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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【永遠の狭間に響く唄声】

【T】

 それは突然の呼び出しだった。予告もなければ前触れもない。本当に唐突な呼び出しで、もし他に予定があったならそちらを優先するつもりだった。けれどそんな時に限って予定などあったためしがない。十九は思って草間興信所のドアを開けた。
 相変わらず室内は紫煙に満ちて視界が悪い。十九の姿を見とめた零が小走りに窓に近づき、慣れた仕草でそれを開け放つ。その窓を背に書類が積み上げられた乱雑な事務机に突っ伏すようにしていた所長である草間武彦が、それを合図にのっそりと顔を上げた。そして眩しそうに目を細めると、ようやく十九だと認識できたのかつまらなそうな口調で、仕事だ、と云った。
 しかしそれきりである。説明があるわけでもなければ、何がしかの手がかりを与えられるわけでもない。いつものことだ。きっとまた意にそぐわない依頼内容だったのだろうと推測して、十九が視線を巡らせると窓辺から姿を消していた零が今度は温かそうな湯気を立ち上らせる二つのティーカップが並んだトレーを手に簡素な応接セットを視線で指し示して、腰を落ち着けるよう促した。説明してくれるのはやはり今回も零なのか。思うとまるで草間の妹であり雑用一般をこなす助手のような零のほうが所長のように思えてくる。それとも興信所といったような所は、助手のような人間が説明するのが常なのだろうか。仕事とはまったく関係のないことを考えながら決して奇麗とは云えないソファーに視線を向けると、見知った顔が鮮やかな笑みを浮かべて挨拶のつもりなのか片手をひらひらと振っていた。
「香坂さん……」
 無意識のうちに呟いていた。それを聞きとめたのか肩にかかる緩く波打つ茶色の髪が良く似合う香坂丹は、久し振り、と云った。そんなに久しく会っていなかっただろうかと思いながら、十九が丹の隣に腰を落ち着けるとスプリングが悲鳴のような音をたてて軋んだ。
「今回はお仕事をお願いしたくてこちらにおいで頂きました」
 二人の前にそれぞれティーカップを並べて零が云う。
「どんなお仕事ですか?」
 丹がティーカップを片手に訊ねる。十九は丹に言葉を奪われてしまったと思いながら、良い香りを漂わせる紅茶を一口含んだ。丁度良い温度で淹れられた紅茶は口腔にやわらかな香りを残して溶けていく。
「ピアニストの男性を捜し出してほしいんです」
 零は云う。
 そして十九も丹も聞く態勢になっているのを確認するように一息置いて言葉を続けた。説明は明瞭で的確だった。わかりやすい説明というのが一番だ。思いながら十九が与えられた情報を頭のなかで丁寧に並べなおす。声を失ってしまった女性の兄がピアニストの男性を捜してもらいたいという依頼を持ち込んで来たのが発端だと云う。珍しく草間武彦本人がその女性の兄に会って話を聞いて来たのだと云って零が不意に言葉を切ると、三人はまるで示し合わせたようにして事務机に背を向けて窓に向かって煙草を燻らせている草間武彦の背中に視線を向け、小さく笑った。所長らしいこともするのだと十九は思う。そんな十九の心を見抜いたのか、零の笑顔はなんだか誇らしげだった。丹の笑顔は純粋に面白がっているようだ。
 仕事の内容は簡単といえば簡単で、難しいといえば難しいものだった。依頼者は草間武彦を妹が入院している病院の一室に呼び出し、シンガーでありながら声を失ってしまった妹のために彼女の専属ピアニストであった男性を捜し出してほしいと云ったそうだった。手がかりとなりそうなものはピアニストの男性が特別有名なわけではないが、根強いファンを持つピアニストだということ。女性とともにステージに立っていた店は一店だけだそうで、もしかするとそこに行けば有力な手がかりが見つかるかもしれないと零は申し訳なさそうに云った。情報量の少なさを思ってのことだろう。
 けれど十九とってそんなことは些末な問題だった。話の流れから推測するに、丹と共に仕事をすることになるのだろうということがわかったからだ。一人でなければ心強い。特に今は右目が何故か不安定でうまく使えない状態だったから尚更だった。それに丹の持つ能力を知る十九にはそれがあれば情報量など問題ではないことがわかっていた。思考する途中で、まだ引き受けるとも云っていないのに引き受けたつもりになっている自分がいることに十九は気付く。
 声を無くす。
 それが純粋に十九を惹きつけた。
 仕事を引き受ける理由としては十分だと思って、わかりました、と十九が答えるとそれに倣うように丹が隣で大きく頷く。
「引き受けさせてもらいます!」
 云う丹の声の大きさに、相変わらず元気だと十九は思った。しかしそれが彼女らしさで、美点であるということも十九はよくわかっていた。零は満足そうに笑って、よろしくお願いします、と小さな頭を下げた。
 十九と丹が肩を並べて所内を出て行くまで、草間武彦が無言のまま煙草を燻らせていたのは云うまでもない。

【U】

 手渡されたメモに記された病院名だけでその所在はすぐに知れた。有名な総合病院であったからだ。住所を先に書かれていたらきっとこんなにスムーズには辿り着けなかったとぼやく丹の言葉に、十九は病院名の下に添えられたやけに長い住所を眺めてそのとおりだと思った。
 病院名がはっきりしていることで二人は目的の場所に短時間で辿り着くことが出来た。病院前にバス停があったこともあって、面倒な乗り継ぎをすることもなく草間興信所を出てから数十分で病院の前に辿り着いたのだ。
「呆気ないわね」
 丹が云う。
「何を期待していたんですか?」
 傍らを歩きながら問う十九に丹は正面を見つめたまま、歩を進めて答える。
「なんかもっと迷ったりするのかと思ったのよ。なんだか気が抜けちゃった」
「まぁ……そうかもしれませんけど」
 本当に気の抜けたような声で云う丹に同意するように、十九もぼんやりとした声でそれに答える。
 他愛もない話をしながら二人は滑らかに開く自動ドアに迎え入れられるようにして院内へと足を踏み入れた。
 病院特有の消毒の匂いが鼻をつく。白衣姿の男性や女性。ずらりと等間隔に並んだ窓口。大きな紙袋を手にした老若男女。薄水色の簡素な装いの人々はきっと入院患者だろう。思って十九は迷いのない足取りで前を行く丹の後ろをついて行った。零から渡されたメモを手にしているのは丹だ。女性の病室のナンバーはそこに記されている。丹の足取りは先ほどの自動ドアのように滑らかだった。まるで以前来たことがあるとでもいうように滑らかに前に進む。だから十九は訊ねた。
「前にもここに来たことがあるんですか?」
「ないわよ」
 さらりと返された答えに、十九は重ねて問う。
「じゃあ、どうしてそんなに迷いなく歩けるんですか?」
 すると下降してくるエレベーターの箱の所在を示す電光掲示から視線をそらして、丹は小さな仕草で天井のほうを指差した。
「あんなにでかでかと書いてあるじゃない。内科病棟はここですって」
 丹の指の先には、簡潔且つ丁寧に何階に何があるのかを記したプレートが天井から細い鎖でもってぶら下げられていた。
「それにここにも書いてあるよ」
 云われて今度はそちらに視線を向けると。するとエレベーターの階数ボタンのわきに寄り添うように、外科外来、内科外来といったように小さな文字が並んでいる。
 よく見ているな、と思ってそれを口にしようとすると同時にエレベーターの扉が開く。出てくる人間がいなかったせいか、足早に丹は箱のなかに入って行き、慌てて十九もその後に続いた。押された階数は五階。丹は小さな声で病室のナンバーを呟いて、途中で停止することもなく五階に到着した箱を出た。正面の壁に病室の位置を説明する看板が張り付いている。それで咄嗟に確かめたのか、丹は淀みない足取りで廊下を右に折れた。
 そしてひとつのドアの前で立ち止まり、十九を見て云う。
「ここよ」
 好奇心と緊張感が混ざり合ったような不思議な響きの声だった。
 十九が小さくノックする。すると男性の声で応えがあった。ドアを開けるのは丹。そして二人は並んで病室内へと足を踏み入れた。
 そこは静寂に満ちていた。それまで院内に犇めき合っていた雑音が、音もなく背後で閉まったドア一枚に隔てられてしまったかのようにただ純粋な静寂だけがその部屋を満たしていた。声を発する事も憚られる。それは丹も同じだったようで、ただ二人途方に暮れたようにしてドアの傍に佇んで動くことを忘れた。十九は目の前に設えられたベッドの上に横たわる女性を見つめていた。僅かに傾けられた頭。視線は窓の外よりもずっと遠くを見つめているようだった。胸の上で組み合わされた手。捲り上げられた袖から覗く白い腕からは透明な点滴の管が伸びて、スタンドに吊り下げられた液体の入った透明な袋へと続いていた。
「草間興信所さんの方ですか?」
 男性の声が小さく響く。気を遣っている声の発し方だった。なるべく室内の静寂を保とうとするように、小さな声で話すことに努めているのがわかった。二人は無言のまま頷く。喉の奥まで静寂が満ちて、声を発することを遮断しているように上手く声を音にすることができなかった。声帯が干乾びてしまったような奇妙な喉の渇きを感じる。
 男性に促されるようにして二人はベッドから少し離れた場所に設えられた簡素な応接セットのソファーに腰を落ち着ける。それは草間興信所のものとは違って、簡素でも悲鳴のような音をたてて軋むことのない柔らかなスプリングで二人の体重を受け止めた。
「インスタントで申し訳ないのですが……」
 小さな声で云って、男性が二人の前にコーヒーの注がれたカップを並べた。それの底がローテーブルの表面に触れた刹那、響いた音はひどく大きな音として病室内に木霊したような気がした。
「お構いなく」
 だから自ずと二人の答える声も小さくなった。
 どれだけの間沈黙していただろう。静寂に全身を侵食されるような心地で随分長く沈黙していたような気がした。女性は物音一つたてない。音という音を拒絶しているような気配さえした。どんな声で話すのだろうか。十九は痩せた女性の輪郭を眺めるでもなく眺めながら思う。あの声は誰のために響き、どんな言の葉を綴ることができるのだろうか。唄うことで何を伝えようとしていたのだろう。思うと神経は静寂の源であるような女性に集中し、目の前に腰を下ろす依頼者の男性も傍らの丹の存在も忘れてしまいそうだった。
「……あの、本当に探して頂けるのでしょうか?」 
 男性が遠慮がちに訊ねる。落ち着きなく絡み合う指は不安の現れだろうか。思いながら十九は男性に視線を戻す。
「出来る限りのことはさせて頂こうと思っています」
 云うと男性の顔に安堵の気配が僅かにだが感じられた。女性を見つめていたいと思う心を押し殺して十九は問う。丹が何かを探るようにして女性に神経を集中させているのがわかったからだ。
「どうしてそのピアニストの方でなければならないのでしょうか?」
 女性を包む静寂をなるべく乱さないよう心がけながら云う声は本当に小さく、ささやかな音としてしか響かない。けれど男性はそういう会話に慣れているのか、一語一句間違えることなくきちんと聞き取ることができているようだった。
「彼は妹にとってただ一人のピアニストなんです。彼以外の人間な妹のためにピアノを弾いても、それは妹には届きません。だから彼でなければならないんです。何度も試しました。彼と似た音を奏でる人間を探したこともあります。それでも駄目なんです。妹は彼の音しか受け付けません。彼の音だけを認識しているのです。だからその彼が突然姿を消してしまって、動揺しているのでしょう。以前は彼がいなくとも手の届く場所にいるというのがわかったせいか彼以外とも話をしました。笑うこともありましたし、冗談を口にすることだってありました。……それが、彼が突然姿を消してしまってからというもの……」
 ゆったりと何かの軌跡をなぞるように向けられた男性の視線は女性の辺りを彷徨って、十九のところに戻ってくる。
「詳しく聞かせて下さい。そのピアニストが姿を消した日のことや、彼に関することを」
 珍しく理性よりも積極性が勝っている自分を不思議に思いながら、十九は男性が綴る言葉に耳を傾ける。
 ピアニストの失踪は突然のことだったというステージのある夜、いつもならリハーサルの一時間前には姿を現す律儀な男だったというのにその夜に限ってはリハーサルに現れることもなければ、ステージにさえ現れなかったのだそうだ。ステージは中止になった。ピアニストが現れなかったことで唄い手である女性が唄えなくなってしまったからだ。勿論連絡を取ろうとしたとも云った。しかし携帯電話は解約された後で、住んでいたアパートもその日の昼間に引き払われていた。彼を知る人々はそれぞれに連絡を取り合って必死になって彼を捜したが、彼の行方を知らされている人は誰一人としていないということがわかっただけだった。警察にも届けを出したと男性は云った。しかし状況からして事件や事故に巻き込まれた可能性が少ないとし思われたのか、有力な情報は得られていないという。
「ですから、最後の頼みの綱として草間興信所さんにお願いしたのです」
 男性が話すことを止めると、室内には再びあの絶対的な沈黙が戻ってきた。それまでどこかにひっそりと身を潜めていたとでもいうように、するすると部屋中を満たしていくのが十九にはわかった。
 男性が自身の妹に視線を向ける。丹は男性が話している間もずっと女性に視線を向けたまま、何かを探っているようだった。十九は男性に倣うようにして女性へと視線を向ける。
 僅かに女性を包む白い布団が上下しているのがわかった。呼吸をしているのに声は響かない。十九はその現実に声はとても不思議なものだと思った。呼吸では伝わらない。ただ規則的なリズムを感じることができるだけだ。それに声が伴うだけで、全く別のもとになる。同じ器官を通って発せられるものが、声帯が振動しないというそれだけで意思は内側に閉ざされてしまうのだ。
「香坂さん」
 小さな声で隣の丹の名前を呼ぶと彼女ははっと我に返ったように十九に向き直る。
「どうですか?」
 訊ねると満面の笑みで丹は頷く。
「大丈夫」
 云って、丹の一言に向き直った男性に云った。
「全力を尽くしてピアニストの男性を捜し出してみせます」
 ヴォリュームは平素の丹のそれよりは小さなものだったが、響きの強さはいつもの丹のものだった。
 十九は男性と丹のやり取りを眺めながら、なんでこんなにも簡単に意思疎通がはかれるというのに女性はそれをやめてしまったのだろう。思うと奇妙な苛立ちが胸の片隅で燻りはじめるのがわかった。まるで死を望んでいるような女性の姿を男性は果たして知っているのだろうか。自分独りの喪失が誰かの命を奪うことになるなどと考えてもいないのではないだろうか。苛立ちが思い込みによって加速していくのがわかる。けれど止めることができない。募るのは男性への苛立ちだけだ。
 声を発することを止めて、男性の名前を呼ぶことさえも止めて、ただ待ち続ける彼女の姿を見せてやりたいと思った。目の前の現実を受け止めさせてやりたかった。こんなにも男性の存在を受け止めようと必死になっている女性が今ここで生きていることを見せ付けてやりたいと強く思う心は決して偽りではない。
 十九は思って、ゆっくりと席を立つ。
 そして男性に云った。
「必ずここに連れて来ます」
 その一言に男性は安堵したように吐息を漏らす。それは部屋を満たす静寂に呑み込まれてすぐに溶けて消えたが、十九の耳には確かに細い振動を残していった。
 ピアニストはきっとこの静寂を、この沈黙を知らない。
 今もどこかできっと溢れる音に、音楽に身を浸しているのかと思うと胸の内に燻る苛立ちがますます加速していくのがわかった。

【V】

「何かわかりましたか?」
「匂いをね、覚えて来たの。あの女性はずっとそれを覚えているんだもん、泣きそうだったよ。きっと彼女は無自覚なんだろうけどね」
 丹の言葉に、十九は目の前に広がる雑踏のなかにピアニストがいるような気がした。色とりどりの花が咲き乱れるようにして、別々の顔をした人々が行き交ってる。雑音が乱暴に空気を震わせ、醜い和音を響かせている。このなかにいる。思うと必ず見つけ出してやるという気持ちは強くなった。
「力をお分けしましょうか?」
「えっ?」
「だって、こんなに人がいるんだからあんまり集中すると香坂さんが疲れてしまうかと思って……」
 十九が云うと、丹は納得したように下唇を人差し指でなぞって、笑った。そしてそっと十九の左手を右手で包み込むと、小さく深呼吸をするのが気配でわかる。そしてそれが合図だったとでもいうかのように、緩やかに自分の力が丹に吸い上げられているのがわかった。植物が水を吸い上げるようにやさしく、丹は十九の霊能力を吸収していく。残されるのは柔らかな温かさだ。全身をやさしく抱き締められるような温かさに、十九は身を任せる。総てを投げ出してもいいように思うと、不意に丹が手を離した。
「充電完了!」
 云って、雑踏をかき分けるようにして歩き出す。十九は丹が残した余韻に僅かに足を縺れさせながら続く。
 果たして男性はどんな匂いでもって丹の嗅覚を刺激するのだろう。棘のような匂いだろうか。それとも自分が思っているよりももっとやさしい匂いでもって丹の神経に触れてくるのだろうか。
「珍しいよね。どうしたの?」
 不意に訊ねられて足を止める。少し先で振り向く丹は笑っていた。
「誰かのために一生懸命になるのって、珍しいよね」
 言葉にそうだろうかと思って、そうかもしれないと納得する。
 そして刹那の間に展開された自分の変化に、十九は言葉の強さを実感した。
 言葉は声となって誰かに届いてこそ意味があるのだ。
 思うと不意に女性の唄声を聴いてみたいと思った。あの細い躰の内側で響く唄声は果たしてどんな音で、どんな言葉で空気を震わせるのだろう。言葉で何を描き、何を表すのだろう。
「あっ……」
 丹が呟くように云って視線を向ける。その先では自動ドアが開いて、二人の子供が駆け出して来たところだった。それを笑顔で見送る長身の青年が、手を振る子供たちに応えてその姿が雑踏に消えるまでずっと見送るようにしていた。
「あの人だ」
 そして丹は小走りにその青年のもとに駆け出した。十九も後に続く。雑踏の中に響く雑音が後ろへ流れていくのがわかった。邪魔な音が一つ一つ、十九の周りから歩を進めるごとに切り落とされていく。
「ちょっと待って!」
 云って丹が掴んだ手の白さと細さに、十九は音楽を聴いた気がした。
「ピアノを弾いている人ですよね?」
 短い間隔で浅く呼吸しながら丹が問う。青年は不思議そうに小頸を傾けながらも細い声で、はい、と答える。
「あなたを捜していました。ずっと、あなたを、待っている人がいるんです」
 青年の顔が哀しみに染まるのがわかる。漏れた小さな溜息も、涙腺を刺激するには十分の哀しい響きで空気を震わせる。十九はその哀しい音に、本当にこれが女性の待つ人なのだろうかと思った。
「……独りでは駄目でしたか?」
 縋るように青年が問う。
「それはどういった意味ですか?」
 一息置いて丹が問う。それは十九も訊ねたいことだった。青年が女性の名前を云う。そして本当に待っているんですねと念を押した。
「待っています。ずっと、あなたが帰ってくるのを待っています」
 十九は云う。
 すると青年は再び哀しい溜息を漏らして、駄目だったんですね、と呟いた。
 そして十九と丹を促すように自動ドアを潜り、楽器店と思しき店内へと案内した。手短にここでピアノ講師として働いていると自己紹介をすると、再度女性の名前を確かめるように云う。その声はやさしさと哀しみに満ちて、どこまでも響いていくような深い響きを持っていた。
「……駄目だったんですね」
 十九が頷くことでそれを肯定すると青年は云った。
「僕が突然去っても独りで生きていけるのではないかと、これはある種の賭けだったんです。唄っている時の彼女は、引き篭もっていた頃のような暗さは微塵も感じられないほど生き生きしていました。だからもう僕がいなくても生きていけるのではないかと思ったんです。彼女のためにも、僕のためにも、一度離れなければならないと思ったんです。だから何も云わずに姿を消したんです」
「彼女は今口を閉ざし、病院のベッドの上です。医師も匙を投げています。もし今彼女を救える人がいるのだとしたら、それはあなた以外の誰でもないと思います。私は彼女のお兄さんに頼まれて君を捜していました」
 青年が小さく溜息をつく。それは呆れているといったようなものではなく、ただ切ない気持ちにやり場のなさを感じているようなものだ。
「僕たちは一緒にいるだけで幸せでした。でも彼女には僕しかいない。たとえ結婚しても、もし僕が彼女より先に死ぬことになったら彼女は独りぼっちになってしまうんです。それを考えると簡単にプロポーズなどできませんでした。だから彼女が独りでもやっていけるのかどうか、確かめてみようと思ったんです。……それが、そんなことになっていただなんて……」
 白く長い指に視線を落としたまま青年が云う。
 二人には離れる必要などどこにもなかったのではないかと十九は思う。
 青年の白く長い指に女性の呼吸が重なるのがわかったからだ。
 音楽が二人を繋いでいる。
 同じリズムでぴったりと寄り添うように生きている。
 そんな二人が離れる必要などあるわけないのだ。
「会ってもらえますか?」
 十九が云う。
 青年が頷く。
「僕が彼女の所へ行きます。明日、病院の前で待ち合わせをするということで大丈夫ですか?」
 青年の言葉に、十九と丹はばらばらに頷いた。
 きっと二人ならこんなにもリズムを乱すことはないと思いながら、十九は丹と共にその店を後にした。

【W】

 青年は薄い長方形の黒いバッグを肩から担いでタクシーで時刻どおりにやって来た。そして二人を急かすようにして女性の病室へ向かうと、室内を満たす静寂に刹那動きを止めた。依頼者が青年の姿に驚きを隠せない表情を浮かべている。それもそのはずだ。昨日の今日なのである。それも自分たちではどうすることもできなかった、警察さえも動かなかった人間をいとも簡単に見つけてきた十九と丹に不思議な視線を向けている。
 不意に硬質な音があたりに響いた。青年がローテーブルの上で黒いバッグを開ける。中から現れたのは電子楽器だった。それにはピアノよりは少し数の少ない白と黒のプラスチックの鍵盤が並んでいる。青年の白い手は滑らかにセッティングしていくのを、依頼者を含めた十九と丹の三人はただ眺めていることしかできなかった。少しでも躰を動かすことで、声を発することで総てが駄目になってしまうかもしれないことを悟っていたからだ。
 それくらいに不思議な空気が病室を満たしていくのがわかった。
 張り詰める緊張感にも似た何か。
 青年はただ黙々とセッティングを続けている。きっともう周りなど見えていないのだろう。
 もしかすると青年のなかは溢れそうなほどに音楽が満ちているのかもしれない。
 それが確信に変わったのは、最初の一音が響いた時だった。
 病室だということを思ってか絞られたヴォリュームだったが、発せられた音はまさしく音楽の始まりだった。女性がゆったりとそれに求めていたとでもいうように青年のほうに視線を向ける。青年はそれを微笑み受け止め、白く長い指で旋律を奏で続けた。
 滑らかな音楽。
 それはやさしく撫ぜるように空気を震わせ、室内の空気を温める。
 ―――唄を。
 声が聞こえたような気がした。
 細い声が響いたのはその時だ。
 息さえも潜めなければ聞こえないような小さな声であったが、それは確かに唄声だった。
 青年の白く長い指が声に寄り添う。
 それに答えるように女性の細い唄声が凭れかかる。
 二人には音楽だけでいいのだと思った。
 そう思わせる音楽で室内が満たされる。
 青年のなかに満ちていた音楽が室内に溢れ出し、瞬く間に室内を満たしていく。
 二人だけの音楽。
 それは哀しいまでに二人だけで完成されていた。
 依頼者が口元を手で押さえて女性と青年を交互に見る。その目は涙に濡れて、頬を滑り落ちる雫が陽光を反射させた。
 やさしい音楽。
 唄声は柔らかく、それに寄り添う旋律もまた柔らかなものだ。
 美しい音楽が空気を震わせる。
 言葉など無意味だと思った。
 少なくとも二人にとっては、言葉など無意味なのだと強く思わせる響きが青年と女性の奏でる音楽にはある。
 いつか残酷な何かが二人を引き裂くことがあるとしたらそれは永遠にこの音楽が失われる時だ。
 そう思ったのは十九だけではなかった。
 やさしく残酷な儚い音楽。
 それはいつまでも室内を震わせ、いつまでもたった三人の聴衆のために響き続けるようだった。
 けれど必ず終わりは来る。
 だからいつしか二人だけの音楽へと辿り着き、静かに幕が下りたその刹那女性が微笑みと共に云った。
「お帰りなさい」
 青年が微笑みで答える。
「ただいま」
 欠片だった二つがぴたりと符合する。
 恋愛。
 恋人。
 結婚。
 夫婦。
 単語が意味を失っていく。
 それほどまでに二人の繋がりも強さを感じるのは、室内を満たして溢れ出す音楽の余韻のせいだ。切ないくらいに誰かを恋しいと思わせ、誰かを愛したいと思わせる。目の前の二人のように誰かと繋がっていたいと思わせるには十分な温かく柔らかな余韻がいつまでも室内を満たしていた。






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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2794/秦十九/男性/13/万屋(現在、時計屋居候中)】

【2394/香坂丹/女性/20/学生】


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■         ライター通信          ■
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ご参加ありがとうございます。沓澤佳純です。
秦様から頂くプレイングはいつもとても書きやすく、とても秦様らしさが出ていてご参加頂けることを嬉しく思います。
この度のご参加、本当にありがとうございました。
今後また機会がありましたら宜しくお願い致します。