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<PCシナリオノベル(シングル)>


裁きの日

 自らの絶叫で、湖影梦月は身体の自由を取り戻した。
 恐怖に凍り付いた膝が力を失い、血の気と共に重力に引かれてその場にへたり込む…芝生が彼女の体重を受け止め、かさりと乾いた音を立てる。
 その音も、感触も、全ての感覚が遠く、否定が喉の奥で嗚咽に変わるそれだけが現実だと思えた…それだけが現実であって欲しかった。
 悪い夢を見た時のように、自分の涙で目が覚め、心配そうに覗き込む守護鬼の暖かな手と、涙の理由を問う優しい家族の声が、今はない。
 優しい鬼は梦月の知らない顔で血に染め上げた手に獲物を掴み上げて動かず、風景は赤と黒のみ配された静止画と化している。
「す……ピュン・フー様……ッ!」
鬼が手を離す……重い感触でどさりと地に落ちる、黒衣の青年の名を呼び、力を込めれば震えを走らせる膝を叱咤し、梦月はこけつまろびつ駆け寄ろうとした。
「梦月」
腕がその行く手を阻む。
「見るな」
赤黒い液体に染まって元の肌色も判別できない手が眼前に広げられて視界を遮るのに、梦月は守護鬼の表情を欠いた横顔を見上げる。
 そして、僅かに首を傾げて自分の胸元へと視線を移す。
 彼女の白いセーラーの胸元を染める赤の鮮やかさと…ピュン・フーの血の色とあまりに違う、それが同じ物と思えなかった為だ。
「蘇芳……」
梦月は守護鬼の名を呼び、その長身を見上げる。
 俯き加減の表情が見てとれないのは、蘇芳が梦月から顔を背けた所為か。
「蘇芳、通して下さいませ〜……ピュン・フー様が、お風邪を召してしまわれますわ〜」
「梦月」
困惑と抑制を綯い交ぜにした響きで名を呼ばれ、梦月はゆるりと首を振る…蘇芳が、ピュン・フーを手に掛けたなど、認めたくない現実を否定した。
 だが、それは主従の前に黒衣の青年の骸、の形で横たわっていた…はずだった。
「痛……ぅ」
色の薄い唇から洩れた小さな呻きに、梦月は弾かれるように動いて、前を遮る蘇芳の腕の下を抜けた。
「ピュン・フー様!」
横様に倒れていた身体を億劫そうに傾ける動きに仰向けに、背の下になった皮翼がゴキリと奇妙な音を立てた痛みにか、ピュン・フーは息を詰めた。
「す、蘇芳……」
呼び掛けの意図を察して、守護鬼は音なく動き、ピュン・フーの背の下に入れた手を支点に上体を支え起こす。
 はぁ、と安堵に似た息にピュン・フーは謝意を混ぜた。
「サンキュ」
てらいのなさすぎる言葉に、蘇芳は僅かに眉を寄せる。
 着衣の黒に紛れてそうと見えない血は濃く香り、掌に張り付く感触が確かな傷の存在を告げる…心臓を握り潰す感触は、まざと手の内に残っている。
 本来、筋肉の塊であるそれは、生命の中核を担っているだけに強すぎる程に強い。
 けれど、自体に組み込まれるような機械は鬼の力を前におもちゃめいた感覚で容易にひしゃげて、諸共に組織を壊した。
 その決定的な死で以て、蘇芳は梦月を守り…きれる、筈だった。
 だが、ピュン・フーはまだ意識を持ち、確かな空虚を胸に刻みながら礼さえ述べて見せる。
 命を奪う、決定打にこそ成り得なかったが、魂が軋みを上げてその質を変えていく。
 この男がピュン・フーで在れる時間は、そう、長くない。
 蘇芳は冷静に判じる。
「梦月」
ピュン・フーはさり気なく戒める鎖に繋がれた片手でコートの前を合わせて掴み、短く少女の名を呼んだ口元に苦い笑いを刻んだ。
「今、幸せ?」
挨拶代わりに軽く、いつものようにそう心を問う。
 骨から歪んで、あらぬ角度に曲がった皮翼が地を擦り、足下に拡がる赤は彼の傷から溢れたもの、いつになく動作を押さえた動きは悪意の存在に内から蝕まれた痛みを示している。
 梦月はピュン・フーの傍らに座り込んだまま、眉をハの字に下げて首を振る、動きに大きな瞳から涙が零れて落ちた。
 否定の動きに、ピュン・フーは困ったように梦月の表情を真似て眉尻を下げた。
「だから、早く帰れって言ったのに」
そして、ふ、と笑う。
「帰りな」
梦月にそう促して笑いを含んだ咎めは、痛みの気配を欠片も感じさせず、梦月は膝の上でスカートの生地を掴んで強く握り締め、ただ首を横に振った。
「す……」
頑なな梦月に、ピュン・フーは身体を支える蘇芳を見るが、こちらは完全にそっぽを向いてしまっている。
「まったく……なんでヤなんだよ。服汚れるし、見てて気持ち悪いだろ」
聞く耳を持たない主従に、ピュン・フーは傾げた首を元の位置に戻した。
「あぁ、心臓潰れてすぐ死なないのはまぁ珍し……」
続く軽口に、梦月は咄嗟にその頭をぺち、と叩いた。
「物見遊山で……は、ありませんッ!」
「んじゃ、怖いもの見たさ?」
怒りに震える梦月が鞄を頭上高く振り上げ、「待った、待った!」とピュン・フーは慌てて失言を撤回する。
「大切な……人が辛い目に遭っているのに……ッ」
鞄を下ろした梦月の眦から、ポロポロと涙が零れる。
「人って梦月……よく見ろよ、バケモンだぞ?」
自分で自分を貶める、その発言を何気なく吐き「バケモンとポケ○ンってよく似てるな」と至って呑気に親指で自分の胸を示した。
「まーでも流石に長くなさそうだから。何か用があんならお早めに」
そして気楽に発言を求められ、梦月はそのピュン・フーの片手を握り締めた。
「ピュン・フー様、約束しましたでしょう〜」
その手を胸に抱き寄せて、必死に続ける。
「水族館や動物園に行こうって……また、遊ぼうって……」
溢れる涙に言葉は途切れて続ける事が出来ず、梦月は両の手で包み込む事も出来ないピュン・フーの掌を握る手に力を込めた。
「ゴメンな」
梦月が握り締めて動かせない、手と反対の掌がけれど触れずに気配だけで髪を撫でる。
「ゴメン」
繰り返される静かな謝罪が、小指にかけた約束の反古にする。
「困らせて……しまって、ますか?」
「んー……、泣かれんのって得意じゃねーんだよ。啼かすのは得意……」
唐突に背を支えていた蘇芳の腕が離れ、ピュン・フーはあわあわと腕で崩したバランスを保とうとする。
 また背の重みに仰向けに転倒する、寸前で蘇芳が背に手を添えて事なきを得る、その遣り取りに梦月は微笑んだ。
 涙は止まらず、きっと目も鼻も赤いだろう…無理に作った笑顔が気持ちに反して、胸に亀裂を生じさせた痛みは無視する。
「またどこかに連れて行って下さいって、約束しましたよね」
「梦月……」
蘇芳が、困ったように声を発する…どうにも動かせない現実を、意固地になれば聞こうとしない主にどう納得させたものか。
「蘇芳、解ってますわ」
梦月は守護鬼を見る事はせず、固い声だけで呼び掛けに答えた。
「ピュン・フー様、今はお疲れですもの……すぐでなくていいんですのよ? だから……」
また新たに零れる涙に笑みが崩れ、梦月はごしごしと袖で強く目元を擦った。
「待ってますから……」
 そして微笑む。
「早く戻って来て、迎えに来て下さいね」
共に在るのが楽しく嬉しい。その幸せを、信じて貰えるように、そして自分の笑顔を覚えていて貰えるように、梦月は言葉にならない祈りを花綻ぶような笑顔に変えた。
「……まったく」
 両手を肩の高さに上げて見せた掌を、ピュン・フーは自らの血に浸された地面に突いて傾く身体を支える。
 その動きに、蘇芳はピュン・フーを支えた手を離し、立ち上がった。
「お気遣い、ドーモ」
そしてくるり背中を見せた蘇芳に、巫山戯た口調で謝意を向ける。
「なぁ、梦月」
身体を支えるのも辛いのか、ピュン・フーは背を丸めてそれでも顔は上げて梦月に赤い視線を据える。
「迎えに来れないって言ったら」
ハ、と息を吐き出し、ピュン・フーは僅か、笑いを履いたままの口許を引く。
「一緒に来る?」
眩しげに細められた目に、瞳が紅く色を深めたような錯覚に、梦月は大きく息を吸い込んだ。
「……愛してますわ」
吐き出す想いに息を吐き、そっと顔を寄せ……薄い唇に、触れるだけの口付け。
 ピュン・フーは゛しんわりと身を退いて僅かに距離を開けると口元を押さえて顔を背けた。
「……なんかものごっつ、イケナイお兄さんな気分……」
「ピュン・フー様……?」
幼いながら懸命に背伸びして示された梦月の好意に、ピュン・フーが片手で顔を覆ってしまったのを蘇芳が見もせずに言う。
「照れてるんだそいつは」
「ば……ッ! 見て見ぬふり位しろよ!」
「見てない」
両者の掛け合いをきょとんと見ていた梦月は、くすくすと笑いを零した。
「なんだか、二人、仲良しさんみたいですわ〜」
「違……ッ!」
「うん、まぁそうだよな。蘇芳が居たら安心だもんな」
蘇芳の否定をピュン・フーがしたり顔で遮る。
「だからもう行きな」
「ピュン・フー様、でも……ッ」
離れがたさを訴える梦月の腕を蘇芳が取って立たせた。
「オトコノコにも、見られたくないモンはあんの。ホラ」
言ってピュン・フーは、自らの片手小指の指輪を引き抜いた。
「これやるから。大人しくお家に帰りな」
手首から先だけの動作に胸元に向けてポイと放られたそれを、梦月は咄嗟、落とさないよう両手で受け取る。
 小指に嵌っていたとは言え、男性のサイズに梦月の手には大きい銀のリングは、植物の意匠に乳白色の貴石が嵌め込まれてぽったりと重みがあった。
「ムーンストーンっての……中国語で、月はなんてーか、知ってる?」
厚みを持って青みを帯びた石は月光を含んだかのような、シラーと呼ばれる光の干渉を起こす。
「存じません」
ふるふると首を振る梦月にピュン・フーはニ、と笑って見せた。
「じゃ、それは宿題。次に会った時に答え合わせ、しよーな?」
「……はい、調べておきます〜。約束致しますわ〜」
手元に確かな証を残した、その他愛ない約束が叶う事は決してない。
 肩を抱いて歩き出す蘇芳の力の強さに歩を進めざるを得ず、梦月は少しでもピュン・フーの姿を視界に収めようと肩越しに振り返る。
 ピュン・フーはいつもの笑みで梦月を見、軽く、小さく手を振った。
「梦月」
ぐ、と肩を抱く手に力を込めて蘇芳が名を呼ぶ。
「見てやるな」
 梦月は、スン、と小さく鼻を鳴らした。


「……お疲れ様」
『虚無の境界』と『IO2』、相反する組織のそれぞれが二人を迎えた。
 最も友好的ではなく、ヒュー・エリクソンに西尾蔵人が銃を向けたままの形に、こちらはこちらで何か展開があったようだ。
 梦月はさくさくと芝生を踏み、真っ直ぐにヒューの前に立つ。
 盲目の神父は身体の前で白い杖を突き、気配で判じてか焦点を結ばぬ視線を梦月へ向けた。
「彼はどうしました?」
察しをつけいるだろうに敢えて聞く。
 震える唇を開きかけ、言葉の代わりに吐息を吐き出すと、梦月は胸の中央に手を置いた。
 べっとりと濡れた感触に、掌に張り付く生地の中、固い感触を掴む。制服の胸元に下げられた、銀の十字架。
 小さな留め金に下げられた制服の一部であるそれを、梦月は指先だけで外す間も、ヒューから視線は逸らさない。
 捧げるように、右手に乗せた十字架を差し出す。
「あんなに優しい人を救えない神様なんて……いりません」
左手には指輪。重みを持ったそれを強く握り締める。
 そして、差し出した掌を傾けた。十字は重力に従って静かに落ち、芝生の上にぽとりと跳ねて白杖に当たった。
「……何故? 天なる父は寛大にも、呪われた魂にも救済を与えたというのに」
「命を奪うのが救いか?」
嘆きを秘めた溜息に、蘇芳が静かな口調に怒りを篭める。
「それを為したのは神でなく、貴男でしょう」
言ってヒューは胸の前に十字を切った。
 蘇芳の怒りの発露を遮る形で間に入り、西尾がひょいと身を屈めた。
「ヒューはね、君の事を言ってるんだよ湖影クン」
低い位置に眼差しが合う一瞬にそう梦月に言い、草の上に落ちる十字を拾い上げる。
 その間に、ヒューを何処からともなく現われた黒衣の『IO2』の人員と思しき黒衣の男達が脇を固めて連れて行く。
 それが当然のように後顧すらせず、西尾は梦月に向き直った。
「楽しかったかい?」
軽く息を吹きかけ、指で汚れを拭い……差し出されたそれに首を振って拒否する。
「彼と、知り合ったのを後悔しているかい?」
西尾は声を荒げず、教師のような口調で言い聞かせるように問いを重ねる。
 梦月は掌の中に指輪を握り込んだ手を強く強く、胸に当てた。
 心臓の位置……鼓動が強く、胸を打つ。
「幸せ、でしたわ」
もう泣くまいと思ったのに、涙が勝手に零れ出た。
「こんな、痛くて、苦しくて、どうにも出来ない気持ちは、知りませんでしたわ」
嗚咽で返答は途切れる。
「でも、私は……幸せでしたわ」
漆黒の瞳は真っ直ぐに、迷いない。
 西尾は、
「そう」
と短く、深く頷いた。
「ならその事で何も、否定しない方がいい……望んでないと思うし」
誰が、とは言わずに西尾は胸に寄せた梦月の手を取った。
「おじさんからも御礼を言うよ。彼を救ってくれて、ありがとうね」
 梦月が応じて広げた掌に乗る指輪の横に十字架を乗せる。
「いい石だねぇ。ムーンストーンに十字が浮くのは珍しい」
言われて初めて、まともにその指輪を見る。
 光を弾くでなく、柔らかく含んで青く白く、ともすれば銀めいて装飾の一環のようなそれは真円の中央で光の線を交差させた。
「銀の部分は月桂樹かな……中国では、月には桂が生えるというし」
何気ない検分に、梦月はふと、問う。
「西尾様、中国で月を、何と言うかご存知ですか……?」
「月かい?」
背を伸ばして西尾は記憶を辿る風に、髭の濃い顎を片手で撫でた。
「ユエ、だね、確か」
「ユエ……」
慣れない響きを舌に乗せる。
 西尾は「んー……」と唸って頬を掻き、中空に視線を向けた後、「まぁ、いいか」と一人で納得した。
「それはピュン・フーのね。ホントの名前だから」
何気なさを装った一言に、梦月は指輪と十字架を一緒に握り込む。
「蘇芳、聞きまして〜?」
「……あぁ」
背後に立つ守護鬼は、後ろに傾けた梦月の体重をぽすりと受け止める。
「ホントはユエ様、と仰るんですのね〜……次にお逢いした時に、驚かせて、差し上げましょうね〜」
「そうだな、忘れないでいないとな」
梦月は背を預けたまま、蘇芳を見上げた。
「蘇芳」
「なんだ」
細く軽い体を包むように、合わせられた腕に頬を寄せる。
「ずっと忘れないで、下さいませね〜……? 私の事も、きっと」
「忘れない」
年経ても姿を変えず、変わらずに傍らにある鬼は、人と同じ時間を生きる者ではなく、自分も何れ蘇芳を置いて行かなければならない、彼方に確実な未来を思う。
「ねぇ、蘇芳……貴方は私と居て……幸せ、ですか?」
「あぁ」
蘇芳の迷いのない返答に、梦月は彼にも問うて見ればよかったと、僅かな後悔にまた新たに滲んだ涙を、袖で拭った。