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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


Selection ≫ June bride

■序章 〜胎動〜

 雨が降っていた。
 昼過ぎから降り出した細かい雨は、新緑に萌える櫻並木を静かに包み込む。
 時間の判断がしにくい光の加減。人工的な輝き放つ携帯ディスプレイで時間を確認すれば、夕方6時を少し回ったところ。
 逢魔ヶ時とも言われる不可思議な時間。厚い雲の向こうに追いやられた遠い空は、おそらく茜色に染まっていることだろう。
 そんな見えない空を見たくなり、傘の下からひょいっと顔を出す。
 不意に目の眩むような感覚。一瞬暗転した視界が回復した直後、己の目にした光景に思わず足を止めた。
 ひらり、ひらひら。
 世界に舞うのは薄い紅。
 降り続ける雨はそのままに、冷たい雨ゆえか重力に逆らえなくなった櫻の花弁が、道を覆い尽くさんばかりに敷き詰められている。
「な……?」
 咲き誇る満開の櫻。突然の変化に呆然と立ち竦むしか術がない。
 状況を把握しようと、未だ跳ね続ける心臓の音を聞かないふりをして、周囲の様子に気を配る。そして気づく――視界の端、道の傍に傘も差さず蹲る一人の女性の姿。
「どうしよう……あれがないときっと嫌われる」
 綺麗にセットしてあったのだろうこげ茶の髪は、先端から透明な雫を滴らせ頬に張り付いていた。
「大事なものなのに。どうしよう、どうしたらいいんだろう。なんで見つからないの?」
 時間をかけて塗ったのであろう櫻と同じ薄紅色のマニキュアは、爪の先端からぼろぼろと剥がれ落ちている。しかし、その女性はそれを気にする様子はまったくなく、飾るもののない白い手で地面をぺたぺたとなで続ける。
 その様子があまりに必死に見えて、何をしているのですか、と自分の身に起きた事を棚に上げ、彼女にそう問い掛けようとした時、再び変化が起こった。
 薄紅が消え、濃緑がその存在を主張する。
 先ほどまでと同じ世界。
「おや、面白いものを見たようだね」
 突然背後からかかった声。蹲っていた女性から取って代わったように、忽然と姿を現したのは紫の女。季節的にまだまだ早いスリップドレスに身を包み、鳥肌一つ立てずに嫣然と微笑んでいた。
「どうした、別段不思議に思うことはないだろう? お前は今、ここにあった誰かの残留思念に触れただけなのだから」
 そう言うと、女はさらに笑みを深くする。
「お前は誰だ、という顔だね。名乗るくらいはしようか――私の名は紫胤、運命の選択を促す者。小難しいことは感覚で分かっておくれ、私は時間を取られるのが嫌いだからね」
 と、その刹那。世界が三度目の変化に揺れた。
 先ほどまで歩いていた櫻並木が続く道は消え、遠くに聞こえていた喧騒も気配一つしない。
「ようこそ、私の領域へ。せっかくだから一つ話をしよう……そう、先ほどの女性の話だ」
 何もない筈の場所に腰を下ろし、優雅に足を組み、紫胤はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「あの女性の名前は菅谷・香苗(すがや・かなえ)。ちょうど27歳になったばかりで、この6月に昨年の10月に婚約した男と結婚するはずだった」
 はずだった――過去形が意味することは、つまりは現在はそうでない、ということ。
「香苗は3月の末、自ら命を絶ってしまったのだよ。家から程近い廃ビルから身を投げてね」
 遺書さえ残されていなかった彼女の突然の死に、周囲は彼女の死の原因に何一つ思い当たることがなく、ただ深い悲しみにくれるしかなかった。
「彼女は何かに嘆いていた。その悲しみという心の闇に巣食い彼女を死へと誘った者がいたんだよ……常識と言う枠を越えた『人』ではない者が」
 そこまで話し終えると、紫胤はゆっくりと立ち上がり「なぜ、私がそんなことを知っているかとは訪ねるのではないよ」と小さく笑う。
「香苗の両親、そして婚約者だった男は今尚深い絶望の底に沈んだままだ。どうだ、香苗が死んだ当日という並相世界へ転移して彼女を救ってみる気はないか? 幸せになるはずだった未来を現実にしてやろうとは思わないか?」
 語り終えた紫胤は、薄いガラスケースに収められた一枚のメモを差し出した。そこに書かれていたのは先ほど歩いていた場所からそう遠くない住所と、ゲームセンターらしい店舗の名前。
「助けたい、そう思った者はそこへ行けばいい。そこで門番が待っている」
 ゆらり、と気配が揺らぐ。目の前の紫色の女が姿を消そうとしているのだ、ということを悟り、意識したわけではなくなぜか瞼が落ちた。
「あぁ、そうだ。言い忘れたが、『魔』は誰の目にも見えない――彼女の心の闇に巣食っているのだからな。だが本体は別にある。そちらは目鼻の効く者なら見つけることも倒すことも出来るだろう。
 だが、それだけで全てが解決するわけでは――」
 最後の言葉は、傘を叩く雨音に邪魔をされ聞きとることは出来なかった。
 開けた視界の向こうに続くのは、緑の並木道。しかし手にしたままのメモが、今起こったこと全てが現実であることを伝えていた。


■第一章 〜始まりの門〜

「んー……この辺でいいんだと思うんだけど」
 ゲームセンターというものは、駅前に密集していることが多い。さらに言うなら、大通りに面するよりも、ちょっと一本入った細い筋に面した所に在るのがセオリーだ。
 雨の日はズボンよりスカートに限る。普通なら動きにくいし、転んだりしたら大変だと言われそうだが、歩くとどうしても踵から跳ね上がってしまう泥水で、お気に入りのGパンなどが汚れてしまう事などを考えれば、ウェットティッシュで拭えば済む素足でいる方が、どれほど効率的なことか。
 でも、軽い生地のものはダメ。せっかくのふわりとした感覚が、雨で濡れてしまえば台無しになってしまう。
 女子高生らしく、そして大好きな『彼』のために、日夜研究を怠らない乙女が弾き出した雨の日ルックに身を包んだ八雲・純華は明るい色の傘を、少し高めに持ち上げながら、辺りの様子を窺い歩く。
「あ、あったあった!」
 いつものように、何故か全く迷わず辿りついたのはごくごく普通のゲームセンター。二階建ての造りらしく、一階には見慣れたプリクラなどが置かれていた。流行りものの体感ゲームでは、純華と同年代の少年少女が弾む声を上げている。
「なんだ……けっこう、っていうか全然普通」
 先ほど出会った『紫胤』と名乗る女性の雰囲気と、香苗という女性を救うために『過去に転移』するという話から、どんな場所かと密かに心臓をドキドキ言わせていた純華は、そのありきたりの店内に、ほっと胸を撫で下ろす。
「で、門番って人を探さなきゃいけないんだよね」
「はい、お探し?」
 呟きは独り言。けたたましい喧騒の中で、誰にも届くはずのない予定だった声に、その応えは唐突に返って来た。
「はいっ!?」
「あ〜あ〜、可愛いオンナノコが髪なんか濡らして勿体ねー。傘は出来るだけ低く差す。でも変なオッサンとかにぶつからないように最低限の視界は確保。OK?」
 驚きに振り返った純華の眼前に立っていたのは、そう年は変わらないだろう一人の少年だった。違うことと言えば全身黒尽くめのゴシックスタイルが周囲から浮いて見える、ということと、手にした死神が持つような大きなガラス製の鎌くらいか。
 まるで格闘ゲームの世界から抜け出してきたようなそのスタイルは、この店のアルバイトとでも言われてしまえば、至極あっさり納得してしまえる。
「あのっ、貴方が門番さん? 私、香苗さんって人を―――」
 用件を言おうとした桜色の唇が、冷たい人差し指にそっと押し留められた。
 赤い瞳が、きょとんと見開かれる。
「はいはい、了見了承。話はもう聞いてるから慌てなくて全然問題無し。おねーさん、一番乗りでみんなまだ揃ってないのな。そゆわけで」
 強引に腕を引かれて連行されたのはプリクラの前。
 何がどうなっているのか、純華は必死に頭を回転させながら、どうやら他にもいるらしい『仲間』の到着を待つことになった。


「ようこそ、俺の空間へ」
 それは紫胤がして見せたのと、ほとんど同じような出来事だった。
 彼女に導かれた者が全員揃った瞬間、それまではにこやかにゲームに興じていた一人の少年の表情が一変し、手にしていたガラス製の大鎌を振るう。
 ただそれだけのアクションの直後、それまではありきたりのゲームセンターだった店内が姿を消し、現れたのは蛍光色の光が明滅を繰り返す巨大な門がある不可思議な空間。
 しかも、他にいたはずの店員や客の姿も忽然と消え失せていた。
「改めて名乗ろうか。俺はゲートキーパーと呼ばれてる。その名の通り、この門の番人なわけだけど」
「別に、あんたの自己紹介なんてどうでもイイよ。それよりさっさと案内してよ。こんなとこでブラブラしてるほど、オレらも暇じゃないんだよね」
 軽く自己紹介、と微笑んだゲートキーパーに季流・美咲が、見た目は快活そうな笑みそのもので、そう言い切る。どうやら彼にとってうんちくはどうでもいいことらしい。
「おや、そんな急くなって。これから大事なこと説明するんだからさ」
「大事なこと?」
「そーそ。これからあんた達にはこの並相転移門ってのを潜ってもらうわけなんだけど、事前説明ってのと、注意事項があってね」
 何かしら、と首を傾げたシュライン・エマにゲートキーパーがにっこりと歩み寄る。そして背後から、そっと彼女の腕を取り、目の前にある巨大な門を指差させた。
「理屈は分からなくていい。イメージだけは紫胤に吹き込まれてきてるだろうから、俺は説明しない。ただ、あの門を潜るためには一つの宣誓をしなくちゃいけないんだ」
 言いながら、少年は取ったままのシュラインの手を、今度は彼女自身の胸元へと運ぶ。
「今からあんた達は、データという存在に分解され、望む世界へと移動する。その時、一部のデータが取っ払われる――新しい世界に適用しやすいように、ね」
「何かを失う、ですか。ならば宣誓するのはどの能力を失い……そして、そうですね。新しい世界ではどんな能力を得るか、というところでしょうか」
 独り言のように、斎・悠也は自分の中にあった『答え』を口にした。何故、自分がそんなことを思いついたかは分からないが、それがこれから起こることだと彼は確信していたのだ――否、この場にいる人間全てが。
「はい、良く出来ました」
「って、いつまで人を人形代わりにしてる気かしら?」
 悠也から返った言葉に、にんまりと笑いながらシュラインの手で拍手しようとしたゲートキーパーだったが、それは振り払われて不発に終わった。
「あっはは、悪い悪い。俺も年頃のオトコノコだから綺麗なお姉さんには触りたくなるんだよな。可愛い女の子とはプリクラ撮ったしさ」
 軽く一度肩を叩いてからシュラインの元を離れ、ゲートキーパーは空間を泳ぐように移動しながら、八雲・純華にウィンクつきの笑顔を投げる。
 あまりに気障ったらしい行動に、香坂・蓮はうんざりと天を振り仰いだ。しかし、そこに広がるのは際のない永遠に続くように思われる漆黒の宙。それはここが『現実』から切り離された空間であるという事を、言葉で説明するより雄弁に物語っている。
「ともかく、だ。俺らはお前に向ってそれを言えばいいわけ、だよな」
 何もないはずの場所に背中を預けた花房・翠が『面倒なことはさっさと片付けてしまおう』とばかりに話を切り上げにかかった。正直、何が起こっているのかは理解しがたい。しかし、先ほど見た紫胤が何もない場所に座ってみせたように、ある、と思ってやったら出来たのだ――背中を何かにもたれかけさせる事が。
 つまり、ここはそういう世界。
 常識で物事を推量ることの出来ない場所。
「そゆこと、だな。んじゃ、早速行って来て貰おうか。時は2004年3月27日。菅谷・香苗が命を絶ったその日、だ」
 少年がゆっくりと門へと手を伸ばす。
 すると、その門は自ずと外側へと開き始めた。
 その向こうに広がるのは、TVノイズのような磁気嵐にも似た光景。
「迷うなよ。迷子になっても俺は助けになんか行かねぇからな――ゲートキーパーの名において並相転移門を潜る者達に問う。シュライン、汝のPUTする力は何か? GETする力は何か」
「PUT、温感。GET、直感力」
「斎、あんたは」
「PUT、先見の力。GET、時を10秒止める力」
「花房だっけ、あんたは」
「PUT、味覚。GET、優れた嗅覚」
「了解。そこのヴァイオリニスト、次はあんただ」
「……PUT、左目の視力。GETは高い聴力」
「おっしゃ、んじゃ純華」
「え? あ、はい。PUTは声。GETは心に話しかける声です」
「じゃ、最後だ。そこのでかいガキ。お前は?」
「ガキっていうヤツがガキだって知ってるか? PUT、痛覚。GET、超常の存在に触れる力」
「よし、それじゃ行って来い。そこで成せ、自分の選択を」
 宣誓の直後、有無を言わせぬ力場が発生し、己の意志とは無関係に巨大な門に体が吸い寄せられていく。
 そして門を潜った瞬間、視界は完全にホワイトアウトし、聴覚はその役目を一切放棄してしまう。
 ただ残されたのは、奇妙な浮遊感だけだった。


■第二章 〜飛び去る蝶〜

 雨が降っていた。
 幾重にも重なりアスファルトの大地を冷たく濡らしたそれは、柔らかなオレンジ色の街灯の光を無感情に反射している。
 ちらりちらり、と雨に混ざり降ってくるのは薄紅の花弁。
「寒いですね。大丈夫ですか?」
 周囲の様子を注意深く窺いながら、悠也が近くに立っていたシュラインに傘を差し伸べた。そうされて、シュラインは初めて自分の手にも傘があったことに気付く。
「なんというか……本当に唐突ね」
 ありがとう、と微笑んだシュラインは自分の傘を天に向けた。パタパタと雨粒を弾くその音は、とても聞きなれたもの。けれど彼女は自分の身を覆う不慣れな感覚に、しきりに首を傾げる。
 寒いのか、暑いのか。全く分からないのだ。頬に触れてくる大気の流れが、皮膚をするりと撫でていくだけに感じるのが、なんとも気持ち悪い。
「確かに、日付は変わってるな。それに服もさっきまでと違う」
 携帯電話を取り出した蓮が、ちらりとそのディスプレイに視線を落し溜息をつく。着衣に乱れなどはないが、先ほどまで着ていた梅雨時期前のものではないそれは、間違いなく冬の終わりに着ていた自分のものだった。
 そして見上げる先には満開の桜。
 つい先ほどまでいた『現実』では、とうに散ってしまったはずのそれ。
「にしても、厄介だな」
 悠也に倣い周囲を見渡した蓮が、その違和に口の端を歪める。左の視力がない分、遠近感がつかめないのだ。微妙にふらつく足元がなんとも心もとない。
 こんな世界にいつも彼の人は身を置いているのだ――そう考えると、胸の深いところが疼き出すような感覚に囚われる。
「って、蓮ちゃーん。なんか遠くに行ってる場合じゃないと思うケド」
 不意に落ちてきた思考の幕に視野の全てを奪われかけた蓮を、美咲のあっけらかんとした声が強引に現実へと引き戻す。
「にしても面白ぇのな。ほれ、ここってあの女の残留思念とかゆーのを見た場所だろ? なんかオレ自分の意志でここまで来てるみたいなんだよな。ほれほれ、コレ見て」
 言いながら美咲が着慣れた学ランのポケットの中から発見した、鉄道会社のプリペイドカードを、蓮の目の前にちらつかせる。それを横から覗き込んだ翠が感心したように、へぇーっと溜息を零す。
「確かに、自分の足で移動してきたっぽいな。俺なんてそこにバイクまであるぜ」
 プリペイドカードには、確かに美咲の今日の移動経路が分かる印字がされていた。そして翠のバイクも六人の近くで雨に晒されている。
「これが『並相転移』ということですね。ところで、八雲さん――どうかしましたか?」
 先ほどから全く会話に加わってこない少女に、悠也はそっと歩み寄ると、その肩に静かに手を置く。
「―――」
 触れられ、純華は赤い瞳を不安に揺らし、悠也の金の瞳を見上げて見返す。そして何度か口をパクパクと動かすのだが、そこから彼女の声が零れる事はなかった。
「あぁ……そう言えば貴女は声を代償に力を得たんでしたね。大丈夫、リラックスして。声を出そうと思わないで。心で願えばいいんです」
 窮屈な水槽の中の金魚のように、短い周期で喘ぎを繰り返す純華の背を、悠也は二、三度軽く叩いてやる。誰かが不安に陥っている時は、適度なスキンシップが安定を取り戻すために大事なことか悠也は弁えていた。
 無論、その気遣いこそが彼の仕事での人気を支えているのは間違いない。
(「……あの………」)
「うん、大丈夫。ちゃんと聞こえる」
 か細いながらも心に直接響いた少女の声に、悠也が笑む。その様子に純華も、心での会話が上手く行ったことを知り、緊張で凝り固まった肩から力を抜いた。
 しかし、そんな穏やかな雰囲気も束の間の事。
「なぁ、あれ」
「えぇ、そうみたいね」
 最初に気付いたのは蓮だった。それに僅かに遅れてシュラインがすっと視線を流して頷きを返す。
 左目の視力の代わりに得た常人の域を遥かに超えた蓮の耳には、離れた所で誰かが地べたに触れる音が聞こえていた。歩く音とは明らかに異なるその音は、彼女――香苗の到来を意味している。
 一同の視線が、彼らからは50mほど距離のあいた場所に、傘も差さずに蹲る女性に注がれた。それは間違いなく、紫胤に出会うきっかけとなった残留思念そのままの姿。
「可愛い女性を哀しませ続けるわけにはいきませんからね」
 さっと行動に移ったのは悠也だった。
 職業柄身に付いたのであろう優雅な身のこなしで、香苗にそれとなく駆け寄り傘を差し出す。
「どうかされたんですか?」
「え……?」
 屈みこんだ彼女に視線の高さを合わせるように、悠也も静かに膝を折る。
 突然かかった声に振り返った香苗の頬は、雨粒以外の水滴に濡れていた。
「以前もお見かけしたことがあるんです。何か探し物ですか? よろしかったらお手伝いさせて頂けないでしょうか?」
 多くの女性を虜にしてきた笑顔に、香苗は一瞬焦ったように、手の甲で自分の濡れた頬を拭う。それから慌てたように立ち上がり、悠也から一歩距離をとった。
「いえ、あの……」
「一人じゃ効率も悪いだろ。良かったら俺も手伝うけど。何を探してるんだ?」
 急な出来事に戸惑いを隠せないらしく、優しい笑顔の悠也にさえ警戒を示した香苗に、蓮が改めて傘を差し出しながら声をかける。
 しかし、新たに加わった声に香苗はびくりと肩を竦ませた。
「大丈夫よ、コンパ帰りの一団みたいなものだから。ちょっと先から貴方が見えてね。気になったんだけど……どうかしたの?」
(「大丈夫、ですか? 何かお手伝いできませんか?」)
 自分を囲んだ集団の中に女性の姿を認め、香苗の表情に微かな安堵が滲んだのは一瞬。不意に響いた謎の声に、香苗の表情が一気に怯えの色に染まる。
 聞こえたのは軽やかな少女の声。そろりと見渡せば、高校生くらいの少女が、自分に向ってなにやらジェスチャーのようなものをしている。
「なに……あなた……?」
(「私、香苗さんのお手伝いがしたいんです」)
 香苗の視線が、純華だけを凝視していた。
「なんで? なんであなた私の名前知ってるの? 貴方達、何なのっ?」
 言葉の最後は、ほとんど悲鳴に近かった。
 しまった、と悠也の表情に苦い色が浮かぶ。
「待ってください。僕達は――」
「来ないで下さい。なんでもありませんからっ!」
「おい、ちょっと待てよ」
「いやっ! 離してっ」
 逃げるように走り出した香苗の細い手首を、翠が捉えかけたが、それは敢え無く振り払わる。
 そのまま香苗は駅があると思われる方向へ、一目散に駆け出してしまった。
 ひらり、ひらりと無情に桜が舞い落ちる。それに誘われるように、一羽の蝶が香苗の後を追いかけ飛んだ。
「そりゃー、まー、ねぇ。いきなり見たことない連中に囲まれたら逃げたくもなるわなぁ。それにアレだぜ、あの人。探し物がみつかんなかったくらいで、自殺しちゃうような人だろ?」
 一人、距離を置いたままだった美咲が、殊更ゆっくりと歩み寄りながら、片肩を竦め年長者たちに言い放つ。
「確かにな。誰かに一緒に探してくださいって言える人なら、魔につけ入られるようなこともないのかもしれない」
「そうね……確かにそうかもしれないわ。でも、これじゃ香苗さんが何を探してたかはっきりと分からなくなったわね」
 蓮とシュラインが顔を見合わせ頷く。
「やはり指輪をしていませんでしたからね。恐らくそれだとは思うのですが。しかし万一違った場合を考えると……」


■第二章 断章 〜金の姫〜

「ん? 大丈夫か」
 シュライン達が、何を探せばいいのか、と話し込んでいる横で、翠は顔を真っ青にし呆然と佇み微動だにしない純華に気付いた。
「どうした?」
 声をかける。が、返事はない。
 あぁ、そういえば『声』を失くしているんだったか、と思い出す。しかし彼女には『心の声』という力があったはずなのだが、と思い至り再び首を傾げる。
「おい」
 一際強い翠の呼びかけに、ようやく純華が顔を上げた。
 その唇はわなわなと震え、瞳には今にも溢れ出さんばかりの涙が膨れ上がっている。
「おい、どうした?」
 しかし純華は応えず、持っていた荷物の中を漁り始めた。そうして取り出されたのは、女子高校生らしいデザインの手帳とペンシル。
 純華は小刻みに揺れる手で、必死に何かを書き連ねた。思うように書けないのか、何度もページを引き千切ってはバッグの中に押し込み、再び書き直すことを繰り返す。
 そして、ようやく書き終えたのか、純華は翠の眼前に手帳を突き出した。
「……んなことねぇよ。確かにびびっちまったのかもしれないけど、それはきっかけに過ぎない。あんなふうに警戒を始めた人間には、そう簡単には心を許してくれないもんだ」
 歪んだ字で書いてあったのは、純華の後悔の言葉。
 自分が変に話しかけたから、香苗さんは逃げてしまった。どうしよう、どうしよう。
 深い罪の意識に苛まれた少女の言葉に、翠は宥めるようにそっとその肩に手を置く。
 途端、流れ込んできたのは純華の意識。香苗の恐怖に怯えた顔が、フラッシュバックを繰り返す。
「ほれ、そんな顔する。俺さ、こうやって触れると人の心がわかったりするんだけど。まぁ、その分『心』に関してはスペシャリストなわけ。その俺が言うんだから、間違いない。お前は悪くないさ」
 今度はぽんぽん、と頭の上で軽く手を弾ませる。これ以上触れてしまっては、余計なことまで覗いてしまいそうで、力をセーブして純華の意識が流れ込んでくるのを遮断して。
「しかし、厄介なのは事実か。魔とやらに巣食われてるせいか。あの女の心、視ることが出来なかった」
 相変わらず不安気に揺れる純華の視線に、少しおどけた笑みを返した後、翠は自分の左手に視線を落とす。
 香苗とすれ違いざま、彼女の意識に触れるつもりで伸ばしたこの手。確かに触れたのに、そこからは何も伝わってこなかった。いや、何か不気味な黒い触手のようなものは視えたのだけれど。
(「どうしたら……いいんでしょう?」)
 翠の心に、おそるおそる純華の声が響いてくる。
 どうやら先ほどは、その力を使うことさえ躊躇われていたらしい少女の言葉に、翠は自分の手を見詰めたまま瞳を伏せた。
「こういう時は祈るしかないかもな。日本人の癖だよな、最後は神頼みって」
(「祈る?」)
「そうそう。どうしていいか分かんなくなっちまった時とかもさ。何かに祈ってみたら、ぱっと妙案浮かんだりすることもあるし」
 軽い口調だった。
 しかし、心の中は切に祈っていた。
 折角『救う』というきっかけを得られたのに。自分はそれを成せないのか、と。
 そして純華も強く願っていた。
 翠は自分のせいではないと言ってくれたが、もし自分が香苗に心の声で話しかなければ、彼女はひょっとしたら心を開いてくれたのではないかと。
 考えれば考えるほど、後悔で胸が張り裂けそうになる。
 出口のない迷路に、二人は同時に迷い込む。
 そして願いも重なる。
 誰か、この窮地を脱する方法を教えてくれ、と。
「どうすれば……」
(「どう、すれば……」)
 不意に雨が止んだ。
 辺りが異様な静けさに支配され、凛と研ぎ澄まされて行く。
 アスファルトの大地が姿を消し、櫻並木が輪郭をなくす。目に見えるものが全て、一つに混ざり合い、そうして世界は黒一色に変わった。
 それはまるで紫胤やゲートキーパーが作り出した空間と同じような。
「迷い子よ。導きましょう――望むなら」
 そして救いの手も唐突だった。
「なんだ、お前?」
 すぐ真後ろからかかった、鈴を転がすような声に振り返った二人が見たのは、一人の小柄な少女の姿。朱と金色に染め上げられた十二単のような衣装に身を包んだ、どこか現実離れした容貌の。
「わたくしは、導き手。あなた方のような、在り得ぬ存在を正しき場所へと導く者」
 少女は、感情を推量れぬ声音で、歌う様に言葉を紡ぎ続けた。
「迷い子よ、これが視えますか?」
 言葉と同時に、少女の手の中に、銀の糸で刺繍された手毬がぽわりと浮かび上がる。
 他に何もない闇の中、自ら光を放つような色の手毬に、翠と純華の視線は自然と吸い寄せられてしまう。
 その様子を確認した少女は、さしゃり、と幽かな衣擦れの音と共に手の中の鞠を手放した。てんてんてんっと幾度か弾んだ手毬は、ころころと転がり始める。
「その先に、何が視えるかは、あなた方次第。それを、どう取るかもあなた方次第」
(「え?」)
 現れたときの唐突さと同じように、少女の姿がぼんやりと霞み、輪郭を失っていく。それに気付いた純華が、謎の少女に向って手を伸ばした。
(「どうしよう……」)
「おい、見ろよ」
 立ち尽くしたまま、手毬の行方を見詰めていた翠が弾んだ声を上げたのは、純華の手が少女に届くことなく宙を切った瞬間。
「あれ……指輪、だよな」
 振り返った純華の目にも転がる鞠の先に、何かが視えた。
 他に何もない空間の中、手毬と同じ色に輝く小さなリング。
 それが何故、こんなにもはっきりと認識できたのかは分からなかったけれども。
「なんっつーか、まさになんでもあり、な世界だよな。便利っちゃ便利だけど」
 翠の感想に、純華も素直に頷きを返す。そして少女に礼を言わねば、と首をめぐらせ、既に彼女がこの場から完全に姿を消していることに気付く。
 ゆらり、と世界が揺らぎ始める。
 柱を失った世界が、元の世界にはじき出されようとしているのだ。
 暫くの酩酊感にも似た感覚の後、視野には先ほどと変わらぬ仲間達の姿が映った。

  ***   ***

 嫌な沈黙が帳を下ろす。
 それを破ったのは、翠と純華の声だった。
「探し物、指輪でいいと思うぜ」
(「はい、私もそれで間違いないと思います」)
 何を根拠にか明らかな確信を滲ませた声に、考えに詰まっていた三人が怪訝な顔で振り返る。
「どういうことですか?」
「どういうことも、こういうこともねぇ、って感じかな。さっきの女が婚約指輪をしてなかったってのは、あんたらも気にかかってることだろ。それに――」
(「それに、教えてくれた人がいたんです。皆さんは……ご覧になられなかった……んですよね? えーっと……なんか紫胤さんみたいな感じで突然……」)
 翠と純華の話によると、どうやら二人は一時的に、また誰かに遭遇したらしかった。その出会った相手は、自分を『導き手』と名乗り、行く先に迷っていた二人に『指輪』というキーワードを与えたと言う。
(「あのですね、なんか信じられないと思うんですけど。でも、私は彼女の導きっていうのを信じていいと思うんです」)
 身振り手振りを加えて説明する純華の姿は、どこか必死なものがあった。自分が不用意に特殊な能力を使ってしまった事を酷く後悔しているらしいその様子は、その分だけ誰よりも真摯さと熱意に溢れている。
「なんだかこう……自分できっちり理由見つけられたって訳じゃないのが、気にかかるけれど。それを言い出したらキリもないことだし。そうね、とりあえずその『導き手』とか言う人を信じてみましょうか。それに、純華ちゃんの勘はハズレ知らずみたいだしね」
 先日、とある依頼で一緒になったとき、ことごとく勘で当てた純華を思い出し、シュラインがそう結論付ける。最後に純華に優しい微笑を添えるのを忘れずに。
「となるとこれから先の行動だが」
「どうでもいいけど――ってよくないけど。ねぇ、蓮ちゃん気付いてる? 時間。ほら、なんだかんだで結構過ぎちゃってるぽいっていうか、あのゲートキーパーのバカ野郎って感じかもしれないんだけど。ニュースに出てた香苗って人の死亡推定時刻までもうそんなに間がないんだけど、どうする?」
 指輪を探せばいい、という結論に到達した安堵も束の間。今後を促そうとした蓮の言葉を遮り、ふたたび美咲が鋭い指摘を飛ばす。
 彼がゲームセンターに向う道すがら調べた情報では、香苗の死亡時間は22時過ぎとされていた。なんでもその時刻近くに婚約者の男性の携帯電話に着信があったらしい。運悪く出ることの出来なかった彼が、折り返し連絡をしたのだが、その時は既に彼女の応答はなかった、というのだ。
「現在時刻は21時。どー考えてもあの野郎がギリギリの時間にオレらを飛ばしたとしか思えないわけなんだけど。どうする? 今から指輪探すのか? それとも『魔』とやらを倒しに行くのか?」
 まだどこかにあどけなさを残した声が、ただ残酷に真実だけを告げる。
「……残り、一時間。いえ、それ以下、と見た方が妥当でしょう」
「分かれて行動した方がよさそうね」
 残り時間と、やらなくてはいけないこと。
 それらを考えると、気が遠くなる。しかしシュラインが呻くように出した答えに、誰も異存はあるはずもなく、六人はそれぞれ新たな選択をして走り出した。
 雨はまだ止まず。
 舞い落ちる桜の花弁の数も増え続けていた。


■第三章 〜紙ひこうき〜

「私、幸せになれるのかしら?」
(「なれます、絶対に。いえ、絶対幸せになるんです」)
 純華はそっと香苗の背中に手を回す。耳元で小さな嗚咽が聞こえた。
 すぅっと静かに伝ったのは透明な涙。
 それは雨に晒され、冷え切った頬を優しい温もりで溶かすようだった。


 暗い雨の中、純華は走り続ける。
「(私、香苗さんの自殺現場に行きます。それでなんとか時間、稼ぎます)」
 傘も差さずに夜陰に沈んだ街を駆け抜ける少女の心の中で繰り返されるのは、仲間たちと別れる前に交わした言葉。
「場所は香苗の自宅から500mくらい離れた建設途中で放置されたっぽいマンションな。最寄の駅まではこっからだと地下鉄乗り継ぐと早いから」
「そこから先は……そうですね、駅を出たところに蝶がいると思います。それを追いかけてもらえば彼女まで迷わず辿り付けるはずです」
 的確に今後の道順を示してみせたのは、事前に香苗の自殺に関して情報を収集していた美咲。そしてさらに不思議な道案内の存在を告げたのは悠也だった。
 時間が酷く限られている。
 その事が判明した瞬間、純華が択んだのは香苗と接触し、自殺に至るまでの時間を稼ぐ、ということだった。その間に仲間達が指輪見つけてくれたり、魔という存在を打ち滅ぼしてくれれば何とかなる――そう信じて。
 けれど、もっと良いのは。自分の言葉で香苗が自分の命を投げ出すことを思い留まってくれること。
 冷たさに、針のように鋭さを増した雨が肌を刺す。いつもであればふわりと風に気持ちよくなびく髪が、弾む体とは裏腹にじっとりと首筋にまとわりついて離れない。
 それでも純華は、駆けるのを止めようとはしなかった。
(「だって……だって………」)
 そこから先、どんな言葉を続けてよいか分からないけれど。分からないけれど、悲しみの中で自分から命を絶ってしまうなんて、絶対に黙って見過ごせない。
 一戸建てやアパート、マンションなどの建物が乱雑に並ぶ、ありきたりの住宅街。視界を遮るものが多い界隈で、不意に視界が広がった。
 気付けば、ここまでずっと純華を導いていた淡い燐光を放つ不思議な蝶も姿を消している。
 スローモーションのような動きで、戸惑いながら純華は走り続けた足を静かに止めた。そして見上げる――少し先に見える高いフェンスで囲まれた建物を。
 建設途中らしいそれは、放置されたままの足場にその全貌を覆い隠されている。
(「あれが……」)
 確信した時、どきりと心臓が一際大きく跳ねた。
 急がないと、と思うのに今度は足が凍りついたように前に進むことを拒絶する。
 もし、また怯えさせてしまったら。
 自分のせいで、逆に自殺へと追い込んでしまったら。
 知らず知らず胸の前で組んだ腕が、小刻みに震え出す。
 弱い、心。
(「負けるな、自分! 負けてなんか、いられない」)
 声が出せていたならば、きっと純華は叫んでいただろう。それほどの強い力で自分に檄を飛ばす。
 自分だったら。香苗が大好きな彼氏だったら。自分はどんなことがあっても、僅かな可能性にかけてでも、望みを捨てず足掻き続けるだろう。
 失いたくない、失わせたくない。
 決意を新たにした純華は、力強く新たな一歩を踏み出した。
 そして、地下鉄での移動中に準備したものを忍ばせたトートバッグに手を入れ、誰よりも大切な人に『力を貸して』と、指先に触れたものに祈りを込めた。


 眺めた空には星はない。
 重くたちこめた曇は、どこまでも晴れることがない――それはまさに今の香苗の心そのものだった。
 まだガラスのはまっていない窓から吹き込む風は、体を芯まで冷やす。けれど、そんなこともうどうでもいい、と思ってしまえる。
「……え?」
 虚ろな眼差しで今まで自分が生きてきた街並みを見下ろしていた香苗の目に、不意に夜目にも鮮やかな真っ白い何かが滑り込んできた。
 それも、一つではなく。
「紙……ひこうき?」
 まるで吸い寄せられるように香苗の足元に舞い込んだのは、幾つもの紙ひこうき。ノートを破って作られたらしいそれには、翼の部分に文字列の一部が垣間見えた。
「……な、に?」
 拾い上げ、何をするとなしにそれを広げた香苗の目が驚愕に見開かれる。
『諦めちゃダメ』
『あなたはまだ何も失くしてなんかないから。勝手に決めちゃかわいそうです』
『幸せになれます。幸せになるんです』
『婚約者の人、泣いちゃいます。お父さんもお母さんも同じ。あなたは誰かにとっての一番なんだから』
 書き連ねてあったのは、言葉。
 香苗を世界に繋ぎとめようとするそれ。
(「未来の旦那さん、あなたが死んだら絶対泣きます。哀しみます。大好きな人に哀しい思いをさせたらいけないんです」)
 呆然と紙ひこうきであったものに目を奪われていた香苗が、はっと顔を上げる。
 逡巡するように視線をめぐらせ、かちり、と視線が絡んだ。
「あなた……さっきの」
(「待って下さい。行かないで下さい。話、聞いてください。泣かないで下さい。泣かせないで下さい!」)
 香苗から少し離れた柱の影、そこにその少女――純華はじっと立ち尽くしていた。香苗が怯えないよう、人間になら誰にでもある、他人の接近を許せる個人のテリトリーを侵害しない距離を保つように。
 それでも有り得ない声に、先ほど見知らぬ人間に囲まれた恐怖が香苗の中に蘇る。けれど、それ以上に『泣かせないで下さい』という言葉が、深く心に突き刺さっていた。
 その様子を、自分の言葉を聞き入れる余裕があると、的確に判断した純華は、わざと足音をたてて香苗に歩み寄る。
 カツン、カツンと乾いた音。雨音に混ざりながら、純華が同じ『人間』であることを、その音は香苗に教えていた。
(「大丈夫、です。誰もあなたのこと、嫌ったりなんかしません」)
「でも……私。私、彼に貰った大切なもの失くしてしまったのよ? 何よりも大事にするって約束したのに」
(「私『勝手に決めちゃだめ』って書きました。あなたが嫌われるって思い込むのは簡単だけど、人の想いはそんな単純なものじゃないと思います。それに――」)
「それに……?」
(「大切なものを失くしたからって、自分の命を代償にされちゃったら、贈った人はものすごくたくさん哀しんで後悔します。だって、その人にとってあなたより大切なものなんてないはずだから」)
 殺風景な空間に響くのは香苗の声だけ。しかし、そこには間違いなく二人の心を繋ぐ会話があった。
「でも……だけど……私、約束を破ってしまったわ。一度破ってしまったら、二度と……」
 香苗の瞳の中にチラチラと迷いの光が浮かぶ。純華はそれを見逃さず、一気に駆け寄り香苗の腕を掴む――その瞬間。音を消していた純華の携帯電話が、短いバイブレーションでメールの着信を持ち主へと告げた。
(「あなたは何もなくしてなんかいません」)
「え?」
 純華には何故か分かっていた、そのメールが何を知らせてきたのかを。
 だから、香苗の目を真っ直ぐに捉えたまま、手探りで携帯電話を取り出すと、何も言わないままそれを香苗へと差し出した。
(「見て下さい。それ……あなたの、ですよね?」)
「―――!」
 純華の見つめる先、香苗の表情が大きく揺れる。最初は驚愕に、次は感動に。
 短いメールには『見つけた』というメッセージと、一枚の写真が添えられていた。それは間違いなく、香苗がなくした婚約指輪。
「……私、幸せになれるのかしら?」


■第四章 〜Selection ≫ June bride〜

 始まりは不意に訪れた――そして、終わりも突然に。
「お疲れさん、取り敢えず今回の件はこれで出番はお終いってことで」
 世界は、再び黒一色の無限の空間が広がっていた。あるのは、六人の仲間とゲートキーパー、あとはネオン光の細い光点が走っては消える、不可思議な巨大な門だけ。
「つまり、香苗さんを救うことが出来た。そういうことですか?」
 脇腹を押さえる美咲を横で支えた恰好の悠也が、いち早く状況を飲み込み周囲を見渡す。
 すぐ近くに立つ翠。
 ゲートキーパーの近くで、何かを握り締めるように立ち尽くす蓮と、それを見守るように傍らに在るシュライン。
 残るは、一人少し離れた所で腕の中にあった何かが不意に質感を失ったことに、戸惑いを隠せず座り込む純華。
「ま、詳しいことはあっちに戻ってから自分の目なり何なりで確認してくれって感じで。とりあえず、あんたらは自分らの選択で自分らの出来ることをやったってワケ」
 結果には興味ない、とばかりにゲートキーパーが何かを追いやるように手を閃かせる。すると、その手の中に巨大なガラス製の鎌が現れた。
 漆黒の衣装、そして大きな鎌。
 出会った時はゲームセンターだったから、格闘ゲームに出てくるキャラのようだ、という感想しか抱かなかったが、ふっと頭の隅に『死神』という言葉が浮かぶ。
「斎・悠也、花房・翠、季流・美咲。あんたら三人は香苗を死へと誘惑していた『魔』を消し去った。シュライン・エマ、香坂・蓮。あんた達は香苗が魔に付け入られる隙を作ってしまったきっかけを取り除いた。で、八雲・純華。あんたは香苗の弱い心に強さを教えた――これが元の世界にどんな影響を及ぼすのか、今ここにいる俺は知らない」
 一人一人の名を呼び、鎌の先端部分をそれぞれにつきつける。ぴたり、と焦点をあわせられるたびに、その鎌は不思議な色を帯びた。
 悠也に向けられた時は金。
 翠に向けられた時は緑。
 美咲には真紅。
 シュラインには白。
 蓮には蒼。
 純華には、淡い桜色。
「あぁ、そうだ。言うの忘れてたから付け加えとくけど。あっちの世界で負った怪我や病気は、あっちのあんたらにもその後残るし、帰ったあんた達の体にもしーっかり残るから。魂の情報って案外バカにできねーんで、そこのとこよろしく」
「てめ、ぜってーそれワザと黙ってたろ」
 悠也に支えられ、ようやく立っている美咲が、ゲートキーパーのイマサラな物言いに、遠慮ない不満を顔と言葉に表した。傷自体はすっかり癒えているのだが、大量の血液を一気に失った体にはやはり相当な負担がかかっているらしい。
「ま、旅の恥はかき捨てよろしく別次元の自分に全部押し付けちゃうのは不本意だから、それが妥当なところよね」
 危うく風邪をひくところだったシュラインは、それも道理と頷く。しかし彼女を横目に盗み見た蓮は、やはり止めておいてよかった、と安堵に胸を撫で下ろす。
「おい、いつまでぼーっとしてるんだ? 終わりだとよ」
 床――正確には本当に『床』と呼んでいいのか分からないが――にへたりこんだままの純華の腕を、翠が引き上げる。
「え? あ……はい。って……香苗さん、大丈夫だったんでしょうか?」
 抱き締めた温もりはまだ残っていた、頬に伝った涙の跡も。けれど全てが夢のようで、純華は顔を合わせた一同をぐるりと見渡し、再び視線を落す。
 その時、その場に軽やかなウェディングベルが響き渡った。
 はっと顔を上げる純華。視線の先には、優しく微笑むシュラインの姿。
「大丈夫よ。やることは全部やったんだから。きっと大丈夫」
 ベルの正体は、シュラインの声帯模写。けれど、それは誰の耳にも本物の鐘の音として響いた。
「それじゃ、そゆことで。いつまでもこんなとこに屯ってないで、とっとと門を潜っちまいな」

 そして――――………


「あれ、京師さんじゃないですか?」
「へ? あ、純華ちゃんだー。こんにちは」
 見上げた空は晴天。何処までも広がる底抜けの青に、力強さを増した木々の緑がよく映える。
 カレンダーは五月から六月に移り変わり、紫胤との出会いからも半月ほど経ったその日。何故かぽっかりと予定のない休日、純華は気紛れに散歩に出かけた。
 もちろん行く先など全く決めていない。
 電車を乗り継いで、風の吹くまま、誘われるまま。
「こんにちは! お久し振りです。お元気でしたか?」
「元気も元気〜。って、純華ちゃんはなんでこんなとこに?」
 出会いは全くの偶然。少し洒落た店の立ち並ぶ細い道を、ウィンドウショッピングを楽しみながら歩いていたら、目の前からなんだか見覚えのある長身の人影が。
 それが草間興信所の依頼で出会ったことのある、京師と名乗るちょっと変わった所のある青年であることに純華が思い至るのに、時間は全くかからなかった。
「特に理由はないです。いいお天気だからちょっと散歩でもしようかなって。そういう京師さんは?」
「ん〜、僕も同じかな。ところで純華ちゃんは彼氏と一緒じゃないの?」
 いつの間にか並んで歩き出す。
 見上げた紫の瞳に、悪戯っぽい子供のような光を見つけて、純華はむーっと可愛らしく眉を寄せた。
 初夏特有の爽やかな風が、純華の薄茶の髪をふわりと躍らせる。
「一緒だったら一人でいません。今日はライブの打ち合わせなんです」
「そっかー、純華ちゃんお一人か〜。それならおじさんがナンパしちゃおうかな」
「京師さんがナンパですか? ソレって奥さんに怒られません?」
「………会えない時間が二人の愛を育むのさ」
「なんですか、それ!」
 ふっと遠い眼差しでそんなことを言ってのけた紫に、純華は耐え切れずに笑い出す。明るい声が、透き通った世界に響き渡った。
「そんなに笑わなくってもいいのになぁ」
「さっき茶化されたお返しです」
 ころころといつまでも笑い続ける純華に、今度は紫が唇を尖らせる。
 ぼそりと『箸が転がっても可笑しい年頃っていうのかなぁ〜』と紫がしみじみ呟いたが、それに対し『オジサンくさいですよ』とツッコミを入れるのは、これ以上いじけさせては可哀想だからと純華は我慢することにした。
「ん? あ、ほら純華ちゃん。結婚式やってるみたいだよ」
 すぐ近くから湧き上がった歓声に紫がくるりと視線を廻らせ、純華の腕を引いて走り出す。
 それは小さなチャペル。敷地内に植えられた樹木に囲まれた白い建物が、独特の雰囲気を持ち建ひっそりと佇んでいた。
 そこの扉が開き、今まさに式を終えた新郎新婦が参列者のフラワーシャワーを浴びて階段を下りてくる。
「ほらほら、綺麗だね。まさにジューンブライド。ね、純華ちゃん」
 純白のウェディングドレスに身を包み、桜色の花で作られたブーケを手に幸せそうに笑う花嫁。彼女の姿に、純華は呆然と見入った。
「純華ちゃん?」
 急に呆けたようになってしまった純華を不安に思った紫が、ひょいっと顔を覗き込む。
「……香苗さんだ」
 純華の頬を、瞳から零れた一条の雫が伝う。
 あの日、現実に戻ってから色々調べたが、どこにも菅谷・香苗という名前を見つけることは出来なかった。
 それはつまり、彼女が自分から命を絶つような事は起こらなかったのだ。そう思うことにしていたけれど、確証を得られたわけではなく。拭い去れない一抹の不安が、純華の胸の中には残り続けていた。
「知り合いだった?」
「いえ、違います。ここでは」
 不思議そうに自分を覗き込んでくる紫に、ぐいっと手の甲で涙を拭って全開の笑顔を向ける。
「おめでとう、香苗さん」
 そう、決してこの現実では純華と香苗の人生は交わることはなかった。けれど、純華は確かに彼女を知っていて、香苗の笑顔を見れたことを心底喜んでいる。
「なんかよくわからないけど、純華ちゃんもいつかあぁなれるといいね」
「それはちょっと早すぎます!」
 心の中で、新しい門出を迎えた二人にぺこりと頭を下げて。純華は再び紫と並んで歩き始めた。言われたことに、まだまだ先かもしれない未来のことを想像し、少し頬を染めながら。
「その時は、僕も呼んでね?」
「だーかーらーっ! まだ早すぎますってば!!」
 青い空へと放られた幸せの象徴、花嫁のブーケ。
 その中の一枚の花弁が、気紛れな風に誘われ純華の髪に舞い降りた。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名】
  ≫≫性別 / 年齢 / 職業
   ≫≫≫【関係者相関度 / 構成レベル】

【0086 / シュライン・エマ】
  ≫≫女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
   ≫≫≫【GK+1 紫胤+2 / NON】

【0164 / 斎・悠也 (いつき・ゆうや)】
  ≫≫男 / 21 / 大学生・バイトでホスト
   ≫≫≫【紫胤+1 鉄太+1 / NON】

【0523 / 花房・翠 (はなぶさ・すい)】
  ≫≫男 / 20 / フリージャーナリスト
   ≫≫≫【紫胤+2 鉄太+1 / F】

【1532 / 香坂・蓮 (こうさか・れん)】
  ≫≫男 / 24 / ヴァイオリニスト
   ≫≫≫【GK+2 紫胤+1 / NON】

【1660 / 八雲・純華 (やくも・すみか)】
  ≫≫女 / 17 / 高校生
   ≫≫≫【GK+2 / F】

【2765 / 季流・美咲 (きりゅう・みさき)】
  ≫≫男 / 14 / 中学生
   ≫≫≫【GK+1 紫胤+1 鉄太+1 / NON】

 ※GK……ゲートキーパー略


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの観空ハツキです。
 この度は観空初の異界依頼をお受け頂きありがとうございました。そしてこちらは既に恒例と化しているような気がするのですが……毎度毎度ギリギリの納品になってしまい申し訳ありません(謝)

 八雲・純華さま
 こんにちは。またのご参加、ありがとうございました!
 今回も純華さんには乙女爆発! と思っていたのですが(待)イマイチ爆発させ切れずに申し訳ありませんでした。
 ですが、等身大の素直な女の子の気持ちを、香苗にぶつけるシーンなどは書かせて頂いていてとても楽しかったです。
 あと……個人的乙女ドリームで、純華さんの洋服をチョイスしてしまったりして、申し訳ありませんでした。

 今回は『初の異界だし』ということで、世界観説明的に気楽(?)に〜と思っていたのですが……予定は未定。なんというか、一寸先は闇、という言葉をつくづく実感させられました。
 異界にて記載済みの部分に関しては、本文中では簡略化してありますので、「なんだこれは!?」と思われることがありましたら、異界の方で確認して頂けると幸いです(不親切ですいません……)。
 あと登場人物欄になにやら妙なものがくっついております。相関関係のポイントは互いの理解度、ないし友好度だと思って下さい。構成レベルの方は……今はまだ秘密、ということで。

 今回は一章前半・四章後半が完全個別。三章がグループ単位という構成になっております。PCさんによっては自分の物以外にも登場されている方もいらっしゃったりしますので、お暇なときにチェックして頂けると幸いです。
 なお一部の方には二章に断章が存在しております。

 ご意見、ご要望などございましたらクリエーターズルームやテラコンからお気軽にお送り頂けますと幸いです。
 それでは今回は本当にありがとうございました。