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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


アナタに眼鏡


------<オープニング>--------------------------------------

 郵便受けを開くとそこに眼鏡があった。
 眼鏡?
 浅海は目を瞬かせる。
 四方をステンレスに囲まれた郵便受けの中央、近所にあるスーパーのチラシや美容室からの案内ハガキといった郵便物に紛れ、赤い縁の眼鏡はポンとそこに置かれてあった。
 浅海は眉間に皺を寄せ、一先ず無言で扉を閉める。
 ええ?
 小首を傾げ、眉の上をかいた。
 もう一度、郵便受けを開く。
 眼鏡があった。
 眼鏡? なぜ眼鏡?
 浅海は失笑する。
 思わず辺りを見回してから、眼鏡の下敷きになっていた郵便物だけを手に取って、部屋へ続くエレベーターに乗り込んだ。

  ※

 最後に出てきた眼鏡を見て、武彦は思わず吹き出しそうになった。
「いやいやそれ、鼻眼鏡じゃん!」
 ソファに踏ん反り返っていた洋輔も、膝を叩いて笑っている。
 武彦はニヤついて仕方が無い口元を、手で覆った。
「笑う気持ちとか。凄い分かるんですけど。結構、笑いごとじゃないんで」
 ソファに腰掛ける青年は、至極真面目な顔つきで眼鏡の入っていた紙袋を折りたたんでいる。確か、浅海忠志と名乗ったか。彼は笑いを隠せない武彦と爆笑する洋輔に目をやると、深い溜め息をついた。
「ほんと。友達とかの話だったら爆笑なんすけど。これ、自分やられたら結構マイりますよ」
「そら、はーな眼鏡突っ込まれたらなぁ。さすがになぁ」
 洋輔はテーブルに並べられた眼鏡の中から、鼻眼鏡をその手に取る。鼻眼鏡といっても『耳にかけるつるがなく、鼻筋を支えにしてかける眼鏡』のことではなく、黒フレームにコミカルな鼻と髭がついた、ドンキホーテでしか見かけないようなパーティグッズのそれである。
 ふざけてそれをかけ遊ぶ洋輔を見て、浅海の肩が一段と下がる。武彦は咳払いをして自分の中に渦巻く笑いを払った。
「客が来たんだ。お茶ぐらい出せ」
 いい加減遊び過ぎ感のある洋輔に向かい言う。
「あぁ?」
 鼻眼鏡をテーブルに放って耳の裏をかきながら、洋輔が笑いのついでのような返事をした。
「なんでお茶?」更についでのように問う。
「お前はバイトだろ」
「バイトですけど〜」両手を広げからかうように笑った。
 それからよっこいしょと難儀そうな声を上げ、スリガラスの向こうにあるキッチンへと消えて行った。
「馬鹿なバイトだ。気を悪くしないでくれ」
 武彦はデスクの上に転がっていた煙草の箱を手に取った。溜め息をつき、それを咥える。
「いや。全然大丈夫ス。っていうか俺が反対の立場でもきっと爆笑してると思うんで。それに……洋輔君にここ紹介して貰わなかったら俺、どうすることも出来ないでいたし」
「まぁな。一応ウチは興信所だ。調査することは出来る。だが。解決出来るとは言い切れないぞ……そもそも眼鏡が郵便受けに入れられているなんて。前代未聞だからな」
 吐き出した煙を目で追いながら言った。
「更に嫌がらせかどーかもわかんねぇ……ほい、お茶」
 キッチンから顔を出した洋輔は湯のみをテーブルにドンと置くと、またソファに勢い良く座った。
「あ。どうも」
「ま。大丈夫なんじゃね? ここ。結構スゲーの居るから」
「スゲーの?」
「え。何か。超能力とかそんなん」
「へー」
「じゃあ君のバイト先と年齢。教えてくれるか」
「無視かよ!」
「あーっと。バイト先は普通にコンビニで。年齢は21ス」
 武彦は頷きながら調査依頼書に書き込んだ。
「で。一ヶ月間、郵便受けに眼鏡を入れられ続けている、と。その投函されていた眼鏡は、その……鼻眼鏡、以外は普通の眼鏡なんだな」
「今、ちょっと笑ったっしょ」
「煩い」
 洋輔を睨みつけてから、浅海に向き直った。
「はい。っていうかどっちかっていうと、お洒落な。なんか。色付きフレームのんとか」
「なるほどな……ところで。コンビニバイトなんかで金はちゃんと払えるんだろうな」
「あ。それは……大丈夫です」
「何故だ」
「まぁ。そこはいろいろ……とにかく。本当、マジ気味悪ぃんで。辞めさせて下さい。頼みます」
 浅海はそう言って頭を下げた。

------------------------------------------------------------



―0―


「えぇ?」
 浅海は思わず、息を飲んで辺りを見回した。
 自分の頭を挟むようにしてあの人の腕があり、そこはどうやら自分の部屋のベットの上で、あの人は自分の腹に馬乗りになっていた。
「えー」
 浅海はポウっと惚けたように口を開く。
 それは今まで何度となく見てきた夢のシュチュエーションと似ている。それともこれもまだ夢の延長線上だというのだろうか。目を開けたのに、まだ。夢。
 浅海は仰向けの体制でベットに張り付いたまま、指先一つ動かすことが出来ずに光りの加減で茶色くもグレイにも見えるその色素の薄い瞳と見詰め合った。
 細かな埃を浮かべる光りの筋がその金色に輝く髪の上に振っている。キラキラと輝き、寝起きの目に眩しい。
 夢だとしたら。これはなんて臨場感溢れる夢なのだろう。
 そう思っている浅海の頬に冷たいものがツンと触れ、肩がピクンと跳ねた。
 指。
 浅海は瞬時に理解する。
 あの人の指だ。
 指が自分の頬の上を触れるか触れないかの距離でゆったりと滑っている。
 くすぐったいのに妙な色っぽさを込めるその指先のタッチが浅海の中で劣情となり膨れ上がる。
 どうしよう。
 そう思えば思う程、体は困った反応をした。
 うわー。どうしようー。
 心臓がトクトクと跳ねている。耳の奥でそんな心臓の鼓動だけが聞こえ、どうにかなってしまいそうなほど、息苦しい。小さな呼吸を繰り返し、生唾を飲み込んだ。
 渇いた唇を舐め、また荒い呼吸を繰り返す浅海に、あの人はゆったりと微笑んできた。
 それはまるで天使の微笑みのような。
 そんなワケがない。
 浅海は自分の思いつきを自分で即座に否定した。
 否定はしても、その微笑に引き摺られるようにして浅海の頬は緩んでしまう。
 最初に会った時、その言葉を力強く感じ、その言葉を真に受け、その言葉に引き摺られるようにしてその場所を訪れてしまったように、また引き摺られていってしまいそうな自分を感じる。
 弱いのだ。
 弱いのだ、自分は。父性本能を擽られるような行動に。口では何だかんだと言いながら、めちゃくちゃ弱いのだ。はちゃめちゃな行動に。
「何考えてンの」
「え?」
 瞬間。
 頬を滑っていた指先で肉を掴まれ、え? と思う間なくギュッと抓り上げられた。じわりじわりと力が込められ浅海は思わず声を上げた。
「イデデ、イタ。痛い、痛いから、ちょ。もう」
 抓ってくる手から顔を背け、それから逃れようともがくと頭を掴まれグイっと正面を向かされた。
「なにす」
「おー仕ー置ーき」
 コミカルな声がそう言って、突然浅海の視界は急転した。
 衝撃の後、じわりじわりと頬が痛み出しビンタされたことを知る。
「え」
 浅海は間抜けな声と共にひりひりと痛む頬を押さえた。


―1―


 依頼が立て込んでいない日の草間興信所の昼下がりは、土曜日の放課後のようだとシュライン・エマはいつも思う。
 放課後というからには学生時代なのだろうが、具体的にいつということはない。
 ただ、開放感があり、ゆったりとした時間が流れるブランクの時。これから何をしようかふと立ち止まる、日常の中にぽっかりと空いた空間。そんな物が、土曜日の放課後という言葉とリンクする。
 陽の光りが緩やかに窓から流れ込み、事務所には人の声一つない。音といえば、窓の外から聞こえる車の行き来する音と自分の叩くキーボードの音、そして時計の秒針が時を刻む音だけだった。
「何だか、落ち着きますね」
 くすんだ紅色のソファに座り、シュラインの出した紅茶を啜っていたセレスティ・カーニンガムが流れる水のような声で言った。シュラインはパソコン画面を見たまま「えぇ」と頷く。
「でも。こんなことは稀なのよ。最近、新しいバイトの子が入ってね。その子がまた、騒がしい子なの。こんなに落ち着いた時間を過ごすのは久しぶりだわ」
 パソコン画面からふっと視線を上げ、背後にある窓を振り返った。
 ここ最近、曇ったり雨が降ったりとご機嫌ナナメだった空も、今日はすっかりと晴れ上がっている。窓枠に切り取られた空には、雲一つ見当たらなかった。
「女性は」
 セレスティの呟くような声に、シュラインは顔を戻した。
「こんな日に外で食事でもしようと誘われれば嬉しいのでしょうかね」
「あら」
 シュラインは青い瞳をつっと細め、微笑む。
「一概にそうとは言い切れないわね。人それぞれなんじゃないかしら。私の場合、彼がそんな暢気なことを言ったら正気を疑うけれど」
 セレスティがゆったりと澄んだ笑い声を漏らした。
「手厳しいですね」
「難しいのよ。女も二十五を越すと。嬉しいけれど、乙女のように単純にははしゃげなくなるの。考えること、いろいろあるでしょう?」
「なるほど」
 微笑んだままで、セレスティが頷く。
「いろいろとね」
 シュラインは頬杖をつきながらパソコン画面に表示される報告書を見た。
 ふっと小さく溜め息をつき報告書の作成に戻ろうと身を正すと、事務所のドアがバッと開かれた。
 シュラインは顔を上げドアを見る。「あら」
 眉を顰めてそこに立つ、ケーナズ・ルクセンブルクに笑顔を向けた。
「いらっしゃい。お久しぶりね」
「ここは相変わらず煙臭いな」
 ケーナズは肩を竦めて言った。シュラインは苦笑する。
「これでも鬼の居ぬ間に、窓を開けて換気したんだけど」
「鬼を退治することをオススメするよ」
「それは難しいわね。独りじゃ押し切られそうだし討伐には付き合ってくれるかしら。黍団子あげるから」
 シュラインの言葉にケーナズがフンと喉の奥で笑った。
「草間興信所の女将はエビで鯛を釣る」
「随分だこと」
「聡明だ、ということですよ」
 セレスティがおっとりと微笑んだ。
「奇遇ですね」
 立ち上がって会釈しようとしたセレスティを、ケーナズが手を翳し制した。
「ジムの帰りにね。ふとここのことを思い出したんでね」
「そうだったのですか。私も彼女からラフロイグの三十年ものが手に入ったので、いつでも遊びにいらっしゃいとお誘いを受けていましたので。今日は良い天気でしょう。たまには外へも出てみようという気になりまして」
「そうだな。天気が良いとな。雨が続いてただけに浮かれてしまう。しかしラフロイグとは」
 ケーナズは眉を潜め、口を歪めた。
「あんな消毒臭い酒」
「余韻に潮の香りがするんですよ。あれが好きでして」
「ほぅ」
 首を振りながらケーナズが感心したように唸る。そのままどっかりとソファに腰を下ろすのを見て、シュラインは言った。
「紅茶、入れる?」
「それは有り難い」
 ケーナズはゆっくりと頷いた。
「頂こう」



 シュラインがスリガラスの向こうにあるキッチンに消えたところで、ケーナズはテーブルの上に置かれた、眼鏡に気付いた。
 シュラインの物だろうか。
 疑問に思いながらもそれを手に取る。
 それはとてもコミカルな形をした眼鏡だった。フレームはピンク色でラメが施されており、上部がピンととんがっている。
 ケーナズは思わず笑った。
「なんだこれは。新しい趣味か」
 背後を振り返り、キッチンに向かい声を荒げる。
「え? 何?」
 ほどなくしてキッチンから姿を現したシュラインに、眼鏡を掲げた。
「これだ。何て趣味だ。何のプレイに使うんだ、一体」
 シュラインは「もう」と笑いながら、テーブルに紅茶を置いた。
「どういうプレイよ。違うのよ。それ、新しいバイトの子が取ってきた依頼。眼鏡がね。毎日郵便受けの中に入れられてるんですって」
「ほう、それはまた奇妙な。なぁ」
 隣に座るセレスティに問いかけると、セレスティも微笑みながら頷いた。
 シュラインは、事務机の影でゴソゴソと何かを取り出していた。大きな紙袋と小さな封筒を持って応接セットの前へ戻ってくる。
 テーブルにドン、と紙袋を置いた。
 SHOCKのロゴが入った紙袋の中身は眼鏡だった。
「ほー」
 ケーナズは唇を曲げて、感嘆の溜め息を漏らす。
「それはそうと。これ」
 紙袋の中を覗いていると、目の前にすっと封筒が差し出された。
 ケーナズは顔を上げる。
「なんだ」
 隣ではセレスティにも同様に封筒が手渡されていた。
「前回の、報酬。私は旅行に行ってたから知らないんだけど。武彦さんが渡しておいてくれって。森山って人の依頼あったんでしょう? それの報酬」
 ケーナズとセレスティは思わず顔を見合わせた。
「報酬があったのか、あんな状態で」
「お食事代として頂けば宜しいのでしょうか」
 ケーナズが笑うと、セレスティもクスクスと控えめに笑っている。
「良くは知らないわ。でも、変な依頼だったって。武彦さんも」
「パパとママですから」
 セレスティが微笑みながら言った。シュラインは眉を潜める。
「ママ? パパ?」
「いえ」
 微笑みながら言葉を濁したセレスティは、紅茶を口に運んだ。
「その報酬は結構ですよ」
 カップを置いて言う。ケーナズも頷いた。
「どうせ互いに道楽だ」
「えぇ」
「あら。本当?」
 弾んだ声でシュラインが言う。
「貧乏神に張り付かれた所長が喜ぶわ。草間興信所の赤字改善の足しにさせて頂きます」
 ケーナズは苦笑した。
「大変だな。貧乏神に張り付かれた男を好くのも」
「あら。私は愛があれば大丈夫なタイプよ。彼を支えて一生懸命生きていくの。これこそ女の幸せって奴じゃないかしら。ギブアンドテイク。そういう愛がちょっとずついろんな物を救って行くのよ」
「それでその、貧乏神に張り付かれた殿方はどちらに?」
「ちょっと張り込みの手伝いをね。いろいろ荷物があったから、セッティングするのを手伝ってるの。でも、そうねぇ」
 シュラインは壁に取り付けられた時計を振り返った。
「そろそろ帰ってくる頃だと思うんだけど」
 そう言って、ドアを見る。
 何気無く、つられるようにしてケーナズもドアの方に顔を向けた。
「あ」
 シュラインが思わずといった風な声を漏らした。
 ケーナズも声こそ出さなかったが心中で同じ言葉を呟いていた。
 草間興信所のドアにはめ込まれたスリガラスの向こうで、人影が動いていた。
「噂をすれば影」
 弾んだ声でそんなことを言い、シュラインがスリガラスの向こうにある人影へと歩いて行く。
「タイミングの良いことだ」
 ケーナズの呟きと重なるようにして、草間興信所のドアが開いた。
「あら……浅海くん」
 しかし、シュラインはそんな間の抜けた声を漏らしていた。ケーナズは思わず、ドアの方を見る。
 一同の予想を裏切り、そこに立っていたのは草間興信所所長ではなく茶色の髪をした気弱そうな青年であった。
「浅海くん……どうしたの? 独り?」
 青年を浅海と呼んだシュラインは、青年を中へと通し扉を閉める。
「いや。俺にも何か良く分からないンすけど」
 青年はモゴモゴと言って頭をかいた。
「貴方に分からないなら。私はもっとわからないわ」
「ですよね」
「彼が新しいバイトの方ですか」
 セレスティが問うとシュラインは首を振る。
「彼はその眼鏡の」
 テーブルを指差した。
「依頼主」
「それは奇遇だ」
「奇遇は良いけれど」
 シュラインは小首を傾げた。
「うちのバイトは一緒じゃなかったのかしら。貴方のところへ行くって言って出て行ったんだけど」
「いや。それが」
 青年は顎を撫でながら、苦笑いをする。
「なんかいろいろとはぐれ……て。送り出されたんです、よ」


―2―


「明日さぁ。雨かなぁ」
 洋輔は空を見て呟いた。薄い雲がチラホラと見えるだけの快晴の空からはそんな様子は微塵も見えないが、天気予報によれば明日は雨だ。
 洋輔の問いに、隣を歩いていた雪森雛太が言った。
「ヤ。普通に雨なんじゃね? だって天気予報で言ってたじゃん」
 そのまた隣で壇城限が鬱陶しそうに眉を寄せる。
「雨だと客満開なんだけど」
 小さく呟いた。
 何の変哲もない、ましてや面白いことも起きそうにない、真昼間の繁華街である。
 腰穿きにしたズボンをズルズルと地面にすって歩く学生、一見真面目そうではあってもこんな時間にここに居るとは、というような女子高生。スーツ姿の男、ファーストフード店の見慣れた看板、明かりの消えた、何だか昼間見ると笑っちゃうくらいフヌケた風俗の看板。
 行き交う人は皆何の目的も無さそうで、この街を見ると洋輔はいつも平和だなぁと思わずにいられない。それはそれでまた、個人個人にドラマがあるのだろうが行き交う人の顔からはそんな物は見えやしない。
「え。うっそ。限、明日。仕事?」
 洋輔は限の呟きを聞き取り問い返した。
 限はレンタルビデオ屋でアルバイトをしている。個人商店のさほど大きくはないが、アダルトビデオが一番充実しているという素晴らしいお店だ。
「ヤ。休みだけど、一応」
「あんだよ、びっくりさせんなよ」
 洋輔はホと胸を撫で下ろす。
「なんで洋輔がびっくりするんだよ」
「だって。せっかくイイこと思いついてたのに、バイトとか言われたらポシャるからさー」
「いいことだぁ?」
 雛太が声を荒げた。
「オマ、いいことって言って、いいことだった試しねぇし」
「え。え。じゃあ、じゃあ。んじゃあ。今から限ントコでビデオ借りて、雛太ンとこで見るとかどうよ」
「いや、どうよって。人の話聞いてる?」
「基本的、聞かない人だね、この人はね」
 限は呆れた顔をして言った。
 洋輔は素知らぬ顔で「めいあーん」と自画自賛してやる。
 レンタルビデオ屋で働く友人と、郊外に経つ大きな日本家屋で一人暮らしする友人。
 洋輔にとってそれは、とっても魅力的なものであった。そんな条件をバッチリ持ち合わせる二人とであったのは、洋輔が草間興信所でアルバイトを始めてから程なくした頃である。
 以来、洋輔はチョコチョコと二人を見かけては誘い出し、せちがらいこの社会をグダグダ生き抜く糧にさせて頂いている。
 相手がどう思っているかは知らないが、洋輔はこの二人が大好きだ。
「俺は無理だぞ。今から打ち行くつもりだったんだからな」
 雛太がだるそうに首を鳴らしながら言った。
「またパチンコかいや」
「そう」
「僕も。本読もうと思ってたし」
 二人に思い切り否定され、洋輔はふっと溜め息をつく。
「淋しい」
 呟いた。
「淋しいぞ。淋しすぎる。それが健全な男のすることか」
「男三人でビデオ見るのもどうかと思うけど」
「だよな。思うね」
 雛太も限の意見に同意する。
 洋輔は大きく息を吸い込んだ。
「思わねーーーーーーーーーーーー!」
「大絶叫かよ!」
 雛太はギョっとして洋輔の頭を叩いた。
 行き交う通行人も、一瞬歩みを止め視線を注いでくる。
「あんだよ」
 視線を投げてくる通行人らを威喝しておいて、洋輔はまた雛太に向き直った。
「でもさ。俺、マジでかんなり暇なわけよ」
「知らねーし」
 雛太に一言でいなされて、洋輔はスンと鼻を啜る真似をした。
「あぁ。淋しいな。淋しすぎてなんか俺、吐き気してきた。つわりかもしんね。淋しい。淋しい。もうなんか淋しすぎてここで吐くかも知んない」
「言っとくけどそれ、全然意味わかんない」
 雛太の言葉に洋輔はおえーっとリアルな嗚咽を漏らしてやった。小刻みに漏らし、三回に一回くらいは本気で嘔吐いた。
 雛太はチッと舌打ちした。
「やめろよ、コッチまで気持ち悪くなってくんだろ」
「だって淋しいから」
 そう言ってまたオエっと嗚咽を漏らす。涙に濡れぼやける視界で、肩一つ分くらい小さな雛太の顔を覗き込んでやった。
 グイっと顔を張り戻される。
 外見的には甘いショートケーキのような可愛らしい顔をした雛太が、舌打ちを漏らすそのギャップがおかしくて、洋輔はついつい悪乗りしてしまう。
 本気で気分が悪くなってきてしまった頃、雛太は「もー。わーあったよ。分かったからとりあえずそれやめろ、キモイ」と噛み締めた歯の間から、吐き捨てるように言った。
「まぁ? どうせ明日はサクラのバイトもねぇし付き合ってもやっても良いかも知れないかも知れないような知れなくないような」
「どっちだよ」
 失笑と共に限が言った。
「つかさ。サクラってあに?」
「パチンコ屋のサクラのバイト。新装開店とか。まぁ客入り悪い店とかで人入ってるよーに見せる為に、俺らが打つの」
「へー」
「自分の金で打たねーから死ぬ程打てるとこイイんだけど、出ても自分のモンにならないからそこ痛いんだよねぇ」
「そんなん始めたんだ」
 限がさして興味も無さそうに言う。何事にも興味が無さそうな姿勢は常なので、雛太は気分を害するでもなく「まーねーん」と軽く流した。
「金無い時はそれ結構行って。金あるときは普通に打ちに行くんだけど。つか出るしね。俺、出るしね。普通に打っても勝つしね」
「あいあいわあったわあった。うし。じゃあ。さっき言った方向で、さっそく限の店行こう」
 洋輔はしめしめと話を纏めた。途端に限が「えー」と不満の声を漏らす。
 若干眉を寄せたその顔は、限にしては精一杯の「イヤな顔」だった。
 出逢った時から思っていたが、限は顔の表情がとても乏しい。自分とは違い、基本的にクールな男なのだろうと洋輔は見ている。だからといってどうということはない。
 行き過ぎた自分を止めてくれるのも、きっとこんな男なのだろうと思うからだ。
 限は精一杯のイヤな顔のまま、ブツブツと文句を言った。
「もー。借りるのイイけどさぁ。アダルトとかホントやめて欲しいんだよね。社割で借りると名前残るからヤなんだよ。恥かしいじゃん、僕」
「オマ、いちいちクソ真面目に名前書くからじゃんか」
「そうそ。テンチョー居ないんじゃん。んーなん無断だよ無断」
「一応、信用の上で成り立ってるわけ。キミらみたいにちゃんちゃらやってられないんだよ。もう十代じゃないんだよ」
「うわ」
 限の言葉に洋輔はトンと胸に拳を当てた。
「なんか来た。ズーンと来た」
「来たんなら真面目に仕事すれば」
「はー。なんか。店長代理に言われるとなぁ。ズーンと来るよなぁ」
 洋輔は身近にあった、キャバクラの看板に手を突いた。しょんぼりを装い二人に背を向け、こそこそとポケットからあれを取り出す。
 ニヒニヒとそれをかけ、二人を振り返った。
「ほい。ドーン」
 それは草間興信所からくすねて来た、鼻眼鏡だった。
「アホや」
 雛太が鼻で笑う。限に至っては「どうでも良いけどアダルトだけはやめろよ」と素で釘を刺した。
 二人は洋輔を置き、ダラダラとまた歩いて行く。
 何だかとっても悔しい洋輔は、鼻眼鏡をかけたまま「はいはい。分かりました〜」と反抗的に答えてやった。ついでにペッと唾を吐き出してやる。
「態度、悪ぃ〜」
「ねぇ。とりあえずそれ取ったら? めちゃくちゃ注目の的だよ」
 限がそう言うので、洋輔は胸を張って答えてやった。
「俺らがカッコいいからなんじゃん? あ。そう、ビデオがヤだったら声でもかけとく?」
「俺らがカッコ良いのは賛成。ナンパはメンドイので反対」
「えー。じゃあ、ビデオね」
「や。基本はどっちもメンドイんだけどね」
「っていうかそれってさ。わざわざ買ったわけ」
 限が問うてくる。
 洋輔は眼鏡を外して、差し出されていた限の手にポンと乗せた。
 限はヘーなどと言いながら、眼鏡を空へ掲げている。
「あんかー。草間でバイト始めたじゃん、俺。そこの依頼? みたいな?」
「どういう依頼それ」
「鼻眼鏡ってなぁ。意味不明」
「鼻眼鏡はオプションなんだけど。郵便受けにいろんな眼鏡が一ヶ月間毎日入れられてるって悩んでた奴が居てさ。浅海とか言うんだけど。んだから俺が草間紹介してやったってわけ。さっきまでそれと一緒に居たんよね。面倒なったから抜け出して来たんだけど」
「抜け出すなよ。仕事じゃん!」
「あぁ。さっき一緒に居た人が」
 限が思い当たったように声を上げた。
「おう、そうそう」
 その問いかけに洋輔は頷く。
 本来なら、今頃は依頼人と一緒に草間興信所に戻るはずだった洋輔は、浅海の家の近所にあるコンビニで限の姿を発見し、そのまま遊びに行こうと半ば強引に誘い出した。浅海は当然、独りで草間興信所へ向かわせた。大の男なのだからそれくらいは出来るだろうと判断したからだ。
 後で聞くと、限の家もその近所だったらしい。
「こんなトコで出逢うなんて運命じゃん?」という洋輔の言葉に、限はやっぱり精一杯の「イヤそうな顔」をした。雛太とはその後、お決まりのパチンコ屋付近で合流した。
 だいたい雛太の行動範囲は見えていて、それほど突拍子もない行動をする男でもないのでいちいち携帯は鳴らさないことにしている。そもそも、雛太は携帯が大嫌いだ。聞いたわけではないがそういう気がする。ウッセーんだよこの野郎、と耳元で怒鳴り散らされそうなのはとっても良くない。
「で? いろいろな眼鏡の中の一つってか」
 雛太が限の手の中にある鼻眼鏡を指差した。
「そ」
 洋輔が短く頷くと、雛太はハッと噴き出した。
 限は小さく唇を吊り上げて苦笑している。
「しっかしそれダイブ愛されてンなー」
 雛太が笑いながら言う。限が小首を傾げた。
「愛されてる?」
「この眼鏡の送り主にだよ。誰かがその浅海? とかいうの? に送った恋文なんじゃね?」
 そこで雛太は胸元で手を組んだ。
「お願い。アタシを見て」
「キモ」
「キモイとか言うな」
 洋輔の脇腹に雛太のパンチが入る。
「じゃあさ。この鼻眼鏡は?」
 限のフリに、雛太はまた胸元で手を組んだ。
「たとえ……。貴方が鼻眼鏡をかけていてもアタシの気持ちは変わらないわ」
「キモ」
「だ、キモイとか言うなって。俺も今、自分で言っててキモ、ってなったんだから。軽くヘコむだろ」
「で。こんなトコで油売ってても大丈夫なわけ、キミ」
「うん? 俺?」
「お前しか居ないだろー。油売ってんのは」
「油なんか売ったことねーよ!」
「ムキになるなよ! コトバのあやだろ。ンなこともわかんねーのかよ。この馬鹿が」
「ムー。だって解決とかスンの鬱陶しいンだもん。俺はね。バイトはバイトでも雑用バイトなの」
 雛太がフルフルと首を振る。
「意味不明。だいたいそんなん、テケトー張り込みとかしたら捕まンじゃねーの」
「僕もそう思う」
 二人に詰め寄られ、洋輔はプンとそっぽを向いた。
「よし」
 しきなおすように雛太が声をあげる。
「あによ」
「予定変更しよう。そっち行こ」
「はぁあ?」
「ぜーんぜん。そっちのが面白そうじゃん。な?」
 雛太が限に同意を求める。
「うーん。まだ。面白そうではある、か、な。ビデオ借りられる……よりは」
「見ろよ。限嫌がって、歯切れが悪くなってんじゃねーか!」
「なってねーよ。いつもこんなんなんだよ」
「いや別にいつもでは」
「はー。もうマジで言ってンのー」
 洋輔は鬱陶しげに言って、こめかみを押さえる。
「全然マジだし」
 雛太から追い討ちがかけられた。
「つかさ。その依頼人、歳幾つ?」
「あー。なんか二十一? とか言ってたかなぁ」
「おおっと〜。何それ。何それ」
 雛太が瞳を輝かせて食いついて来た。
「なにがよ」
「二十一で興信所に頼む程金持ってる、みたいなこと?」
 限が言うと、雛太がウンウンと頷く。
「そうそう。それそれ」
「知らねー。大体、草間の料金なんてプーじゃん」
「プーて」
「でもプーだって知らなかった場合さ。そもそも興信所に頼もうって思ったアタリがさ。お金持ってンのかなぁ。的な気持ちをさ。そそるよね」
「何それ、限は一体どっちの味方なの」
「いや別にどっちっていうか純粋に。そう思うだけで?」
「そそるそそる」
「そそるはもう良いんだよ。つかそもそも、そんなけ追い詰められてたってトコなんじゃん? もういいじゃん、この話は」
「追い詰められてたんか。そうか。いよいよ俺らが助けてやらないと駄目だよな」
「もー。いいって。他居るしさ。いっぱい居るしさ。超能力とか居るしさ。俺ら出る出番じゃねって」
「超能力なら俺にもある」
 雛太がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「ついでに言うけど、僕にもある」
「更についでに言うと、俺はびっくりするような同居人からびっくりするようなことを習ってる」
「いや。別にびっくりは今回必要ないっていうか」
「よし。じゃあ行くぞ」
 畳み掛けるように、雛太が纏める。
 洋輔はブーと唇を突き出して「我儘〜」と低い声でぼやいた。
 その言葉に、「二人ともね」と限が苦笑して付け加えた。


―3―


「もう。本当に……ごめんなさいね。あの子、自由人っていうか破天荒というか、元気っていうか単細胞っていうか」
 テーブルに紅茶のカップを置きながら、シュラインは呟いた。
「いや、そんな」
 浅海は恐縮しきったように、顔の前で手を振る。シュラインはフルフルと首を振った。
「馬鹿なの。馬鹿なのよ。だからどうか悪く思わないであげてね」
 ケーナズがふっと笑った。
「一体どんなバイトなんだ」
「アホが顔から滲み出てるような子よ」
 シュラインがふふふと笑う。
「それは見てみたい」
 ケーナズもふっと笑った。
「この方は、この事務所の女将なんですよ」
 セレスティが挟んだ合いの手に、浅海は「あー、そうですかー」と感心したように頷く。シュラインは「やめてよ」と苦笑した。そのまま浅海の隣に腰掛ける。
「や。でもなんか……分かる気がします。言葉に愛を感じるっていうか。馬鹿とか言ってても。母親が子供を叱るようなカンジで」
「この方はそういう、包容力のある女性なんですよ」
 入れなおされた紅茶を飲みながら、セレスティが言った。
 シュラインは微かに首を振りながら微笑んだ。
「かいかぶりだわ。私、本当にあの子は馬鹿だなって思うもの」
「草間の肝っ玉母さんだ」
 ケーナズの言葉にシュラインは苦笑した。
「まだ若いんだけどねぇ。馬鹿を見ると放っておけないの……まぁ。そんなことよりも。浅海くんね。貴方にもう一度ここに来て貰ったのは」
「あ、はい」
「もう一度依頼のお話をしたいと思ったからなの。私はこの事務所で事務員をしているシュライン・エマといいます。依頼を受けた時、私、他の依頼で出かけていて貴方にお話が聞けなかったから」
「はい」
「で。このお二方は、ここで依頼解決のお手伝いをして下さってる方で」
 シュラインは向かいに座る二人に手を翳した。
「ケーナズ・ルクセンブルクという」
「セレスティカーニンガムです」
「あ、どうも」
 浅海はちょこりと首を下げた。
「実は二人も貴方の依頼に興味があるらしいの」
 シュラインが言うと、浅海はどう答えて良いかわからないと思ったのか「そうすか。それは……どうも」とモゴモゴと言った。
「所長の書いた調査依頼書を読んだから、だいたいの概要は分かっているの。ただ貴方に質問したいことがあるから」
「はぁ」
「依頼書によると、眼鏡は毎日投函されている、ということだったわね」
「あ、はい」
「自分で何か対策は?」
「対策……はしてません」
「何も?」
 びっくりしてシュラインが声を荒げると、浅海は小さくなり「何も……してません」と答えた。
「どうして?」
「や……面倒だし……毎日っすよ? 在り得ないっすよ。その何つーか。パワーみたいなん。太刀打ちできませんよ」
「じゃあ。それをどうして今、お金を払ってまで解決しようと思ったのかしら」
 シュラインが更に突っ込むと、浅海は「どうしてって」と口ごもった。
 歯切れ悪く、たどたどしく答える。
「まぁ……、洋輔と知り合って紹介されたんで、解決してくれるならそれでいいかなって」
「コンビニでアルバイトしているようなフリーターが? お金の心配なんかはしなかったの?」
「まぁ……お金は。大丈夫です……いや。あの。手伝う人が増えたら……その、料金が跳ね上がったりするんでしょうか」
「それはないけど。うちの料金は簡単明瞭だから。事前に所長と打ち合わせして貰った料金があるわよね。それ以上、貴方に相談なく料金の追加なんかはしないから。必要な料金については最初の取り決め時にすべてお伝え致します。それが所長のポリシー。青いのよ。男だから」
「しかしそれにしたってな」
 そこでずっと黙って会話に耳を傾けていたケーナズが、口を挟んだ。
「コンビニのアルバイトで生計を立てているキミに簡単に払える額ではないと思うがな。支払いに自信があるようだが、何故だね。何か副業があるのか」
「別に……自信ってことでもないんですけど」
 浅海はそこでまた口ごもった。
 シュラインはその横顔を観察し、彼が何かを隠しているのかそれとも本当のことを言っているのか、見極める。
 もしかしたら彼は。
 本当に支払いに自信があるでもないのかも知れない。今の段階では、調査料を踏み倒してやろうという明確な意思があるようにも思えないが、自信があるようにも見えない。
 三人に見つめられ、浅海は恐縮しきった様子で頭を下げた。
「すみません」
「まぁ、いいわ」
 シュラインは話題を変えることにした。
 ケーナズとセレスティがチラリと視線を投げてきた。シュラインは黙って頷く。
 言いたくないと思っている人間の口を割らせることは容易ではない。そういうことはその筋の人間に任せればいい。ここは警察ではなく興信所で、彼は罪人ではなく依頼人だ。
「お金に関してのことは貴方のプライベートだし、私達はちゃんと支払いをしてくれればそれでいいから。じゃあ。依頼に関しての質問を続けたいんだけど」
「はい」
「その時の様子なんかを聞かせて頂けると有り難いんだけど」
「様子?」
「眼鏡があるのはいつも、郵便物の上なのかどうか。とか、投函口から無造作に投げ入れられているようだ、とか。まぁ、そういうこと」
「あぁ」
 浅海は記憶を辿るように小首を傾げた。
「そうっすねぇ……、眼鏡はいつも郵便物の上にポンって置かれてるカンジっすね。投げ入れられてんかどうかまでは分からないなぁ。あ、でも。だいたい毎日同じような位置で……フレームがこう。なんつーんですか。こっちむいて」
 浅海はそこでテーブルの隅に追いやられていた眼鏡を一つ、手に取った。
 レンズを自分の方に向け掌に乗せ、皆に見えるように手を掲げた。
「俺がこう、郵便受け開けたら。だいたいこうやって正面向いておいてあるんですよね。だから、もしかしたら投函口から投げ入れられたとかってことじゃないかも知れないっすね」
「だいたい……ということは、そうじゃない日もあるってことかしら」
「え?」
「重要なことなの。良く思い出してみて。繰り返される行動、つまりは貴方から見て正面を向いておかれてあるハズの眼鏡が、時に雑に放り込まれているとしたら。それはまた違った意味を持つの」
「はぁ」
 浅海はオズオズと頷いて、「どうだったかなぁ」と小首を傾げる。
「眼鏡があるなぁっていうインパクトばっかで……それが置かれてある様子とか、は。実際良く見てないっていうか。また置いてあるし、と思ってそれ引っ掴んでってカンジだったんで」
「そう……」
「とにかく、どちらにせよ。貴方は郵便受けに南京錠などをつけてはいない、ということですね」
「あー。つけてないっすねぇ。んなこと考えもしなかったすね」
「駄目よ。これを機につけることをオススメするわ」
「ですよね」
「浅海君」
 自分の伊達眼鏡をつっと持ち上げ、ケーナズが切り出した。
「キミは普段。眼鏡を使用するのかな」
 セレスティが隣で頷く。
「普段から使用しなくても、特定の場合のみ使用する、などでも構いませんが」
「そう。眼鏡屋に出入りすることがある、とかな」
 そこでケーナズはふっと笑った。
「例えば、だが。これを入れたことで浅海君。キミに犯人捜しをして貰いたいと思っているような、眼鏡屋の娘さんとか、心当たりはないかね」
 冗談めかして手を掲げられ、浅海は苦笑して頭をかいた。
「いえ。全然、心当たりないんすよね。俺、ほんと眼鏡とか使わないんで。目だけはめちゃくちゃイイんすよ。眼鏡なんてホント、かけたことも一度もないんで。気持ち悪いっすよね。正直。こんなん嫌がらせ以外何物でもないすよ」
「嫌がらせ、か。それはどうだろうな。嫌がらせとは一概に言えないんじゃないか。まぁ、キミにとっては嫌なんだろうが。相手に明確にキミを怖がらせようとか嫌がらせようという気はないように思える。考えてもみたまえ。眼鏡はフレームだけでも決して安くはないだろう。一ヶ月も続けたら、かなりの投資額と言えるんじゃないか。嫌がらせならもっと安上がりな物を使うだろう」
「あぁ、そっか……」
「私もそう、思います。キミはコンビニエンスストアーでアルバイトをなさっていると伺っています。つまりは、不特定多数の人間の目に晒されているというわけです。人という生き物は、本当に。十人十色で。キミの持っている常識という概念を、同じように誰でも持ち合わせているとは言い切れないのですよ。つまり、こんなことをまさか好意でするわけがない、というようなことでも、相手にとっては常識であったりもするのです」
「確かに……そうですね」
 何故かとっても沈んだ声で頷いた浅海の横顔を見ながら、シュラインはふと思いついて言った。
「あるいは、盗品。ということも考えられるわ」
「眼鏡自体が、か」
「えぇ。そう。盗品ならば安上がりだわ。けれど結局それにしたって、どうして眼鏡にという物質なのか、というところに来るとそこにはやっぱり何かしらの意図を感じるわね」
「アルバイト先で、良く見かける女性とか。接客する時に奇妙な感を抱く女性などに心当たりはありませんか」
 セレスティの言葉に浅海はフルフルと首を振る。
「いや、本当に全然。基本的に見てないっていうか」
「鈍感なのね」
「はぁ……まぁ」
「家のポストに眼鏡が投函されるということはつまり。キミの私生活すら、相手は知っているということです」
「……はい」
「今はまだ、眼鏡を投函されるくらいで済んでいるかも知れませんが、これから先悪質にならないとは言い切れません。既に眼鏡をポストに毎日投函するという、常識では考えられない手段にすら及んでいるわけですから。ストーカーということも念頭に置いて、一刻も早く解決すべきですね」
「ストーカー!」
 浅海は声を荒げて、ブルリと身震いする。
「あぁ、それでね」
 シュラインは浅海の気を和らげようと、明るい声で話題を変えた。
「貴方に一つ、確認しておきたいことがあるんだけど」
「なんすか」
「貴方の家の近所に、張り込みをさせたいの。名乗り出てくれている方が二人ほど居てね。良いかしら。こういうのは了解を取っておかないと嫌がる人も居るから」
「あ。いえ。それは全然大丈夫スよ」
「それから貴方の郵便受けに、盗聴器を仕込ませて欲しいんだけれど」
「盗聴器、すか」
「そう。張り込みが居ても、緊急事態とか、いろいろあるから。勿論、悪用はしないから心配しないで」
「わかりました……何か。本格的っすね」
 実感のないのんびりとした声で、浅海が言った。
「貴方の、依頼よ」
 シュラインは苦笑した。


―4―


「おー。ここか」
 雛太は道幅の狭い道路の脇に建つ、その建物を見上げて言った。
「そーよ」
 道端にしゃがみ込んだ洋輔が、とっても面倒臭そうに答える。
「もう。俺、ぜーんぜん乗り気じゃないんですけどォ」
 更に面倒臭そうにそんなことを言った。
 それを無視し雛太は建物の周りを見渡した。自分達が身を潜めるに最適な場所があるかを探す為だった。しかしそれは案外すぐに見つかった。
 アパートの脇に、細い路地がある。隣の建物との隙間だった。
「おい、あそこ。あそこに隠れようぜ」
 雛太が指を差すと、洋輔はとっても嫌な顔をした。ついでに「えー」と声を漏らす。
「そもそもオマ、本当、帰っていいよ。別に」
「ブー」
「お前みたいな奴は仲間外れにしてやる」
「ブー、ブー」
「嫌ならついて来い」
 雛太がキッパリ言うと、洋輔は頬を膨らませながらも「しゃーねーなぁ!」とダルそうに立ち上がった。
「なんで草間興信所でアルバイトしてるキミが、それほどまでに乗り気じゃないのかがわかんない」
「別に……理由なんかねぇけどよ」
 限の言葉にモゴモゴと歯切れ悪く答える洋輔を、雛太は「この馬鹿は本能で生きてるだけなんじゃね?」と笑ってやった。
「んーなんじゃ……ねーもん」
 また洋輔が、拗ねたように小さく呟く。
「なんかこの人、面倒臭いことでも抱えてんだろ」
 限を見て雛太は言った。
 言ったけれど、この調査をやめるつもりは毛頭ない。
 限が何を考えているのか分からない顔でノソノソと路地に入って行く。次に洋輔が続き、最後に雛太がそれに続いた。
「案外狭いね」
「おう」
「もうちょっと奥行けって。バレるだろ」
 雛太は洋輔の背中を強引に押した。
「ちょ、いた。擦ってる。痛」
「ウルセーんだよ。早くもっと奥行けよ」
「わ! トレーナーが破れ」
 いちいち声を荒げる洋輔の頭を、雛太は思いっきり叩いてやる。
「し! 静かにしろよ!」
「なんだよ、いいじゃん別に。まだ始まってねーじゃん」
「アホか。お前は。始まってねーじゃんって、誰がヨーイどん今から、ホイって始めんだよ。恋は夢に出て来たその日から。張り込みは身を潜めたところから。だろ」
「夢に出てくる前に好きだって認識したら、それはどーなんの」
「そもそもだ、そもそもだよ」
 雛太は洋輔の口を押さえながら言った。
「こんな狭いところで男三人が身を潜めてるって、実はすごーーく変なわけよ」
「変だな。間違いない」
「んーんー」
「だからとにかくお前は黙れ!」
「っていうかさ……あのさ」
「なんだよ」
「僕、今思いだしたんだけど。この間、新聞で読んだんだよね」
「何を」
「眼鏡を、郵便受けに入れる泥棒? みたいなんの話」
「は?」
「ん?」
 雛太は思わず限の顔を凝視する。
「今回のこの……事件? 眼鏡毎日郵便受けに入れられてるって」
 雛太に口元を押さえられたまま、洋輔が深く頷く。
「それで。眼鏡かぁ、って思って。新聞で読んだの今ついさっき思い出したんだけど」
「泥棒みたいなんの『みたいなん』ってなんさ」
「わかんない」
「わかぁああんなぁああいー?」
 雛太の手がおろそかになっていたのを良いことに、洋輔がまた絶叫する。
「こら! お前! いい加減にしろ!」
 雛太は洋輔の細い首をギュッと締め付けてやった。
「ギブギブ」
 腕をトントンと叩かれる。
「次大声出したら殺すかんな、お前……で? その、新聞の記事っていうのは?」
「うーん。一週間くらい前の新聞だったかなぁ。社会面に、めちゃくちゃ小さく載ってたんだけど。こんくらいの」
 限は両手の人差し指と親指で長方形を作った。
「だから、詳しくは覚えてないんだけど。あったんだよね。そういう事件が。んー、どうだったかなぁ。多分ね。予告すんのよ、眼鏡で」
「えー。でもそんな話は全然出てねーぜ。事務所の人らの中でも」
「うんだってその事件はも」
「いやいやいやいや」
 雛太は勢い込んで言った。
「それは凄い。大発見だ。間違いないな。これは僕等だけが気付いたとっても素晴らしいネタなんだ。そうだ。そう、間違いない。その泥棒。めちゃくちゃ関係あるね、それね。間違いないね」
「お前、テンション上がりすぎ」
 ドンと洋輔に脇腹を肘打ちされる。それでも雛太はフルフルと首を振った。
「いやいやいやいやいや。絶対犯人はそいつだよ。どうすんだよ。俺ら泥棒とか捕まえちゃうわけ!」
 勢い込み過ぎて、雛太はキャッと悲鳴に似た声を上げ、口元に手を当てる。
「でもさー。んーなんあったら、絶対、事務所の人ら知ってると思うんだけど。全然関係ねーんじゃね?」
「見落としだよ、みーおとしー」
 雛太は自信を持って断言した。
 断言したらいよいよテンションが上がってしまい、それから泥棒を捕まえちゃう自分を想像し、闘っている自分を想像し、思わず洋輔の体を使い泥棒を羽交い絞めにする訓練を始めてしまう。
「こう、か。いや……こう、かな」
「ちょ、痛ッ。あばれんなよ! せめーんだよ」
「いや、こう」
「いででで。コラ!」
 雛太の手を振り払い、洋輔が声を上げる。
「大体オカシイじゃん! こんな貧乏アパートだぜ? いちいち予告して入るかー? もっとさ。大規模なトコやるだろよ。やるんならさ。って、ね。聞いてる、もしもし?」
「ウルセー。取り込み中だ。今俺に話しかけんな」
「あのー」
「おう、限。雛太さんは今、取り込み中だってさ」
「いや。うん。雛太……には普通に申し訳ないんだけど、その犯人はもうとっくに捕まってるのね」
「え、うっそ」
「えぇぇぇぇ」
 雛太は思わず、限を振り返った。
 間に挟まれた洋輔がプッと吹き出している。
「なんだよー! お前、もっと早く言えー!」
 その時、バシンと洋輔の平手が雛太の頭に飛んで来た。
「しっ。声がでけーんだよ、オマエ、は」
 ニヤリと笑って、ここぞとばかりに洋輔が言った。


―5―


「ねぇ。何だか騒がしくない?」
 嘉神しえるはパワーウィンドウを下ろし顔を出した。
「カラスでも鳴いてるんじゃないですか」
 柏木アトリがのんびりと言う。
「んー」と声をあげながら、しえるは望遠鏡を覗き込んだ。
「人の声のような気がしたんだけど……気のせいかしらね」
 しえるは望遠鏡を膝の上に置いて、窓を閉めた。
 目標のアパートから七十メートルほど離れた場所にある、駐車場の中である。草間興信所所長の武彦が、張り込み用にと用意してくれたレンタカーの白いバンの中は、梅雨のジメジメとした蒸し暑さで蒸しかえっていた。
「それにしても、蒸すわね。明日は雨かしら」
「予報ではそう言ってましたけど」
 しえるはクーラーボックスの中からタオルを取り出し首元を拭った。
「あー。気持ちいい……アトリちゃんも、どう?」
「いえ。私は。冷えピタがありますから」
 アトリはトントンと自分の首筋を指で差した。
「これってこういう時にも使えたのね」
 クーラーボックスの中に入れてある、冷えピタの箱を眺めながらしえるは呟いた。他にも様々な物がそのクーラーボックスの中には放り込まれてある。
 清涼飲料水。タオル。氷。アイスクリーム。フルーツゼリーに、羊羹。更には制汗剤と何故か小さな蛙の人形まで入れてある。
 車を用意して貰えるならと、あれやこれやと荷物を用意した結果、二人の張り込みはちょっとしたピクニックのようになってしまった。
 お菓子もどっさりと買い込んで、リュックサックに詰めてある。
 張り込み中は車のエンジンをかけられないからと、携帯用の小さな扇風機まで持って来た。
 アトリが張り込みをしたいと申し出た時にはどうしようかと思ったものだが、これだけ万全に用意が出来たら安心だ。
 依頼の内容からも、それほど長期になるような感じはなかったが例え一日のことだとしても、紫外線を延々浴びるのは快くない。自分もそうだが、可愛いアトリの肌にシミでも出来たらと思うと心苦しい。当のアトリ本人は、全くそんな心配もないようだが。
 全くこの子ったら。
 しえるは、アトリののんびりとした発言を聞くたびにしみじみと肉親のようにそう思う。
 ちょっと人とズレているのよねぇ。
 けれどアトリのそんな、平和なところがしえるは好きだ。
 心がざわざわと落ち着かない日にも、アトリを見れば何だか全てが馬鹿らしくなってくる。
 しえるは携帯用の扇風機を顔に当てながら「あー」と深い、溜め息をついた。
「本当、暑いわ。私、このジメジメした感じがとっても嫌いなのよ。本当日本って狭苦しいところでセコセコと人が生きてるってかんじ。特に、こんな季節はそう思うわ。ピクニック気分にしたって、こんなくすんだ空気のところじゃねぇ。せめて井の頭公園みたいな自然の中が良かったわ」
 しえるの言葉にアトリはコロコロと笑った。
「あんなところに人が住んでたら、それはそれでびっくりしますわ。でも、本当にこの辺りはコンクリートばかりですものねぇ」
「空気が悪いのよねぇ。ダヴォスはとっても空気が済んでるのよ。呼吸器系のサナトリウムがあるくらい。とっても美しい所よ」
「トーマス・マンの『魔の山』の舞台になったところ、でしたっけ」
「そうそう。今度、是非一緒に行きましょうね」
「えぇ、是非……でも、ごめんなさいね。何だか巻き込んでしまったみたいで」
 しえるはヒョイっと肩を竦めて見せた。
「ン。大丈夫よ。乗りかかった船じゃない。私も面白そうだと思ってたし……それに」
 しえるはそこでニヤっと悪戯っぽく微笑んだ。
「私も似てると思ってたのよねぇ」
 伺うようにアトリを見る。
「この間、一緒に見た映画。あれでしょう」
 アトリは一瞬、何を言われているのか分からないといった風で瞬きを繰り返し、次の瞬間合点がいったというふうに微笑んだ。
「あぁ……やっぱり似てると思います?」
 恥かしそうに言う。しえるはふふふと笑った。
 この依頼を受ける数日前、しえるはアトリとビデオ鑑賞をした。
 その時に見た邦画の主役の俳優が、今回の依頼の主である浅海忠志とそっくりだったのだ。ついでに言えば、その俳優は役柄上、眼鏡をかけていた。
 完全にそれだけが今回の依頼に参加した動機、とは言えないかも知れないが、そのことが無かったとは言わせない。アトリは浅海忠志の顔を見た時、きっと映画を連想したに違いないのだ。
 しえるはリュックから所々皺のいった写真を取り出した。
 今回の依頼主、浅海忠志の写真である。
 本来ならば顔を合わせて自己紹介し合いたかったが、しえるの外国語教師という仕事のシフトの都合上張り込み日数も限られてくるので、さっさと張り込みを始めようということになってしまった。
 しえるは写真に映る浅海の、目元を指差しながら言った。
「似てるわー。このほら、屈折してそうな目とか。何か、細かいことグチャグチャと考えそうじゃなーい?」
 しえるが言うと、アトリは少しばかりはしゃいで頷いた。
「そうそう。そうなんですよー」
「大の男が、眼鏡郵便受けに入れられて怖いんですーっていうのも、どうなのかしら。何か、肝っ玉小さいって感じよねぇ」
「そうなんです」
「その肝っ玉の小ささがまた良いっていうかね」
「そうそう」
「きっと彼は、そうね。いろいろ考えたのよ。こーんな小さなことをこーーーんな大きく考えるタイプなのよ、きっと」
 身振りを交えながらしえるが言うと、アトリは「えぇ、そう」と頷きながら拍手する。
「この彼って、何か。見るからにストイックそう。いや、ヒステリックそう……じゃない。こう。母性本能を擽るような、それでいて冷たいような、それでいて甘いような、でもクールそうな」
 しえるはそこで、胸の前で腕を組んで芝居がかった口調で言った。
「ううん。本当は違うの、それはクールなのではなくクールを装っているのよね」
 アトリは笑って頷いた。
「でーも。それって結局。若かりし頃、女がはまっちゃうありがちな甘い罠、なのよね」
「甘い、罠?」
「そう。要するに、想像力を駆り立てられる男に女も弱い、ってことよ。女が勝手に夢を膨らませてるだけなんだけど。でも、夢を見れない男ってやっぱり嫌でしょう。見るからに引き出しの少なそうな、底の見えてる男。それってどうなの。やっぱり彼はこうかしら。いえ、きっとこうに違いないわ。そういう想像から恋が始まったっていいじゃない」
「えぇ、そうだわ」
「例えば、買物に行って品物を選ぶ時。歳を取ってくるときっとこうなるの。あぁ、このバッグ使い勝手が良さそうだなぁ」
「うんうん」
「私くらいの年齢だと、使い勝手も外見もどっちも欲しいわけ。値は張ってもどっちもバッチリくるブランド物とかね」
「なるほど」
「若いときはね。外見。どうしても、そっちを見てしまうのよ。それを持ってる自分を想像したり、それが部屋にある所を想像したり」
 しえるはそこでまた、芝居がかった口調で言った。
「うーん。多少使い勝手が悪くても、このフォルムだけは絶対に譲れないわー。だって私の持ってるあのお洋服にピッタリなんだもの」
 アトリはまた笑い、頷いた。しえるは写真の浅海を指差す。
「つまりこの男は、使い勝手をまだ見ない内から、そのフォルムだけで選ばれた、バックみたいな物ね。アトリちゃん、この依頼来た時言ったじゃない。これはきっと、この男を慕う女性の仕業だって。私もそう思うのよ。彼女はきっと。彼の外見にキュンと来た。あれこれ想像した。そして眼鏡を、入れた」
 しえるはポストの中に眼鏡を投函するフリをしてみせる。
「あるいは。ふふふ。彼女も私達と同じ。あの映画を見たかも知れないわ。元々あの、俳優さん。あーゆー顔つきが好きで。コンビニで見かけて、キャッってなったかも」
「だって本当に眼鏡がピッタリきそうですものねぇ、この方。あの俳優にそっくりですわ」
 アトリがのんびりとした口調で言った。
 しえるも頷く。
「だから。純粋な片想いっていうより、もっと物欲的な物なんでしょうね。それこそ、バックにお気に入りの服を合わせるみたいな。でも、思い込みを純愛と呼んでも良いかな、とも思うのよね」
「どういうことですか?」
「胸のデカイ女が好きだって言う男は多いわ。私、外国語教室の講師してるじゃない? そこには、nice bodyな女性がたーくさん居るわけ。男はそういうのにとっても弱い。男性生徒のそうねぇ……十分の一はそのデカイ胸をデレデレと見てたりするわ。でも。どうかしら。例えとっかかりがEカップの胸からでも、愛し合えばそんなこと、詰まらないことよ」
「えぇ、そうだわ」
「だからとっかかりが眼鏡でもいいのよね。日本は狭いけど、人口は多いし。そんな中で男と女が出逢おうと思ったら、これくらいインパクトなきゃねぇ。だいたい。男が女の胸とか足とか見るように、女も男のこう、指先とか、鎖骨とか腕とか」
「指先のきれいな人とか、良いですよねぇ。あの、骨ばった指とか」
「そうそう。それから、腰。引き締まった腰骨のあたりとか」
「えぇ、えぇ」
 アトリが微笑む。しえるもそれを見て微笑んだ。
「でしょう? そんな風に女だって見てるんだから。愛とかとは別の次元で、その一部がキレイな人にキュンってなったりもするものね」
「えぇ。物憂げな表情とか」
「物憂げ!」
 しえるはハッと吹き出し、手を叩く。
「そうそう。物憂げね! かと思えば少年のような行動とかね!」
「えぇ、そうそう」
 二人は顔を見合わせ笑い声を上げる。
「あー、おかしい」
 しえるは目尻を拭いながら溜め息をついた。
「日本人の男の殆んどの人に、英国男性が持ってる上品で知的なユーモアも、米国男性が持っているダイナミックさも無いことが多いけれど、何が良いかって、神経質そうで。気の小さそうなところがね。ヤサ男とでも言うのかしら。ダイナミックではないところ。着実に道を歩いて、道を踏み外しそうになさそうな気の小ささみたいな。そういうの。独特で私、好きだわ」
「この人、その典型そう、ですものね」
「本当にねぇ」
 あーあ、と笑いの溜め息をつき、しえるは何気無く背後を振り返る。
「あ!」
 しえるは思わず声を上げる。
 張り込み用にスモークフィルムの張られたリアウインドウの向こう、アパートのポストの前に人の姿があった。
「あ、アトリちゃん!」
「どうかしました?」
「ポストの前に人が居るわ」
「あら」
 ゆったりと後を振り返ったアトリは、朗らかに声を上げる。
 しえるは望遠鏡を引っ掴み、覗き込んだ。


―6―


 ポストに盗聴器をセットさせると、浅海はポケットから携帯電話を取り出し、先ほど草間興信所で聞いたシュラインの携帯電話の番号を呼び出した。
 通話ボタンを押すと、意外に早くシュラインが出た。
「もしもし。浅海ですけど」
「あぁ、浅海くん? 盗聴器、つけてくれたかしら」
 歩きながら話しているのか、シュラインの声がぶれる。
 浅海は見られていないと知りながらも大きく頷いた。
「はい。付け終わりました」
「分かったわ。ご苦労様。この後はどうするの」
「はい、ケーナズさんを仕事先のコンビニに案内することになってます」
「そう。分かったわ。私はこちらで聞き込みをしてるから、何かあったらまた電話を頂戴」
「はい、じゃあ」
 電話を切り後を振り返ると、ケーナズが浅海の部屋の郵便受けに向かい手を翳していた。
 携帯を折りたたみポケットに仕舞い入れながら、浅海は何をしているのだろうと小首を傾げる。
 と。
 目の錯覚だ。それ以外には考えられない!
 ポストの輪郭がグニャリと歪み、一瞬ケーナズの手、いや体全体が小金色に輝いたように見えたのだ。しかもその光はグニャリとアメーバーのように周囲を渦巻き最後にはパッと弾けるように強い光を爆発させた。
 浅海はその波動に押されるようにして思わず後退る。
 これが。もしかしたら洋輔の言っていた何かの超能力、なのだろうか。
 当のケーナズは、眉間に皺を寄せ口をキュっと閉じ、一言も言葉を発さない。浅海も声をかけることが出来ず、暫くは辺りは沈黙に包まれていた。
 時折ブーン、とバイクの通過する音がする。
 息苦しいほどの沈黙の中、突然ほっとケーナズが溜め息をついた。
「おや。電話はもう、終わったのかね」
 振り返ったケーナズは、浅海の体を下から上へ見上げてあっけらかんとそんなことを言った。浅海はただ、オズオズと頷く。
「い、今のは……」
「あぁ。何だ。もしかして驚いているのか」
 浅海はブンブンと首を縦に振った。
「サイコメトリーだ。名前くらいなら聞いたことがあるんじゃないか」
「さ。サイコメトリー! 漫画とかドラマとかの、あれですか」
「どれ、のことを言っているのか分からないから頷けないがな。つまりは、特定の人物の所有物に触れて、そこから所有者に関する情報を読み取る超常能力を意味する言葉だ」
「情報を読み取る……凄い……すね」
「どうなんだろうな。アメリカケンタッキー州の大学教授……確かジョセフ・ローズ・ブキャナンと言ったかな。それが名づけ親だ。彼が言うによると、人間には皆、この力があるそうだ。キミにだって眠っているだけで本当はあるかも知れない」
「そんな。俺は超能力なんて……!」
「私だって練習中だ」
 ケーナズはそう言って、優雅に肩を竦めて見せた。
 その丹精な顔に微笑を浮かべる。
「れ、練習とか。あるんですね」
 その微笑に何だか酷く照れてしまって、浅海は視線を逸らしながらテヘテヘと言った。それからふと顔を上げ「それで、何が見えたんですか」
 多少の興味も手伝いそう問うた。
 ケーナズはまた笑う。
「つまらないことさ。さて。じゃあ、次はキミのアルバイト先へと案内して貰おうか」
「つまらないって……」
 本当は凄く気になって仕方なかったが、無理矢理聞いて何をそんなに気にしてるんだ、とでも突っ込まれたら困ると思い、浅海は黙って身を翻す。
 彼はとても、勘が良さそうだ。
 何もかも全部、お見通しだと言わんばかりのその瞳も、風貌も、浅海にとってはヒヤヒヤする原因となる。草間興信所に居た、後の二人だってそうだ。
 バレて困るようなことはあるのかないのか、自分にも良くわからない。ただ、どちらかといえば、後ろめたいという気持ちよりも、恥かしい、という言葉の方がしっくり来る気がする。
 浅海はほっと小さく溜め息を吐き出す。
「じゃあ……案内します」
 アパートの前の狭い路地を、二人で歩き出した。
「でも……本当、誰なんでしょうね。やっぱり、ヒントになりそうなモンは……見えたんですよね?」
 舗道を歩きながら、浅海はそれとなく探りを入れた。
「ヒント……なのかどうかを見極めるのは、私の仕事だ。サイコメトリーではただ、映像がダラダラと流されるだけでね。だから、ヒントかどうか見極める為に私にはまだ、情報が必要だ」
「なるほど」
「見えた人物が男性であるか女性であるか、くらいの判別はついたがね」
「女性……だったんでしょう?」
「何故だ?」
「だって。さっき事務所で好意からじゃないか……って言ってらしたから。男だったら好意なんかじゃなくて完璧嫌がらせになるじゃないですか」
「それはどうだろう」
 ケーナズがその艶のある低い声でゆったりと言った。
 浅海は思わずその顔を見上げる。
「男性であっても、男性に恋することはあるんじゃないか。私はそれを別に不道徳だとも、常識はずれだとも思わないがね。個人の自由だ。愛し合うなら、男でも女でも関係ないんじゃないか。そうだろう?」
 ケーナズに振り向かれ、浅海は思わず目を逸らす。
「そんな。そんなん、おかしいです……よ、男が男を好きになるなんて。やっぱり、非常識っていうか……」
「キミがそう思うことも別におかしくはない。個人の自由だからね。私はただ、別に男性同士であろうと、女性同士であろうと、男と女であろうと。愛を否定したくはない、という思考の持ち主なだけで」
「愛を……否定したくない」
「そうだ。悲しいだろう。一生のうち、普通に生きれば出逢う人間の数なんてたかが知れている。自分が愛せそうな人物なんて更にそこから絞られる。どうせなら、つまらないことで制約をつけたくないじゃないか」
「そんな……」
 浅海は思わず足を止める。
「貴方は本当にそんなことを思っているんですか」
「どういう意味だ」
「きれい事ではなくて、同性同士の愛もある、と?」
 ケーナズはやれやれと言った風に鼻を鳴らした。
「何がそんなに気に食わないのかは知らないが……私は、そう思うよ。実際、私も経験があるからね」
「け、経験って」
「同性を好きになる経験さ」
 さらりととんでもないことを言ったケーナズの顔を浅海は息を飲んで見つめた。
「決して誰でも良いわけじゃなく、彼だから、彼女だから、好きになるんだろう。要は同じなんじゃないかな。同性でも異性でも。この人だから、という気持ちは尊いものだ」
 浅海は俯き、思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。
 心臓がトクトクと痛いくらいに高鳴っている。
 まさかな。という思いと、あるいは彼ならばという思いがグルグルと頭の中を巻いている。
 けれど何よりも、誰かに話してしまいたい自分が居た。
 今までずっと、誰にも言えず胸の内に秘めていたこと。
 自分ですら認めてあげられず、けれどだからこそ胸の中でドンドン大きくなっていった気持ち。
「あ、あの……」
 浅海は震える声で切り出した。
「ん?」
「貴方が本当にそう思っているなら……僕の」
「なんだ」
「相談に乗って貰えませんか」
 浅海はキッと顔を上げて、ケーナズを見た。


―7―


「盗聴器、設置が完了したらしいんだけど。ちゃんと動いているかしら」
 受話器の向こうから雑音に混じった、シュラインのキビキビとした声が聞こえた。
 セレスティはテーブルの上に置かれた受信機に目をやり答える。
「えぇ、ちゃんと受信しています」
 盗聴器の受信機は、草間興信所の所長である武彦が設置した。設置といってもテーブルの上に置いただけなのだが、セレスティは余りこういう機械に詳しく無い。なすがままに任せることにした。
 そこにあるのは受信機、テープレコーダー、電池ボックスをコンパクトにまとめた一体型の物で、草間にもこういう機器があったのかと、セレスティは少々感心する。
「そう。良かったわ……久しぶりに使うから。動かなかったら困るものね。今の所、郵便受けの前に動きはないかしら」
「えぇ……そうですね。先ほど浅海氏が去ってからは、特にポスト前に動きはないようです……ところで」
 今度は受信機の隣に置かれたパソコン画面に、セレスティは顔を向けた。画面をスクロールしながら言う。
「先ほど仰っていた、ここ一ヶ月間の眼鏡盗難届けの有無ですが。どうも引っかかるものはありませんでしたよ」
「そう……じゃあ。眼鏡は盗品ではない。ということになるわね」
「そうですね。範囲を広げれば出てくるかも知れませんが。関連性から言うと薄くなります。どうしましょう。広げてみましょうか」
「そうねぇ……いえ。いいわ。有難う。可能性を潰しているだけだから。無いなら無いでいいのよ。じゃあ、盗聴器の方を宜しく。私はもう少しこっちで聞き込みしてみるから」
「分かりました、では」
 セレスティは電話を切り、テーブルに置く。
 その時、書類の影から武彦が視線を投げてくるのが分かり、セレスティはソファに身を埋めながら「どうか、しましたか」とゆったりと問うた。
「あ、いや」
 また書類に目を落とす武彦の心中を察し、セレスティは微笑んだ。
「働き者で聡明な方ですね。残念ながら、今はお仕事に夢中で貴方の話題は出ませんでしたが」
「別に」
 呟いて武彦は苦笑する。それからふっと首を振りしみじみと言った。
「確かに彼女は聡明で働き者だな。俺には勿体ない」
 デスクの上にある煙草を手に取って、火をつける。セレスティは微かに首を振り「お似合いですよ」と言った。武彦は黙って煙を吐き出している。
 セレスティは俯いてしみじみと言った。
「お似合いです。私も人間の姿になって久しいですが。人とは知れば知るほど面白いものですね。善悪、全て含めて。とても複雑で愛しいものです」
「どうだろうな。俺は生まれてからずっと人間だからな。クソな所ばかり目につくよ。海ン中の奴らの方がよっぽど可愛いんじゃないか……そういえば。水族館なんてもうここ何十年と行ってないなぁ」
「お好きなんですか」
「いや。まぁ。取立て好き。という程でもないけどな。たまにはいいだろう。水の中をこう、フワフワ浮いてンのを見ると、癒されるだろう。こういうゴミゴミしたところで生活してると特に、な」
「雄大に見えて、海の中にも果てはありますよ。魚達は小さなさんご礁を住み処にしたりして、それほど遠出するでなく生活しています。問題は。人間はそれを悲観する概念がある。ということです」
「なるほどなぁ。そうだな。魚はいちいち、せまっくるしいさんご礁だぜ。とは言わないもんな」
 武彦の言葉にセレスティはクスクスと笑った。
「規制も取り決めもない、だけですよ。人は自分で自分に掟を科し、だからこそそこから外れないように、時にそこから外れようとして、もがく。深海にはない、面白さ、ですよ」
 セレスティはテーブルの上に置かれた眼鏡を見る。
 突拍子もないと感じるのは、人に常識の概念があるからだ。セレスティにしてみれば、そうやって自分の知る常識以外を認めようとしない、周りの人間の慌てぶりの方がよほど面白い。
 そうやって少しずつ、自分は学ぶ。
 人とは何か。そうして装い、時に可笑しくて、時に愛しくて、時に憎悪する。
「面白い、です。本当に」
 セレスティはまた、しみじみと言った。


―8―


 フルーツ屋の店主にしては、化粧が濃いな。と思いながら、シュラインはその女の横顔をチラリチラリと観察していた。
 浅海のアパートが建つ路地から数キロ離れた場所にある、個人商店である。二階建てで一階が店舗、という昔ながらの形態で看板を掲げるその商店の店先には、色とりどりのフルーツが並べられていた。
 シュラインはそのフルーツを眺めるフリをしながら、先ほどセレスティから受けた連絡を頭の中で反芻する。ここ一ヶ月、眼鏡の盗難届けは出ていない。
 ともすれば、自腹で購入したか。あるいは、自分の所有していたものか。になってくる。
 浅海のアパートの近所にある、フルーツ屋。
 ここで何か、それこそ実のある話は聞けるだろうか。
「何にしますー?」
 シュラインが物思いに耽りながら林檎を思わず手に取った時、店主らしき女性が近づいてきた。ほっそりとした体と濃い化粧は、どう見てもフルーツ屋の店主には見えないが、商売根性はあるらしい。
「この林檎とってもおいしそう」
 シュラインは笑顔を浮かべて返答した。
「そうでしょう。林檎のポリフェノールには美白効果もあるし。ほら。美しい肌を保つ為に役立つ成分もいろいろと入ってるのよ」
「そうなんですか」
「そう。そうなの。食べ方もいろいろあるしね。アップルパイなんかにしたらとっても美味しいわよ。この季節はジュースにして飲むとかね」
「なるほど……じゃあ、これ。一盛頂きます」
「まいど!」
 店主はニコニコと微笑みながら、紙袋に林檎を詰めている。シュラインはさてどう切り出そうかと頭を悩ませた。
「こんにちはー。おばさんー」
 その時、店に若い女性がやって来た。シュラインよりも年下だろうか、茶色い髪をクルクルとウェーブさせ、しかしジャージ姿のその女性は「バナナちょうだーい」と店主に向かい声を上げた。
「あら。いらっしゃい。バナナだけでイイの」
 顔見知りらしく、店主は他の果物を勧めている。女性は「バナナだけでイイ」と断っていた。
 それからジャージのポケットから紙切れを一枚取り出した。
「これー」
「あら、何」
 店主が覗き込むのを見て、シュラインもそっと横目に覗き込む。女性の手にあったのは、一枚のピンクチラシだった。
「やっちゃった。モウケモウケ」
 モウケ?
 シュラインは胸の中だけでそんな疑問を口にする。女性がピンクチラシを貰ってモウケとは、どういうことだろう。しかし店主は話が見えているのか「あらー。良かったわね」などと笑顔で言っている。
「そうよ。あ、でもでもでも!」
 女性はにっと笑い、手をばたつかせた。
「私、見たのよ。この間。入れてるとこ。それがまた、ダッサーイ、キモーイ男でさー。だから怒鳴り散らしてやったの。テメ、何やってんだよ、って。そしたらソイツ。びびっちゃって。もう笑っちゃう。飛び跳ねてったわよ」
「まぁ」
 クスクスと笑い合う二人の間に、シュラインも何気無くを装い口を挟んだ。
「私の知り合いもこの辺りに住んでるんですけど。多いみたいですね」
「あら」
 そこで客の女性はシュラインの顔を見た。
 今やっとシュラインの存在に気付いた風だったが、次の瞬間にはぱっと瞳を輝かせた。
「きゃー。びじーん。ねぇ。貴方は? 貴方はどこに住んでるの? 私はそこのね。アパートに住んでるの」
 そう言って、女性は浅海の住むアパートの方を指差した。
「コーポタカハラ。ですか?」
 試しに浅海の住むマンションの名前を口にした。女性は勢い込んで頷く。
「そうそう」
「まぁ、そうなんですかー」
「えぇ。そうなのよ。貴方ももしかしてあのアパート?」
「あ、いえ。私は、違いますけど」
「あらー。そうなのー。ざんねーん。貴方、もう。めちゃくちゃ私の好みだわー」
「え、この、み?」
 ニャーンと女性が擦り寄ってくる。シュラインは予想に反した展開に、思わず顔を顰めた。
「もうもう、アミちゃん。辞めなさい。びっくりしてるじゃない、お客さん」
 店主が二人の間に割って入る。
「ごめんなさいね。彼女、いろいろ複雑なのよ」
 アミというその女性は、ポケットから一枚の名刺を取り出した。
「アミでーす。レズバーで働いてるの。今度良かったら遊びにきーてーね」
 シュラインはどうして良いか分からず、「あ、ハァ」と苦笑する。
「あ。そう。そうそう。それでね。聞いてよ、おばさん」
 今度は店主に向き直り、アミはまた手をばたつかせる。世話しない女性だと、シュラインは思った。
「この間なんてね。若い郵便屋さん。多分、新米なんだと思うんだけど。ここを行ったり来たりしてたの。笑えるでしょう。間違えたのね。多分……。で、貴方」
 アミはまたシュラインを振り返る。
「お名前は?」
 シュラインは引き攣った笑いを浮かべ「今度また機会があれば」と言葉を濁した。
「私、お仕事があるからそろそろ」
「あら。ごめんなさいね引き留めて。また立ち寄って頂戴ね」
 何かを言おうとするアミを遮り、店主は林檎の入った紙袋をシュラインに手渡す。
 お金を払い、シュラインは早々に店を離れた。
 これは聞き込み失敗、になるのだろうか。思わぬ邪魔が入ったことが悔しいが、次のところでまた頑張れば良い。
 シュラインは手に巻いた時計を見た。
 午後、五時。
 この地域の郵便配達は、確か午前十時と午後三時だ。
 浅海に聞いた眼鏡の様子だと、郵便配達が終わった時間に眼鏡は投函されていることになる。
 張り込み班の様子を見に行こうか、という気になった。
 シュラインは浅海のアパートへ向け、足を進めた。



 スモークフィルムが貼られたバンの窓をノックすると、ゆっくりとした速度でドアが開いた。そこには汗でテカテカの顔になった、しえるが居た。
「ご苦労様……大変そうね」
 シュラインは苦笑して、労いの言葉をかけた。
「とってもご苦労だわ。暑いの……とっても」
「……でしょう、ね。エンジンかけたままにはしておけないしねぇ」
「そうなのよ。あ。貴方も入る? 狭いけど、アイスもあるわよ」
 そう言ってしえるは、窓越しにアイスクリームの箱をチラチラさせた。
「そうね。ちょっと休憩しようかしら」
「よし来た」
 バンのドアが開き、シュラインが乗り込もうとした時だった。
 その奥で望遠鏡を覗き込んでいたアトリが「あぁ!」と声を上げた。
「人!」
「え?」
「また浅海くん達じゃないの」
「違います。女の子……制服を着た女の子だわ!」
 シュラインは思わずバンに乗り込むのをやめて、浅海のアパートの方を見る。
「あ!」
 確かに女子学生が立っている。
「どうしましょう」
 アトリが緊張感の無いノンビリとした口調で言う。
「何言ってんの! とりあえず行くのよ!」
 しえるの言葉に、シュラインも頷いた。


―9―


「あ。あぁ? なんであれ、シュラインさんじゃん? こっち向かって走ってくる、っておい! 何かポストの前に人が居る!」
 洋輔は思わず声を荒げた。
 浅海の郵便受けの前に、人の姿が見える。洋輔は思わず興奮し「はよせな! はよせな!」と雛太の体を押した。
「うっせ、知ってんだよ、お前、バレ。あ!」
「お前こそ声でかいんだよ!」
「ちが、それどころじゃねって! 気付かれた、っていうか、あ。あ。逃げ」
「ごめん。僕、全然見えてないんだけど」
「あー。クソウ、追いかけるぞ」
 ズリズリと体をすりながら、路地から出ようと雛太がもがいた。洋輔はその背中を思いっきり押してやる。
「いたた、ちょ。押すな、痛い」
「早く出たいんだろ」
「だからって押すなって、痛。つかもう、なんでこんな奥まで入ったわけー?」
「お前が入れ入れ言ったんじゃん」
「ごめん。僕、全然見えてないんだけど、本当に」
「あーもう。痛い」
 入る時には何の障害もなかったコンクリートの壁が、出る時にはやけに体のあちこちにひかかった。慌てているからだろうか。ズリズリといろんなところをすりながら、バタバタと将棋倒しのように路地から雛太と洋輔が這い出ると、ポストの前に居た女子学生らしい女性はもうとっくに遠い影となっていた。
 その後を追いかける、三人の女性が見える。
 その中の一人は草間興信所の事務員である、シュラインだった。どうやら洋輔の知らない所で張り込みがなされていたらしい。仕事をさぼってばかりの自分が悪いのだが、何となく仲間外れにされたようで少しだけ淋しかった。
 その後に、のんびりと出て来た限が「あーなるほどね」と声を漏らす。
「逃げるなんて怪しいね」
「言ってる場合かよ。逃がしちゃったじゃねーか!」
「んーでも。あれは無理だな。早いもん」
 洋輔はほっと溜め息をついてその場にしゃがみ込んだ。雛太がチっと舌打ちして「もー」と呻く。腰に手を当て、しかし次の瞬間には
「なんだかなぁ。確かに早いな、あれは」
 と呟いていた。
「追いかけないの」
 限がどうでも良さそうに問いかける。洋輔はハッと笑った。
「いやー……あれは無理だろー」
「なんなんだあの速さは」
 背中を見送りながら、雛太もとうとう座り込む。
「走るのとか、ちょっとメンドイよね」
 洋輔は雛太を伺うようにして言った。
 暫く沈黙があり。
「確かに……メンドイな」
 雛太は苦笑してそう言った。
「じゃあ、これからどうするの」
「んー。どうすんべー。でもさ。依頼はあの人らが解決してくれんじゃね?」
 洋輔がのんびりというと、雛太は納得いかない風に顔を顰める。
「だからー。これから三人でビデオでも見て、だな」
「あ」
「ん?」
「あれ」
 限がすっとアパートの郵便受けを指差した。
「依頼主の郵便受けなんじゃない?」
「わ!」
 雛太が思わずと言った風に立ち上がる。
「ちょ、ちょちょちょ。何してんだー」
 そこに向かい小走りに駆け寄って行った。
「おいおいマジかよー」
 洋輔は呟いて、後に続いた。


―10―


 前方を走る少女はとんでもない速さだった。
 体力に自信がないわけではないシュラインでも、その速さに追いつくことは出来ない。それに、少女には持久力もあった。一体、どのくらい走っただろうか。
 その時、シュラインの携帯が鳴った。
 こんな時に!
 シュラインは足を止めずにポケットから携帯を取り出すと通話ボタンを押した。
 ぶれる手で息も荒く「何!」と声を荒げる。
 相手はセレスティだった。
「今、どちらに?」
「犯人を追ってるのよ。取り込み中!」
「犯人?」
 その落ち着いた声は余りにこの場に不釣合いのような気がした。
「そうよ、犯人! どうも、女子学生みたいだったの」
「どういうことでしょう」
「はい? 何が」
「今まさに、郵便受けの前でもいざこざが繰り広げられているようなのですが」
「あー。それはウチの馬鹿バイトでしょう」
 シュラインはそこではっと息をつき、足を止めた。
「もう駄目。走れない」
 その横を、しえるとアトリが駆け抜けて行く。
「大丈夫。ここは私達に任せて頂戴」
 すれ違いざま、しえるがそう言って走って行った。シュラインはその背を見送りながら、「もしもし。ごめんなさい」と受話口に言い直した。
「郵便受けの前で暴れているのは、うちの馬鹿なバイト君よ。何だかねー。さっき見つけたの。男三人で。何やってたのかしらね」
「それが」
 そこで一旦、セレスティは口を閉ざす。
「あぁ、すみません。どうも。盗聴器から聞こえてくる声が……お前がやったんだな。などという文句でして」
「えぇ? どういうこと?」
「私にもわかりません。声だけでは判別しかねます。今、どの辺りにいらっしゃいますか。戻れる範囲ならば、今すぐ戻って真相を解明することをオススメします」
 ハーとシュラインは長い溜め息をつく。
「そのオススメ。受けさせて頂くわ。今すぐ戻るから。また何か状況が変わったら連絡して頂戴」
 電話を切った後、シュラインはコキコキと首を鳴らして肩を上下させると「バイクに乗ってくれば良かったわ」と呟き、来た道をまた駆け足で戻った。


―11―


 走るたびにその背中は遠くなっていくような気がした。
「なんなの、あの速さ」
「なんでしょう」
 さすがにアトリも疲れて来ているのか息を切らしながら言う。
「長距離選手とか……」
「かもね。明日の、オリンピックを目指す、陸上部……とかね」
 しえるは舌打ちでもしたい気持ちで「もう駄目!」と声を荒げた。
 荒い息を漏らしながら立ち止まる。
「しえるさん!」
「奥の手を使うわ」
「奥の手?」
 しえるは左手をさっと横に突き出した。細い指先が優雅にしなる。それをゆったりと額にあてながら、しえるは念じた。
 ポウっと目の前に薄く青白い光が浮かんだかと思うと、そこに柄の部分を金で装飾された豪華な刀剣が現れる。
「蒼き焔と雷を司る、霊刃蒼凰」
「まぁ。蒼凰さんね」
『何用じゃ、主』
 刀剣は自らそこにフワフワと浮き低い、地響きのような声で言った。
「前方を走る少女。居るでしょう。あの子を捕まえたいのよ。協力して頂戴」
「しえるさん……彼女に雷撃を当てるおつもりですか」
「大丈夫ダイジョブ、えーっと、そうね。例えるなら『いやぁ。お坊さんお経長かったな。ったく法事も疲れるよなぁ。長時間正座してたら、足痺れたっつの』っていう程度の雷撃しかあてないから」
「え。それは何処が」
「うん、要するに長時間正座して足にビリビリ来る痺れあるじゃない? あの程度のっていうこと」
「あぁ……蒼凰さんは長時間の正座のビリビリがどの程度か把握できるんですか? ……剣、なのに」
「なぁーに言ってんの。大丈夫よ。コイツはただの剣とは違うんだから! 蒼凰、長時間の正座のビリビリ! さあ、行きなさい!」
『微妙な……』
「え。今、微妙って」
「言ってない言ってない」
「分かってないんじゃないんですか」
「分かってる分かってる、大丈夫大丈夫」
 刀剣は一度しえるらの前から姿を消し、またぱっと少女の頭上に現れた。刀剣の回りにばちっと青い稲妻が渦巻く。それが少女の上に、バシンという音と共に落ちた。
「きゃ」
 小さく悲鳴を上げて、少女が倒れる。
「いたた。何」
 足をさすりながら、少女は空を見た。
 刀剣はもう、姿を消していた。



「はー。やっと追いつけたわ。貴方、偉い手間をかけさせてくれるわねー」
 しえるは棒のようになった足を引き摺りながら、よたよたと少女に駆け寄った。
 少女はそんなしえるとアトリの顔を見て「何? 何が起きたの」と眉を潜めて言った。
「天罰なんじゃないかしら」
 しえるは腕を組み、威圧を含めた声で言ってやる。
「天罰」
「そう、天罰。逃げるからよ。逃げるってことは悪いことをしている、っていう気持ちの現れだわ。貴方、あそこで何をしていたのかしら。自分の中にある、後ろめたい気持ち。それに天罰が下ったのよ」


―12―


「捕まえましたよ!」
 洋輔が元気過ぎる声で言う。
 シュラインは荒い息を吐き出しながら、額を押さえた。
「今はそのテンションについていけないわ。手短に説明して頂けるかしら。その人は、誰」
「犯人ス」
 洋輔がまたあっけらかんという。
 その隣で腕を掴まれていた男が「違う!」と声を荒げた。
 シュラインは何だか眩暈がした。
「それに……どうして雛太くんと、限くんが居るのかしら。今回の依頼の話、聞いてたっけ?」
「久しぶりっす」
「こんにちは」
「俺ら、洋輔からこの話聞いたんですよ。んで、ちょっと張り込みでもしてみよっかなって。な?」
 雛太が言うと、限は黙って頷いた。
「ボランティアです、ボランティア」
「草間興信所には優秀な人材がたーくさん居て、私とっても幸せ」
 シュラインはなげやりに言ってやった。はーっと大きく溜め息をつく。冷たいタオルと飲料水が欲しい。そう思ったがここにはなかった。バンの中にはあるだろうが、そういえばバンの鍵はどうしてたっけ。
「で、どうしてその人が犯人なのかしら。犯人なら今さっき、草間興信所の正式な張り込み班が追っかけて行ったけれど」
「コイツも浅海ンとこの郵便受け、覗いてたんですよ」
 洋輔が言うと、「先に言うな、お前は!」と雛太が怒鳴る。
 シュラインは洋輔に腕を持たれてそこに立つ、男の姿を下から上にじっくりと観察した。
 よれた灰色のスーツを着た男は、それほど勇敢な顔立ちもしていなければ、見るからに軟弱そうでもなかった。つまりは特に何の特徴もなく、何もかも普通。という言葉で表してしまえそうで、更に言えば人込みに紛れたら探しにくい人、の代表にも思えた。
「どういうことかしら」
「嘘ついてんですよ、コイツ多分。刑事とか言っちゃってさ」
 雛太が男の脇腹をつつく。
「刑事?」
「うそうそ。どうせならもっとマシな嘘つけっての。あれじゃん。もう、さっさと吐いてしまいなって。な?」
 雛太の言葉に男は悔しそうに眉ねを寄せた。
 しかし次の瞬間、ハッとしたように何かに気付き、洋輔の手を振り払う。ポケットから警察手帳を取り出し突き出した。
「刑事です。今日は捜査でここに。貴方達こそ誰なんですか」
 手帳が出た途端、男はドンと胸を張り威厳を込めた声で言う。いかにも胡散臭かった。
「それが本物って証拠、あんのー?」
 鼻で笑うような勢いで洋輔が言う。
「なんだと!」と男が声を荒げた。
「だいたい調査って何さ」
「それは……」
「いや、別にいいよ、言わなくて。どうせ嘘だろうし」
 男は意気込んで何かを言おうとしたが口を噤み、喉を鳴らす。
「君みたいな若い子は新聞を読まないかも知れないけれどね」
「だったらあんだよ」
「一週間ほど前、ある泥棒が捕まったんだ」
「泥棒ってなに……あ」
「あ」
 そこで洋輔と雛太は顔を見合わせた。
「もしかして、眼鏡の泥棒ですか」
 限が言うと、男は「あぁ。まぁいろいろ省略されているけれど、それだね」と言った。
「眼鏡の泥棒……?」
 何の話だ、と眉ねを寄せる。けれどシュラインは、あッと思い出した。一週間ほど前の新聞に、小さく掲載されていた事件のことだ。
 しかしあれはもう、犯人は逮捕されたと書いてあったはず。
「それが。この郵便受けと何か関係があるんですか」
 シュラインの言葉に男はんーと長い溜め息を吐く。
「まぁ。もう捜査は終わっているし……あのですね。その泥棒が変装用に使っていた眼鏡がありましてね」
「変装に眼鏡?」
「まぁ。顔マスクの上から、なんですが。鼻眼鏡をかけて」
「鼻眼鏡ッ!」
「何というか。変な男ですよ。あんなに陽気な犯罪者は見たことがない……いや、まぁ。それでねその眼鏡をこちらの郵便受けに投函したと聞きまして。郵便屋に変装して居れたそうなんですが」
「郵便屋!」
「どうかしました?」
「あ、いえ……この辺りで、郵便屋さんが一日に何回も行き来していたという噂を聞きまして」
「あぁ、そうですか……まぁ、そういうモロモロも含めてお話を聞こうと思いまして。彼の部屋へ向かう所だったんです。郵便受けを覗いたことに特に意味はありませんが。どんな物か見ておこうという気で……そしたら彼らに捕まりましてね。散々です」
「それは……どうも、申し訳ないことをしました。すみません……貴方達も謝りなさい」
 シュラインは洋輔を睨みつける。洋輔はプッと唇を突き出した。
「何つーか。俺ら、悪くねじゃねすか。そもそも刑事に見えないそいつが悪いっていうか」
「なんてことを」
 と言いながらシュラインも、間抜けな刑事だ。とは思った。思ったがそこは大人。社会の仕来りというものがある。
「もう。いいです。僕は、刑事になりたてて。確かに……見てくれも普通だしもう何か気づかれないっていうか」
「そんな、ことは」
 シュラインは歯切れ悪く、いっぱいいっぱいのフォローをした。
「でも良いんです。先輩にはそういう見えないトコが便利だ、ともいわれますし」
「そう、ですか」
「はい……ところで今、浅海忠志さんはご在宅なんでしょうか」
「今は、多分出かけていますけれど」
「そうですか……出直そうかな」
 男はそう言って肩を落とした。


―13―


「貴方達は何なんですか」
「興信所の者です。浅海忠志さんから依頼を受けて。張り込みしていたの」
「浅海さんから……依頼」
「そう。浅海さんから依頼。貴方。眼鏡を毎日あの中に入れてたんでしょう」
 少女は黙って口を噤み、それからキッと顔を上げた。
「だって。彼、私のことを全然相手にしてくれないんですよ」
 しえるはそこで溜め息をついた。
「つまり、認めるってこと? 貴方があの郵便受けに眼鏡を入れたのね」
 少女は黙って頷く。しえるはもう一度溜め息を吐き出した。
「うーん、そうねぇ。分かる、分かるわ。鈍感な男って多いもの、案外。でもそれってどうなのかしら。彼の一言一句に一喜一憂して、事細かに分析して、ちょっと優しかったら、あれ、何。これってアタシのこと好きなの! とかテンション一人で上がってみたりして。それってちょっと、過剰反応? 案外人って、人のこと見てないもんだったりもするのよねぇ」
「そうなんです。私も、人のこと全然見てないから……何も気づかなかったりして。怒られたり、しょっちゅうするし」
「まぁ、貴方は特別よね」
 しえるはアトリにニコリと微笑む。アトリもニコリと微笑んだ。そしてまた少女に視線を戻す。
「まぁつまり。信じられないけれど、人のこと、まぁあああああああああああああああああったく気にしてないような人間も居るってことなのよ。例えば、髪の毛。女はシャンプーを変えたって気付いて欲しいものよね。でーも。髪をバッサリ切って、カラーリングまで変えて、ものすごーーーーく、明らかに変わってるのに、男は気付いてくれなかったりするわけよ。ま、口に出してないだけって場合もあるけどね。だったらどうすれば良いか。口に出すの。口に出すのよ。なぁあんでも言っちゃえば良いのよ。僻む暇あるなら言いなさいよ。好きだからこそ気付いて欲しいんでしょう。だったら言うべきだわ。それで嫌われたら、それはそれ。そういう縁だったってことで諦めればいいわ。男なんか腐るほど居るもの。どうせなら、外見も中身も。どっちもカッコイイバック、手に入れたいじゃない?」
「バック?」
 少女は呟き、考え深げにふっと俯く。
 けれど次の瞬間、彼女は顔を縋るような目でしえるを見た。
「分かります。分かるんです。私もそういう価値観の持ち主だったし……友人からはどちらかといえばこざっぱりとした子ねぇ、なんて言われて。何というか。今まで自分がこんな女だなんて知らなかったんですけど……狼と七匹の子ヤギのお話、知ってらっしゃいますか」
「あぁ……グリム童話の」
「えぇ……私、あれに感銘を受けたんです」
「感銘ッ?」
「あの狼。子ヤギを食べようととっても一生懸命になるでしょう。在り得ないくらい執念深くて。っていうか実際、子ヤギも気づけよって話で。でも、狼はそれで子ヤギを食べるんですよ」
「え、子ヤギって助かるんじゃなかったの」
「助かる子も居るんですけど、食べられるんです」
「そうだったんだ」
「私、だから思ったんです。そうだわ。あの話みたいに、どうしても欲しい物があったらどんなことをしてでも手に入れないと駄目なんだ、って」
「価値観って……いろいろあるのね」
「私、彼に気付いて貰おうと、毎日コンビニに通いました。何時間も立ち読みしたり、売り場を聞いたり、おつりを貰う時には丁寧に受け取ったり、ありがとうって言ってみたり、こんにちはって言ってみたり、行ったり来たりしてみたり、もう、散々。それでも彼の対応はいつでも事務的で。全く何の反応も無かったんです。ドラマなら恋が始まっててもおかしくないくらい、私いろんなことをしたんです」
「ドラマは現実じゃないからねぇ」
「クレームをつけてみたりもしました。おつりを落としてみたり、彼が外で吐き掃除してる時にはお仕事大変そうですね、とか言ってみたり。からあげ棒にしようか、コロッケにしようか延々レジの前で悩んでみたり、良く会いますね、なんてお決まりのセリフを言ってみたり。普通そこまでされたら気付きませんか。好意が無かったにしろ、何かこう……嫌だって顔をするとか。つっけんどんな返事をするとか。それでも良かったんです。でも彼はまるで機会みたいに。私のことなんか全く眼中にないってみたいに」
「無反応って辛いものね」
「そうなんです。辛いんです。どうして何の反応もないのか、どうして。どうしてなの。私は悩みました。それで……ある映画を見たんです。私の好きな俳優さんが出てる映画でした。邦画で」
 しえるとアトリは顔を見合わせた。
「卓球の!」
「そう、そうです! あれにヒントを得て。眼鏡を突っ込んでやろうと」
「極端な発想ね。眼鏡は一体何処から調達したの」
「眼鏡屋なので」
「まぁ、やっぱり!」
「私ではなく、彼、が」
「彼……彼ッ?」
「彼氏が居るのにそんなことをしたんですか」
「彼氏なんて、肩書きだけです。愛してもいません。子ヤギを食べようとした狼が白い粉を買った店のオヤジとか、チョークを買った店のオヤジとか、そんな程度の物です」
「何だか、いろんなところにちょっとずつ不幸があるわね」
「でも、私。幸せでした。ここ数日間」
「幸せ?」
「だって。彼、私の入れた眼鏡でとっても追い詰められてくれたわけでしょう。こんなに素晴らしい話ってないわ。無反応だった彼に、私が原因で何か思わせることが出来たんだもの」
「そういうの、ストーカーって言うのね」
「何と言われても構いません。私、諦めません。彼が私を見てくれるまで、どうやったって彼の気を引き続けます」
「貴方がその内、犯罪を犯さないことを祈るわ……そうねぇ。これからお姉さんと一緒に飲み会でも開かない? 貴方の話、私がたっぷり聞いてあげるわ」
「私の話?」
「ほら、思いつめてるよりも話した方が良い時もあるじゃない。そういう性癖だと中々相談もしにくいでしょう。大丈夫。私は女の子の味方だ、か、ら」
 しえるはそう言ってフフフと笑う。
 アトリはその耳にこそこそと囁いた。
「もしかして必要経費で飲み会開こうなんて思ってないですか」
 その答えは、その顔に満面に浮かんだ微笑だった。


―14―


 手短な場所にあった公園に入ったケーナズと浅海は、ベンチにゆったりと腰を下ろした。
 夕方の公園に子供の姿はなく、少しだけ淋しそうに見える遊具が夕日に照らされオレンジ色に光っている。
 ベンチに座り、ほっと溜め息をついた浅海はポツリと言った。
「本当は……眼鏡なんてどうでも良かったんです」
「どうでも、良かった?」
「確かに……気にはしてたりして。でも気味わりぃなぁ、ってぐらいで。別にどうこうさせようとか。全然思ってなかったんです。本当は、解決されたいと思ったわけじゃない。ただ」
「ただ?」
 ケーナズが問い返すと浅海はそこではっと息をついた。思いつめるように自分の指を見つめてから、言った。
「ひとめぼれして」
「ひとめぼれ?」
「草間興信所のアルバイトの……久坂、洋輔に。ひとめぼれして」
「何だって?」
 ケーナズは問い返した。浅海は「やっぱり、驚きますよね」と肩を落とした。
「つまりキミは……依頼の解決よりも、彼と仲良くなりたかった、ということか?」
「そういう……ことです」
「うーん」
 ケーナズは溜め息交じりの返事を返した。
「それでキミは……興信所に依頼したわけだ」
「はい。彼に近づきたくて。初めて出会ったのは、ラーメン屋でした。近所にあるんです、ラーメン屋。そこのカンターで俺が、眼鏡を見つめて溜め息をついてたら……彼が隣に座ってこう言ったんです。ラーメン一つ下さい」
 ケーナズは小首を傾げた。
「それが?」
「一杯ではなく、一つって言ったんです」
「んーまぁ」ケーナズは苦笑した。「そういう間違いもあるんじゃないか」
「その時多分、俺は恋に落ちました」
「ええ」
「おかしいですよね。俺もおかしいと思いますもん。でも何か、駄目なんです。そういうのに、弱いんです。その後、洋輔は店員が持って来たラーメンに味が変わるだろうなぁって思うくらいコショウを振って、しかもその容器を戻さずに……ラーメンの汁とかを撒き散らしながら食べて。もう、駄目なんです。俺、あーゆーの見るともう、何か……やばいんです」
「良く……わからないが」
「傍についててあげないと、って思うんです。俺が傍に居ないとって。彼のこと全部、俺がこう。影になって支えたいっていうか」
「珍しい人だな」
「あいつ何か、もうめちゃくちゃで。人のことまるで考えてないし。自分勝手だし、感情もまるで前に出てて。無防備っていうか……だから俺。傍に居たくて……それで洋輔君がうちに依頼すればいいって言ってくれたとき、そうしよう、って心に決めたんですよ。料金も、親から借りてでも払おうって」
「じゃあ……キミは要するに……副業があるわけではなく」
「はい。ありません。コンビニバイトと、親から貰った貯金だけです。でも良いんです。俺、あのめちゃくちゃな奴の傍に居れるだけでいいから。だから嘘もつきました。嘘っていうか、支払いできますって、断言しちゃって。でも、ちゃんと払うつもりではいます。これから先も、何かと細かい……こう、こじつけみたいなのでも依頼とか持って行ってでも、顔あわせたいと思うし」
「キミの気持ちは分かるが。向こうはその気持ちには気づいているのか」
 浅海は俯き首を振った。
「相手にされてないっていうか。何か避けられてるっていうか……気付いてるのかも知れません。けど、何も考えてないだけなのかも」
「なるほどな」
 浅海ははーっと溜め息をつく。
「彼は……あるときこんなことを言っていました。あぁ、そうだ。俺が始めて依頼をしに行った日のことだったかな。所長さんとテレビの話をしてて……この間。テレビ見たンよ。人間てさ。自分が好みだなんだ言うくせにさ。魚のハラから卵取り出して、オスからは精子取り出して、それで無理から受精させて『やった〜成功〜』とか言ってんの。怖くね? 魚、好みもクソもねーじゃん? 可哀想にさって。それで俺が、じゃあ洋輔君は好みだなんだなんて言わないってこと? って聞いたら」
「聞いたら?」
「つまりは、皆を平等に愛した言ってこと。特定の恋人とか今はいらんのよね。と言われました。でも俺、そういうの何か良くて。また惚れ直したっていうか」
 浅海はそう言って、顔を伏せる。
 ケーナズはオレンジ色に染まった遊具に視線を注いだ。
「恋愛は、いつだって難しい物なんだ。悩んでるのはキミだけじゃない。障害が多いことは確かだ。けれどだからといってキミは諦められないんだ。そうだろう?」
「はい」
「だったら、向かっていくしかないんじゃないか。もちろん。諦めるということも必要な時があるかもしれないが。心密かに相手を思うことは、罪じゃない。それを押し付けた時、それは罪になり、相手の重荷になる。相手に押し付けようと思った、その時それはもう愛じゃない。それはただの、エゴイストだ」
「じゃあ……彼を思う俺の気持ちは罪じゃない?」
「押し付けないなら、罪じゃない。私はそう、思う。キミの気持ちはキミの物なんだ」
 ケーナズはゆっくりと遊具から浅海に視線を向ける。
「そうか」
 浅海は溜め息にも似た声で言った。
「何か……俺、救われた気がします」
「恋愛では特にね。第三者の言葉が必要な時もあるんだ」
「これからも」
「うん?」
「これからも、相談に乗って頂けますか」
「気が乗れば」
 ケーナズは肩を竦めて見せた。
「私は気紛れなんでね」
 その仕草に、浅海は笑った。


―15―


 盗聴器から聞こえる声を、セレスィはとても愉快そうに聞いていた。時にフワリと柔らかな笑い声を漏らしては、また神妙な顔で声に耳を傾ける。それはとても控え目な、けれど聞いているこちらまで楽しくなってくるような、そんな笑い声だった。何がそんなにおかしいのだろうか、と武彦は小首を傾げる。
「こんなに長く生きているのに。いつまでも人とは分からないものですね」
 ソファに身を埋めながら、セレスティが言う。
「それがその笑い声の原因か」
「えぇ……そうですよ」
 セレスティは事も無げにそう言う。
 盗聴器からは、シュラインと洋輔のやりとりと、そこに戻って来たしえるとアトリの声、そして雛太と限のつっこみが聞こえている。愛について、依頼について。更には皆で飲み会を開こうなどと勝手なことを時に大声で、時に密やかに、グチャグチャと話し込んでいる。日常茶飯事で聞けそうなそのやりとりを、武彦は特別面白いとは思わなかった。けれど、セレスティはニコニコと微笑んでいる。
「分からないのは、そっちの方だ」
「だから私はついついここに顔を出してしまうのですね」
 脈絡なく、セレスティはそんなことを言う。
「どういう意味だ」
「道楽ですよ」
「道楽?」
「道楽です。ここには、出来ればずっとこんな風に朗らかな時間が流れていて欲しい、そう思います」
 その人形のように整った、美しい横顔を見ながら武彦は小首を傾げる。
 デスクの上にあった煙草に手を伸ばし、火をつけた。
 ポツリと呟く。
「朗らか……ねぇ」
 武彦は武彦は窓の外を見た。
 窓枠に切り取られた空に、雲は一つもなかった。


END




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号2528/柏木・アトリ (かしわぎ・あとり)/女性/20歳/和紙細工師・美大生】
【整理番号2617/嘉神・しえる (かがみ・しえる)/女性/22歳/外国語教室講師】
【整理番号1883/セレスティ・カーニンガム (せれすてぃ・かーにんがむ)/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【整理番号2254/雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた)/男性/23歳/大学生】
【整理番号3171/壇成・限 (だんじょう・かぎる)/男性/25歳/フリーター】
【整理番号1481/ケーナズ・ルクセンブルク (けーなず・るくせんぶるく)/男性/25歳/製薬会社研究員(諜報員)】
【整理番号0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】


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■         ライター通信          ■
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初めまして。
 アナタに眼鏡にご参加頂き有難う御座いました。
 執筆者、下田マサルで御座います。

 真実の追究に邁進する姿に、皆様の個性が出ていればと思い書かせて頂きました。
 恋の一方通行。世の中にありふれた恋のお話。
 楽しんで頂ければ幸いです。
 ご意見ご感想などありましたら、メールフォームをご利用頂けると有り難いです。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                       感謝△合掌  下田マサル