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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


『蝶が求めるは花の蜜』

【T】

 海原みそのは蒼王翼の手にある履歴書を覗き見ながら傍らを歩く。歩を進める度に漆黒の薄い生地を重ねて膨らませたワンピースの裾が軽やかに揺れ、時折吹き抜ける春風は鋏の鋭利さを知らない豊かな黒髪を撫ぜるように過ぎていく。
 春の日差しの中、草間興信所を出てからどれくらい歩いただろうか。翼は淀みない足取りで履歴書に記された住所を頼りに道を行く。みそのが覗き見た限りでは住所はただの文字の羅列だった。見知らぬ地名。どこにあるとも知れぬ番地。そこに居るであろう蝶の姿を思い、みそのは心が弾むのを自覚する。
 さくさくと歩を進める翼に早足で続きながら、草間興信所の所長である草間武彦の言葉を思い出す。蝶に寄生された人間が花を求めて依頼を申し込んできたのだそうである。怪奇事件にはもううんざりだという気配がはっきりと感じられる口調で翼に云う草間の言葉をみそのは暇潰しに訪れていた興信所の貧相なソファーの上で聞いた。
 草間の言葉はみそのの空想の引き金を引く。頭のなかに広がるビジョンに、美しいわ、と呟くと草間と翼が同時に視線を向けるのがわかった。それを感じたみそのは即座に思考のシフトチェンジを図り、助手が必要ですわね、と二人に向かって微笑んだ。半ば強引だったかもしれないとは思ったが、異を唱える者は誰もいなかった。
「こちらのお宅ですの?」
 緩やかな坂を登りきった所で不意に足を止めた翼に問う。小さな頷きを見とめて、みそのは無意識のうちに翼の視線が向かう先を確かめていた。
 美しい場所だった。
 そして静かだった。
 無駄な装飾のない庭は自然がそのまま横たわっているかのように純粋で、降り注ぐ陽光を受け止める姿は造られたものではないということを伝えるには十分だ。そこを縫うように玄関に向かって伸びた細い道と緑に埋もれるように佇む家だけが人工物のようだった。まるで集落に埋没することを拒んでいるような気配がした。
 思い出したように翼が一歩を踏み出す。揺れた金色の髪につられるようにみそのも続く。小道に敷き詰められた砂利が二人の足音だけを響かせる。小道の両脇を彩る緑は必要最低限の手入れしかされていないようで、今にも覆い被さってきそうな勢いで葉や枝を伸ばしていた。
 ここにいる植物は幸せだ。
 無意識のうちにみそのは思う。
 無理強いされることもなくありのままの姿でいることを許されている。人間の勝手で生きていながらも愛でられる存在になってしまった植物にとって、ここ以外のどこに幸福があるというのだろうか。ここはきっと植物にとっての楽園だ。
 小道が終わり、三段ほどの階段を昇って玄関のドアの前に立つ。無機質なドア。滑らかな仕草で翼がその傍らに備え付けられたインターホンのボタンを押す。屋内から軽やかにベルが響く気配がして、次いで僅かなノイズ交じりにスピーカーから声が零れた。
『どなた?』
 たった一言だというのに振り絞るように発せられた声だった。
「草間興信所の者です」
 明瞭な声で翼が答えると、スピーカーの向こうから安堵するような細い息が漏れる気配がした。
『鍵はかかっていません』
 女性は今にも途切れてしまいそうな声で答え、玄関から入ってすぐ左手の部屋に自分は居るという旨を告げた。
 短いその言葉に随分時間を費やしたように思う。衰弱がひどいということは聞いていた。しかし思っていた以上にそれは進んでいるのかもしれない。みそのは思って、翼に続いて玄関のドアを潜った。
 そして二人はドア一枚に隔てられていた世界を目の当たりにして立ち尽くす。
 家ではなく温室だった。噎せ返るような花の香り。どこに視線を向けても植物がある。明らかに異国のものだとわかる色とりどりの花々。緑鮮やかな観葉植物。庭など比べものにならないくらいにドアを潜った先にあった世界は植物のためだけに造られていた。隅々まで植物に支配された空間を眺めてみそのは、人間が住む場所ではないと直感的に思う。
「入ってすぐの左手のドアというのはあれかしら?」
 屋内の光景に呆然とする翼を現実に引き戻すようにみそのが云う。視線の先には蔦の這う壁にぽっかりと開いた口のようなドアがある。まるで吸い寄せられるようにみそのの足は進む。後に続く翼の足取りが僅かに重たいような気がした。
「いらっしゃい」
 植物の鮮やかな色彩に埋もれるように設えられたベッドの上で上体を起こした女性が微笑んでいた。一目で美しい人だということがわかる。しかしその眼孔は落ち窪み、頬には濃い影が落ちていた。血管が浮き出て、骨に皮膚が張り付いているだけのような腕から点滴の管が伸びている。不健康に蒼白い肌が眩しい。室内の総てを照らし出すように強い陽光が頭上から降り注ぐ。仰ぎ見るとそこはガラス張りの天井だった。サンルームなのだと思う。不快を感じないのは空調が完備されているからなのだろう。
「初めまして。蒼王翼と申します」
 何かを振り切ったようなきっぱりとした口調で翼が名乗る。それに続くようにみそのも、
「わたくしは海原みそのと申します」
と愛らしい微笑みを湛えて名前を綴った。
 女性は細い肩を包むショールを引き上げて微笑みでそれを受け止め、小さな声で名前を告げる。そして早速用件を切り出す翼の言葉に頷いて、ベッドわきに置かれた椅子を二人に勧めた。云われるがままに腰を落ち着けて、みそのは翼の問いに与えられるであろう答えを心待ちにする。
 女性は過去の記憶を探るように目を細める。寄生されたことに気付いたのはいつか。問うた翼は至極真面目な顔で女性の言葉を待っている。
「……羽化した時です。最初は痣みたいなものでした。それが次第に広がっていって、気付いた時には羽化していたわ」
 話す女性はあまりに力なく、今にも消えてしまいそうな儚さを漂わせている。外見からは蝶に寄生されているということはわからない。しかし何かによって生命に侵食されているような気配がする。細い根がだんだんと伸びて魂の中核に根を張るように、静かに生命を侵されていっているような危うい気配が漂っているのだ。
「いつ寄生されたのか心当たりはありますか?」
「えぇ。きっとあの谷に花を採取しに行った時だと思います。二ヶ月ほど前になるかしら。あの時、崖から転落して、無傷だったので大事には至らなかったのですけど、食欲が落ちて無償に花の蜜を求めるようになったのはそれからだわ」
 みそのは翼の手元を覗き込み、職業欄を埋める文字を確かめる。
 植物学者。
 確かめたことに満足したのか、みそのは静かに目蓋を閉ざす。
 そして鼓膜を擽って止まない声に耳を澄ました。
 室内を流れていく静かな風。それらが主を心配する言葉を綴る。この女性は愛されているのだと思う。ここにある植物たちに、空気に、総てのものに愛されているのだということが鼓膜を擽る言葉からわかる。
 女性を心配する声と女性自身のか細い声が重なり合う。
 生み出される和音。
 それの響きを断つように翼が問う。
「他に寄生されたというような方は?」
 女性はゆったりと頸を横に振る。
「医者には相談なさったんですか?」
「しました。けれど原因は不明です」
 云って女性は点滴が吊り下げられたスタンドを見上げる翼にみそのは倣う。そこからはゆったりとした速度で雫が落ちてくる。これが今彼女の生命を繋いでいるのだろう。
「花の、採取しに行ったという花のお話を聞かせて頂けますか?」
「動物などの屍骸に根を張る変種の着生蘭です。蘭といっても肉厚の鮮やかな紫の花弁の花で、一見牡丹のようにも見えます。特徴といえば、そうね……血のような噎せ返る甘い香りがして、燐光を放つの。グロテスクだと云う方もいるけど、とても美しい花よ」
「虫媒花ですわね」
 不意に云ったみそのの言葉に、翼が視線を向けるのがわかった。
「よくご存知ね。そうよ、虫の仲立ちで受粉が行われるの」
 みそのに向かって微笑みを湛えて答えた女性が答える。
 その顔には濃い疲労の影が滲んでいた。それを感じ取ったのか翼が遠慮がちに言葉を綴る。
「最後に一つだけ。寄生したという蝶を見せて頂けますか?」
 翼の言葉に女性は肩からかけていたショールをはらりと落とした。
 その下には陽光を反射させる抜けるように白い肌
 はっきりと浮いた鎖骨と肋骨。
 大きく開いたトップスの胸元で鮮やかな赤紫の羽を広げた蝶が息づいていた。
 美しさに息を呑みながらみそのはこの蝶も彼女を愛しているのだということに気付く。
 その瞬間、総ての結末が既に目の前に晒け出されているように感じられた。

【U】

「どうなさるおつもり?」
 緩やかな坂を下りて街へ出て、目に付いたオープンカフェでテーブルを挟んで二人は向かい合っていた。
「風の声を聞く」
 云う翼にみそのは微笑む。
「それではわたくしも」
 二人は緩やかに冷めていく紅茶を前に目蓋を閉ざし、耳を澄ませた。
 道行く人々が二人を盗み見るように去って行く。一見金髪の美少年に見える翼と白磁のような肌に長い黒髪をたらしたみそのは人目を惹く。しかし二人はそうした雑多なものを払いのけるかのように静かに視界を遮断して耳を澄ます。翼は風の声を、みそのは風の流れに蝶が求める花の情報を探る。停滞しているような空間のなかにも微弱な風は存在する。やさしく二人を愛するように風は吹き抜けていく。二人はそれに問いかける。すると時折囁きのような答えがある。
『知っているわ』
 透明な声が翼に云う。
『すぐに見つかるさ』
 せせらぎのような声がみそのに云う。
『彼女だよ』
 その声に二人は同時に目蓋を開いた。
 そして同じ方向へと視線を向ける。
 横断歩道で信号待ちをする人の群れ。その間を縫うように二人の視線は一点へと収束する。彼女の周りで風が揺らめく。短い茶色の髪。警戒しているような鋭い雰囲気。痩身をスーツで包み、今にも人波に呑まれてしまいそうな危うさで佇む女性。
 二人は目配せして、翼が席を立つ。
 同時に信号が青に変わった。
 女性が歩き出す。
 それを追うように駆け出す翼の背を見送って、みそのは風のようだと思う。
 そして自分もゆったりと席を立った。


【V】

 女性の残り香を頼りにみそのは人波の中を行く。翼の姿は疾うに見失ってしまっている。しかし大丈夫だ。流れる空気。そこに残される気配。それらがみそのを目的の場所へと導いてくれる。
 しかし不快だわ、みそのは思う。
 幾重にも積み重ねられた罪の気配。
 それを罪だと思っていない傲慢さ。
 殺された人々の気配。
 ―――人殺し。
 気付いた途端不意に翼は大丈夫だろうかと思った。俊敏な彼女に限って最悪の結末が訪れることはないだろうと思う心の裏側で、相手は何人もの人間を手にかけた殺人犯だという現実がみそのの歩調を速める。
 常なら満足させてくれる春らしい装いも、今は煩わしかった。
 明瞭に残された足跡を辿るようにしてみそのは細い路地を奥へ、奥へと進む。進むにつれて次第に空気が淀み、停滞していくのがわかる。その中に濃密な香りが満ちている。噎せ返るような甘い香り。流されたばかりの血の香りにも似た、香り。
 女性は花だ。
 思って何度目になるのかわからない路地を折れると、隙を伺うように神経を研ぎ澄ます女性とそれを決して逃すまいと身構える翼の姿が視界に飛び込んできた。
「人を殺したのね」
 足を止めてみそのが云う。
 その声に女性の顔が引き攣るのがわかった。
「でもそんなことは関係ないの。わたくしたちと一緒に来て下さらない?」
 微笑むみそのに女性が警戒を強める。けれどみそのがそれに動じる様子はない。
「お会いして頂きたい方がおりますの。警察とは無関係ですわ。それに一緒に来て下さるというのなら、警察に告げ口をするようなことは致しません。約束しますわ」
 自分の言葉を信用したとは思えなかった。
 しかし女性は何かを諦めたように髪をかき上げると、自虐的な笑みを浮かべて頷いた。
 みそのはその笑顔に、この女性も自分がのっぴきならない状況にあることを知っているのだと思った。

【W】

 その光景を草間が信じることはないだろうとみそのは思う。
 二人の相反する容姿の女性が向かい合う。
 まるで何かで強く繋がっていたとでもいうような順当さで二人は対面を果たした。
 そしてそれは起こったのである。
 依頼者の女性がゆったりと点滴の針を抜き取り、短い髪の女性に向かって痩せた手を差し伸べる。
 それを待っていたとでもいうように短い髪の女がその手に口付け、引き寄せるようにして唇を重ねた。
 その光景に翼の傍らでみそのが溜息を漏らす。
 室内に芳しい甘い香りが満ちていく。噎せ返るような濃密な香りだ。
 天井から降り注ぐ陽光がスポットライトだとでもいうように二人の女性を照らし出す。花はその植物の生殖器だ。決して直截的ではないというのにひどく艶かしく淫らな光景を目の当たりにしながら、みそのは受粉の光景だと思う。
 静かに進む種の保存。
 蝶の羽が震える。
 肉厚の花弁を広げて花がそれを受け止める。
 雄蘂から雌蕊の柱頭へ花粉が移される。
 虫媒花。
 受粉。
 種の保存。
 みそのの頭の中を単語が駆け抜けていく。
「あぁ……」
 吐息のような細い声がどちらのものだったかはわからない。
 しかしそれが合図だったとでもいうように短い髪の女性は依頼者の女性の胸元に蔬れた。痩身を包むスーツの袖や裾から蔦が這い出す。外界を遮断するように伸びていくそれは瞬く間に二人を包み込み、葉で茎を飾りながらぽつりぽつりと肉厚の鮮やかな紫の花弁の花をつけた。そしてその花が落ちると、鮮やかな赤い実が残される。
 不意に翼が疑問に満ちた顔でみそのを見る。それに答えるようにみそのは悪戯をした子供のような笑顔を浮かべた。
 これくらいは許されるでしょう?
 問いかけたつもりだったが、それが確実に伝わったとは思えない。
 局地的に加速する時間。
 その中で急速に成長する植物。
 蝶は呑みこまれ、植物の一部となる。
 生き残るということは残酷だと思いながらみそのは急速に成長し続ける植物に歩み寄ると、花が落ちた後に残った赤い実を指先でもぎ取り、
「これが種の保存というものですわね」
と云って翼に向かって残された赤い実のように鮮やかに微笑んで見せた。
 草間武彦がこんな結末を信じることはないだろう。
 現実は目の当たりにした刹那にしかその存在の有無を確かめることはできないものなのだ。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1388/海原みその/女性/13/深淵の巫女】

【2863/蒼王翼/女性/16/F1レーサー兼闇の狩人】


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■         ライター通信          ■
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初めまして。沓澤佳純と申します。
この度はご参加頂きありがとうございます。
お二方の能力を上手く作品内に生かすことができていれば幸いです。

今後また機会がありましたらどうぞ宜しくお願い致します。
この度は本当にありがとうございました。