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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


Awakening + Birth

【序】

 何処に居るの? 僕の魂の――片割れ。
 出ておいで。僕の聲が聞こえるのなら。
 呼び返して。僕の聲が、聞こえるのなら。
 迎えに行くから――僕の片割れの、君を。

               *

 世間のごく一部を小さく騒がせた「希代の天才人形師・霧嶋聡里、記憶喪失のまま再び失踪」というニュースがようやく沈静化しはじめたその日。
 金色の月が、青褐に広がる空の彼方に姿を見せ始めた頃。
 どこにでもあるような普通のゲームセンター「Az」では、いつもどおり、学校帰りの学生や暇な若者達が様々なゲームに興じていた。
 入り混じる、あちこちのゲームから紡がれる音。一際大きいのは、何故か約5年ほど前に流行ったはずの音楽系ゲームから排出される、音楽。
 ヒップホップ、トランス、テクノ、ユーロビート等、ジャンルは多岐に渡っている。最近特によく鳴り響いているのは、アルペジオが多用されている、音楽用語で「非常に速く」を意味する名前がついたピアノアンビエントと、美しい響きが特徴的な「転生」という名のついたトランス、だろうか。
 その、種々の音が渦を巻く店内の一角に。
 モップの柄を握り真っ直ぐに乱れなく立つ白い衣装を纏った少年と、カウンターの傍に置かれた背の高いスツールに半分だけ腰を下ろした黒い衣装の少年がいた。この店のバイト生だろうか? 妙に現実離れしたような衣装が、その場にいる学生達とはどこか一線を画した雰囲気を彼らに備えさせていた。
「へぇ、琥珀って双子だったんだ?」
 スツールに腰掛けた、黒衣装の少年が顎先に手を添えて言う。黒髪の合間から見える紫の瞳に、好奇心という色を添えて。
 それに、琥珀、と呼ばれた白衣装の少年が無表情で頷いた。さらと銀色の髪が動きに合わせて揺れる。
「はい」
「その双子って、兄、姉、弟、妹。どれ?」
「妹か姉だと思います。女性であることは確かなようですが」
「だと思う?」
 奇妙な琥珀の物言いに、黒衣装の少年が首を傾げた。
「なんだ、だと思う、って? もったいぶってないでハッキリ言えばいいじゃん」
「もったいぶっているのではなく。僕はその双子の名前ですら知らないので。今どこにいるのかも、知りませんから」
「知らない?」
 どこかこましゃくれた硬い口調で淡々と無表情のまま話す琥珀に、琥珀より少し年上に見える少年が僅かに眉を持ち上げた。
「探さないのか?」
「探したいのですが、僕一人ではどうにも」
 ちらりと、琥珀がその、名前を現すかのような琥珀色の瞳を店内の奥まった方へと向ける。そこにいる、帽子を目深く被った黒尽くめの胡散臭い男に。
 それが、琥珀が親のように慕っている者――少し前に行方不明になったとかでニュースで取り上げられた「キリシマ・サトリ」という名の人形師である事、そしてこの周辺に、特殊な力を持つ人間の人体に奇妙な影響を及ぼす空間を創り出している者だという事を知っている少年は、ふっと息をついて小さく肩を竦めた。
「探してやればいいじゃん。一人で探せないのなら、ここで遊んでる奴でも使ってさ。そしたら琥珀のマスターも喜ぶんじゃねえ?」
 その言葉に、琥珀が霧嶋へ向けていた視線を少年へと戻した。それに、少年がニッと笑う。
「琥珀はマスターの作る『変な空間』から出られないんだろうけどさ、協力してくれる人間なら、外に出られるし。もしかしたら琥珀の双子、『空間』の外にいるのかもしれないし?」
「…………、そうですね。可能性がないとは言えない。僕がこの周辺を探しても見つからないのだから」
「よォし、決まりだな。俺は琥珀の分もバイトしなきゃなんないから行けないけど、ま、頑張って探して来い」
 言うと、少年は琥珀の肩をポンと叩いた。それにコクリと頷き、ふと琥珀は口許に手を当てた。
「……なら、名前を考えてやらないと……確かマスターはまだ名前を考えていなかったはず……石の名前……赤……」
 途切れ途切れのその呟きは、渦巻く音楽の中に飲み込まれて、すぐ目の前の少年にも届く事なくかき消された。


【出会い】

 今年もまた、やってきた。
 長雨の時期。
 ――入梅。
 無数の銀の雫が降り落ちてくる空を軒下から見上げて、蓮巳零樹は憂いに満ちた溜息をついた。長く伸びた後ろ髪が湿気を含んだ生温い風に撫でられる事を疎ましく思うように、僅かに眉を寄せて。
「やれやれ。少し晴れ間が差したかと思ったらこれだ。油断ならないねぇ」
 自分の店から近いせいもあり、時々、零樹はアンティークショップ・レンに顔を出す。日本人形の専門店を営んでいる零樹の眼を引くものが、時々売り出されていたりするからだ。
 広がる灰色の雲が途切れたのを見て、今とばかりに自分の店の前に一時的に「準備中」の看板をぶら下げて碧摩蓮の店へ行ったのだが、今日は特に何も面白そうな物はなく、ほんの少し彼女と、骨董品や人形業界に纏わる世間話などをしている間にまたしても空は曇りだし――零樹が碧摩の店を後にして僅か数分後には、大粒の雨が地面を勢いよく叩き始めた。
 綺麗に舗装された歩道を強く叩き付ける雨粒は、それだけでもう、零樹にその場から歩き出して自分の店へと帰る気を失わせる。足早に、今立っているこのどこぞの店の軒下に駆け込んでくる際にほんの少し雨水を跳ね上げたのか、纏っている赤錆色の着物の裾に濃い染みが出来ていた。それを見て、またやれやれと零樹は呟く。
 とりあえず、羽織に甚大な被害を受けなかったのは良かったと思うべきか。
 肩先に落ちた水滴が布地に染み込む前に手で払いのけると、零樹は再びその緑色の瞳を雨空へと向ける。
 地面を打つ、激しい雨音。
 だが、その雨音をかき消さんかのような音が、突如背後から聞こえた。何事かと肩越しにそちらを見やると、自動ドアを開けて、制服を着た学生らしき少年が店内から出てきて、外の様子を見て顔をしかめている。
「わ、すっげぇ雨……しゃーねぇ、もう暫く遊んでいくか」
 ぼそぼそと低くひとりごちると、彼はそのまままた自動ドアを開けて店内へと戻っていく。ドアが開いた瞬間にまた物凄い音が中から漏れ出し、零樹は自分から少しでも音を遠ざけようとするかのように片手を耳に当てていた。
「一体、何……」
 何の店かと言いかけた零樹の、その言葉がふと途切れた。唇が先に紡ぐべき言葉を忘れたかのように――呼吸すらも、一瞬止まる。
 その、視線の先にいたのは。
 硝子越しに見えた、白い服の――……。
 やや変則的な燕尾服を着た者が、店内にいるのが見えた。
 銀色の髪。酷く整った顔。そのあまりの無表情っぷりと秀麗さが、どこか人形のような雰囲気を醸し出していた。
 ただ、ほんの少し、よく見なければ見落としそうなほど僅かに、その容貌に憂いの色を乗せている。
 それを見た瞬間、自分の中の何かが、反応した。
 何かは、分からない。
 けれどそれを考えるより先に、零樹は自動ドアへ向けて歩き出し、その扉を開け、音の洪水に飲み込まれていた。
 Az、という名のゲームセンターから生み出される、無数の音の中に。


 店内に入った零樹は、鼓膜を震わせ続ける騒音にようやく我に戻り、眉をしかめた。
「うわ……やっぱり凄い音……」
 外で聴いたものよりも、もっと強烈だ。あちこちから様々な音が飛んできて、眩暈を起こしそうになる。
 あちこちに、一歩間違えば悪趣味とも取れそうな光を放つ大きなゲーム筐体が置かれ、音はそこから吐き出されているようだった。客は殆どが学校帰りの学生で、大半が制服姿である。
 そんな中、ふと零樹は自分の姿を見下ろした。そして苦笑を浮かべる。
「なんか僕、浮いちゃってるなぁ……」
 だが、浮いているという点では、零樹に負けず劣らずの人物がそこに立っていた。
 白い燕尾服の者。
 金色の瞳で零樹を見、ぺこりと会釈する。
「いらっしゃいませ」
「え? 君、ここの店員さん?」
 細い声で紡がれた言葉に瞬きしながら問うと、相手はどう見ても客相手の仕事には向いていなさそうな無表情のままでコクリと頷く。
 確かに、よく見るとその手にはモップの柄など握っていたりする。掃除中なのだろうか?
 なんというか。
(似合わない事この上ないなぁ……こんなに綺麗な子が)
 まじまじと姿を眺めつつ、口には出さずに内心でそんな事を思った零樹に気づいてか気づかずか、白い店員は「すみません、用がありますので」とその場を辞そうとする。それに、零樹はふと先ほど外から見かけた表情を思い出し、すっとその白い燕尾服の袖の端を掴んだ。
「さっきから何か困った顔してるけど、どうしたの?」
 柔らかな微笑と共に、そう問いかけてみる。途端、店員が歩き出そうとした足を止める。
「え? あ……その、探し物をしなくてはならなくて」
「探し物?」
 そう告げる間も、店員は無表情のままだった。が、零樹には何故か、先ほど硝子の向こうから見た時に感じたとおり、その胸の内に憂いを抱いているのが分かった。
 何故かは分からない。だが、その感じ方に、直感的に間違いはないと思い。
「良かったら僕に詳しく話してみない? 探し物なら、人手が多い方が助かるだろう?」
 どうせ、外は雨。この店内での探し物なら、雨脚が弱まるまでの時間つぶしにも丁度いいかもしれない。
 何より、この綺麗な彼女と話ができるのなら、楽しい時間を過ごせそうだ。
 そんな事を思いながら、零樹は店員に微笑みと言葉をかけていた。


「え? 物じゃなくて、人?」
 二階建ての店内の一階にある軽食スペースにある椅子に腰掛けて一頻り店員から話を聞いた零樹は、さして驚くでもなく、あっさり「ふぅん」とつけ足した。
「でもまあ、人探しなんて、また難儀な……」
 けれどまあ、双子の片割れだというのなら、探したくなる気持ちは何となく分からなくもない。
 が、零樹にとってはそれはむしろどうでもいい事だった。
 それよりも。
 テーブルを挟んだ向かい側にある椅子に腰を下ろしている白い店員を見て、にっこりと微笑んだ。
「ま、探すのが物であれ人であれ、君みたいな綺麗な子に『手伝ってください』なんて頼まれちゃ、断るわけにもいかないけどね?」
「手伝っていただけるのなら、本当に助かります。何分、どこにいるのか検討もつきませんので……貴方が先ほどおっしゃられたように、人手が多い方が助かるのは間違いありませんし」
「だろうね」
 綺麗、と褒められても、まるでそう言われるのが当然の事であるかのように表情一つ動かさないとは。
 顎先に手を添えて、零樹は眼を細めて笑った。
「いいよ。手伝ってあげる。でも、タダで、とはいかないなぁ」
「……報酬を、という事でしょうか。分かりました、片割れが見つかりましたら、それ相応の額をお支払い……」
「お金は要らないよ」
 顎に置いていた手をすっと持ち上げて店員の言葉を制すると、零樹は緩く首を傾いだ。そして持ち上げたばかりの手を自分の胸に当て。
「探し人ってのが見つかった暁には、是非このお兄さんとお茶でもどうかな?」
「……、お茶、ですか」
「そう。お茶」
 笑顔で応じる零樹に、店員は少し考えるように遠くを見やると、その金色の瞳を零樹へと戻し、こくりと頷いた。
「分かりました。僕でよければお供します」
「そう、じゃあ交渉成立だ。早速張り切って人さが……し……、え?」
 言いかけた言葉を途中で止めて、零樹はまじまじと目の前に座っている者を見た。
「僕、って……君、もしかして男の子なの?」
「え? はい、そうですが」
「…………、男の子なのか……」
 中性的な綺麗な顔つきだったから、てっきり少女だと思っていたのだが。
 男女の見分けもつかなかった事に軽くショックを受けつつ、零樹は額に手を当てて僅かに溜息をついた。それを見て、白い店員――琥珀が、首を傾げた。
「……、何か問題がありますか?」
「いや、うん……まあね……」
「……、やはり手伝ってはいただけないとか、そういう……」
「いや、うん……一度言った以上はね、手伝うよ。君の双子の……」
 言いかけて、零樹は手の下から琥珀を見る。
「探すのも、やっぱり男の子?」
「え? いえ、僕の双子ではありますが、女性です」
「女の子か……。君に似てる? と訊きたいけど君はその子の事見たことないとか言ってたっけ」
 まあ、仮にも双子。片割れがこの顔なら、期待はしても問題ないだろう。
 数秒で結論を引き出すと、零樹はにっこりと笑った。
「いや、手伝うよ。一度言った事はちゃんとやらなきゃねえ?」
 それに、琥珀はぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「ああ、うん。それじゃさっそく……」
 言って、椅子から腰を上げようとしたその時。
 ふと流した視線の先――幾つものビデオゲームの筐体が並ぶスペースの、そのさらに奥まった場所。
 黒い帽子に、黒いコートの、怪しげな男がいるのが目に入った。目深に帽子を被っているためその顔付きははっきりとはしないが、零樹の記憶の中の何かに、その男がひっかかった。
(……なんだろう)
 ごく最近、どこかで彼を見たような――。
「あ」
 ぱっと零樹が琥珀へと顔を向けた。
「君、あそこにいるのは人形師の霧嶋聡里じゃない?」
 そうだ。最近、新聞や人形関係の雑誌などで見た者だ。
 行方不明になった、という……ついさっきも、アンティークショップレンで、碧摩と彼の話をしてきた所だ。
 一度、彼女の店に訪れた事がある、と聞いて、あんな曰くつきの物しか扱わない店に一体何の用があったのかと思ったのだが。
 まさか、こんな所に本人がいるとは。
「……って、君にそんな事訊いても知る訳ないよねぇ」
 こんな歳若い少年が、人形師などと関わりがあるわけも、知っているわけもない。
 そう思い、すっと席を立って思わず彼の方へと移動しようとした所。
 着物の袖を、後ろからついと引かれた。
「?」
 振り返ると、ついさっき零樹がそうやって琥珀を引き止めたように、彼が袖を掴まえてじっと金色の瞳で真っ直ぐに零樹を見ていた。
「先に僕の片割れを探してください。マスターの事は後で」
「マスター?」
 不思議そうに問う。それに、琥珀は頷いた。
「マスターはずっとあそこにおられます。だから」
 先に、僕の片割れを。
 そう強い口調で言われて、零樹は僅かに肩を竦めてからそっと自分の袖を掴む琥珀の手に手を添えて、言った。
「分かったよ。君の片割れを先に、ね」


【捜索隊の面々】

 ゲームセンター「Az」の一階にある、自販機による軽食コーナースペースに置かれているテーブルの周りを囲んで椅子に腰掛けた面々は、適当に飲み物を購入してそれぞれ手にしたのだが、それに口をつけるや否や、怪訝そうな顔をして口許に手を当てた。
 味がしないのである。
 それが自分だけなら一時的な異変か? と思うのだが、他の者も同様の反応を示した事で、さらに表情に怪訝さが増す。
 ただ一人、何だろう? という顔をしたのは、飲み物も何も手にしなかった、学校の制服だろうか――白いカッターシャツを纏い、黒髪、そして黒く強い眼差しを持つ長身の少年、季流美咲(きりゅう・みさき)だけだった。
 が、彼は既に琥珀からこの「場」についての話を聞いていたのか、現在このゲームセンター「Az」を含む幾らかの範囲が特殊な空間内にあるのだと琥珀がその場にいる者たちに説明しても、特に驚くでもなく平然としていた。
「人形化……ね」
 事態を飲み込み、指先でテーブルの上に置いた、まだなみなみと茶が注がれている紙コップの端に触れて呟いたのは、赤錆色の着物の上に紫色の羽織を纏った漆黒の長い髪に秀麗な容貌を持つ、蓮巳零樹(はすみ・れいじゅ)だ。
「じゃあこの近辺の喫茶店でお茶とか飲んでも美味しくないわけだね、残念」
「怪我しても痛くない……のね」
 言って、自分の手の甲をトントンと軽く叩いて様子を見ているのは、黒髪に青い瞳を持つ、シュライン・エマだ。この中にあっては唯一の女性である。中性的な美貌に不思議そうな色を浮かべて、琥珀を見た。
「味覚と痛覚がなくなるのは分かったけど、触覚は普通にあるみたいね?」
「はい。ついでに言うと、皆さんが持っているであろう特殊な能力も、外界にいる時と変わりなく使えます」
「だろうな」
 既に何かをやった後なのだろうか、ごくあっさりと琥珀の言葉に頷いているのは、黒に近い茶色の髪とそれと同じような色合いの瞳を持つ青年、花房翠(はなぶさ・すい)だった。右手を軽く開いたり握ったりしながら、穏やかに微笑を唇に乗せている。
「面白い空間だな。なんでそうなってるのかとか気になるが、まあそれより先にアンタの片割れ探しだな」
「そういうことだ」
 椅子にゆったりと腰掛け、味のしない煙草を唇で挟んで頷いたのは、やや垂れ気味な眦に銀色の瞳を持つ、沙倉唯為(さくら・ゆい)。黒髪の間から覗く左耳にはリング型のピアスがつけられている。
「琥珀の片割れという事は、琥珀に似た様な容姿だと思って間違いないな?」
 煙草を唇から指で挟んで放して問う唯為の言葉に、琥珀は少し首を傾げてから曖昧に頷いた。
「そう……ですね。そうだと思います」
「ああ、そうか。君もその双子嬢を見たことないとか言っていたね」
 見たことがないのなら、自分と同じような容姿だとは言い切れないだろう。まあ、仮にも『双子』と言うのであれば、それなりに雰囲気等は似通っていてもおかしくは無いだろうが。
 肩にかかる髪を後ろへ払いのけながらの零樹の言葉に、琥珀はこくりと頷いた。
「その双子嬢の外見の特徴は? 分からない?」
 見たことなくてもそれくらいは知らないだろうかと期待を込めて言ったシュラインに、琥珀が視線を向ける。
「真っ白な服を纏っているそうです。ひらひらとした、レースとかがたくさんの……。それくらいしか分かりません。すみません」
「じゃあ、この空間の範囲とかは? 琥珀くんは確かここから出られないのよね? 出ても平気な時間とか距離とか、わかる? 琥珀くんと双子なんだったら、その子もきっと同じ条件だと思うから」
「空間の範囲は、マスターを中心にして、半径約一キロ程度ではないかと。空間を離れても平気な時間は、皆無です。たとえ数センチでも出る事はできません」
 打てば響くようにすらりと返される答え。ふむ、とシュラインは腕を組んだ。
「さて、どうしようかしら」
 ちらりと何とはなく見やった先では、美咲が所持していた小型のモバイルで何かを検索しているようだった。そうしながらも彼がこちらの話をきちんと聞いているのは明らかで、時々ちらりとその黒い瞳が様子を伺うように画面から逸れる。
 その彼の膝の上には、身長六〇センチほどもある大きな人形が置かれていた。銀色の髪と白い詰襟の衣装、というのが今ここにいる琥珀に似通っている。ただ、その人形の瞳は琥珀のように金色ではなく、青だった。
 聞けば、それは霧嶋聡里作の人形だという。思わず双子探しから意識が逸れてその人形に手を伸ばしたくなる気持ちをどうにか抑えて、零樹がシュラインの言葉に同意するように吐息を漏らす。
「どうしようかな?」
「あのさ」
 手に持っていた、一向に減らないコーヒーの入った紙コップをテーブルに置きながら、翠が口を開いた。
「とりあえず、なんか琥珀が持ってる物、借りられないか? もしかしたら何か読み取れるかもしれないからさ」
「読み取れる?」
 不思議そうに問う零樹に、翠は頷く。
「サイコメトリーっていう、俺の能力」
 上手く何かが読み取れれば、即座に探し人に辿り着けるかもしれない。嘘も隠し事も何もが無効になる、その能力で視れば。
 勿論、琥珀が何かを隠しているとは思わない。が、メトリーを使えば、そんな疑惑でさえもが一瞬にして払拭できる。
「どうだろう?」
「……そうですね」
 少し考えてから、琥珀はこくりと頷いて、胸元にある琥珀石のついたリボンの留め金にもなっている飾りを外した。
「僕のものでよければどうぞ使ってください。ですが、多分、僕は彼女とは接触がないため、何も見えないのではないかと思いますが」
 言い、外した飾りを翠の掌の上に乗せる。琥珀の瞳と同じ色合いのその石を暫し眺めてから、翠は手の中にそれを包み込み、瞳を閉ざす。
「――――……」
 澄んだ意識の先から生まれる、能力。集中するほどに透過していくその意識の中に、やがて緩やかに、何かの映像が映り始める。
 薄暗い場所で、微かに聞こえてくる、誰かの声。
 ――たった一人でこの世にいるのは寂しいだろう……。
 優しい響きを伴った少し低めのその声は、先刻、翠が能力を使った時にも聞いた声だった。誰の声かは分からない。が、これは……。
 おそらくは、霧嶋の声、だ。
 言葉は、さらに綴られていく。
 ――琥珀には、自分の名を示すこの琥珀石を加工して、飾りにして贈ろう。彼女には……その手から何も失うことがないように、月と太陽と闇を閉じ込めるための籠を……。
「かご?」
 ふっと意識の集中を解いて呟いた翠の言葉に、唯為が僅かに首を傾げる。
「籠がどうした?」
「ああ……霧嶋が、琥珀には琥珀を、彼女には籠を贈ろう、とか考えていたらしいんだが」
「琥珀には琥珀? ああ、シャレじゃなくてその琥珀の事な?」
 ついと翠の手の中にある琥珀の飾りを指差し、美咲は笑った。
「けどさ、何で琥珀には琥珀で、片割れには籠なんだろうな?」
「何も失う事がないように、とか何とか霧嶋は言ってたが」
「……よくわかんねぇな、ゲージュツカってヤツの頭は」
「で。どうなんだ琥珀? お前は籠に覚えはないのか?」
 翠と美咲のやりとりをただ黙って見ていた琥珀に、唯為が問いかける。それに、琥珀は緩く頭を振った。
「いいえ、僕には覚えがありません」
「じゃあ霧嶋氏に直接訊いてきたらどうかな。せっかくあそこにおられるわけだし?」
 ビデオゲームの筐体が並ぶ一角の、奥。薄暗い場所を指差して言う零樹の言葉に、少し考えるようなそぶりを見せてから琥珀は頷き、「では少し失礼します」と言い置いてその場から離れて行った。
「……ところで」
 店の奥へと歩いていく琥珀の白い背を見ていた零樹は、ふと隣でどこかのサイトを見ている美咲のモバイルの画面を覗き込みながら口を開く。
 美咲が見ているのは、どこかの人形関係のサイトらしかった。精巧に作られた西洋風の人形の姿を見ている内に、ふとある事を思い出したのである。
「そういえばあの子、霧嶋氏が二月頃に作成した等身大人形にそっくりだね。この空間にも訳がありそうだし……時間があれば直接話も聞きたいなぁ。霧嶋氏が突然失踪した件も気にはなっていたし」
「等身大人形?」
 深く椅子に背を預けて天井をしばし眺めていた翠がはたと瞬きをする。
「っていうと、あの、フライドチキン屋の店先とかに置いてある眼鏡に白いスーツのおっさんみたいな?」
「あはは、確かにあれは一七三センチでほぼ等身大らしいけど。ああいうのじゃなくて、それこそ今彼が膝に乗っけてる子みたいなのを、実際の少年サイズで作ったんだよ、人形師の霧嶋聡里は」
 明るく笑ってから、美咲の膝上にある「瑠璃」という名の人形を指差し、零樹は続ける。
「ぱっと見、人と見紛う程に見事な出来だったらしいよ。僕はその等身大人形が出された個展は用事があったから見に行けなかったんだけど」
「へぇ……。ああ、そういや霧嶋の件については俺もちらっと聞いたことがある」
 フリーのジャーナリストなどやっていたら、あちこちから様々な情報が耳に飛び込んでくる。それによると、確か数ヶ月前に霧嶋は事故にあったのではなかっただろうか。
「そうそう。彼が事故に遭って、それから数日後に、個展会場から等身大少年人形が無くなって。結局霧嶋氏の手許に戻ってきたらしいけどね」
 何があったんだろうねえと翠の言葉に相槌を打つ零樹の様子に、ちらりとシュラインと唯為、そして美咲が顔を見合わせた。が、誰かが口を開く前に、琥珀が足早に戻ってきた。
「失礼しました。籠というのは、白い鳥籠の事らしいです。高さ約三〇センチくらいの」
「それ、今も持ち歩いているのか?」
 翠の言葉に、琥珀は首を傾げる。
「どうでしょうか。ですが、マスターに持たされたものならおそらくは手放さず、今も持っていると思います」
「まあ、そんなの持ち歩いてる子なら、尚更目立つわよね」
 たとえ琥珀のような容姿でなくても、街中を白い鳥籠などぶら下げて歩いていたら、それだけで十分目に留まる。
「だったら、街で聞き込みするのが早いかもしれないわね」
「そうだな。片割れが霧嶋の域内で琥珀同様に動き回っていたとしたら、かなり目立つはずだ」
 シュラインの言葉に頷くと、そのまま唯為は席を立ち、ふと琥珀の方を見た。
「時に、琥珀。とりあえず霧嶋のアトリエで手がかりなり情報なりを集めたいんだが。霧嶋が記憶を失っていたとしても、アトリエになら何かあるかもしれんだろう?」
「え?」
 突然の申し出に、琥珀が瞬きをする。ちらりと肩越しに霧嶋の方を一瞬振り返ってから、すぐに何も無かったように一同の方へと顔を戻して、こくりと頷いた。
「ええ、それは別に構いません。アトリエはここからさほど遠くない住宅街にありますし、僕も一緒に行きます」
「じゃあ、工房の方へ向かいながら、途中のお店とか地元の人なんかに聞き込みしてみましょうか。目撃談とか聞けるかもしれないし」
「よーし、決まりだな」
 言って、モバイルの電源を落として小脇に抱えながら、もう片手に抱きかかえた瑠璃を、美咲は琥珀に差し出した。
「瑠璃も連れてく?」
「瑠璃も……ですか? 貴方が手放すのが寂しいと言うのであれば連れて行ってもいいですが……出来ればマスターに預けていただけたら、雨空の下、濡れたりしないかと心配せずに済むのですが」
 差し出された瑠璃を両腕で丁寧に抱き取りつつ紡がれる琥珀の台詞に、美咲は軽く肩を竦めた。
 確かに、折角キレイで高価な人形を、わざわざ雨降りの中連れて歩いて汚す必要も無いだろう。
 本当は、霧嶋聡里の手により製作されたものだから、たとえ言葉等が発せられなくても何か呼び合う事もあるかもしれないと思ったのだが。
「別に俺は寂しくはねぇし、汚すのもアレだしな」
「では、彼はマスターに預けておきましょう」
「さて。では行くとするか」
 雨の中へ出て行くのは多少億劫な気はするが、ふと見やったガラスの向こうの景色に降り注いでいる雨の粒が先程より少なくなっているような気がし、これも日頃の人徳だな、などと言う唯為を、ちらりとシュラインが見やったが、特に何も言わなかった。
 言っても無駄だと思ったのか、世の中本音を口に出すだけが真実ではないと理解しているからかは、分からない。


【傘】

 先ほどまで、滝のようだった雨は勢いを緩め、今は小雨状態だった。
 時折空から晴れ間が覗く事からして、もしかしたらもう暫くしたら止むかもしれない。
 シュラインと零樹、翠、唯為はそれぞれ自分で傘を持って店にやってきたのだが、雨が降る前に店にやってきた美咲と、ずっと店にいた琥珀は傘をもっておらず、とりあえず琥珀が店長に置き傘はないかと尋ねたところ、一本だけあるとの回答を得た。
「……では、それは季流さんが使ってください。僕は構いませんので」
 店長に借りた傘を美咲の手に渡しながら言う琥珀に、シュラインが眉を寄せる。
「構いませんって、濡れていくつもり? ダメよ、そんなの。風邪……は、ここではひかないのかもしれないけど、とにかくダメ。大体、その綺麗なお洋服が濡れたらきっと霧嶋さんも悲しむわよ?」
「…………、それは」
 霧嶋が悲しむ、の言葉に言葉を失くす琥珀の頭を、ぽんと軽く叩いてそのまま自分の方へと引き寄せたのは、唯為だった。
「俺の傘に入れてやる。何、遠慮はいらんぞ。どうせこの傘もアンティークショップ・レンの店主の傘だしな」
「それ、普通は俺の傘って言わない」
 美咲にツッコまれるが、唯為はフッと鼻先で笑った。
「今は俺が使っているんだから、俺の傘だ。知らないか? 俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの、という有難いお言葉を」
「……ジャイアニズムか……」
 ぼそりと呟いた翠に、ニヤリと笑って「ご名答」と声をかける。それに、零樹が微かに笑った。
 自分も大概ひねくれていると思っていたが似た様な人もいるもんだなあ、などと思いつつ。……思うだけで口には出さないが。


 霧雨のような細い雨が降る中、様々な色の傘を差しつつアトリエへ向かう道すがら、唯為がとりあえず人形関係者や骨董店等、そしてシュラインが宝石店でも話を訊けないだろうかと提案したのだが、それに静かに傘を持つのと逆の手を軽く上げたのは、零樹だった。
「僕も一応人形関係者なんだけど。最も僕は日本人形専門だけどね」
「日本人形でも人形には違いないし。なにか情報はないの?」
 シュラインが問う。その業界の裏になら何か情報が転がってはいないだろうか? と思ったのだが。
「んー。まあね、霧嶋氏の失踪の件については少しは聞いているよ。あくまでも噂程度のものだけど」
「どんな噂だ?」
 美咲の言葉に、んん、と指を顎先に当てて零樹は視線を傘の下から曇り空へと向けた。さらと長く伸ばした黒々と艶やかな後ろ髪が動きにあわせて揺れる。その髪を片手で肩口に纏めながら、記憶の中にある霧嶋聡里に関する事柄を引っ張り起こす。
「昔は、なんだかとても穏やかで人望も厚い人だったんだけど、『白惺(はくせい)』っていう白い人形のシリーズを作り始めてから、だんだんと精神的に不安定になっていった、みたいな事は言われてたなぁ。人形一つ作るたびに性格がコロコロ変わったりしてたから、多重人格なんじゃないかとか、人形に魂を吸われてるんじゃないかとか、人形に魂を囚われてるんじゃないかとか、人形に呪われてるんじゃないかとか」
 言ってから、あ、と口許に手を当て、唯為と同じ傘の下にいる琥珀を見る。
「まあ、ただの噂だからさ、気にしないでよ」
 その言葉に、琥珀は特に気に障った風でもなくさらりと頭を振った。
「いえ。僕は気にしていませんから」
「……でさ。さっきから気になってたんだけど、キミ、その『白惺』の一人に似てるよねえ。『白惺』の象徴とも言われてる等身大の少年人形に」
 確か、衣装までが今琥珀が纏っているものと同じだったような覚えがある。
「どうなのかな?」
 笑みを含みつつ、けれども真っ直ぐに琥珀の目を見据えながらの零樹の問いに、翠も琥珀を見た。
「もしかしてアンタ、その人形のモデル、とか?」
 その言葉に、シュラインと唯為、そして美咲も、ちらりと琥珀を見る。そういえば、さっき店内で琥珀が席を外した時にも、三人で顔を見合わせていたが……その三人の様子に、零樹と翠は怪訝な顔をした。
「……何か、隠してる?」
 零樹の問いに、口を開こうとしたシュラインを、琥珀が軽く手を持ち上げて遮った。
「隠しても仕方のないことです。その筋の専門の方がおられるのなら尚更。別に隠すような事でもありませんし」
 言って、琥珀は翠と零樹を、感情のこもらない金色の眸で見た。
「モデルではなく、僕はその等身大の少年人形そのものです。ここはマスターの生み出す特殊な『Az』という『域』――空間の中。不可思議な能力を持つ人間、そしてマスターの作った等身大人形に対し特殊な力が働く空間。僕が普通の人間と変わらないように振舞えるのも、この空間の影響です」
 それに、零樹が微かに首を傾げた。
「じゃあ僕が作る人形とは違うわけか」
 その呟きに琥珀が不思議そうな顔をしたが、「いや、こっちの話」と軽く手を振って曖昧に笑った。
 もしかしたら、最初に琥珀を見た瞬間に何かを感じたのは、彼が人形だから、かもしれない。零樹には、人形の声や感情が聞こえるという能力がある。現状の琥珀も『人形』と呼ぶべきかどうかは分からないが、彼のその無表情の内から僅かでも感情の欠片を見出せたのは、多分、自分の持つ能力のせいなのだろう。
 何かを考え込むように黙り込んだ零樹を気にかけるように眺めながら口許に手を当てた琥珀の頭に、そっと手を置いて、唯為が自分のほうへ引き寄せた。ふらりとよろけるようにして自分の傍に来る琥珀の頭からするりと肩へ手をずらし、ほんの数滴、そこについていた雨粒を軽く払いのける。
「まあとりあえずコイツの生い立ちはさておいて。人形関係の輩も、コイツの片割れの行方の情報は知らない、ということか?」
「その子があの等身大人形の少年側だとしたら、つまり人探しというのは同時期に作られたっていう少女側の方を探すって事だよねぇ? もし裏に流れたら随分な値段がつくんだろうなあ」
 その零樹の言葉に、美咲はにやりと笑った。
「幾らでも、売られてんだったら買い戻してやりゃいいだけじゃん? 逆に探しやすいと思うけど」
 あっさりとした、世間知らずの子供のような美咲の言葉に、零樹が唇の端を歪めて笑う。
「いくら値段がついてると思ってるの? 百万単位だよ?」
「あーそんくらいなら平気。こう見えてもオレ、イイトコの坊ちゃんだから」
 世間知らずなのではなく、実際に幾らでも出す事が出来る者の言葉だったらしいとわかると、零樹は僅かに肩を竦めた。それに、唯為が小さく笑う。
「まあ、俺としてもカワイイ琥珀の片割れのためならそれくらいは都合つけてやれるかな」
「……はー……」
 懐具合の温かそうな二人の言葉に深い溜息をつき、「お金ってあるところにはあるのよね……」と遠い眼をしながら呟くシュラインの肩を、翠が苦笑しながらぽむぽむと慰めるように叩いた。
 草間興信所の事務員として苦労している彼女の姿をよく知っている翠としては、思わず同情せずにはいられなかったのである。


 アトリエに向かう道すがら、とりあえず何か情報を持っている人物はいないだろうかと、通りすがりの地元人や地元の店等で聞き込んでみたが、特に引っかかるような情報はなかった。
 骨董店から出てきた唯為と琥珀、そして宝石店から出てきたシュラインが、外で美咲が小型モバイルで新しい情報は出ていないかと検索しているのを横から眺めていた翠と零樹に合流する。
「何か情報は?」
 問うシュラインに、美咲がひょいと肩を竦めた。
「なーんにも。人形マニアとかが売買希望してるサイトにも情報集まってる感じもねえし。さっき店で見てた時と変わらず、琥珀はいい値段ついてるぞ。でも今売ったらちょっと人身売買ちっくだよな」
「いい値段って」
 苦笑して言ってから、ふと翠は真顔に戻った。
「既に誰かが見つけて、どこかに監禁とかしてたりしなければいいけどな……」
「そんな……。彼女はマスターのものです。他の誰かが勝手にそんな……」
 小声で呟く琥珀の頭を、くしゃりと横から唯為が撫でた。
「心配するな。まだ探し始めたばかりだ、そんなに簡単に見つかるようならお前一人でも探せただろう? ……心配するな」
 少しでも琥珀が不安という感情を抱いたのであれば、それを少しでも宥めるようとするかのように常と変わらぬ強い口調で言う。その強さが、琥珀の中に生まれた不安を拭い去ればいいと思いつつ。
「……、まあとりあえず、この際だからさっさと霧嶋さんのアトリエに行きましょう。街で情報拾えなくてもそこでなら何か見つかるかもしれないし」
「あぁ、そんなに急がなくてももうすぐそこだよ。ほら、あそこ」
 シュラインの言葉に、先を歩いていた零樹が曲がり角の先を指差す。
 閑静な住宅街へと向かうその通りに、古びた洋館があった。零樹の細い指はそこを指し示している。
 そこが、霧嶋の住居兼、工房だった。
「……、あれ……?」
 翠が、ふと足を止めて周囲を見渡し、何かに引っかかったように首を傾げた。が、今はその心中の引っ掛かりが何を示すものなのか今ひとつ掴めず、すぐさま先を歩いている者たちの後を追った。


【月と対になる、もの】

 霧嶋のアトリエ内は、白壁の、飾り気のない空間だった。
 ごちゃごちゃしているのかと思いきや、室内はすっきり整理整頓されていて、霧嶋の几帳面さを窺い知る事ができた。
 唯一放り出されているものと言えば、そんな部屋の中央にある大きな作業机の上に、作りかけの人形だけである。
 それに静かに歩み寄ると、そっと指先で触れて、琥珀は眼を細めた。
「それ、お前の弟か妹か?」
 ひょこっとその肩越しに人形を見、美咲が問う。唐突に背後から話し掛けられても少しも驚くそぶりを見せずに、琥珀が小さく頷いた。
「完成前に、マスターが制作をやめてしまわれたんです」
「何でやめたんだ?」
「……、わかりません。それより、何か手がかりはみつかりそうですか?」
 少し間を置いてから緩く頭を振って答え、室内のあちこちに散らばって様々な紙や資料、パソコンを立ち上げて中のデータを見ている者たちに向かって琥珀は問いかけた。
 作業机の前で人形の設計図をまじまじと眺めていた零樹が、ほう、と感嘆の溜息を漏らす。
「凄いねぇ、こういう作りなんだ、霧嶋聡里の人形は。ねえ、これ一枚貰って行ってもいい?」
「アンタ、趣味は後に回せよ」
 テーブルの上に散らばっていたメモ用紙一枚一枚に眼を通していた翠が苦笑しながら言うのに、零樹も笑う。
「そうだね、彼女を見つけられたら霧嶋氏に直接、報酬として交渉するか。とりあえず、彼女の容姿はこんな感じらしいよ」
 言って、手に持っていたA3サイズの紙を作業机の上に広げた。
 ウェブ上には琥珀の姿はよく出ていたものの、少女の方は全く出ていなかったため、今ようやくその姿が明らかになった。繊細なタッチで描かれた設計図とデザイン画には丁寧に着色もなされている。
 真っ直ぐに太腿辺りまで伸びた髪は、綺麗に毛先が切りそろえられている。
 琥珀と同じ、髪は銀。総レースのヘッドドレスには白い薔薇飾りがついてい、そこから長い白いリボンが垂れている。衣装は、あちこちにレースがあしらわれた優美な白いドレスのようなもの。一見すると白いネグリジェかスレンダーラインのウエディングドレスのように見えなくもない。
 そして、その胸の中心には、真紅の薔薇が一輪。
 真っ白な中にただ一つ、それだけが唯一の彩りだった。それだけに、妙に眼を引く。
「…………、眼、閉じてるわね」
 かなり細やかに描き込まれているため、一種の美術品でも見ているような気分でデザイン画に暫し見入っていたシュラインが、今は仕事中だという意識を引き戻してぽつりと言った。それに、唯為が琥珀を見る。
「確か前、アンティークショップでお前の名前を探している時に得た情報では、娘の方は眼は閉じていて瞳は嵌っていない、という話だったと思うが」
 重ねられる問いに、琥珀はこくりと頷く。
「僕とここを出る前に、マスターが赤い瞳を彼女に入れたと言いました。元々は桃色の瞳を使うつもりだったようですが、突然、琥珀と対にするのなら赤にしよう、と思ったらしく」
「琥珀と対にするのなら?」
 美咲が首を傾げる。
「何だ? じゃあ琥珀と対になってるような名前なのか?」
「いえ、名前自体は決められていません。ただ、その瞳の色の意味が……」
「意味って?」
 す、と自分の瞳を指差し、琥珀は美咲を見る。
「僕の金の瞳は、月の光を宿すもの。赤は」
「太陽、とか?」
 零樹が横合いから答えた。それに、琥珀は静かに頷く。
「僕の瞳は、マスターが金色の月光に一晩晒し、月明かりを籠めてくれました。彼女の瞳には、真紅の光……夕陽が放つ光を籠めています」
 ふ、と。
 それを聞いた翠が何かに気づいたように双眸を見開いた。そして。
「あ――……!」
「どうしたの、花房くん?」
 傍らにいたシュラインがその変化に問いかける。それを手で制して、翠は琥珀に顔を向けた。
「霧嶋、あそこにあった音楽ゲームに触ったことないか? あの物凄い音の、今あのゲーセンで流行ってるヤツ。DJもどきのゲーム」
「え? はい。マスターは、全曲クリアした時に流れる音楽が好きで、それを近くで聴くために、僕がクリアした後には時々近づいて来られて、筐体にもたれながら聴いておられますが」
「その音楽の名前は?」
「僕は名前まではわかりませんが、静かなピアノ曲です。あ、お客様がタン……何とかストリームとか言われていた気がします。よく聞こえなかったので覚えていませんが……」
 にやりと笑い、パチンと翠が指を弾いて音を鳴らした。
「あー、じゃあ多分それだな。"Tangerine Stream"ってのは。ずーっと何の事だろうって気になってたんだが」
「Tangerine Stream……"赤橙の流れ"? どういうこと、花房くん」
 シュラインの問いに、今度こそ翠は頷いた。そして。
「霧嶋はその曲を聴きながら彼女の事を思っていたんだ。もしかしたらこの近辺にいるかもしれない、彼女」
「どうしてそんな事が?」
「あのゲームの筐体に触ったらそんな記憶が見えた」
 雑多な記憶が溢れる中、あまりにも静かで――静か過ぎて、見逃すことができなかった記憶。
 それが、霧嶋の記憶。
 問いかけた零樹に答えて、ふと翠は笑った。
「記憶の中で、彼女の姿は見えなかったけど、霧嶋は『呼ばれる日まで目覚めてはいけない。ここで静かに』とか言っていた。たぶんそれは彼女への台詞で、『ここ』ってのはこのアトリエのことじゃないか? 真っ赤な光が差す部屋で、そんな事を言ってたが」
 そして、翠がアトリエ前で感じた引っかかりは、その記憶の中、窓から微かに見えた風景が現実に目の前に広がっていたためだろう。
「真っ赤な光……」
 視線を少し斜めに上げつつ顎先に軽く折り曲げた右手の人差し指を当てて呟くと、その次の瞬間には何かが閃いたのか、唯為は琥珀へと視線を転じた。
「……琥珀、この邸内で夕焼けが見られる部屋はどこだ?」
「夕焼け? 西日が入る部屋ですか? それでしたら……」
 言って、琥珀は天井を指差した。
「この真上の、マスターの寝室です。が、彼女はいません」
「何でンなこと言い切れるんだよ?」
 すぐさま部屋を出ようとして足を止めた美咲の問いに、琥珀は天井を示した指を下ろしながら眼を伏せた。
「いるのなら、僕たちがここへ入って来た時点で出てくるはずです。マスターのアトリエに誰かが入って来たのに、無視している訳がありません」
「じゃあ、待てっていう霧嶋さんの――琥珀くんたちのマスターの言葉を無視してどこかへ行ってしまったのかしら。それとも、霧嶋さんと琥珀くんがここにいない間に誰かに連れ出されたとか?」
 独り言のように呟いてからふと、シュラインは近くにあった本棚へと視線を向け、素早く歩み寄った。そしてそこに並ぶ本のタイトルを指でなぞり視線で追ってから、スッと一冊の本を取り出す。
 それは地図だった。
「ここがあのゲームセンター」
 素早くこの近辺が描かれたページを開き、シュラインは作業机の上にあった赤いペンを手に取り、ゲームセンター「Az」の辺りにバツ印を入れた。そして零樹へと顔を向ける。
「そこにある定規とコンパス取って」
「ああ、これ? はいはい」
 腰を預けるようにしていた別の机の、その上にあるペン立てから30センチ定規とコンパスを抜き取り、零樹はシュラインに差し出す。そしてシュラインが定規で何かを図り、バツ印の上にコンパスの針を差し、円を描くのを見る。
「あー、それって霧嶋の特殊能力の範囲? 『域』だっけ」
 シュラインの意図に気づいて美咲が発した問いに、彼女は頷いた。
「半径一キロとか言ってたわよね、琥珀くん。ならこれが域で……このアトリエはこの辺なのよね」
 言ってシュラインが星印を書き入れたのは、霧嶋の能力の範囲を示す円の、真上にほど近い場所。あと数センチで枠外に出てしまいそうな程の場所である。
「もし、霧嶋さんがゲームセンターから出て、このアトリエとは逆方向に移動したら?」
「ここいらは域の外に置かれるな」
 翠が眉を寄せて答えた。シュラインが頷く。
「で、霧嶋さんの言いつけを破って、彼女がほんの少しでもアトリエの外に出ていたとしたら」
「……琥珀。域外に出たらお前はどうなるんだ?」
 大体予測はつくが、と付け足す唯為に、琥珀はこくりと頷く。
「僕は域外に置かれると動けなくなります。意識も記憶も全て、飛んでしまいます。それは彼女にとっても同じ事。……簡単に言うと、人形に戻るという事です」
「……、この近辺の、域範囲ラインギリギリを探してみるか」
 地図上に描かれた円の上を指でスッとなぞってから、唯為は琥珀の頭に手を置いて踵を返す。琥珀を促がすように。
「行くぞ」
「そういえば、住宅街に入ってから聞き込みもしてないね。何か聞いたら情報、ぽろっと出てくるかも」
「そうよね。琥珀くんでも十分目立つ容姿だし。あのデザイン画どおりなら、彼女も結構目立つはずよね」
 自分で移動したにしても誰かに連れ出されたにしても、目撃者はいるだろう。それが深夜など、人通りが少ない時間帯の行動でない限りは。
 なんせ、少女は普通の少女と同じくらいの大きさだ。ならば人一人を誘拐するのと同じようなものである。目撃者がいる可能性のほうが、きっと高い。
 零樹の言葉に頷くと、シュラインも足早にアトリエを後にする。翠もそれに続き、更に美咲もそれに続こうとして――ふと、足を止めた。
 そして、デスクの上に広げられたままのデザイン画を見やり、うむ、と頷く。
「やっぱ、名前はアレしかねぇよな。あ、でも他の奴らも何か考えてんのかな?」
 その双眸には、絵の少女の胸につけられている真紅の薔薇が映っている。


【呼ばれし、名】

 夕食時が近いせいか、閑静な住宅街にはあちこちからいい匂いが漂ってきている。
 そんな中、学校帰りの子供達や遅めの買い物から帰って来た主婦などを何人か捕まえて話を聞いた一同は、揃って、近くにある堤防まで来ていた。
 空を覆っていた雲は去り、今は夕陽が、川を挟んだ向こう側の堤防と街並みの裏側へと消え行こうとしている。
 金色の瞳の中に、夕陽を受けて炎のような赤い揺らめきを宿しながら、琥珀は無言でその眼を細めた。
 高いビルなどは、一つもなく。
 空がとても広く感じられる、その場所。
 全てが真紅に染まる景色の中、パンと軽く美咲が小脇に小型モバイルを挟み込んで両手を打ち合わせた。
「さってと。この辺で白い鳥籠がおっこってるの見かけたとか言う話はあったけど」
「この風景……霧嶋の記憶に焼きついてるのと同じだな。もしかしたらここで彼女の瞳に夕陽を浴びせたんだろうか」
 翠が呟き、ゆっくりと川上から川下に向けて、水の流れに沿うように視線を流す。
「けど、白い服の女の子なんてどこにもいないねえ? 白い鳥籠も見当たらないようだけど? まあ、ここにはあるけど今は見えない、のかもしれないけどね」
 堤防には雑草が背高く生えている。もししゃがんだり倒れたりしていたら、ここからではどこにいるかなどわかるはずがない。
 周辺へ翡翠のような瞳を巡らせていた零樹の呟きに、一同から吐息が漏れる。
 それは同意を示す溜息だった。
 しかしここまできて諦める訳にもいかず、片っ端から草をかき分けて探すしかないかと誰からともなく言いかけた、その時。
「……っていうかさ。琥珀?」
 不意に美咲に呼ばれて、ぼんやりとその風景を眺めていた琥珀が視線を彼へと向ける。それに、明るい笑みを浮かべて美咲は頷いた。
「動いてるよな、お前。ってことは今ここは域の中ってことだよな? だったら、双子も動けるって事じゃねえの?」
「呼んでみたらどうだ、琥珀?」
「…………」
 唯為の言葉に、琥珀は少し視線を伏せた。その閉ざされた瞳の奥で彼が片割れに対しどういう呼びかけを行っているのかは分からない。一同はじっと琥珀を見つめる。
 が、ややして。
 ふっと金の双眸を開き、琥珀は緩く頭を振った。
「答えません」
「……いないのかしら、この周辺に」
 頬に手を当てて、シュラインが首を小さく傾いだ。それに、ふと琥珀は眼をシュラインへ向けた。
「もしかしたら、僕が勝手にそう思っていただけで、彼女は僕の声には応えないのかもしれません」
「どういうことだ?」
「彼女は、僕のようにはまだ、マスターの空間内でも動けないのかもしれません」
 唯為に答えて、そのまま琥珀は翠を見た。
「マスターの記憶をご覧になられた時に、貴方がお聞きになった言葉。『呼ばれるまで、目覚めてはいけない』というのは、そういうことなのではないかと。僕も、どなたかに『呼ばれて』からしか記憶がありませんから」
 もっとも、呼ばれてからも、霧嶋があの奇妙な能力に覚醒するまでは今のように動くことはできなかったが。
 そう付け足してまた川辺へと視線を向ける琥珀の横顔を見ながら、美咲が口を開いた。
「呼ぶって、もしかして名前か?」
「はい。彼女にはまだ名前がありません」
 言ってから、少しだけ唯為へと視線を向けながら、琥珀は言葉を続けた。
「名は、己を示すもの。彼女自身の意識すら指し示すものであるのなら、呼べば答える、かもしれませんが……」
「ああ、そういや彼女の名前、分らないんだったな。あんたが琥珀だろ? なら、赤って事ならガーネット……いや、もっと簡単に、アンタと同じ漢字名で『石榴(ざくろ)』ってのはどうだ?」
 翠の言葉に、ぱっと美咲と零樹が顔を向けた。
「まあ、名前的に石榴はなかなかイイかもしんねえけど、石的にと、あとはオレ的には、断然『瑪瑙(めのう)』推奨」
「そうだねえ、僕としても『瑪瑙』の方を推奨かなぁ? 赤褐色の宝石」
 血みたいで綺麗な色だしね、とは口にせず、零樹がにこりと琥珀に笑顔を向ける。
「石榴……瑪瑙……」
 ぽつりと呟き、琥珀は視線を、西の彼方へと沈み行く太陽へ向ける。思案するような彼のその頭をくしゃりと掌で撫で、唯為が唇を僅かに歪めて笑った。
「直感で決めてやれ。お前がいいと思う物をつけてやるなら、相手も文句は言うまい」
「…………。では、『瑪瑙』推奨の方が多いようですので、瑪瑙で」
 言ってから、自分の方を見てすみませんと小さく言う琥珀に、翠は明るい笑みをみせて軽く手を振った。
「いいっていいって。ま、とりあえず決まったんなら早く呼んでみろって」
「まあ、私も瑪瑙って名前はなかなかいいと思うわよ? 親子や兄弟なんかを深い愛の絆で結びつける力があるって言うしね? 瑪瑙って石には」
 シュラインの言葉に、琥珀は相変わらず感情に乏しい瞳を向けたが、何か考えるように僅かに視線をずらせて、そうですか、と小さく呟いた。そして、ふと口許に手を当てる。
「呼ぶのは、できればマスターにお願いした方がいいような……。きっとあの声が、彼女にとっても一番深い記憶……生み出された時の記憶を呼び起こせると思うので」
「そうだね。やっぱり人形にとって製作者とのつながりは深いものだろうしね。キミが霧嶋氏をとても慕っているところから見ても、きっと彼はキミ達にとっては良い『親』なんだろうし?」
 子供なら、親の声で目覚めさせられるのがきっと、一番安心するだろう。
 人形だから、ではなく。
 呼ばれた後にそこに宿るであろう魂を思い、零樹は微かに口許に笑みを刻んで言った。
「じゃ、とりあえず霧嶋氏を呼んで来よ――」
「声ならここにある」
 零樹が温めの風に着物の裾を翻して踵を返しかけた、その時。
 ごく間近から聞こえた低い声に、驚いて視線を転じる。
 その先には、シュラインがいた。唇に人差し指を当て、片目を閉じて苦笑を浮かべている。そのまま、シュラインは琥珀を見た。
「本物じゃないけど、本物と大差ない声で彼女を呼ぶ自信は一応あるわよ?」
 いつもの声に戻って言うシュラインに、琥珀は眼を瞬かせてから、ゆっくりと頷いた。
「では、お願いできますか」
「霧嶋さんにもよろしく頼むって言われてるしね。私に任せてもらえるなら、やるわ」
 まっすぐに目を見つめて紡がれるシュラインのその言葉に、琥珀はこくんと頷いた。
 そうだ。マスターが「頼む」と言われたのであれば、彼女の意思は、自分にとっては今はマスターの意思。
「よろしくお願いします」
 深く頭を下げる琥珀に微笑みかける。それは、承諾の笑み。
 すう、と深く一つ呼吸をし。
 シュラインは、そこに、親が抱くであろう彼女への愛しさを、最大限に込めて……。
 娘への、この上も無い愛情を、込めて。
「私の声を聴け。そして目覚めよ……私の娘、『瑪瑙』!」
 空へ向けて発された低い声が、川のせせらぎと風の中へと溶け、流れて行った。

 ――直後。

 ふ、と。
 琥珀が右の耳許に手を当てた。そして、表情も変えずに何かに憑かれたようにその場から駆け出そうとして、その腕を唯為に掴まれて引き止められた。
「おい琥珀、どうした!」
 それに反射的に振り返り、琥珀は再びその眼差しを川べりに生えている草むらへと向けた。
「彼女の声が」
「おしっ、任せとけっ!」
 琥珀の腕に持っていた小型モバイルを押し付けるようにして預け、美咲が琥珀が視線を留めている先に向かい、ひょいと身軽に堤防を駆け下りていく。翠もその後に続いて走り出した。シュラインもその後に続こうとして、零樹がその肩を軽く叩く。
「彼らに任せておけば大丈夫だと思うよ?」
 言った矢先。
「おー、お姫様らしきモノ、はっけーん!」
 腰ほどの高さまである草むらの中に身を低くして紛れていた美咲が、腕に何かが包まれた青いビニールシートを抱えて立ち上がった。駆け寄った翠は、その近くに転がっていた白い鳥籠を持ち上げて堤防の上にいる者たちに掲げてみせる。
 その籠の中には、下に黒い布が敷かれていて、宙には三日月と太陽を模った薄っぺらい銀の板がぶら下がっていた。


 堤防の上にビニールシートと鳥籠を持ち帰ってきた美咲と翠を向かえて、全員でその場に下ろされたシートを見やる。
「とりあえず、シート取って中確認してみないと」
 シュラインがそっと、シートに手を掛ける。そしてゆっくりと広げていく。
「――これは……」
 零樹が、息を呑んだ。思わず着物の裾を捌いてその場にしゃがみ込み、間近に、シートに内包されていたものを見る。
 それは、白い衣装を纏った一人の少女。
 霧嶋のアトリエで見たデザイン画そのままの少女が、まるで眠っているかのような穏やかさで、そこにいた。
「どうやらお前の片割れに間違い無さそうだな」
 唯為の声に、琥珀は頷く。そして、片膝をビニールシートの上に落として、そっと少女――瑪瑙の頬に触れた。
 少し汚れている、その頬。そして白い服もあちこちが汚れ、傷みが見える。
「アンタ、一応人形の専門家なら傷んでるとこないかどうか見てみたらどうだ?」
「そうね、後で霧嶋さんにもちゃんと見てもらわないと。女のコなんだもの、傷とかあったら大変だわ」
 翠とシュラインの言葉に、零樹は頷いてそっと瑪瑙の肩に触れた。そして上体を抱き起こすと、あちこち、服の上から分かる範囲で、触れて大きな傷みがないかどうかを確認する。
 さすがに、こんな場所で服を脱がせるわけには行かない。いかに相手が人形だとはいえ、この奇妙な空間では彼女も一応、「人間」だ。いや、この空間でなくとも、零樹にとって「人形」なら、もう既に人と同じように扱うべき存在だが。
「まあ、外見は少し汚れているけど、特に壊れたりとかはないんじゃないかな? 後は、内部とかはバラしてみたりとかしないと流石に分からないけどね。それは多分霧嶋氏自身でないとなんともならないんじゃないかな、特殊だから、構造が」
「じゃ、さっさと霧嶋んトコ連れて帰ろうぜ?」
 先刻、シュラインの呼びかけに答えはしたものの、どうもまだ眠っているかのような瑪瑙を、ひょいとその腕で軽々抱き上げて言う美咲の言葉に全員が同意を示すように頷いた。
 日は、深く西へと傾いている。吹き抜けた一陣の風が、足元に広げたままのビニールシートに乾いた音を立てさせた。


【天使の集い】

「しかし、何だな」
 ゲームセンター・Azに戻り、瑪瑙を無事に霧嶋の手許に戻した一同は、霧嶋が休憩室で瑪瑙の身体チェックを行っている間、軽食コーナーにあるテーブルセットに陣取っていた。
 相変わらず鳴り響く音楽は店内の空気を激しく揺らせ、落ち着くのだか落ち着かないのだかよく分からない雰囲気を作り出している。
 味がしないのを承知で、懲りずにコーヒーの入った紙コップ片手に椅子に深く腰掛けてゆったりと足を組み上げた唯為は、テーブルの上にある灰皿から細い煙を宙へと描き出している煙草を見ながら言葉を続けた。
「一体、誰があんな所へ瑪瑙を放置して行ったんだろうな?」
 霧嶋と琥珀が留守にしている間に、アトリエから眠ったままの彼女を持ち出した者がいるのは確かなようだ。が、それなら何故、そのままどこかへ持って行かなかったのだろうか。
「瑪瑙が連れ出されてどれくらい経ってるかわかんねえけど、霧嶋が行方不明になったとか言われてたのが、確か一ヶ月前くらいの話だろ?」
 預けていた間に素人目には気づかない程度に汚れていた肌や髪等を霧嶋によりすっかり綺麗にされてしまった、人形『瑠璃』を腕に抱えながら、美咲が首を傾げた。
「それから即連れ出されてたとしたら、一ヶ月もあんなトコに放置してたってことかよ」
「あんな大きなモノ持ってってアシがつくのを怖がったとか?」
「だからってあんな所に放置しておくかなぁ? 汚れたら売り物にもできないよ? まあ、持ち出した本人が売るつもりだったのかどうかはわからないけどさ」
 翠の言葉に、零樹が首を傾げる。そしてさらと肩に流れる黒髪を手で払いのけ、何かに気づいたようにふと顔を上げた。
「どうだったの?」
 その視線の先には、霧嶋に手伝いを頼まれて一緒にゲームセンターの従業員控え室へ行っていたシュラインと琥珀が居た。零樹の問いに、瑪瑙の衣装の破れた箇所の繕いを霧嶋に任されて、暫しの間針仕事に没頭していたシュラインが笑って頷く。
「傷は本当にどこにもないみたい。顔とかの汚れは今霧嶋さんが綺麗にしてる所。服の上から触っただけで傷みがないかどうかちゃんと分かるなんてなかなか目が利くようだって褒めてたわよ、霧嶋さんが」
「そう。それは光栄だね」
 片方の唇の端を上げて笑う零樹。有能な人形師に褒められるのなら、悪い気はしない。
「ま、とにかく、よかったわね琥珀くん」
 テキパキと霧嶋の助手を務めていた琥珀の肩にポンと手を置いて言うと、彼はシュラインに向けてこくりと頷いた。そして、その場に居た者たちにぺこりと丁寧に頭を下げた。
「本当に、このたびはどうも有難うございました」
「ま、とりあえず今日のトコはこれでメデタシメデタシってことで?」
 瑠璃の頭を撫でて笑った美咲の言葉に誰も反論はしなかった。
 が。
「しかし、何だな」
 先刻と同じ台詞を繰り返し、唯為はコトンと半分以上コーヒーが残ったままの紙コップをテーブルに戻した。そして眉を寄せて琥珀を見る。
「味がしないコーヒーというのは、やはり飲めたもんじゃないな」
「あー、それは俺も思う」
 同じように、やはり再度挑戦とばかりに一口飲んでみたはいいが何も味を感じなかったために、やっぱりダメだと悟ってそれっきりカップの中身を口に運ばなかった翠が、苦笑しながら同意する。
「味覚がなくなるってのは微妙なもんだな、結構」
「普段あるものがないっていうのは違和感あるけど、僕はまあ、別に嫌いではないよこの空間」
 やはり人形に関係がある場所だから、惹かれてしまうのだろうか。
 胸の内で言葉にしなかった部分を自己分析しつつ言う零樹が、ふと、視線を向けた先にいたシュラインが自分の肩にかかる髪に触れているのを見、僅かに首を傾げた。
「ねえ。何か首についてるよ? うなじのところに」
「え?」
 言われて、シュラインは自分の項に手を伸ばした。が、特に何かがついているようには感じない。
「え? 何、何がついてるの?」
 自分で見えないため、しきりに手で触れてみるが、指先にはいつもと大差ない肌の感覚が触れるだけ。
 その手に、そっと横に居た琥珀が触れた。
「本日、このマスターの域に入られたことで、この域内における規則の様なものが皆さんに適用されています」
「規則?」
 美咲の問いに、琥珀は頷く。
「何度か域に出入りすると、この空間における特殊な束縛が一つずつ融けていくようになっているようです。詳しいことはよく分かりませんが、免疫ができていくのかもしれません。とりあえず、域内では出入りするたびに各人に設定されているランクが上がっていきます。最初は『天使』、最後は『熾天使』」
「中はもしかして、『大天使』とか『智天使』とかあったりするわけか?」
 天使における階級と同じなのかと問う翠に、琥珀はまた静かに頷いた。そしてすっと、音楽ゲームのところにいる黒いシャツに黒いジーンズを纏った常連客を指差す。
 それが通称「ルシフェル」という名の青年だという事は、この場に置いては翠とシュラインのみが知る事である。
「あそこにいる彼は、『智天使』の階級で、空間における全束縛から解放されています。今皆さんは最下級の『天使』にランク付けされていて、これから何度かこの空間に入られる内に『大天使』『権天使』というように昇格します。ごく稀に、所持される能力の影響でこの空間の影響を受けない方もおられるようですが」
「んー……じゃあ、その昇格云々っていうのとこの首についてるのには関係があるの?」
 首筋に触りながら言うシュライン。横から、美咲がちらりとそこに書かれている文字を見た。
「なんか、二ミリくらいの黒い縦線が一つ入ってっけど。もしかしてここにいるオレたち全員にこれがついてる訳? つーか、天使って……多分オレらのガラじゃねえんだけど」
「何を言う。俺にはピッタリだぞ? キヨラカでヤサシイ俺には」
 足を組み上げながら笑いを含んで言う唯為に、オイオイ、と全員が口には出さず、表情でツッコむ。けれどそれにも構うことなく唯為は目を伏せ唇の端をつり上げて笑った。
「……、とりあえず、その印は空間から出たら消えますのでご心配なく。ここへ入るたびに浮き上がりますが、気にしないで下さい。何度ここへ入られたかの覚書のようなものですから」
 ただ一人、ツッコむ表情を浮かべなかった琥珀は、そう言うと静かにもう一度頭を下げた。
「本当に、今日はどうもありがとうございました。またこの近くへ寄られることがありましたら、当店へも足を運んでいだたけると嬉しいです」
 少しも嬉しくなどなさそうな無表情で淡々と言う琥珀に、五人はやれやれとでも言うように苦笑を浮かべてみせた。


【終――人の形の心】

「約束ですから」
 そう言って、向かいの席に座った銀色の髪の少年に、零樹は顎先に手を添えてくすくすと笑う。
「律儀だねえ」
「約束ですから」
 生真面目に繰り返される言葉。そして、少年は金色の瞳を、テーブルの上にあるチョコレートパフェへ向ける。
「まあ、形だけね」
 そこに困惑の色が宿るのを見ると、零樹はそう言って、自分の前にある黄昏色の紅茶が揺れる白いティーカップを持ち上げた。ゆっくりとそれを口に運び――爽やかな香りと味を確かめ、にっこりと笑う。
「霧嶋氏にもご協力いただいたようだね」
「……約束ですから」
 三度目のその言葉に、零樹はやれやれというようにわざとらしく肩を竦めてみせた。
「約束だけどね、確かに。でもまあ、せっかくお茶しに来てるんだから、もう少し楽しそうに、ね?」
「……と言われても、僕には……」
「そんなに構えなくてもいいんだよ」
 テーブルに頬杖をつき、その金色の瞳を見据える。
 ――今二人は、零樹が店主を務めている日本人形専門店「蓮夢」の近くにある喫茶店にいた。アンティークショップ・レンから少し離れた通りにある零樹の店は、ゲームセンターAzからも、そう遠くない位置関係にある。
 今日は、先日の瑪瑙の捜索時に提示されていた「僕とお茶を」という零樹の報酬要求に応じるため、琥珀はバイトを休み、この喫茶店に訪れていた。
 ちなみに、零樹が紅茶の味等を感じられるようにと琥珀が配慮し、今は零樹と琥珀のちょうど間くらいに域の限界範囲が来るように霧嶋に移動してもらってもいる。
 娘を見つけてくれたのだから、ということで霧嶋も特に何か文句を言うでもなく、素直に協力してくれていた。
 翡翠色の瞳と琥珀色の瞳がそれぞれ互いの色を見つめて――ふと、琥珀の方が先に視線を外した。
「僕が何かを話さなくても、貴方にはすべて聞こえてしまうのでしょうか?」
「ん? いや、どうだろうね。微妙な感じだねえ。霧嶋氏の域の中にいるから、君は完全には人形とは言い切れないんじゃないかな。微かに漏れ聞こえてくる程度だよ」
「……今、僕の心は楽しそうだと言っていますか?」
 おずおずと訊かれる事に、零樹は首を傾げた。さらと長い漆黒の髪が、窓辺から入る微かな光を帯びる。
「ああ……そうか、君、自分の感情がよく理解できないんだ?」
「……、自分のものだけでなく、他の方の感情もよくわかりません」
「……いっそ、アレだね」
 くす、と口許に手を当てて目を細めて笑う。
「霧嶋氏の域から出てもらったほうが、僕には君の声がよく聞こえるかもしれないね。感情も、きっとよく理解できると思うな」
「……貴方の能力であれば、そうかもしれません」
 視線を伏せて言う琥珀の様子に、一口紅茶を飲んで味がするかどうかを確認してから、静かにカップを置いてそっと、さっきからパフェにつけられていた柄の長いスプーンを掴んだまま動かそうともしない、琥珀の手に触れる。
「どうかな。いっそ、出てこない?」
「え?」
「おいで。こっちに」
 境界は、すぐそこにある。
 踏み越えるのは、容易い。
 ここに境界があるということは、霧嶋は一キロ離れた場所にいるという事だ。すぐにここに来て、息子の手を取る事はできまい。
「…………」
 困惑を宿して微かに揺れる金色の眼差し。
 感情のない彼が、困惑で揺れる。それがなんだか妙に面白く、きゅっと零樹は琥珀の手を掴んだ。
「さ、おいでよ。大丈夫、君の声は僕がしっかり聞いてあげるよ?」
「…………。いえ、僕は……」
 すっと。
 零樹の手に手を重ねて自分の手の上から退けさせると、琥珀は静かに立ち上がった。そしてぺこりと丁寧に頭を下げる。
「すみません……僕はマスターの傍にいないといけないので」
 忠実極まりないその言葉に、ふと零樹は笑みを零した。差し伸べていた手を引き戻し、切れ長の眼を細めて琥珀を見る。
「君は本当に、霧嶋氏の作った最高傑作だね」
「有難うございます」
 主の人形作成に関する腕を褒められて素直に礼を述べる辺りもまた、上出来という所か。
 ふふ、と笑声を紡ぎ、零樹はにこと笑顔を琥珀へと向けた。
「とりあえず、まあ折角のお茶なんだしね? 今日くらいは楽しんでよ」
「はい。わかりました」
「うん。いいお返事だ」
 満足げに頷いて、零樹はまた、ゆっくりとした所作で味のする紅茶を口に運んだ。


 そして、琥珀が席を立ち、店を後にするその背を見送ってからふと、思い出すのである。
 琥珀とお茶をしたという事は、霧嶋聡里の人形設計図はもう手には入らないだろうか、と。
「まあ、機会があればまたあのお店に行けば逢えるだろうしね」
 ひとりごち、目を伏せて微笑む。
 彼がいる場所は、とりあえず他の人形関係の人間には伏せておこうと、零樹は思いながら、窓の外から差してくる梅雨らしくない明るい光に目を少し細めた。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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 整理番号 … PC名 【性別 /年齢/職業/階級】

0086 … シュライン・エマ――しゅらいん・えま
        【女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員/天使】
0523 … 花房・翠――はなぶさ・すい
        【男/20歳/フリージャーナリスト/天使】
0733 … 沙倉・唯為――さくら・ゆい
        【男/27歳/妖狩り/天使】
2577 … 蓮巳・零樹――はすみ・れいじゅ
        【男/19歳/人形店店主/天使】
2765 … 季流・美咲――きりゅう・みさき
        【男/14歳/中学生/天使】


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 蓮巳零樹さん。
 初めてのご参加、どうもありがとうございます。
 一見物腰穏やかそうで……でも実はちょっとひねくれ気味で、というようなイメージを抱いたので、そのように描写させていただいて……いると思うのですがどうでしょうか(汗)。
 もしイメージが違っていたら申し訳ありません……。
 当依頼との関わり方をとてもしっかり書いていただいていたので、助かりました(笑)。

 本文について。
 界の詳細な規則等は、すでに異界をご覧頂いていると思い、多少省かせていただいています。なるべく文中でも解説する機会を作れたものはくどくどと解説していたりもするのですが(汗)。
 わかりにくい、と言う場合は、異界にてご確認ください……。
 今回は、調査については全共通です。個別部分は序章の次の章と、終章です。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。