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「あやかし」と呼ばれたヴァイオリン
【XXX】
街角のヴァイオリン弾き、──ツィガーヌ。
枯れた金色をしたヴァイオリンから紡ぎ出されるロマンスの音色は、明るい抒情性と、彼らのような吟遊詩人特有の哀切さを併せ持っていた。何より、華やかなようで実際には卓越した技術を持つ演奏家ならではの艶やかな音色だった。
銀色の髪を緩く編んでシノワズリ色の強い服の背中に垂らした青い瞳のヴァイオリニストは、穏やかな表情を浮かべた目を軽く細めた。
足早な人間の通行が、彼の肩に掛かった緋色のショールを煽ってはためかせた。
彼のヴァイオリンは、きっと、大ホールで奏されたとしてもどこまでも伸びやかに響き渡るのだろう。徴収はその旋律に酔いしれ、歓喜を、涙を知る。
だがここは東京の街角、そこを行き交う人間達は何かに急き立てられたように秒刻みの時計の針を前へ前へと進める事を余儀無くされるのだ。世界中でもそこだけが早送りのフィルムのように、慌ただしい街。街角のツィガーヌのロマンスに足を留め、耳を傾ける余裕な無いのだ。
──例えばその演奏が、バッハのフーガやクライスラーの小品のようなヴィルトゥオーソ曲であれば? ここの通行人の奇妙な特性として、自らの時間をほんの少しだけ穏やかで輝かしいものに変えてくれるロマンスには気付きもしないが、エンターティンメントには敏感だ。きっと、彼の前には人垣が出来る。
だが彼はそうはしない。足許のヴァイオリンケースが空のままでも。或いは、そうした技巧曲を軽々と弾きこなす技量が彼にあったとしても。
──今日は、風が乾いている。
良い日だ。
ロマンスを弾き終えたヴァイオリニスト、──ラスイル・ライトウエイは空を仰いで笑みを浮かべた。
肩から降ろした楽器、彼の銘器、グァルネリ・デル・ジェスはコピーであっても、乾いた風の中に明るい音を響かせる。
こんな日には、ロマンスに酔いたいのだ。誰が聴くで無くとも。
──が、居たらしい。行き交う通行人の中にも、物好きな人間が。
■
ラスイルが視界の端に移ったその青年に対して感じた事と云えば、──出来るならその煙草の灰をここまで飛ばさないで貰えれば有り難い、という程度だ。
ロマンスを弾いていた時から、ややその調べに興味を向けるにはそぐわない人間の視線を感じてはいた。が、ラスイルは敢て彼には気付かない態度を取っていた。注意を向けた所で、どうなる訳でも無い。
──用があるならば、向こうから歩みよって来るだろう。
果たして、そのハードロック被れのような身なりに物怖じしない態度の青年は、演奏を止めたままのラスイルの前へ歩みよって来た。厭でも視線が交錯する。笑うと、片方だけが脱色した髪と々銀色をした青年の右目が目だった。
極自然に表向き、友好的な微笑を浮かべたラスイルに軽く会釈すると、彼は何気無い身振りでジーンズのポケットから引っ張り出した紙幣をヴァイオリンケースの中へはらりと落とした。
「……何か、弾いてぇや」
西のほうのアクセントだった。
「弾きますよ?」
物乞いでは無い。投げ銭に媚びる必要性を感じないもので、ラスイルはただ淡々とリクエストさえあれば応える、と応対した。
──ただ、それにしても……。
「──気に入って頂けました?」
パンクロックならともかく、この青年がヴァイオリン独奏のどこに奇特な興味を持ったのだろうという事だけはほんの少し、ラスイルの興味を引いた。
「さあ」
飄々と笑う青年はお世辞さえ口にせず、悪びれない。
「俺クラシックはよう分からんもん」
「……、」
「ただ、たまにはこういうのどかーな音楽もええかなあと」
──ラスイルの笑顔に、余程注意していても気付かない程僅かな警戒が浮かんだ。思惑のある人間のニュアンスだ。──だからと云って、恐れる必要は無いが。
ただ黙って相手の思惑に嵌まるのはほんの少しばかり、気に喰わない。
「何が良いでしょう?」
「ツィゴイネルワイゼン」
それしか知らんねん、とにこにこ笑いながら青年が云う。ラスイルは微笑み返した。
「生憎ですが、街頭のヴァイオリン弾きがミュートなんて気の利いた物は持ち合わせていないんですよ」
ミュート、……弱音器、ソルディーノとも呼ばれる、小さな部品の事だ。ツィゴイネルワイゼンには、極僅かであるが「Con Soldino」、そのミュートを付けて演奏するように、と指定された部分がある。厳密なオーケストラスタディでも無ければ、そこは演奏者の技術で音量を抑えて無視して差し支え無い程度の事だ。が、ラスイルは何故かそこにこだわってやんわりと拒絶した。
「……ほな、チャールダーシュ」
──にっこり、と、ラスイルはそれまでのやや思惑有り気な微笑を満面の笑みに変えて首を軽く傾いだ。
「──あなた、ヴァイオリンは詳しく無いって、嘘ですね」
「……何で?」
「ミュートが無いからツィゴイネルワイゼンは駄目、ならばチャールダーシュ、だなんてそこそこ詳しい人間で無ければ出来ないリクエストですよ」
「……似とるやんか、何か」
「似てますねえ。それだけに、何故チャールダーシュには、ツィゴイネルワイゼンには必要なミュートが不要な曲だなんて御存じなのです?」
「……、──さあなあ、……別に深い意味は無かったんやけど、そういうもん?」
「そういう物ですよ、あなた、実際には良くご存じのようですからお分かりになるでしょうけども」
「……、」
笑顔の消えた青年の右目が、挑戦的な輝きを以てラスイルを真っ直ぐに見据えていた。それに応じる西洋の吟遊詩人の青い瞳、──何の干渉を受ける事も無い、自由な人間特有の穏やかさ。
「どうでもええやん、……あかん?」
「別に構いませんよ? ただ、御都合があるのはそちらではないでしょうか。用があるならば、先に仰った方が良いと思いますけど?」
「や、だからな、何か弾いてー、って」
「──そうですか」
ラスイルはにこやかな表情のまま、軽く端正な面持ちを仰ぐように──殊更どうでも良いような──ボウのフロッグを眺めながら張り具合だけを気に掛けているような態度だ。
そうして、然りげ無いままに明瞭な声で留めを刺す。
「態々、こんな街角のヴァイオリン弾きに声を掛けるからにはそれなりの理由がある方だろうと思ったのですが、──違いましたか」
「……あー……、──降参」
■
「……、」
話を終えて歩き出した青年の、どうだとばかりネタっぽさ全開の「卍」の刺青が掲げられた後ろ姿に、哀切な中に情熱の秘められたパッセージが聴こえた。──ツィゴイネルワイゼン。
「……、」
青年が足を止めて振り返ったのは、その演奏が一介の、街角のヴァイオリン弾きには相応しく無い、崇高な程のテクニックと表現力を兼ね備えた物であったからだろう。が、次ぎに肩を竦めたのは恐らく、そのヴァイオリン弾きの楽器のテールピースと駒の間に然りげなく収まっているミュートの存在に目を留めたからだろう。
かち、と視線の合ったヴァイオリン弾きは「あ、ありました」とでも云った風だ。悪びれもせず。
「……何や、ごっつぅ人悪……、」
──特に、危険が強いとも思えませんし。
青年の置き土産、──「あやかし」のヴァイオリンとやら。
見物に行くのも良いか、と思ったラスイルの脳裏に、彼の存在が思い浮かんだ事は、本人に取っては或いは、大変な迷惑だったかも知れない。が、──まあ、お供させる人間は他には居ないし、ヴァイオリン弾きとしては良い経験になる、……かも知れない。
──……そうと決れば、
早速お誘いに伺いますか。
ヴァイオリンを手早く仕舞ったケースを片手に、ラスイルはとある病院へ向けて歩み出した。
【XXX'】
あの人なら恋人の安否くらい、自然と感じ取ってくれるだろう、だなんてそれは恋人への甘えというものですよ。
ほら、ちゃんと連絡は入れて置きなさい。
あなたを連れ出した私の、保護者としての責任まで疑われるでしょう?
特に今は家族の連絡が大切な時期なのでしょうし。
──あの子、……何だと云って結局、あんな倖せそうな顔で電話して。
以前は、あんな表情はしない子でしたが。
……まあ、批評を始めればきりの無い演奏でしたけどね、未だ未だ。
ヴァイオリンは特に人間の声に近い。感情の変化が音色に現れて当然ですから、……だとすれば、あの機械的な、人形も同然の演奏があれほど情感的に変化したのも彼のお陰なのでしょうね。
一度は、失望させられた弟子です。
あの人には感謝してもし足りませんから、……まあ、予定を変更して蓮が今直ぐ帰ると云っても、恋人に返すと思って黙って認めてやりましょうか。
私は、また漂うだけの事ですし。
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■ 登場人物 ■
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【2070 / ラスイル・ライトウェイ / 男 / 34 / 放浪人】
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■ ライター通信 ■
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香坂君を誘ったのがラスイルさんで、どうやらそのラスイルさんを呼び出したのはNPCであったらしいと云う。
在ろう事に香坂君のお師匠様に端から何を横柄な事をやっているんでしょうか。
NPCの罪という事にしておいて下さいませ(……)。
いえ、丁度曰くのヴァイオリンとそれに関わった故人の事を探っていて、街でラスイルさんの演奏を耳にしたらば目を付けない筈が無い、のだと思います……。
面白そう、と仰って頂いた割に面白いかどうか疑問です。
が御参加頂けて本当に光栄でした〜。
有難うございました!(逃げに入ったらしい)
x_c.
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