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<東京怪談ノベル(シングル)>


誰れかもここに見えて散り行く


 いずこからやってきたのか、漆黒の双頭の牛が引く牛車が、ひたと止まった。牛はぶるると鼻を鳴らし、火と氷を吐いた。
 まったく季節外れの彼岸花に彩られた牛車から降りたのは、すらりとした体躯を漆黒の水干につつんだ青年と、氷色の汗衫を身につけた童女であった。ふたりとも、漆黒の髪に蒼い目をもち、似通った顔立ちをしていた。恐らく、兄妹なのであろうと――これを見た者がいたらば、そう考えたことだろう。
 それは、間違いなかった。
 童女は緋玻という。その手を引くのは、彼女の兄である。
「まあだ? にんげんかい、まあだ?」
「もう着いた。ここがひとの都だ」
「うそよ。じごくとなあんにもかわらない」
「それは、匂いだけであろう。この辺りは、死と膿に満ちている。流行り病があったのだ」
「つまんなあい。あけは、もうかえりたあい。じごくがいぃい」
 幼い妹の駄々に、兄はこまって顔を曇らせた。
「帰るのも良いが、畜生界の豚どもに笑われるぞ。あの鬼子めは、人間界が怖かったのだと」
「……」
 兄の苦肉の脅しは、ことの他効果が大きかった。童女はぷうと頬を膨らませて、兄の手を握る手に力をこめた。

 牛車は餓鬼界を横切り、畜生界を縦断し、獄界より人間界にやってきたのだ。幼い緋玻にとっては退屈な旅路だった。牛車の中で、緋玻は天界に最もちかい人間界がどんなところなのか、あれこれと想像を逞しくさせていた。そのとき思い描いていた世界と、実際初めて目の当たりにした人間界は、ひどくかけ離れていたのである。
 折しも都では恐ろしい病が流行り、都の外れには異臭を放つ屍が、莚の上に積み重ねられていた。瘴気によって膨れ上がった腹の死体は、緋玻もよく見る餓鬼のようであったし、漂う臭いは畜生界の臭いとそう変わらないものだった。
 しかし、兄の手に引かれて歩くうち、緋玻は次第に人間の世にやって来た気がし始めてきた。
 地獄にはない、柔らかな匂いが、夜風にのってやってきたのだ。

「わぁ、あにさま、あれはなに?」
「花だ。さくら、というものだ」
 ようやく歓声をあげてくれたと、兄は微笑み、静かに答えた。
 人間界では、季節の通りに花が咲く。いまの暦は弥生、桜の月だ。都の端は地獄だが、内裏も見えるようになれば、そこは極楽浄土のように美しい。あとは散るばかりの満開の桜が、その美を競い合うようにして咲き誇っている。
「にんげんかいは、おかしなところ。ごくらくとじごくが、いっしょにあるのね」
「そうだ。浄土と獄の狭間にあるからな」
「きれい、きれいよ。はじめてみるいろ。もっとちかくでみたいなあ」
「見ておいで。兄は、少しここらで用事があるのだ」
「いいの?」
「内裏と社、寺院に近づくな。特に内裏には、陰陽師が居る。ぶたれて、地獄に送り返されてしまうぞ」
「にんげんなんか、こわくないわ」
「緋玻、約束だ。内裏と社、寺院には近寄らぬと言わなければ、兄はこの手を離さない」
 半ば睨みつけるようにして諭してくる兄に、緋玻はまたしても頬を膨らませた。
 だが、風が運んできた匂いと花びらに、緋玻の自尊心は容易につつき崩された。
「……わかった。あけは、さくらのしたからうごかない」
「良し。すぐに戻る」
「いってらっしゃあい」
 漆黒の背中を見送ったあと、童女は裾と髪を引きずりながら、ぱたぱたと桜並木に誘われていった。

 満月があり、狼の遠吠えが聞こえる。それをかき消す音は、桜の枝ずれ。
 気の早い桜はもう花を散らし始めており、風が吹くと、はらはらと花びらが舞い散った。緋玻が見たこともない安らかな色が、満月の明かりに照らされている。
 緋玻は、行くことが出来ないとは知りつつも、極楽浄土を夢みることがあった。
 桜並木の下は、彼女が浄土として夢みていた通りの景色であった。
 風が吹けば花びらが舞うということに気がついた緋玻は、にこにこと笑みを大きくして、大きく息を吸い込んだ。覚えたばかりの風の妖術をつかった。
 ごおう、と吹き荒れた狂風にあおられ、桜が折れんばかりに揺れる、揺れる。
 呑気な桜も、せっかちな桜も、これにはたまらず花びらを吐いた。舞い散る花びらがつくる渦に、緋玻は歓声をあげた。

(何ぞ、何かと思えば)
(鬼子のようじゃ)
(まだ、年端も行かぬ)
(鬼じゃ……)
(何を成す為、獄界より昇ったのじゃ)
(鬼の子じゃ)

「……だあれ? あにさま?」
 風の音に隠れる囁き声に、緋玻は問い掛ける。それが常だと言うように、応えはない。
(鬼の子じゃ)
(喰らえば)
(妖力もつく)
(精もつく)
(鬼の子、うまいうまい)
 気づけば、童女は囲まれていた。
 月夜に舞う花びらのいちまいいちまいが、童女を見張る目のようだった。
(兄がおる)
(いまはおらぬ)
(鬼の居ぬ間に、鬼を喰らうか)
(切って)
(刻んで)
(煮てしまおう)
 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ――
 桜並木が、嗤い声を上げた。

 桜色のぼろをまとったあやかしどもが、桜の根元から生えてきて、節くれ立った手から毛虫を垂らし、氷色の汗衫めがけて歩き出す。
 驚き、きょときょとと視線を巡らせる緋玻であったが、卑しい桜色のあやかしたちが、自分を引き千切って喰らおうとしていることにはすぐに気がついた。殺気と欲望を感じ取ることには慣れている。
「やめてよ。あけは、あにさまをまたなくちゃいけないのよ」
 こまって眉をひそめても、あやかしたちの涎は止まらぬ。
 あやかしたちが、それまで鬼の子を喰ったか否かは定かではない。毛虫が這う腕を伸ばし、かさかさにささくれだった牙を剥いて、あやかしどもは童女に襲いかかった。


 ばりん、ぼりん、
 骨を砕く音がする。
「緋玻?」
 両手を紅に染めた漆黒の青年は、不意に立ち上がった。足元には、寝巻き姿の貴族の屍がある。頭を割られ、喰いさしの脳髄をさらけ出し、白目を剥いた凄まじい死相だった。
 漆黒の水干の青年は、口元にこびりついた筋やら脳漿やらを拭うと、屍を喰いさしのままで走り出した。
 ぐちゅっ、びちゅっ、
 肉が裂ける音がする。


 桜の花びらが、残らず散ってしまっていた。
 くすりくすりと笑いながら、童女があやかしの首を弄んでいる。見開かれた目玉を、折った桜の枝でつついて穿り出し、鼻紙できれいに吹いてから、まっかな口の中に放り込んだ。目玉をしゃぶりながら、上機嫌で立ち上がり、枝を振って歌を唄う。

 ひとぉ、ふたぁ、おにがくる
 みいぃ、よおぉ、とにかぎかけよ……

 満開だった桜の木の下、氷色だった汗衫の童女が、あやかしの生首を転がしている。まるで、舞っているかのようだ。
 童女は、頭の先からつま先まで、今やまっかに染まっているのだ。
 ふう、と吐息をついて風を起こしては、降り積もった花びらを吹き上げる――
「緋玻」
 青年が呼びかけると、童女は生首を放り投げ、上機嫌で駆け出した。
「あにさま、あにさま。あけは、さくらをたべたの」
「けがはないのか」
「ないわ。ね、ね、とってもおいしいの。あにさまもたべようよ」
「……ううむ、そうだな」
 食べかけのものは、あやかしよりももう少し旨いものだったのだがと、兄は続けようとした。
 けれど、美味しかったと喜ぶ妹を見ては、その言葉も喉につかえてしまう。
「わかった、一緒に食べよう。食べながら、帰るとしよう」
「もうかえるの?」
「おや、気に入ったのか」
「うん!」
 はじめのふてくされぶりには閉口したが、今はどうだ。
 水干の青年は笑顔で頷いた。
「では、父上に取り入ってみような。だが、住めるのはもう少し大きくなってからだろう」
「あけは、それなら、はやくおおきくなるわ」
「そうだな、たくさん食べなければならんな」
 兄妹は、血みどろの手を繋いだ。
 ごおうと強い風が吹き、ふたりの姿を、桜吹雪がかき消した。
 吹雪が止んだあと、本当にふたりの姿は、かき消えていた。
 いずこへと、消えたのか。
 桜の木も満月さえも、それだけはまったく見当もつけられないのであった。




<了>