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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


永遠の狭間に響く唄声

【T】

 ランチタイムも過ぎて、閑散とした店内を眺めるでもなく眺めながら山際詠子は草間興信所の所長の妹である零から聞いた言葉をなぞっていた。夫が淹れてくれた紅茶の香りが失われていくのが惜しいと思いながらも、それから気をそらすことができない。
 声を失ったシンガー。
 失踪したピアニスト。
 まるでいつかの自分のようだと詠子は思う。しかし決定的に違うのは、詠子が現在夫と共に過ごす幸せな生活のなかにいるということだ。声を失って、ただただ辛かったあの日々から救い上げてくれたのは誰でもない夫だ。一定の距離を保ちながらも、今でもいつもどこかで詠子のことを気にかけていてくれる。柔らかでほっとさせる瞳に何度救われただろうか。今も夫は詠子の背にさりげなく視線を投げかけながら、考えごとに没頭する彼女をそっとしておいてくれる。その温かさが背中に染みる。
 零が云うには声を失った女性はただただ専属のピアニストだった男性を待っているということだった。女性にとってピアニストの存在は自分のように救いだったのだろうかと思って、詠子は不意にどちらが本当に救われていたのだろうかと思う。確かに自分は夫に救われたかもしれないが、夫もまだどこかで自分の存在に救われているのではないかと思うことがあるからだ。右足に負った消えない火傷の痕を目にする度に思う。家族を大切に思う彼の心は瞬く間に失われてしまった家族を思ってのことなのかもしれないと。だからといって夫の気持ちを疑うわけではなかったが、淋しいような気がすることがあるのだ。
 自分に捜し出すことができるだろうか。詠子は思う。もし自分に捜し出せるのだとしたら、総てが明らかになるような気がした。夫の気持ちもそして自分の気持ちも、他者を介在させることで幸せにほんの僅かなほころびを生む不安を安堵に変えることができるのではないかと思うのだ。
 冷めてしまった紅茶を一口含んで常に持ち歩いているノートを開き、手に馴染んだペンで思いつく限りの電話番号と名前を勢いに任せて書き連ねた。それは親戚であったり、歌手時代の友人らの連絡先だ。音楽業界というものは広いようで狭い。そして音楽家というものは常に他の音楽家を意識しているものである。それを知っているからこそ、詠子はそこに情報の糸口を求めた。無数のナンバーの記されたページを破り取って、席を立つ。
 するとそれを待っていたように背後から名前を呼ばれた。耳に馴染んだ、夫の柔らかな声だ。
「どこかへ行くなら車を出すよ」
 微笑みは相変わらず穏やかだ。しかし詠子は夫の言葉に甘んじることを拒むようにゆったりと頸を横に振った。
 自分で捜し出したかった。夫に頼めることは一つだけだ。声を失った自分に代わって電話をかけてもらう。それ以外に夫に頼むことはしないと決めていた。
 声が失われるということはひどくもどかしいことだ。滑らかに自分の気持ちが相手に伝わらない。それを肌で実感する度に、伝わらないことが相手の苛立ちから感じられる度に、どうしてと思った自分の過去を思い出す。顔も知らない彼女を放っておけないと思う理由があるとしたら、そんな自分の過去の体験からくる思いのせいだろう。
 手短に説明をして店を出る詠子を見送る夫の声はやさしく背中を押してくれる。頑張っておいで。やれることだけのことやって、満足できるならそれでいいよ。そう云ってくれているような気がする。
 店を出て、鳥が滑空する抜けるような青空を見上げて詠子は女性に会いに行こうと思った。会って確かめることがあるような気がしたからだ。

【U】

 女性の居場所はすぐに知れた。草間興信所を訪ねると、零が簡単なメモにして所在を明らかにしてくれたからだ。バスで行くのがいいだろうということまで云ってくれた。丁寧にお礼を云って、云われたとおりのバスに乗る。すると零の言葉どおり数十分で目的の場所へと辿り着くことができた。
 聳え立つという形容が相応しい総合病院。車止めに寄り添うようなスロープを辿り、滑らかに開く自動ドアを潜って詠子は無数にある病室のなかのただ一つを目指して五階へと昇った。
 音という音を総て吸い込んでしまうような白い廊下を行く。ざわざわと無数の音が犇いているのがわかる。こんなにも煩い場所で、静寂に身を浸した女性は何を想って独りの存在を待ち続けているというのだろうか。思いながら目指していた病室のドアをノックすると、小さな声で応えがあった。それを合図にドアを開けると、依頼者だと云う男性が短い言葉と共に詠子を室内に迎え入れてくれた。
 そこは静寂に満たされていた。背後で閉まったドアが総てからその病室を隔ててしまったかのように、一切の音という音が病室という空間からは排除されているようなほど完璧な静寂がその病室の総てになっていた。耳の奥が痛むような気がする。詠子は思いながら依頼者に促されるままに簡素な応接セットのソファーに腰を落ち着ける。そして予め容易していたノートの一ページを開いて依頼者の前にそっと差し出した。そこには自分が話せないこと。しかし耳は聞こえているのだということを記してあった。すると依頼者は声を発することもなく、たおやかに手で言葉を綴った。
 ―――手話は大丈夫ですか?
 大きな手が訊ねる。
 詠子は微笑んで頷く。
 そして依頼者と同じようにして手で言葉を綴った。
 ―――簡単な会話しかできませんけど。
 ―――十分です。私も基礎的なものしわかりません。妹のために覚えたのですが、彼女には手話さえも届かないようなんです。
 物音一つ響かない病室のなかで無音の会話が交わされる。滑らかに動く依頼者の手から紡ぎ出される言葉を受け止めながら、女性は声だけではなく言葉さえも拒絶しているのだということに詠子は気付いた。何がそこまで彼女を追いつめたのだろうか。そして専属のピアニストだったという男性は、果たしてこんな状況にある女性のことを知っているのだろうかと思う。後者の答えは簡単だった。きっと知らない。だからこの病室を訪れることもなく行方を眩ましたままなのだ。
 依頼者は基礎的なものしかわからないと云ったが、感情豊かな手の動きで女性の状況がひどく困難なものであるのかを詠子に教えてくれた。淀みなく動く手はきっとこれまで何度も女性に対して言葉を紡ぎ続けてきたのだろう。幾つもの言葉を、閉ざされた心の奥に届けようと必死になっていたのだろうと思いながら、詠子は問う。
 ―――何も手がかりはないんですね?
 依頼者が頷く。そして女性とピアニストの関係を簡単にだったが、説明してくれた。
 女性は一切を拒絶するように年月を重ねてきたそうだった。総てが無意味だとでもいうように内側に篭り、総てを拒むようにしていたところにピアニストと出逢ったのだそうだ。まるで自分ようだと思いながら、詠子は依頼者の手が紡ぐ言葉に視線を注ぐ。哀しみをたたえる手が綴る言葉は切迫していた。不意にそれが途切れる度に、依頼者は窓辺に設えられたベッドに横たわる痩せ細った女性に視線を投げかけた。
 窓の外に視線を向けたまま、女性は静かに横たわっていた。点滴の管が伸びて、それだけが唯一彼女と現実を繋いでいるように見えた。それが抜き取られたら息絶えてしまうのではないかというほどに、女性は帰ってくるであろう独りの他の総てを拒むようにしてそこに横たわっている。痩せた顎のラインが頸のあたりに濃い影を落としている。
 ―――妹を救えるのは彼だけなんです。彼以外のピアニストでは駄目なんです。
 依頼者の手が云う。
 詠子はそれだけで十分だというように頷いて答える。
 ―――出来る限りのことはさせて頂こうと思っています。ご期待に添えるかどうかはわかりませんけれど……。
 依頼者が安堵したように細く息を吐いた。
 そして声に出して云った。
「どうか、妹のためにもよろしくお願い致します」
 深々と頭を下げられて、詠子はそれまで依頼者がどうして手話で話していたのかを知った。
 依頼者の声と共に痩せた肩が怯えるように震えるのが視界の端に映った。
 そしてこの静寂だけが今女性をこの世に繋ぎとめている唯一のものなのだということに詠子は気付いた。

【V】

 病院を出てすぐに詠子は自分が知る限りのバーや小劇場が犇く一画へと足を向けた。都会の死角といったような場所にそれらは犇きあって、軒を連ねている。神志那詠子として唄っていたあの頃に知ったバーや小劇場ばかりであったが、それらはもう唄えなくなったあの頃に感じた苦痛を感じない場所へと変わっていた。唄うことができなくなってからはずっと厭うてきた場所だったが、今は違う。懐かしさすら感じることができるようになった。それはひとえに夫のおかげだ。
 何軒ものバーや小劇場を巡り、有力な手がかりも見つけられないままに詠子が帰宅すると、夫は手がかりになりそうな情報が見つかったと云って一枚のメモを渡してくれた。歌手時代の同僚が心当たりのある人物を知っていたというのである。満面の笑みでそのメモを受け取り、飛び出すようにしてもと来た道を詠子は行く。途中、大通りでタクシーを拾って、夫から手渡されたメモを見せると詠子の焦りを覚ったのか混み合う道を避けるように目的の場所へと送り届けてくれた。タクシーを降りて、裏路地へと足を踏み入れる。そして最後の望みを託すようにしてひっそりと佇むレトロな趣の小劇場の入り口を潜った。ビルの地下にあるそれは、以前友人が唄うということで一度だけ来たことのある場所だった。無愛想な初老の男性が勝手にしろとでもいうようにホールに続くドアを開けてくれる。それに小さく頭を下げるということで礼を告げて、詠子は薄闇のなかに横たわる少数の客席に埋められた小さな空間に足を踏み入れた。
 小さな音が響く。
 完璧に調律された四四〇ヘルツのA。
 腕のいい調律師がついているのだと思って、音の源に視線を向けると静かに佇む青年の姿があった。どこか物憂げな雰囲気が彼を包んでいる。薄闇のせいもあるかもしれない。思いながら客席の間を縫って、ステージに近づくと詠子の存在に気付いたのか青年が顔を上げた。
「今日のステージはありませんよ」
 やさしい声が云う。
 詠子は手にしていたノートに滑らかに文字を綴って、事情を説明する。自分の声のこともそこには含まれていた。しかし青年は気の毒がるような気配を見せるでもなく、客席の一つを指し示して詠子に座るように促した。
「彼女の待っているピアニストというのは間違いなく僕のことです」
 青年の声はひどく落ち着いて、僅かな感情もないようになだらかに響いた。
 ホールのなかに残響が満ちる。そのなかで詠子は慌ててペンを動かした。紙面をなぞるペン先が紡ぎ出すのは無数の文字だ。それは詠子の声であり、言葉である。唄い手にとって声を失うことがどれだけ辛いことかということ。それまでの想いで女性は青年を待っているのだということ。溢れるようにして文字になるそれは、乱れながらも詠子の心を青年に伝えるには十分のフォルムで瞬く間に紙面を埋め尽くしていく。青年はそれを覗きこむようにして文字を追いかけ、それが紙面を埋め尽くしていくにつれてだんだんとその表情を曇らせていった。
 ―――どうして彼女のもとを去ったのですか?
 詠子が問いと共に文字を綴ることを止めると、青年は細く息を吐いて云った。
「出逢って、その先に永遠があるなんていうのは幻想なんです。必ず別れはやってきます。だからどんなに僕が彼女と一緒にいたいと願っても、どんなに彼女を大切に想っても、そうした残酷な現実からは逃れられないんです。だから彼女が独りでもやっていけるかどうか、それを確かめるために姿を消しました。あなたは残酷だと思うでしょう。でもこれは僕なりの賭けだったんです。それに負けた後に何があるのは十分承知していました。最も不幸なことだって考えなかったわけではありません。けれど自分が遺されるならそれはそれでよかったんです。彼女が独り遺されることに比べたら、それはどれほど幸福なことでしょう。―――彼女が独りで生きていけるのなら、それもまたそれで僕は良かった」
 腿の上で組み合わされた長い指は先端が丸く、節くれだってピアニストらしい指をしていた。
 ―――本当に?
 問うと青年が微笑む。それはひどく哀しいものだった。
「どこかでは嘘かもしれません。でも、彼女を僕という独りの存在に縛り付けることは幸福である反面ひどく不幸なことでもあるんです。僕は彼女が幸せであればそれでいいんです。彼女だけが幸福であれば、他の総てを捨てられる。彼女がいたから僕はこうしてピアノを弾き続けていられるんですから……」
 ―――それなら彼女が唄うことをやめてしまった不幸の理由もおわかりのはずですよね?
「さすが音楽をやっていた方だけありますね」
 青年は微笑む。その瞳は僅かに潤んでいるようだった。
「……総ては僕のエゴです。僕は彼女を救ったわけじゃない。彼女に救われていただけです。だから彼女がいつか自分から離れてしまうかもしれないことを思うと、怖かったんです」
 伏せられた睫毛をうっすらと涙が濡らす。それを見とめて、詠子は言葉を綴った。
 ―――私もあなたのように思ったこともありました。けれど今、夫と過ごす日々はとても幸福です。失うことに怯えるよりももっと強く幸福を感じることができます。失くしたものは簡単には戻りません。けれど乗り越えることはできるんですよ。
 綴りながら詠子は、きっと夫もそうして今の生活を得たのではないのだろうかと思った。喪失を乗り越えて、今傍で幸福に笑ってくれるのではないかと思うとなんだか胸の奥が仄かな温かさが生まれる。
 青年は滑らかに綴られた詠子の文字を何度か視線でなぞってステージのピアノに視線を向けると、それよりももっと遠くを見つめるようにして云った。
「……彼女に会わせてもらえるでしょうか?」
 ―――彼女はあなたを待っています。
 心こめるようにゆっくりと文字にして青年に手渡すと、それに視線でなぞった青年は微笑みを浮かべて云った。
「ありがとうございます」
 その声の響きから待っていたのは女性だけではなかったのだということを詠子は知った。

【W】

 不意に防音のための分厚い扉が開く。眩しいほどの光は薄暗いホールに細い道を描くように滑り込み、扉の傍に佇む二人の影を濃くした。
 詠子はタイミングが良いと思った。
 静かに腰を落ち着けていた青年が咄嗟に席を立つ。
 そして呟くようにして女性の名前を音にした。
 夫に支えられるようにしておぼつかない足取りの女性がゆっくりと歩いてくる。閉まった扉が再びホールを薄闇のなかに浸して、足元を淡く照らし出すライトだけが女性の足元を明らかにしていた。古びた絨毯に吸い込まれて足音さえも響かない。青年が手を差し伸べる。その大きな掌に重なるのは白く痩せた、小さな女性の手だ。
「よく来れたね」
 青年が云う。
 女性が小さな頭を僅かに傾けて微笑む。
「少しずつ一緒に歩いて行こう。肩を並べて歩いていけるところまでずっと、出来る限り一緒にいよう」
「ありがとう」
 女性の声が微かに空気を震わせた。
 詠子は夫の傍らでそれを聞いていた。そして自分は山際詠子なのだと思った。神志那詠子はもう随分遠い。ふと仰ぎ見ると夫であり、山際の姓をくれた新が柔らかな瞳で詠子を見ていた。その肩に寄り添うようにそっと頭を寄せると温かな手が肩を抱き寄せてくれる。声のないもどかしさは、いつだってこの手が癒してくれた。それを再確認するように肩に触れた手に手を重ねて、詠子は胸のなかで呟いた。
 ―――ありがとう。
 いつか自分が声を取り戻すことができたなら、一番にそう云おう。目の前の二人のように言葉を交わしあえる日がきたら、真っ先に夫にありがとうと伝えよう。心をこめて、これ以上ない響きの音に変えてその言葉を伝えようと思った。
 青年が女性を支えるようにしながら詠子に云う。
「お礼に一曲演奏させてもらえませんか?彼女の唄と僕のピアノを聴いてもらいたいんです」
 二人が頷くのを合図に、青年に伴われて女性がステージに立つ。そして手短に青年と音を合わせると、柔らかな前奏に続いて細い声がホールいっぱいに響いた。
 透明な声だった。
 しかし無機質な透明さではなかった。
 心満たされるような温かな音楽。緩やかに心に沁み込み、穏やかな感情を余韻と共に残していく。
 きっとこの音楽は二人だけのものだ。一つの音楽を二人で共有することで、二人は二人だけの永遠を築くことができるだろう。たとえそれがいつか必ず終わるものだとしても、聴衆がいる限りそれは永遠だ。音楽は演奏家によって完結するものではない。それは詠子自身が良く知っていた。
 ホールいっぱいに響く音楽。
 それは永遠の途中で刹那に瞬く星の瞬きのように美しいものだった。




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2968/山際詠子/女性/23/喫茶店マスターの妻】

【2967/山際新/男性/25/喫茶店マスター】


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■         ライター通信          ■
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初めまして。沓澤佳純と申します。
この度はご参加ありがとうございます。
唄というものを前面に押し出すことができるプレイング内容でとても楽しく書かせて頂きました。
新様との関係が上手く書けていればと思います。
少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
それではこの度のご参加、本当にありがとうございました。
今後また機会がありましたらどうぞ宜しくお願い致します。