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<PCシナリオノベル(シングル)>


後編B/孤独の居場所〜狂狗

 反射的に動こうとした真咲を遮るように、汐耶は自分の前方に、ただ、手を伸ばした。
 表情は、厳しい。
 真咲はそれを見て、動くのを止める。何故ならそのモーションは、彼女の持つ『封印能力』の発動と見たからだ。
 早い。
 邪妖精の群れ、即ち『虚無の境界』に狙われたのは自分だと――そう、狙われたのは、汐耶だ――今の間で、気付いたのか。
 真咲は驚いたような顔をして、汐耶の反応を見ている。
 と。
「――綾和泉さん」
 伸ばされた手のその先の。
 邪妖精の、群れが。
 凍り付いたように動かなくなった。
 何者かに呪縛でもされた――ように。汐耶に封印された。その周囲の空間ごと。閉じられた。
 それを確認はしたが、汐耶の表情はまだ固い。
 元々、それなりに強い、封印能力と言える能力は、持っている。
 けれど同時に。
 媒体――例えば本などの――を用いない限り、強度には不安が残る。
「真咲さん」
 汐耶は前方――邪妖精たちの居るその封じられた空間――から視線を外さないまま、口を開く。
「…命に代えても私たちを守ろうなんて、思ってないでしょうね」
 返るのは、無言。
 それでも図星を突かれたような、気配がカウンターの中から。
「…真咲。お前は」
 汐耶に次ぎ、紫藤からの声がぽつりと響く。
 と。
 暫しの無言の後、真咲は紫藤を鋭く見返した。
「マスター――『お願いできます』か?」
「…真咲?」
 それに返るは訝しげな瞳。
「『解いて』、下さい」
「――」
 はっきりと言ってのけた真咲のその科白に、紫藤は俄かに絶句した。


「お願いします」
 重ねて請う真咲の科白に、紫藤は黙ってその瞳を見返す。
 その色は――何処からどう見ても、本気で。

『もう二度と解除する気は無い。だからこそ貴方に頼むんだ――』と。

 過去に告げたその唇で。
 全く逆の事を、紡ぐ。

 それはこのままではどうにもならないと、見たから、だろう。
 持っている『力』は強い。それは間違い無くとも――その力を特定の制御方法に則って使わない限り、最大限まで有効利用できない場合は多々ある。そしてその『力』が戦いに向くかどうかと問われれば、そうとも限らない事もある。
 そして汐耶のこの場合、明らかに戦闘向きではない。
 …それに、今、邪妖精の群れを封じる事が出来ている割には――表情が固い。何か不安材料でもあるような、そんな表情に真咲には思えた。
 今この場に居るのは――強い封印能力を持つ汐耶、そしてある程度水を操る事が出来、暗示能力に長けている――が、この暗示能力に関してはポリシーと言うより能力自体を忌避していて滅多に使わない――紫藤に、IO2所属とは言え一般クラスでしかない、大した特殊能力は持たない捜査官ふたり――それと自分、だけ。
 だから。
 昔、紫藤に『暗示を掛けて』――『縛って』もらった『心』の一部を。
 結局、最後には『破壊する』しか能の無い、俺の持つこの唯一の『力』を使う。
 …何もなければ『解除』する気はなかった。否、過去形じゃない。今に至っても同じ。したくもない――だが、『手段』があるのに手をこまねいてただ見ている訳にも行かない。この場は――俺の守る場所。こんな自分を受け入れて、救ってくれた人たちの居る、場所。

 ――『これ』で、止める。

 真咲はそう決めた。
 …自分のエゴと大切な人たちの安全を天秤に掛けるなら――傾く方向は決まっている。否、そもそも天秤に掛けられるようなものじゃない。
 紫藤はじっと睨むように真咲を見据える。
 けれど真咲は怯む事無くその視線を見返した。
 暫しの無言の後、紫藤は諦めたように小さく息を吐く。
 そしておもむろに。
 真咲の項に指先を揃えて当てた。
 何やら口の中で唱えつつ、とんとん、と叩く。人差し指で中指で。鍵盤でも叩くように。
 真咲当人は、紫藤の行為がやり易いようにか、やや俯き加減に頭を傾け、黙っている。
≪…縛する糸は断ち切った。さぁ…勝手にしろ≫
 唱える言葉の最後、吐き捨てるように紫藤は告げる。
 元々傾いていた頭が、一度、頭を下げるよう、深く前に折れた。
 紫藤が後ろに下がる――真咲から離れる。
 と。
 真咲はゆっくりと左腕を顔の右斜め前まで、持ち上げた。
 ゆらりと顔を上げ、す、と瞼を開いたその瞳の色は――何処となく赤みを増し、複雑に色を変えている。気のせいか、それまでと纏う気配さえ違って見える。何も違わない、その筈なのに、何故か、別人のような。
 そんな姿を見せた真咲は改めて、汐耶の姿と、彼女に呪縛されている邪妖精の群れを見遣り、確認する。少し、邪妖精が動いているか。羽音が聞こえる。…そろそろ封印を破りに来るか。汐耶の固い表情はそのせいか――。
 そこまで考えてから。
 何処か身に纏う気配を塗り替えた真咲のその左腕が。
 切り裂くように、大きく、鋭く、薙がれた。
 波が押し寄せたように、空気が動いた、気がした。
 それだけで。

 ――汐耶の『封じた』空間の中に居た筈の邪妖精の群れが、突如、舐めるように『見えない炎』に灼き払われた。

「え…?」
 あまりに鮮やかに消し去られ、焦げる臭いさえ――煤さえ殆ど残らない。
 ただ、異様な熱気が、すぐ側を通った気がした。
 汐耶は驚いたように真咲を振り返る。
 …妙な違和感に数度目を瞬かせた。
「真咲、さん?」
「大丈夫ですか、綾和泉さん…。…と。やっぱり、久し振りだと…あまり抑えが利きませんね」
 強過ぎた。
 必要以上の高温にしてしまった――それ故の『不可視』の炎。
「…って…今の…」
「使いたくはなかったんですが…そうも言ってられないでしょう」
 真咲の通常時の発火能力は、かなり、微弱なもの。そう、ここまで異能者の多いこの東京では、殆ど誰にも気にされないくらい。
 マッチやライターの火力と、大差無い程度。事実、その程度の使用法しかしていないし出来ない筈だった。
 ここ、『暁闇』に来て――紫藤に会って、心の一部を縛る事――特殊な『精神拘束』を頼んでからは、ずっと。
「代行…貴方は…」
 目を見張る体格の良い方の黒服。
 実は彼の知る『統括代行』だった真咲は――厳密には、僅かに気配の変わった、こちらの姿。
 はじめからこちらの姿のままで居たならば、カウンターでグラスを出してきた彼の指先を見るまでも無く、店に入った途端に黒服たちには『ここに真咲御言が居る』と知れた筈だ。
 そしてそれこそが、真咲が『精神拘束』を望んだ最大の理由。
 ――自らの存在自体の気配を変える為。
 と。
「嘘…っ!!」
 唐突に驚いたような声が飛ぶ。
 場違いに可愛らしいその声。
 シンプルな黒いワンピース。その背に負った作り物の天使の羽。
 頭には小さなツインテールが揺れている。
「やだやだやだっ! みんな死んじゃった!? そんなの嘘だよね!?」
 叫び、動揺する彼女――リカテリーナ・エルの声。
「…召喚者ね」
 察した汐耶はそちらに注意を移す。
 黒服ふたりも、即座に彼女に銃を向けていた。
 紫藤もカウンターの中から、注意を向けている。
 真咲も同じく注意を向けたまま――こちらはカウンターから出るところ。
「やだよお! なんでなんでー!? 湖(ふー)ちゃああああん!!!」
 汐耶は無防備にわんわんと泣き出すその姿を見ながら、考え込んだ。
 今ので打ち止めだろうか?
 いや、そうとも限らない。
 …だったら…第二陣が召喚される前に。
 召喚者の能力を封じたい。
 と、思ったところで。
「…結構ひどい事やってくれるじゃないの。真咲御言サン」
 リカテリーナのすぐ後ろ――ドアの近くからまた違う声が飛んできた。
 ふざけるような、軽い言い方。
「ま、なぁんとなく火行の気はあったからね。お前に何か裏があるなら――火かなとは思ったんだけど。ああ、『水は火に剋つ』って事か。そう言う訳で…ここに居る、と」
 に、と笑った凄まじい美貌の男――鬼湖藍灰(くい・ふーらんほい)は言いながら店内を見渡す。
 と。
 汐耶の視界の隅に、瞠目した真咲の表情が目に入った。
「…貴方…は」
 呆然と呟く。
 信じられない物でも見たような、驚愕の表情。
 湖藍灰は涼しい顔で、真咲のその朱金の双眸を受け止めた。
「春(ちゅん)から聞いてるよ。随分と気に入られてるようだよね。ま、確かに俺が見ても可愛い気はするがね」
 何が楽しいのか、くすくす笑いながら湖藍灰は告げる。
「とは言え――俺としてはリカの方が各段に可愛い。つまりは、だ」
 湖藍灰は背後から覆い被さるような形でリカテリーナを抱き締めると、その肩口から覗き込むように前方を――真咲を見つめた。
「泣かせたお前には…頭に来てる」
 にっこりと、柔らかく微笑みながら、湖藍灰。
 …仕草はこれだが、隙が、無い。
「…ァ、湖ちゃん」
「大丈夫か? リカ?」
「…大丈夫じゃないっ! みんながっ!!」
 自分の背に覆い被さるよう抱き付いている湖藍灰に、必死な顔でリカテリーナは言い募る。
「残念だけど、仕方無いよ。さすがにあの温度で灼かれたら――ね。あれじゃ、異次元に『戻る』暇も無かったろうし」
 悪戯っぽく、これ見よがしに店内の面子にも聞こえるよう、ぽろりと。
「…仇取ってくれる?」
 ぎゅ、と湖藍灰の袖を引き、リカテリーナ。
「お望みのままに?」
 あっさりと受け答え、ついでのように汐耶をちらり。
 そのさりげない視線に、汐耶は目を険しくした。
 …思惑が、見抜かれている。
 どうしたら直に触れられるだろう、と考えていた自分の思惑が。
 召喚者当人だけなら、どうにかなりそうな気がするとは言え――その背後に立つ、この男は。
 ――何か、『違う』から。
 そしてそれをわかっていてこの男は――召喚者から離れない。
 意図など何もないような行動に見えながら、これもまた、守る為――だと。
 汐耶だけは気付いた。
 直に触れられなければ――やはり先程同様、封印するにも、その強度に自信は持てないから。
 …どうせまた、破られる。
 先程の場合は、正に破られそうだったその時、真咲が不可視の炎でまるごと灼き払ったようなものだったのだ。
 汐耶としては…媒体を使うなり、直に触れるなり出来れば――大抵の物は、封じてしまえる自信は、ある。
 だが今は、どちらも無理そうだ。
 思い、唇を噛み締める。
 そんな姿を余所に、湖藍灰は再び真咲に目をやった。

「…そうだねえ? …その『精神拘束』が『解かれた』のなら、『上書きしても壊れはしない』か」

 考えながら独白するよう、不吉な言葉を呟くと。
 湖藍灰は真咲を見据えるその視線に――異様な力を込めた。
 刹那。

 どくん

 心臓が激しく一度、高鳴った、気がした。
 嫌な予感に、反射的に真咲は立ち止まる。
 が。
 ――遅かった。
 それとも――逆らう術など元々無かったか。
 鬼湖藍灰と言うこの男に。


 やがて湖藍灰は小さく溜息を吐くと、リカテリーナを抱き締めたまま無防備に瞼を下ろした。

「さて、暴れたいんじゃないのかな? 血が騒ぎはしないかな?
 孤高の猛禽の名を冠されたその爪――振り下ろしてみなよ。

 ――ここに」

 静かに静かに、言い聞かせるよう、紡がれる科白。
 ――誰に?

 途端。

 真咲はがくりと、木偶人形のように不自然に、よろめいた。
 そして世界は、逆転する。
 次の瞬間。
 獣の咆哮の如き、叫ぶ声が響き渡った。

 その源は――真咲。


 荒れ狂う熱気がそこにある。
 よろめいた身体を安定させた真咲は、無造作に、ふい、と汐耶を見遣った。
 が。
 その瞳の色は、妙に。
 何も無くて。
 ひとことも発さずに、真咲は再び腕を振り上げた。それは先程邪妖精の群れを灼き払ったのと同じモーション。但し、この角度では――対象は、汐耶になる。
「!?」
 咄嗟に紫藤は目の前のシンク、そこの水道の蛇口を思い切り捻った。
 だ、と流れるその水を、汐耶と真咲の間へと、操る力で以ってありったけ放り込む。
 刹那。
 今度は――『紅蓮の炎』が、躍り狂った。
 そして灼熱の湯気が、上がる――相殺。
「…な!?」
 紫藤以外の面子が状況に気付いた時には、真咲は汐耶の足許まで駆け込んで来ていて。
 何も見ていない朱金の瞳が、低い位置から理知的な青い瞳を刺し貫いていた。
 そして勢いに任せるよう、裏拳気味に振るわれた――腕ごと放り投げられたような、左の拳。
 が、届くかと言うところで。
 体格の良い方の黒服が、割って入っていた。
 胸の前で腕をクロスし、真咲の拳から汐耶を庇う。が、強か打ちつけたその場所が黒服の腕だと判じても、真咲は攻撃を止めない。真咲は続けて肘を叩き込み、最後に容赦無く右の掌底を突き入れた――が、一度傾いで後退した黒服の身体は、それだけで、何事も無かったように体勢を整える。真咲は不思議そうに首を傾げ、漸く攻撃の手を引き、数歩だけ後退した。
 真咲が自分を襲った事実に、汐耶は絶句する。
 だが黒服たちと紫藤は、今何事が起こったか、冷静に見極めていた。
 今の真咲の行動は――本来の襲撃者、それも得体の知れない男の方の、仕業だと。元々、真咲には精神系干渉は効き難い。暗示能力が並外れて強い紫藤であって初めて、その術が普通に用を為す程だったのだから。だからこそ操られる、と言う危険は、今まで、あまり考えられなかったのだが――この場合は。
 紫藤も現れた男の気配を察している。湖藍灰。彼個人を過去に見た事は無いが、『存在自体』が似た雰囲気と言える男女とは――以前会った事がある。それも、真咲絡みで、だ。
 並外れた何かを感じさせる、そこの部分だけは共通する存在。
 紫藤にしてみれば、『彼ら』なら…無条件で真咲をどうこうする事が、出来なくも無いだろう、と思えてくる。
 黒服たちも同様。この現れた男と何処か似た――春梅紅と言う女性に、面識があるから。
 具体的には、何となく、の程度でしかないが、既に本能で察していると言える。
「無駄だ」
 ぼそりと。
 長髪の黒服は告げる。
「…意識のある『白梟』ならば脅威だが――本来の意識が殆ど無い以上、その力は、敵にもならない」
 牽制の為にか真咲へ向け銃を構えたまま、淡々と――湖藍灰に。
 揺らめく炎のような朱金の瞳。
 何処か茫洋と前方を見るその瞳に、一番、動揺していたのは――誰だったか。
「強がり言うね? 普段の戦闘能力の上に――今は火まで使えるでしょ。武器としてのレベルで。充分」
 黒服の科白に、静かに返す湖藍灰。
「…確かに、私の掛けた『精神拘束』を取っ払えば、こいつの発火能力は無制限だ」
 ぼそりと、紫藤。
 挑むよう、カウンターに両手を突いた状態で。
「だが」
 彼はじ、と湖藍灰を見据える。
「…こいつの本当の強さは、『狂わされた』今じゃ、出て来んよ」
 湖藍灰の無造作ながらも圧倒的な力――を見せ付けられても猶、たじろぐ気配も見せない、紫藤。
 その姿を見た湖藍灰は面白そうに目を細めた。
「…では、いつまで持つか、ゆっくり試してやりましょうねえ?」
「湖ちゃん」
 心配そうなリカテリーナの声に、湖藍灰は彼女を抱き締める力を強めた。安心させるように。けれど周囲にはそう見えないように。
 湖藍灰の言葉通り、何処か頼り無く佇んだ真咲は一度身体を沈ませたかと思うと、再度躊躇い無く床面を蹴り出す。長髪の黒服へ。真っ直ぐ向けられている銃口も見ていない。突進。長髪の黒服は躊躇わず銃爪を引いた。けれどその時にはひらりと身を翻し、真咲はこの至近距離で避けている。…それは完全には避け切れない。だが黒服の狙った筈のその場所――額からはあっさりと、躱された。結局、放たれた銃弾はこめかみ付近を僅か掠ったのみ。
 そして真咲はその程度の傷を気にしない。銃撃される事には慣れている。動きは何も変わらない。鈍くならない。鋭いまま。撃たれた衝撃でほんの僅か動きのタイミングがずれる程度。長髪の黒服の目前に至る。真咲は手刀で彼の手首を力任せに殴り、握っていた銃を叩き落とした。そこから無駄な動きひとつせず、逆の拳を、鳩尾へと真っ直ぐ、刺すように叩き込む。ぐ、とくぐもった声が吐かれ、背中が折られた。
 意識が次の場所――元の場所に戻る。体格の良い方の黒服、彼に庇われた汐耶。
 本来の襲撃者の狙いは――『強い能力者』である汐耶。だからこそ今ここで、真咲が狙うのは、汐耶。
 再びそちらを、ゆらりと振り向いた。
「真咲さんっ」
 叫ぶ声も耳に入らない。
 と、体格の良い黒服の方が今度は先に動いた。片手で構えた拳銃をその姿にポイントし、躊躇い無く――少なくとも周りにはそう見えた――銃爪を引いた。
 が。
 真咲がその弾道上、己の顔の前に、自分の掌を黒服に向け――無造作に翳したのが先だった。その中に揺らめく無色透明の陽炎。そこに撃ち込まれた筈の銃弾は――べちゃりと。
 熔け落ちた。
 勢いを失った鉛の液体が床に落ち、程無く半固形化する。既に銃弾の形を保っていない。
 今度は、高温極まりない、不可視の炎。
 その陽炎をもてあそんだままの掌とその腕を、真咲はゆっくりと撓ませる。構える前の自然体。そして、次には真咲はまた、一度掌を握り、炎を消すと、その腕を再び振り上げた。
 そして数歩大きく踏み込むと、その腕を――黒服に向かって大きく薙ぐ――。
「止めてっ」
 汐耶が叫ぶ。
 けれど真咲の表情は変わらない。
 が。
 今為された攻撃、これは炎では無く、ただの打撃。
 咄嗟に庇ったが庇いきれず強か殴られ、黒服は片膝を突き掛けたところで真咲を見上げる。
 何故だ。
 …何故か、致命傷を与えるような攻撃は、加えない。否、それどころではなく…この真咲、何故か発火能力を殆ど『武器としては』使わない。そもそも先程汐耶に向け、放った赤い炎は――初めに邪妖精を灼き払った不可視の炎と比べれば、相当の低温になる。…だから紫藤が咄嗟に投げた大量の水の塊で相殺できたとも言えるのだ。
 ごっ、と鈍い音が響く。
 それは体格の良い黒服の腹を真咲の膝が蹴り上げる音。浮いたその身体の背に、今度は組んだ両手を、容赦無く振り下ろす。黒服に包まれた身体は、為す術無く床に叩き付けられた。

 その隙に。
 汐耶がスツールから、立ち上がっていた。
 体格の良い黒服を叩き伏せたところの、低い姿勢、真咲の丸められた背中に、そっと手を乗せて。

 ――封印能力を発動した。

「止めて、下さい」
 唇を噛み締め、汐耶は言う。
 真咲は動かない。
 封印能力を発動したと言っても、身体機能を切るつもりではやっていない。
 襲撃者の男――湖藍灰に操られた心を、その干渉部分を、『封印』するつもりで。
 それでも、まだ普通に、動くだけなら――動ける筈だ。
 彼を信じる心が、そこまでの猶予を許している。
「…良いんですか、こんなの。誰か他人の意のままに動いて、良いんですか。それが嫌だから貴方はここに居たんじゃなかったんですか。…この人、貴方を慕っていた人でしょう? わかってくれた、方なんでしょう? それをこの仕打ちですか? …こんな真咲さん、私だって嫌です。
 元に戻って下さい」
 告げる。
 それでも『今の』真咲がやる気なら――自分程度、すぐに殺される。
 わかっているが――それでも。

 真咲は屈んだまま、動かない。
 汐耶の科白を聞いているのかいないのか、何の反応も示さない。
 黒服が訝しげな表情をしたまま、腕を突っ張り、半身を起こす。
「…代、行?」
「…真咲さん?」
 その、声で。
 俯いたまま、見開かれた瞳。
「…ァ」
 が、と顔を手で覆い、よろけた真咲は床にがたりと膝を突く。そのまま力が抜けたよう、べたりと手も突いた。
「真咲さん!」
「離れて下さい」
 即座に。
 存外はっきりした声で、切り返されて。
 安堵したような汐耶の声を、断ち切るように。
 と、そこに。
 歌うような声が響いた。
「…怖いかな? 怖いよね。その力――強いのはわかっていたものね? 己が気配を変える程。だから精神(こころ)に歯止めをかけた。強い力でお前を縛した。お前の『力』は霊力じゃない。心が意識が、生み出す炎。そう…超能力…とでも言った方が正しいかもしれないな? 他の何物でもないお前自身が熾す至極の白。万物に働き掛け、通じ合わせ捻じ曲げ使う技術の粋じゃない。…色の無い世界の炎。いったいどれ程の高温まで――上げられるのか知りたいね。お前自身の制御力――操る力も申し分無い。ならば利用の価値はある。そう思うのがこちらの理屈。
 …まぁ全部とは言わない。少しでも…敵の力を利用できれば、色々と楽だからね? そうだろ?」
 ふわん、と人の悪い笑みを浮かべつつ、湖藍灰。
「…湖ちゃん」
「落ち着いたか? リカ」
「うん。仕方無いから…後でまた他のコたちと契約する…。でも…この男、元に戻っちゃったし…どうするの」
 恐る恐る訊くリカテリーナの声。
 優しい声がそれに返る。
「だったらここは――おいとましましょう? どうせ元々様子見だ」
「え?」
 きょとん、と目を瞬かせるリカテリーナ。
「実は、そう」
 ぽん、とリカテリーナの頭に手を乗せつつ、湖藍灰は店内の一同を流し見る。
「できるようなら、今このままやっちゃっても良かったんだけどね」
 ついでのようにぽろりとこぼし、湖藍灰は何が面白いのかくすくす笑う。
「これは…ちょっと今は止めておいた方が良いようだ。失礼しましょ」
 店内の面子――特に汐耶を見、最後に真咲を見てから湖藍灰は言う。
 そしてリカテリーナを抱き締める力を弱め、お姫様だっことでも言うべきか…横抱きに抱き上げ直すと、あっさり、無防備にも見える仕草で踵を返した。
 と。
「…待て」
 再び銃口を上げ、長髪の黒服はそんな湖藍灰を制止する。
 が。
「いいの?」
 くるん、と振り返った湖藍灰に邪気無く微笑まれ、長髪の黒服は絶句する。
 笑み自体は無邪気でも――その瞳の黒さが。
 虚無の名の通り何もない、ただのっぺりと墨を塗り込めたような色の。
 ただただ深淵を覗き込んでいるような――吸い込まれそうな漆黒の闇。
 見ているだけで蝕まれそうなその瞳に、長髪の黒服は思わず怯んだ。
 刹那。
 たんっ、と床面を蹴る音が響いた。
 それと共に、リカテリーナを抱きかかえた湖藍灰がドアに走っている。まるで飛んだような一瞬。それ程広くない店内とは言え、幾ら何でもドアの前に付くのが少し、早過ぎる。
 ゆら、と少し俯き加減なまま、湖藍灰はちら、と中の面子を見、それから、ふ、と外へ。
 潔いくらいの去り方。
 真っ先に後を追跡しようとした体格の良い方の黒服が、彼等の消えたドアにがん、と張り付く。が、そこから外を見た時には既に、当然の如くふたりの姿は無い。後を追うにも気配も何も残っておらず、仕方無く踵を返し戻ってくる。

 静寂。

 と。

 だん、と一度だけ、堅い何か――床が激しく叩かれる音。
 その源は、何も言わずに俯いたままの真咲の拳。
 観念したように、真咲はそろりと立ち上がる。
 ぎゅ、と握られたその拳が、落ちるように彼自身の脇に下ろされた。
 …なり、
 その姿は、一歩、前に。
 ゆっくりと、進んで行く。
「…真咲さんッ」
 汐耶の、呼び止める声。
 真咲は僅か振り返り、儚く笑んだ。
「…申し訳、ありませんでした」
 …とんだ御迷惑、お掛けしまして。
 小さな声で続けてから、前へと向き直る。
 店の、ドアに向かう。
 けれど、普段とは何かが違う。…その身の気配だけで無く。
 …それも当然か。
 今起きた事を思えば――きっと真咲はこのまま帰って来ない。そう思えるような、態度。
「…待って下さい」
 察して汐耶は呼び止める。
「嫌ですよ? そんな…」
「珈琲は、…実は草間さんも淹れるの上手いんですよ。好きだけあって。普段は…零ちゃんとかに淹れてもらってばかりで…滅多にやらないみたいですけどね」
 …もう俺は、お会いする事も――珈琲を淹れて差し上げる事もできませんから。
 暗に言う。
 汐耶にも意味はわかる。
 けれど、そんな勝手は、嫌だ。
 本心を言えば、珈琲云々は方便に過ぎない。
 ――本当は。
「…では」
 真咲は淡く笑んだまま、ドアに足を向ける。
「代行…!」
 必死な声が、その背を追う。…体格の良い方の――真咲を慕っていた方の、黒服。
「その呼び方は本当にもう勘弁して下さい。…お願いします。もう、その価値も無いです」
「…そんな」
 価値も無い。
 そんな言い方。
「真咲、さん」
 更に引き止めようとする汐耶を、紫藤が止めた。
「…自分の始末が付けられなかった、それが許せないって事は、あるだろう?」
「だからって黙って行かせるんですか!」
「このままただ居れば真咲は自分を責めるだけだろうよ」
「…だからって!」
 思わず声を荒げる汐耶。
 紫藤は静かに、ドアの前で立ち止まり、こちらの話を聞いている様子の真咲を見遣った。
「真咲」
「…はい」
 答えもちゃんと帰ってくる。
 心の整理を付けているように、その場に、留まって。
「その気になったら、いつでも戻って来い。ここのバーテンはお前で慣れ過ぎた。…他の奴だと使い難い」
「………………有難う、御座います」
「変な意地は張るなよ。どれ程格好付けようと、私の前では無意味だ」
「知ってます」
 紫藤の言いように、微かに笑みを含んだ声が戻る。
 …このひとにはどうしようもないくらい、迷惑を掛けてばかりで。
 どん底の部分を見られている。…そんな時から、ずっと、世話になっている。
 本当に、敵わない。
 けれど。
 だからこそ。

 ――今は、去るしか。

 そんな判断しか出来ない、自分。
 ここまで来ればそれすらも『甘え』のひとつであるとわかっていても。
 あんなにも簡単に操られてしまった自分自身が大切な人たちの側に居る――その事自体が、ただただ、怖い。

「今まで…本当にお世話に、なりました」

 決意を込めて言い置き、立ち去るその背中を追い掛ける事は――結局、誰も、出来なかった。

【了】