|
後編A/孤独の居場所〜刹那
見えた、刹那。
汐耶の様子を確認した真咲は横から回りもせず直接カウンターを飛び越え、前に出る。汐耶の真横、駆け出す形に構え、沈む足。長髪の捜査官がスツールから腰を浮かす。体格の良い方は動く真咲の姿を振り向く。紫藤は――漸く視線を動かし、邪妖精の姿を捉え――何やら動いたらしい真咲の姿を確認しようと、試みたまでで、次の瞬間。
汐耶の前で。
「真咲…さ?」
笑い声に混じる声が耳に残った。
ころしちゃっていいんだよね、と。
刹那。
邪妖精の群れとスツールに座る汐耶の間を、遮るように飛び出した真咲の身体が。
――不自然に何度か、がくがくと傾いだ。
「…見た目に惑わされないで下さいね。綾和泉さん」
「真咲、さん?」
様子が、おかしい。
「…この邪妖精は、見目が良いだけ余計に性質が悪いんですよ」
あくまで平静に。
話している筈の、真咲の科白が。
何処と無く切羽詰まって聞こえる。
無意識の内に動くその腕。
真咲の。
腹部を押さえる形にか、前に回される。
と。
つぅ、と。
床に落ちた、
――朱の、筋。
「それは無邪気に――必要以上に残酷に事を為します」
…音も無く落ち、床に広がる朱の――血溜まり。
「この数に、一時に針で刺し貫かれれば、どうなると思います――?」
まさか。
「注意、して下さい。…彼等が今狙ったのは、貴女です」
汐耶に告げつつも、真咲は振り向こうともしない。
ただ、邪妖精たちを注視したまま、目を離そうとしない。
どう動くのか、見届けなければ。
――滴る赤い筋は、止めど無い。
「…庇ったの?」
私を。
汐耶がぽつりと呟く。
「…お客様とお店を守るのは俺の仕事ですからね」
「――命に代えてもなんて、思ってないでしょうね」
鋭く切り返した汐耶の科白に、真咲は苦笑した。
「最低限、恩返しは、しないと――と思っているだけなんですが。
俺を受け入れて――救ってくれた皆さんに。ここに居る事を許してくれた――彼等にも」
科白はそれだが、真咲は汐耶の言う事に対し、確りと否定はしない。
口調がいつも通り穏やかなだけ、逆に焦燥感を煽った。
「…真咲さんの淹れてくれる珈琲、気に入っているんです」
汐耶は言葉を重ねる。
「――飲めなくなるのは、嫌だわ」
「…申し訳ありません」
だが真咲の反応は、変わらない。
むしろ謝られては――否定ではなく肯定ではないか。
真咲の腹の傷は、深い――と言うより、細かく深い傷が多くて、傷口がどうなっているのか、わからない。
と。
店の入り口方面から、場違いに賑々しい声が飛んできた。
女の子、の。
やや、不機嫌そうな。
「ぶー。やったのって狙った奴じゃない奴じゃーん。ちゃんとやってよ邪妖精っ! …ち。じゃあ次こそはがんばろっと!」
むん、と胸を張る無邪気な少女の姿。
可愛らしい作り物の『天使の翼』を背に負ったその子は、ざ、と両手を広げ邪妖精に合図する。
「今度こそ、その女――殺しちゃってっ!」
命じたその通りに、はーい☆ とばかりに楽しそうに、今度こそ汐耶に群がろうとする邪妖精。
が。
次の刹那、その群れの中に光線が乱舞した。
可愛らしい声の、悲痛な叫び声がいくつも響く。邪妖精の小さな身体が焼き切られ、襤褸切れのように落ち掛かり――まだ地に落ち切らないうちに、姿が掻き消える。いくつも。
…IO2捜査官のふたりが、先程とはまた違った形の、拳銃らしきものを握っていた。それらを邪妖精の群れに向けている。レーザーガンのような、霊撃用の銃。
「…大丈夫ですか、お嬢さん」
汐耶に声をかけたのは体格の良い方の黒服――今までの様子から考えて、『総括代行である真咲御言』を慕っていただろう方の、黒服。
「貴方たち…」
「これは我々の管轄だ。退いていて下さい。…貴方もだ、真咲御言」
長髪の方の黒服が、現れた少女にぴたりと銃を向けると、告げる。
…彼等がここに来た理由、それはこの『暁闇』の奇妙な霊的磁場の高さにあるから。
ただ客として、ひとときの休憩の為に訪れたのではなく、本当は――調査の為に、訪れた。
そこに真咲御言が居た事こそ、予想外のアクシデント。
…この場所が虚無の境界テロの標的になり得る、と言う事の方は、予想出来ていた筈なのだ。
わかっていたのに不覚にも『一般人』――少なくとも今は――を傷付ける事を許してしまった。だからこそ遅まきながら――それでも敢えて言った科白。
けれど。
「…いえ」
真咲は静かに否定した。
「ここ『暁闇』の中である限り、どんな性質の事柄であっても、荒事である以上――俺の管轄です」
冷たく切り返す。
「貴方がたの手を煩わせる事ではありません」
言って、瞼を閉じた。
――その時。
ぼ、と現れた少女のスカートの裾に小さな火が付いた。
「きゃっ!?」
少女は慌て、可愛らしい悲鳴を上げる。
ように見えた――が。
真咲は別の方向に動いていた。
体勢を低くして――腹の傷も疑いたくなる程、普通に素早い動きでごく短い距離を駆ける。
そして。
何もない――と見えるその場所を、腕でも捻り上げるよう、ぐい、と掴み上げた。
と。
「…きゃうっ!」
何も無いと見えたその場所に、現れた少女の悲鳴と同じ声が響いた。
それを契機に、ざ、と辺りの色が塗り替えられる。
少女が現れたと見えたそこには燃えている紙ナフキンが一枚ひらひらと浮かんでいただけ。
そして何も無いと見えた方には――現れた少女、本人が居た。真咲に腕を捻り上げられて。
「…させません」
邪妖精召喚師は、個人差はあるが基本的に腕を振る独特の大仰な仕草で、邪妖精に命令を出す。だからそこを押さえれば、邪妖精の動きは止まる。
召喚師の腕の動きを見ただけで、慣れている者ならどんな命令を出したかすら、読める時さえある。
今のこれは――邪妖精の得意とする幻覚で召喚主の位置を誤魔化し、自らの安全を確保しておいて――本来の目的を遂げる気だったのだろう。
けれど。
真咲には精神系干渉は極端に利き難い――即ち、幻覚に対しても相当、抵抗力が強いと言う事になる。
だからと言って。
その傷で。
何故動く。
「やめて真咲さんっ」
あの出血量は、どう見たって、危ない。
叫ぶよう呼ばれても真咲は振り返らなかった。
腕を掴む力を緩めず、静かに口を開く。
「すぐに意識を失わないよう刺したのは…そちらの筈だ。俺の動きは計算に入れておいて然るべきだろう?」
低い声で、少女――襲撃者に向け。
だが。
次の刹那、何処からとも無く衝撃波が真咲に襲い来た。ピンポイントで、真咲だけを狙った狭い範囲に。
咄嗟の事に防御も間に合わず、今度ばかりはあっさり膝が崩れ倒れ込んでしまう。
「…リカに軽々しく触るなよ?」
同時に、別の声。
軽い言い方、けれどその言葉に反したら――瞬殺されそうな凄味が含まれていて。
そんな、まだ若いだろう、男の声。
「死に急ぎたくは無いんじゃないの?」
自分に向け、突き出すように掌を見せていた声の主の姿を見て、真咲は凍り付く。
微かな笑顔のまま、見せ付けるようゆらりと首を傾げられ――その姿に呆然と。
こんなにも似た。
姿ではない。顔でもない。声でもない。
ただ――存在自体が。
あまりにも似ていて。
すぐに、わかった。
春梅紅の、同胞。
…鬼家の仙人の、ひとり。
虚無の境界に所属しているとは――思わなかったが。
けれど冷静に考えるなら、春梅紅がIO2に所属している以上、有り得なくもない話だった。
仙人――特に鬼家の仙人に人の世の善悪は通用しない。
すべてがただ、興味の対象。
自分の『お気に入り』に横合いから手を出される事こそが、彼等にとって初めて、『悪』になる。
「…まさか、こんな形でお会いするとは」
「どーも。『初めまして』、真咲御言サン」
無邪気な少女の後から現れた男――凄まじい美貌の男は、どうにか半身を起こす真咲を悠然と見下ろしていた。
「春(ちゅん)から聞いてるよ。随分と気に入られてるようだよね。ま、確かに俺が見ても可愛い気はするがね」
何が楽しいのか、くすくす笑いながら男――湖藍灰(ふーらんほい)は告げる。
と。
「リカこいつに乱暴されてたんだよっ! なのになんでそいつの方が気になるのっ!?」
口を尖らせリカと呼ばれた少女は湖藍灰に言い募った。
…このふたり、仲間らしい。
「まあまあ。落ち着きなさいって。…単にね。こいつは『姉貴』のお気に入りってだけなんだよ。それに、乱暴と言うなら先に乱暴したのはリカの方。するなとは言わないが、そこんとこ頭に叩き込んでおきなさいね?」
「ぶー。ま、湖ちゃんが言うなら仕方ないけどさ…。助けてくれた訳だしぃ…。でもさ? 湖ちゃんも今更口説く気こんなヤツ? もう遅いよ? 死ぬもん」
「そりゃ見てわかるだろ? お前の邪妖精は優秀だよな。リカ。殺すとなればちゃーんと内臓を狙う」
…幾数の針で刺し貫く。ぐちゃぐちゃになるよう。即死にはならぬよう、敢えて、苦しむよう。
「でも、ちゃんと注意はしろよな? こいつみたいな『慣れてる』奴だとこの状態でも嘘みたいに動きやがる事があるからね」
ぽんぽん、と自身がリカと呼んだ少女の頭を叩き、湖藍灰は辺りをそれとなく見渡す。
そして最後に真咲を見て、無造作にぽつりと投げる。
「…お前を殺すと春が怒るだろうが、な。
ま、それとこれとは別問題だ。今ここで出会ったタイミングを恨みな?」
にやりと笑う口許の月剣。
瞳の奥は笑んでいない。
虚無の名の通り何もない、ただのっぺりと墨を塗り込めたような色の。
「でもね、どうも今この場は――お前より、そちらのお嬢さんの存在が本題なんだよね。殺すには適した場所と時間だから」
そんな瞳で汐耶を見遣る。
「今この場では貴女の『力』が一番強いんだよ。…だから、ね」
何を考えているのか読めない、視線。
「ふぅん…どうやらあのトボけた兄ちゃんと良く似た『気』を持ってるね。兄妹かな。…まぁ仕方無いか」
のほほんと、笑ってみせる。
が。
淡々と。
「――仕事だ」
そのひとことで。
すべてが、決まる。
今は。
「さて。もう少し頑張ってくれるかな?」
言いながら湖藍灰はリカテリーナの両肩をぽん、と叩いた。
リカテリーナは素直に頷く。
「うん。頑張るっ」
期待された通り宣言すると、リカテリーナはざ、と両腕を広げる。邪妖精への命令、指示。どう動け。何をする。彼女の一挙一動に反応し、邪妖精たちは――動き出す。
捜査官のふたりに殺された分だけ、否、それ以上の群れを再度喚び出し、リカテリーナは、最後に汐耶を指差す。
「今度の今度こそ、失敗しないでよっ!!」
――殺して。
と。
「…突然乱入してきて、好き勝手騒いでるんじゃないわよ」
その声を断ち切るように。
汐耶の、低く抑えた声が、響いた。
銀縁眼鏡の奥から、彼女の冷たく燃えるような青い瞳が――邪妖精と、リカテリーナを睨むよう見つめる。
何処か驚いたような表情の、黒服ふたりの様子も気にせず。
まるで黒い霧のように、邪妖精が一斉に動き出したその時には。
汐耶はゆっくりと一歩前に出た。
群れに、向かうよう。
一歩、一歩。
歩いていく。
と。
きゃ、と短い悲鳴を上げたかと思うと、ぱしゅ、と空気でも抜けるような音がして、邪妖精の姿が消えていく。
汐耶に近い方から、舐めるように少しずつ。けれど確実に。
…今この場合だと、邪妖精一体一体の機能を封じようとしても数が多く、やり切れない。
だが。
邪妖精は邪悪なる気を触媒として存在する。それがなければ、存在出来ない。
汐耶はそんな細かい事は知らない。けれど、召喚されるような、妖精と呼ばれるものであるなら。『特定の力』があって初めて『命』として形作られ、存在しているものと――想像できる。
だとしたら、その『力』を封じるならば。
――ひとつひとつを考えなくとも、一時に、消せる。
そして。
思惑通り粗方消せたところで、汐耶は少女――リカテリーナを、ぎ、と見た。
と。
「きゃああああああっ!!!」
封じる力が、リカテリーナを襲う。
先程IO2捜査官に仄めかしてみせた通りに、『人としての機能』を――封じるつもりで。
刹那。
ゆっくりと影が、動いた。
スローモーションのように。
その間、本当に経っていた時間は、ほんの僅かだった筈なのに。
…湖藍灰はリカテリーナの身体を掻っ攫うようにして、自らの立ち位置に抱き寄せた。
その時点で汐耶の封印能力はいつの間にか無効化されている。
「きゃっ」
急な動きにリカテリーナは小さく叫んだ。
が。
「…そろそろ、失礼しようか」
彼女のその耳許で。
他の者にも聞こえるように言っているつもりか、視線を巡らせながら。
リカテリーナは呟かれた声にきょとんとした顔をする。
「今日は、まだ様子見で」
「って、やだ、やだやだやだ湖ちゃんっ、まだ中途半端じゃん! ひとりしかやっつけてないしっ! それに目的果たしてないじゃんっ。この女殺してないし様子見なんてリカ聞いてないっ!!!」
「俺は、そう言い付かってるんだよ。…今日は、様子見。出来るならやっちゃっても良かったんだが――どうやら今は、分が悪そうだ。組織である以上、確実に出来る時を見極めなきゃならないの。この時点での撤退は許容範囲だが、早っての失敗はとんだ黒星になるからね」
湖藍灰は宥めるようにぽん、とリカテリーナの頭を叩き、そこに居る面子を見渡す。
「では皆様、次は本腰入れて参りますから、その時はどうぞ御存分に抵抗してやって下さいね」
そう嘯くと、湖藍灰は、とん、と床面を蹴り、飛ぶように後退。
「…待ちなさいっ!」
――このまま黙って帰せない。
そんな汐耶の怒鳴る声も聞いていない。
入って来た扉、そこに着地したかと思うと、ちら、と中の面子を見てから、ふ、と外へ。
潔いくらいの去り方。
真っ先に後を追跡しようとした長髪の黒服が、彼等の消えたドアにがん、と張り付く。が、そこから外を見た時には既に、当然の如くふたりの姿は無い。後を追うにも気配も何も残っていない。邪妖精召喚師の少女はともかく、あの男の能力値は――並で無い。本気でこちらを潰しに来られたら、今の状況では為す術も無かったろう。
長髪の黒服は、ち、と舌打つ。
ちょうどその時。
店内で、がたん、と人でも倒れたような音がした。
「真咲さんっ!」
汐耶の叫び。
振り向く。
そこには。
膝を突き、床に崩れ込んだ真咲と、元々一番近くに居た汐耶がその傍らへ駆け寄っている姿があった。
「…莫迦野郎が」
ぼそりと呟きながら、カウンターを回って紫藤も表に出てくる。
…その顔は、厳しい。
体格の良い方の黒服も真咲に駆け寄り、その傍らで身体を支えていた。
「代行ッ!」
叫ぶ体格の良い方の黒服の肩を掴み、長髪の方の黒服は無言のまま緩く頭を振る。
汐耶が、ぎりぎり感情を押さえているような声で、口を開いた。
「ちゃんと釘を刺しておいたでしょう? …真咲さん」
「…あの時点で…駄目だとは思っていたんですがね。すみません…結局、忠告――無視する形になっちゃって」
すみません、と小さな声で重ねる。
「…ちょっと」
――生気が薄らいだ、気がした。
「冗談やめてよっ」
汐耶の激昂にも、返すだけの力は無く。
弱々しく微笑むだけに留まる。
汐耶だけでなく紫藤と黒服にも視線を流すと、真咲は改めて覚悟を決めたよう、ゆっくりと瞼を閉じた。
そして、すぅ、と、目の前で、
少しずつ息が、細くなり
後には
【 】
ただ、倒れたまま――恐らく二度と起きあがらないだろう、真咲の姿があった。
ずっと真咲の傍らで、様子を見ていた紫藤は、ただ黙したままゆっくりと立ち上がる。
縋るよう、汐耶はその姿を見上げた。
「…マスター」
「どうやら、大丈夫、のようだ」
「え!?」
驚いた。
事切れた、ようにしか見えないのに。
なのに。
「…早々何度も、死ねないんだろうさ」
紫藤は言って、小さく笑う。
安心したように。
本当に。
…どうして?
「貴女が、殺したく無いだけ…なんだろうがね」
紫藤は、意識の無い真咲を見ながら、告げた。
…汐耶では無く、別の相手に。
無論『貴女』と言う以上、捜査官のふたりでは無い。
他の。
…後ろ。
紫藤の背後、誰も居なかった筈のその空間に。
佇む影が表れていた。
先程現れた虚無の境界構成員である美貌の男と何処か似た、雰囲気の。
まるで医師のように白衣を羽織った――何処か淑やかな印象の。
黒髪黒瞳の、女性。
「その通りよ。マスター」
響くのは耳に残る、まろい声。
「――真咲御言を、他の誰にも殺させる気は、無いの」
声の主の姿を見た長髪の捜査官は瞠目した。
そこに居たのは。
「鬼…春梅紅…!」
「無論貴方たちにもよ。…Investigator。この子を殺す事が出来るのは、私だけなのだから。
そして私は――『この手で一度殺した』この子をもう二度と、殺す気は、無いわ」
春梅紅はゆっくりと膝を折り屈むと、真咲の頭をそっと撫でるよう、髪を指で梳く。
そっと。
…労るように。
目を細め、見つめる。
こめられている想いは、深い。
けれど春梅紅はすぐに手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
そして一同を振り返り、最後に汐耶を見ると、頼むわね、とでも言うように微笑んだ。
「もう、放っておけば傷は癒える筈だから。安心して。
それと…私が来たのは秘密にしてね。皆さん。…御言の事、どうせ、察してしまうと思うけれど」
苦笑しながら告げると、春梅紅はそのまま――幻であったかのようにすぅと姿を消した。
誰も、動けなかった。
…僅かな間の、幻想のような出来事で。
【了】
|
|
|