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見えざる相克
霜月に入ると、東京もぐっと気温が低くなる。
だがその日の午後に限っては、うららかな日差しが春のように降り注いでいた。真名神慶悟は、公園のベンチで腰掛け、ぼんやりと空を見上げていた。――少なくとも、傍目にはそう見えた。
冬の空は清冽に澄み渡っている。慶悟のくわえるタバコの煙が、のんびりと昇っていった。あいかわらず、派手ないでたちの男である。それだけに目立ってしまう。こんな平日の昼間から、彼のような若者が、公園で油を売っているとは、と、眉をひそめて通り過ぎる者もいたかもしれない。
(こう見えても仕事中なんでね――)
慶悟はそんな視線に、内心でそう応えを返していた。
傍らの新聞には、中東某国のさる人物が、来日した旨が報じられている。慶悟のもとに、黒服の依頼人がやってきたのは三日ほど前の話だ。
「了解した。護衛の編成と、移動のルートを教えて貰えれば。――いや、俺は同行しなくて結構」
慶悟の言葉に、相対する男たちは怪訝な表情を見せた。
「呪術的な攻撃を退けるだけなら術者はどこにいようと同じこと。むしろ、俺がいることを気取られないほうがよいだろうと思うのでね」
そう言って不敵に笑ってみせた青年陰陽師を前に、依頼者たちは顔を見合わせたものだった。そんな一幕を思い出しながら、慶悟は、公園に植えられた樹々の梢の向こうに見える、ホテルへと目を遣った。マスメディアには、件の要人の宿泊先については間違った情報が流されている。実はあのホテルの高層階にあるスイートルームに宿を取っていることは、ごく少数の人間にしか知らされていない事実だ。むろん、その建物から離れた場所で、一人の陰陽師が霊的な護衛をひそやかに行っていることも。
呪術とは、世の影にひそみ、裏に息づくもの。
おおやけの目にはふれぬところで、わざを行うものなのだ。
そして慶悟はよくわかっている。
それはまた、敵にとっても、同じだということを。
いずことも知れぬ、それは、うす暗い部屋だった。
湿り気を帯びたひんやりとした空気。周囲はひび割れやしみに汚れたコンクリートの壁にかこまれ、耳が痛くなるような静寂に支配されている。どうやら、廃墟のようだ。窓がないところを見れば、地下かもしれない。
明りは、床にじかに立てられた幾本かの蝋燭の、揺れる炎のみ。
室の中央には、ひとりの男がどっかりと腰をおろし、あぐらをかいている。
筋肉に鎧われた浅黒い肌の上に黒革のジャケットをひっかけた大柄な男は、鬼伏凱刀である。
うすいくちびるが、低く、なにか呪文のようなあやしい詠唱を囁き続けていた。
「…………」
ふいに、その声がやんだ。ゆらり、と、蝋燭の炎が踊る。
「結界が敷かれているな――入れ知恵をしたものがいたらしい。ふん……だが、そうでなければ、な」
にいっ、と、口の端が吊り上がった。
瞳が、血の色に燃え立つ。おののくような武者ぶるいに、凱刀は低い忍び笑いをもらした。対する者の戦意をそれだけで奪うような、圧倒的な覇気が発せられている。
凱刀の前には一枚の写真があり、イスラム風の服装の人物が写っていた。
鬼伏凱刀は殺し屋である。
そして今の、その標的こそ、この写真の人物であり、他ならぬ真名神慶悟が護衛を依頼された要人なのである――。
(……?)
気のせいか。
誰かに見られているような――気味の悪い感覚が、首のうしろにつきまとっていたのだが。
男はきょろきょろと周囲を見回したが、ホテルのロビーに異状は見当たらない。むろん、気をつけて見れば、黒服の体格のいい男たちが、要所要所にさりげなく立っている。だがそれはかれが仕える人物を守るための……味方側の存在だ。
すこし過敏になっているのかもしれない――。男は思った。はるか極東の島国まで、あるじとともに旅をしてきた疲れをいやす間もなく、かれらに敵対する勢力が、この旅先でかの人物をなきものにすべく、殺し屋を雇ったという情報が飛び込んできたのである。しかも、暗殺者はあやしいアジアの魔術をあやつるというではないか。
だが、その対策として、同じく日本の魔術をよくするガードを依頼した。ひとまず心配事は忘れてすこし休むべきかもしれない。
そんなことを考えながら男――要人の秘書をつとめるイスラムの紳士は、あてがわれた部屋へ戻ろうと、エレベーターへと歩いていった。
静かにドアが開き、男を迎え入れる。
そのときかすかに……肩の上になにかがすっと舞い降りてきたような、そんな錯覚をおぼえた――と、後になって男は語った。だがそれ以降、男は自身の行動を記憶していない。
「……っ!」
きん、と、かるい頭痛が慶悟を襲った。
(来たな)
いつもすずしげな目が、にわかに険しく細められる。
その日は、スイートルームのある階全体が、当局によっておさえられていた。
廊下には一定の感覚を置いてSPが立ち、ホテルのボーイたちも立ち入りを制限されている。だが、要人の秘書である男であれば別だ。ふいにそのあるじの部屋を訪れてもなんの不思議にもあたらない。その目が、よく見ればひどく虚ろであったとしても。
「……どうかしたのかね?」
部屋でくつろいでいた人物は、時ならぬ秘書の来訪に首をかしげた。
男は応えない。
ただ無表情で、自動人形のように、ぎこちなく首を巡らせた。部屋のドアの上、天井に近いところに、一枚の紙が貼られている。オリエンタルな文字の記されたそれは、真名神慶悟がかれらに渡し、貼るように命じたものだった。
「お、おい……!」
声をかける間もなく、男は跳躍し、その札をむしりとっていた。
「誰か!」
異常を感じて、部屋の主は声をあげた。SPたちが部屋になだれこみ、はがした札を握りしめたまま立ち尽くしている男を取り囲む。
ニヤリ――。男は嗤った。正気ではないことは、もはや誰の目にもあきらかだった。
「……っ!!」
ぷつり、と、糸の切れた操り人形のように、男の身体がくずれた。そしてそれと入れ替わるかのように、男の足下の影が、それが黒い水たまりであったとでもいうかのように波だち、盛り上がり、見る見るうちに異形のすがたがあらわれ出ようとしているではないか。
百戦錬磨のSPたちのあいだにも、どよめきが走った。
狂おしい哄笑。それは……鬼、だった。かの人物が、その東洋の魔物のことを知っていたとは思われない。だが確実に、それが危険で、不吉な存在であることは瞬時に感じ取ったことだろう。巨大な出刃包丁をたずさえ、髪をふりみだした、それは鬼女であった。燃えるように赤く輝く目が、まっすぐに、男を狙っていた。
SPたちが懐から銃を取り、ほぼ一斉に発砲する。花火のような破裂音が、スイートルームをふるわせた。
至近距離だ。弾丸はほとんどすべて命中したと言ってよい。だが、鬼女の身体からは血の一滴もこぼれることはおろか、姿勢をくずしもしない!
くわっ、と、まさに耳まで裂けた口が開かれ、そこにずらりと、鋭い牙が並んでいることがわかった。恐怖が、人間たちを圧倒した。
たかだかと包丁が振り上げられる。
その時!
青白い流れ星が空を切り裂いた。
鬼女の目に、はじめて、憎悪と悪意以外の感情がよぎった。ひゅんひゅんと、音を立てて女怪の周囲を旋回している、数個の、小さなモノたち――。
目をこらしてみれば、おおまかには人型をしている。
しゅううう、と、鬼女は、牙のあいだから苛立ちの吐息を漏らした。
「なんてこった」
慶悟の額に、うっすらと汗がにじんでいる。
「こりゃまたやっこさんも厄介な相手に狙われたもんだ」
おもむろに、喉元のネクタイの結び目をゆるめた。
「こんなところで鉢合わせするたぁ思わなかったが」
慶悟のしなやかな指が、複雑に組み合わされ、あやしい印形をなす。
「手加減などしないぜ、鬼伏よ!」
鬼女は刃をふるう。が、光の小人たち――真名神慶悟の放った式神のほうがスピードは上だ。俊敏に飛びまわりながら、鬼をめがけて体当たりをくらわせる。そのたびに、じゅッと音を立てて嫌な臭いのする黒煙があがった。鬼女の表情からしても、それがいくばくかのダメージを与えているようである。
そして、そうこうしながらも、式神たちはいつのまにかその数を増していき、同時に、飛行のスピードも上がっていった。やがて、尾を引くその軌跡が、ほとんど鬼女を取り囲む円のようになった時。
(よしッ。捕らえたり!)
慶悟の一喝が、状況を見守るものたちに聞こえたはずはないが――
光の輪が、かっ、とまばゆい閃光を放ったかに見えた瞬間、ぴたりと、鬼女はその動きを止めていた。
「畜生」
地の底から沸き上がって来たような毒づき。
「禁呪にとらわれたか」
だが、鬼伏凱刀の顔に苛立ちがあらわれたのもほんの一時のことだった。
すぐに、それは倒し甲斐のある獲物を前に舌なめずりをする、獣の表情に取って替わられる。
「さて、どう動く」
空をえぐりとるように、指を動かすと、骨がぽきぽきと音を立てた。
ふいに、蝋燭の火が風もなくゆらめいた。
「ん……」
すっと目が細められる。
「ふん。邪気をたどってきたか。小賢しい」
口の中で、呪を囁く。
そして、見えないなにかを殴るようなしぐさで、太い腕をぶん、と振るった。
なにかが破裂するような音と、みじかい叫び声が虚空に響いたかと思うと、びしゃり、とコンクリートの壁に赤黒い飛沫が散った。
遅れて、ひらひらと、呪符が舞い落ちてくる。
勝ち誇ったような笑みが、凱刀のおもてにのぼった。
「…………」
慶悟の頬に、つう……と、一本の血の筋が流れ落ちる。
(邪魔するならぶった斬るぞ)
空気を介してではなく、その声は慶悟の耳に届いた。
頭ががんがんするような、大音声だった。
「黙れ」
(やる気かァ、真名神?)
「悪いが、こっちも食い扶持がかかっているんでね」
ふたりのやりとりは空間をへだててかわされている。
だが、そのあいだの虚空ともいうべきところに、火花が散るような、そんな印象があった。
「面白い」
蝋燭が壁に投げかける凱刀の影。それが膨らむように伸び上がったかと思うと、異形へと形を変える。大柄な凱刀をも越えて魁偉な、双の角をはやした姿だ。目にあたる箇所に、かッとふたつの紅い怪光がともった。
(十二神将――朱雀……!)
慶悟の声に応えて、光り輝く鎧を纏ったような式神が、すっ――と、舞い降り、凱刀の前に立った。
凱刀は動かない。
見るからに獰猛な、凱刀の駆る鬼に比べて、さほど有害とも思われぬこの存在が、実は比類のない暗殺者であることを、凱刀はよく知っている。下手な動きを見せたが最後、不可視の刃がひるがえり、彼の首が転がるだろう。
だが、それは慶悟も同じ立場なのだ。
遠く離れた場所で、うららかな陽光のもとにいてさえも。ほんの一瞬、気を抜けば、鬼の手が彼をつかみとり、ずたずたに引き裂いてしまう。
呼吸ひとつはばかられる。そんな時間が流れた。
赤いパトライトの明滅を、慶悟は視界の端にとらえる。騒がしいざわめきが、風に運ばれてきていた。件の要人は、無事、逃げおおせたようである。そして――
「どうする鬼伏。全国生放送で最終決戦といくかい」
(…………)
いまいましげな唸り声を、凱刀は漏らした。
(今度会ったときは、その優男ヅラをもぎとってやるからな。覚悟しておけよ)
すっ、と、邪悪な気配が退いていく。
蝋燭の炎が消えて、地下の廃墟は闇に閉ざされる。鬼伏凱刀は、暗闇の中で、大きく息をついた。
真名神慶悟もまた、くずれるように、身体の力を抜いていた。見上げた空は、抜けるように青い。
その日の夕刊には、某国より来日中の要人が、体調をくずして午後の予定の一部をキャンセルしたことが報じられていた。それ以上の事情は詳らかにされなかったが、以後のスケジュールにさほど深刻な影響はないようだった。
もちろん……この一幕にかかわった、ふたりの男たちのことを知るものは、ほとんどいない。
(了)
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