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<東京怪談ノベル(シングル)>


灰色狼に滲む血と殺戮の歴史
 
 前触れもなく父親から届けられた品物を前に海原みなもは困惑した面持ちで、それでいて僅かな怯えのようなものを滲ませながらその蓋をそっと閉じた。なかには灰色狼の毛皮。目で見るだけでもわかる滑らかな質感は触れたらきっととてもしっくりと掌に馴染み、心地良さを与えてくれるもののようにも思えたがどうしても触れることができなかった。
 箱を開けた瞬間に溢れてきたもの。
 それは触れてはいけないものの気配だった。
 何に触れてはいけないのか。それはわからなかったが、決して触れてはいけないものだという気配がしたことだけは本当だ。恐ろしさにも似たそれに怯えるように、みなもはそれを自室ではなく両親の部屋へと運んだ。自室に置いておくにはあまりに恐ろしいもののように思えたからだ。
 その夜、みなもは静かな夢を見た。
 密やかに夜の闇の底で、血に濡れた静かな終末へとひた走るような夢だ。
 眠りのなかに意識が拡散していく。
 ゆるゆると細く、滑らかな糸が紡ぎ出されるようにして。
 そしてだんだんと明確なヴィジョンが形成される。
 現実の雫が夢の溜りに落ちて、輪を描く。
 その中心からゆったりと幻のように立ち上がるのは幻のような、それでいて生々しさをまとった静かな情景。
 みなもはそのなかに組み込まれ、自分の立場を自覚する。
 夢のなかで、みなもは薬師を生業とする魔女だった。
 人知れぬ森のなか、ひっそりと薬師として生計を立ててひっそりと暮らしていた。慎ましやかに思慮深く、世界から隔絶されない程度の距離を保って、自らの安全を保つために静かな暮らしをしていた。
 そして静かで穏やかな生活のなかで緩やかに時代の波が押し寄せてくる気配を感じていた。
 それが自身にとって決して良いものではないことは明白であるという確信もあった。
 魔女狩り。
 その名のもとに財産を没収され、村を追われ、拷問嗜好の役人たちに嬲り殺されていく幾人もの女性がいるのだという情報は、人知れぬ森のなかで暮らすみなものもとにも届いていたからだ。火炙りを始め、人がこれほどまでに残虐になれるものかという方法で役人たちは魔女を狩る。流れる血は人のそれではないとでもいうように、裂かれる皮膚も、その奥に詰め込まれた臓物も何もかもが忌むべきものであるかのように役人たちは魔女を狩るという。
 そうした情報が仔細にみなもに届くことは同時に、魔女狩りが公のものになりつつあるということの証拠でもあった。
 人知れぬ森の奥まで届く現実。
 それは明らかに自身にも危険を及ぶことを知らせる警鐘だった。
 その音が鼓膜を震わせるよりも早く、危険はみなものすぐ傍に迫ってくる。薬師として評判だったみなもは、領主選任医師によって魔女であることを密告されたのだ。
 それを知り、みなもは躊躇わなかった。
 村から逃げること。
 村を捨てることを躊躇っている暇などなかった。
 そして同時に領主選任医師を恨む暇もなかった。
 誰もが時代に踊らされ、情報に流され、そうせざるを得ない状況にあることを思慮深いみなもは誰よりも強く理解していたからだ。
 そして総ては本当だったから。
 自分が魔女であることが現実だったから。
 本当であるが故にずっと温かく接してくれた村の人々を傷つけたくなかったから。
 だからみなもはひっそりと人知れぬ森の奥から姿を消そうと思った。
 けれど当然のように社会に蔓延った魔女狩りの手を逃れることは容易ではなかった。たとえその発端が濡れ衣であり、根底に嫉妬と愛憎が入り乱れていたとしても、行われる魔女狩りは紛れもない現実だった。そのなかで社会が狂っていると叫んでみたところでどうなるというのだろう。思いながらもみなもに与えられた選択肢に、逃亡以外のものはなかった。
 暗い森のなかを逃げる。
 無理だと思う心とは裏腹に追っ手を振り切ろうと足が動く。
 絡まる髪を気にしている間もなかった。肌を裂き、折れていく枝にかまっている暇もない。
 ただひたすら逃げなければ、遠くへ行かなければという思いだけが総てだった。
 背後から響いてくる野太い声はきっと噂で聞いていた拷問嗜好の役人たちのものだろう。それに呼応するようにして響く猟犬の声。きっと嬲り殺される。火炙りのほうがいいと思えるくらいの方法で殺される。思えば思うほどに、焦る心に連動する足は速度を増す。肩からかけている鞄が走る節奏に連動するようにして背中に当たる。その中に詰め込まれた薬壜が硬質な音を響かせ、弾む呼吸の節奏に連動する。
 音が絡まりあう。
 役人の声。
 猟犬の声。
 薬壜の硬質な音。
 弾む呼吸。
 不意に視界が揺らいだ。
 木の根に足を取られ躰が傾ぐ。痛い、思った時には両手をついていた。その反動で口を開けた鞄から幾つもの薬壜が零れ出す。
 背後に迫る役人と猟犬の声。
 もう躊躇っている暇などなかった。
 みなもは震える手で薬壜に手を伸ばす。そこには魔女の軟膏。鞄のなかを探り、狼の毛皮を引き出す。魔女を狩りたいのなら、魔女ではないものになってしまおう。どこへも逃げることができないのなら、魔女だということを否定されるのなら、それを手放してしまおう。思う心が着実に手に命令を下す。纏っていた衣服を脱ぎ、白い肌の上にどろりとした軟膏を塗りつける。丁寧に白い肌の上を軟膏で覆い尽くすかのようにして、たっぷりと塗りつけて空になった壜を投げ捨て、鞄のなかから引き出した狼の毛皮を被る。
 ―――いたぞっ!
 声が近くで響く。幾人もの役人の姿と猟犬の唸り声。
 それが魔女としての最後の記憶。
 毛皮と皮膚が癒着する。軟膏が二つをどこまでも深く接着させるようにして一体になっていくのがわかる。痛み。骨が軋む。砕けるような音が体内で響く。鈍い音。内側からだんだんと狼になっていくリアルな感覚。皮膚が柔らかな毛に覆われ、皮膚は生身の狼から剥ぎ取られた毛皮に痛みを伴い癒着する。人の形が崩れていく。血の一滴も流さずに、けれど人から狼のなかへと幽閉されていくような心地を伴って。緩やかに、確実にみなもは狼へと姿を変えていく。
 ―――殺せっ!魔女は、殺すべきだっ!
 役人の野太い声はもう上手く認識されない。
 牙をむく銀の毛に月光を反射さえる狼はもうみなもではない。
 喉笛を噛み切り、溢れる血の色だけが鮮明。淡い月光の下で繰り広げられる惨劇。狼の内側でみなもは静かにそれを見ている。これが報いだと云わんばかりに冷静に、静かに見ているだけだ。倒れていく役人と猟犬。成す術もなく殺されていく。溢れる血と喰い千切られる肉片。飛び散る臓物。銀の毛が血に濡れ、牙の先端から鮮血の飛沫が飛ぶ。
 淡い月光の下、血に染まる森と大地……―――。
 みなもははっと飛び起きた。
 そして夜の闇のなか自室を抜け出し、怯えを押し殺すようにして両親の部屋のドアを開ける。そして確かめなければならないという一心で昼間に自ら蓋を閉ざして、置き去りにした荷物の蓋をそっと開ける。
 するとそこに静かに収まっていた灰色狼の毛皮は赤黒く染まり、昼に見た滑らかな手触りが幻であったかのような姿でそこにあった。
 ―――まるで今しがた殺戮の現場に遭遇してきたかのようにしてぬらぬらと妖しい滑りは鮮血の赤。
 それが灰色狼の毛皮を彩っていた。