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さかさまのメデューサ
ACT.0■PROLOGUE
「……実は、女房に逃げられてしまいましてね」
草間興信所のソファに座ってうつむき、無言のまま30分が経過したのち、依頼人はやっと呟いた。
零が入れた緑茶は、すっかり冷えてしまっている。
30代後半の、スーツ姿の男性である。テーブルの上に置かれた名刺には、『株式会社東京百貨店 商品本部婦人用品課 課長 島崎達也』とある。
女性にもてそうなシャープな風貌の持ち主であるのだが、今はげっそりとやつれ、目の下には隈が浮き、無精ひげが目立っている。ワイシャツの襟元が歪んでいて、せっかくの上質のネクタイもきちんと結ばれていない。
「もう、結婚して10年ちかくになります。子どもはいませんが、それなりにうまくやってきたつもりでした。彼女はずっと家庭を守ってくれていて、満足そうに見えたのに。まさか……こんな意味不明な書き置きを残して姿を消すほど、私に不満を持っていたなんて……」
私に戻ってほしいなら、どうか迎えに来てください。
月と星がはためく国の、地下宮殿の中
さかさまのメデューサの前で
あなたを待っています。
キッチンペーパーに油性マジックで書かれた、生活感あふれる書き置きである。
幻想的な内容との違和感もはなはだしい。
草間武彦はマルボロの吸い殻を盛大に積み上げながら、口の重い依頼人に問う。
「つまりこの、『さかさまのメデューサ』とやらの前にいけば、奥さんを見つけられると?」
「……ですが、私には何のことだかさっぱり」
依頼人は頭を抱える。
「わかりました。――当興信所の調査員が、お役に立てると思います。奥さんの写真はお持ちですか?」
もとより、草間は引き受けるつもりだった。家出した主婦の探索くらい、調査員たちにかかれば朝飯前だろう。しかも依頼人は大手百貨店の課長。堅実な報酬が見込まれる。
「写真はここにありますが。その……。申し遅れましたが、あの、女房は普通の人間ではありませんで」
テーブルの上に置かれた写真には、16、7歳のショートカットの少女が映っている。
「確か、ご結婚なさって10年近くと仰ってましたが……。奥さんはいったいどういう……?」
嫌な予感に、草間の額に汗がにじむ。あまり聞きたくないが、聞かねばなるまい。
「八百比丘尼――と言えばおわかりになるでしょうか。遠い昔、人魚の肉を食べたのがきっかけで、永遠を生きることになった女です」
いきなり八百比丘尼ときたか。急激に痛み出した頭を、草間は押さえる。
はからずも同じポーズで、依頼人と探偵は向かい合っていた。
やがて、顔を伏せたまま、依頼人は言う。
「どうか、お願いします。おそらく女房は、日本にはいないでしょう。調査先が海外に及ぶなら渡航費用は何人分でもお支払いしますし、女房の居所が判り次第、迎えに行きたいと思います」
ACT.1■マジカル・ミステリー・ツアーの参加者たち
「ところで」
応接間から申し訳程度の距離を取った事務机でファイル整理などしつつ、シュライン・エマは依頼人の話に耳を傾けていた。ふっと顔を上げ、目の前の男に呟く。
「依頼人は、普通の人間なんでしょうね……?」
「そう見えるぞ。これといって怪しげな感じはしないし――って、俺に聞くなよ」
藍原和馬は事務机の端に腰掛けて、自分で入れたインスタントコーヒーをすすっていた。昨日の深夜から今日の昼過ぎまで、単発の肉体労働系アルバイトに携わっていたせいか、少々眠そうである。
「奥さんの家出の理由なんぞは本人に聞かなきゃわからんが、書き置きの場所を特定するくらい簡単だよな。わざわざ興信所や何でも屋に依頼するようなことじゃねェ」
「ふうん。大きく出たわね。――さてと、今回の援軍は誰がいいかしら」
取り出したファイルをめくりながら、シュラインは首を傾げる。
「おいおい。俺だけじゃアテにならないってか?」
「そうは言ってないわよ。でも、せっかく数人分の調査旅費を出してくださるってことだし、大勢で動いた方が効率いいじゃない」
目にも止まらぬ早業で、該当調査員の登録カードを選び取ってから、シュラインは和馬を見上げた。
「みんなに連絡する前に、まずは藍原和馬探偵の推理をお伺いしましょうか」
嘉神しえると海原みなもが草間興信所からの連絡を受けたのは、外出先でのことだった。
偶然にも同じ建物の同じフロア内で、顔を合わせた直後である。それは紀伊国屋書店新宿本店の洋書コーナーであった。
「何ですって? 八百比丘尼失踪事件? 謎の書き置き? OKOK、そういうミステリならまかせなさい」
電話口のシュラインに、しえるは大きく相槌をうつ。
「奥さんの居場所? 楽勝じゃないよそんなの。そっちだってもう見当はついてんでしょ――ああ、やっぱりね。ええ、みなもちゃんもここにいるわよ。いったんそちらに合流した方がいい? わかった、じゃあ後で」
しえるが通話を終えるなり、みなもも草間興信所に一報を入れる。
「もしもし。みなもです。あたしも調査に行きます。学校にはお父さんから連絡を入れてもらって休みます。他ならぬ同族のことですし。――え、だって奥さまは人魚を食されたんですよね? だったらもう同族です。その人魚さんの分まで生きていただきたいですし、何より愛は最強ですっ!」
「ちょうどいいわ。新しい言語をマスターしたかったところだったのよ。調査旅行の前に資料をまとめ買いしていこうっと。そして全部、経費で落とすの♪」
しえるがにこにこと言い、みなもも微笑み返す。
「あたしは綺麗な挿絵の絵本が欲しくてここに来たんですけど、もう何冊か見つけましたし。ついでですから別のフロアでガイドブック買って行きます」
「あの国は名物料理も多いけど、フルーツ類もかなり美味しいのよね。調査が終わったら食べ歩きに行きましょう」
「素敵な民族衣装やアクセがたくさんありそうですね。お土産を買うのが楽しみです」
――ふたりとも、謎を謎とも思わない、余裕の笑顔であった。
おりしも武田写真事務所では、とある男性モデルの撮影が終わろうとしていた。某OL御用達ファッション誌の巻頭特集『今、気になる男たち』の見開きページを飾るための仕事である。
モデルは人気上昇中の、日独ハーフの青年、赤星鈴人。外国語学部の学生で、雑誌モデルは何気なく始めたというが、なかなかどうしてあちこちから引き合いが多く、忙しい身であるらしい。彼を撮るのが初めての武田隆之も、これはお姉様がたの心の琴線に触れるだろうなというのがよく判った。
「よし、終了。お疲れさん」
「お疲れさまでした」
撮影中も撮影後もずっと自然な笑みを絶やさない鈴人は、ありがたい被写体だった。順調に進んだ仕事に、隆之は上機嫌である。
「悪いなァ。わざわざ事務所まで出向いてもらって」
「いえ。大学からの帰り道でしたし」
「腹、減ってないか? 減ってるだろう、昼メシ抜きで撮りに入ったから。近くにうまい定食屋があるが、一緒にどうだ? おごるぞ」
「本当ですか。ありがとうございます」
相手が困惑と緊張を伴う女性モデルではなく、気兼ねのいらない男性で、しかも甥っ子と同じ年の大学生とあって、隆之は珍しくも自分からモデルを食事に誘った。
――しかし。
狭苦しいが活気のある定食屋で、白木の椅子に腰を落ち着けおしぼりを手にしたとたん、隆之の携帯が鳴った。
そしてカメラマンとモデルは、一仕事終了後の平穏を破られてしまったのだった。
++ ++
「なんで俺なんだ。暗号解読とかなら、他にも適任がいるだろう!」
「場所が判ったら、おれも調査に行っていいんですか? やった。がんばって奥さん探しますよ」
草間興信所の玄関先で出迎えたシュラインに、隆之はむっとして詰め寄り、鈴人は優しげな笑顔で了承する。
対照的なふたりを見比べながら、シュラインはおもむろに応接間を指さした。草間武彦の横に並んで、嘉神しえる、海原みなも、藍原和馬の3名が、依頼人と向かい合っている。
「あの人たちに加えて、奥さんに逃げられたバツイチ経験者の視点と、反対に、女の子にもててもてて困ってそうな青年の視点があった方がいいと思ったのよね」
「……ああそうかい。じゃあ、あの3人はどういう基準で選んだんだ?」
「んー。語学が堪能で記憶力に優れた人と、人魚に詳しい人と――たまたまその辺にいた、野生の勘に長けてる人」
「野生の勘だとオ?」
いちばん離れた場所に座っていながら、耳の良い和馬がぴくっっと反応する。
シュラインは動じずに、隆之と鈴人を促して、ソファの横に立った。
テーブルの上には、例の書き置きと、依頼人の妻の写真が並べられている。
「じゃあ藍原探偵。さっき聞かせてもらった理性的論理的な謎解きをもう一度、依頼人と他の探偵たちの前でどうぞ」
「こんなにメンツが揃ってるのに俺が言うのかよ。そりゃ光栄なこって」
和馬は肩をすくめ、書き置きを手にする。
「まずはこれだ。『月と星がはためく国』。『月』と『星』が『はためく』ってことは」
「おう、そうか!」
横合いからぽんと手を打ったのは隆之だった。
「はためくんだから、つまり、国旗だな。月と星がデザインされた国旗を持つ国を探せばいいんだ。そうか、頭いいぞ、俺!」
「……あのなア、おっさん。いいんだけどさ、月と星の国旗ってかなり多いんだぞ」
「そうね。それだけだと特定は無理ね。でも『地下宮殿』で『さかさまのメデューサ』ってあるんだから」
しえるが笑いながら助け船を出し、みなももにっこりと言う。
「なんとなく見当はついてたんですけど、念のために、ここに来る道すがら電気屋さんでネット検索してみました。旅行記がヒットしましたよ」
「あ、思い出した」
和馬の後ろに立ったまま書き置きを覗いていた鈴人が、ぱっと顔を輝かせた。
「イェレバタン・サルヌジュ(地下宮殿)って、6世紀にユスティニアス一世が修復拡大した、地下貯水池跡の通称だよね。以前、講義中に教授から聞いたことがあるんだけど、その貯水池を支える柱の基石に、横向きと逆さのメデューサ像が使われているとか。場所は確か……」
「トルコ共和国のイスタンブールよね」
シュラインがあっさりと言い、和馬はふううと頭を垂れた。
「……あー。はい。そうですとも。お嬢さんがたやお兄さんの仰るとおりでございます」
「そういうわけで島崎さん。当興信所の調査員たちのチームワークの良さは、おわかりいただけたでしょうか?」
黙って成り行きを見ていた草間が、頃や良しとばかりに、依頼人に念を押す。
次々に現れてはずらっとソファに座り、あれよあれよという間に書き置きを解読した面々に度肝を抜かれ、島崎はぽかんと口を開けていた。
しかし『さかさまのメデューサ』が存在する国と都市が明らかになるにつれ、意気消沈した男の顔が徐々に引き締まっていく。
「イスタンブールにある、地下貯水池跡ですか」
その表情には、家出した妻の手がかりを知った嬉しさよりは、どこかしら不安のようなものが見え隠れする。
「そこに、『さかさまのメデューサ』があると。……さすがは草間興信所ですね。所長を初めとして優秀な探偵がたくさん在籍していらっしゃると聞いたので、思い切って出向いてみたのですが、良かった。どうもありがとうございます」
島崎は和馬に向かって深々と頭を下げた。和馬はうろたえて書き置きをひらひらさせながら草間を見る。
「いや、それほどでも。そもそも俺が答えたわけじゃないし。……おい所長、この人何か美しい誤解をしてるみたいだけど、訂正しなくていいのか?」
「何をどう訂正する必要がある。そのとおりじゃないか」
満足そうに頷く草間の横顔をシュラインはちらっと見たが、特に異議はとなえなかった。
だが――有能な事務員は、改めて依頼人を見つめる。
心の奥まで見透かすような蒼い視線を受けて、依頼人は少々居心地が悪そうに身じろぎをした。
ACT.2■イスタンブールで会いましょう
「島崎さん。ちょっと確認したいことがあるんですけど」
ソファはすでに定員オーバーで、もう座れない。シュラインは中腰になって島崎に目線を合わせた。
「は、はい。何でしょうか?」
「他に何か、私たちが知っておくべき、奥さんに関する情報はないかしら?」
「いえ……。これといって」
島崎の額に大粒の汗が浮かんだ。よれたハンカチをポケットから取り出して、額を押さえる。
「実は俺も、ちょっと気になってた」
自分の左手の薬指に残る、今は妻ではなくなった女の残滓――プラチナのマリッジリングを眺めながら、隆之は呟く。
「女房ってのは、よっぽどの決心がないと家を出たりしないものなんだよ。あんた、もっと具体的な原因に心当たりがあるんじゃないのか?」
「野生の勘で言わせてもらえば、『別の女の存在』だと思うなァ」
和馬がぼそりと言ったとたん、島崎はさっと青ざめた。
「やだ。ビンゴなの? 浮気なんて最低よ!」
「そうなんですか? だったら、島崎さんが良くないと思います」
「うーん。奥さんが家出するのも仕方ないですね」
しえるとみなもと鈴人に次々に言われ、島崎は慌てて手を振って否定した。
「いえ! それは違います。違うんです。確かにその――同僚の女性から交際を申し込まれていたのは事実なんですが、彼女と私は何の関係もありません」
「じゃあ、奥さんが先走って、浮気したって思い込んじゃったってことかしら?」
「その……。困ったな。どう説明していいのか」
島崎はなおも汗をぬぐう。と、よれたハンカチの隙間から、何かがぱらっと落ちた。中腰のままのシュラインの膝に着地したそれは、四つ折りにされた便箋だった。
「あら、この便箋は……?」
「あ、いや、それは!」
島崎の動揺にかまわず、シュラインは便箋の折れ目を開く。そこにはきっちりとした美しいボールペン字で、激しい決意の表明がしたためられていた。
何度断られても、わたしは諦めません。
普通の人間じゃない奥さまなんて、貴方にふさわしくないですもの。
いちど奥さまとお話しして、納得していただこうと思います。
もし、奥さまが身を引いてくださると仰ったなら、改めてわたしと逢ってください。
「何だこりゃ。あんたに横恋慕している、その彼女からの手紙か?」
身を乗り出して内容を読み取った隆之に、島崎は力なく頷く。
「はい……。三日ほど前に、職場の机の引き出しに入っていました」
「で、彼女はその後も、ちゃんと会社に来てるんだろうな?」
「いいえ。このところ体調がすぐれないとかで、ずっと休んでます」
「何でこれを早く見せないんだ。けっこうな手がかりじゃないか」
「彼女は、女房の家出とは関係ないと思ってましたし……。いや、そうじゃないな、関係がないと思いたかったんです」
「ちょっと俺にも見せてくれ。――うわァ。ドロドロだな。どんな怪談話よりおっかねェぞ」
顔をしかめる和馬に、隆之が目を見張る。
「そりゃ意外だ。あんたは色々と場数を踏んでそうに見えるが」
「そう見えるんならそういうことにしといてくれ。何にせよ、女は怖いや。何考えてんだかわかりゃしねェ」
「それはまったく同感だ」
何でも屋とカメラマンが妙な共感を持ち合うのを見届けつつ、シュラインは和馬から再び便箋を受け取った。
「奥さんがこの人に呼び出されたのか、この人が奥さんを呼び出したのかわからないけど、おそらくふたりは一緒にいるんじゃないかしら」
「ねえ。海外でそんな修羅場をやらかしたら、お互い引っ込みがつかないんじゃないの。危険だわよ。急ぎましょう」
「しえるさんの言うとおりね」
シュラインは島崎に向き直る。
「彼女の写真――は、持ってきてなさそうね。名前と年齢、容姿の特徴を教えてくださいな。出来るだけ早くイスタンブールへ移動して、ふたりの女性を見つけましょう」
ACT.3■いざ、光の都へ
成田発イスタンブール行トルコ航空593便は、定刻通りに離陸した。
目的地までは8時間あまりの、長い空の旅である。
高度が安定するなり、今までの疲れがどっと出たらしい島崎は、座席に崩れるようにして眠っている。
元気が有り余っている6名の調査員は、エコノミー席がまばらなのをいいことに、思い思いに席を移っては調査手順の打ち合わせをしたり、はては読み終えたガイドブックを交換したりして時間をつぶしていた。
「しかしまあ、何だってまたトルコなんぞに行くかなあ。痴話喧嘩くらい近場で済ませられないもんかねぇ」
「何か思い入れでもあるんですかね。海外まで落とし前つけに行く女房ってのも、すごい話だ」
「あーあ。こんなことのために『飛んでイスタンブール』とはね。せめてたくさん写真でも撮って、うまいもんでも食って帰るとするか」
「とか何とか言ってあんたたち、結構楽しんでるんじゃないの?」
往生際悪くぼやきあっていた隆之と和馬は、さっそくシュラインに一喝された。
確かに、ぼやいている割には、サングラスをかけた隆之の服装は、オリエントへの撮影旅行にあつらえたようにぴったりのいでたちであったし、和馬は和馬で、数種類のガイドブックに加えて『トルコ――東西文明の十字路――』などという本を熱心に読みふけっていたのである。
「それはともかくとしてだ。なァ添乗員さん、今頃のトルコってのは暑いのか寒いのか?」
「誰が添乗員よ。……トルコと一口に言っても地域によって気候はいろいろだけど、イスタンブールの6月の平均気温は、東京とそう変わらないみたい」
和馬に添乗員扱いされながらも、つい律儀に答えてしまうシュラインであった。
「1円が約13,500トルコ・リラか(平成16年6月8日現在)。金銭感覚がおかしくなりそ。大きなホテルだと英語もドイツ語も多少は通じるみたいだけど、一応トルコ語はマスターしてきたから、シュラインさんばかりに負担かけてないで通訳はまかせてもらっていいわよ」
しえるが資料を片手に一同を見回すと、やはりガイドブックを読んでいたみなもが顔を上げた。
「良かった。言葉がわかる人がふたりもいれば、奥さんを捜すのに現地でガイドさん雇わなくて済みますね。おまかせしちゃいます」
「あ、おれも通訳はおまかせするんで、よろしくお願いします」
どうやら帰国早々に提出しなければいけないレポートを抱えているらしく、手荷物で持ち込んだノートパソコンのキーを叩きながら、鈴人も片手を上げる。
「こら。ドイツ語専攻の外国学部生なのに、おまかせはマズいだろ」
「いやあ、まだ修行中の身なもので」
カメラマンとしてではなく、人生の先輩としての口調で隆之に諭されて、学業を少々後回しにしがちな大学生は苦笑した。
++ ++
「わあ。窓の外を見てください!」
長時間のフライトに、徐々に言葉少なになり、それぞれの席で仮眠を取っていた一同は、みなもの歓声に目を覚ました。
すでに機体の高度は落ちつつある。シートベルトを確かめながら窓に顔を近づければ、夕暮れ時のマルモラ海の海岸線を、またたき始めた街の灯が光の粒となって彩っているのが見える。
定刻より15分遅れで、トルコ航空593便は、イスタンブールのアタテュルク国際空港に到着した。
到着ロビー内の観光案内所で、シュラインは早々にホテルの予約をした。アヤソフィア大聖堂北側に位置する、調査にも観光にも至便な、オスマン風造りのペンションであるらしい。
銀行の出張窓口もあったので、一同はトルコ・リラへの両替をそこで済ませた。
「地下宮殿って、旧市街の観光名所なわけよね。ここからどうやって行く?」
「空港バスもあるけど、タクシーの方が便利で速そう」
「入場時間は18時までよ。間に合うかしら」
「できれば早めにケリをつけたいわね。うまく奥さんや彼女さんを捕まえられればいいけど」
長旅の疲れもなんのその、シュラインとしえるはてきぱきと段取りを組み、一同をうながしてオレンジ色のタクシーに乗り込んだ。思いの外、道は空いていて、旧市街の中心地までは20分足らずで着くことができた。
タクシーから降りて見上げた空は、茜色に染まっていた。切り絵のようにくっきりと、ブルーモスクのシルエットが映える。
どこからかアザーン(礼拝への呼びかけ)が聞こえてきて、ここがイスラム世界であることを、改めて一同は認識した。――が。
「あれ? でも、モスクも多いけど、通り道にはキリスト教の教会もたくさんあったような? 不思議な街ですね」
鈴人が首を傾げ、シュラインは歩を進めながら同意する。
「そうね。回教寺院とキリスト教会が仲良く並んでいる光景なんて、なかなか見られるものじゃないわ。そこがイスタンブール――旧コンスタンチノープルの懐の深さよね」
ACT.4■メデューサと八百比丘尼
イスタンブールには、巨大な貯水池が6カ所あるという。
そのうちのひとつ、通称『地下宮殿』が発見されたのは、オスマン・トルコがコンスタンチノープルを陥落して百年後、十六世紀半ばのことだった。
住民の2週間分の飲料水が備蓄され、非常時には、地上にあるヴァレンスの水道橋から水が供給されるシステムであったが、現在はもう、貯水池としては機能していない。小さな入場口から、階段を80段下りた先に広がる幻想的な世界を、観光客に提供するのみである。
高さ8メートルの円柱が12列。合計363本もの石の柱が、広く高い天井をアーチを組んで支えている。その中の、一番奥の柱の土台に、メデューサの顔を刻んだ石像が使われているのだ。
メデューサの石像は、ふたつある。
さかさまになった顔と、横だおしになった顔と。
これは、貴重な石材をまかなうために、各地の古い異教の神殿から運んでは使っていたせいで、つまりは再利用の歴史である。
ビザンチン建築の最高傑作と言われるアヤソフィア大聖堂の柱すら、エフェソスのアルテミス神殿の緑の大理石や、パールベックのアポロン神殿の赤い大理石が使われていたりするのだ。
――それは道中、資料を回し読みしながら、一同が仕入れた知識だった。
実際に現場で役に立ちそうなのは、その歴史よりは「地下宮殿は入場料要。学割あり。入口は小さくて見逃しやすい」というガイドブックの表記であったのだが。
「おかしいわね。場所はここで合ってるはずなんだけど」
地図を眺めて、シュラインは首をひねる。
目的の場所に、それらしい入口も案内表示も見あたらないのだ。
「あそこじゃないかな。あの人だかりがしてるところ」
鈴人が指さす先には、大勢の人々でごった返している一角があった。色とりどりの衣服と髪が交差する隙間からは、確かにそれらしい看板が見受けられる。観光客も地元の人々も入り交じって、英語やドイツ語やトルコ語で怒鳴り合っているさまからは、異様な雰囲気が感じられた。
「何かあったのかしら? いやな予感がするわ」
駆け出したしえるに続いた一同は、すぐに足を止めた。
異変が何であるか、気づいたのである。
足元を、水が流れていた。水量は徐々に増して道を満たし、足首を浸していく。
「これは……。おい。洪水でも起こったか? 雨も降ってないのに」
隆之が呟くなり、近くにいた黒い帽子の老人が一同に近づいてきた。身振り手振りを交えながら、何事かを早口で語る。
「このじいさんは、なんて言って……」
和馬が通訳を求める前に、しえるは青ざめて叫ぶ。
「大変! 地下宮殿に貯水されてた水が原因不明の逆流をしてるんですって。入口からはどんどん水が溢れてて、手の施しようがないし、中にも入れないって」
「何だとオ?」
「日本人女性がふたり、入場してすぐのことらしいわ。中に取り残されたふたりを助けるために、じきに救出隊がくるから、関係者以外は立ち入り禁止だって言ってる」
しえるが通訳をしている間も、老人の興奮はエスカレートし、怒っているような大声が響き渡る。
「八百湖(やおこ)と、美沙さんが、中に……」
妻と同僚の名を呼びながら、島崎は呆然とする。
みなもが、静かに進み出た。
「行きましょう。あたしが水の中に通路をつくります」
入口からどうどうと噴き出している水は、みなもがすうと手を伸ばすと、きっかりとふたつに割れた。
水の壁の通路をつたい、一同は地下宮殿への階段を降りる。
少ないはずの水量は、今は天井までも満たされて、並ぶ円柱を半透明のヴェールで隠す。
柱の間を縫うように、奥へ奥へと進んだ一同は――見いだした。
さかさまのメデューサの前にしゃがみ込んで泣いている、ショートカットの八百比丘尼と。
長い髪とレモン色のワンピースのすそをふうわりと揺らめかせ、血の気のない顔で、横倒しに水中に浮かんでいる女を。
++ ++
「あなた。いらして……くださったんですね」
駆け寄ってきた夫に気づき、八百比丘尼はゆっくりと涙に濡れた顔を上げた。
「八百湖。いったいこれはどういうことだ。何があったっていうんだ」
「この女の人が、あなたのことで、私と折り入ってお話がしたいとおっしゃって。お断りしたんですけど、何度も何度も電話をかけてきて、とてもしつこくて……」
「美沙さんがそんなことを……?」
「私のことを調べたって。その昔、神子谷の村で誤って人魚の肉を口にしてしまったことも、年を取らないで永遠に生きることも知ってるって。……ずっと若くいられるくせに、達也さんと結婚までして、そんなのずるいって」
「そこまで言われてたなんて、聞いてないぞ。どうして私に話さなかったんだ」
「だって、あなたはとてもお仕事が忙しそうで。彼女はあなたと一緒にお仕事なさっている方ですし、出来れば穏便におさめたかったんです。だから」
だから、と、八百比丘尼は、横倒しのままゆらゆらと漂う美沙を見る。
美沙――東京百貨店商品本部に勤務する吉岡美沙は、島崎と同年代だった。よく手入れされた髪と、隙のないメイクでカバーしているが、徐々に失われていく容色に焦りと怯えを感じかけている、いわばとても普通の女性である。
「あれは……15年近く前だから、まだあなたと出会っていない頃だと思うんですけど。イスタンブールの貯水池跡の、底にたまった泥をさらったら、大理石の巨大なメデューサの首がふたつ、柱の土台として見つかったというニュースを聞いて。それがなぜか心に残ってて」
メデューサ。私はアテナよりも美しいのよと勝ち誇り、よりによってアテナ神殿でポセイドンと契った娘。
アテナの怒りと呪いを受け、美しかった顔と髪を、世にも恐ろしい姿に変えられてしまった娘。
「だから、どうしても私とお話したいとおっしゃるなら、地下神殿のさかさまのメデューサの前で待ち合わせしましょうって言ったんです。そうすれば、呆れてあきらめてくださると思って。でも」
「美沙さんはムキになって、『どこへでも行くわ。だからあなたもちゃんと来なさいよ』てことになったのね」
ため息をつくシュラインたちを、八百比丘尼はいぶかしげに見た。
「この方たちは……?」
「君を捜すためにお願いした興信所の人たちだ。……それで?」
「それで、ここに入るなり、この方は言ったんです。あなたなんか達也さんにふさわしくない。呪われた化けものだって。このメデューサと同じだって!」
八百比丘尼は肩を震わせ、両手で顔をおおった。
「……私、そのとおりだって思いました。本当です。そう思ったんです。なのに、水が。この貯水池の水が」
生き物みたいに溢れて、渦をまいて。
――美沙さんを、殺してしまった。
ゆらりと、水が揺れる。
八百比丘尼の慟哭に、呼応するかのように。
「――殺しては、いませんよ。水は本来、命を育むものですから」
みなもが、とんと通路を蹴った。
「地下宮殿にずっと澱んでいた古い古い水が、八百湖さんの中に残る、人魚の血の哀しみに共鳴しただけです」
水の壁に身体をすべりこませたみなもを、青いひれと、輝くうろこが覆っていく。
「人魚……」
八百比丘尼が、はっと息を呑む。
列柱の間を泳ぎだした青い人魚は、水中に浮かぶ美沙に近づいた。
胸元の動きと口元の呼吸を、みなもは確かめる。
「ほら大丈夫。気を失っているだけです」
くるりと振り向いて、人魚は微笑んだ。
「結婚してからずっと、幸せだったんですよね? どうかこれからも、幸せに暮らしてください。いつか呪いは、祝福に変わります」
少しずつ、水が引いていく。
ローマ時代の貯水池は、観光名所『地下宮殿』の顔を取り戻した。
メデューサ像はさかさまのまま、口を引き結んでいる。
その姿は、長く見据えてきた歴史のなかの、ささやかなハプニングに困惑しているようにも見えた。
ACT.5■EPILOGUE――ペラ・パレスでアフタヌーンティーを――
美沙はイスタンブール市内の病院に搬送された。命に別状はないらしい。
付き添っていた島崎夫妻からは、一足先に日本に帰るという連絡が来た。
「島崎さん、仕事が押してるんですって。この機会にもう少し、奥さんの様子をこまめに気にしてあげるようになるといいんだけど。言わなきゃ気づかないってのも問題よね」
「そういえば、あの夫婦のなれそめ。島崎さんが店舗勤務だったとき、奥さんがメーカー派遣の店員で、それがきっかけだったみたいよ」
「そう聞くと、すごく普通な感じですよね」
すでに依頼は終了したわけだが、依頼人からは、ゆっくり観光してきてくださいという願ってもないお言葉を頂戴した。
よって6人は旧市街を散策している最中であり、女性陣は夫婦の話題に花を咲かせている。
旧市街とは、金角湾とマルマラ海とテオドシウス城壁に囲まれた三角形の区域のことだ。見どころはその東半分に集中しているため、徒歩でも十分観光できる。
午後の日射しの下、微かな風が潮の香を運んでくる。昼食は各自適当に、シシケバブやアダナケバブやドネルケバブやパラムート(サバサンド)等を屋台で食してしまったため、さて、午後はどうしようか、夕食はどうしようかなどと、ごくのんびりした足取りであった。
「ええと、通訳の嘉神しえるさん。ここで写真を撮ってもよろしいですか、というのはトルコ語ではどういえばいい?」
街の風景と、雰囲気のいい親子連れをカメラにおさめようとして、隆之はきょろきょろしている。
「プラダ フォートラフ チュケビリルミイム? でいいと思うわ」
「プラダだけじゃだめか?」
「略してどうするのよ――ああっ、写真といえばカメラマンさん。あとでいいから撮ってほしい建物があるの」
「そりゃ、いつでも構わんが」
「新市街にあるホテルなんだけど」
「ペラ・パレスでしょ!」
シュラインが、即座に反応する。
「ペラ・パレスって?」
「イスタンブールがオリエント急行の終着点だったころの、セレブな宿泊客御用達ホテルよ。今でも当時の優雅な雰囲気のままよ」
「アガサ・クリスティさんは、そこで『オリエント急行殺人事件』を書いたんですよね?」
みなもが軽く首を傾げる。
「クラシックでエレガントなホテルだってお父さんから聞いたことがあります。木製のエレベーターは手動式で、お部屋の床は大理石。ベッドの枠は鉄か真鍮製ですって」
「なんだ、そんな名物ホテルなら、そこを予約すれば良かったのに」
あくまでも和馬はシュラインを添乗員扱いし、シュラインはシュラインで、もう開き直ったらしい。聞き分けのないツアー客をあしらう態度になっている。
「まことに申し訳ございません。新市街ですと、観光にはちょっと不便でございます。それに、とっくに満室になっておりました」
「教授の講義の余談だけど、アガサ・クリスティはチェックアウトするときに、『お世話になりました。さて、鍵は部屋のどこにあるでしょう?』って帰っちゃったって話があったような。ペラ・パレスの従業員さんたちは、隠された鍵を探すのが大変だったとか」
鈴人が思い出したエピソードに、和馬はおおげさに顔をしかめた。
「ホントかあ? それって、単に迷惑なおばさんじゃないのか……?」
……和馬にかかれば、ミステリの女王もかたなしである。
「ツアーの皆様。ペラ・パレス一階のカフェテリアは宿泊客でなくともご利用できます。ミステリー・ツアーの彩りに、アフタヌーンティーはいかがでしょうか。ちなみに」
こほん、と咳払いをして、シュラインは一同を見回す。
「私が入手した極秘情報によれば、ケーキセットがめちゃうまだそうです」
「異議なーし」
一同は歓声とともに、いっせいに挙手した。
ボスポラス海峡を、一陣の風か吹き抜ける。
東西文明の十字路は、今日も活気にあふれていた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1252/海原・みなも(うなばら・みなも)/女/13/中学生】
【1466/武田・隆之(たけだ・たかゆき)/男/35/カメラマン】
【1533/藍原・和馬(あいはら・かずま)/男/920/フリーター(何でも屋)】
【2199/赤星・鈴人(あかぼし・すずと)/男/20/大学生】
【2617/嘉神・しえる(かがみ・しえる)/女/22/外国語教室講師】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、神無月です。お待たせいたしました!
この度はイスタンブール・ミステリー・ツアーにお付き合いくださいまして、まことにありがとうございます。
オープニングの書き置きの解読は、なんと6名さま全員が正解でした。さすが草間興信所調査員、逸材揃いです。
□■シュライン・エマさま
いつもお世話になっております。
お言葉に甘えて(えっ?)添乗員をおまかせしてしまいました。
こんな方がツアーにいらっしゃったら、どんなに頼りになることか。ちょっと素に戻って、いいなぁ〜と思ってしまったライターでした。
□■海原みなもさま
いつもありがとうございます。
さて、みなもさまは、どんなお土産をご購入なさったのでしょうか。
個人的には、トルコ石(っても、あの石はトルコでは取れないんですってね。主にイランが原産みたいです)で造ったクロスとか可愛いなと思うのですが、どうでしょう?
□■武田隆之さま
三度目のご参加、ありがとうございます。
隆之さま登場時には必ず入れようと(密かに)思っていた、本日のミネラルウォーターを飲むシーンが見あたりませんが、それは行間で行われておりまして(おい)、現地の『elmas su』とかです、きっと。イスタンブールの水道水は濁ってるので、住人もミネラルウォーターを買うそうな。
□■藍原和馬さま
いつもありがとうござ……と書きかけてしまいましたが、依頼では初めましてでした。まあびっくり(びっくりすなっ!)。
このさりげないレギュラー感は、どこにいらしても場にハマりますね。ことに、和馬さまには旅が似合います。
□■赤星鈴人さま
初めまして! ご参加ありがとうございます。
も、もしかしなくても、これが、鈴人さまにはまったく初めての依頼参加でいらっしゃいますねっ。とても光栄です。
折良く、カメラマンのPCさまがいらっしゃったので、登場時からお仕事上の知り合いという設定にさせていただきました。多少なりとも旅行気分をお楽しみいただけたなら幸いでございます。
□■嘉神しえるさま
いつもありがとうございます。
短期間でトルコ語をマスターなさるとは、さすがの記憶力です。今回、かなりの教材や資料が経費で落とせたのではないかと推察されます(笑)。そして、これで6カ国語に堪能ということに! 通訳、お疲れ様でございました。
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