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<PCシナリオノベル(シングル)>


裁きの日

 それは音としてではないが、確かな感覚として。
 パキリ、と乾いた手応えで、意外な程簡単に砕けたのが…ピュン・フーの命そのものであると、久喜坂咲はそう判じた。
 為した術が誤っていたのではない。
 ただ、埋め込まれた死があまりに強く深く、そして昏く…最早、分つ事すら適わぬ程に根をその生に張り巡らせていた、それだけだ。
 糸の切れた傀儡の如く、全身の力を失って崩れそうになる重みに引かれ、咲はピュン・フーの頭を胸に抱いたまま血溜まりの中に座り込んだ。
 死霊を宿して怨嗟にまみれ、血に破れたピュン・フーの皮翼が自重に耐えかねて骨の砕ける、筋肉と筋の千切れる嫌な音を立てながら付け根から剥がれて地に落ちる。
 それに宿った数多の死霊は、得るべき実体が熟し切らぬ内に核を為す怨霊機を破壊されて現世に戻る事叶わず、二度目の絶息、無念、慟哭を言葉にならぬ叫びで現し、灰燼と化す皮翼と共に消えていく。
 同時、ピュン・フーに触れた箇所に伝わる熱も急速に引いて行く。
 失われていくそれを止める術は知らず、咲はピュン・フーを抱き締める腕に力を込めた。
 二人の足下、張力を保ったまま地に拡がる赤がボコリと泡立つ…今はの刻みにも捨て切れぬ現世への執着からか、流れ出た血に逃れた怨霊だ。
 だが、形為す力はなく、溺れる者が水面を割って足掻く様に似て流動的なそれに指や腕、そんな物を得かけては水泡の如くにパチリと弾けて叶わずまた沈む。
 歪なそれ等は、元より現世に仇なす為に闇から引きずり出された魂、せめて一方なりと…そう思ったか、液体のまま咲とピュン・フーが浸す足からじわりと這い上がり始めた。
 その感触に誘われてか、力を失って身体の脇に垂らされたピュン・フーの…掴んだ土に汚れた手が、伝う赤にまみれた腕が、ピクと小さな痙攣にゆっくりと上げられた。
 それはあまりに緩慢な動きで戒める鎖を鳴らす事なく、空気すら動かさず、その鋭利な爪で、咲の、肩に触れる寸前。
 払われた腕が、空気すら切って死霊共を散り滅ぼした。
 ビシャリと地に散った赤が、直ぐさま土に吸われて行く。
 熱に集中するばかりにか、声なき断末魔に初めて周囲の状況に気を払った咲がはたと顔を上げれば、間近にピュン・フーの、瞳を取り戻した眼が咲の目を映し込んでいた。
「ピュン君、平気?」
咲の案じる表情を鏡のように映す瞳を、頬に手を添えて覗き込む…硬い、表情はそのままに唇の端から覗く犬歯が支えて薄く開いた唇から吐息が洩れる。
「ピュン君ゆーな……」
その僅かな息に乗せられた声は、痛みに掠れているが、いつもの響きで向けられるのに、咲は思わず両手で勢いよくピュン・フーに抱き付いた。
「痛……てッ!」
その勢いを受け止めきれず、ピュン・フーはそのまま後ろ向きに地面へ倒れ込んでしたたかに後頭部を打つ羽目となった。
「あ、ゴメンナサイ、ピュン君ッ!」
勢い、押し倒す形は乙女にあるまじきはしたなさで、頬を染めながら咲はスカートの裾を直して脇に座り直す。
 手首の間を繋ぐ鎖を鳴らし、頭で後ろ手を組んだピュン・フーは後頭部からの衝撃に涙を滲ませた目で咲を見上げた。
「ピュン君ゆーな……」
律儀な抗議を重ねて、咲の肩を過ぎて遠く向けた眼差しの先には、月。
「ユエってんだ、ホントは」
何でもない事のように、真実は唐突に差し出された。
「それが……貴方の名前?」
何気なく放られた、それを受け止めて咲は横たわったままのピュン・フーの瞳を覗き込んだ。
 その瞳は血の赤さ、そして真円の月の色。
「さぁ、どうだろな?」
ピュン・フーの惚けた口ぶりに咲は首を振り、手を伸ばし黒い髪を額から上に向けて撫でた。
「綺麗ね……ユエ」
その大陸の言葉の響きは、月を意味する。
 それは一面しか見せず、光と闇に変化しながらも本質を変える事ない…彼にこそ似合いの名だと、そう思う。
「でもなんでピュン・フーだったの?」
実の所、最初の名乗りから気になっていた疑問を口にすれば、微かな笑いの波が髪に触れる手に伝わった。
「初めて皮翼が出せた時にさ。蝙蝠(ピィエンフゥ)みたいだっつったらそこに居たヤツが聞き間違えたんだ」
「……それだけ?」
それだけ、とこっくり頷く動作に呆れる。
「おもしれーだろ、何星人?ってカンジで」
既に国籍すら飛び越えて、星系外に発展しているのに咲はくすりと笑う。
「そうね、わからなかったわ全然」
なんでもない会話が心地良い。
「でもやっぱり、ユエの方がよく似合ってるわ」
その気持ちと別の部分、掌で触れる額に滲む汗は、時折詰められる、痛みを堪える息に内側からの変化を示唆する…月食のように着実に、その命を削いで高まる闇の質は、死と同じ速さでユエの身を蝕みつつある。
 それが完全に塗り替えられた時に、彼がどのような存在となるのか…それは、咲の知識と経験が既に答えを弾き出している。
 胸が痛む。
「咲、今幸せ?」
今、そう問われる事が。
 痛まない筈がない。
 保たれた均衡は既に崩されて身を侵し、それに決定打を与えたのは壊れた心臓…意識を手放せずに死に呑み込まれて行くのを知覚し続ける、それが理解りながら。
 咲は笑んで見せた。
「貴方に逢えてよかった」
その名の如く、咲くように。
 柔らかな色の蕾が綻んで限りなく白に近く、だが花弁の端に淡い色彩を帯びて如何なる憂いをも払うかのように。
「……心から思える」
彼が彼を認識するのは最後であろう瞬間、今この場に在れて良かったと。
 見守るだけの自分は歯痒く、端々に察する痛みは我が事のよう…だが、それを知らずに居るよりは。
 喩え、自分勝手な幻想でも、分かち合う事が出来るなら。
「幸せよ」
言って、もう一度髪を撫でる…その瞳が、驚きの為か僅かに見開かれた。
「でも……ユエが幸せならもっと幸せ」
身を折って、こつりと額を合わせれば、その赤が至近に、月光を遮る咲の影の下で真紅に変じる様が見て取れた。
「貴方の幸せは見つかったのかしら」
微笑む咲に眼差しを合わせたまま、ピュン・フーはまるで笑いのように、ハ、と短い息を吐き出した。
「流石、咲ちゃん……普通じゃねぇな」
ピュン・フーの曰く所による誉め言葉、に咲はまた少し笑ってみせて髪を撫で…その額に口付けを落とした。
 眠りに落ちる者へ、安らかな夢を約束するように。
「見てるから。だから安心して今は……目を閉じて」
見ていた、初めて出会った時からその笑顔も、振る舞いも、赤い瞳に時折翳る真紅も。
 だから最後まで…最期まで。
 その全てを、胸の内に止めて忘れないと、定めた苛烈とも言える覚悟はその優しい所作に込められていた。
 咲の言葉に、その口付けに…ピュン・フーは一度瞼を閉じ、掌に間を繋ぐ銀の鎖を鳴らして握り込むと、詰める息にすら力を込めて身体を起こそうとした。
 その意を察し、背を支えようとした咲の手を押さえ、ピュン・フーは声を張る。
「ステラ!」
それに弾かれるように咲が目線を上げれば淡い月光ですら、その存在感を明らかに光を弾く、西洋の麗人が銃を片手に立っていた。
 ステラ・R・西尾、と名のる彼女は名を呼ばれたそれに動じる事なく、旧知の友にそうするように、にこやかに微笑んだ。
「Hi,ピュン・フー。鈍ってないみたいで嬉しいワ?」
木立の影に溶け込む黒のボディスーツに肉感的な肢体を包み、上げた銃口は黙って場を見守っていたヒュー・エリクソンに向け、ステラはそれから咲に向ってほんの少し、困ったように微笑んだ。
「ダカラ、寄り道しないで帰りなサイって言ったノ……ゴメンナサイね」
何処からかは解らない、が、ステラが咲を監視していたのは確かだった。
「ステラ」
彼女の謝罪に対して咲が発そうとした言葉を制する形で、先んじて口を開いたピュン・フーは、肘で上体を支える、それだけの動作にも息を切らせて続けた。
「俺を早く、持ってけ」
「……ユエ?」
自身で自身を、物のように評して。
 ステラに乞うたその意味を察し、咲は愕然とその名を呼んだ。
「悪ィな、咲ちゃん」
それにピュン・フーは…いつものようにニ、と笑う。
「そういう約束なんだ、元々な」
看取らせるつもりはないと、咲の覚悟を軽い口調で砕き、ひどく億劫そうな動作で…それでも誰の手も借りずに立ち上がった。
「『IO2』に戻るというのですか?」
其処で初めて、それまでは介入しなかったヒューが口を開いた。
「裏切った者をそう易く受け容れる、組織ではなかったように思いますが」
ステラの銃口は向けられたままだが、殺意のないそれに頓着する風はなくヒューは素直な疑問に首を傾げた。
「戻るんじゃねぇよ」
 いつの間に周囲を固めていたのか、咲に気取らせる事すらせずまさしく沸いて出たように黒衣の構成員が、無抵抗なヒューの脇を固める。
「『回収』されんだよ」
何でもない事のようにそう言って、ピュン・フーは自らの手で、存在を切り捨てた。
「ユエ……どうして?」
ならば何故、人としての名を明かしたのか。
 混乱にか、常の明確さを得ない咲の問いにピュン・フーは僅かに目を細めて咲を見…ちょいと手招く。
「咲、俺の幸せ、教えてやろーか?」
問いかけの形でありながら、咲の返答は待たずにピュン・フーは続ける…得たいと願った感情の在処を差し出して、逸らす事の出来ぬ程の強さを持つ真っ直ぐな眼差しに惹かれるように、歩を踏み出す。
 ピュン・フーはそれに笑うと…腕を掲げ、繋ぐ鎖に輪になったその間に咲を収めて細い背に両の掌を添えた。
 まるで死にかけている事など嘘のように、彼はいつもの笑いを含んだ瞳で咲を見下ろした。
「このまま、俺の事なんか忘れちまいな」
本能的な違和感を、そうと判じた一瞬を手遅れだと感じる。
 その言葉は力と共に、ピュン・フーを…ユエを信じて受容れる心の間隙を突き、咲の意識を奪った。


 砂を洗う波が寄せ、また返す。
 穏やかな潮汐は波打ち際を歩く際の境も緩やかで、靴を濡らす心配はない。
 咲は一人、遠く水平線を望む海岸を歩いていた。
 後ろ手を組んで落とした目線は、足下だけを気にしている風で、実の所は微塵も気を払っていない…一歩の毎に体重を受け止めて僅かに沈む砂の感触、それだけを感じながら歩を進める。
 ふと、彼女は後ろを振り返った。
 水際を進んできた足跡の大半は波に洗われ、咲の歩いた軌跡を消し去っている。
 だが。
「歩いてきた、私が消えるわけじゃないのよ……ユエ」
呟きは、消された筈の思い出へと向けて。
 最初に目覚めた時に残っていたのは、喪失感だった。
 その欠落は深い痛みで事ある毎に疼いて心を騒がせた。
 例えば夜の街、道端で売っている銀細工、黒いコートの後ろ姿。
 痛みは長く続かないが、針を打ち込まれるような感覚は違えようなく、理由の判じられないそれが十日ほども続いただろうか…目にした月、昇り初めに赤く染まったその光が呼び戻したのは、その痛みの全てが一人の存在に因る、その事実。
 そして翌日に、ステラが咲の前に姿を見せた。
 全てを了承した、その様子で彼女は小さな袋を咲に差し出した…中に、入っていたのは、濃紅のリボンと、桜貝の殻。
『あの子のコートに、入ってたノ』
ステラは少し泣きそうに、咲に告げる。
『ヒトの手で変質させて遺伝子は銀にも陽光にも強くて……アナタの手に委ねるワケには行かなかったノ。ピュン・フーも、あのコもきっとアナタに見せたくなかったから、きっとあんな……』
咲の記憶を奪った暗示の事は明言せずに、ステラは其処で言葉を切って笑った拍子、翠の瞳から涙が零れ落ちる。
『デモ、アリガト咲ちゃん。あのコの事を思い出しテくれて……忘れないデ、居テくれて』
深々と頭を下げたステラに、組織内でユエをただ裏切り者として扱う者ばかりでない事が察せられた。
 咲は両の手を広げた。
 片の掌に一つずつ…握っていた、桜貝は一対の貝から為る物だ…この世に、ただの一つとしてこれに合う片殻はない。
 それは昔から、別れる者へ片方を渡し、もう片方は自分の手元に置く…ささやかな呪いの道具だった。
 一方は一方の元へ。この世に二つとない一対の元へ、何れ帰るようにと。
 無事を祈り、再会を願い、旅行く者へ贈られる事の多かったそれ。
 片方をユエに手渡した時に託したのは同じ願い、同じ祈り。
 喩えそれが叶わずに、戻ったとしても。
「泣かないわ。笑顔の私だけ憶えていて欲しいもの」
呼び掛けるように咲は微笑むと、差し出した両の手…掌に載せたそれを湿った砂の上に落とした。
 赤い月が、呼び起こしたのは、彼の最期の言葉。
 それは今もまだ耳に残る……乾いた貝殻が、海を懐かしんで呼び起こす記憶のように。
『このまま、俺の事なんか忘れちまいな』
抱き留める為に込められた力が強く、咲を胸に引き寄せる。
 もう、その命を刻まないはずの鼓動がただ一度、打った。
『俺は、覚えとくから』
耳元の囁き、背を支える手、触れた箇所の…確かな、熱を。
「私も、忘れないから」
 けれど彼を友と、呼んでしまうにはどこか切ない…気持ちだけは、共に海へと。
 ユエが生まれた海の向こう、その血の連なりに続く…全てが回帰する海へ共に、還れる筈。
 咲の足下を浸して波が寄せる…薄い花色の貝殻は、波間に浮き上がり、洗われ揉まれてすぐ、見えなくなった。