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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


Selection ≫ June bride

■序章 〜胎動〜

 雨が降っていた。
 昼過ぎから降り出した細かい雨は、新緑に萌える櫻並木を静かに包み込む。
 時間の判断がしにくい光の加減。人工的な輝き放つ携帯ディスプレイで時間を確認すれば、夕方6時を少し回ったところ。
 逢魔ヶ時とも言われる不可思議な時間。厚い雲の向こうに追いやられた遠い空は、おそらく茜色に染まっていることだろう。
 そんな見えない空を見たくなり、傘の下からひょいっと顔を出す。
 不意に目の眩むような感覚。一瞬暗転した視界が回復した直後、己の目にした光景に思わず足を止めた。
 ひらり、ひらひら。
 世界に舞うのは薄い紅。
 降り続ける雨はそのままに、冷たい雨ゆえか重力に逆らえなくなった櫻の花弁が、道を覆い尽くさんばかりに敷き詰められている。
「な……?」
 咲き誇る満開の櫻。突然の変化に呆然と立ち竦むしか術がない。
 状況を把握しようと、未だ跳ね続ける心臓の音を聞かないふりをして、周囲の様子に気を配る。そして気づく――視界の端、道の傍に傘も差さず蹲る一人の女性の姿。
「どうしよう……あれがないときっと嫌われる」
 綺麗にセットしてあったのだろうこげ茶の髪は、先端から透明な雫を滴らせ頬に張り付いていた。
「大事なものなのに。どうしよう、どうしたらいいんだろう。なんで見つからないの?」
 時間をかけて塗ったのであろう櫻と同じ薄紅色のマニキュアは、爪の先端からぼろぼろと剥がれ落ちている。しかし、その女性はそれを気にする様子はまったくなく、飾るもののない白い手で地面をぺたぺたとなで続ける。
 その様子があまりに必死に見えて、何をしているのですか、と自分の身に起きた事を棚に上げ、彼女にそう問い掛けようとした時、再び変化が起こった。
 薄紅が消え、濃緑がその存在を主張する。
 先ほどまでと同じ世界。
「おや、面白いものを見たようだね」
 突然背後からかかった声。蹲っていた女性から取って代わったように、忽然と姿を現したのは紫の女。季節的にまだまだ早いスリップドレスに身を包み、鳥肌一つ立てずに嫣然と微笑んでいた。
「どうした、別段不思議に思うことはないだろう? お前は今、ここにあった誰かの残留思念に触れただけなのだから」
 そう言うと、女はさらに笑みを深くする。
「お前は誰だ、という顔だね。名乗るくらいはしようか――私の名は紫胤、運命の選択を促す者。小難しいことは感覚で分かっておくれ、私は時間を取られるのが嫌いだからね」
 と、その刹那。世界が三度目の変化に揺れた。
 先ほどまで歩いていた櫻並木が続く道は消え、遠くに聞こえていた喧騒も気配一つしない。
「ようこそ、私の領域へ。せっかくだから一つ話をしよう……そう、先ほどの女性の話だ」
 何もない筈の場所に腰を下ろし、優雅に足を組み、紫胤はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「あの女性の名前は菅谷・香苗(すがや・かなえ)。ちょうど27歳になったばかりで、この6月に昨年の10月に婚約した男と結婚するはずだった」
 はずだった――過去形が意味することは、つまりは現在はそうでない、ということ。
「香苗は3月の末、自ら命を絶ってしまったのだよ。家から程近い廃ビルから身を投げてね」
 遺書さえ残されていなかった彼女の突然の死に、周囲は彼女の死の原因に何一つ思い当たることがなく、ただ深い悲しみにくれるしかなかった。
「彼女は何かに嘆いていた。その悲しみという心の闇に巣食い彼女を死へと誘った者がいたんだよ……常識と言う枠を越えた『人』ではない者が」
 そこまで話し終えると、紫胤はゆっくりと立ち上がり「なぜ、私がそんなことを知っているかとは訪ねるのではないよ」と小さく笑う。
「香苗の両親、そして婚約者だった男は今尚深い絶望の底に沈んだままだ。どうだ、香苗が死んだ当日という並相世界へ転移して彼女を救ってみる気はないか? 幸せになるはずだった未来を現実にしてやろうとは思わないか?」
 語り終えた紫胤は、薄いガラスケースに収められた一枚のメモを差し出した。そこに書かれていたのは先ほど歩いていた場所からそう遠くない住所と、ゲームセンターらしい店舗の名前。
「助けたい、そう思った者はそこへ行けばいい。そこで門番が待っている」
 ゆらり、と気配が揺らぐ。目の前の紫色の女が姿を消そうとしているのだ、ということを悟り、意識したわけではなくなぜか瞼が落ちた。
「あぁ、そうだ。言い忘れたが、『魔』は誰の目にも見えない――彼女の心の闇に巣食っているのだからな。だが本体は別にある。そちらは目鼻の効く者なら見つけることも倒すことも出来るだろう。
 だが、それだけで全てが解決するわけでは――」
 最後の言葉は、傘を叩く雨音に邪魔をされ聞きとることは出来なかった。
 開けた視界の向こうに続くのは、緑の並木道。しかし手にしたままのメモが、今起こったこと全てが現実であることを伝えていた。


■第一章 〜始まりの門〜

 冷たい雨が頬を叩いていた。
 細く降り続くそれは、思っていた以上に鬱陶しく花房・翠の視界を邪魔する。
「不幸になるはずの人を幸せにか。なかなか面白そうじゃねえか……」
 バイクを走らせるにはあまり良いとは言えない天候に少しうんざりして、ふらっと路肩に愛車を止めヘルメットを脱いだ瞬間、それは翠の目の前に姿を現した――そう、菅谷・香苗の残留思念。
 それからの一連の出来事。その日常を超えた出来事に、翠の胸は高鳴りを押さえることが出来なかった。
 『紫胤』と名乗った女に手渡されたガラスケース入りのメモ。受け取った瞬間のことを反芻し、翠はにやりと口の端を挑戦的に持ち上げ笑う。
 触れたのは指先だけだった。
 見るからに曰くありげな女だったから、意図的にその思考を読み取ろうと、わざとらしくならない程度に伸ばしたのに。
「ん? 何か」
 必要以上の艶を帯びた唇が、予想外の出来事に一瞬驚きの表情を隠せなかった翠の顔を覗き込み、嫣然と微笑んだ。
「いや……なんでもない」
 答えは嘘。否、正確には真実。
 何もなかった、のだ。何かあるはず、だったのに。
 思い出し、翠は差していた傘をたたみ、直に雨に顔を晒す。ジャーナリストの感性を刺激する出来事の前に、熱りを帯びた頬に先ほどまではうざったさしか感じなかった水滴が心地良い。
 翠には、触れた相手の思考を読み取る能力がある。その能力ゆえに傷付き苦しんだことも少なくないし、他人の想いに引き摺られ自我を崩壊させそうになったことさえあった。
 しかし、それはもう『今』のことではない。
「思考の見えない女。そして『過去』という『並相世界』とやらの『転移』」
 接触を試みた紫胤の心は、何も映してはいなかった。いや、映していたのかもしれないが、翠には読み取ることができなかった。その代わり、何故かつい先ほどまで知りもしなかった筈の言葉に、すんなりと納得している自分がいる。
 それはつまり――彼女の能力。
「いい記事、書けそうじゃないか」
 世間に信じてもらえるかは、自分が体験してみれば分かること。
 そう考えると、自然と表情は何かに挑むように鋭く、それでいて楽しげなものになる。
 スタイリッシュに整えられた濃い茶の髪に、雨粒が吸い込まれて消える前に、紫胤に触れた手で髪を掻き混ぜ水滴を飛ばす。弾かれたそれらは、街灯の光を様々に反射させながら、放物線を描きながら落下していく。
「それに――触れた残留思念から『救える』ってのが、いいじゃないか」
 最後の呟きは、排気音に掻き消され翠の耳にさえ届かなかった。しかし、それこそが彼をこの事件に駆り立てる最たる理由だったのかもしれない。
 降り頻る雨の中、翠は指定されたゲームセンターへとバイクを疾走らせた。


「ようこそ、俺の空間へ」
 それは紫胤がして見せたのと、ほとんど同じような出来事だった。
 彼女に導かれた者が全員揃った瞬間、それまではにこやかにゲームに興じていた一人の少年の表情が一変し、手にしていたガラス製の大鎌を振るう。
 ただそれだけのアクションの直後、それまではありきたりのゲームセンターだった店内が姿を消し、現れたのは蛍光色の光が明滅を繰り返す巨大な門がある不可思議な空間。
 しかも、他にいたはずの店員や客の姿も忽然と消え失せていた。
「改めて名乗ろうか。俺はゲートキーパーと呼ばれてる。その名の通り、この門の番人なわけだけど」
「別に、あんたの自己紹介なんてどうでもイイよ。それよりさっさと案内してよ。こんなとこでブラブラしてるほど、オレらも暇じゃないんだよね」
 軽く自己紹介、と微笑んだゲートキーパーに季流・美咲が、見た目は快活そうな笑みそのもので、そう言い切る。どうやら彼にとってうんちくはどうでもいいことらしい。
「おや、そんな急くなって。これから大事なこと説明するんだからさ」
「大事なこと?」
「そーそ。これからあんた達にはこの並相転移門ってのを潜ってもらうわけなんだけど、事前説明ってのと、注意事項があってね」
 何かしら、と首を傾げたシュライン・エマにゲートキーパーがにっこりと歩み寄る。そして背後から、そっと彼女の腕を取り、目の前にある巨大な門を指差させた。
「理屈は分からなくていい。イメージだけは紫胤に吹き込まれてきてるだろうから、俺は説明しない。ただ、あの門を潜るためには一つの宣誓をしなくちゃいけないんだ」
 言いながら、少年は取ったままのシュラインの手を、今度は彼女自身の胸元へと運ぶ。
「今からあんた達は、データという存在に分解され、望む世界へと移動する。その時、一部のデータが取っ払われる――新しい世界に適用しやすいように、ね」
「何かを失う、ですか。ならば宣誓するのはどの能力を失い……そして、そうですね。新しい世界ではどんな能力を得るか、というところでしょうか」
 独り言のように、斎・悠也は自分の中にあった『答え』を口にした。何故、自分がそんなことを思いついたかは分からないが、それがこれから起こることだと彼は確信していたのだ――否、この場にいる人間全てが。
「はい、良く出来ました」
「って、いつまで人を人形代わりにしてる気かしら?」
 悠也から返った言葉に、にんまりと笑いながらシュラインの手で拍手しようとしたゲートキーパーだったが、それは振り払われて不発に終わった。
「あっはは、悪い悪い。俺も年頃のオトコノコだから綺麗なお姉さんには触りたくなるんだよな。可愛い女の子とはプリクラ撮ったしさ」
 軽く一度肩を叩いてからシュラインの元を離れ、ゲートキーパーは空間を泳ぐように移動しながら、八雲・純華にウィンクつきの笑顔を投げる。
 あまりに気障ったらしい行動に、香坂・蓮はうんざりと天を振り仰いだ。しかし、そこに広がるのは際のない永遠に続くように思われる漆黒の宙。それはここが『現実』から切り離された空間であるという事を、言葉で説明するより雄弁に物語っている。
「ともかく、だ。俺らはお前に向ってそれを言えばいいわけ、だよな」
 何もないはずの場所に背中を預けた花房・翠が『面倒なことはさっさと片付けてしまおう』とばかりに話を切り上げにかかった。正直、何が起こっているのかは理解しがたい。しかし、先ほど見た紫胤が何もない場所に座ってみせたように、ある、と思ってやったら出来たのだ――背中を何かにもたれかけさせる事が。
 つまり、ここはそういう世界。
 常識で物事を推量ることの出来ない場所。
「そゆこと、だな。んじゃ、早速行って来て貰おうか。時は2004年3月27日。菅谷・香苗が命を絶ったその日、だ」
 少年がゆっくりと門へと手を伸ばす。
 すると、その門は自ずと外側へと開き始めた。
 その向こうに広がるのは、TVノイズのような磁気嵐にも似た光景。
「迷うなよ。迷子になっても俺は助けになんか行かねぇからな――ゲートキーパーの名において並相転移門を潜る者達に問う。シュライン、汝のPUTする力は何か? GETする力は何か」
「PUT、温感。GET、直感力」
「斎、あんたは」
「PUT、先見の力。GET、時を10秒止める力」
「花房だっけ、あんたは」
「PUT、味覚。GET、優れた嗅覚」
「了解。そこのヴァイオリニスト、次はあんただ」
「……PUT、左目の視力。GETは高い聴力」
「おっしゃ、んじゃ純華」
「え? あ、はい。PUTは声。GETは心に話しかける声です」
「じゃ、最後だ。そこのでかいガキ。お前は?」
「ガキっていうヤツがガキだって知ってるか? PUT、痛覚。GET、超常の存在に触れる力」
「よし、それじゃ行って来い。そこで成せ、自分の選択を」
 宣誓の直後、有無を言わせぬ力場が発生し、己の意志とは無関係に巨大な門に体が吸い寄せられていく。
 そして門を潜った瞬間、視界は完全にホワイトアウトし、聴覚はその役目を一切放棄してしまう。
 ただ残されたのは、奇妙な浮遊感だけだった。


■第二章 〜飛び去る蝶〜

 雨が降っていた。
 幾重にも重なりアスファルトの大地を冷たく濡らしたそれは、柔らかなオレンジ色の街灯の光を無感情に反射している。
 ちらりちらり、と雨に混ざり降ってくるのは薄紅の花弁。
「寒いですね。大丈夫ですか?」
 周囲の様子を注意深く窺いながら、悠也が近くに立っていたシュラインに傘を差し伸べた。そうされて、シュラインは初めて自分の手にも傘があったことに気付く。
「なんというか……本当に唐突ね」
 ありがとう、と微笑んだシュラインは自分の傘を天に向けた。パタパタと雨粒を弾くその音は、とても聞きなれたもの。けれど彼女は自分の身を覆う不慣れな感覚に、しきりに首を傾げる。
 寒いのか、暑いのか。全く分からないのだ。頬に触れてくる大気の流れが、皮膚をするりと撫でていくだけに感じるのが、なんとも気持ち悪い。
「確かに、日付は変わってるな。それに服もさっきまでと違う」
 携帯電話を取り出した蓮が、ちらりとそのディスプレイに視線を落し溜息をつく。着衣に乱れなどはないが、先ほどまで着ていた梅雨時期前のものではないそれは、間違いなく冬の終わりに着ていた自分のものだった。
 そして見上げる先には満開の桜。
 つい先ほどまでいた『現実』では、とうに散ってしまったはずのそれ。
「にしても、厄介だな」
 悠也に倣い周囲を見渡した蓮が、その違和に口の端を歪める。左の視力がない分、遠近感がつかめないのだ。微妙にふらつく足元がなんとも心もとない。
 こんな世界にいつも彼の人は身を置いているのだ――そう考えると、胸の深いところが疼き出すような感覚に囚われる。
「って、蓮ちゃーん。なんか遠くに行ってる場合じゃないと思うケド」
 不意に落ちてきた思考の幕に視野の全てを奪われかけた蓮を、美咲のあっけらかんとした声が強引に現実へと引き戻す。
「にしても面白ぇのな。ほれ、ここってあの女の残留思念とかゆーのを見た場所だろ? なんかオレ自分の意志でここまで来てるみたいなんだよな。ほれほれ、コレ見て」
 言いながら美咲が着慣れた学ランのポケットの中から発見した、鉄道会社のプリペイドカードを、蓮の目の前にちらつかせる。それを横から覗き込んだ翠が感心したように、へぇーっと溜息を零す。
「確かに、自分の足で移動してきたっぽいな。俺なんてそこにバイクまであるぜ」
 プリペイドカードには、確かに美咲の今日の移動経路が分かる印字がされていた。そして翠のバイクも六人の近くで雨に晒されている。
「これが『並相転移』ということですね。ところで、八雲さん――どうかしましたか?」
 先ほどから全く会話に加わってこない少女に、悠也はそっと歩み寄ると、その肩に静かに手を置く。
「―――」
 触れられ、純華は赤い瞳を不安に揺らし、悠也の金の瞳を見上げて見返す。そして何度か口をパクパクと動かすのだが、そこから彼女の声が零れる事はなかった。
「あぁ……そう言えば貴女は声を代償に力を得たんでしたね。大丈夫、リラックスして。声を出そうと思わないで。心で願えばいいんです」
 窮屈な水槽の中の金魚のように、短い周期で喘ぎを繰り返す純華の背を、悠也は二、三度軽く叩いてやる。誰かが不安に陥っている時は、適度なスキンシップが安定を取り戻すために大事なことか悠也は弁えていた。
 無論、その気遣いこそが彼の仕事での人気を支えているのは間違いない。
(「……あの………」)
「うん、大丈夫。ちゃんと聞こえる」
 か細いながらも心に直接響いた少女の声に、悠也が笑む。その様子に純華も、心での会話が上手く行ったことを知り、緊張で凝り固まった肩から力を抜いた。
 しかし、そんな穏やかな雰囲気も束の間の事。
「なぁ、あれ」
「えぇ、そうみたいね」
 最初に気付いたのは蓮だった。それに僅かに遅れてシュラインがすっと視線を流して頷きを返す。
 左目の視力の代わりに得た常人の域を遥かに超えた蓮の耳には、離れた所で誰かが地べたに触れる音が聞こえていた。歩く音とは明らかに異なるその音は、彼女――香苗の到来を意味している。
 一同の視線が、彼らからは50mほど距離のあいた場所に、傘も差さずに蹲る女性に注がれた。それは間違いなく、紫胤に出会うきっかけとなった残留思念そのままの姿。
「可愛い女性を哀しませ続けるわけにはいきませんからね」
 さっと行動に移ったのは悠也だった。
 職業柄身に付いたのであろう優雅な身のこなしで、香苗にそれとなく駆け寄り傘を差し出す。
「どうかされたんですか?」
「え……?」
 屈みこんだ彼女に視線の高さを合わせるように、悠也も静かに膝を折る。
 突然かかった声に振り返った香苗の頬は、雨粒以外の水滴に濡れていた。
「以前もお見かけしたことがあるんです。何か探し物ですか? よろしかったらお手伝いさせて頂けないでしょうか?」
 多くの女性を虜にしてきた笑顔に、香苗は一瞬焦ったように、手の甲で自分の濡れた頬を拭う。それから慌てたように立ち上がり、悠也から一歩距離をとった。
「いえ、あの……」
「一人じゃ効率も悪いだろ。良かったら俺も手伝うけど。何を探してるんだ?」
 急な出来事に戸惑いを隠せないらしく、優しい笑顔の悠也にさえ警戒を示した香苗に、蓮が改めて傘を差し出しながら声をかける。
 しかし、新たに加わった声に香苗はびくりと肩を竦ませた。
「大丈夫よ、コンパ帰りの一団みたいなものだから。ちょっと先から貴方が見えてね。気になったんだけど……どうかしたの?」
(「大丈夫、ですか? 何かお手伝いできませんか?」)
 自分を囲んだ集団の中に女性の姿を認め、香苗の表情に微かな安堵が滲んだのは一瞬。不意に響いた謎の声に、香苗の表情が一気に怯えの色に染まる。
 聞こえたのは軽やかな少女の声。そろりと見渡せば、高校生くらいの少女が、自分に向ってなにやらジェスチャーのようなものをしている。
「なに……あなた……?」
(「私、香苗さんのお手伝いがしたいんです」)
 香苗の視線が、純華だけを凝視していた。
「なんで? なんであなた私の名前知ってるの? 貴方達、何なのっ?」
 言葉の最後は、ほとんど悲鳴に近かった。
 しまった、と悠也の表情に苦い色が浮かぶ。
「待ってください。僕達は――」
「来ないで下さい。なんでもありませんからっ!」
「おい、ちょっと待てよ」
「いやっ! 離してっ」
 逃げるように走り出した香苗の細い手首を、翠が捉えかけたが、それは敢え無く振り払わる。
 そのまま香苗は駅があると思われる方向へ、一目散に駆け出してしまった。
 ひらり、ひらりと無情に桜が舞い落ちる。それに誘われるように、一羽の蝶が香苗の後を追いかけ飛んだ。
「そりゃー、まー、ねぇ。いきなり見たことない連中に囲まれたら逃げたくもなるわなぁ。それにアレだぜ、あの人。探し物がみつかんなかったくらいで、自殺しちゃうような人だろ?」
 一人、距離を置いたままだった美咲が、殊更ゆっくりと歩み寄りながら、片肩を竦め年長者たちに言い放つ。
「確かにな。誰かに一緒に探してくださいって言える人なら、魔につけ入られるようなこともないのかもしれない」
「そうね……確かにそうかもしれないわ。でも、これじゃ香苗さんが何を探してたかはっきりと分からなくなったわね」
 蓮とシュラインが顔を見合わせ頷く。
「やはり指輪をしていませんでしたからね。恐らくそれだとは思うのですが。しかし万一違った場合を考えると……」


■第二章 断章 〜金の姫〜

「ん? 大丈夫か」
 シュライン達が、何を探せばいいのか、と話し込んでいる横で、翠は顔を真っ青にし呆然と佇み微動だにしない純華に気付いた。
「どうした?」
 声をかける。が、返事はない。
 あぁ、そういえば『声』を失くしているんだったか、と思い出す。しかし彼女には『心の声』という力があったはずなのだが、と思い至り再び首を傾げる。
「おい」
 一際強い翠の呼びかけに、ようやく純華が顔を上げた。
 その唇はわなわなと震え、瞳には今にも溢れ出さんばかりの涙が膨れ上がっている。
「おい、どうした?」
 しかし純華は応えず、持っていた荷物の中を漁り始めた。そうして取り出されたのは、女子高校生らしいデザインの手帳とペンシル。
 純華は小刻みに揺れる手で、必死に何かを書き連ねた。思うように書けないのか、何度もページを引き千切ってはバッグの中に押し込み、再び書き直すことを繰り返す。
 そして、ようやく書き終えたのか、純華は翠の眼前に手帳を突き出した。
「……んなことねぇよ。確かにびびっちまったのかもしれないけど、それはきっかけに過ぎない。あんなふうに警戒を始めた人間には、そう簡単には心を許してくれないもんだ」
 歪んだ字で書いてあったのは、純華の後悔の言葉。
 自分が変に話しかけたから、香苗さんは逃げてしまった。どうしよう、どうしよう。
 深い罪の意識に苛まれた少女の言葉に、翠は宥めるようにそっとその肩に手を置く。
 途端、流れ込んできたのは純華の意識。香苗の恐怖に怯えた顔が、フラッシュバックを繰り返す。
「ほれ、そんな顔する。俺さ、こうやって触れると人の心がわかったりするんだけど。まぁ、その分『心』に関してはスペシャリストなわけ。その俺が言うんだから、間違いない。お前は悪くないさ」
 今度はぽんぽん、と頭の上で軽く手を弾ませる。これ以上触れてしまっては、余計なことまで覗いてしまいそうで、力をセーブして純華の意識が流れ込んでくるのを遮断して。
「しかし、厄介なのは事実か。魔とやらに巣食われてるせいか。あの女の心、視ることが出来なかった」
 相変わらず不安気に揺れる純華の視線に、少しおどけた笑みを返した後、翠は自分の左手に視線を落とす。
 香苗とすれ違いざま、彼女の意識に触れるつもりで伸ばしたこの手。確かに触れたのに、そこからは何も伝わってこなかった。いや、何か不気味な黒い触手のようなものは視えたのだけれど。
(「どうしたら……いいんでしょう?」)
 翠の心に、おそるおそる純華の声が響いてくる。
 どうやら先ほどは、その力を使うことさえ躊躇われていたらしい少女の言葉に、翠は自分の手を見詰めたまま瞳を伏せた。
「こういう時は祈るしかないかもな。日本人の癖だよな、最後は神頼みって」
(「祈る?」)
「そうそう。どうしていいか分かんなくなっちまった時とかもさ。何かに祈ってみたら、ぱっと妙案浮かんだりすることもあるし」
 軽い口調だった。
 しかし、心の中は切に祈っていた。
 折角『救う』というきっかけを得られたのに。自分はそれを成せないのか、と。
 そして純華も強く願っていた。
 翠は自分のせいではないと言ってくれたが、もし自分が香苗に心の声で話しかなければ、彼女はひょっとしたら心を開いてくれたのではないかと。
 考えれば考えるほど、後悔で胸が張り裂けそうになる。
 出口のない迷路に、二人は同時に迷い込む。
 そして願いも重なる。
 誰か、この窮地を脱する方法を教えてくれ、と。
「どうすれば……」
(「どう、すれば……」)
 不意に雨が止んだ。
 辺りが異様な静けさに支配され、凛と研ぎ澄まされて行く。
 アスファルトの大地が姿を消し、櫻並木が輪郭をなくす。目に見えるものが全て、一つに混ざり合い、そうして世界は黒一色に変わった。
 それはまるで紫胤やゲートキーパーが作り出した空間と同じような。
「迷い子よ。導きましょう――望むなら」
 そして救いの手も唐突だった。
「なんだ、お前?」
 すぐ真後ろからかかった、鈴を転がすような声に振り返った二人が見たのは、一人の小柄な少女の姿。朱と金色に染め上げられた十二単のような衣装に身を包んだ、どこか現実離れした容貌の。
「わたくしは、導き手。あなた方のような、在り得ぬ存在を正しき場所へと導く者」
 少女は、感情を推量れぬ声音で、歌う様に言葉を紡ぎ続けた。
「迷い子よ、これが視えますか?」
 言葉と同時に、少女の手の中に、銀の糸で刺繍された手毬がぽわりと浮かび上がる。
 他に何もない闇の中、自ら光を放つような色の手毬に、翠と純華の視線は自然と吸い寄せられてしまう。
 その様子を確認した少女は、さしゃり、と幽かな衣擦れの音と共に手の中の鞠を手放した。てんてんてんっと幾度か弾んだ手毬は、ころころと転がり始める。
「その先に、何が視えるかは、あなた方次第。それを、どう取るかもあなた方次第」
(「え?」)
 現れたときの唐突さと同じように、少女の姿がぼんやりと霞み、輪郭を失っていく。それに気付いた純華が、謎の少女に向って手を伸ばした。
(「どうしよう……」)
「おい、見ろよ」
 立ち尽くしたまま、手毬の行方を見詰めていた翠が弾んだ声を上げたのは、純華の手が少女に届くことなく宙を切った瞬間。
「あれ……指輪、だよな」
 振り返った純華の目にも転がる鞠の先に、何かが視えた。
 他に何もない空間の中、手毬と同じ色に輝く小さなリング。
 それが何故、こんなにもはっきりと認識できたのかは分からなかったけれども。
「なんっつーか、まさになんでもあり、な世界だよな。便利っちゃ便利だけど」
 翠の感想に、純華も素直に頷きを返す。そして少女に礼を言わねば、と首をめぐらせ、既に彼女がこの場から完全に姿を消していることに気付く。
 ゆらり、と世界が揺らぎ始める。
 柱を失った世界が、元の世界にはじき出されようとしているのだ。
 暫くの酩酊感にも似た感覚の後、視野には先ほどと変わらぬ仲間達の姿が映った。

  ***   ***

 嫌な沈黙が帳を下ろす。
 それを破ったのは、翠と純華の声だった。
「探し物、指輪でいいと思うぜ」
(「はい、私もそれで間違いないと思います」)
 何を根拠にか明らかな確信を滲ませた声に、考えに詰まっていた三人が怪訝な顔で振り返る。
「どういうことですか?」
「どういうことも、こういうこともねぇ、って感じかな。さっきの女が婚約指輪をしてなかったってのは、あんたらも気にかかってることだろ。それに――」
(「それに、教えてくれた人がいたんです。皆さんは……ご覧になられなかった……んですよね? えーっと……なんか紫胤さんみたいな感じで突然……」)
 翠と純華の話によると、どうやら二人は一時的に、また誰かに遭遇したらしかった。その出会った相手は、自分を『導き手』と名乗り、行く先に迷っていた二人に『指輪』というキーワードを与えたと言う。
(「あのですね、なんか信じられないと思うんですけど。でも、私は彼女の導きっていうのを信じていいと思うんです」)
 身振り手振りを加えて説明する純華の姿は、どこか必死なものがあった。自分が不用意に特殊な能力を使ってしまった事を酷く後悔しているらしいその様子は、その分だけ誰よりも真摯さと熱意に溢れている。
「なんだかこう……自分できっちり理由見つけられたって訳じゃないのが、気にかかるけれど。それを言い出したらキリもないことだし。そうね、とりあえずその『導き手』とか言う人を信じてみましょうか。それに、純華ちゃんの勘はハズレ知らずみたいだしね」
 先日、とある依頼で一緒になったとき、ことごとく勘で当てた純華を思い出し、シュラインがそう結論付ける。最後に純華に優しい微笑を添えるのを忘れずに。
「となるとこれから先の行動だが」
「どうでもいいけど――ってよくないけど。ねぇ、蓮ちゃん気付いてる? 時間。ほら、なんだかんだで結構過ぎちゃってるぽいっていうか、あのゲートキーパーのバカ野郎って感じかもしれないんだけど。ニュースに出てた香苗って人の死亡推定時刻までもうそんなに間がないんだけど、どうする?」
 指輪を探せばいい、という結論に到達した安堵も束の間。今後を促そうとした蓮の言葉を遮り、ふたたび美咲が鋭い指摘を飛ばす。
 彼がゲームセンターに向う道すがら調べた情報では、香苗の死亡時間は22時過ぎとされていた。なんでもその時刻近くに婚約者の男性の携帯電話に着信があったらしい。運悪く出ることの出来なかった彼が、折り返し連絡をしたのだが、その時は既に彼女の応答はなかった、というのだ。
「現在時刻は21時。どー考えてもあの野郎がギリギリの時間にオレらを飛ばしたとしか思えないわけなんだけど。どうする? 今から指輪探すのか? それとも『魔』とやらを倒しに行くのか?」
 まだどこかにあどけなさを残した声が、ただ残酷に真実だけを告げる。
「……残り、一時間。いえ、それ以下、と見た方が妥当でしょう」
「分かれて行動した方がよさそうね」
 残り時間と、やらなくてはいけないこと。
 それらを考えると、気が遠くなる。しかしシュラインが呻くように出した答えに、誰も異存はあるはずもなく、六人はそれぞれ新たな選択をして走り出した。
 雨はまだ止まず。
 舞い落ちる桜の花弁の数も増え続けていた。


■第三章 〜戦、緋櫻〜

「後一歩って時に邪魔しに来てるんじゃねぇよ」
 突如現れた長身の青年の背後には、緋色の櫻の群れ。
 悠也の目にはその櫻が放つ禍々しい凶の気配が見えていた。
 全ての根源は、この櫻。香苗が指輪を探していた並木道が始まるところにあった櫻の群生地。今は公園として整備されている、その奥の奥。
「どけよ。何処のどいつかは知らねぇが、俺達はお前の背後にあるものに用があるんだ」
 香苗に触れた瞬間、流れ込んできた不気味な幾重にも伸びる闇色の触手。そして濃密な甘い香り。極度に濃縮されたその香りは、『甘い』と判断できるまでかなりの時間を要するほどだった。
 その匂いの片鱗を辿り、悠也と美咲をこの場所まで導いた翠が、自分達の行動を阻害するために現れた青年に向って低く唸る。
「そう急くなよ。別にあんたらを取って喰おうってワケじゃないんだから。俺の名前は天城・鉄太――」
「其方に時間があると言って、こちらにも時間があるように思われては困りますね。俺たちは急いでるんです。用があるならさっさと済ませてしまいましょう」
 ちらっと腕に巻かれたブランド物の時計に目を落し、悠也が金の双眸に力を込めて鉄太と名乗った青年を睨みつけた。
 まるでその視線に誘われるように、淡い燐光を帯びた蝶たちが鉄太の周りに集い羽ばたく。
「盾」
 鉄太の呟き。その瞬間、蝶たちは白い火花となって四散する。
 不可視の力が、翠と悠也の行動を阻んでいた。文字通り、その場から動けないのだ、この青年が現れた瞬間から。
 雨に混ざって舞い散る櫻の花弁が、じっと立ち尽くすしか術のない二人の青年の体に纏わりついていく。 
「解析。登場は唐突。それは紫胤とかいうおねーさんと同じくらい。違うのは場所を移されなかったってことくらい。つまりあんたもそっち系の関係者ってこと。ついでに言うなら、紫胤って人はオレ達に『香苗を救え』っつったけど、今のアンタの行動は、どーやらそれを邪魔してるっぽい。イコール、紫胤ってヤツの仲間とは普通なら考えにくい。結論。邪魔ってことは変わらない。よって排除」
 それまで鉄太から最も離れた場所にいた美咲が、不意に駆け出す。
 全力の疾走、一気に距離が詰まる。
「……なかなか面白い体質みたいだな」
「おかげさまで、ね」
 勢いを殺さないまま全体重をかけて突き出された拳は、リーチの差で勝る鉄太の手によって器用に絡め取られた。そのまま美咲の体は、反動を活かしあらぬ方向へと宙を舞う。
 空中でバランスを取りながら、地面に膝をつく形で着地した美咲は、その頬に今までに見せた事のない不敵でいて楽しげな笑みを浮かべた。
「ったく、最近の若者は血気盛んでやりにくい。別に俺はお前らとやりあう為に出てきたわけじゃない。お前達の理由を聞きたかったんだ。コレを滅す理由が」
 低い姿勢を保ち、いつでも攻撃可能であることを全身でアピールする美咲を目線で牽制し、鉄太は苦く笑う。
「急いでるようだから説明は省くが。俺はお前らみたいな本来この世界の住人でありえない連中が、流れに干渉するその理由をチェックしてる。無論、それがあってはならないことだと判断したら強制的に排除するがな」
「理由?」
「そう、理由。これは確かに厭われるべきモノだ。だがしかし、何故それを今この世界で行わなければいけない? 何故、お前達の本来あるべき世界で行わない?」
 間髪いれずに入った翠の疑問符に、鉄太も即座に応えを返す。
 その瞳は、明るい口調とは裏腹に、無感情な断罪者の色を帯びていた。ともすれば、見た者全てを射竦ませるほどの力を伴って。
 が、この場には誰一人躊躇う者はいない。
「一人の人間の命を救える――それが理由だ。あっちの世界じゃ失われたままになる命、それを救えるかもしれない。それを知っていてむざむざ機会を手放すほど、俺は人間やめてないんだ」
 最初に言い切ったのは翠。知ることが出来る他人の心、けれどその知った事から何かを動かすのが、いかに難しいかを誰よりもよく知っているから。
 背筋を正し、鉄太に挑む姿勢を捨てない彼に迷いはない。
「同じ、ですね。女性を哀しませたまま、というのは主義にも反します」
 静かに言葉を繋いだ悠也も、気持ちは同じ。雨で濡れて重くなった前髪をかきあげる指の隙間から、猫のように眇められた金の瞳が覗く。
「オレは倒したいから倒す。それにオマケがくっついてくるなら、文句はない」
 最後は美咲。オマケとは当然、香苗の命。
「なんか一名、ものすっごく引っかかるけど……ま、この程度なら構わないか」
 静かに三人の言葉を聞いていた鉄太が、にかりと屈託の無く笑んだ。
「取り敢えず今回は俺はノータッチって事で処理しとくな。ってわけで、時間とらせて悪かったな。詫びついでに、こいつのこと教えといてやろう」
 鉄太が指差したのは、自分の背後。悠也の目が捕らえていた禍つ気配。
「名は結遊良(ゆゆら)。まぁ、よくあるタイプの櫻に取り憑いたバケモノだな。いつの時代からか己の意思を持ち、人の心の闇に付け入り死へと誘う――」
「御託は結構です。アレが香苗さんを縛る魔である、それが分かりさえすればいい」
 続く鉄太の言葉を遮ったのは悠也。
 時間がない、という現実に変わりはない。鉄太もこれ以後、この件に介入するつもりがないというなら、話を続ける意味はない。むしろ刻々と過ぎ去る時間が無駄、ということだ。
「そーゆーこった。あんたは消えな。オレ達が用があるのは、あんたの後ろのだ!」
 言い放ち、間髪いれずに美咲が駆け出す。
「おーぉ、血気盛んなことで。んじゃ、後はガンバレよってことで」
 疾走する美咲とすれ違いざま、鉄太の姿が掻き消えた。
 同時に巻き起こったのは爆風。
 美咲はその風に背を押され速度を増し、正面から受けた二人は大きくよろめく。
 傾いだ体が完全に倒れ伏す前に、大地に手をつき体を支える。触れたのはぐちゃりと濡れた泥と砂利の感触と――
「来る! 季流、かわせ!!」
 脳裏に描かれた誰かの明確な攻撃の意思に、翠が怒号を上げる。
 翠が読み取ったのは、大地を介して伝わった櫻に宿った魂の持つ『心』に似た意志。
 自分を狩りに来た者への敵意。
 そして悠也には視えていた。櫻から美咲に向けて一直線に伸びる不気味な手が。
「触れることが出来るってのは、こういう感覚なんだな」
 視えないはずの攻撃を、僅かな身の動きだけでかわした美咲が嘯くように呟いた。
 美咲の視界には触手はおろか、その本体さえ映ってはいない。だが少年は感じていた、何かが移動するときに起きる空気の振動を。肌に感じるたったそれだけの感覚が、今の美咲の目。
「で、どうする?」
 タンタンタンっと軽いステップを踏むように悠也の元へ戻り、美咲は自ら光を発しているような金の瞳を見上げた。
 触れることは出来る。でもそれだけでは『魔』を倒すことは出来ない、そのことを美咲は分かっている。だからこそ、悠也に判断を仰ぐ。
「先見の能力とやらを持ってたらしいアンタだ。倒すくらいの芸当はやってのけるだろ」
 先見――それは美咲の甥が持つ能力の一つ。彼ならば、自分には視ることさえ出来ないモノも滅ぼすことが出来る。
 子供っぽさの抜けない、荒っぽい単純な判断かもしれない。しかしそれは間違いなく的を得ていた。
「確かに。だが結遊良は巧妙に櫻の中を渡り歩いている。攻撃の対象を定めることが出来ない」
 咲き誇る櫻の群れ。鉄太が引いたと同時にその本性を現した結遊良は、その中を自由に移動しては思わぬ場所から触手による攻撃を仕掛けて来ている。
 この場で唯一、視ることの出来る悠也にはそのことが分かっていた。その能力こそが、今まで狩られることなく結遊良を生き延びさせて来たのだろう事も。
 人に害を成すモノほど、その能力は巧みになっていく。その皮肉に、悠也は形の良い額に皺を刻み不快を示した。
「……花房さん、さっきみたいに分かりますか?」
 戦う力を持たない自分を弁え、二人の邪魔にならないよう後ろに下がっていた翠を、悠也が振り返る。
 先ほどと同じように、地面に触れることで結遊良の動向を探れないか、ということらしかった。
 返された答えは、悔しげに横に振られた首。
「悪い。あぼろげな敵意みたいなものは伝わって来るんだが……移動先とかまでは流石に分からない」
 伝わってくるものはある。でもそれは翠が感じることに慣れている人の心とは様相を異にしていた。だからそれが何を意味するのか、上手く読み取ることが出来ない。
「ってことは、何だ。取り敢えず捕まえちまえばいいってことだな」
 どうしようか、と悠也が周囲の気配を読みながら次の手を模索しようとした刹那、再び美咲が走り出した。
「触れられるってことは、捕まえられるってことだ」
 目標もなく駆ける美咲に、触発された闇色の腕が伸びてくる。
 その一本が美咲に絡み付こうとした瞬間、逆に美咲がそれを捉えた。そのまま、雨でぬかるんだ大地を蹴りつける勢いで踏みしめ、見えないが感じることの出来るそれをわき腹に抱え込み渾身の力を込めて引き寄せる。
 ずるり、と澱んだ気配が動いた。
 囚われた己が躯の一部を取り戻そうと、結遊良の本体――人の形に似てはいるが、はっきりとした輪郭線を持たない闇色の靄のようなものが、一本の櫻の木から姿を現した。
 それが発するおぞましい気配に、視えない翠の額にも冷たい汗が吹き出す。
「ダメだ、離せ!」
 叫ぶ、悠也。
 一斉に無数の触手が美咲に向って放たれる。
「……ダメ。抉られたっぽい」
 捉えたはずのそれは、まだ諦めてはいなかった。
 抱え込まれた美咲の脇腹に、その先端を深く埋め込み動きを封じ、吹き出した真紅の血に歓喜の声を上げる。
「痛覚なくって大正解〜」
「悠長なこと言ってる場合か!」
 それとなく状況は把握しているのだろう。それでもいつもの態度を崩さない美咲を、事態の異変に気付いた翠が怒鳴りつける。
 このままでは間違いなく美咲は血溜まりに沈むことになる。
 けれどそれを食い止めるべき力はすぐ身近にあった。
 使ったことのない能力、この世界に来るために、得た力。
 一度試しておくべきだった、と後悔するには時間がなさ過ぎた。
「……案外上手く行くものですね」
 全てが止まった空間で、悠也は満足げな笑みを浮かべる。
 先見の能力と引き換えに、身につけた世界の時間を10秒間だけ止める能力。
「それだけあれば、十分です――後悔せずに済んで良かった」
 音のない空間、全てが硬直していた。たった一人、悠也以外を除いて。
 舞い散る櫻、降り注ぐ雨。それすらも中空で姿を止め、翠は無茶を承知で美咲に向って駆け出す姿勢のまま凍り付いたかのよう。
 ふっと悠也の姿が消失した、それは瞬きをする間もない一瞬の出来事。そして直後、彼の姿は触手を抱えたまま固まる美咲の目前にあった。
「亡びよ、悪しき魂」
 淡い光を帯びた悠也の爪先が何かの印を描き、その輝きを掌の中に閉じ込めたまま迫り来る恰好で動きを止めた触手の一つに、静かに触れる。
「――眠れ、永久の微睡の中で」
 烈風が吹き荒れた。
 この世に生きる全てを切り裂く苛烈な刃が。

「ったく、無茶をする子供ですね。君も」
 何が起こったのか、美咲には分かっていなかった。
 飛来する無数の気配に、ちょっとヤバイかな〜と考えていたはずなのに、その情景は何処にもない。
 あれ? と思った時には、悠也に腕を捕まれ立ち上がらされようとしている所だった。
「出血した分はどうにも出来ませんよ。それと破けた服もね」
 悠也の手が美咲の脇腹に触れる。途端にそれまで心音に合わせて流出し続けていた血が、ぴたりと止まる。
 みるみる間に肉が盛り上がり、皮膚が再生され――翠が二人に合流する頃には、その傷は完全に癒えていた。
「……便利だな」
「ほほー。ってことはあんたが片付けちまったんだ。どうやったんだ?」
 世の中には色々な能力を有す者がいるのはそれなりに承知している翠が、それでも眼前で完治する深手に感嘆の言葉を口にする。
 怪我を治された美咲の方は、礼を言うことさえ忘れて、肝心の瞬間を目撃できなかったことに唇を尖らせ、悠也を睨みつける始末。
「さて、それは企業秘密ということで。……少し時間は過ぎてしまったようですが、そこは他の皆さんがなんとかして下さってるでしょう」
 時間を確認するために、軽く持ち上げられた悠也の手。その手の中には緋色に光る石が一つ握り締められていた。


■第四章 〜Selection ≫ Possibility〜

 始まりは不意に訪れた――そして、終わりも突然に。
「お疲れさん、取り敢えず今回の件はこれで出番はお終いってことで」
 世界は、再び黒一色の無限の空間が広がっていた。あるのは、六人の仲間とゲートキーパー、あとはネオン光の細い光点が走っては消える、不可思議な巨大な門だけ。
「つまり、香苗さんを救うことが出来た。そういうことですか?」
 脇腹を押さえる美咲を横で支えた恰好の悠也が、いち早く状況を飲み込み周囲を見渡す。
 すぐ近くに立つ翠。
 ゲートキーパーの近くで、何かを握り締めるように立ち尽くす蓮と、それを見守るように傍らに在るシュライン。
 残るは、一人少し離れた所で腕の中にあった何かが不意に質感を失ったことに、戸惑いを隠せず座り込む純華。
「ま、詳しいことはあっちに戻ってから自分の目なり何なりで確認してくれって感じで。とりあえず、あんたらは自分らの選択で自分らの出来ることをやったってワケ」
 結果には興味ない、とばかりにゲートキーパーが何かを追いやるように手を閃かせる。すると、その手の中に巨大なガラス製の鎌が現れた。
 漆黒の衣装、そして大きな鎌。
 出会った時はゲームセンターだったから、格闘ゲームに出てくるキャラのようだ、という感想しか抱かなかったが、ふっと頭の隅に『死神』という言葉が浮かぶ。
「斎・悠也、花房・翠、季流・美咲。あんたら三人は香苗を死へと誘惑していた『魔』を消し去った。シュライン・エマ、香坂・蓮。あんた達は香苗が魔に付け入られる隙を作ってしまったきっかけを取り除いた。で、八雲・純華。あんたは香苗の弱い心に強さを教えた――これが元の世界にどんな影響を及ぼすのか、今ここにいる俺は知らない」
 一人一人の名を呼び、鎌の先端部分をそれぞれにつきつける。ぴたり、と焦点をあわせられるたびに、その鎌は不思議な色を帯びた。
 悠也に向けられた時は金。
 翠に向けられた時は緑。
 美咲には真紅。
 シュラインには白。
 蓮には蒼。
 純華には、淡い桜色。
「あぁ、そうだ。言うの忘れてたから付け加えとくけど。あっちの世界で負った怪我や病気は、あっちのあんたらにもその後残るし、帰ったあんた達の体にもしーっかり残るから。魂の情報って案外バカにできねーんで、そこのとこよろしく」
「てめ、ぜってーそれワザと黙ってたろ」
 悠也に支えられ、ようやく立っている美咲が、ゲートキーパーのイマサラな物言いに、遠慮ない不満を顔と言葉に表した。傷自体はすっかり癒えているのだが、大量の血液を一気に失った体にはやはり相当な負担がかかっているらしい。
「ま、旅の恥はかき捨てよろしく別次元の自分に全部押し付けちゃうのは不本意だから、それが妥当なところよね」
 危うく風邪をひくところだったシュラインは、それも道理と頷く。しかし彼女を横目に盗み見た蓮は、やはり止めておいてよかった、と安堵に胸を撫で下ろす。
「おい、いつまでぼーっとしてるんだ? 終わりだとよ」
 床――正確には本当に『床』と呼んでいいのか分からないが――にへたりこんだままの純華の腕を、翠が引き上げる。
「え? あ……はい。って……香苗さん、大丈夫だったんでしょうか?」
 抱き締めた温もりはまだ残っていた、頬に伝った涙の跡も。けれど全てが夢のようで、純華は顔を合わせた一同をぐるりと見渡し、再び視線を落す。
 その時、その場に軽やかなウェディングベルが響き渡った。
 はっと顔を上げる純華。視線の先には、優しく微笑むシュラインの姿。
「大丈夫よ。やることは全部やったんだから。きっと大丈夫」
 ベルの正体は、シュラインの声帯模写。けれど、それは誰の耳にも本物の鐘の音として響いた。
「それじゃ、そゆことで。いつまでもこんなとこに屯ってないで、とっとと門を潜っちまいな」

 そして――――………


「あっれー? あ、あ、あ! 久し振り〜! えーっとえーっと……花房くん!」
 声をかけられたのは、天気の良い休日の午後。
 顔なじみの編集者と打ち合わせを兼ねた昼食を共にした後、何をするでもなくぼんやりと街路樹を見上げていた時だった。
「お、京師じゃないか。久し振りだな、元気してたか?」
 今年の櫻の開花は例年にない、記録的な速さだったらしい。しかしカレンダーが示す季節は既に六月。櫻の季節からは程遠かった。
「当然元気。僕から元気をとったら後には何も残らないしねぇ」
「なんだ、自覚あんのか」
「………個人的に今のトコは否定して欲しかったんだけど」
「自覚のあること否定しても仕方ねーだろ」
 はうあっ、と大袈裟に仰け反る久し振りに出会ったかつての依頼人の姿に、翠は屈託無く笑いながら胸ポケットに潜ませた一枚の写真にそっと手を重ねた。
 それは先ほど会った編集者から貰った写真。
 奇遇な伝手で翠の手元へやってきたのは、先日行われた菅谷・香苗――いや、今はもう藤崎・香苗という名前になったらしい女性の結婚式の様子を写したものだった。
 小さなチャペル、屈託無く幸せそうに笑う純白のウェディングドレスに身を包んだ香苗。その姿は先日――正確には世界が微妙に違うのだが――見た表情とは全く違うものだった。
「なんか嬉しそうな顔。いい事でもあった?」
 良い結婚式だったらしいぞ、と伝え聞く方も笑顔になってしまうような写真を見せながら、笑っていた編集者の顔を思い出していた翠の眼前に、気付けば紫の人の悪い笑顔。
「何想像した」
「いや、彼女とでもいいことあったかなーっと」
「そんなんじゃないさ」
 無用な詮索の手を切り捨てるために、すっぱり言い放つ。それでも翠は楽しげに笑う。
 人の心を読むことが出来る、それは人知を超えた力の一つ。その能力を何の偶然か得てしまった翠は、持て余し苦悩したこともあった。また、視えているのに救い出せないジレンマに臍を噛んだ事も少ないわけではない。
 けれど、今回は。
「まー、俺だけの力ってわけじゃないけどな」
「は? 何?」
 悲しみの中、打ち拉がれたまま命を終えるはずだった人間を救うことが出来た。その一端を自分の力で担うことが出来た。
 それは素直に嬉しいこと。
 断片的、どころかほとんど事情を話をしてくれない翠に、紫が拗ねたように頬を膨らませる。
「んなことイイ年した男がやっても気持ち悪いだけだぞ」
「いいもんねー。一緒に歩く花房くんが恥ずかしければ」
「随分自爆覚悟なイヤガラセだな、おい」
 頬を擽る風は、雨の匂いを濃く残している。明日はまた雨になるのかもしれない。けれど、一雨ごとに密度を増す緑の気配と、近付いてくる夏の声が鬱々とする気分を吹き飛ばす。
 流れ込んでくる雑踏の中に溢れた様々な心達も、どことなく羽が生えたような軽やかさを纏っている。
 あの日体験したことを、翠は記事にしようかと考えていた。
 しかし、よく考えれば此方の世界では『何もなかった事』になった事なのである。それをどう記事にするか暫く悩み、面倒になって放り出してしまった。
 証人はいる。ゲートキーパーと名乗った少年は、どうやら最初訪れたゲームセンターでアルバイトをしているらしい。
 だが、あの一癖も二癖もありそうな少年が、そう易々と此方の思ったとおりの事を喋ってくれるとは思えなかった。
 そこまで考えて、ふと目の前の男と目が合う。
 テンションと雰囲気は違うがゲートキーパーとこの男、なんとなく似ていないだろうか。特に掴み所のなさっぷりが。
「……なに?」
 恨めしさ大全開、と思いっきり顔に書いてある。思わずそれに吹き出してしまった翠は、考えていたことを頭の隅に追いやった。
 取り敢えずは、香苗の幸せを喜ぼう。そして今後手に入るかもしれない、もっと胸躍らされるような事件に期待を馳せる方が色々楽しくなりそうだ。
 それはジャーナリストとして鍛え上げられた翠の直感。
「いや、なんでも。ところで近場に心太の店があるんだが、行くか?」
「……花房くんの奢りなら」
「せっかくの再会だ、ワリカンが筋だろ」
「その判断基準がわからないー」
 澄んだ空に響くのは笑い声。
 こんな午後があるのもたまにはいいな、そんな風に思いながら翠は青い空を見上げた。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名】
  ≫≫性別 / 年齢 / 職業
   ≫≫≫【関係者相関度 / 構成レベル】

【0086 / シュライン・エマ】
  ≫≫女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
   ≫≫≫【GK+1 紫胤+2 / NON】

【0164 / 斎・悠也 (いつき・ゆうや)】
  ≫≫男 / 21 / 大学生・バイトでホスト
   ≫≫≫【紫胤+1 鉄太+1 / NON】

【0523 / 花房・翠 (はなぶさ・すい)】
  ≫≫男 / 20 / フリージャーナリスト
   ≫≫≫【紫胤+2 鉄太+1 / F】

【1532 / 香坂・蓮 (こうさか・れん)】
  ≫≫男 / 24 / ヴァイオリニスト
   ≫≫≫【GK+2 紫胤+1 / NON】

【1660 / 八雲・純華 (やくも・すみか)】
  ≫≫女 / 17 / 高校生
   ≫≫≫【GK+2 / F】

【2765 / 季流・美咲 (きりゅう・みさき)】
  ≫≫男 / 14 / 中学生
   ≫≫≫【GK+1 紫胤+1 鉄太+1 / NON】

 ※GK……ゲートキーパー略


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの観空ハツキです。
 この度は観空初の異界依頼をお受け頂きありがとうございました。そしてこちらは既に恒例と化しているような気がするのですが……毎度毎度ギリギリの納品になってしまい申し訳ありません(謝)

 花房・翠さま
 お久し振りです! この度はご参加ありがとうございました! そして紫の安否(?)を気にかけて頂きありがとうございました。
 そのようなわけで(?)何やらうかれた紫が最後のほうでバカ丸出しな絡み方をしておりますが……笑って許して頂けると幸いです(笑)
 翠さんは20歳。紫は27歳(異界バージョン)。……7歳も年下の青年にたかってどうするんでしょうね………あはははは。
 PC相関の方は、大歓迎です。どうぞよろしくお願い致します(ぺこり)

 今回は『初の異界だし』ということで、世界観説明的に気楽(?)に〜と思っていたのですが……予定は未定。なんというか、一寸先は闇、という言葉をつくづく実感させられました。
 異界にて記載済みの部分に関しては、本文中では簡略化してありますので、「なんだこれは!?」と思われることがありましたら、異界の方で確認して頂けると幸いです(不親切ですいません……)。
 あと登場人物欄になにやら妙なものがくっついております。相関関係のポイントは互いの理解度、ないし友好度だと思って下さい。構成レベルの方は……今はまだ秘密、ということで。

 今回は一章前半・四章後半が完全個別。三章がグループ単位という構成になっております。PCさんによっては自分の物以外にも登場されている方もいらっしゃったりしますので、お暇なときにチェックして頂けると幸いです。
 なお一部の方には二章に断章が存在しております。

 ご意見、ご要望などございましたらクリエーターズルームやテラコンからお気軽にお送り頂けますと幸いです。
 それでは今回は本当にありがとうございました。