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蠢くモノの家
研究者の貪欲な探究心と好奇心は、時にけして越えてはならない一線をこともなげに踏み越えてしまう。
そこに善悪の判断はなく、また、禁忌への畏怖も存在し得ない。
自身の、そして他者の生命をも利用して、彼らは禁断の果実に手を伸ばす―――――
*
「あの、あたしと探し物をしてくれませんか?」
屋敷の主である雨柳凪砂が声を掛けてきた時、ラクス・コスミオンは床に伏せ、いくつも築かれた『本の塔』の狭間でひたすら古書のページをめくっていた。
「探し物、ですか?」
獅子の身体を持つスフィンクスの少女は、不思議そうに凪砂を見上げ、それから慎重な動きで上体を起こす。
ワインを思わせる鮮やかな赤い髪がさらりと背を流れ、背中の羽根が揺らぎ、そして、緩やかに揺れる尾が絶妙なバランスを保つ塔へと全ての振動を伝える。
「あ」
「え?」
どさどさどさどさどさ――――――
「きゃあ!?」
重力に従って、ハードカバーの分厚い本がラクスの身体へと一気に雪崩れ落ちる。
「……あぁ………」
とっさに差し伸べられた凪砂の手は、残念ながら崩壊する塔の下敷きになる同居人兼友人を救うことは出来なかった。
「ええと…それで……貴女の力を借りたいんです。……あの、大丈夫かしら?」
床にしゃがみこみ、大量の本を押し退ける手伝いをしながら、何とかそこから這い出てきたラクスの顔を心配そうに覗き込む凪砂。
「凪砂様のお役に立てるのなら、ラクスは喜んで協力します!詳しいお話を聞かせてくださいませ!」
「………欧州からの、連絡でしたの……」
やや緊張気味に『飲み込むもの』と言う意味を持つグレイプニルの首輪に指で触れながら、凪砂は言葉を選びながらゆっくりと語りだす。
その言葉が意味するものへ、ラクスは容易に行き当たった。
「………………禁書の写本が、何者かによって持ち出されました……」
「それは…っ」
それは、起こってはいけない事態の発生。
在るべき世界の理を根底から歪めるもの。
「持ち出されたのはごく一部ですわ……でも、人の手に渡って、その力が発動してはいけないものなんです」
全ての状況を語り終えた時、ひたりと空気は冷たい静けさを増し、重みを増し、そして2人を深みへと引き込んでいった。
「あたしと、探し物をしてくださるかしら?」
凪砂はもう一度、確かめるように問いかける。
「喜んでお手伝いさせていただきます」
ラクスはゆっくりと頭を垂れ、答えを返した。
黒と緑の視線が交差する。
ラクスの精神は、あらゆる世界の扉を開く力を秘めている。
そして、禁書と呼ばれる存在は、常にこの世ならざる闇の意思を内包しているものだ。
目を閉じ、精神を統一し、雑多な世界に紛れた細い道筋をなぞる。
自身の意識に語りかけ、ひそやかに道を示す異質な気配を辿るのはけして難しい作業ではない。
そして。
凪砂の両手はありとあらゆる場所に繋がっている。
好事家として、小説家として、研究者として培われ、多方面へと張り巡らされた情報網は、閉じられた裏側の世界へも通じている。
そこで得られたあらゆる情報を、分析し、正しい答えに結び付けていくことはけして難しい作業ではない。
スフィンクスが女性を背に乗せ、空を駆けようと、誰もその姿に疑問を抱かない。
誰も、ソレが異様であるとは思わない。
夜空に星が瞬くのと同じように、あるいは、月が日の光を反射して頭上で輝くように、彼らはそれを『当たり前の事象』として受け止める。
「ラクス、あの建物ですわ」
しなやかな彼女の指先が、ネオンに溢れる夜景の只中で、黒く沈んだ四角い闇を指し示す。
空を裂いて夜の街に響く猛禽類の羽音は、ゆっくりと降下を始めた。
親友の背から滑るように地面へ降り立つと、凪砂は手にした懐中電灯を周囲に巡らせた。
夜の帳を下ろした研究所に、明かりの灯る部屋はひとつもない。
外灯も何も、この場所を照らすものは一切存在していなかった。
「ああ、やっぱり……」
円形の光が、ある箇所でぴたりと静止する。
コンクリートの門に刻まれた名は、『寄生虫研究所』―――――
「………やっぱり…ここで間違いないですわ………ここに、例のものも……」
「ラクスは、確かにアレがここにあると分かります。感じます。でも…その……」
禍々しい色を帯び、ただじっと蟠るこの建物から、今にも溢れ出しそうになっているものの姿が彼女には見えていた。
時折、闇を裂いて閃く懐中電灯に反応するものもいる。
「中に入らなくちゃいけません…よね?」
肌を刺すような不快な痛みに怯え、凪砂を振り返った。
『でなければ仕事は終わらないだろう』
だが、答えを求めた先に立っていたのは、彼女であって彼女でないもの。
『生物精錬の章……碌でもないものが流出したな』
全身を覆う艶やかな闇色の毛並みが月の光を受け、獣の口元は冷たく引きつれた笑みを浮かべていた。
「……凪…いえ、フェンリル様……」
『ラクス、結界を張れ。奴らが外に溢れてきては面倒になる。我はそのようなことに煩わされるつもりはない』
「……畏まりました」
高圧的なこの言葉を受けながら、恐怖心を自身の内へと押し込めて、ラクスは呪を口にし、音を紡いだ。
チカラが闇の世界に浸透していく。
異形を囲うコンクリートの箱が、彼女の呪を帯びて現実世界の枠組みから隔絶され、完全なる閉鎖世界へと変わって行く。
ざわざわざわザワザわざわザワザアアぁぁアァ………
力の波動を感じ取っての反射か、それとも、この狭い場所に閉じ込められ、滅される運命を本能で悟ったのか、呻くだけだった異形が一斉に甲高く喚きはじめた。
悲鳴とも咆哮とも哄笑とも取れない音を孕んで、ラクスと影を襲う。
助けてくれ死にたくない助ケテくれイヤだ殺さないで出してくれイヤだイヤダイヤだイヤだっっ―――――
『ウルサイ。ダマレ』
いつの間にガラス戸の向こう側まで移動したのか。
容赦なく切り捨てる鋭い言葉と同時に、フェンリルの凶悪な鉤爪が群がる異形を一薙ぎで払った。
『道は作る。探し物ついでにこいつらも一掃する。そなたも我とともに来い』
短い命令とともに、狼の姿を持った魔獣は冷たい箱の中へ向かってさらなる跳躍を繰り返す。
「あぁ!おまちください!」
慌てて、異臭と異音に満ちた闇に消えるその背中を追いかける。
懸命に走る彼女の瞳は潤み、肌は粟立ったままだ。
結界は施された。
そして、自分に課せられた使命もまた、ラクスは十二分に理解している。
それでも、爪先から這い上がる嫌悪感を拭い去ることは出来なかった。
割れた蛍光灯。倒れ掛かる棚。散乱する試験管。ホルマリン漬けのサンプル。異臭と粘着音。
そして、それらの上を這いずり回る、奇怪な物体。
「……あぁ……ああ、フェンリル様………」
しゅーしゅーと音を立てて、床から自分たちを見上げてくるモノ。
融けかけた皮膚をべっとりと玄関のガラス扉に付着させながら、ぬらぬらと蠢くモノ。
這いずり、呻き、四肢と思しきものを差し伸べては力尽き、倒れ伏すモノ。
触手を伸ばし、縮め、また伸ばすだけを繰り返すモノ。
「………319頁から328頁までが発動…暴走したようです……」
ひしめき合うそれら全てが、かつてこの研究所にいた『ニンゲン』という生き物であったことをラクスは知っている。
地獄絵図。
そんな言葉が彼女の脳裏を掠めた。
宗教画として描かれた世界、限られた空想の産物でしかない悪夢の世界、それら全てが具現化し、目の前にあると言う現実。
日課となりつつある古書店通いの折に入手したものに酷似した世界が、目の前で展開されている。
『力を発動させたのはここのニンゲンだろう?自業自得ではないか』
構わず進むその足が、縋るように纏わりつく不定形な肉塊をぐしゃりと踏み潰した。
だが、凪砂の影は一瞬不快げに眉をひそめるだけで、それ以上の関心を示すことは無い。
ことさら、汚れを気にする風もない。
無茶はするな、人の身体は大切にしろと、普段ならば内側から苦情を投げかけるはずの凪砂は今、視覚を閉ざし、耳を塞ぎ、この惨状を感覚の一切から締め出して眠っている。
普通の人間である彼女の精神は、この光景に耐えられるだけの強度を持ち合わせてはいなかった。
『鬱陶しい生物どもだ』
どこからともなく湧いて出てくる異形を、力任せに弾き飛ばし、払い除け、両断しながら進めば、その道の後には、残骸としか呼びようのないモノが累々と折り重なっていく。
しかし、カタチを失うほど細かく切り刻まれようと、異形は小さな肉片から再生し、僅かな時を置いて再び床を這いずり始めるのだ。
互いを喰い、混ざり合い、元の倍以上の大きさに膨れ上がって、また襲い掛かる。
「………これでは…死ねないのですね」
ここが『寄生虫』の研究所でなければ、あるいはこれほどにおぞましい光景にはならなかったのかもしれない。
内側から侵され、融合し、人の原型を失いながらも、一片の意識が悲痛な声を上げて縋りつく。
死にたくない死にたくないイヤダ助けてクレイヤダイヤダ死にたいタスケテクレ殺してくれラクニしてくれシニタイ死にたいシニタイ助けテ死にたい死ニタ死死死―――――
『望みどおりにしてやる』
牙をむき、爪を振るう度、昂揚感が魂を揺さぶり始める。
影を渡り、影を伝い、獰猛な鉤爪と牙で以って、フェンリルの影は嬉々として結界の中を跳ね回った。
潰れた化物の中身が飛び散り、腐敗臭を放つ体液がぶち撒けられて辺りを穢す。
ラクスは自身の周りにも薄い結界を張りながら、影の後を必死に追った。
いちいち悲鳴を上げている場合ではない。
全ての忌まわしき光景に心を引き摺られないよう懸命に自身を守りながら、蠢くものどもの奥に潜む、この世の理を乱す闇の気配を追いかけた。
2階、3階と硬質な反響を起こしながら階段を駆け上がり、リノリウムの床を蹴り、いくつもの曲がり角を経て、濃度を増して行く瘴気と異界の糸を辿り続ける。
そして。
むせ返るような異臭の中で、2人はひとつの扉の前に行き着いた。
『ここか?』
「はい……全てはここから始まっております」
踏み込むことをためらわれるほどの惨状が展開されているであろう事を予感し、ラクスは眉をひそめる。
魔獣は、そんな彼女の心の動きなどまるで気にも止めず、両腕を伸ばし、重厚な扉を一瞬のためらいもなく押し開いた。
『随分と派手に散らかっているな』
重厚で精密な顕微鏡や計測装置、保管庫、机に並んでいた何台ものパソコン。それら全てが原形を留めないほどに破壊され、火花を散らし、残骸が10メートル四方の部屋を埋め尽くしていた。
壁から引き剥がされた薬品棚は、化学変化で立ち上がる煙と異臭を撒き散らしている。
まるで、神話で語られるトロルが、その傍若無人な腕を振るい、力任せに引っ掻き回したかのようだった。
「………あ」
だが、ありとあらゆるものが骸と化した只中で、ひっそりと、己の形を保つものがある。
闇の中でぼんやりと浮かび上がる、鈍色の実験台。
「ああ、ああ、ようやく見つけました……」
失われた写本、『生物精錬の章』が綴られた319頁から328頁の5枚の紙片。
その上には、既に正中からぱっかりとふたつに割れ、中身を失った白い繭がひとつ、ぽつんと取り残されていた。
「持ち出されたでしょうか……それとも………?」
ここで何かの実験が為された。
そして、それゆえに悲劇は拡大したのだ。
『辿れるか?』
「………はい」
獣の手で、ラクスは慎重にソレに触れる。
爪先に絡むかすかに粘り気のある糸の先に繋がる世界が、映像情報に姿を変えて自分の中に流れ込んでくる。
病んだ夜の学校で、紡がれる青い少女の物語。
巨体を揺るがし、巣食う異形の母。
身体を内側から食い破り、孵化した蜘蛛の異形。
少女を追い詰める、かつてヒトであったモノの群れ。
そして目を灼く、鮮烈な光と紅。
「………最初に生まれ、そして消えた蜘蛛は、彼女の手によって滅しております」
ゆっくりと意識を自身の中へと引き戻しながら、ラクスは告げた。
『ならば、我らが為すべき仕事はここで終わるな』
ぐしゃりと、魔物の爪が繭ごと紙片を握り締める。
瞬間、それらはフェンリルの中へと黒い霧状となって吸い込まれ、内包するチカラの全てを喰らい尽くされた。
『跡形もなく消し去ることで、我らの使命は全うされる。やれるな?』
ラクスはゆっくりと頷きを返した。
魂のレベルで融合を果たした者たちを助けることは出来ない。無理にふたつを引き剥がせば、与えられるのは死よりも激しい苦痛である。
そして、禁忌を犯したものたちをこの世界に留まらせるわけにも行かない。
全ては、外部に漏れてはいけな『真実』の一篇。
『やり方は、アレに習うか』
影の口が、また冷たく笑みの形に引きつれた。
青い少女の中で目覚めたモノが為した方法。
「……燃やす…べきなのかもしれません……あの方達ももう……」
切り刻んでも、彼らは死なない。死ねない。ならば後は焼き尽くすしか、あの哀れな魂を解放する術はないのではないか。
『では仕上げだ』
窓ガラスを割って、影は3階から外へといとも容易く飛び降りてみせる。
ラクスはそれを確認すると、自身もまた、その後に続いた。
「……………」
そして、彼女は哀しげに研究所と、そこから溢れ出すように蠢くモノを遠くに見つめ、祈りの言葉とともに地獄の業火を召喚する。
「お赦し…下さい………」
黒い炎は一瞬にして建物全域を包み込み、一切を焼き尽くすべく燃え上がる。
「…………ごめん…なさい…………」
断末魔の叫びに耳を塞ぐことも出来ず、ただ、ヒトの身で踏み込んではいけない禁忌の領域を侵した罪人たちの最期を見届ける。
救うことの出来なかった魂。
救われることを赦されなかった魂。
「お疲れさま」
そっと肩に手が置かれる。
「凪砂様……」
切なげに彼女の名を呟き、見上げると、いつもの優しく温かな微笑が返ってきた。
労わるような深い夜の瞳が、そっと自分に注がれる。
「さあ、戻りましょう?報告書の作成、手伝ってくれるかしら?」
「はい、喜んで」
やさしい親友の身体にそっと頬を寄せ、ラクスは静かに目を閉じた。
*
研究所は咎人ともに灰となるまで燃え続け、一切が風に攫われた後には、黒く焦げた土地だけがそこに残されていた。
だが、ソレに疑問を抱くものはいない。
かつてそこに何があり、何故一晩でこんな有様になったのかを問うものもいない。
ここが焦土と化しているのは『当たり前の事象』なのだ――――――
END
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