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「あやかし」と呼ばれたヴァイオリン
【XXX】
兄の結婚式も間近に迫った、──そう、祝祭の宴には相応しい、「スプリング」の季節。
その日は、風が乾いていた。
G・A・ロッカ、──今現在の彼の愛器、イタリアのモダンヴァイオリンも良く響いた。
そんな日は、楽器をケースから出して調弦を行った時点でどこか気分が良くなる。
楽器が響く、歌う──それが自然と出来る風が吹く事が、これ程の喜びである事も、少し前までは知らなかった。
春だ。
喜びの季節を、倖せを、近い未来にも今現在にも胸に抱えたこの一時を歌心の限り享受しようとしていた、そんな時でも──。
災いは、不条理な程に突然に、こちらの都合は御構い無しにやって来る。
■
──全く……、
「……選りに選って温泉……、……何が悲しくて温泉……、」
「──何か云いました?」
くるり、と振り返った師、ラスイルは輝かしい程の邪気の無いように見える笑顔だった。
「……いや、云わない」
──その笑顔が、その実どれだけ恐ろしいかをも蓮は良く分かっていた。ええ、それはもう身に染みて。身体で覚え込ませられたと云うべきか、ヴァイオリン演奏と同じ程度には。
「結構です」
ラスイルがあっさりと、上機嫌なままで再度歩き始めたので蓮はほっと息を吐いた。
手を出すとすれば、──肩や腕では無い、それは演奏に差し障る。だとすれば、顔に来る筈だった、容赦の無い平手か、悪ければ鉄拳が。
それだけは避けたかった。
……無論、ヴァイオリニストとしては手は何より大事だ、死守するべき物だったが、彼の身体の事情でやむなく東京へ残して来た恋人の許へ帰還した時、みっとも無い顔を晒して彼の瞳を曇らせたくは無い。
蓮の肌は、東洋系にしてはやや色が白い。当然、打撲傷も痣になり易い訳だった。敏感になって仕方が無い。
──それにしても、何故温泉、とは、もう2度と口には出すまいが矢張り絶望的な声で問いたくもなる。
先日、再会したばかりの師が、わだかまりが溶けたと思ったらその余韻も抜け切らない内に「温泉に行きましょう」と笑顔で誘った(強制的にね)時には流石に面喰らった。
この人の感覚は……どこまで俺の理解の範疇を超えているのだろう、と。
不意に、会話の中でその事を話してしまった悪友からは「有り得無ェ」と笑われるし、──彼にはせめてものささやかな報復に「弟もどき」から貰ったペンギンの着包み(はい?)を強制的に押し付けて来てやったが、だからと云って気分は晴れても「門下の旅行が温泉」の謎が晴れる訳は無い。
本当に、何故温泉なのだろう。
ただ立ち寄ってみたいだけならば、ツィガーヌ──放浪人の師の事だ、独りで旅の途中にでも足を留めれば済む話だろうに。
今、蓮の肩には愛器、G・A・ロッカを修めたヴァイオリンケースのストラップが掛っている。それは師も同じ事で、……まあ、彼の場合、旅の道連れはヴァイオリン、は極自然な事なのだろうが。
わざわざ蓮を連れるからには、何か……そう、特別研修合宿のようなつもりで居るのだろうか。
然し、執着こいが、何故温泉。
多分……温泉宿であるからには旅館なのだろう。確か、旅館は洋風建築のホテル等とは違い、個室の仕切りも障子であったりしてセキュリティは緩い筈だ。それだけ、G・A・ロッカのような銘器を携えた蓮の気苦労も増す。本当に、せめてホテルかどこかならば未だ良かったのに。
何があっても、師の目の前で楽器を紛失するような事だけは避けなければならない。──以前、風邪から来る微熱に浮かされて、不明瞭な意識の中で行き付けの喫茶店に楽器を置き忘れた(+その事で殴られた)経験をしている蓮の背筋に、その記憶が冷たいものを連れて訪れた。
──ともかく、楽器にだけは気を付ける事だ……。
■
「見えましたね」
鬱蒼とした木々の影の先に、それらしい建物が姿を現した。
「……中国風だな」
目を細めてその外観を認めた蓮は意外な気持ちがした。温泉、というだけに和造りの旅館だろうと思い込んでいたのだが、その広大そうな、華麗な建物蓬莱館は紛れも無く中国様式である。
──……もしかして、だから来たかったのか……?
ちらり、と横目で普段からの、白いシノワズリ風の衣装を纏った師を眺めて蓮は考えてみたりもした。
……案外、中国物に敏感なのだろうか。
ともあれ、先の心配は少し軽減して良いだろう。──と、そう蓮が肩の力を抜き掛った所だった。
「……!?」
──瞬間、背筋に走った悪寒、どこか耳障りな……倍音というのでも無いが、クラシック音楽を主にしている彼の聴覚には相容れない類の人の声と……、……何より、空気の密度の急激な変化。
異様な湿気だ。それに、硫黄の匂い。──さっきまでは、あれ程爽やかに乾燥した風が吹いていたのに、……これでは銘器も存分には歌えまい。
「……う、」
蓮は思わず自らの肩を抱いて地面に膝を付いた。
「……、」
無論、その変化はラスイルにも理解されていた。──飄然とした風を取り繕った、明るい微笑みは一瞬にして彼の面から消え、その代わりに眉と口唇の端がきゅ、と持ち上げられた。
「……結界ですね、」
【XXX'】
……俺だが。
ああ、今着いた。連絡が遅くなって済まない。
……いや、別に。……違うさ、確かに「連絡しておけ」とは師に云われたんだが、……それはその、……あなただったら、俺の安否も何となく感じとってくれるんじゃ無いか、……そう思って。……それは、甘いか?
……いや、嬉しかった、話が出来て、……声が聞けて。
……、
……あ。
矢っ張り、今から帰る。
え? ──いや、ちょっと、さっきの事を思い出して。
あなたに聴いて貰いたい曲があるんだ。
そう。
今直ぐ聴いて欲しい。
今直ぐにでも、あなたの為に歌いたい。
……ラス? ……大丈夫だ、……目的はもう果たしたようだし。
今、そっちの風はどうだろう。
……ああ、良く響きそうだ。
待っていてくれ、今直ぐにここを出る。
勿論、ヴァイオリンも忘れないで、な。
これが無いと、俺は歌えないから。
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■ 登場人物 ■
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【1532 / 香坂・蓮 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト】
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■ ライター通信 ■
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御参加、有難うございました……と、今はそれよりも、おめでとうございます、と祝福の言葉を述べたいと思います。
水曜日ですか。
設定で、「クロイツェル・ソナタ」の単語を見付けた事が何故かとても嬉しかったのでした。
……あ、某ですがペンギンの着ぐるみを片手に「弟もどきとやらの顔が見たい」とぼやいています(笑)。
それでは、大切な時期ですので特に御自愛下さいませ。
x_c.
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