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<PCシナリオノベル(シングル)>


求めよ、然からば与えられん


「なんだコレッ!」
構内禁煙が徹底されたとはいえ、壁や天井に染み付いたヤニはそう簡単に払拭される物ではなく、長年蓄積されたそれが作る独特の匂いに辟易しながら漸く、地下通路を抜け出た久住良平は新鮮な酸素−車の排ガス混じりではあるが−を求めて深呼吸した鼻腔にある筈のない臭いを感じ取り人目憚らずに叫んだ。
「うわ、臭ッ!」
思わず鼻を摘んで周囲を見回し、少しでも空気の流れのある場所を求めてあわあわとする良平に、道行く人が思わず鼻を鳴らしつつ通り過ぎる。
 最も、それは常人の鼻に嗅ぎ取れる濃度ではない……ワーウルフの遺伝子を有するが故、犬並に人の万倍ほども嗅覚の発達した良平だからこそに感じ取れる残り香だ。
「うわー、なんだよコレ……なんでこんなのが街中歩いてんだよ……」
ここを通ってからそう長い時間は経っていない。
 腕で鼻腔を押さえて盛大に眉を顰めつつ、良平は道行く人々に油断なく視線を走らせた。
 人、人、人の群れ。
 自然の状態であれば、これほど過密に群れでもない種族がひしめき合うなど考えられない…最もそれだからこそ、良平のように厳密に人在らざる存在でも、その狭間に息を殺して身を潜める事が出来るのだが。
 此処は誰の縄張りでもない街。
 故に、他者に無関心である、その一点のみのルールを厳守する限り、領域を侵す者を見咎める事すらしない、生きるに難く存在するに易い街である。
 が、この匂いはその律から良平を引き剥がそうとする……最も、彼が覚えたのは関心ではなく警戒なのだが。
 濃く纏った血の香の底に、独特の薬品めいた人工物の気配がする…ワーウルフでこそないが、人と、それと違う存在を混じらせた独特の匂いは、自分と同じ。
 ジーン・キャリアの匂い。
「ヤベ……」
良平はごくりと生唾を呑み込んだ…よもや、こんな繁華街で出会そうとは思ってもみなかった相手だ。
 ジーン・キャリアは出自の殆どの全て『IO2』に由来すると言っていい…何故なら、組織がテロリストに抗する為に生み出した技術なのだから。
 その試験体であった良平は不完全にしか発現しなかった遺伝子に失敗作と見なされ、処分されそうになったのを済んでの所で逃げ出した過去を持つ…それだけに、『IO2』に所属しないジーン・キャリアの存在の不確かさと異質さは身を持って知っているつもりだ。
 飽くまでもつもり、なのは今まで出会した事がない為である。
 だが、シミュレーションだけは何度も何度も繰り返していた。
 もし、『IO2』関係者に出会したら。
 逃亡した実験体である事を、見咎められたら。
 仮定の段階で腹の底が冷える不安が現実の可能性として目の前に出現した事実、今の生活を根底から捨てなければならない事態に陥るその前に、冷静且つ迅速な対応はただ一つ。
 逃げる。
 良平は、戦略的撤退の判断を瞬時に下した。
 ただ、逃げ帰るには悲しいかな、道向こうに渡らねば下りの地下鉄へ行き着けない…上がりの地下鉄に乗って取り急いでこの場を逃れ、場を離れてから帰路に着く、という思考は今の良平からすっぽりと抜け落ちていた。
 落ち着けりょーへー、ガンバレ俺。
 良平は胸の前で片拳を握って己への鼓舞に替え、何事もなかったかのように-直前までの奇行からすればその平静さが不自然な程-自然に人波に紛れた。
 願わくは、探知能力に長けていない相手である事を祈りつつ、横断歩道で信号待ちに足を止める。
 早鐘の如くに打つ鼓動に、周囲の香り…件の残り香だけでなく、香水やオーデコロン、道行く人々の体臭にまで気を張るのに鼻の感覚は麻痺し、緊張のせいか眩暈までしていた良平が永遠の長さに感じていた赤信号が青に切り替ったる、その瞬間。
「あんた今幸せ?」
「わーッ?!」
ポンと親しみを持って肩を軽く叩いた手に魂消える悲鳴を上げ、良平の右腕がギシリと骨格と筋肉の変形する独特の軋みを上げる…瞬時、爪は切り裂く為に鋭利に、指は引き裂く為に強固に、その腕は彼を人でないと自覚させる為のように赤く血で染めたような豪腕へと変じる。
「お、カッコイイ」
だが、肩に手を置いた相手はその異質な変化に呑気な感想を述べたのみ、弾かれるように見れば、円いサングラス越しに目が合った。
「でも街ン中で自慢していいモンでもねーぜ?」
そう、指でサングラスを僅かにずらして見せるのは、不吉に赤く染まった月のような瞳。
 笑いに眇められたその瞳に、一瞬、眩む感覚を覚えるその眼前でパキリ、と一つ指が鳴らされると同時、保身の本能で変じた右の腕は、先と同じ唐突さで、元の、人としてのそれへと戻った。
「あんたがあんまり目ェ引くもんだからつい声かけちまって……」
黒革のコートの存在感に街から輪郭を切り取る風な異質さ、その身体からは良平に近い、作られた遺伝子の匂い。
「あんた、かなり普通じゃねぇよな?」
その普通でなさは存分に目にしていただろうにわざわざ問う、意が掴めず警戒に睨みつける良平に笑みを深め、男は目を細めた。
「興味あンだよ。そういう人の、」
ひとつ息を吐くに途切れた言葉に、赤い瞳が子供めいて楽しげな感情を宿す。
「生きてる理由みたいなのがさ」
だが、肩を掴まれたままでなければ、とっくにこの場を逃げ出している良平にそんな興味は関係ない。
 良平が否定の言を吐く、それを制してか青年は軽く握った拳に立てた親指で其処等、とジェスチャーを交えて提案した。
「奢るからさ、時間あんならちょっと茶でもしばかねぇ?俺、今暇なんだよ」
「行く」
警戒も疑心の何のその。
 良平は「奢る」の一言に飛びついた。


 良平は、目の前でアイスコーヒーを口にする青年を冷静に観察する。
 見事なまでの黒尽くめ、決定的に怪しさを助長する円いサングラスを屋内でも外しかけもせず、あまり陽にあたってなさそうな肌色からも、唯一、色と呼べるであろう瞳の赤を見せる事もないのに、五指にまんべんなく、そして首元に下げられた燻銀の装飾が硬質さを増すかのようだ。
 見れば見るほどアヤシイ。
 身も蓋もない決を下す。
 声にしなかったのは、ピュン・フーと名乗った彼が只今現在スポンサーであるのに遠慮した精神的な配慮と、口いっぱいに頬張ったピラフに混じったエビのぷちりとした歯応えを堪能している真っ最中という物理的な理由からだ。
 良平の前には既に空になった皿が積み上げられ、出番待ちをしているパスタとドリアがほかほかと湯気を上げている。
「良平、ホント美味そうに食うな」
感心と呆れと綯い交ぜになったピュン・フーの言に、良平は食べかけのピラフとパスタとドリアの皿を抱え込んだ。
 やらないぞ、の明確な意思表示である。
「取らねーって」
苦笑混じりにひらひらと掌を上下に振り、ピュン・フーはさらりと言う。
「ぬくいモン食ったら痛むじゃん」
何が。
 ごくり、と口の中の物を呑み込み、じっとピラフを見下ろす。
 バターで炒めた香りが食欲をそそって香ばしく、ふわふわの卵の黄色とグリーンピースの緑とエビの赤というにはちょっと苦しい赤で彩りもよく、添えられたパセリの存在はまぁどうでもいいとして。
 良平は鼻を近付け、くんとそれを嗅いだ。
 嗅覚には自信がある。大丈夫、痛んでない。
「そういう意味じゃねーって」
苦笑の混じるピュン・フーの言葉に安堵し、良平はスプーンに山盛りにピラフを掬い上げ、口に運ぶ作業を再開した。
 残り2.5皿をさほども時間を要さず平らげ、露を結んで放置されていたお冷やをこっこっこっこっと喉を鳴らして一気に干しぷっはー、と風呂上がりの親父がビールを開けるような態とらしいまでの息継ぎにタン、とコップを机上に置いてにっかとピュン・フーに笑みを向けた。
「ごちそうさまでした! 腹減ったな!」
「そう来たか……」
予想だにしなかった良平の言に、どうにか二の句を継ぐだけには成功したピュン・フー。
「だって腹持ち悪くねぇ? こーゆートコのって。やっぱこう食うとなったらドッ! と鶏とか、ガッ! と豚とか、ギャッ! と牛とか」
 その表現としてはどうよ?というような擬音混じりの主張にピュン・フーは肩を揺らして笑う。
「やっぱ面白ェ。普通じゃねェなぁ、良平」
ファーストネームで呼ぶのが癖なのか、名乗りと同時に親しげな呼び掛けが、外見にそぐわぬ人懐っこさを示している。
「なぁ、良平。今幸せ?」
「うん、美味かった!」
即答に迷いは欠片もなく、ピュン・フーは少し長めの前髪を指で掻き上げ、椅子の背に体重を預けた。
「いーな、良平。すっげ分かり易い」
「ダメか?」
スプーンの先を口にあて、良平は首を傾げて逆にピュン・フーに問う。
「俺はわかんないんだけど。なんで飯奢ってくれてるワケ? なんか他に用があるんだろ?」
たらふく飲み食いした後で聞くような事でもない。
「用って例えば?」
逆に問われて悩む。
 脳に廻る分まで栄養が確保出来たせいか、漸く相手が『IO2』の関係者であるのではという疑念が戻って来た。
 だが、それを直接問うには相手の態度があまりに不明瞭で、確たる形で言葉にする事が出来ない。
 有無を言わさず連れ戻されるか殺されるか、そればかりだと思っていたというのに、異形に変じた自分の腕を戻した上、その理由を追及するでない。
 組織の者と違うのか、ならば…自分と同じく、逃げ出してきた者なのか。
 だが、迂闊に藪を突いて蛇を出すような真似はしたくない…出来ない。今の生活を守る為にも、その、望みを叶える為にも。
「例えば……飯代、カラダで返せとか」
そんな内心の懊悩に、的を得すぎて外した良平の言葉に、ピュン・フーは盛大に吹き出した。
「ッ……、良平すげ、面白すぎ………ッ」
息も忘れて、咳き込むほどに笑われて良平は赤くなる。
「ンだよ、そんな笑うなよッ!」
正当かも知れない抗議に、けれどツボに嵌ったピュン・フーはなかなか笑い止まず、良平は憮然としながらもそれを待つしかない。
 身を二つに折って笑い続けていたピュン・フーが漸く身を起こしたのは、良平が待つ間を諦めてプリンアラモードを追加注文して平らげてからである。
「あ〜、なんかお花畑が見えた……」
サングラスを外し、目尻に浮いた涙を指で拭い取りながらピュン・フーが酸欠に陥って見てきた世界の感想を述べる。
「そりゃ良かったな。どんな花咲いてた?」
食べ物を前に、すっかり機嫌を直していた良平が無邪気に問うに、ピュン・フーは片頬をひくつかせつつ、再度の笑いの襲来をどうにか凌いで咳払いに誤魔化すと、少し笑って再度問いを向けた。
「良平、今幸せ?」
ふんだんなプリンに載せた生クリームにほっこりと幸せに浸っていた良平は、ん、と首を傾げる。
 幾度も同じ問い、その意味する所をふと、思いつく。
「んー……じいちゃん居るし」
視線を合わすと、赤い瞳が促すように細められる。
「犬とか猫とか、他の家族も沢山居るし。俺がそいつらの餌代稼いでんだ、だからバイトも忙しくって暇してる間ないし。それから、文化祭で見た能、それを舞ってた能楽師の先輩の追っかけなんかもしてんだ。なかなか相手にして貰えねーんだけど」
「あぁ、片想いはツライって聞くよな」
ピュン・フーの相槌に思わず乗ってしまう。
「だよな? 俺がすっげきれぇで感動した! つってもまだ未熟とかなんとか言って聞いてくれないんだよ! 変なトコ頑固でさ、でもそのストイックなトコがいいとか騒いでる女子なんかも居てあぁそういう見方もあんだなとか……」
話しが横筋に逸れかけたのを、良平は「置いといて」のジェスチャーで無理矢理戻す。
「幸せだよ」
そう、無邪気に笑う。
 家庭と学校と、良平が上げたそれは誰もが持っているごく平凡で、平凡過ぎて其処にある事にすら気付けないような幸せ……だが、それは異形の存在が得るには過分な程。
「あんたはどうなんだ?」
それだけに聞いてみたかった。
 『IO2』の関係者であってもそうでなくとも…根底に同じ質、根底に同じ香を持つモノとしてそんな「人並みの幸せ」の得がたさを知っている、そしてそれにどれだけ焦がれるかを、身を持って知っている為。
 ピュン・フーに聞いてみたいと思った。
「俺?」
それにピュン・フーは顎に手をあてて視線を宙に漂わせた。
「んー…最近変化があったっつったら、転職したってコトだけどなー。やってるコトは前の職場とあんま変わんねーからなー」
良平の問いに答えを探す、ピュン・フーはふと自分の左胸を押さえた。
「残念、仕事だ」
内ポケットから振動を繰り返す携帯電話を取り出す…が、それに出る事はなく、もう三度だけ振動したのを確かめると、ピュン・フーは机上の伝票を取り上げて席を立ちかけ…ひょいと身を折って良平の耳近くに口を寄せる。
「幸せの理由、根こそぎ連れて、東京から逃げな」
笑いを含んだような瞳…その癖に、真剣な紅、声に籠もる真摯さ。
 それが楽しげな色にとって変わる。
「そんでももし死にたいようだったらも一回、俺の前に姿を見せればいい。ちゃんと殺してやるから」
耳元で囁いてすぐ身を離したピュン・フーの、まるで不吉な予言のように一方的に約束を残す。
「どういう……ッ」
意味を問い、声を上げて席を立ちかける良平の動きを制して片手がヒラ、と振られる。
 サングラスに覆われる寸前に、深みを増した赤の瞳にすとん、と意に反して椅子に腰が落ちた。
「それ全部食っちまいな。んじゃーな、楽しかったぜ♪」
食べかけのプリンを指してからもう一度振られた片手、そして向けられた後ろ姿を、良平はただ見送るしかなかった。