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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


『白の魔弾』  第三章 灰色の計略

■ レナーテ再始動。

 レナーテは、ゆっくりと立ち上がった。
 あの白い法衣とケープは脱いでおり、タンクトップとスパッツだけの出で立ちだ。かき乱された塵が、冬山に舞う粉雪のように、白い肌にまといつく。
 遠く隔てられた幹線道路から自動車の音が響くだけの、旧米軍キャンプ地の取り残された建物の中。
 誰もいないその衛生棟跡には、埃と陽差しで磨りガラスのようになった窓から、黄ばんだ陽差しが差し込んできていた。
 忘れ去られた絵のようにコンクリートの壁へ掛けっぱなしになっている、一枚の鏡が目に入る。
 レナーテはタンクトップを脱ぐと、曇った鏡に背中を映した。
 雪のような肌の中に、桜色のケロイドができていた。
 大きく触手を広げたイソギンチャクが、薄い皮膚の下に埋まっているかのようだ。
 レナーテは目を閉じて埃っぽい空気をゆっくりと肺の奥まで吸い込むと、またゆっくりと吐き戻した。
 あのときの激闘を、頭の中で再生する。
 異能力と物理攻撃力とを駆使して挑みかかってきた、生まれて初めての好敵手達。
 一人一人は、自分よりも弱かった。だが彼らは、1+1を3にも4にもして、自分を追いつめた。
 思い起こす。
 一瞬にして地下駐車場を覆った闇。
 弾ける空気の音。 
 光が失われる一瞬前の光景だけを頼りに、日本刀の一撃は食い止めた。
 その直後に襲ってきた、信じられないほどの痛み。
 神経の中を炎が走ったような衝撃に、レナーテはコンクリートの床に投げ出された。
 麻痺しそうになる身体を何とか動かし、赤外線暗視スコープを頼りに、どうにか地下駐車場を抜け出した。
 敗北。
 一度目のチャンスを逃したことに続け、自分は二度目のチャンスも掴むことができなかった。
 自分の行動にミスはあっただろうか、と思い起こす。
 幾度もかいくぐった刃を、無力化した異能力の奔流を、放った弾丸を、振り抜いた切っ先を、その全てを、もう一度シミュレーションし直した。
 ミスはなかった。
 数十分に及ぶ、瞑想のような時間の後に。それが、レナーテの出した答えだった。
 敗北を喫したのは、純粋にあの状況下では彼らの方が自分より強かったからに過ぎない。
 もう一度大きく呼吸した。それから、ゆっくりと瞼を上げる。
 優先順位を替えなければいけない。
 そう、判断を下した。
 周囲への影響を最小限に抑えることを優先していては、零は処分できない。
 レナーテは手早く服を着込むと、黒い外套を羽織った。黒い楽器ケースを、埃の積もった床から持ち上げる。
 それから、右腕をまっすぐ前に伸ばし、手の平に意識を集中させた。
 陽差しを反射してキラキラと舞う埃の中。それよりもひときわ明るい光の粒子が、その手に集まり始める。
 マグネシウムが燃焼して放つ閃光のような。
 純粋な白のその光は、やがて彼女の手の平の上で凝集していき――――
 呼吸三つ分ほどの後、レナーテの手の中に、不釣り合いなほど大きい純白の銃が握られていた。


■再結集。

 都内某所。
 うらぶれた印象からもう一つ足を抜ききれない路地に門を構える、草間興信所の、その中で。
「神聖兵器、ですか…」
 宮小路・皇騎は腕組みをして、うなるように呟いた。
「物騒なガキだとは思ってたけど、ただのサイコ野郎じゃなかったってことすね」
 ソファの背もたれに座った六巻・雪が、草間の方を向いてそう口にする。
 デスクへななめに腰掛けた草間は、興信所に集まってくれた面々を見回し、マルボロを深く吐き出してから、ゆっくりとうなずいた。
 事務所の中にいるのは、彼を入れて6人。
 リヒテ・ルルキアを名乗る男との対面にも同行してくれた、風野・時音と海原・みその。
 加えて、今それぞれに声を上げた皇騎と雪。
 そして、妹であり、今回の事件でいきなり『白の襲撃者』ことレナーテに命を狙われた、零だ。
 草間達は各々にソファやイスに腰をかけ、これまでに掴めた情報の整理をしていた。
 普段から綺麗だとは言えない興信所の中が、今日はとりわけ汚かった。
 いつもなら、少しも厭うことなく、散らかった資料や灰皿の吸い殻や床に落ちた紙くずをにまめまめしく片付けていく零が――――今は堅く唇を引き結んだまま、ソファに腰を下ろしている。
 ただじっと目の前のガラステーブルにそそがれる、煮詰めたワインのような色の瞳。
 膝の上で握られた両手の平には力がこもり、わずかに背中を丸めたその姿は、今にも弾けそうなほどにたわんだ竹を思わせた。
 隣に腰掛けたみそのも、どう声をかけていいものか分からないようだ。
 草間は傍らの灰皿に灰を落とし、
「ただのサイコどころか、最悪の刺客だ。
 しかも」
 ため息とともに、もう一度マルボロを唇にはさみ、続けた。
「正体不明の男のうさんくさい言葉以外、掴めているものが何もないときている」
「…信じてはいないんですか?」
 ソファの上から、時音が言葉を向ける。
「…盲信はしていないってとこだ」
 草間は、肩こりでもほぐそうとするかのように首をぐるりと回してから、答えた。
「僕と六巻君は、その人にお会いしていないんですが。
 その、草間さんがおっしゃるとおり、うさんくさい方だったんですか?」
 他の4人へ、皇騎。
「いえ…少し言葉遊びの過ぎる方のようでしたけれど、怪しさが服を着て歩いている、というような印象は受けませんでした」
 ね。と水を向けるみそのに、時音もうなずきで応えた。
「ええ…身なりもきちんとしていましたし、話の内容にも、別に矛盾はなかったですし。
 …ちょっと、草間さんに似ている気がしました」
「いい男じゃんか」
「よせ」
 茶化した雪に、斬り捨てるような草間の声。
 それから怪奇探偵は、ほとんど灰になったマルボロを口元から引き抜くと、
「みんながどう思っててもいいがな、リヒテ・ルルキアとかいうあの男は、とんだ食わせ者だ。
 時音。おれたちの手元に今ある情報で、リヒテから受け取ることができたものが、一体どれくらいある?」
 それを灰皿に放り投げながら、時音の方へ顔を向けた。
「『白の襲撃者』の名前とか、ナチスドイツの兵器開発の話とか、いろいろあるんじゃないでしょうか」
「レナーテだとか神聖兵器だとかな。
 だがな、その信頼度なんて、『白の襲撃者』の本名が花子で、ナチスドイツの開発していた代物が「人生平気」とかいうダジャレ兵器だった、ってのと同程度だ。
 大戦末期の遺産を、世界的な陰謀が引きずってるなんて類の話だぞ。誰にも裏なんて取れやしない。
 いいか、もっともらしい呼び名に騙されるなよ。
 ルルキアは――これだって、あいつの本名かどうか分からんが――結局何一つ、新しいことをしゃべっちゃいないんだ」
 言い切った草間の言葉に、暫時、ソファの周りが居心地悪い沈黙に包まれた。
 糊を混ぜたように重くなった空気に、小さくため息をつくみその。
 それから、
「…それは分かっておりますけれど」
 少しためらいがちに口を開いた。
「草間様。私たちには、道は二つしかありませんわ。
 ルルキア様の言葉を信じて戦うか、それとも信じずに戦うか」
「道が二つもあるってことの方が驚きだよ、みその」
 新しい煙草に火を付けながら、草間が少し尖った視線をみそのに向けた。
 いつになく、ペースが速い。
 本当に、零様のことになると、ご自分を見失われますね…
 今度は胸の中でため息をついたみそのに、気付いた風もなく続ける草間。
「俺の頭の中では単純な話だ。
 『白の襲撃者』を全力で撃退する。
 『白の襲撃者』が生きてるか死んでるかなんてのは、ただの結果論だ」
 その言葉に込められた響きは、いつになく固かった。


「イライラしてんなぁ、草間さん」
 雪は頭の後ろで手を組み、天井のライトを見上げながら呟いた。
 草間興信所からほど近い、カフェの中。
 最初に雪たちが草間からの呼びかけを受けて集まった、あの喫茶店に、また彼らの姿があった。
 興信所を辞したあと、誰から言いだしたとなく、皆の足が向いていたのだ。
「妹想いだからね、草間さんは」
 苦笑いを浮かべ、デミタスカップを傾ける、皇騎。
 よくそんなニガいもん飲めるな。と、雪が顔をしかめた。
「草間様のおっしゃることも一理ありますわ。
 結局あのときルルキア様がお話しになったことは、ほとんどが事前調査の内容の追認でしたから」
 バニラミルクの小さなコップを両手で包み、取りなすように、みその。
「しかも、肝心なことを聞く前に…」
「警官隊の乱入、ですか」
 時音の言葉を皇騎が引き取る。
 時音は少し表情を険しくして、うなずいた。
「ルルキアさんの言葉に従って、僕たちが立ち去った、その本当に数十秒後のことでした」
「分かんねぇな。だとしたら、ルルキアって人の言うことを信じない理由はないんじゃないのか?」
 ストローの先でグラスの中の氷をつつきながら、雪。
 皇騎はカップをソーサーに戻すと、
「信じてはいけないという理由はない。それと同じく、信じられるという理由もない。
 白と黒のはっきりしない状況の中に、今僕たちはいる。
 それが最大の問題なんだ」
 言い聞かせるような言葉とともに、隣に座った雪に視線を送った。
「白黒ははっきりしてるだろ。
 草間さんの言葉じゃねぇけど、レナーテを叩きのめして、零さんを助ける。
 それが白と黒だろ」
「僕たちの白と黒はね」
 再び苦笑いで、答える皇騎。
「気になるのは、リヒテさんが語ったことが本当だった場合ですね。
 神聖兵器と心霊兵器に優劣の差が付いてしまうと、パワーゲームが始まることになると言っていました」
 自分の言葉に、時音はテーブルの上についた手に力が入るのを感じた。
 レナーテそれ自体が異能キャンセル装備の塊のような存在だということもあり、もしかしたらという疑念がどうしても拭えない。
 リヒテの語った「パワーゲーム」は、『怪異』への呼び水なのかも知れない。
 時音がリヒテの言葉を信じる気になるのも、その予感があるからだった。
「従姉弟から聞きました。彼女は「東西冷戦」と言ったそうですね」
「ええ」
 皇騎の言葉に、みそのがうなずく。
「ですが、あいにくとわたくしは存じ上げないのですけれど…
 東西の冷戦というと、一体…?」
 小さく首をかしげるみそのへ、「ああ」と皇騎は呟きをもらした。
「そうですね。みそのさんの知識だと、ちょうど手薄になっている時代のお話ですから」
「お恥ずかしいですわ。
 零様にお会いしてから、大戦の頃のことは学究も致しましたのですけれど」
 頬に手をあて、みそのが気恥ずかしそうに目を細める。
 皇騎は応えるように微笑みを返してから、
「さあ、現役高校生。現代史の問題だ」
 ぽん。と雪の肩を叩いた。
「…なんでおれに振るんだよ」
 雪は隣の美青年を半眼で睨んでから、
「第二次世界大戦のあとの、アメリカとソ連の関係だろ。
 資本主義と共産主義が対立して、二大超大国のいがみ合いに世界中が巻きこまれた。
 20世紀半ばのキューバ危機で最大の緊張に達して、そのあとはベルリンの壁の崩壊から20世紀のどん詰まりのソ連解体を経て、一応終わったことになってる。
 その間には、世界のいろんな所でアメリカとソ連の代理戦争が行われた。
 冷戦の背後には、イデオロギーの対立だけがあったワケじゃなくて――――」
「核兵器という、絶対的な恐怖の存在があった。
 そう。よく勉強してるじゃないか」
 まるで教師のような笑顔でそう評する皇騎に、雪は「なめんな」と中指を立てた。
「すると、神聖兵器と心霊兵器のどちらかが、あの大戦を終わらせた核兵器と同じだけの威力を持つことになる、と?」
「草間さんの言うとおり、盲信はできません。
 冷戦の例を引いたのは僕の従姉弟で、ルルキアさん本人は、それを肯定も否定もしていないそうですしね」
 デミタスカップを軽く揺すりながら、答える皇騎。
 時音が黙って腕を組み、みそのは少し困惑したように、手の中のグラスに視線を落とした。
 その、一座を見回して。
「面倒くさいことばっか考えててどうするんだよ」
 少し呆れたような口調とともに、雪がもう一度頭の後ろで手を組んだ。
「そのあと何が起こるにしろ、零さんを見捨てるなんて出来ないだろ?
 だったらレナーテに勝つことを考えようぜ」
「その通りだけど、六巻君。僕たちの問題は、勝ち方にあるんだよ。
 本当の敵は、レナーテじゃない。その背後にある思惑だ」
 もう一度雪の肩に手を載せて。
 皇騎は向かいの二人に顔を向けながら、そう続けた。


■それぞれの策

 翌日。
「ういーっす」
 草間興信所のドアをくぐった雪の視界に入ったのは、時音と零だけだった。
 時音はいつものソファに腰を下ろして、それなりにくつろいだ様子でお茶をすすっていた。
 一方の零は、草間のデスクの隣に立ったまま、じっと自分の手元を見つめている。
 積み上がった資料に隠れてはっきりとは見えないが、その手の中にあのプリントアウトがあるのは確実だった。
「おはようございます、六巻君」
 時音があいさつを返してくる。
「あれ、こんだけしかいないの?
 草間さんは?」
「昨夜遅くに、出かけましたよ。
 アトラス編集部の麗香さんから、電話があって」
「は。モテモテだな、相変わらず」
 揶揄するような口調とともに軽く手を振ってから、雪は時音の向かいに腰を下ろした。
 気付いてもいないのではないかと思えるほど、身じろぎする様子さえない零の方へちらりと視線を向けてから、
「変わったことは、無かったすか」
 顔を時音の方へ戻し、尋ねる。
 時音は小さなうなずきで答えた。
「そうそう油断してもいられないけど、レナーテもすぐには動けないんじゃないかな。
 怪我の治療もあるだろうし、作戦だって練るだろうしね」
「かも知んないすね。
 おれたちの方も、対抗策考えといた方がいいのかも」
「もちろんだよ。
 僕はもう考えた」
「へぇ。どうするんすか」
 ソファから軽く身を乗り出した雪に、時音はにこりと笑みを返した。
「レナーテが気軽に銃を扱えないような状況を整えようと思う。
 ただその話は、みんなが集まってからにしよう」


 時音と雪が、特にこれと言って取り立てることのない世間話をはじめて、10分ほど経った頃。
「おはようございます」
 しっとりとした染み入るような声とともに、濡れたように艶やかな黒髪の人影が、興信所の戸口を抜けてきた。
 誰あろう、マッコウクジラも目を回す世界の底と地上との気圧差を平然と乗り越える、深淵の巫女 みそのだ。
 時音が腰掛けているソファの背もたれ越しにその姿を見留めて、
「おはようさんです」
 雪は軽く手を挙げた。
 前回会った時はかなりきわどい格好で驚かされたが、今日はそれなりに肌が隠れる服をまとっている。
 ぴっちりと首もとをおおう立て襟と、対照的に切り落とされてむき出しの肩が印象的な、光沢のある生地の衣装だった。
 都市迷彩の軍服のような、グレーと黒のまだら模様が少し挑発的だ。
 律儀に「おはようございます、六巻様」ともう一度会釈を返してくるみそのの黒髪が、絹のような白い肌をなでる。
 彼女は顔を上げて一渡り興信所の中を見渡してから、
「あの…草間様は」
 振り向いた時音に問いかけた。
「ああ。昨日の夜遅く、出かけましたよ。
 アトラスの麗香さんと会うんだと言って」
 時音が、雪にも告げたことを繰り返す。
 その言葉に、みそのは少し解せない様子で柳眉をしかめた。
「…零様をおいて、昨夜からお戻りがないんですか?」
「ええ…なんでも、頼んでいたことが掴めたみたいだから、ことによったら遅くなると言っていましたよ」
「頼んでいたこと?」
 考え込むようにして、みそのが細いおとがいに手をあてる。
「今は詮索してても始まらないだろ。
 戻ってきたら聞かせてくれるって。
 何かありゃ、携帯だってあるんだし」
 みそのへというよりは、そちらに顔を向けたままの時音の方へ、雪は軽く後ろ頭をかきながらそう言葉を投げた。
「…まあ、確かに六巻様のおっしゃるとおりですね」
 半ば自分を納得させるようにうなずいてから、軽いため息とともに、みその。
 それから、
「あとは宮小路様がいらっしゃれば、とりあえず皆さんおそろいになりますね」
 言いながら、ソファを回り込んでくる。
 ふわり。と、水鳥の翼を思わせる動きで、艶のあるグレーの生地が雪の視界を横切った。
 向かいのソファに腰を下ろしたみそのが、しなやかに足を組む。
 あり得ないほど上の方まで切られたスリットから、蠱惑的な太ももがのぞいた。
「うぁ…」
 言葉を失う雪。
「いつものことですけど、みそのさん」
 その一方で時音は、のほほんとした表情で。
「何を着ても似合いますね」
 みそのが身にまとっていたのは、都市迷彩のアオザイだった。
 いろいろな意味で限界に挑んだスリットが、やたらと挑戦的。
「ありがとうございます」
 あの聖母のようにおおらかな微笑みとともに、みそのがまた足を組み替える。
「殿方を鼓舞するためには、「ちらりずむ」も大切だとうかがったものですから」
 そこだけ妙に棒読みな、不穏当な単語を耳にしながら、雪は黙って視線を逸らした。


「すみません。遅れました」
 わずかに弾んだ息づかいとともにそう声がかかり、草間興信所のドアが押し開けられたのは、それからさらに10分ほど後のことだった。
 事務所の中でソファについていた4人――時音と雪とみその、そしてみそのに促されて、ようやくデスクのそばを離れた零――が、そろって振り向く。
 ドアを抜けて歩み寄ってきたのは、皇騎と数人の若者たちだった。
「はよっす。
 …てか、その人たちは?」
 部屋の中を代表するかのようにあいさつを返してから、雪の指先が皇騎の同道に向けられる。
「僕のもっとも信頼する部下たちだ。レナーテを追い込む手伝いを頼む」
 手短に答えながら、皇騎はソファを回り込んだ。
 空いている所を見つけて腰を下ろすと、ぐるりと周りを見渡す。
 聞かれるより先に、草間の不在の説明をする時音。
 皇騎は軽くうなずいてから、視線を零の方へと投げた。
 昨日と変わらず、その表情は硬い。消沈しているというよりは、何かを思い詰めているようだ。
 その姿に小さくため息をついてから、皇騎は皆の方へと向き直った。
「では。
 草間さんがいないのはちょっと問題ですけど、先に今後の計画を立ててしまいましょう」
 少し身を乗り出すようにして、口を開く。
「そうですね。根本方針は、レナーテとの対決を避けない、ということでいいでしょうか」
 皇騎のあとを引き受けて、時音。
 見渡す視線の先で、集まった仲間たちがそれぞれにうなずいた。
 零だけが、じっと目の前のテーブルを見つめたまま身じろぎもしない。
「つっても、どうする?
 さっき時音さんとも話してたけど、向こうだってバカじゃないぜ。
 計画も練ってくるだろうし、イザとなりゃ――――」
 そこまで言って、少し不器用なまなざしを零に向けてから、
「狙撃みたいなこと、してくる可能性もあるだろうしな」
 ややトーンを落として、雪はそう続けた。
「反異能力の波動とともに飛来する銃弾と、人体の限界に挑むような身体能力ですからね。
 確かに、一筋縄ではいきませんわ」
「またこちらが用意した舞台に飛び込んできてもらう必要があるでしょう。
 街中で好き勝手なことをされれば、それこそ手が付けられない」
 結んだ両手の平に口元を埋めるようにして、皇騎がみそのの言葉に答えた。
 うなずきを返しながら、
「巡らせる策のさじ加減は難しい所ですね。
 最終的には、お助けすることになるのでしょうし」
 最後の部分は零を気遣うように、みその。
「確かに、僕たちだけが手加減をするなら、難しいですよ」
 珍しく、時音が含みのある言い回しとともに。
「と、言うと?」
「僕たちは異能力を無力化されて、向こうは容赦なく銃撃してくる。
 そんな状況を作ってしまえば、僕たちは圧倒的に不利になります。
 だから、レナーテが銃を使いにくくなるようにしようと思ってます」
 促す皇騎の言葉に、軽く身を乗り出すようにしながら時音は答えた。
「なるほど。
 彼女にも不自由を味わってもらおうってことですね」
「何か策がございますの?」
 にっと笑みを刻む皇騎と、問いかけてくるみその。
 時音はうなずきを返し、
「直接的な異能力が届かないなら、状況を利用しようと思います。
 まずは、皆さんなるべく強力な異能力を、何かにつけて使うようにして下さい」
 そう、続けた。
「陰陽五行や土石を操る力をですか? それはまた、なぜ」
「レナーテに、こちらの切り札が依然として異能力にあると思わせるためです」
 答える時音に、皇騎はもう一度「なるほど」と呟き、目を細めるようにして笑った。
「確かに、僕たちが彼女の反異能力の秘密を握ったということは、彼女にはまだ知られていないはずですしね」
「そういうことです」
 時音が再び首を縦に振る。
「だったら、おれの出番だな」
 雪が、少し意気込んだ声音で、ソファの背もたれから上体を起こした。
「君にも考えが?」
 からかうような皇騎の言葉に突き立てた中指で答え、
「土人形で零さんのダミーを作ってやるよ。的が散らせるし、標的が多くなれば気も取られやすくなるだろ」
「ずいぶん日焼けした零さんになりそうだな」
「長袖長ズボンでも着せるさ」
 面白そうにぽつりともらした皇騎へ、雪は軽く腕を広げながら答えた。
 皇騎は一つうなずくと、
「…ちらりずむがありませんのね」
 呟くみそのに怪訝な視線を向けてから、
「レナーテを引き込む舞台は、僕が用意しよう。
 御宗家管理の霊場や霊址に霊的な多層調整を加えて、零さんに有利に働くようにしておきます」
「全壊しても構わないような、でかい建物がいいすよ」
 追いかけるような雪の言葉に、「分かってるよ」と微笑みながらうなずく皇騎。
「備えあればと申しますから、防弾衣のようなものも用意した方がよろしいでしょうね」
 ちらりと零に視線を走らせ、みそのが口を開いた。
「そうですね。
 ただ、人間の肩を一発で吹き飛ばすような弾丸ですから、過信はしないで下さい」
 『怪異』後の未来世界で銃弾の下をかいくぐってきた時音が、控えめに釘を刺す。
 皇騎は軽く肩をすくめた。
「防弾衣と土人形の服は、宗家に頼んで準備してもらいます。
 それで、時音さん。他にも何かあるんでしょう?」
「ええ…いえ、でもそっちは、僕が」
「何やるんすか、一体」
 尋ねてくる雪に、時音はちょっと困ったように笑った。
「うん。騒ぎを起こして、周辺に警察を集めておこうと思うんだ」
「騒ぎ、とおっしゃいますと?」
「レナーテには銃がありますからね。
 この辺りで銃撃事件や凶悪犯罪が多発して、警官の警戒が厳しくなれば、そうそう簡単には発砲できなくなるでしょう」
「そりゃ、理屈はそうすけど…」
 雪が怪訝な表情を向ける。
「大丈夫。考えがあるんだ。
 …僕より遙かに『光刃』を使いこなす男が、教えてくれたことがね」
 安心させようとするように、目元にいつもの柔和な微笑みを浮かべながら、そう答える時音。
 その脳裏には、死神のような黒衣の男の姿が浮かんでいた。
 皇騎は苦笑いとともに「やれやれ」というようにため息をついて、
「では僕は、レナーテとの決戦に備えさせてもらいます。
 従姉弟が始めた調査も継続させてますから、何か分かればすぐ皆さんにご報告しますよ」
 言いながら、後ろに控えていた彼の部下たちの方へ顔を向ける。
「よぉし」
 皇騎が小声で彼らに指示をしていくのを見やりながら、雪はソファの上でぐるりと肩を回した。
「あとは、レナーテが食いつくのを待つだけだな」


■草間 武彦。

 時間は、少し戻る。
 皇騎と雪が合流し、一通りの情報整理を終えて、いったん彼らが帰ってしまった後。
 草間は普段着のジャケットを羽織っただけの格好で、カフェ・バーへと向かっていた。
 古びたレンガ造りのビルの地階にある、ここしばらく足を運ぶことのなかった店。そこを指定してきたのは、アトラス編集部の碇 麗香だった。
 古木の肌のような赤錆びた手すりを回り込み、すり減った階段を足早に下りる。
 白熱灯のスポットライトにてらされた重い木のドアを、草間はゆっくりと押し開けた。
「あら。今日は早いのね」
 店の中から、揶揄するような声がかけられた。
 麗香だ。
 数組のカップルと数人の一人客の中でも、独特の香気を放つようなその存在感はひときわ目を引く。
 草間は彼女の座ったカウンターのほうへと歩み寄り、
「何が分かったんだ」
 その隣に腰掛けると、前置き抜きで本題に入った。
 麗香は小さくため息をつき、肩をすくめるようにして隣に置いたバッグを手に取る。
 その中から彼女が取りだしてきたのは、クリアフォルダに挟まれた雑誌のページだった。
 差し出されるままに受け取り、ざっと目を通す。
 ややブレた写真が紙面の上半分を占めていて、その下には「深夜の会合 ―防衛官僚と米軍幹部の間で何が!?―」とセンセーショナリズムを煽るような見出しが付けられていた。
 面倒なので、記事は読まない。
 もう一度写真に目を戻す。
 グレーのスーツに身を包んだ30歳前後の日本人男性と、白髪が交じっているものの巨躯が威圧的な黒人男性とが写っている。
 背景は、どこかの高級料亭前のようだ。
 草間はクリアフォルダから顔を上げ、麗香のほうへと視線を送った。
「なんだこりゃ、って、言いたげね」
 グラスに軽く口を付けながら、麗香。
「分かってるなら、説明してくれ」
 言って、草間はカウンターの上にクリアフォルダを置き、促した。目があったバーテンに「バランタインを」と告げる。
「これはね、白王社のボツ原稿の中から、引っ張ってきたものよ」
 麗香はクリアファイルに軽く手をのせ、草間を見た。
「ボツ原稿?」
「そうよ。96年の、ね」
「ずいぶんと中途半端なものを引っ張り出してきたな」
 カウンターに置かれたショットグラスを顔の前に持ち上げて、草間。
 麗香は軽くため息をつくと、
「その当時、沖縄米軍の不祥事が多発して、社会問題になっていたのよ。
 覚えてない?」
「覚えてるよ。終わった話だとも思ってないがな」
「そうね。
 ま、そのころ白王社の取材部も、特別チームを組んでその周辺を追ってたのよ。
 その成果の一つが、これ」
「ボツなんだろ」
「その頃はね。もっと話題になりそうなネタがすっぱ抜けたから、これは弾かれたのよ」
「かいつまんでくれ。全部読む気にはなれない」
 草間が、適当に手を振りながら。
「その写真を見るぐらいの根気はあるかしら?」
「今のところはな」
「いいわ。
 そこに、男が二人写ってるわね」
「ああ。日本人風とアメリカ人風とな」
「風じゃなくて、そのものよ。
 日本側が、大竹雅臣(おおたけまさおみ)。米国側が、サミュエル・ハンター」
「聞き覚えがない」
「でしょうね。
 大竹は防衛庁事務次官の首席秘書官よ」
「…防衛官僚トップの懐刀ってことか」
 確かめるような草間の言葉に、麗香は軽く目を細めることで答えた。
「で…サミュエル某ってのは、何者だ」
「サミュエル・ハンター。その当時の、アメリカ国防総省のトップ10ぐらいかしら」
「すごいのかすごくないのか、よく分からないな」
「そう?
 じゃあ、こう言い換えようかしら。
 サミュエル・ハンターは、IO2黎明期の、主要設立メンバーの一人よ」
 その言葉に。
 草間の瞳を、ナイフのような光がよぎった。
 バランタインのグラスをカウンターに戻し、マルボロをくわえる。
「…IO2創設の功労者が防衛官僚と密談してること自体は、大して不思議じゃないだろ」
 火をつけて一つ吸い込んでから、草間は紫煙とともに言葉を向けた。
「そうかしら?
 この直後、ハンターが国防総省からもIO2からも、籍を抜いたって言っても?」
「…どういうことだ」
 眉をひそめる草間に、麗香は肩をすくめて見せた。
「さあね。私にも分からないわ。
 事実として、大竹との料亭談話のあとハンターは国防総省を退官して、IO2の前身となった機関とも距離を置いたわ。だからその記事も、価値を落とした。
 2年前にハンターが大統領の外部顧問と目されるようになった時には、沖縄米軍の話題自体、風化寸前になっていたわ」
「悠々自適のじいさんになってた、なんてオチじゃないんだろうな」
「今のハンターはね、FEMAの外部機関の理事を務めてるわ。
 FEMAって、ご存じ?」
「知ってるよ」
 マルボロをふかし、草間は目をすがめた。
「CIA、FBI、NASAに続いて、陰謀論の好きな連中のやり玉に挙げられてる組織だ。
 連邦危機管理局。大災害時に大統領の委任を受けて、行政と軍の運営管理を一手に引き受ける機関だろ」
「ご名答」
 仮面のような笑みを向けてくる麗香に、手ぐしで髪をすく草間。
「それで、この大竹とハンターが、『白の襲撃者』とどんな関係になる」
「中ノ鳥島から私たちを救出した自衛隊の艦艇、覚えてるでしょう」
「『おおすみ』だったか」
「実質的にあれを動かす指示をしたのは、大竹よ」
 答える麗香。草間は無言で彼女の方を見つめたまま、写真の黒人を指でトントンと指し示した。
「その頃はもう、IO2にはいなかった」
「FEMAの外部機関にいたってことか」
「いいえ」
 グラスを持ち上げた草間へ、麗香ははっきりと首を横に振った。
「『おおすみ』に乗っていたのよ。
 覚えてないでしょうけどね」
 唇に近づけたグラスを止め、
「…あの船に、いたのか」
 草間の瞳の奥を、再び刃物の色の光が走る。
「おかしいと思わなかった?
 海難救助は海上保安庁の仕事よ。なぜ自衛隊の艦艇じゃなきゃいけなかったの?」
「なるほどな」
 バランタインを一息に煽ると、草間は音がするほど鋭く、グラスをカウンターへ戻した。
「曲がりなりにも外国の要人を中ノ鳥島に近づけるからには、海保じゃ役不足だったわけだ」
 麗香は口に出して答えることはなく、草間に視線を送ったまま、自分のカクテルグラスを唇に付ける。
 カウンターからクリアフォルダを取り、中から切り抜きを引っこ抜くと、草間はそれを手荒にたたんでジャケットのポケットにつっこんだ。
「行くの?」
 スツールを立つ草間へ、麗香。
「ああ。だがその前に、一つ教えてくれ。
 どうやってこの情報にたどり着いた」
 怪奇探偵の問いかけに、麗香は軽く肩をすくめた。
「IO2、中ノ鳥島、自衛隊…そういう繋がりを辿っていったら、その記事に行き着いたのよ」
「そんな効率のいい話じゃなかったろ」
 クリアフォルダを彼女の手元に返しながら、草間。
 カウンターに片肘をついてグラスをくゆらせるキャリアウーマンの、謎めいた微笑みを浮かべる目元には、上手な化粧でも隠しきれない隈がくっきりと浮かんでいた。
「…その黒人の大男、どこかで見たような気がしたのよ」
 ややの後、麗香はちょっと観念したように、そう答えた。
「…しらみつぶしにしたのか」
「あなたって、どうしてそう余計なところで勘が働くのかしらね」
 呟いて、麗香はスツールを回し、カウンターの方へと向き直った。
「行ったら? 私の情報がガセじゃないってことは、納得いったでしょ」
「ああ…よく気付いてくれた。
 …悪いな」
 ポケットの上から、たたんだ切り抜きに手を触れて。
 草間はそう言葉を投げてから、きびすを返してドアへと向かった。
 その後ろ姿を見送ることなく、
「…お馬鹿さんね」
 グラスを揺らしながら、麗香は呟いた。


 カフェ・バーのドアを抜けた草間を、少し肌寒い夜気が包んだ。
 レンガの階段の前で足を止め、ジャケットの肩を揺する。
「…防衛庁の、大竹…」
 呟いた。
 『白の襲撃者』の系譜が本当に中ノ鳥島と旧ナチスドイツに繋がっているのだとすれば、今この日本にいるいちばん真相に近い人間が、その大竹雅臣だろう。
 草間はもう一度ジャケットの肩をなじませて、足早に階段を上った。
 バーの面する路地を抜け、人通りの絶えた大通りへ出る。
 広い歩道の片側に大きなビルが建ち並び、反対側を突っ切る幹線道路を何台ものタクシーが光の航跡を残して、突っ走っていく。
 ふと、零が狙撃されたあのホテル前を思い出した。
 昼と夜という違いはあるが、地理的な条件はよく似ている。
 何の前触れもなくよろめいた零を受け止め、その白くて細い首筋に紅い色を見た時の、全身の血が一度に氷水に代わったような、あの感覚。
 草間は舌打ちをして、その記憶を脳の奥底にねじ伏せた。
 まだ終電に間に合うだろうかと、現実的な思考に意識を振り向け、足を速める。
 5メートルほど手前に、個人タクシーが停まった。怪しいとは思わなかった。
 後部座席のドアが開き、ダークスーツの頑強なシルエットが3つ、降りてきた。やはり、怪しいとは思えなかった。
 ターミナル駅の遠い明かりに目を向けながら、その集団の脇を歩みすぎようとした、その時。
 不意に右腕を取られ、背中へねじり上げられた。声を上げる間もなく、顎のすぐ下に腕が回される。
 本当にこれが人間の腕なのかと思う、丸太で身体を固定されたような感覚。
 囚われた、と悟った瞬間に、
「草間、武彦さんですね」
 三人のうちの一人が、場違いなほど事務的な声で尋ねてきた。
 声も出せない。うなずくこともできない。目線だけで、草間は「そうだ」と告げた。
 問いかけてきた一人が、草間を抑えているのとは別の、もう一人に顔を向ける。
 その男は無言でうなずくと、草間のボディチェックをはじめた。
 「やめろ」と言いたかったが、上下の歯を紙一枚咬むほどにも動かすことができない。
 本当に相手の声を封じたいなら口を押さえるなどナンセンスなのだと、草間は思い知った。
 やがて、ボディチェックをしていた男が、草間のジャケットから、あの切り抜きを引っ張り出した。
 それを先ほどの男の方へ差し出す。
 男はそれを受け取ると、草間の方を見つめたまま、乱雑にたたまれた紙片を広げた。
 胸ポケットからペンライトを出し、紙面を照らして視線を走らせる。
 最初にそれを見せられた時に、草間が費やしたのと同じぐらいの時間の後。
 男は切り抜きから顔を上げ、ペンライトを消すと、たたみ直したその紙切れを、草間のポケットへと戻した。
 それから、草間を抑えている男の方へ目で合図をする。
 丸太が外された。
 背中に固定されていた腕を振り、顎をさする草間。
「手荒な真似をして、申し訳ありません」
 やはり事務的な口調で、ペンライトの男が口を開いた。
「草間さん、乗ってください。
 大竹秘書官が、お呼びです」


■零とみその。

「ここが…?」
 呟いて、みそのはぐるりと周囲を見渡した。
 呪われた廃病院。
 すぐに思い浮かぶのは、そんなフレーズだった。
「旧国立衛生研究所の分所の跡地です。
 解体工事が始まるたびに事故があって、建物がまだ取り壊されていません」
 皇騎が自分の代わりにと残した部下が、みそのの方を向いてそう告げた。
 どこかで鴉が啼く。
 けたたましいその声は、侵入者の存在を何かに知らしめる警鐘のようにも聞こえた。
 「こちらへ」と、皇騎の部下が先に立つ。
 みそのは隣に立つ零へ視線を向けて、
「さあ、零様」
 そっと手を取ると、促した。


 次にみその達が足を止めたのは、研究所跡の建物の、広々としたエントランスホールでだった。
 割れた窓ガラスから差し込む陽差しだけが、スポットのように所々をおぼろげに照らし出すその空間は、
「…研究所だったと、おっしゃいましたよね」
 だが、思わずそう確認してしまうほどに豪奢な造りになっていた。
 モザイクタイルが敷き詰められた床。「研究所」と言うには不釣り合いに高い、吹き抜けのフロア。
 ドーム状になった天井からつり下がる埃まみれのシャンデリアは、革命で吊られた貴族の亡骸のよう。
 ホールの両側に、大きく弧を描いた階段が設えられていた。
 まるで悪魔が広げた腕のようだ、と、みそのは声にしないまま眉をひそめる。
「驚かれましたか」
 部下の青年が、いたわるような声でそう言って、苦笑いを見せた。
「ここの初代所長をしていた人間の、趣味だったようです。
 西洋文化を積極的に摂取する新進の気質があった一方で、人を人とも思わない残酷さをも持ち合わせていた。
 この建物は大戦前からあって、その頃からすでにいかがわしい実験が繰り返されていたようです」
 青年の表情に、影がよぎる。
 その原因は、聞かずとも分かった。
 この建物にわだかまる、澱のような瘴気。怨霊の念。
 今は陽の光で薄められ、乾ききったミイラのように勢いを失っているが――一度ここが夜の闇にひたされれば、その潤いを吸い上げて膨れあがるのだろう。
 力のある人間には、その存在が今もはっきりと感じ取れているはずだ。
 言葉がとぎれる。
 みそのと目が合うと、青年はもう一度笑顔を浮かべた。
 それから、
「この建物を、レナーテとの決戦の場として使ってください。
 建物自体は三階建てです。ホールから左右へ一直線に部屋が並んでいるだけのシンプルな構造ですから、中で迷う心配はないでしょう。
 いちばん広い空間は、このエントランスホールです。
 ご覧の通り、吹き抜けですからね。
 大戦前の建築物なので、頑丈には造ってありますが、あまり無茶なことをされると倒壊の危険性もあります。まぁ、一気に全壊とは行かないでしょうが、念のため気に留めておいてください」
 努めて明朗な声で、内輪な手振りを交えながら説明していく。
 みそのは彼に注意の半分を向けながら――もう半分が、立ちつくす零の方へと引き寄せられていた。
 リヒテ・ルルキアとの対面の後から硬い表情を見せることが多くなった、零。
 いつにないその思い詰めた顔には、かけるべき言葉が見つからなかった。
 ため息とともに、注意を青年の方へと戻すみその。
「それでは、この建物の霊的補強をはじめます。
 みそのさん、よろしいですか?」
 折良く向けられた言葉に、うなずきを返す。
 青年も一つうなずきで答え、それからエントランスホールの中心に立って建物の奥の方へと向き直り、静かに呪を紡ぎはじめた。


 みそのと零が旧国立衛生研究所の分所跡での準備を終え、草間興信所に戻ってきた時。
 事務所の中には、まだ草間探偵の姿が戻っていなかった。
 本当に、何処に行かれてしまったのでしょう…?
 片手を頬にあて、声にしないまま首をかしげるみその。
 と、
「…草間さん、帰ってこないね」
 呟くような声が、聞こえた。
 振り向く。半歩後ろに、目元だけでうっすらと微笑む零の姿が映った。
「零様…」
「…草間さん、危険な目に遭っていないといいけど…」
 視線を落としながら囁くように口にして、零はみそのの隣りを過ぎ、草間のデスクへ歩み寄る。
 座る人のいないいすの背もたれに、ほっそりした手がかけられた。
 その口元には、淡い自嘲にも似た笑みが浮かんでいる。
「零様…」
 もう一度、かすかに呼びかけながら、みそのは零に近寄った。
「みそのちゃん。私ね…」
 草間のデスクの天板へ、目を向けたままで。
「私とレナーテは、同じだと思うの」
 木目をなぞるように、小さく指を動かしながら、零はそう続けた。
「…何をおっしゃいますの」
 諫めるように言って、零の肩に手をあてるみその。
 が、零は小さく微笑みながら彼女の方へ顔を向け、首を横に振った。
「私は、レナーテと同じ。
 ここへ来て、草間さんの額に銃を突きつけるのは、本当は私だったのかも知れない」
「…零様…」
「みそのちゃん。
 さっきの研究所跡地、あったよね」
「…ええ」
「どう思った?」
「どう、とおっしゃいましても…」
 みそのは頬に手をやり、かすかに首をかしげた。
 零の言葉の意味を計りかねて、
「ただ、陰惨な力の潜む場所だ、と感じましたけれども…」
 そう、答える。
 零はにっこりと微笑んできた。
「うん。陰惨で、寒気のするような場所だったでしょう?
 でも、その陰惨な力が、私にはとても心地いいの」
 小さなうなずきとともに。
 さらりと続けられたその言葉に、みそのは色を失った。
「他のみんなだって…草間さんだって、あそこにいると気分が悪くなるよね。
 でも、私は違う。
 特に、皇騎さんの部下の人が霊的補強をしてくれた後の、強くなった怨念の流れはね。私にとっては熱いシャワーみたいに心地いいの。
 全身に力が染み渡っていって、ここでならレナーテに勝てるって、そう思える」
 淡々と続ける零の視線が、もう一度、空っぽのいすの上へ戻された。
「…私もレナーテも、兵器として造られた。
 草間さんは信じていないみたいだけど…私は、ルルキアさんの言ったことが本当だって分かる。
 同じ時期に中ノ鳥島で造られて、私が島に残り、レナーテはドイツに運ばれた。
 …もしそれが、逆だったら…」
 ぎゅ。と。
 背もたれの上の手が、小さく握りしめられた。
「…ドイツに運ばれたのが私だったら…
 みんなに銃を突きつけるのは、私の方だった。
 みんなに「大切な仲間」って言ってもらえるのはレナーテで…この事務所をお掃除するのも、レナーテだった」
「零様…」
 ため息のように呼びかけながら、みそのは両腕で零の肩を包んだ。
「そのようなことは、お考えになってはなりませんわ。
 零様は、もう過去の零様ではありませんもの」
 回した腕の中で、零が小さく身じろぎしたのが分かる。
「…ありがとう、みそのちゃん…」
 小声で、そう答えてきたあと。
 零はゆっくりとみそのから身体を離した。
 それから、いつか地下駐車場で見せたのと同じ微笑みを浮かべて、
「私、行くよ」
 はっきりと、そう告げる。
「私、あの研究所跡地で、レナーテを待つ。
 みそのちゃん。レナーテが来たら、私があそこにいるって教えてあげて」
「…零様…
 ご心配なさらなくても、レナーテはきっとわたくしたちが」
 励ますように笑みかけようとしたみそのを、零は首を横に振って遮った。
「気持ちはうれしいけど…レナーテが本気になれば、誰にも被害の及ばない結末なんてあり得ない」
 煮詰めたワインの色をした瞳が、まっすぐに向けられる。
「私たちを、甘く見ないで」
 芯の強い、その一言だけを残し。
 零は草間興信所を出て行った。


■皇騎の修行

 『チャンバー』の中ほどに立った皇騎は、潜水艦の気密ドアのようなハッチが閉まる音を、じっと目を閉じたまま聞いていた。
 宮小路家の本家が持つ研究施設の一角に、この『チャンバー』はある。
 言ってみれば、普通の道場で行うようなわけにはいかない過激な修行のための、特別な密室だ。
 それこそ潜水艦の耐圧核そっくりな、巨大なチタン硬球製の修験場である。
「…本当によろしいのですか」
 ドーム場になった天井にはめられたスピーカーから、気遣わしげな声が聞こえてきた。
「構わない。はじめてくれ」
 すっぱりと答える、皇騎。
 耐衝撃ガラスの奥に守られたカメラの向こうで、配下の研究員たちがため息をついてるのが分かる気がした。
「危険だと思ったら、止めますからね」
 再びスピーカーから声がして。
 『チャンバー』の中に満ちる空気の、質が変わった。
 皇騎が入ってきたのとは逆の壁の一部がせり出すように持ち上がり、暗い穴が顔をのぞかせる。
 その、奥から。
 子供ほどの背丈の、木組みの人形が歩いてきた。ひとりでに、だ。
 皇騎は静かに息を吐くと、腰に帯びていた太刀と脇差しをゆっくりと抜き放つ。
 妖刀『村正』。霊刀『子狐丸』。乱れ刃と直刃、陰と陽の二つの気を放つ二振りの業物が、『チャンバー』の空気にさざ波を立てた。
 木組みの人形が、目も鼻も形作られていないそのつるりとした頭部をかしげる。
 まるで、皇騎を値踏みするように。
 皇騎は右手の『村正』を青眼に、左手の『子狐丸』を脇構えにとった。
 凛と腰が定まるのを感じた、その瞬間。
 木組みの人形が、床を蹴った。
 あり得ないような瞬発力で一気に3歩の間合いを詰め、一撃目の手刀が左肘へ。
 迎え撃つべく『子狐丸』を振り抜く。
 その刃の下で、人形は風に踊る柳のように、身体をひねって切っ先をいなした。
 その回転を殺すことなく、人形が後足で地面を蹴る。
 振り下ろされる手斧のような袈裟懸けの軌道を描き、蹴り足が皇騎のこめかみを狙った。
 青眼にとった『村正』を跳ね上げるようにして、その一撃を食い止める。
 人形は動きを止めない。
 受けられた足で逆に『村正』の刀身を押さえ、引きつける。
 刀につられて皇騎の腕が伸びたところへ、残った足で鋭く跳躍して体を入れ替えた。
 遠心力で振り出される槍のように。
 木組みの人形が空中から放った横蹴りは、しかし、皇騎の『子狐丸』がしっかりと受け止めていた。
 きりきりと、鋼と木肌が音を立てる。
「…まだだ」
 皇騎が呟いた時、人形が動きを止めた。
 よもや壊れたわけではない。慌てた研究員たちが緊急停止させてしまったらしい。
「皇騎様、お怪我は!?」
 動転した声がスピーカーから聞こえてきたが、
「当たってない蹴りで怪我をするほど、僕は器用じゃないよ」
 二振りの刀を鞘に戻しながら、皇騎は何事もないような声で答えた。
 それから、マネキンのように転がる木組みの人形を見下ろして、
「これじゃ、まだだ。
 30%増強で頼むよ」
 言い放つ。
「さ…!
 無茶ですよ! そこまで行ったら、人体の解剖学的限界を超えることになります」
「それから、銃と鍛造刀のシミュレーションも付け加えるんだ」
 ともすれば裏返りかねない声を抑えて告げる研究員に、皇騎は付け足した。
「皇騎様。無茶です。やめてください。自殺の手伝いをすることはできません」
 スピーカーから聞こえてくる声は、懇願せんばかりだった。
 確かに、この木組みの人形は千余年の歳を経た御神木を削り出し、曰く付きの付喪神を憑依させた、この上なく危険な組み手の相手だ。
 外部からの霊力を遮断するこの『チャンバー』の中ででなければ、とうてい取り扱うことはできない。
 その上さらに武器召喚で呼び出した『銃』と『剣』を持たせろというのだから、これは本当に自殺といわれても不思議ではなかった。
 だが。
「どのみち僕は、そういう相手と対峙することになるんだ」
 皇騎は静かにそう告げると、襟元からスポーツグラスを取りだした。
 振り払うように柄を開き、顔にかける。
 ゆっくりと目を開くと、半透過式のスポーツグラスを通して、画像処理された『チャンバー』内が飛び込んできた。
 足元に目をやる。
 そこに座り込んでいるのは、あの木偶人形ではなく、琥珀色の髪の少女だった。
 ――レナーテ。
「はじめてくれ」
 目を向けたまま、声をかける。
 スピーカーの向こうは、色を失ったように沈黙していた。
 皇騎は再び『村正』と『子狐丸』を引き抜いた。
 二歩後ろに下がり、間合いを取る。
「はじめてくれ」
 もう一度、声をかけた。
 『レナーテ』の肩がぴくりと動き、その手元に、あの白い銃と鍛造刀が握られた。


■連続銃撃事件

 黒塗りのベンツSクラスが、繁華街にほど近い雑居ビル前に停まった。
 似つかわしくないスカジャンの若者がその運転席から降りてきて、ドタドタと後部座席のドアへ回る。
 彼がドアを開けると、仕立てのいいスーツに身を包んだ40がらみの男が車外へ姿を現した。
 身なりにさほど派手さはないが、その異様に鋭い眼光が、彼が堅気の人間ではないことを周囲に知らしめている。
「駐車場に入れる前に、ワックスかけとけ」
 男がスカジャンの若者へ、手短に伝える。
 若者がへつらうように頭を下げた、その時。
「ニコニコ商工金融の、佐藤さん?」
 背後から声がかかった。
 動きを止め、振り返る男と若者。
 ベンツの向こうに、サングラスにスキーニット帽という、怪しさ丸出しの青年が立っていた。
 何が入っているのか、大きなボストンバッグを肩にかけている。
「なんだぁ、テメェ」
 顔がゆがんだかのようなガンを飛ばし、口を開くスカジャンの若者。
「ニコニコ商工金融の、佐藤さん?」
 それをまるっきり無視して、ボストンバッグの青年がもう一度。
 スーツの男がベンツに一歩歩み寄り、
「私が、佐藤ですが」
 丁寧だが圧倒的な威圧感を込めて、答える。
 青年が、口元に笑みを浮かべた。
 そのままボストンバッグに手を突っ込んで、ずるりと黒い鉄棒を引き出してくる。
 ――否。それは、鉄の棒などではなかった。
 青年の手に握られていたのは、ハリウッドの戦争映画でしかお目にかかれないような、鋼の機関銃。
 微笑みを向けたままで、サングラスの青年が手早く遊底をスライドさせた。
 金属がこすれる、あの音が響き渡る。
「やめ――」
 佐藤が口を開くより早く。
 青年の指が、引き金を絞った。
 立て続けに破裂する何百発もの爆竹に似た音ともに。
 Sクラスベンツの鋼板へ、豪雨の中の水たまりのように無数の弾痕が穿たれていった。


「無茶すんなぁ、時音さん」
 時音と並び、人波に沿って歩きながら、雪は少し呆れたような声音でそう口を開いた。
 その肩には、あのボストンバッグ。
 スキーニット帽で少し癖付いた髪をすきながら、時音は「あはは」とてれ笑いした。
「これができるのは、僕だけだからね」
「そりゃまぁね。『光刃』でBB弾に実弾並みの破壊力を与えるなんて、時音さんじゃなきゃ無理すけど」
 答えながら、雪はボストンバッグの表面を軽く叩く。
 その中には、マニア向けのラインナップで名高いサバイバルゲーム専門店で調達してきた、「限りなくリアルな」ガス銃が何丁も収められていた。
 ついでに言えば、時音がかぶっていたスキーニット帽とサングラスも、今はバッグの中につっこまれている。
「でも、今じゃ時音さん、有名人すよ。
 連続無差別銃撃魔って言って。白昼堂々発砲事件を起こしながら、未だに足取りも掴めない。
 今のところ幸い怪我人がないからいいようなものの、警察は何をしてるんだ、ってな」
「警察を集中させるって狙いは、成功してると思っていいのかな」
「いいんじゃないすか。
 ほら、今だって――」
 時音がほんの2・3分前にベンツをボロボロにした現場へ、サイレンを鳴らしたパトカーが急行していく。
「早くなりましたって。実際」
 そのあとを見送りながら、雪はうなずいた。
「準備は整ったね」
 満足げに呟く、時音。
 雪は顔を彼に向けてニッと笑うと、街路樹の根本へ無造作にバッグを置いた。
 いったんはその土の上で弾んだバッグが、沈み込むように、地面の下へと消えていく。
 ものの数秒で、大きなボストンバッグは影も形もなくなってしまった。
「証拠隠滅、完了」
 ぱんぱんと手をはたき、雪。
 土石を味方に付ける彼にとって、この程度は朝飯前だった。


■整えられた舞台。

 布陣が決められた。
 来るべき時に備えひたすらに牙を研ぎ続ける皇騎をのぞき、時音、雪、みその、皇騎の部下、そして零が、各々に役割を担う。
 決戦の舞台として用意した研究所跡には、連絡要員兼零のサポート役として、皇騎の部下が。
 草間興信所と研究所跡とを結ぶのは、主にみその。
 雪は興信所近くの喫茶店に陣取って、時音からの合図を待ち、囮の土人形で研究所跡までレナーテを誘導する。
 そして残る時音は、興信所の中でレナーテを待つことになっていた。
 零をのぞくメンバーの中で、もっとも個人戦闘能力に長け、実際に経験も豊富だ。
「僕が、レナーテの正面を引き受けます。
 入った時に誰もいなんじゃ、どうあったって怪しまれますからね。
 適度に引きつけて、囮の零さんをかばっているような振りをすれば、六巻君の土人形に引っかかってくれる確率も増すでしょう」
 前回は揮うチャンスを与えられなかった『対戦車刀』をベルトに手挟み、片手に『光刃』の光を宿してそう告げる時音に、雪やみそのから異論の出ようはずもなかった。
「頼むっすよ」
「くれぐれも、お気を付けて」
 それぞれに言葉をかけ、皇騎が準備してくれた防弾衣に袖を通すと、雪とみそのも持ち場に散っていった。


■レナーテ、再訪。

 白い法衣の下で、銃の存在を確かめた。
 電車を降り、駅の改札を抜けたレナーテが、まず感じたこと。
 警察官が、多い。
 一体何があったのだろうか。と、内心で訝しいものを感じた。
 日本側との話はついているはずだった。
 自分がこの国に送り込まれる前の、最初で最後のブリーフィングの時、レナーテは確かにそう説明を受けていた。
 だからこそ、必要とあれば街中で銃を抜くこともためらわなかった。
 にもかかわらず、回避できる銃撃戦なら、そのために相手の利になる場所へ誘い込まれなければいけなくなると分かっていても、あえて回避した。
 自分の行動が、この警戒警備の増強に関わっているとは考えにくかった。
 だとすれば、一体何が起きたのだろうか。
 本当に自分の任務とは無関係のことなのだとしたら、まだいい。
 が、そうでない可能性も完全には否定はできない。
 自分は失敗しすぎた。時間もかけすぎた。
 始まったことと終わったこと以外、お互いに一切の連絡を絶つ、スタンドアロンの任務。
 自分の完遂の可能性が完全に消えたものと判断されて、状況が変わった可能性もあった。
 作戦行動は、その目的が変更されない限り、常に小規模行動から大規模作戦へと変遷していく。
 自分がこれ以上失敗を重ねれば、最後は力押しの作戦行動が選択されるに至るはずだ。
 レナーテは、楽器ケースを持つ手に意識を集中した。
 もう、失敗はできない。
 零に対して異能力戦の経験が浅い大軍を投入すれば、予想されるKIAの数は、一桁では済まなかった。
 レナーテは第一のターゲットを確保すべく、草間興信所へと足を向けた。


 ゆっくりと、夕闇が迫る草間興信所の中で。
 いつも草間が座っていたいすに身を預け、時音はじっと目を閉じていた。
 精神を研ぎ澄ませ、手狭な興信所の壁を越えた、周囲の様子に意識を向ける。
 いつ来るのか、どこから来るのか分からない相手を警戒するのに、ドアばかりを見張っているわけにはいかなかった。
 と。
 舗装の悪い路地のアスファルト片を踏む、微かな音が耳に触れた。
 そのペースが、わずかではあるが一様でないことに気付く。
 何かを確かめながら歩く人間に特有の歩調だった。
「…来たな」
 ぽつりと呟いて。
 時音は静かに目を開け、用意していた携帯電話の短縮ダイヤルボタンを押して、そのまま資料の陰に置いた。
 着信先は、興信所から50メートルほどの店で待機している、雪。
 携帯電話から伝わる物音を手がかりにして、土人形の囮零を動かすタイミングを計ってくれるはずだ。
 皇騎は防弾衣の前をしっかりと合わせると、『対戦車刀』を抜き放った。
「さあ、来い」
 そう、小さく口にした時。
 興信所のドアを貫くような勢いで、白い影が躍り込んできた。


 テーブルの上で跳ね回る携帯に、雪はすぐ手を伸ばした。
 着信を確認する。
 時音からだった。
 通話ボタンを押して、耳に押し当てる。
 受話器の向こうは、まだ静かだった。
 息を潜め、様子をうかがう。
 時音が何か呟く声が聞こえたと思った、次の瞬間。
 受話器を揺らす、何かを蹴倒すような音。金属の軋り音。そして、低い銃声。
 雪は弾かれたような勢いで席を立つと、猛然とダッシュして店を出た。


 レナーテの一撃は鋭かったが、殺意のあるものではなかった。
 ドアを抜け、一足飛びで来客用のソファを踏み越えると、鞘に収めたままの鍛造刀を一閃。
 時音は『対戦車刀』でその一撃を受けた。
 ――なぜ抜かない!?
 次の一撃に備え態勢を保ちながら、時音は心中で声を上げていた。
 が、意外だったのはレナーテも同じようだ。
 いすに腰を下ろしていたのが時音だと気付くと、その表情に微かな揺れが走る。
 そして次の瞬間には、あの白い銃を抜き放っていた。
 射線が自分へ重なるより早く、時音は『対戦車刀』の切っ先で銃口を弾いた。
 レナーテの指が引き金を絞る。撃発。
 逸れた弾丸が白い航跡を引いたと見えた瞬間に、時音の身体を感じたことのない衝撃が貫通していった。
 ――上手くは言えないんですが、波のようなものが――
 零の言葉が脳裏をよぎり、「これか」と痛感した。
 喩えるなら、肉体では触れることのできない奔流が、魂だけを身体から引き剥がそうとするかのような。
 体中を駆けめぐる異能力が打ち消されるというのは、さながらたっぷり水を吸った上着を一気に肩へ掛けられたような感覚だった。
 全身に、どっと負荷がかかるのを感じる。
 あまりに慣れない衝撃に動きがゆるんだ刹那を見逃さず、レナーテの剣が『対戦車刀』を押さえた。
 膝の裏へ回り込むように足がかけられ、よろめいた身体が寄せられた肩に壁へと押しつけられる。
 だん。と鈍い音がして、時音は背中から壁に押さえつけられた。
 額に白い銃が突きつけられる。
 レナーテが口を開いた。
「草間武彦は、どこだ」
「…君には会いたくないらしい」
 頭の中で反攻の糸口を探しながら、時音。
「では、草間零は」
「聞かれて教えるぐらいなら、最初からかばったりはしない」
 答える言葉に、レナーテは翡翠色の瞳を微かに細めた。
 額にポイントされていた銃口がわずかにずらされ、照準が右肩に移る。
「もう一度聞く。草間兄妹は、どこだ」
「もう一度言う。聞けば教えてもらえるなんて、思うな」
 敢えて不敵な表情を浮かべ、時音は答えた。
 レナーテが引き金に指をあてた、その時。
 奥の部屋から、長い黒髪の人影が走り出た。


 携帯電話の伝えてくる情報を頼りに中の様子を探りながら、雪は興信所が見える路地の角に身を潜めた。
 受話器の向こうで、わずかにもみ合う音がした後、聞こえてきたのは、聞き覚えのない声。
「草間武彦は、どこだ」
 無感情ではあるが、高く澄んだ、年相応の声だった。
 初めて耳にする、レナーテの声だ。
 は。相変わらずモテモテだな、草間さん。
 心中で揶揄しながらも、小さく息をついた。
 レナーテが草間の行方を知らないということは、草間が彼女の手にかかってしまったわけではないということだ。
 最後に会ってからすでに3日。最悪の事態も胸の奥にわだかまっていただけに、朗報といえた。
「よぉし。
 釣り上げてやるぜ、ガキんちょ」
 雪は呟きながら、携帯電話を持ち直した。
 しっかりと耳に当て、中の様子を思い描く。
 時音とレナーテの二人が膝つき合わせて会話をしていることがあり得ない以上、そしてレナーテが一方的に質問を投げている以上、時音が追いつめられているのは間違いないだろう。
 そう判断すると、奥の部屋に待機させている土人形を、その扉近くまで動かした。
 タイミングを合わせ、なるべくガキんちょの目に留まるようにしながら、囮の土人形を玄関のドアから逃がす。
 時音さんなら、その隙に形勢逆転もできるはずだ。
 頭の中でそこまで組み立てたとき、そのタイミングは訪れた。
 土人形をダッシュさせ、奥の部屋から興信所を横切り、ドアを抜けさせる。
 皇騎曰く「ずいぶん日焼けした零さん」が興信所の外へ姿を現したのを目にした瞬間、またあの撃発音が響いた。
 弾は当たっていない。
 にもかかわらず、土人形は形を失うと、玄関先へ崩れた人型に降り積もった。
 ルルキアが語った、「撃発音に異能力を打ち消す力があると思えば、まぁ正しい効果が想像できるだろう」という言葉が思い浮かんだ。
「にゃろう、反則だろ、それ」
 毒づきながら、すぐさま崩れた土塊に力を与えて、再び人型を取らせた。
 立て直したタイミングは悪くないはず。
 上手くすれば、転んですぐに立ち上がっただけのように、見えてくれただろう。
 今は食いついてくれることを願う以外になかった。


「皇騎様、お電話が」
 『チャンバー』のスピーカーから声がして、『レナーテ』の動きが止まった。
「今は出られない」
 微かに上がった息の中、答える皇騎。
 その手には『村正』と『子狐丸』が握られたままだ。
「それが…」
 と、スピーカーの声が少し言いよどんだ。
「そう申し上げたのですが、草間様が、緊急だと」
「草間さんから?」
 天井を振り仰いで、皇騎は刀を降ろした。
「すぐに回してくれ」
 言うと、ハッチを開けて研究員の一人が皇騎の携帯電話を持ってきた。
 受け取って、
「草間さんですか?」
 受話器に向かって問いかける。
「皇騎か? 今どこにいる!?」
 普段聞いたことがないほどに急き込んだ、草間の声が返ってきた。
 我知らず微かに眉をひそめながら、
「僕は修行場にいるんですが…
 草間さんこそ、ここ数日どこにいらしたんですか」
「皇騎、今は一から説明している時間がない。
 そこに零かレナーテはいるか?」
「いえ…零さんはまだしも、レナーテがいるわけはないでしょう?」
 声は確かに草間なのだが、どうも話の内容がおかしい。
 皇騎は自分の声が疑念の色を帯びるのを感じながら、問い返した。
「草間さん、一体何があったんですか?
 ずいぶん慌てているようですが、話がなんだか――」
「すまないが、順を追って話しているヒマがないんだ。
 いいか、皇騎。
 何としても二人を止めてくれ。あの二人に戦わせては駄目だ」
「…レナーテとの決戦に備えて、舞台を用意しました。
 零さんに合わせて、霊的な多層調整も施してあります。
 六巻君たちの援護もありますし、僕も駆けつけます。
 勝ち目がないのはレナーテの方だと思いますが…?」
 相手が焦っていることを知りながら、敢えて冷静に、ゆっくりと。
「皇騎」
 電話の向こうで、草間が微かに苛立ったようなため息をもらした。
「零に合わせて調整をしたと言ったな?
 俺は怨念だの奇跡だのに詳しい方じゃないが、その状態がどんなものなのか、一発で言い当てる言葉を知ってるぞ」
「…どうぞ」
「『第二の中ノ鳥島』だ」
 間髪入れずに返ってきた答えに、皇騎は口をつぐんだ。
「そんなところで零を戦わせるな。
 あいつを霊鬼兵に戻すつもりか」
「…そうでなくては、レナーテには勝てません」
「その通りだよな、皇騎。
 兵器を相手に、零が可憐な少女のままだったら、フェアな勝負じゃない」
「草間さん、一体何を…?」
「先に謝る。だからこの言葉を聞いたら、すぐに動いてくれ。
 すまない。ルルキアは正しかった。ルルキアを信じたお前たちが正しかったってことだ。
 プレイヤーの狙いはナイトの奥にある。
 あいつらの思い通りにさせるわけには、絶対に行かない」
「草間さん…プレイヤーの思惑が、分かったんですか?」
「分かったのは、その断片だ。
 あいつらは、零をもう一度霊鬼兵に仕立てようとしている」
「…あいつら?」
「俺たちの国だよ、皇騎。
 この日本だ」


■止められないもの。

 夕闇が近づいた、旧国立衛生研究所跡地の、本館エントランスロビー。
 割れたガラス窓から残照が差し込み、血の色の空気に満たされた空間に、高い電子音が響き渡った。
 階段の中ほどに腰を下ろし、一番上でじっとたたずむ零を見つめていたみそのは、音の出所の方へと視線を走らせた。
 皇騎の部下の携帯電話が鳴ったようだ。
 細いプラスチックに収められた精密機器を耳に当て、何事か話している様子が見える。
 それを確かめると、みそのはまた零の立つ最上段へと目を戻した。
 零の表情に、変化はない。
 固いというより、むしろ淡々として、じっと前を見つめていた。
 皇騎の部下に電話があったということの意味を、知っているのにもかかわらず。
 …すっかり、覚悟をなさってしまったのですね…
 もはや、ため息以外に出てくるものがなかった。
「海原様、草間様」
 部下の青年の、声がかかった。
「六巻様から、レナーテを上手くこちらへ誘導しているところだと、ご連絡が入りました。
 風野様もご一緒とのことです」
 気遣うような響きのこもったその言葉に、小さく微笑みを浮かべてうなずきで答える、みその。
 それから、立ち上がって十数段の階段を上りきり、零の隣に立った。
「零様…」
 声を掛けると、
「みそのちゃん。私、一つだけ思い残すことがあるの」
 聞いてくれる?と、零が顔を向けてくる。
 その表情は、いつも興信所で浮かべていたのと同じ、穏やかなものだった。
「…何でしょうか」
 静かにうなずきながら、みそのはその瞳をのぞき込む。
 零は、「うん…」と、わずかにてれたように言いよどんでから、
「草間さんに、ちゃんと言っておけばよかったと思うことが、あるの。
 レナーテと最初に戦った日の夜にね、草間さんが、私の様子を見に来てくれた時、声を掛けたの」
「…ええ」
「起きてたのかって、草間さんは少し驚いていて…私は、今起きたところですって。
 それでね、みそのちゃん」
 まるで、淡い初恋の思い出でも話しているかのように。
 零は胸の前で軽く手を組むと、小さな笑顔を浮かべた。
「その時草間さんが、もう一言でも何か聞いていてくれたら、言いたかった言葉が、ね。
 「私、草間さんの妹になれてよかったです」…って」
「…零様…」
「私とレナーテは、何も変わらない。日本に残ったのが私だったのは、きっと偶然。
 私が草間さんの妹になれて、みんなに会えたのは…とても大切な、幸運だから。
 …それをちゃんと草間さんに伝えられなかったのが、心残りで」
「…そのようなことを、思い残す必要はありませんわ」
 そっとその肩に触れながら、みそのは首を横に振った。
「あとで、零様の大切な方々に、ご自分でお伝えすればいいのですから」
 と、みそのがにこりと微笑みかけた時。
 もう一度、皇騎の部下の携帯が鳴った。
 いよいよ近づいてきたのかと、視線をやる。
 と、電話に向かって二言三言話しかけてから、部下の青年が階段を駆け上り、みそのの方へと向かってきた。
 そして、
「海原様。皇騎様から」
 何事かと微かにいぶかるみそのに、携帯電話を差しだした。
 受け取り、耳に当てる。
「お電話、代わりましたが…」
「みそのさん? 零さんはまだ、無事ですか?」
 受話器から皇騎の声が聞こえた。
 いつになく急いた様子だ。
「ええ…何か?」
「みそのさん、今すぐ零さんを連れて、そこを離れてください。
 レナーテと零さんを戦わせてはいけません」
「え…?
 ですが、それは――」
 みそのが、そう返そうとした時。
 旧国立衛生研究所分所跡に渦を巻く怨念を引き裂いて、銃声が響いた。
 黒い海原の水面を斬るように走る、白い船とその航跡。
 みそのに備わる「流れ」を感知する力は、その様を克明に捉えた。
 エントランスホールのドアが、叩き付けられるようにして開かれる。
 粉々に砕けた土人形を踏みしだき、純白の刺客がモザイクタイルの上に姿を現した。
「――いえ、皇騎様」
 みそのは静かに続けた。
「もう、遅いようですわ」

 吹き抜けの空間をはさみ、翡翠の瞳と深紅の瞳が、重なった。



                 ――――To Be Continued.


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

0461/宮小路・皇騎(みやこうじ・こうき)/男/20/大学生(財閥御曹司・陰陽師)
1308/六巻・雪(ろくまき・ゆき)/男/16/高校生
1219/風野・時音(かぜの・ときね)/男/17/時空跳躍者
1388/海原・みその(うなばら・みその)/女/13/深淵の巫女

 ※受注順に並んでいます。

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■         ライター通信          ■
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 草村悠太です。
 『白の魔弾』第三章 灰色の計略をお送りいたします。

 まず初めにですが、実は今回のノベルでは語られていないエピソードがあります。
 草間が大竹に会ってから皇騎に電話をしてくるまでの部分です。
 頂いたプレイングで自分で二章の継続調査を行うと宣言された方がいなかった関係から、この部分は今は謎のままです。
 この間に何が起こっていたのかについては、今後のお楽しみということで。 (^^;

 それでは、各PCさんのプレイングについてコメントをさせていただきます。

宮小路 皇騎さん
 前回より修行場にこもっているとのことでしたので、今回は間接的な活躍がメインです。
 レナーテの居場所が分かりませんので、「案内状」というのは少し無理でした。 (^^;
 ですが、どのみちレナーテは最終的には零を狙ってきますので、零に合わせて舞台を調整するというプレイングは正解です。
 草間が批判的なことを言っているのは、物語の上で不可避的なことでしたので、ご了承下さいませ。 m(_ _)m


六巻 雪さん
 第一章に続いてのご参加、ありがとうございました。
 実は参加PC中、具体的なレナーテ誘導法をプレイングしてきたのは六巻さんだけだったり… (^^;
 土人形というアイディアはとてもいいですね。
 風野さんとのコラボレーションで、見事レナーテ誘導に成功しています。


風野 時音 さん
 連続参加、ありがとうございます。
 草村の東京怪談では、随一の常連さんですね。
 参加されたPCの中で唯一、レナーテ誘導の矢面に立つことを宣言されていました。これなくしては、レナーテは引っかからなかったでしょう。
 銃撃することのリスクを上げたり警官を集めたりというプレイングも秀逸でした。
 レナーテを再度、罠と分かっていても人気のない場所で戦うしかない状況に追い込んでいます。


海原 みその さん
 チラリズムです(笑)。
 どうにも色気がなくなる草村作品において、あらゆる意味でオアシスになっていると予想されます。
 プレイングはちょっとレナーテ抹殺に傾いているような気がしましたが (^^;、みそのさんの存在自体が、この物語の零にとってとても重要になっています。
 みそのさんがいなければ、零はすでに霊鬼兵に戻っているという可能性アリ。


 以上です。
 最終章でまたお会いできることを祈っております。
 それでは、今回はご参加ありがとうございました。
 (最終章 緋色の終焉 のオープニングは、来週末頃の公開を予定しております)

               草村 悠太