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<PCシナリオノベル(シングル)>


灰は灰に、塵は塵に


 甲高い悲鳴が、ざわつく街の空気を突いて凍らせた。
 場に居合わせた人間が、一斉に目を向けたその発生源…地下鉄へ通じる通路から、女性が走り出て来た。
 元はきちんと整えられていたろうスーツと髪とを振り乱し、自分を呆然と見る、人々の目線にまた高い声を放った。
 自らの声の残響に追われるように人の居ない場所、車道へと飛びだそうとする…彼女を止めたのはただ一人、学生服の少年……氷川笑也のみであった。
 車道へ向う女の前に立ちはだかる、という程に圧迫感はなく、す、と自然な動きで進路の直線上に割って入った、様子はたまたま進路が其処であっただけでそのまま通り過ぎてしまいそうな程、気負いも何も見えなかった。
 が、女性の目にはそれは妨害と取れたようで、言葉にならない叫びを上げてそのまま突っ込んで来る勢いは、ともすれば車道へ突き出しかねない、とその短い時間を見守るしか出来なかった周囲の心配は実は無用、であった。
 笑也は女性が突き出した腕が触れる寸前に半身を引き、目標を誤った彼女の腕を脇の間に抱え込むようにして取った。
「イヤァッ、コロサレル、コロサレルーッ!」
恐怖に駆られた女の叫びに、笑也は僅か眉を顰めた…瞳に正気はなく、女の力とはいえただ闇雲に暴れられては一人で抑えるのは難だ。
 古武道の師ならば、もう少し上手くやるだろうが。
 胸中でのみ謝罪し、笑也は暴れる女の首の後ろ、中枢神経の集まる其処に肘を叩き込んだ。
 脳から身体へ、指令を下す神経に与えられた痛烈な一打に女の身体が頽れ、押さえていた腕一本ではそれを支えきれず、引かれる形で笑也もその場に腰を落とした。
「君、大丈夫かい?」
其処で漸く、しかも恐る恐ると近付いてきたサラリーマン風の男性にこくりと頷く。
 その強い眼差しは地下鉄の出入り口に向けられ、怒りに近い感情に赤の瞳が力を増して色を深める。
 先週末位からか、ニュースが報じ続ける謎の神経症…何かに追われるように突然走り出したり、周囲の人間に殴りかかったり…それが、ビルや駅、同じ施設・空間を共にする女性全てが、突如としてその症状に見舞われるのだ。
 個人差によってほんの十数分で症状が治まる者も居れば、そのまま精神に異常を来してしまう者もいる…症状を示した女性達、証言を得られる者は全て、その間にどうしようもない恐怖に襲われたのだと訴えた。
 ある地下鉄の沿線に添うように発症し、少なからぬ死傷者を出すその突発的脅迫神経症は何等かのウィルスが原因とか、密閉空間に於ける人間の精神作用から生じるものだとか、様々な争論を戦わせながら未だに原因が確定しないまま、willies症候群と名付けられる。
 そしてこの路線こそが、問題の沿線である。
 退魔を生業とする笑也の身辺にはその方面の情報にも事欠かず、話題性の高さもあってか、willies症候群に関するある情報も、流れてきていた。
 それは噂などではなく…数多の被害者の中で、被害者に成り得なかったたった一人の女性の証言であった。
「きっとあの神父様のおかげで無事だったんです」
地下鉄の路線、その前に立ち止まる金髪の青年、どこから見ても立派な異国人に声をかけようと思ったのは、彼が杖を持っていたからに他ならないと、彼女は言う…その色は白。それが意味する所を知らぬ者は居まい。
 路線図の剥げかかった点字に指を走らせる彼だが、心ない者がガムを貼り付けていた為に読む事が出来ずにいたのを、彼女は丁寧に路線の説明をしたのだ。
 そして、日本語に堪能な彼は物見えぬ目に涙を浮かべてこう言った。
「親切な者は幸いである、彼等はそれ以上の物を与えられる…と主は仰られました。光に似た貴方の尊い心に添う物を私は何も持ってはおりません、せめて」
言いながら、懐内から小さな小瓶を取り出しキュ、とそれを開くと片掌の内に包み込み、二本の指で瓶の口を押さえるようにして、彼女に向かって十字を切った。
 僅かに開いた口から雫が彼女の額に飛沫として降りかかる…放置自転車とちらしとゴミ、そんな物の中でも行われるのが神聖な儀式だと、宗教に詳しくはない彼女にも分かった。
「神の祝福が、貴方の上にありますように」
彼女の髪に置かれた手の温かさに涙腺が緩み、泣きだしてしまった彼女が落ち着くまで、神父は穏やかに待っていてくれた。
 申し訳ながる彼女に、彼は別れ際に告げたのだという。
「『死の灰』にお気をつけなさい」
と。
 そして、willies症候群の流行…その皮切りとなったのは、彼女が勤務する事務所の入った雑居ビルから。
 そしてそれは、神父に説明した地下鉄の沿線添いであった。
「あの方はきっとそれをご存知で教えて下さったんだと思います……そしてきっと何らかの関わりを持っていらっしゃると」
出来るなら、彼に力を貸してあげて欲しい、と彼女はそう話しを締めくくった。
 そして、情報の最後、「『虚無の境界』というテロ組織の関与が推測される」という一文が添えられていた。
 笑也は意識を失った女性から、何か異臭のようなものを嗅ぎ取って眉を顰めた。
 それは髪を燃した時の鼻腔の奥に嫌な甘さを残す臭いのようであり、腐臭のようであり、死臭のようでもある。
 非道く、嫌な気配がした。
 虚無の境界…その心霊テロに主張はなく、ただ人の命を屠る事のみが目的だという。
 しかも、今回は女性のみをターゲットとし、既に幾人もの人間が命を落とし、また深刻な精神的外傷を被っている。
 母を、目の前で喪った笑也にとってそれは許し難い悪行であるより他ない。
 許せない。
 小さく口は言葉の形をなぞるが、それが声として発せられる事はなく、笑也は声をかけた男性に気絶えて重い女の身体を押しつけると立ち上がった。
「き、君ッ!? 危ないよそっちは……ッ!」
willies症候群の、と続けようとした男性は受け取ってしまった女性を放り出すワケにも行かず、止めようと続けかけた言葉を遮るように、笑也は振り返って心得ている、と表情は変えずに頷く。
 それに男性がどんな表情を浮かべたかすら見ずに、笑也は地下駅に向って駆けだした。


 ホームの隅に踞り、震え続ける女性に気遣いから肩に手をかけようとしたが、症例から考えるに『恐怖』に支配されているに違いなく、無駄に刺激を与えるよりはいい、と笑也は出しかけた手を引いた。
 構内に人の姿はない。
 willies症候群の流行に伴い、利用客が激減したとはいえ、都心へと繋がる路線でこの人のなさは異様な程だ。
 だが、全く皆無というワケではない…ホームの奥、丁度、笑也の立ち位置からは支柱の影となる場所に人の気配がする。
 術の発動までのタイムラグを考えるなら、相手を確かめる必要がある、と笑也はそのまま相手からも姿を見つけ難い、支柱に身を寄せて耳を澄ました。
「……私の指揮下にあるというなら、反論は認めません。黙って従えばいいのです」
低く、聞き取りにくい声は会話のようだず、親しさを感じさせる種類ではない。
「わーったって、ったく」
投げ遣りな答えを発した…それは耳にした事のある声で、笑也は目を見張った。
「逃げた女がどうなったか見てくりゃいいんだろ? でも俺、護衛であってヒューの使いっぱじゃね……」
身を隠していた事も忘れ、笑也は柱の影から飛び出した。
「アレ? 笑也じゃん」
頭を掻いていた手を肩の位置まで下ろし、ヒラヒラと手を振る…見慣れた黒衣は電灯の下に落ちる影すら霞む程の存在感で其処に在る。
 ピュン・フーは表情を隠して黒く円いサングラスを凌駕して人懐っこい笑みを笑也に向けた。
「今、幸せ?」
挨拶がわりの問いも変わらない…が、現況この場に居る、その意味の選択肢は圧倒的に少なく、笑也はピュン・フーを注視したまま、唇を動かした。
『何故、ここに』と。
 声にしようと思ったが、渇いた喉に言葉が張り付いて音にならず、ヒュ、と空気が漏れただけだった。
 それにピュン・フーは僅か首を傾げて、ニ、と笑う。
「頑張って勤労青年実施中……笑也は買い物? 今年の風邪は喉から来るらしいからなー、気をつけとけよ? 家に帰ったらちゃんとうがい手洗いしねーとこんで家族がバタバタと……」
強く頭を振る事でピュン・フーの軽口を遮ると、笑也はもう一度、強い眼差しをピュン・フーに向けた。
 その赤が、黒い遮光グラスに映り込む程に強く。
 その意にピュン・フーは軽く肩を竦める。
「言ってなかったっけか? 虚無の境界ってトコにお勤めしてんの、今。ホラ話題になってるwillies症候……」
「勝手は許しません」
まるで世間話の調子で続けられるピュン・フーの言を、冷たい声が遮った。
「またお前は浅はかな行動を…救い難いとはまさにこの事」
手に持つ白い杖で、コツ、と床を探るように進み、姿を見せたのは淡い金の髪を短く刈り、穏やかに瞳を閉じた神父…その杖が光を持たぬ者だと示している。
「闇に棲むならば闇にのみ潜めばよいでしょう。光の内を歩む者に触れようなど…身の程を弁えなさい」
まるで諫めるようでいながら、言下に存在自体を踏みにじる澱みのない日本語に、笑也は目をピュン・フーへと向けるが彼は肩を竦めるに止めて、特に意に介した風もない…というより、慣れている様子だった。
「何方か、いらっしゃるのですね。私はヒュー・エリクソンと申します……お名前をお伺いしても?」
「笑也ってんだ、こないだ街でナンパ……」
「お前には聞いていません」
ピシャリとはねつけ、ヒューは何で判じて、か間違いなく笑也の方へと向き直った。
「……救いの為と言って、貴方は信じるでしょうか?」
 謂われのない恐怖で心の内から蝕む、救いが。
「人は何れ神の御手に帰ります…けれど、今の世の人々はあまりにも罪深い。天の門に受け容れられるには、現世に於いての贖いも、必要なのですよ」
辛苦がそれに値する、というヒューの言葉は穏やかで、憎しみは欠片もなく…それどころか慈しむ気持ちすら感じさせる。
「魔女狩りをご存知でしょうか……中世に於ける忌むべき習慣、幾人の女性が謂われのない罪に陥れられ、生きながら火刑に処された事か」
ヒューは懐から小さな箱を取り出した。
 粗末な木のそれはたどたどしい削りで両手で包み込める程度の大きさだ。
「これは、その被害者の灰です。火刑に処された骸は弔いすら許されずに川に流される。これらは血縁者が流された川岸を咎められぬよう深夜に探って回って得た、骸です」
ヒューは蓋を開いた。
 それが人だったというにはあまりに小さく、そして冷たく白い。
「彼女たちもただ生きていただけです。それすらも咎とされて受けた責め苦は地獄のそれに値する……けれど、それによって彼女たちは本来の罪が拭われているとは思いませんか?」
 その恩恵を、現代の人々にも。
「貴方にも、差し上げましょう」
 神への呼びかけから、静かな斉唱が始まる。
 静かすぎて殺意とも呼べぬ殺意、否、それは殺意ではなく……確かな慈しみ、であるがそれを認めて受容れる訳にはいかない。
 あの、女性に染み付いた臭気と、よく似た気配が神父の手にした箱から立ち上る。
 あれを奪ってしまえば…笑也の視線の動きを遮るように、ピュン・フーがヒューの前に立った…彼を、護る位置に。
「悪ィな。コイツ守ってやるのがお仕事なモンで」
片手で拝むような謝罪、だがその軽い口調と行動が笑也を苛立たせた。
『どうして!?』
と、問い質したい気持ちを噛み締めた唇の奥に呑み込む。
 人でないその事を知りながら、魔である存在と知りながら…自分を折ってまで、守ったのはこんな明確な敵対関係だと知りたかったのではない。
 自らの手で掴んだ腕が痛む。
 それはピュン・フーに癒された銃創の…疵痕すら残さない、記憶のみに頼るしかない痛みの後。
「それ以上、近付いてくれるなよ?」
広げた片腕の爪が、鋭利な残光を残して伸びる。
 多分、ピュン・フーは躊躇なく自分を殺せるだろう…傷を残すなと笑みかけた時と同じ表情で、同じ声色で、そして二度と思い出す事はない。
 失望に抉られた胸の痛みは、自分が抱いていた期待と同じだけ…否、それでもまだピュン・フーが敵対するしかなかった理由を探している自分に気持ちが揺らぐ。
 なればこそ、まだ。
 死ぬわけには行かない。
 笑也は緩く、腕を広げた。タン、と靴底が床を小気味よく踏む…揃えられた指先は女性の仕草、ゆるりと上げた両手を伏せた面の目の上に、濃く影を落とす位置に翳すのは悲しみの仕種。
 女への言葉を残さずに、水に入った夫への嘆きが風になる。風は松の枝を揺らして鳴らし、枝葉を過ぎる松籟は、人の声に似る…風が、喪われた魂を呼び覚まし、その声を届ける。
 女にしか、理解らない声を。
 笑也の舞を、ピュン・フーは咎めるでなく見守る。近付くなという宣言の通り、その位置を越えなければ動くつもりがないのか。
 その間にも背後でヒューの祈りは続く。
「……憐れみによって、御許に召された同胞の亡骸を今御手に委ね、土を土に、灰を灰に、塵を塵に還します」
唱うような聖句が空間に響き渡る。
「主は与え、主は取り賜う。主の御名は誉むべきかな」
額から胸へ、肩を右から左へと指で示すように十字を切り、神父は大切な名を呼ぶように「aman」と祈りの言葉を唱えた。
 ふ、と一息分の灰が中空に浮かび上がる。
 それと、笑也の術が完成するは同時だった。
 深い闇の奥から、豪と空間の全てを満たしして吹く…風。
 世界の壊滅する劫末に吹くという、毘嵐の如く強く吹き過ぎるそれはピュン・フーの正面から直撃した。
「うわッ!?」
両手を交差させ、防ごうとした姿を目にするまでが限界で、笑也は体温と共に下がる血の気にその場に膝をつく。
 短い息を幾度も繰り返すが、思うように呼吸が出来ない。
 裡に下ろしたのは風神…動揺からか、呼び込んだ後の力の加減が効かず、根こそぎ力を持って行かれた。
「……大丈夫ですか、笑也さん」
そう頭上からの静かな呼び掛けに、弾かれたように顔を上げれば、髪すらも乱す事なく、ヒューが立っていた。
「凄い風でしたね……ですが私は神の加護を受けた身、如何なる術を以てしてもこの身を傷つける事は……」
「嘘こけ。物理攻撃にゃてんで弱いじゃねーかよ」
すかさずツッコんだのはピュン・フー…こちらは被害を免れず、支柱の影に飛び込んで難を逃れたが、あまりの風に障壁の間に生じた真空が鎌鼬と化したか、頬がパクリと割れて血を滴らせていた。
「皮翼広げてたら凧みてーによく飛んでただろな、なぁ?」
どこかわくわくとしているが、それ以前に壁に叩き付けられておじゃんだろう。
「またくだらぬ事を」
すげなくあしらい、ヒューは笑也に微笑む。
「笑也さん、私はこれにてお暇させて頂きます。貴方が私を阻んだのは神の意、以後、willies症候群の被害者が出る事はありませんのでどうかご安心を」
立ち上がれないままの笑也にそう告げると、ヒューはピュン・フーに声をかける事なく、ゆっくりとした足取りで階段へ向う。
 ピュン・フーがその後を追うように踏み出した足の運びを、くんと引かれたコートが阻んだ。
 コートの裾をきつく握る…笑也の手。
 呼吸が叶わずに半ば朦朧とした意識…遠ざかる、気配に声が喉を突く。
「……許さない!」
吐き出された言葉は、叫びのようで、嘆きのようで。
 ピュン・フーはぬると頬を伝う血を指でぬぐいながら肩を竦めた。
「いいぜ? 別に」
何気ない、風で。
 ピュン・フーは笑也が握る黒革のロングコートの袖をするりと抜いた。
 バサリと乾いた音で拡がったそれは抜け殻めいた印象で、笑也の手に残される。
「笑也の声、聞くの初めてだな」
そして笑いの気配を残して、ピュン・フーはその場を後にした。