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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【永遠の狭間に響く唄声】

【T】

 有澤貴美子が愛車のホンダNSXを草間興信所の前に停車させて、颯爽と降り立つとふと辺りに散らばっていた視線が自分に集中するのがわかった。知的な顔立ちに寄り添うやさしげな微笑みの気配が貴美子の容姿を惹き立てる。軽くウェーブを施された茶色の髪が歩を進める度に肩のあたりで風を孕んで柔らかく揺れた。しかし貴美子はそんな視線を気にすることもなく、草間興信所のなかへと足を踏み入れる。
 所長である草間武彦とは昔馴染みだ。切っても切れない腐れ縁というものが影響してか、今も途切れることなく度々こんな風にして訪ねることがある。同じ業界に身を置いてあるせいだろうと思うことがあったが、自分の感情がそれよりも強く影響していることを貴美子は無意識のうちに自覚していた。
 相変わらず素っ気無いドアを開けると、すっかり顔馴染みになっている零があどけない笑みで迎えてくれる。武彦は相変わらず乱雑な事務机に突っ伏したまま微動だにしない。室内は彼が愛煙する煙草の紫煙に満ちて、視界が悪かった。しかし貴美子はそんなことはもう気にならなかった。乱雑な事務机も紫煙に煙る所内もいつも当たり前にそこにある。変わらないことが嬉しいのは矢張りどこかで武彦に対して好意を抱いているからだろうと思いながら、のっそりと顔を上げた武彦に微笑みかけた。
「相変わらずね」
 揶揄うような声に武彦が僅かに眉根を寄せる。
「おまえもな」
 声はまた来たかといったような気配を孕んでいたが、そのとおりなので貴美子は敢えて否定するようなことはしなかった。時折こうして訪ねるようになったのがどうしてなのかはわからない。退屈を覚えると自然にここに足を運ぶようになっていた。元来退屈を厭い娯楽を求めるからだと自己分析をしてみるけれど、別段ここに娯楽があるのかといったらそうでもないのが現実だ。ここにあるのは娯楽どころか怪奇事件ばかりである。まるで所長である武彦自身が呼び集めているかのようにして、常にここは怪奇事件専門の興信所のようにしてそういった類の事件ばかりが集まってくるのだった。武彦がそれを厭うているのは十分承知だ。彼はハードボイルと探偵を目指しているのである。しかし転がりこんでくる依頼はなんの因果か怪奇事件ばかりなのである。望みが果たされるのはいつのことやら、思いながら貴美子は云う。
「何か最近面白いことはあった?珍しく暇だったから様子見に来てみたんだけど」
「厭味か、それは」
 云う武彦の言葉を微笑みでかわす。
「行き詰まってるなら話くらい聞いてあげるわよ」
 貴美子の言葉に居眠りは止めたのか煙草に火を点けて、深く吸い込むとそれを吐き出しながら武彦は云う。
「声を失った女性がピアニストを待ってるんだそうだ」
「あら、珍しくロマンチックな依頼ね。正当な人捜しじゃないの」
「何を基準に正当って云うんだかは知らんが、行き詰まってるんだよ。手がかり皆無だ」
「お兄さんのやる気の問題じゃないんですか?」
 不意に零が云った。微笑みは武彦を揶揄っているようで、どこかで責めているようでもあった。きっと事情を知っているのだろう。貴美子は思って零に説明を請う。
 すると零は所長である武彦に承諾を得ることもなくするすると説明を始めた。丁寧で簡潔な説明は、依頼内容の中心を捉えたわかりやすいものだった。優秀な助手だと思う。いつかうちの事務所に引き抜いてやろうかと思いながら、武彦に向き直って云う。
「私が引き受けてあげるわ。その代わり、報酬は頂くわよ」
 零が説明を始めてからすっかり自分は関係ないといったように貴美子に背を向け、煙草を燻らせる武彦はそのままの姿勢でおざなりに片手を挙げた。それを了承の意味として捉え、貴美子はまずは基本の情報収集と思って零に鮮やかな笑みを向けて草間興信所を後にした。零がぺこりと頭を下げた姿から、本当に行き詰まっていたのだと思った。

【U】

 渋滞を避けるように混み合う道路を滑らかに愛車を走らせて、貴美子は依頼者の妹が入院するという総合病院を目指していた。頭のなかでは零から聞いた情報が丁寧に並べられ、これからどうすべきかを緻密に計算し始めている。
 零から聞いた依頼内容は簡単だった。依頼者は草間武彦を妹が入院している病院の一室に呼び出し、シンガーでありながら声を失ってしまった妹のために彼女の専属ピアニストであった男性を捜し出してほしいと云ったそうだった。手がかりとなりそうなものはピアニストの男性が特別有名なわけではないが、根強いファンを持つピアニストだということ。女性と共にステージに立っていた店は一店だけだそうで、もしかするとそこに行けば有力な手がかりが見つかるかもしれないと零は申し訳なさそうに云った。きっと零のそんな態度は情報量の少なさからきたものだろうが、貴美子にとってはそんなことはどうでもよかった。ない情報は集めればいい。それが本業なのだから、気にすることも不安に思うこともない。それに貴美子にとっては店が一店だけという情報だけでも十分なくらいなのだ。そこに行けば必ず有力な手がかりがある。そう思うとこの依頼は決して困難なものではないということがわかった。ただ気にかかるのは、武彦自らが依頼者に会っていることである。それでいてどうして動かないのだろうか。ハードボイルド探偵を目指していると云うわりには、どうも肝心なところが間違っていると貴美子は思う。それとも人を扱き使うことがハードボイルド探偵だと思っているのだろうか。そうだとしたら武彦は根本的に向いていない。小さく笑って、貴美子は駐車場に車を停めた。
 住所などいらなかった。手渡されたメモを眺めて思う。草間興信所から十数分で着いてしまったその病院は、誰でも知っているのではないかと思われる大きな病院なのだ。時折テレビでもその名前を耳にすることがあるくらいだ。
 思いながら玄関のなだらかなスロープを軽くヒールを鳴らしながら進み、滑らかに開く自動ドアに迎え入れられるようにして貴美子は院内へと足を踏み入れた。
 病院特有の消毒の匂いが鼻をつく。白衣姿の男性や女性。ずらりと等間隔に並んだ窓口。大きな紙袋を手にした老若男女。薄水色の簡素な装いの人々はきっと入院患者だろう。不審者にならない程度に軽く院内を観察して、メモに記された病室を目指す。この建物のなかではその場所以外に情報を得られそうな場所はないと判断したからだ。
 エレベーターホールは総合病院にしては閑散としていた。上を指し示すボタンを押して、箱が降下してくるのを待つ。程なくして閉ざされていた扉が自動的に開き、貴美子は空っぽのそれに踏み入れ、五階を示すボタンを押す。滑らかに上昇して行く箱。それは途中で停止することもなく五階に到着した。出て正面の壁に病室の位置を説明する看板が張り付いている。それで病室の場所を確認して、貴美子は淀みない足取りで廊下を右に折れた。そして目的のナンバーを掲げた病室の前で足を止める。
 ここか、思って控えめにドアをノックするとすぐに室内から応えがある。それに草間興信所から来ましたと答えて、病室内へと足を踏み入れると静寂に包み込まれるようだと貴美子は思う。
 そこは静寂に満ちていた。それまで院内に犇めき合っていた雑音が、音もなく背後で閉まったドア一枚に隔てられてしまったかのようにただ純粋な静寂だけがその部屋を満たしていた。声を発する事も憚られる。途方に暮れたようにしてドアの傍に佇んで動くことを忘れるほどにそれは絶対的で、視線だけが窓際に設えられたベッドの上に横たわる女性を捉えていた。僅かに傾けられた頭。視線は窓の外よりもずっと遠くを見つめているようだった。胸の上で組み合わされた手。捲り上げられた袖から覗く白い腕からは透明な点滴の管が伸びて、スタンドに吊り下げられた液体の入った透明な袋へと続いていた。
 依頼者の声が小さく響く。気を遣っている声の発し方だった。なるべく室内の静寂を保とうとするように、小さな声で話すことに努めているのがわかった。二人は無言のまま頷く。喉の奥まで静寂が満ちて、声を発することを遮断しているように上手く声を音にすることができなかった。声帯が干乾びてしまったような奇妙な喉の渇きを感じる。
 貴美子は依頼者に促されるようにして二人はベッドから少し離れた場所に設えられた簡素な応接セットのソファーに腰を落ち着ける。それは柔らかなスプリングで貴美子の躰を受け止めた。
「インスタントで申し訳ないのですが……」
 小さな声で云って、依頼者が貴美子の前にコーヒーの注がれたカップを並べた。それの底がローテーブルの表面に触れた刹那、響いた音はひどく大きな音として病室内に木霊したような気がした。
「お構いなく」
 だから自ずと答える声も小さくなった。
 どれだけの間沈黙していただろう。静寂に全身を侵食されるような心地で随分長く沈黙していたような気がした。女性は物音一つたてない。音という音を拒絶しているような気配さえした。どんな声で話すのだろうか。貴美子は痩せた女性の輪郭を眺めるでもなく眺めながら思う。あの声は誰のために響き、どんな言の葉を綴ることができるのだろうか。唄うことで何を伝えようとしていたのだろう。思うと神経は静寂の源であるような女性に集中し、目の前に腰を下ろす依頼者の男性の存在も忘れてしまいそうだった。
「……あの、本当に探して頂けるのでしょうか?」 
 依頼者が遠慮がちに訊ねる。落ち着きなく絡み合う指は不安の現れだろうか。思いながら貴美子は女性に向けていた視線を戻す。
「出来る限りのことはさせて頂こうと思っています」
 云うと依頼者の顔に安堵の気配が僅かにだが感じられた。女性を見つめていたいと思う心を押し殺して貴美子は問う。
「どうしてそのピアニストの方でなければならないのでしょうか?」
 女性を包む静寂をなるべく乱さないよう心がけながら云う声は本当に小さく、ささやかな音としてしか響かない。けれど依頼者はそういう会話に慣れているのか、一語一句間違えることなくきちんと聞き取ることができているようだった。
「彼は妹にとってただ一人のピアニストなんです。彼以外の人間な妹のためにピアノを弾いても、それは妹には届きません。だから彼でなければならないんです。何度も試しました。彼と似た音を奏でる人間を探したこともあります。それでも駄目なんです。妹は彼の音しか受け付けません。彼の音だけを認識しているのです。だからその彼が突然姿を消してしまって、動揺しているのでしょう。以前は彼がいなくとも手の届く場所にいるというのがわかったせいか彼以外とも話をしました。笑うこともありましたし、冗談を口にすることだってありました。……それが、彼が突然姿を消してしまってからというもの……」
 ゆったりと何かの軌跡をなぞるように向けられた依頼者の視線は女性の辺りを彷徨って、貴美子のところに戻ってくる。
「不愉快だとは思うかもしれませんが、できる限り詳しく聞かせて下さい。そのピアニストが姿を消した日のことや、彼に関することを。こうした人捜しでは些細なことがきっかけになるかもしれないんです」
 貴美子が云うと、依頼者は承知のうえだとでもいうように滑らかに言葉を綴った。
 ピアニストの失踪は突然のことだったというステージのある夜、いつもならリハーサルの一時間前には姿を現す律儀な男だったというのにその夜に限ってはリハーサルに現れることもなければ、ステージにさえ現れなかったのだそうだ。ステージは中止になった。ピアニストが現れなかったことで唄い手である女性が唄えなくなってしまったからだ。勿論連絡を取ろうとしたとも云った。しかし携帯電話は解約された後で、住んでいたアパートもその日の昼間に引き払われていた。彼を知る人々はそれぞれに連絡を取り合って必死になって彼を捜したが、彼の行方を知らされている人は誰一人としていないということがわかっただけだった。警察にも届けを出したと男性は云った。しかし状況からして事件や事故に巻き込まれた可能性が少ないとし思われたのか、有力な情報は得られていないという。
「ですから、最後の頼みの綱として草間興信所さんにお願いしたのです」
「わかりました。―――その男性のお名前と年齢、外見の特徴を教えて頂けますか?あともし写真などがあるようでしたらお貸し頂けると嬉しいのですが」
 貴美子が云うと依頼者は予め用意していたような滑らかな口調で男性の名前と年齢、外見の特徴を説明してくれる。その淀みない口調からこれまで何度となく繰り返してきたことなのだと思った。そして差し出された写真は、ステージでの打ち上げの写真なのだろう何人かの人間が映っていたがベッドで横たわる女性に寄り添うようにして映る長身の男性の姿を指差しで依頼者は、この人です、と云った。依頼者の云う特徴がぴたりと当て嵌まる青年だった。年格好も符号する。
「失礼ですが、女性の境遇やあなたとの関係は?」
 訊ねると依頼者は僅かに躊躇いを見せた後、小さな声で続けた。
「妹はずっと今で云う引き篭もりのような生活をしていました。元々あまり人と付き合うことが上手な子ではありませんでしたから、私でさえも妹との距離をはかりかねているところがありました。兄妹という関係ではありますが、決してその関係が良好だったとは云えません。けれど決して心配していなかったわけではないんです。だから彼のステージに連れて行ったんです。最初は外に出たくないと云いましたが、彼の演奏を聴いてから妹は少しずつ変わり始めました。彼がそんな妹を受け入れようとしてくれたせいもあるかもしれません」
「そうですか。……わかりました。できるだけ早くに彼を捜し出します。彼女の状態も決して良いとは云えないように思いますから」
 貴美子が云うと、依頼者は深々と頭を下げて、宜しくお願いします、と云った。その声からは途方に暮れた疲労感が色濃く感じられた。

【V】

『お電話ありがとうございます。草間興信所です』
 零の声が受話器の向こうから響く。
「有澤です。草間君はいるかな?」
『はい。少々お待ち下さい』
 移動中の車内。渋滞に嵌ったのをいいことに、貴美子は携帯電話から草間興信所に電話をかけた。手元には着実に情報が集まりつつあった。ピアニストが女性と共にステージに立っていたという店の場所も依頼者から聞いて所在が知れている。
『どうした?』
 不機嫌な声はまた居眠りでもしていたからだろう。
「仕事は順調よ。仮にも所長なんだから草間君、当然貴方も動くわよね?……こういう仕事を地道にこなしてこそハードボイルドでしょ?怪奇探偵が好きなら止めないけど」
 後半の言葉は挑発だった。それを武彦もわからないわけではないだろうが、不機嫌にも経過を説明するように促す。決して自分の苦労が無駄にならない程度に情報を提供して、依頼者の言葉を頼りにピックアップした今活動していそうなバーやクラブの名前を告げる。すると武彦は手身近に、当たってみる、と云って無駄な会話を続ける気もなかったようで電話を切った。短い会話の余韻だけが掌に残る。その根源をハンドバッグに押し込んで、貴美子は動く気配もない前の車をハンドルに凭れて眺めるでもなく眺めた。
 果たしてピアニストを見つけ出せたとしても相手は女性に会ってくれるのだろうか。
 それだけが気がかりだった。どんなに有力な情報を得られて所在を知ることができても、人間の感情は情報のように上手く操ることはできない。それが人捜しにおいて一番難しいことだということを貴美子は身をもって知っていた。相手に会う気がなかったらそれまでの苦労は水の泡なのである。依頼者にも責められる。仕方がないことだということは十分承知しているが、それでもプロとしてのプライドが少なからず傷つくことは本当だ。そして何より依頼者が哀しむ姿を見るのは辛いことだった。今回は特にそう思う。依頼者はきっとこれまでも何度となくそうした絶望を体験してきているだろう。女性もきっと体力的に限界の域に達しているのがわかる。それ故に今回ばかりは、どんな手段を駆使しても彼女にピアニストを会わせなければならないと思う。しかし危惧する心は晴れない。こればかりは会ってみなければわからないのだ。
 僅かに進んだ車列から外れるように、細い道に折れる。そして裏道を辿って駐車場に車を停め、ピアニストが女性と共にステージに立っていたという店に向かった。
 既に日が傾き辺りが夜に沈みつつある。貴美子は薄闇を縫うようにしてその店へと足を踏み入れた。裏路地に小さな看板を出しただけの小さなジャズバーはテナントビルの地下にあった。場末感が漂い、質素でありながらも設えられたテーブルやカウンターが漂わせる古めかしさが狭い店内の雰囲気を心地良いものにしている。きっと知る人ぞ知るといったような類の店なのだろう。カウンター席が六つ、四人掛けのテーブルが二つだけ、店の大部分を占めるのはステージの上のところどころ塗装の剥げた古いスタインウェイのグランドピアノだった。良いピアノだったが、最近それが奏でられた様子はない。横目にそれを確認しながら、貴美子はカウンター席に腰を下ろして上品な初老の男に声をかけた。
「マティーニを」
 店内には数人の客の姿がある。皆中年も半ばに差し掛かった者ばかりだ。初老の男は丁寧な口調で、かしこまりました、と云うと滑らかな仕草でステアの準備を始めた。そして程なくして目の前に差し出されたグラスは飾り仕上げにオリーブ、そしてレモンピールがスクイーズされたシンプルながらも洒落たスタンダードなもので貴美子を満足させた。
「この店にすごく素敵な演奏をする二人がいるって聞いたんだけど、今日はいないのかな?」
 グラスに口をつけて、さりげなく訊ねる。
 すると初老の男は申し訳なさそうにして、
「以前は当店で演奏しておりましたが、今はわけあって休業中なので御座います」
「ふーん。ねぇ、その辺の事情って教えてもらえないのかしら?」
 軽薄になりすぎない程度に、そして相手に警戒心を抱かせない無邪気な好奇心を滲ませて貴美子が云う。
「それはあちらのお客様方のほうがお詳しいと思いますので、宜しかったらそちらへお訊ね下さい。当店はそういった趣旨の店ですから、あちらのお客様も決して厭な顔はなさらないでしょう」
 ゆったりとした仕草は執事のそれを思わせるほど優雅だった。
 四人掛けのテーブル席には五人の客。男性が三人と女性が二人。貴美子はマティーニを片手に彼らに挨拶をして、ピアニストについて訊ねた。
「彼らも有名になったのね」
 短い髪の女性が云う。装いからして裕福な暮らしをしていることがわかった。
「あいつらがいなくなってしまってからこの店はつまらなくなったよ酒は相変わらず美味いけどな。やっぱりあいつのピアノとあの子の唄がないと物足りない」
 髪の薄くなった男性が云う。
「でも、あれだろ。まだどこかでピアノを弾いてるって」
「私も聞いたわ。噂の範囲だけどね」
 髪を肩のあたりで切りそろえた先ほどの女性より少し若い洒落た装いの女性が云う。
「噂でもいいんだけど、店の名前とかはわかります?」
「バーとかじゃないわよ。楽器店なの。教室も開いている店よ。講師として働いてるみたい」
「場所を教えてもらえるかしら?」
「えぇ、名前だけでもすぐわかると思うけど」
 そう云うと女性はハンドバッグから手帳を取り出し、走り書きのようにして店の名前と簡単な地図を書いてくれた。
「これからこの店を訪ねても営業時間には間に合うかしら?」
「あなた、ただの客じゃないわね。―――探偵さん?」
 教えてくれた女性が云う。しまったと思ったが女性はそんなことは気にしないといった様子で他の客に目配せして、
「本当のことを云って。私たちも二人を待っているの。捜してもらえるなら嬉しいくらいよ」
と云った。
「そう。なら本当のことを云うわ。ピアニストの彼を捜しているの。なるべく早く見つけたいのよ」
 貴美子が正直に云うと五人の客はそれぞれに小さく頷いて、
「そうなの……。まだ店の閉店時刻には間に合うと思うから、早く行ってみなさいよ」
と地図を書いてくれた女性が云った。
「あの二人は本当にお似合いの二人だった。恋人同士なのかと思っていたよ。どちらも口数の少なかったからその辺の話を聞いたことはなかったけどね」
 ずっと黙っていた男性が云う。決して嫌味ではない香水の香りが漂う。
「ありがとうございます。このお礼は……」
「彼らを連れて来て下さらない?」
 短い髪の女性が云う。
「事が上手く運べばという条件がつきますけど、それでもいいかしら?」
 五人はそれぞれに小さく頷いた。
 そして貴美子はカウンターの向こうで静かにグラスを磨いていたオーナーに礼を云い、店を出て、歩いて行ける距離だと思って足早に歩を進めた。大した距離ではない。けれど時間帯も時間帯なせいか、人通りが激しくその店に辿り着くまでには思いのほか時間がかかった。しかしその店は遠目にもすぐわかるほど眩しいネオンを掲げて大通り面して建っていた。貴美子は手にしていたメモを再度確認して、その店の自動ドアを潜る。
「こちらにこの男性がいらっしゃると聞いて来たのですが、ご存知ですか?」
 予め持ってきていた写真を提示すると女性は、
「えぇ、当店で講師として働いております。まだ残っていると思いますが、お呼びしましょうか?」
と極めて丁寧な口調で云った。頷く貴美子に、電話の受話器を取る。そして内線を繋いだのか、手短に捜していたピアニストの名前を云うと短いやり取りの後受話器を置いた。
「あちらにお掛けになって少々お待ち下さい」
 商談用とおぼしき簡素なテーブルセットを片手で指し示しながら、そういって深々と頭を下げる。
 貴美子は云われるがままにそこに腰を落ち着け、楽器と楽譜に埋め尽くされた店内を眺めるでもなく眺める。程無くして声が響いた。
「お待たせしました」
 云う声と共に現れたのは背の高い、穏やかな顔つきをした青年だった。白いシャツの上に黒のジャケットを羽織っているシンプルな格好が様になっている。
「僕に用事があるとのことですが、どういった……?」
「シンガーの女性をご存知ですね。あなたが専属でピアニストを務めていた彼女です」
 云った途端青年の顔が強張る。
「彼女が待っています」
「……独りでは駄目でしたか?」
 縋るように青年が問う。
「それはどういった意味でしょうか?」
「僕が突然去っても独りで生きていけるのではないかと、ある種の賭けだったんです。唄っている時の彼女は、引き篭もっていた頃のような暗さは微塵も感じられないほど生き生きしていました。だからもう僕がいなくても生きていけるのではないかと思ったんです。彼女のためにも、僕のためにも、一度離れなければならないと思ったんです。だから何も云わずに姿を消したんです」
「彼女は今口を閉ざし、病院のベッドの上です。医師も匙を投げています。もし今彼女を救える人がいるのだとしたら、それはあなた以外の誰でもありません。私は彼女のお兄さんに頼まれてあなたを捜していました」
 青年が小さく溜息をつく。それは呆れているといったようなものではなく、ただ切ない気持ちにやり場のなさを感じているようなものだ。
「僕たちは一緒にいるだけで幸せでした。でも彼女には僕しかいない。たとえ結婚しても、もし僕が彼女より先に死ぬことになったら彼女は独りぼっちになってしまうんです。それを考えると簡単にプロポーズなどできませんでした。だから彼女が独りでもやっていけるのかどうか、確かめてみようと思ったんです。……それが、そんなことになっていただなんて……」
「会って下さいますか?」
「はい」
「場所はどうなさいます?」
「あのバーで。―――彼女は外出できるような状態なのでしょうか?」
「大丈夫です。あなたが見つかり次第お兄さんが外出許可を取ってくれることになっています」
「それでは彼女の準備が整ったら連絡をいただけますか?」
 そう云って青年は住所と電話番号の記された名刺を差し出した。
「わかりました。あなたが彼女のことを捨てたわけではないのだとわかって安心しました」
 貴美子の言葉に青年が笑う。
「捨てられるわけがありませんよ。彼女は僕にとって大切な唯一の女性なんです」
 恥ずかしげもなく云う青年が微笑ましかった。


【W】

「見つかったわよ」
 携帯電話を片手に、以前二人が演奏していたバーの前で依頼者が女性を連れてくるのを待ちながら貴美子は云う。
『厭味を云うために電話してきたのか?』
「この電話の意味は草間君が勝手に解釈すればいいわ」
 云って貴美子は笑う。そして遠くに依頼者と女性の姿を見とめて、
「それじゃ、切るわ。これから素敵なステージなの」
『勝手にしろ』
 無愛想な声を聞いて、今度は貴美子が先に電話を切った。そしてこちらに向かって歩いてくる二人に視線を向ける。歩くのもやっとという状態の女性を伴って、依頼者は予定時刻どおりに現れた。女性はシンプルな白のワンピースに淡いピンクの薄手のカーディガンを羽織っている。ピアニストが見つかったという言葉が彼女に何がしかの変化をもたらしたのかもしれないと貴美子は思う。
「お待たせしました」
 依頼者の男性が云う。
「いいえ。予定時刻には十分間に合います。相手は先に来ていらっしゃいますから。―――足元にお気をつけて」
 最後の一言は女性に云ったものだった。貴美子と依頼者は女性を気遣いながらコンクリートの階段を下りて、バーの古びたオーク材のドアを開ける。涼やかにドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの向こうでオーナーが云う。そして貴美子と依頼者が連れている女性の姿を見え明らかに驚いた顔をした。以前情報をくれた馴染み客たちも同じ顔をしていた。ピアニストの青年が訪れた時も同じような顔をしたのではないだろうかと思いながら、グランドピアノに視線を向けると彼はそこが居場所であったかのようにそこにいた。
 その姿を見とめて女性の薄い唇から声が漏れる。
 青年の名前だった。
 青年は微笑みでそれを受け止めて、
「唄ってくれるね」
と云った。女性はゆったりとした足取りで青年に近づき、両腕を差し伸べる。青年はそれを拒むことなくそっと女性を抱きしめた。その手つきは壊れ物を扱うように丁寧で、やさしさに満ちていた。
 二人にはそれだけで十分だったのだろう。
 ピアノの傍らにはマイクスタンド。
「リクエストはありますか?」
 貴美子に向かって青年が問う。
「パティ・オースティンの『SAY YOU LOVE ME』をジャズアレンジで」
 貴美子が答える。
 すると青年はその意味を悟ったのか、僅かに顔を赤らめた。そして女性に確かめる。彼女は知っているわ、と静かに微笑んだ。
 その笑顔に貴美子はいつか彼女が独りになってもこの笑顔を見せることができるようになればいいと思う。そしてささやかな贈り物をするつもりで、そっとやつれた女性に光の精霊魔法を施した。柔らかな光が女性を包む。やつれた姿が僅かにだが薄暗い店内に淡く浮かびあがり、そのささやかな光の持つやさしさが女性本来の美しさを際立たせるようだった。貴美子はその姿に奇麗な人だと思う。そして自分の贈り物など本当にささいなもので、男性の存在が何よりも彼女を美しくさせているのだと思った。
 二人はリズムを合わせるように目配せをして、小さな頷きと共に演奏を開始する。
 ピアノの最初の一音が空気を震わせる。
 馴染み客達の間から溜息が漏れるのがわかった。
 和音。
 そして滑らかな前奏。
 女性がそれにあわせるように深く息を吸い込む。
 そしてマイクスタンドを支えにするようにしながらも、細い声で唄を綴った。
 ピアノのヴォリュームが女性の声をひきたてるように絞られる。
 ―――愛していると云って。
 女性が唄う。
 男性が答えるようにピアノを奏でる。
 二人の演奏はまるで生まれるもっと以前から繋がっていた恋人のようだった。
 カウンター席の片隅に腰を落ち着けていた見知らぬ客が二人の演奏に耳を傾けている。馴染み客もオーナーも、そして貴美子も同様だった。
 細く透き通るような声とそれと馴染む伴奏。ピアノの絃が震える。女性の細い声はそれに共鳴するように上手く馴染む。こんなにも二つの音が馴染むことがあるのだろうかと思うほどに、よく馴染んだ。聴衆を幸福にさせる演奏だと思う。女性の僅かな我儘とそれに答える男性のやさしさ。温かな温度でそれが伝わってくる。
 ―――愛していると云って。
 女性が唄う。
 答えは男性の奏でるピアノの音にあることに彼女は気付いているだろう。
 思って貴美子は演奏が終わってしまったことに僅かな心残りを覚えながら拍手を送った。
 場末の小さなバーのステージ。
 それは数少ない聴衆から送られる盛大な拍手によって幕を下ろした。




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1319/有澤貴美子/女性/31/探偵・光のウィッチ】


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■         ライター通信          ■
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初めまして。沓澤佳純と申します。
この度のご参加ありがとうございます。
有澤様はとても魅力的な女性で、きちんと探偵として描きたいと思って書かせて頂いたつもりなのですがいかがでしょうか。プレイングが生かしきれていない部分があって少々不安なのですが、少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
もしよろしかったら入手困難かもしれませんが、作中に出てくる曲を聴いて頂ければと思います。とても素敵な曲です。
この度のご参加、本当にありがとうございました。
今後また機会がありましたら宜しくお願い致します。