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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


永遠の狭間に響く唄声

【T】

 何が妻の心の琴線に触れたのだろうかと思いながら、香り立つ温かな紅茶を淹れて妻の前に差し出すと心ここにあらずといった体の妻が小さく頭を下げる。常なら微笑を向けてくれるというのに、今日は何かがおかしかった。草間興信所の所長の妹である零と言葉を交わしてからずっとどこか一点を見つめて考え事をしているのである。
 しかしだからといって夫である山際新は何を考えているのかといったことを問い詰めるようなことはしなかった。静かに妻のほうから話してくれるのを待つだけである。しかし一抹の不安は拭い去れない。何が影響しているのかわからなかったが、妻が何がしかの形で失われてしまうことに怯えている自分がいることは確かだった。親兄弟を火事というもので一度に亡くしてしまったからかもしれないと思いながら、考え事に没頭する妻の小さな背中を見つめる。
 しばらくすると妻はすっかり冷めてしまったであろう紅茶を一口含んで、常に持ち歩いているノートを開いて愛用のペンをさらさらと動かし始めた。ブラウス越しにわかる肩甲骨の動きから、よほど焦っているのだということがわかった。しかし何をそんなに焦っているのかはわからない。
 しばらくそんな妻の後姿を眺めていると、不意に彼女が立ち上がる。そしてそっと静かに新の前に立つと、手短に事情を説明する文章と夥しい数のナンバーが記されていた。その傍らには寄り添うように店名や小劇場の名前らしきものが寄り添っている。微笑んではいたが、どこか縋るような目に強い力が感じられた。
 何がそこまで彼女を駆り立てるのか。疑問には思ったが、あえて訊ねるようなことはしない。したいことをすればいいと思うからだ。干渉したくないというわけでもなければ、過干渉を恐れるからでもない。駆け出して行きたいのなら駆け出していけばいい。ただそれが行き過ぎた時だけ、そっと窘めてやればいいというのが新の妻に対する想いである。
「どこかへ行くなら車を出すよ」
 微笑と共に云うと、妻はゆったりと頸を横に振った。
 その姿から自分でなんとかしたいという強い確信が感じられた。だから新は自分が任されたことだけを引き受けて、そっと妻の小さな背中を見送った。
 そして手の中に残されたメモに視線を落とす。そこには平素の妻の文字とは似ても似つかない乱れた文字が並んでいる。その文字の乱れに、よほど強く心動かされたのだろうことがわかった。声がなくともわかる。言葉はいつも文字に還元されてもその意味に感情を孕むのだ。そんなことを妻と交わした無数の会話のなかから新は知った。声になった言葉は音になって振動が止まったその時に終わる。しかし言葉が文字となって紙面に記された時は永遠ともいえる時間のなかに残されるのだ。
 声を失ったシンガー。
 失踪したピアニスト。
 その二つが新の視線を釘付けにする。妻は自分を重ねているのだろうことがわかる。まだ神志那の姓を名乗っていた頃の妻の苦しみがどれほどのものだったかはわからない。しかし重ねた言葉の数だけ、妻の心は静かに癒されていったことだけはわかる。出逢ったばかりの妻と今の妻では同じ妻であっても、別人だ。穏やかな微笑も。おっとりとした柔らかな雰囲気も、過度のストレスによって声を失ったあの頃の妻にはなかったものだった。
 新は妻が無理をしなければいいと思いながら、紙面に綱らなる文字の番号に電話をかけるべく受話器を取った。

【U】

 それが何軒目の電話だったかはわからない。妻が残したメモのナンバーも終わりに近づいた頃、妻の同僚だったという女性が妻の捜すピアニストを知っているかもしれないと電話の向こうで云った。そのささやかな一言に一縷の望みを託すように新は問う。
「それがどこかわかりますか?」
『小劇場よ。目立たない小さな場所。多分、詠子なら名前を云うだけでわかると思うんだけど、住所も教えたほうがいいかしら?』
「お願いします」
 云って、メモの用意をして肩と頬で受話器を挟むようにして女性が告げる住所を書き記す。そして丁寧に感謝の言葉を云って、受話器を置くと同時に妻のいそうな場所に検討をつけて虱潰しに電話をかけた。しかしどの店も妻が訪れた形跡はあっても、妻自身の姿はなかった。ひどく急いでいる様子だったと誰もが云った。その理由はわかっている。誰よりも自分自身がよくわかっていると新は思う。
 だから居ても立ってもいられずに店を閉めて、妻のメモに記されていた女性が入院しているという病院へと車を走らせた。待っていれば妻は戻るだろうという確信があった。そして誰もいない店に有力な情報を得ることもできないまま妻が帰宅したらという危惧もないわけではなかった。しかしそれ以上に、何かをしなければいけないという思いのほうが強かった。どんなことがあっても妻よりも先に店に戻る。そう自身に誓って、車を病院の駐車場に滑り込ませた。そして駆け出すように車を降りて、車寄せに寄り添うなだらかなスロープを駆け抜け、滑らかに開く自動ドアを潜った。
 病院特有の消毒の匂い。落ち着いているようで慌しい気配。白衣。薄水色の病院着。それらの間をすり抜けて、新はただ一つの病室を目指して歩を進める。五階へと昇るエレベーターがやけにゆっくりと昇っていくように感じられたのは、気持ちが焦り、落ち着きを失っていたからだろう。
 しかしそれも女性の病室へと一歩足を踏み入れた刹那に溶けて、消えた。
 軽くノックをして、室内から響いた応えに従ってドアを開けるとその向こうにはただ絶対的な沈黙だけが犇いていた。背後で閉まったドアが世界から病室を隔ててしまったかのようにさえ感じられた。
 依頼者とおぼしき男性が心配そうに新を見ている。新はそれにはたと我に返り、丁寧に挨拶をした。そして女性と話をさせてほしいと云うと、席を外したほうがいいかと問うので、どちらでもいいと答えた。すると男性は新にスツールを勧めて、静かに病室を出て行った。出て行きかけてふと思い出したように新を振り返る。
「違ったらすみません。―――先程いらした女性とはご夫婦ですか?手話で話しをしたんですけれど」
 新は微笑んで頷く。
「ご夫婦で、妹のためにありがとうございます」
 男性は丁寧に頭を下げる。新はその姿に女性のためだけではないとだと胸の内で呟きながら答える。
「いいえ。他人事だとは思えないだけなんです」
 そして病室には二人だけになった。新はベッドサイドに設えられたスツールに腰を下ろして、遠くに視線を投げたままこちらを向こうともしない女性の横顔を見る。太陽の光の下でそれはひどく蒼白く、血管が透けて見えそうだった。細い腕からは点滴の管が伸びている。針を刺すことさえ躊躇われるような細い腕に、いつかの妻の姿を思い出していた。
「……俺の妻もクラシック歌手だったんですよ」
 遠い昔のような記憶。
 セピアに色褪せた大学のキャンパスを思い出す。
「今は声を失ってしまっていますけれどね」
 どうしてあの時声をかけたのか。きっかけはただ気にかかって仕方がなかった。それだけだったということを今更ながらに思い出す。
「妻とは大学で知り合いました。あなたほどのっぴきならない状態ではなかったんですけれどね。それでも今にも消えてしまいそうな気配でベンチに座っていたんです。あの姿は今でも思い出すことができますよ。あのまま放っておいたらきっと、あなたみたいになっていたのかもしれません」
 鮮やかな昼間の陽光の下で、妻は総てに絶望したようにして俯いていた。濃い影が地面に焼き付けられ、今にもそれに吸い込まれてしまいそうなほど果敢無い雰囲気でもってそこにいた。
「最初はただ何か力になれはしないだろうかと思って声をかけました。傲慢だったかもしれません。人が人を救うなんてことが果たしてできるのか、今幸せな日々を送っていても疑問に思うことがあります」
 新は一度に押し寄せてきた喪失の記憶を思う。瞬く間に炎に飲み込まれていった親兄弟の姿は、忘れように忘れることができない。頭の片隅に焼きついて、永遠にそこにとどまり続けようとするかのように鮮明だ。どんなに手を伸ばしても救うことができなかった。目の前にあったものが瞬く間に失われてしまったその瞬間の自分こそ、一番無力だった。右足に残る火傷の跡がそれを照明するように今も強く深く根付いている。
「けれど、多くのものを失くしたことしかなかった俺にとって妻という存在がとても救いになっていたんです。可笑しい話かもしれませんね。救うつもりで声をかけた人間が、逆に救われていると思うなんて。―――でも、そんなものだと思うんですよ。人が人を救うということは。救ったつもりになりながらも、どこかで救われているのは救おうと思った自分なんです」
 最初はぎこちなかった筆談がだんだんと滑らかになるにつれて、新のなかで詠子という存在は大きなものになっていった。忘れることのできない。失うことのできない存在になっていったのだ。言葉の数だけ妻は自分に心を開いていってくれるような気がしたからかもしれない。現に妻は言葉を重ね、多くの文字を綴り続けるなかでゆったりとその心を開いてくれた。曇りがちだった表情に穏やかな微笑が戻り、柔らかな声が響くのではないかと思うほど鮮やかな笑みさえ浮かべることができるようになっていた。
「何も失ったことがないという人間なんていない筈です。失うことに怯えながらも、人は何かを求めて生きていくんだと思うんです。今は妻がいるからそんなことが云えるのかもしれませんけど、彼女と過ごした時間は俺にとってとても大切なもので、これからもずっと守っていきたいと思うものです。あなたにとって今失われてしまっているピアニストの方が俺にとっての妻のような存在なら、一度自分から彼に会いに行ってみたらどうですか?あなたは彼に救われていただけだと思っているのかもしれませんが、もしかすると彼もあなたに救われていたんじゃないかな」
 新が話している間も、女性は微動だにしなかった。けれどその耳が閉ざされているという確証もどこにもなかった。
 しばらくの間、女性の横顔を見つめていた。そこに変化が現れることはなかったが、新は次を約束するために言葉を綴る。
「妻があなたのピアニストを必ず見つけだしてくれるでしょう。そうしたら迎えに来ます。それまでに心の準備をしていて下さい。俺の経験なんかじゃあなたの人生には役立たないかもしれませんけど、失ってもいつか必ず傍にいて微笑んでいてくれる人が現れると思いますよ」
 そうして病室を出ると、新が出てくるのを待っていたのか壁に凭れていた男性が咄嗟に姿勢を正した。
「妹は、何か話しをしましたか?」
 切実な声が問う。
「いいえ。でも、きっと声は戻る筈ですよ。信じてあげて下さい。支えあいながらじゃないと生きていけない人もいるんです」
 答えて、新はピアニストが見つかったら女性の外出許可を取ってもらえるよう約束をして、病院を後にした。

【V】

「お帰り」
 云うと途方に暮れ、疲れきったといった体の妻が力なく微笑んだ。
「見つかったよ」
 云ってメモを差し出すと、疲れ曇っていた妻の瞳に光が戻る。メモの住所を視線でなぞり、新に向けられた微笑みは感謝を言葉にするよりも明らかに彼女の心を物語っていた。
 そしてメモを片手に飛び出していく背中を再び見送って、新もその後に続くようにして車のエンジンをかけた。向かう先は決まっている。
 病院だ。
 女性を迎えに行かなければならなかった。
 妻が向かった先には必ずピアニストの男性が居る筈だ。
 そんな妙な確信があった。
「度々すみません」
 云って病室のドアを潜ると、男性は明るい表情で見つかりましたか?と訊ねる。
「はい。―――お連れすることになるんですが、大丈夫ですか?」
「すぐにというわけにはいきません。でも、妹に声が戻るなら……」
 云って男性はこっそり病院を連れ出してくれるように新に云った。
「どうしますか?」
 新が女性の傍らに立って問う。
 すると女性がゆったりと顔をこちらに向けた。その表情は初めて自分のことを自分の言葉で表した妻の表情によく似た仄かに明るいものだった。それを肯定の意味として捉え、新は準備をするように促し廊下で待っていると云って病室を出た。
 程無くして女性がおぼつかない足取りで病室を出てくる。彼女が身に纏っているのは白いシンプルなワンピースだ。痩せすぎているせいか、少しサイズがあっていないようだったが知らぬふりで廊下を歩きぬければ、気付かれることはないだろう。思って、新は女性と共に病院を抜け出し、女性をサイドシートに乗せて車を発進させた。
 大きな通りから細い道に入り、妻の同僚が教えてくれた小劇場の近くの駐車場に車を停めて、女性を気遣うようにしながら小劇場を目指す。新の腕を支えにするように歩く女性の手は震えていたが、その瞳には不安よりも強い別の光が宿っているのがわかった。
 きちんと自分の目で確かめればいい。
 その先に絶望しかなくとも、それが現実だということを認めることができれば先に進むことができる。
 思って新は小劇場のドアを潜った。守衛に事情を話し、妻が先に来ている筈だというと守衛は快く入場を許可してくれた。安っぽい絨毯の敷き詰められた通路を通って、ホールに続く扉の前に立つ。防音のための扉は厚く、重たくそこで空間を遮断していた。
「大丈夫ですか?」
 新が問うと、女性ははっきりと頷いた。
 そして自らそっと重たい扉に手を伸ばす。それを手助けするような格好で新も手に力をこめると、それは内側に向かってゆったりと開かれる。
 薄暗いホール。
 そこには二人の人影。
 一人は妻。
 もう一人は見知らぬ青年だった。
 女性はその青年に引き寄せられるように新の腕を支えにしてゆっくりと歩を進める。背後で閉まった扉がホールを薄闇のなかに浸して、足元を淡く照らし出すライトだけが女性の道しるべだった。古びた絨毯に吸い込まれて足音さえも響かない。女性に向かって青年が手を差し伸べる。その大きな手に重なるのは白く痩せた、小さな女性の手だ。
 新の腕を離れる。
「よく来れたね」
 青年が云う。
 女性が小さな頭を僅かに傾けて微笑んだ。
「少しずつ一緒に歩いて行こう。肩を並べて行けるところまでずっと、出来る限り一緒にいよう」
「ありがとう」
 女性の声は微かに空気を震わせた。
 ふと気付くと妻が寄り添うように立っていた。穏やかな雰囲気が寄り添う心地良さに柔らかな視線を向けると、妻が新を仰ぎ見る。そしてそっと頭を肩に寄せるので、新は当然のようにその肩を抱き寄せた。触れることで確認できる。失われていないことがわかる。それだけでいい。今はここにある山際詠子という女性が一人、いてくれればいい。それだけが幸福だと思う。ただそこにいるだけで癒してくれる。この存在の重みはいつもやさしく新の肩に触れてくる。
「お礼に一曲演奏させてもらえませんか?彼女の唄と僕のピアノを聴いてもらいたいんです」
 青年が云う。
 新は詠子と同時に頷いた。それを合図に青年に伴われて女性がステージに立つ。そして手身近に青年と音を合わせると、柔らかな前奏に続いて細い声がホールいっぱいに響いた。
 透明な声だった。
 しかし無機質な透明さではなかった。
 心満たされるような温かな音楽。穏やかに心に沁み込み、穏やかな感情を余韻と共に残していく。
 きっとこの音楽は二人だけのものだ。一つの音楽を二人で共有することで、二人は二人だけの永遠を築くことができるだろう。たとえそれがいつか必ず終わるものだとしても、聴衆がいる限りそれは永遠だ。音楽は演奏家によって完結するものではない。それは妻から教えられたことだった。
 ホールいっぱいに響く音楽。
 それは永遠の途中で刹那に輝く星の瞬きのように美しいものだった。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2968/山際新/男性/25/喫茶店マスター】

【2968/山際詠子/女性/23/喫茶店マスターの妻】


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■         ライター通信          ■
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初めまして。沓澤佳純と申します。
この度はご参加ありがとうございます。
奥様である詠子様との関係、新様ご自身の過去との折り合いのつけ方、そういったものを上手く表現できているか不安なのですが、少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
それではこの度のご参加、本当にありがとうございました。
今後また機会がありましたらどうぞ宜しくお願い致します。