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<PCシナリオノベル(シングル)>


書物魔女−扉の向こうの物語−

【扉の向こうの物語】

「扉を潜ってみたいと思ったことはある? ……照れないで。それはあなたの素直な気持ち、きれいで夢みたいに光が溢れてるの! ねえ、見てみたいでしょう? 連れて行ってあげようか? ──はい、……これ」

【0】

『でもさあ、またぁ!? って感じじゃない?』
「そうですね」
 スピーカー越しに、瀬名・雫が大袈裟に吐いた溜息が聴こえた。はぁ、と首を折り曲げた雫の動作は、かく、かく、とコマ送りでモニタに映し出される。ウェブカメラの質が余り良く無いのかも知れない。
 書斎のデスクに設置したPCのモニタ越しに、セレスティ・カーニンガムは微笑んで見せた。
 ハンズフリーの「テレビ電話」での通話は、オカルト絡みの話題となれば際限無くお喋りを続ける事が出来る雫を相手にしていても幾分楽である。「そうですね、って、セレスさんさぁ〜、」と更に溜息を吐いた微笑ましい雫の様子に目を細めながら、車椅子に深く腰掛けたセレスティは手許のカップを持ち上げて紅茶に口を付けた。
 オカルトの情報量では有数のネットワークを持つサイト、ゴーストネットオフの管理人である雫が敢て、セレスティに連絡を取って来た話題とは、──『また』起こった、中高一貫の全寮制教育機関、霧里学院の不可思議現象についてである。
 セレスティは雫に連れられ、過去に三回、霧里学院を訪れている。勿論ただ遊びに行った訳では無くその都度、怪奇現象に見舞われて来たのである。一度目は読めば三日後に首を斬られて死ぬという本を読んでしまった図書委員からのSOS、二度目はバレー部集団失踪事件、三度目は雨の霧里森……。
 そして今回は、霧里学院全体からきれいさっぱり、「人が消えた」と云う事である。
 セレスティはその事件がニュースに上った時点で既にその事を知っていた。霧里学院……、……また……、と思っていた所へ、『!緊急!』表示付きの雫のメッセージがメッセンジャーに送られて来た。
『セレスさん、優雅にお茶してる場合じゃ無いよ〜。これは、何かあるでしょ』
「優雅でもありませんよ」
 さらりと否定したセレスティに、性能の低いマイク越しにも「嘘ばっかり」と呟いた雫の独白が聞こえた。
「然し、一度ニュースには上っているとは云え妙なのは何の捜査の手も入っていないと云う事ですね」
 それまで、スナック菓子片手の自分の事は棚に上げて優雅なティータイムをお過ごしの財閥総帥相手に脱力していた雫の目が俄に輝き、(この娘はオカルトが絡むと目が途端に輝く性格なのである)「そう、それ!」と甲高い相槌が即座に返った。
『噂だとね、……辿り着けないんだって、霧里学院に……』
 流石はゴーストネットオフの管理人である。そうした情報には耳が早い。
「辿り着けない?」
『そう! だってさ、ニュースだって、最初にちょっと話題が出ただけであとはなーんにも音沙汰無し、でしょ? 妙だと思わない? それが、取材したくても捜査したくても、誰一人辿り付けないからなんだって〜! だから、本当に学院に一人の人間も残っていないか、って確かめたくても確かめられないじゃない、だから表面上無かったコト、にされてる訳!』
「ほう……、」
 静かにカップをソーサに置き、セレスティは頷いた。
「どうした訳でしょう。学院自体が消えてしまった、という訳では無いようですね」
『え、何で分かるの?』
「学院は今現在も存在しています。……ええ、確かに、生命の存在が感じられないようですが……、」
 伏せていた目を開いた、セレスティの青い瞳は透徹している。──全てを見通す目、世界の存在を知り得る水霊使いの目……。

『うふふふ……、──大正解!』

 ──ブン、とまるで誤ってスリープモードに切り替えてしまったかのように、モニタが一瞬で暗転した。
 スピーカーから流れたその声は、安物のハンズフリーマイクを通した雫のものでは無い。もっと生の声に近い、滑らかで、朗らかな程に明るい、コケティッシュな少女の声だ。

「……あなた……、」
 珍しく、常に冷静沈着たるセレスティの眉がきゅ、と持ち上がり、あまり穏やかとは云い難い笑みが口許に浮かんだ。
「……矢張り、あなたでしたか。霧里学院の名前を聞いた時から、そうでは無いかと思って居りましたが」
 セレスティは車椅子の背に凭れ、両手を組んで膝の上に引き寄せて彼女の声に応じた。
『だって、云ったでしょ? また遊ぼうね、って』
 挑発的な笑い声にそうそう簡単に乗りはしない、静かな笑みで応えたセレスティに、彼女の声は更に嬉しそうにトーンが跳ね上がった。
『だから、招待してあげるの。それにね、語り部さんがあなたに逢いたいって! ……一つだけ先に教えておいてあげるね、今回のお話は、『扉の向こうの物語』、──』

 ──フラッシュのように、画面が一瞬間だけホワイトアウトした。

「──……、」 
 視力の弱いセレスティは、不意の強い光に目蓋を閉じて反射的に片手を翳した。
 そっと再び目を開いた後は、また黒一色に戻ったモニタ、システム画面も、雫の顔が映っていたメッセンジャーウィンドウも現れはしない。
 ただ一つ現れたのは、モニタの外である。
 キーボードの手前、セレスティの手許に一冊の書籍がいつの間にか──恐らくはセレスティが視界を放棄した一瞬の間に──、ぽん、と気紛れのように置いてあった。
 皮張りの重厚な装丁の本、表紙には鏡が埋め込まれ、その上に古代文字で『扉の向こうの物語』、彼女……、──書物魔女が告げた通りの標題が掲げられていた。
「『扉の向こうの物語』」
 低く声に出して呟いてみる。──セレスティの耳に、画面は戻らないがスピーカーから再び流れ出した、雫のマイクを通した呼び声が聞こえた。
『セレスさん、……セレスさんッ!?』
 彼女もまた、同じ声を聞き、暗転した画面を前に慌てふためいている所だろう。その様子がセレスティには手に取るように良く分かった。
「この本を読まない事には、あなたの世界へは行けない、……霧里学院に居る語り部には逢え無い、と仰るようですね」
 誘っているのだ。──おいで、おいで! 遊んであげる! ねえ、また遊ぼうよ!

──でもね、早くしないと語り部さんは、『戻って来た子』を食べちゃうからね……。

「──良いでしょう」
 セレスティは本の上に手を翳した。瞳を閉じた彼は、指先が表紙に埋め込まれた鏡に触れたと同時に空間が歪みを生じた事を悟った。

 ──主の消えた書斎のデスクの上、暗転したモニタに白い文字が浮かび上がっていた。

『凄いよねぇ、きれいな夢は砂糖菓子。素敵で優しい残酷な物語。扉を潜ったあなたは不思議の国のお姫様!』

【1】

「……、」
 薄らと目を開ける、──車椅子ごと屋敷の書斎から強制移動させられたと思しいセレスティの足許にはぺたりと座り込んだ雫が居た。
「雫さん」
「……はぁ〜、吃驚……。……あ、セレスさんッ! 良かったぁ、セレスさんも一緒だったんだ」
「……ここは、」
 俄に意識を自らの足許だけでなく、周囲全体へ向けたセレスティと雫の前に広がっていたのは空寒い程に静まり返った、暗い、閉じられた空間だった。
 目の前には真直ぐに木張りの廊下が続いていた。両側に点々と続いた窓は、外に開けた空があるとも思えない程暗い。
「……霧里学院だ、」
 スカートを払いながら立ち上がり、呆然と呟いてから雫は俄に活気を取り戻した。

──って事はあたし、ネットカフェからいきなり霧里学院に運ばれて来ちゃったんだ! ……テレポート、それかコンピュータの中に吸い込まれちゃったとかッ!? ──凄い! オカルトよ! それも凄い最高級の怪奇現象!! ……倖せ〜……、

 ……とは流石に口に出すのは憚られたようであるが、まあ、彼女のきらきらと輝いた目を見ていれば当たらずとも遠く無い精神状態は推し量れる。

──ちょっとヤバい気がしないでも無いけど、でもセレスさんが一緒だったら何とかなりそうだし、ラッキー☆

「……雫さん、」
 恍惚状態の雫を現実に引き戻そうと、セレスティは再度彼女の名前を読んだ。
「ハイッ!?」
 流石にぎくりとしたらしい、然し両手を胸の前で組んだうっとりしたポーズのまま、雫が振り返った。
「……申し訳有りませんが、そちらを……、」
 そちら、と彼が手で示した先を雫は見遣った。彼が指しているのは廊下の上だ。──先程は暗がりで気付かなかったが、目が闇に慣れてみるとそこには何か紙の束が雑然と散乱しているのが見えた。
「──拾って、見せて頂けないでしょうか」
「あ、……うん、」
 雫は急いで手近な一束の紙片を拾い上げ、セレスティに差し出して自らも覗き込んでいる。有難うございます、と軽く礼を述べてセレスティは目を細めた。そこには、一面にびっしりと何か文字が列挙されていた。
「……何て書いてあるのかな? これ、古代文字だよねえ……、」
 見慣れない文字、(オカルト好きの雫にはそうでも無いかも知れないが、流石に判読は不可能だったと思しい)首を傾いだ雫はセレスティの傍を離れ、未だ際限無く散乱している紙の束を見に行った。他のものは、と興味が移ったのだろう。
「……、」
 セレスティは先ずその文字の並びを眺めた後、紙束を膝の上に置いて両手を翳し、目を閉じた。

──、……これは……、

「何ぃ? これも、これもそう、あれも! 全部同じだよ、セレスさん、」
 雫の声で、セレスティは瞳を開けた。雫は何枚もの紙を拾い上げては覗き込んでいたが、そう云うと「お手上げ」とでも云うようにばさりとそれらを放り投げた。
「……あまり、乱暴に扱ってはなりませんよ。出来れば踏まないように」
「……何で?」
 怪訝そうに雫はセレスティを振り返った。──そう云えば、本当に、見事に人気が無いなあ……、と同時に思案しているらしい事が分かる。
「……これらの紙束は全て、ここ、霧里学院の中で『食べられた』──蒸発し、命を消された人間の代替として与えられた姿です」
「……えぇぇぇぇぇぇぇっ!!!?」
 ウソ、と慌てふためいて雫は床に座り込み、そこにもあった古代文字の並ぶ紙片をまじまじと覗き込んだ。
「人間が紙に姿を変えられちゃった……、霧里学院からは人が消えたんじゃなくて、じゃあ、ここに散らかってる紙クズ──じゃない、紙こそが、その、消えた筈の人間って事!?」
「恐らくは」
 セレスティは丁重な手付きで今まで「読み取って」いた紙束を床に置く。
「もしかすると、学院の生徒や教師だけに留まらないのかも知れません。捜査や、取材の為に訪れた人々も、混ざっている事かも。そうすれば、辿り着けなかった、と外部の人間が勘違いしてもおかしくは無い事でしょう」
「……いや〜ん、」
 ──不気味☆ 満面の笑顔を浮かべた雫の額にも流石に一筋の冷汗が伝った。
「……でも、あたしやセレスさんは? 何もおかしく無いよね、……あたし達も、じゃあ、その内こんな紙束に変えられちゃうって事?」
「さて、」
 セレスティは自ら車椅子を動かし、彼女に忠告したように紙束を轢かないよう丁寧に避けながら廊下を進み出した。雫が慌てて彼に駆け寄り、代わって車椅子を押し始めた。
「──それは、『語り部』次第、という事でしょうね。……『彼女』が、私達に遭いたいと仰ったそうですから……」
「彼女? ……あの声の魔女?」
「いえ、……『語り部』です」
「それは──、」
 どういう、と訊ねようとした所で雫は息を飲んで言葉を切り、足を止めた。セレスさん、と囁き声で呼び掛けた声を耳に、セレスティは意識を先へ、未だ目では見えない廊下の先へと向けた。
「誰か……、」
 ──居る。雫の速い鼓動が彼の耳にも聞こえた。安心させるようににっこりと微笑みを返し、セレスティは低声で囁いて指を立てた。
「大丈夫ですよ」
 ──但し、静かに、少し様子を伺いましょうね、……と。

──コホ、コホ、……コホ、

 その誰かが、苦しそうに咳き込む音が無気味な反響を伴って確実に近付いて来た。幼い声だ、恐らく10歳にも数えていない、──未だ、本当に幼い……。

「──お姉ちゃん、……お……ねえちゃ……、──、」

「……男の子だ!」
 雫が叫んだ。

【2】

『これを読んだら、貴女は貴女の扉を潜れるよ! どんな扉も直ぐに潜れる。不思議の国のお姫様! 素敵で優しく残酷な物語。きっと貴女に似合うと思うなっ!』

──お姫様になんかなりたくなかった。不思議の国も、夢の世界も何も要らない。私が欲しかったもの、返して欲しかったのは、ただあの子の命だけ。
 ……あの子が帰って来るなら、何も要らない。私の命だって全部あの子にあげるのに。

「──あ!」
「……、」
 その少年が廊下の角に姿を現したと同時に、周囲が一転した。
 ただ、書斎のコンピュータの前から霧里学院の廊下へ運ばれて来た時とは違い、空間の歪みも時空のずれも生じ無かった。──移動した訳では無い、……恐らくは単に、『見せられている』景色が変わっただけなのだ。 
 そこは明るかった。今までの暗く落ち込んだ景色と比べれば輝かしい程に。実際にはぼんやりとした暖かな照明が灯っていたのだが、セレスティの目には最初の数秒の間だけはその眩しさに慣れる時間を要した。
「……、」
 片手を目の前に翳しながら瞳を開け、ぼんやりとした明るい、暖色の光に包まれた空間を認識し始めたセレスティは一方で、未だ咳き込み続ける少年の声を聞いていた。
 先程の空間とは違い、彼の咳も、彼を気遣う雫の声もさほど響く事は無かった。物音は、周囲の遮蔽物──果てしなく続いた、無機質な程に整然と並んだ本棚の壁──にぶつかって振動を吸収されているようだ。
 俄に、現実的な感覚が身体に戻った。
「ねえ、君、大丈夫ッ!? 聞こえる? ねえ、」
 雫が、それでも彼にどう接して良いか分からないという様に手を伸ばす事を躊躇いながら少年に声を掛けていた。
 ──こほ、こほ、彼には聞こえているのか居ないのか、何か返事をしようとは思っているかも知れないがただひたすらに咳を続けるだけだ。──酷く、苦しそうだった、痛々しい程に。
「ね、──!?」
 そこで、少年が突如華奢な両手を伸ばして雫にしがみついて来た。
「えっ、ちょっ……、ちょっとッ!」
「お姉……、ちゃん、……お姉ちゃん!」
「……、」
 雫が狼狽しているのは、少年が自分の腕を突然掴んだだけでなく、探るように身体の彼方此方をべたべたと触り始めた事もある。ただ、その手付きは酷く頼り無く文字通り手探り状態で、思わず、であっても突き飛ばすのは躊躇われたものらしい。雫はただ、呆然と少年を見下ろしていた。

──……ああ、
 
 そんな2人の様子を見守っていたセレスティは心中で合点した。

──視力が戻らないのですね。

 少年は、恐らく5歳前後である。歳の割に全体的に小柄で、手足は華奢で小さく、頼り無い。痩せて眼窩が落ち窪んでいる所為か不釣り合いに大きく見える彼の瞳は、虹彩に変化が無かった。黒目が真っ暗な闇のように見える。
 セレスティには少年の感覚が良く分かる。彼は、今では大体の光を認識する事は出来るが、今の少年は、闇に慣れ切った目を光に焼かれたように何の影も見る事が出来ないのだろう。雫さん、とセレスティは声を掛けた。
「……彼の手を引いてあげて下さい」
「えッ、……でも、」
 ……セレスさんは……、と未だ戸惑いを瞳に残したまま振り返った雫に「私なら大丈夫ですよ、」と優しく微笑み、セレスティは自ら車椅子を動かして少年へと近付いた。
「恐らく、急激な光に目を射抜かれてしまったのです、……さぞ不安な事でしょう」
「……、」
 セレスティの言葉で、雫はそっと少年の手を握り締めてやった。途端に安心したものか少年の様子は大分落ち着き、今度は逆に、忘れていた事を思い出したように再び咳き込み始めた。相変わらず「お姉ちゃん、」と呟き続ける声は、その咳で間断無く途切れさせられた。
「おっ……、お姉ちゃんって、あたし……の事じゃ無いよね、君のお姉ちゃん? 君は? お姉ちゃんが、学院の中に居たの? ねえ、君、どっから来たの、今までどこに居たの?」
 少年の背を優しくさすってやっているのは結構な気遣いだが、然しながらこれ程咳き込んでいる時にこうも質問責めでは台無しである。
 ──雫さんらしい、と苦笑してセレスティは車椅子の上から少年に向かって身を屈めて手を翳し、苦しそうに上下する少年の細い首から喉元にかけてをそっとなぞった。
「……、」
 ──……コホ、と最後に軽く咳払いしてからは、少年の呼吸は不意に穏やかに落ち着いた。血流を緩やかに、心拍を穏やかにしてやっただけでも大分苦しみは癒えた筈だ。
「──どうぞ楽になさい、……そう、先ずは安静に」
 目の前は闇でも、微笑みを浮かべたセレスティの齎す穏やかな気配だけは感じ取れる筈だ。セレスティは再度、「楽になさい」と少年に向けて頷いた。
「うわぁ……、」
 大きく瞬きを繰り返す雫の視線を浴びつつ、セレスティは車椅子に深く掛け直した。
「さて……、それでは、幾つか質問をしても構いませんね? ……浅葱君、──田村・浅葱君」
「浅葱? ……この子のコト?」
 ……何で知ってるのぉ……? という様に雫はセレスティへ向けた視線にやや怪訝な表情を浮かべた。……が、どうも、あまり無駄口を挟んで良さそうな雰囲気では無いので、彼女は賢明にも「謎」と呟き、それきり黙った。
 頷いた少年、──田村・浅葱にセレスティは言葉を継いだ。
「君は、どうして『帰って来た』のです?」
「……お姉ちゃんが、……早苗姉ちゃんが呼んだから、……そうしたら、魔法使いのお姉さんが来て、僕を連れて来てくれたんだけど、……今までずっと暗かったから、……眩しくて」
 言葉に迷いながら、それでも浅葱は真剣にセレスティの声に応えた。雫が、はっ、と顔を上げる。
「魔法使いのお姉さん、……って」
「……書物魔女。……そう、これこそが、書物魔女、彼女の仕組んだ今回の物語、『扉の向こうの物語』。……そして語り部に選ばれたのは、田村・早苗嬢……、彼、弟の浅葱君の命を取り戻したいが為に、扉の向こうへ、……夢の世界へ魅入られてしまったあまりにも純粋な心根の少女です」
「……じゃあ、この子、」
 セレスティは痛まし気に、ほんの少しだけ眉を顰めた。
「……浅葱君は、書物魔女に拠って連れ戻され、……帰って来てしまいました。……『食べられた命』は、その矛盾の代価」
 セレスティは再び、浅葱に問い掛けを発した。
「浅葱君、お姉さんは、……早苗さんはどちらに居られるか分かりますか?」
「……、」
 浅葱が、首を振ろうとした時だ。

「ここだよ──ッ☆」

【3】

「……、」
 声のした方角、果てしない書架の通路の奥を見遣ったセレスティはすうっ、と目を細めた。
 
──お見えになりましたね、……少々悪戯の過ぎるお嬢さん。

「こっち、こっち──!」
 彼女は無邪気な程の歓声を上げて手を振る。──グン、と同時に両者の距離が消え、彼女は今や目の前で天使のような笑顔を浮かべていた。……書物魔女、その傍らにはもう一人の少女が覚束無い様子で佇んでいた。田村・早苗だ。
 にっこり、とセレスティは婉然とした笑顔を返した。
「お久し振りですね」
 一つ、忠告して置こう。……この麗人が場違いな状況に於いて穏やかな笑みと優雅な言葉を浮かべた場合、それを表面通りに受け取ってはいけない。……彼の美貌に魅了される事無く冷静に気配を観察する事が出来れば、あなたの背筋を冷汗が伝う事だろう。
「うん、会いたかったよ、私もね!」
「運の良さを天に感謝しましょう。こんなにも早く、あなたと、『語り部』に御会いする事が出来た幸運を」
「……エヘ☆」
 と空虚な笑顔を浮かべ、浅葱を庇いながら後ずさったのは雫である。──あたしには未だ詳しい事が分かんない、断じて、全然分かんないけど!
 ……いい加減、セレスティとの付き合いも長くなって来た。だから、何とな──く。であるが本能的に分かる、……セレスさん、怒ってる? と……。
 対照的に何ら動じた様子の無い書物魔女の傍らの早苗は、どこか存在感自体がふわふわとしていた。地に足が着いていないような、──いっそ、魂の抜けたような。
 「でも、」と書物魔女は胸の前でぱん、と両手を合わせた。感激! という様に。
「流石だよねッ! 私が今からお話をしてあげようと思ってたのに、その前にストーリーを読んじゃってたなんて、凄ぉい! ほんと、吃驚!」
 にこ、とセレスティが口許に笑みを浮かべると、それまで暖かささえ錯覚させていた書架の空間温度が確実に摂氏5度は低下した。雫が両腕をさすっている。
「生憎ですが、私は『読む』必要がありませんので。表紙を開く前にこれから訪れる世界の、大方の荒筋を『読み取って』しまったのはルール違反でしたでしょうか?」
「別に構わないよー? ……だって、」
 だって、と告げると同時に書物魔女の愛らしい眉と、口唇の端が同時に吊り上がった。
「……お楽しみはこれからだもん、……ねッ、『語り部』さん? ……早苗ちゃん!」
 名前を呼ばれた早苗が、ふらりと一歩、足を踏み出した。
 霧里学院の制服を着たごく普通の少女、……だが、今の彼女の表情にはまるで生気というものが無かった。口唇が僅かに開く、──ひゅう、と透き間風に似た息と共に、辛うじて彼女の発した言葉が聞き取れた。
「あ……さぎ、……、」

──書物魔女。天使の顔をした真の闇。

 彼女は、どんな願いでも叶えてくれる。相手の事情も手段も一切問わず、例えそれがどんなに浅はかな願いだろうと、おぞましい結果を招こうと。
 どんな『扉』でも潜らせてくれる、その先にある夢を叶えてくれる『扉の向こうの物語』。──但し、魔法を願う罪を犯したからには、それに見合った代価は要求させて頂きます。
 弟、浅葱を失った早苗は彼女に遭遇した時、その誘惑を退けられなかったのだ。
 分かっていた、良く分かっていた。取り返しの付かない物事を元に戻すというパラドックスを発生させるからには、その報酬は高く付くだろう、……おぞましい世界がそこには広がるだろう事。
 ……それでも、私はあの子を返して欲しい。
 その為なら私の命も要らない。

『命と引き替えに弟を生き返らせて。他は全部無くなっても良いから』

──そうして彼女は、『語り部』となったのである。

 扉の向こうの物語、彼女の弟、浅葱が甦った後の矛盾を解消するまで、際限無く人の命を吸い続ける本の世界の語り部に。

【4】

「浅葱!」
 早苗は、不意にはっきりとした声で弟の名を叫んだ。その声で、雫の手の許、視力の戻らない浅葱が顔を上げる。
「……お姉ちゃん、」
「浅葱、……戻って来たの? 約束、守ってくれたのね? 浅葱を、返してくれるって……、」
 取り乱した早苗を愉快そうににこにこと眺めながら、書物魔女は「そうだよー☆ だって、それがあなたの願いでしょ?」と語り掛けた。
 早苗は動揺している。浅葱は逆に、再び手探りで姉へ辿り着こうと健気な腕を伸ばし始めた。それを雫が抱き締め、「駄目、危ないから、」と引き留めていた。
「……だったら、でも、どうして私が生きているの? 同じ場所に居られるの?」
 早苗の願いは、自らの命と引き換えに浅葱が生き返る事だった。本を開いた時点、『扉を潜った』時点で既に、自らの命は無いものと思っていた筈だ。その覚悟が彼女にはあった。それが何故、……自分が未だ生きているのか、それとも浅葱が未だ完全に戻れたのでは無いのか。
「だって、早苗ちゃんはお姫様だもの、この世界のね。お姫様は死ななくて良いの。……ねえ? 本当に夢が叶ったでしょう、扉を潜れたでしょう?」
「……」
 セレスティは眉一つ動かさずその遣り取りを眺めていた。──何て残酷な。……尤も……、

──その方が、こちらとしても遠慮が要らなくて好都合ですが。

「……だけど……、……あのね、早苗ちゃん、未だ、足りないよー?」
 書物魔女の声は途端に甘くなった。……悪魔の囁き……。
「ね? ちゃんと浅葱君は戻って来たでしょ? でも、未だその代価は充分に払ってないよねぇ。だから、浅葱君も未だ完全に元の世界へ帰れないの。あのね、命が未だ未だ足りないの! だって、一度死んだ浅葱君が戻ったんだもん、……もっと、……そう、もっと! もっともっと吸い取ってくれなきゃ、命を! そうしたら浅葱君も元の世界へ帰れるよ!」
「お止めなさい!」
 流石に、そう声に出して命じたセレスティに返って来たのは甲高い、享楽的な笑い声だった。
「うふふふふふふ!! だって、それが早苗ちゃんの望みだもの!」
 そして、「はい、」と早苗の肩を突き放すように押して前へ出す。……ほら、もっと、もっともっともっと……。
 ふらり、と衝撃で早苗はよろめいた。再び顔をもたげた時には、彼女の生気が無い瞳に一条の光が戻っていた。──狂気に似た光が。
「……命……、……もっと……、」
「そう、もっともっともっと! これじゃ未だ足りないよ! さ、頑張ってね! そうしたら浅葱君が生き返るから!」
「浅葱、」
 にやり、と早苗が笑った。浅葱に向けられた視線は、最早正常な人間の様子を呈していない。
「……お姉ちゃん……?」
 見えなくとも、子供らしい敏感さでその様子を悟ったらしい浅葱は、雫の腕の中で怯えていた。ふら、と早苗が更に歩み寄った事で、身を引いた彼は身体を強張らせていた。
「……待っててね、……必ず、戻してあげる、……生き返らせてあげるからね、」
「……早苗さん、──、」
「──ちょっと待ったッ!!!」
 彼女へ呼び掛けを発したセレスティの声に重なって、耐え兼ねたらしい雫が怒号を張り上げた。
「ちょっと、それおかしいよッ!! こんなにたくさん、学院中の人の命を吸って、人をあんな紙クズに変えておいて、足りないって何ソレ!? って云うか、駄目じゃんそれ!! この子が生き返るのがあなたの望みでも、その代償、人から盗った命で払うなんて、駄目じゃない!」
「雫さん、駄目です、煽っては──、」
「それに! あなたもでしょ! あなたが死んでも、駄目じゃん!」
「お止めなさい、彼女は今、自らの命など考慮していないのです、」
「ヤだ、云うッ!! だって勝手過ぎる! あなたが死んでこの子が生き返っても、じゃあどうするのよ──? この子、また独りぼっちになっちゃうんじゃない! ……可哀想だけど、死んだ人間の事は諦めなきゃ……、」
「雫さん!」
 ──いけない、今の彼女にそれを云っては……。
「私には、浅葱の命に替えられるものなんて何も無いの! 浅葱さえ生きていれば、それだけで良い!」
 早苗の悲鳴は、風の怒号に似て響いた。──轟、……空間が歪む、そこで、それまでただ整然と並んで静まり返っていた書架の中の本が次々と巻き上げられて中を舞い、歪みに任せて入り乱れながら飛び交った。書物魔女の笑い声と共に。
「うふふふふ……、──あはははははははは!!」
「返して! 返して浅葱、浅葱を生き返らせて!!」
「……キャ────────ッ……!!」
「早苗さん……、」
 雫が悲鳴を上げ、浅葱を抱え込んで庇ったまま身を低く屈めた。片腕を翳して狂ったように入り乱れる書物から身を守りながらセレスティが振り返ろうとしても、視界の中の雫はそれもまた書物の嵐に遮られて見えなくなってしまう。
「雫さん、浅葱君、──……っ!」
 目の前に翳していた腕に、一冊の書物がぶつかった。たかが書籍、されど書籍。こういう時だけ都合良く軽い文庫本で、という訳にはいかない。勢い良く飛び交っていた重厚な本の角は、セレスティの脆弱な腕に血を滲ませるには充分重かった。
「……、」
 腕を押さえる、……とそこでもまた目の前を一冊の書籍が掠めて行った。顔を伏せた視線の先、床の上では中身を広げて落ちた書籍のページが、バラバラと外れては再び風に煽られて立て続けに舞い上がって行った。何とか薄く目を開けたセレスティが一瞬間だけ認める事が出来たのは、本の背から千切れて舞い上がって行くページに記された古代文字の並びだった。
「あははははは、そう、もっともっと! もっとだよ────!!」
 吹き荒れる暴風の中で、幽かに書物魔女の声が聞こえる。今や空間は、古代文字の紙片に支配されていた。……そうだ、最初に訪れた、紙束の散乱する霧里学院と変わり無い、──。
「……重いですねえ、」
 ──ぽつり、とセレスティは独白のようにそう、呟いた。
「──余りにも重い、」
 絶間なく吹き荒れる紙片の向こうに、身を屈めて座り込んだ雫の姿が少しだけ見えた。
「……、」
 セレスティは、車椅子を進め始めた。進む先にも背後からも紙片が飛び交っては鋭利な縁で彼の皮膚や風に煽られた銀髪を薄く切り裂いて行ったが、構いはしない。セレスティはそのまま、真直ぐに早苗を目指した。
「早苗さん、いい加減に為さい」
 早苗の傍らに辿り着くと、セレスティは低く、良く通る声で云い放った。
 早苗自身も既に、自ら巻き起こした疾風とその中を荒れ狂う書籍、紙片を全身に受けて傷を負っていた。然しその事で、彼女は何の恐怖も痛みも感じてはいないようだ。ただ、もっともっと命を吸い取れば弟が帰れる、という思いだけに支配されて──。
「お止めなさい、そうして人の命を軽々しく扱うのは」
 麗人はその華奢な手を宙に伸ばした。彼が指先で捉えた一枚の紙片は、急な跳躍運動を停止させられた事でぱし、と鋭い音を立てた。
 セレスティはそのまま、手に収めた紙片を、霧里学院に散乱していたものと同じ古代文字で埋め尽くされた紙片を早苗の目の前に突き出した。
「ご覧なさい、これが、あなたがそうして軽率な気持ちで命を吸い取った人間の姿です。良くご覧なさい、決して目を反らせてはいけません。──さあ、御自分の目で、良くご覧なさい」
 セレスティを見下ろした早苗の目は、狂気じみて血走っていた。
「浅葱の為なの、浅葱が生き返るなら、何も要らない!」
「見なさい!」
 セレスティは有無を云わさず、早苗の腕を掴んだ。──少女と比べても華奢な彼の手、然しこの時ばかりは、その手に込められた力は酷く強かった筈だ。腕を掴まれ、目の前に紙片を突き付けられた早苗の驚愕した目が見開かれたまま硬直した。
「……止めて……、」
「いいえ。──目を反らす事は許しません、……こんなにも重い人間の命から。……人々の、そして、あなた自身の……、」
「厭だ、止めて! だって、私には、……私には、私には、私には浅葱の命より重いものなんて無いんだから、──!!」
 あくまで逃げると云うならば、──。
「……それならば、見せて差し上げましょう。……この紙片に、文字に現れた人々の思いを」
 早苗の腕を引き寄せ、セレスティはもう片方の手を彼女の頬に伸ばした。──その指先は、先程から彼の肌を切り付ける紙片に拠って既に血が滲んでいた。
 
──この水を、……私の血を媒介としてあなたにも見せましょう、

「人間の命の重さを」
「……あ……、──あああぁぁぁぁぁぁッ!!」
 
 彼の血に触れられた場所から、彼女の意識に夥しい文字の情報が、──命を吸われた人間の、最期の悲鳴、記憶、感情、そしてセレスティの意識に触れた早苗の弟、浅葱の姉に対する感情、……早苗自身の命の重さが──電流のように流れ込んで行った。
 同時に、セレスティはそれまで早苗の腕を掴んでいた手を伸ばし、指先を真直ぐにその先へと向けた。
「あなたもですよ」
 ──身を翻し掛けた、書物魔女に……。
「……思い知って頂きましょう」
「……やだ、私に通じると思ってるの?」
「生憎ですが、私も伊達にそう長くは生きて居りませんので。……あなたが支配しているおつもりらしい、書物の世界もそれなりには存じて居りますよ。その上で、あなたには教えて差し上げる事があります」
 手が、書物魔女の身体に触れた。セレスティはそこで、彼女が思わず目を見張る程の微笑を浮かべた。
 気付いた時には、もう遅かった筈だ。書物魔女の目は充血し、一瞬を置いて大きく見開かれた。
「私がこの物語を、『扉の向こうの物語』を垣間見る気になったのは早苗さんの、自分の為では無く、弟の命を願う優しい心根に惹かれたからです。……人間は弱い。一時の誘惑に負け、過ちを犯してしまっても仕方の無い事です。──然し、美しい夢を装い、後戻り出来ないまでに引き込んでから残酷な仕打ちを人間へ向けるあなたには、……罰が必要ですね」
「……止めて……、」
「事実は小説より奇なり、と云いますね。……命の重さも、同じ事ですよ。文字の中の世界では決して知り得ない事を、身を以て体験されると宜しいかと」
「──……、……分かっ……、……許して、もう、霧里学院には現れないから……、」
「……良いですよ。……但し、あなたが今から御覧になる生命の重さに耐えられれば、の話ですが」
 セレスティは美しい笑顔のまま、集中した意識を一瞬で指先に解放した。
 
 ──風が、止んだ。

【5】

「……、」
 緩慢に頭をもたげると、先ず彼自身の銀髪と細い腕が視界に映った。そして、暗転したモニタ。
 セレスティは、書斎のコンピュータの前に突っ伏していた。
「……、」
 額に軽く手を添えて頬に溢れる髪を掻き上げながら、ゆっくりと上体を起こす。
「……戻りましたね、」
 その手を下ろして眺めるが、どこにも皮膚の切れた痕跡は無く身体に痛みも無い。──だが、……。
「……、」
 意識は確かに覚醒していた。

──……、

 聴覚の遠くの方で、高い、軽やかな笑い声を聞いた。
「……早苗さんに、浅葱君……、」
 急激に世界が切り替わった事で未だぼんやりと霞んでいた視界の先に、幼い弟の手を引いて歩いて行く早苗の姿が幽かに見えた気がした。
 2人の姿が消えた後には、俄に活気を取り戻した霧里学院の様子が見える。姿を取り戻した人間達が、騒々しい程のざわめきを交わしている。──制服の中に所々見える、場違いな警察やマスコミの人間の呆然とした姿も。

 やがて、その幻影も直ぐに立ち消えた。
「……、」

──これは夢か、……現実か……。

『──レスさん、……セレスさんッ!!』
 コンピュータのスピーカーからだ。あの、質の悪いマイクを通していると思しい雫の、少し割れた声が呼んでいる。
「……雫さん」
『セレスさん! ……セレスさん、大丈夫!?』
「……、」
 そこで、セレティは心から穏やかな微笑を浮かべて彼女の声に応えた。
「……ええ。……戻って来ました」

──少なくともここは『扉の向こう』、悪い夢の中では無い……。

 セレスティはハンズフリーマイクを外し、車椅子を翻して窓際に寄せた。カーテンを引いて顔を向けた外の景色は、明るい。
 輝かしい程光に溢れた彼の屋敷の庭で、見慣れた青年が花や草木に囲まれた庭園を歩いているのが見えた。
「……、」
 それを穏やかな心地で見守っていると、不意に顔を上げた彼と視線が合った。微笑みを交わした所でカーテンを下ろす。──と、……ブン、と極低い、殆ど聞き取れない程の大きさでコンピュータの稼働音がした。──視界の端に、白い光の点滅が見える。

──……、

 振り返った先にあるのは、黒いモニタの画面だ。先程は無かった一行の文字が、画面の中央で気紛れに白く点滅していた。

『またね』