!?
 汐耶はゆっくりとジョン・コリンズのグラスを傾ける。
「撃てないでしょ?」
 得意そうにさらりと言う。
「…ひょっとすると、仙人の使う『禁術』に近いのかも知れませんね。そこまで能力を発展させる事が可能だと」
 突然の出来事に呆気に取られ、意図せず自分の胸倉を掴み上げていた黒服の腕を解いてしまった真咲が言う。…腕を解かれた黒服の方は、諦めたのか、項垂れたまま動かない。
「『禁術』?」
 それは何かと汐耶は問うた。
 彼女にして見れば禁術と聞けば、禁忌の術、と言う発想が真っ先に来る。
 少なくとも、そう言われて普通に術として使えるものとは思わない。
「…一般的に言う『使う事を禁じられた術』、ではなくて、『存在を禁じる術』の事なんですけどね。対象なんでもありの結界術と考えれば良いでしょうか。『禁じられた』ものは術を掛けたその中には決して入れない。…使いようによって、色々応用利かせられるらしいですよ」
「…だったら…私のこれはちょうどそれとは真逆の力になるのかしらね」
 汐耶の封印能力は、言わば『対象選ばず何でも中に抑え込む術』、になるから。
「まぁ、どっちでも良いわ。今は」
 効力があるのなら、それで。
「ひょっとすると…『人間の機能を封じる』って事も出来そうだと思わない?」
 さらりと脅す。
 更にこの能力を応用したなら――可能かも。
 思わせる、科白。
 そして、真咲の前に居る方の体格の良い黒服を見た。
「問答無用は、止めておかないかしら? 話の余地くらい――」
「何を話せと言うんですか!」
「話すような事はありません。卑怯なのは一方的に俺です。殉職したと偽って、ここに居るんですから」
 ほぼ同時に、昔の真咲を直に知るらしい体格の良い黒服と、真咲。
「…って、真咲さん?」
 殉職した、って。
 汐耶の物問いたげな顔が真咲を見る。
「…死んだ振りして逃げたんですよ。俺が昔所属していた、IO2と言う組織が嫌になって。それだけの事です。後にその事が傷になるだろう人を残してしまう、と言う事も無視して。自分の、勝手を通しました。…今ここで生きている事それ自体がもう、IO2から見れば裏切り同然になるでしょう」
 淡々と。
 汐耶に、話す。
 体格の良い黒服をちら、と見ながら。
「俺にはそれ以外にIO2から逃れる方法が無かったもので」
「ですがあの時貴方の心臓は確かに…!」
 止まっていた。
 体格の良い黒服は叫ぶ。
 ――彼は統括代行であった真咲御言が殉職した際、その場に、居た男。
 任務中、古い塹壕の中――確かめた。この手で。
「仮死状態だっただけですよ。IO2内に知られていない薬や術を使うなら、貴方がたに確かめる事は不可能です」
「だがあの直後…!」
「爆発を起こしたのは、俺の『死体』を持ち帰られない為だけに、です」
 皆まで言わぬ内に真咲が種明かす。
「方法はすべて春梅紅(ちゅんめいほん)に、頼みました。詳しく知りたければ帰ってから、彼女に聞いて下さい。…ひょっとすると教えてくれるかも、しれません」
 あっさりと。
「…内部に裏切り者が居ると言う事か」
「春梅紅と言えば、オカルティックサイエンティストの…!」
 言われ、黒服ふたりは顔を見合わせる。
「…もっとも、訊いた後に貴方がたがその事を覚えていられるかどうかは、わかりませんが」
 真咲は淡く微笑む。
 遠い記憶を思い返しているような、静かな、伏せ目がちの瞳で。
「貴方がた如きに彼女をどうする事も出来ない」
「…如きだと」
「何をしようとしても、無理です。IO2の総力を上げたって、春梅紅は断罪できやしませんよ。まぁもっとも、そこまで面倒臭い事になるようだったら…その前にあっさり逃げているでしょうけどね。
 貴方がた如きが、彼女を問い詰めてもどうする事も出来ない。記憶を消されて元通り、が関の山です」
「…どういう、意味だ」
「言葉通りです。今も彼女は普通に、IO2に尽くしている筈ですから。俺の件を裏切りと言うのなら――それは唯一の例外に過ぎません」
 そこで一端言葉を切り、真咲は体格の良い黒服を見る。
「どんな気紛れでか知りませんが、俺は彼女のお気に入りだった――ようでして。それだけが、彼女が俺に頼まれてくれた――理由です。別に裏切りとか何とか、大層な話じゃない」
 そして汐耶に視線を移した。
「…春梅紅――鬼家の仙人は、基本的にそうなんですよ。今の彼女はオカルティックサイエンティスト。貴方がたのようにIO2の捜査官と言う立場なら――余計な事を何も言わず黙っている限り、それなりの恩恵は受けられます。彼女は何も仕事をおろそかにする訳じゃない。時々ある『例外』に抵触しない限りは、望まれる立場に、忠実です。組織に反したのはただ、俺の場合だけ」
 途中で黒服に、視線を戻す。
「だからって何故、そんな…」
 仲間に、死んだと思わせてまで、辞めたがる。
 …体格の良い黒服が本当に言いたかったのは、そこ。
 表の世界――民間人を守る為の、IO2だろうに。
 何故嫌う。
 嫌になる。
 …それでも辞めたいと言うのなら、普通に辞めれば良い筈だ。事実、辞めて民間に下りた人間だっている。
 と。
「…シルバールークの出動に立ち会った事がありますか」
 ぽつりと。
 真咲の声が響いた。
 ――シルバールーク。危機状況制圧用空挺二脚機動戦車。IO2の取り得る最終手段。
 即ち、滅多に出動するものではない――筈のもの。
 黒服たちは何も答えない。
 立ち会った事など数える程だ。それも、大抵の場合――立ち会うと言うより、入れ替わりになる。即ち、直に出くわした事など無いと言って良い。
 そもそもこの日本では滅多に、シルバールークの出動までは、至らない。
 …そう言う事になっている。
 表向きは。
「IO2の表向き、基本スタンス――『犯人の逮捕及び民間人の保護』から――『敵の殲滅及び現状況の速やかな終息』を優先するべくシフトされた瞬間に何度も立ち会えば、嫌にも、なります」
 …シルバールークが出動すると言う事は、それを意味するんです。
「何故です。シルバールークが出動するとなれば…それ以外に取るべき手段が無いと言う事になるでしょう。それもシルバールークまで必要とされる事態なら――敵に同情の余地は無い筈だ。それは…場合によっては民間人の犠牲も仕方無いと言う話になってしまうでしょうが…そこで敵を殲滅出来なかった場合の後の被害も考えれば…」
 困惑。
 シルバールークは、むしろオカルティックサイエンティストたちが創り出した、科学とオカルトの粋――IO2にとっては救世主のような存在だ。
 頼りにこそすれ、忌避する理由は無い。
 真咲は自嘲するよう微笑んだ。
「…『それ以外に取るべき手段が無い』、今、そう言いましたね」
「統括代行…?」
「シルバールークの出動、それは本当に『それ以外に取るべき手段が無い』時ばかりじゃ、ないんですよ」
「何?」
「…『力が及ばない場合』ではなく、単に『都合の悪い場合』に出動する事もあるんです」
 IO2にとって。
「どう言う事ですか」
「例えば、失敗した場合。対象者の仕業ではまだバスターやジーンキャリア…ひょっとすると捜査官の許容範囲内だった。けれど対象者の能力や術の効力では無くIO2の成した失敗で、却って大事になった。けれどそんな事は表に出せない。ただ失敗『した』、のではなく敵に失敗『させられた』、とする。…だから対象者が凶悪犯だった事にされる。報告書では、記録ではそうなる」
「――」
「心霊テロリストの掃討。今で言えば『虚無の境界』。昔はまだ今程動きは活発じゃなかったが――そんな心霊テロ集団が随分前からある事はあった。そこの拠点のひとつ。IO2の情報が何処からか洩れて活用されている事が判明した。中に居る人質――数名の民間人にもバレている。彼らは『IO2』と言う言葉の指す意味など知らない。けれどテロ集団がそこの情報を使っている、事は知ってしまっている。…その時点でIO2の方針は決まる。『そんな事実を表に出せる訳が無い』。…だから初めから『人質ごと』テロリストを殲滅するつもりで突入する。そして記録では――テロリストが人質を皆殺しにした事にされる。シルバールークが突入した時には人質はもうすべて死んでいた事にされる。助けが来たと喜ぶ姿を平気で殺す。…死んだ順番が意図的に変えられる。
 シルバールークの出動まで至らずとも、嫌になる事はありますよ。例えば俺が今まで手を掛けた――上層部から抹殺指令を受けた数百人の『凶悪犯とされる対象者』の中で、本当に『改心の余地が全く無い凶悪犯』と言えるような連中は――数える程だったと思います。一桁で足りますよ。…直に相対した感じでは、ね」
「もう良い!」
「…組織である以上、そう言う事が起きるのも仕方無いだろう。どれだけ苦々しく思えても」
 真咲の科白を遮った体格の良い黒服に、長髪の黒服はぼそりと言う。
 そして黒いサングラスの奥から真咲を睨みつけた。
「…良い覚悟だな。そちらの彼は」
 ひとり小さく頷き、真咲はその視線を衒い無く受け止める。
「それが嫌だと言うのならば普通に辞めればいいだろう! あんな…」
「なら言おう」
 言い募る体格の良い黒服に、真咲から断ち切るように鋭い声。
「俺が――『捜査官統括代行』の任にある『白梟』がIO2を抜けたいと言って、許されたと思うか?」
「――」
「統括が死んで十年もの間――俺なんぞがずっと代行を勤めていた、人材不足も良いところのあの当時に」
 黒服は、言われた科白に声が出なかった。
「そもそも統括代行まで務めた捜査官を、IO2があっさり手放すと思うか? この『組織の機密をたっぷり頭に叩き込んだ男』を」
「言ってみなければわからない事でしょう!」
 …辞められてしまった方が、死んだ、とされるよりどれ程マシか。
「言ってみたよ」
「――」
「一度日本支部の上層部に言った事がある。捜査官統括代行になって八年目くらいだったかな。…やんわりと誤魔化されてそれっきりだったよ。…話題への触れ方が、まるで禁忌だね。有り得ない事。そんな風だった」
 カウンターに手を突き、語る。
「普通に穏便に辞めた人間だってそりゃあ居る。けれど――その中に、IO2と完全に切れた人間は、居るか?」
 黒服に、問い掛ける。
「居ない筈だ」
 言い切る。
 辞めても何処かで繋がっている。ただ、外部の人間と言う立場だけ手に入れて、結局は――IO2に所属しているも同然の役目を当然のように望まれる。『協力』と言う名の元に。
「…幾らでも罵ればいい。お前たちにはその権利がある。罵る価値も無いと思うなら消せばいい。見付かった今、このまま放って置かれるなんて都合の良い事を考えてはいないさ」
 IO2から逃れて七年。
 粛清の二文字を。
 思い浮かべぬ訳が無かった。
 いつか、見付かる。
 …わかっていた事。
 と。
「今聞いていてね、私は…客観的に考えても真咲さんの意思を尊重したいと思うのだけれど…変かしら。…ああ、横から口を挟んで、悪いわね」
 悪びれず口を開いた、汐耶。
 その声に、急に現実の場所――『暁闇』のカウンターに意識が戻される。
「辞めたくても辞める事が許されないなんて、単純に、変じゃない?」
「それは…」
「自分の信念に反すると思ったら、嫌と思うのは道理でしょう? 辞めたくなるのだって仕方無い。他にどうしようもないんだったら…卑怯な手段だって、使って逃れようと思うかも知れない。自分の信念に、悖らない程度の卑怯な手段なら、ね」
「…綾和泉さん」
「こんな事言うの、お節介かもしれないけど。あんまりそうやって個人の意思を無視してひとつの役目に縛り付けるのは…貴方がたの敵とする連中と、同じ事をしているようなものなんじゃない訳?」
「何を言う!」
「…すみません。綾和泉さん。代弁してもらっちゃって」
「え?」
「IO2も敵――例えば虚無の境界も、その『目的』が違うだけで、究極的な『手段』は何も変わらないと感じてしまったんですよ。俺は。一度疑問に思ってしまったらもう駄目でした。それは…機能的には捜査官として徹せます。けれど、心が付いて行かない――恐らく、それが上層部に読まれていたから、十年間も『代行』止まりだったんでしょうね。…俺は『飼えない』人間だと。最後まで正式に『統括』には任命されなかったんですから」
 真咲は苦く笑う。
「『目的の為なら手段を選ばない』。…そんなのは…その『目的』がどれ程崇高なものであったとしても、嫌だったんですよ」
「…ならば貴方は――IO2と関り無い場所で生きたいと、そう言う事なのですね」
 体格の良い黒服が言う。
「その通りだ」
 真咲は苦い顔のまま、即答。
 体格の良い黒服は唇を噛み締める。
 たっぷりと、数秒。
 そして。
「…わかりました。『真咲さん』」
 白梟、でも統括代行、でも無く。
 声音だけは初めと同様、押し殺した声で黒服はそう言った。
 それを受け真咲は暫し黙り込む。
 やがて、決意したよう踵を返し、カウンターの内側に戻った。紫藤の視線。受けながら表情も変えず、真咲は黒服の前へ。
 そして。
「…ひとつ忠告を、宜しいですか」
 再び丁寧な口調に戻り、真咲が言う。
 次には小さな声で。
 昔の、口調にまた戻る。
 ほんの、数瞬。
「――IO2で生きると決めたなら、上の方針に疑問を持つな。…それが手前の為になる」
 体格の良い方、茶色の髪を伸ばした方、黒服の両方をじっと見てから。
 ふ、と表情を緩める。
「…どうぞ、幸運を」
 静かに微笑んだ。
 バーテンダー、の顔で。
 体格の良い黒服はカウンターに手を置いた。
 そして、スツールに改めて腰掛ける。
 …注がれていたジャック・ダニエルを、呷った。
 自分は『客』であると、改めて。
 空になったグラスを認め、真咲は黙ってチェイサーを差し出す。
「…頂こう」
 体格の良い黒服はそのグラスも、受け取る。
 満たされていた、トニックウォーター。
「やっと静かになった、と考えて良いのかしらね」
 伊達である眼鏡をそっと押し上げながら汐耶が言う。
「…随分と度胸の据わったお嬢さんだ」
 ぽつりと長髪の方の黒服。
「本人の意思を無視して無理矢理どうこう、っての嫌いなの。…それだけよ」
 言ってジョン・コリンズのグラスを傾ける。結構経っているのに炭酸があまり抜けていない。この手のカクテルは時が経てば経つ程提供側の手腕がもろに出る。…気泡を大切に作られたか、否か。
 やがて中身を飲み干し、汐耶はカウンターに空になったグラスを滑らす。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
「有難う御座います」
 小さく会釈する紫藤。
 汐耶はそれを見ていたのだが――何故か、そこに。
 紫藤から――カウンターから外れた場所になる、壁。視界の隅に。
 ひらひらと。
 何かが。
「え…蝶?」
 舞う、極彩色。
 …酒場――飲食店にこんなものが紛れ込んでくるものか?
「――違い、ます」
 ぽつりと。
 硬い声。
 頼りなく飛んでいるのは――ひらひらと舞う可愛らしくも麗しい、胡蝶に――非ず。
 汐耶の気付いた『蝶』を見るなり、真咲の瞳が険を帯びる。
 IO2捜査官の黒服ふたりと対峙した時よりも、切羽詰まった――何か。
「…お前らいったい、何を連れて来た――?」
 何処か、虚ろな声で。
 真咲は呟いた。

 鱗紛纏った羽の中央。
 見出されたは大きな目玉。
 禍禍しくも、贋物の。

 ――蛾。

 くすくす

 笑う声。
 重なる。
 増える。
 ざりざりと。
 楽しそうに。
 悪意に満ちた。
 無邪気過ぎる笑顔――人の、顔。
 そこに続く小さな、人型。
 それらの背には蛾の羽が、頭には触角が――。

 …店内を見渡した時にはもう遅い。
 群れを成してそこにいた。

 ――『邪妖精』。

 即ち、そこに現れたのは――虚無の、境界。

【続】