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■―― 思慕去来 ――■
時ならぬ俄か雨。
それが地を穿ち駆け去った、その夕暮れ。
ひと気がなくひっそりした小さな神社の境内に、ひとつ、蹲る影があった。
湿った地面に膝を抱えて座り込んでいる、銀髪の少女。
名を、葉山壱華という。
落ちかけた陽の刹那の光線を浴びて、壱華の姿と社の色彩は昏く妖気を帯びており、その場はさながら異空間であった。
不意の、一陣の風。
鬱蒼と繁った木立がざわめく。
少女の肩に滑った白銀色の髪が、音もなく流れる。
だが、目を瞠るがいい。
髪の流れを遡れば、そこには明らかに、人の相にはないものがあるではないか。
角、だ。
小さいながらも明らかな、それは二つの角である。
貌色白く、唇紅く。
そして瞳もまた蘇芳色。
幼くも顔容麗しい彼の少女は、人にあらず。鬼であった。
壱華は、もう二刻ばかり、身動きひとつしていなかった。
瞬くことすらせぬ瞳には、今しがた没した陽の残照が映っていた。
だが、それすらも見てはいない。
今、壱華の視界には、脳裡には、絶え間なく浮かんでは消えてゆく、夥しい映像があった。
そのひとつ。
記憶に残っている、最後の母の姿。
被衣のような真紅色の衣をひるがえし、闇夜の雨林の中、壱華とともに駆けていた。
今思えば、あれはある種の山狩りだったのかもしれない。
母と壱華は、遠近に木霊する、追手からの銅鑼や貝の笛音を耳に、彼方の木々の狭間で幻のように揺れる松明の炎を目に、疾走していた。
母はただ黙しており、娘である壱華の手を握るその指は冷たかった。
その後、何がどうなったのかは記憶していない。
気づいた時には、母の姿は見えず、ひとりだった。
ひとり呆然と、叢の中で夜明けの薄明かりを仰いでいた。
草枝に切られ、血の滲んだ足指の、疼くような痛みを、壱華は今も覚えている。
壱華は彷徨っていた。
壱華の魂が、そこかしこに闇色の口をあけている山中を彷徨っていた。
不安と不信と悲しみと、耐え難い孤独。
それらを抱えて
泣くことも、喚くことも意味はなく、疲れ果てた心が今しも凍てつこうとしていた、そのとき。
目の前に現われた、ひとつの人影があった。
彼が壱華へと言葉をかけた。
忘れることも出来ないほどの、やさしい響きだった。
壱華の異相である角や瞳の色に、彼は気付いていただろうに。
――あたしは、鬼、だよ?
逃げ出してしまいたいような怯えと、縋りつきたいほどの望みと、次の瞬間に来やしないかという失望の衝撃に耐えるための壁、それらを紅い瞳の色に湛えつつ、壱華は彼を見上げ、見つめた。
彼は、穏やかに頷いた。
それは、すべてを受け入れる、という諾でもあった。
「一緒に行こう」と、壱華を導くために差し伸べられた彼の手は、触れてみれば、温かかった。
壱華は中で凝り固まっていたものが、雪解け水が沢を作るかのように流れ出しはじめたのを感じた。
そのとき、初めて知った。
虚しくなることのない、満たされることで溢れる涙というものを。
ある日暮れ時。
かの人は、夜には戻ると言い置いて、出かけていった。
用事があるらしいことは知っていた壱華だったが、出掛けの時に、言い知れぬ不安を覚えた。
かの人の後姿を、その影が遠くなり宵闇に紛れるまで見送っていたが、その直後、不安の正体が何であるのかを、壱華は悟った。
それは、人にあらぬものの気配。
しかも、害さん、弑さん、して、喰らわん、という意思をはっきりと感じ取った。
なぜそうわかったか。
壱華自身が「ヒトニアラズ」だったからだ。
つまり、その意思の主は、仲間だった。
人に非ずの身で、人間をわたる危険には、それまでも幾度となくさらされてきた。
仲間の元に帰れば、それらの苦痛は随分とやわらぐことだろう。
かの人と、仲間と。
壱華の、瞳が紅蓮の炎の如く燃え上がった。
次の瞬間には、深まりかけた闇を切り裂くように、疾風となって駆けていた。
もうすぐ追いつく。
あと少しで見えるはず。
あの人の姿が。
あたしは、あたしは――
――あたしの、ぜんぶ――
この、全身全霊を賭す。
かの人の姿が見えた。
かの人を取り囲んでいるのは鬼どもだ。
あるいは大木のような腕を振るい、あるいは奇妙にねじくれた長く鋭い爪で掴みかかろうとし、あるいはかの人を、おそらくは万力の如き膂力であろう両腕で羽交い絞めにしようとしていた。
それらを視界に認めた壱華はそのとき既に地を蹴っており、空を切り、あたあかもかまいたちと化し。
そして、壱華の両手から発された炎は、瞳の中に孕んだ炎そのものの鮮烈さで、鬼どもへと追いついたときには、彼女自身が炎の化身となっていた。
壱華の、鬼気迫る形相に気付いた鬼どもは、はじめ、その女小鬼のあまりの小柄さに、鼻で笑い飛ばしかけ、しかし、そう思ったことを直後に身をもって後悔させられた。
いや、後悔する事すら出来なかったのだ。
炎を従えた壱華の両腕、肘から先が振り下ろされると、意志を持っているかのような炎は鬼どもの足元へと走り、轟音とともに、高さ三尺余りもの火柱が次々に立っていった。 炎は、即ち、壱華の意思だった。
壱華よりもはるかに大きな巨体の鬼どもが、浄化の炎の中で叫喚し、のた打ち回った。 だが、それでも壱華は許さなかった。
そう、許すことは出来なかった。
――あたしの命、あたしの中の無明の闇を照らした絶対の光、それが、あの人なのだから――
あたしが仲間を選ぶことは、未来永劫、ない。
壱華が、これから生きる道においての最大の岐路にあたって、決定的な選択を下したのが、この瞬間だった。
唸りを上げては渦巻く火炎の中で、壱華はその幼く細い腕でもって、ひとりの鬼の腹を薙いだ。鬼の腹を焼きつつ抉るその様は、さながら炎剣であった。また、跳躍した脚の膝頭は、ひとりの鬼の顎から頭蓋を容易に砕いた。もう片方の腕の拳は地面を殴りつけ、地鳴りとともに地に亀裂が走り、そして大きく裂けた。
その細腕、その細脚に秘められた計り知れぬ剛力は、鬼どもの姿の原型を悉く留めさせず、極めつけに、あたり一帯を舐め尽した劫火は、治まったときには、彼らがいたという証を一片たりとて残してはいなかった。
見渡す限りの焦土の只中、壱華は呆然と立ち尽くしていた。
己の鬼としての力を意識し、使った事はあったが、ここまで我を忘れた事はなかった。 人にはなれぬ鬼でありながら、仲間である鬼を殺した鬼である己。
――あたしは、いったい、なに?
全身の血が逆流するような、視界が真紅に染まるような感覚の中で動いた結果が、己の眼前に広がっていた。
壱華は、いつしか慄いていた。
己の内包する力の種類がどのようなものであるのかを、まざまざと見せ付けられたからだ。
そして、己が何ものであるかを見失いかけていた。
黒く焼け焦げた地面の一点を凝視し、震える身体を、その震えを必死で抑え込もうと両腕で抱え込んでいた壱華。
その彼女の両肩に、ふわりと降りた重みがあった。
それが温かな掌である事に、あの人の掌である事に、一瞬の間を置いてから気付いた。 誰よりも大切な人の、その姿を確かめたくて、振り向き仰いだ。
ひと言も発さなかったが、彼の瞳が、すべての思いを表していた。
壱華の怒り。壱華の苦しみ。壱華の選択。壱華の自らへの恐怖。壱華の抱える想いのすべて――見届けた、と。
壱華もまた、その瞳からの静かな語り掛けに、涙したくても涙のひと滴も出ない瞳で、応えたのだった。
壱華はこの夜、決意した。
――あたしはこれから先、彼の人に、あたしのすべてを捧げる。
この後、彼女を取り巻く世界は大きく変わってゆく。
一陣の風、再び。
神社の境内に荒々しいつむじ風を起こし、とっぷり暮れた夜闇の中で黒々とした木々を激しく鳴らし揺さぶっていった。
物悲しく、懐かしく、壱華の生きる道を大きく変えた変えた去りし日々への想い。
今の壱華は、あの頃とはやはり少し変わった。いや、大幅に変わったかもしれない。
そしてまた、かの人もまた、変わった。心映えには変わりがないが。
それまで微動だにしなかった壱華が、不意に立った。
彼女の感覚が教えてくれる。
何処かで、かの人が、また、危機に瀕しつつある、と。
壱華は躊躇なく、砂を蹴って走りだしていた。
神社の石段を電光の如く駆け下りながら、彼女は思う。
あたしにとって、あの人は輝ける光そのもの。
あたしはあの人に救われ守られ、生きる事ができた。
あたしはあの人を守ることのできるものになりたい。
人でなくてもいい、外れものの鬼でも構わない。
あの人の力となれるものであること、それがあたしのたったひとつの望みだから。
壱華は今日も、かの人への思慕を胸に、己が身を、自身の命を燃やす、紅蓮の炎へと転じるのだ。
■ ライター後記 ■
はじめまして、蒼月紫峰と申します。
今回のシチュエーションノベルは如何でしたでしょうか?
シリアス・ダークネスでも宜しい、とのことでしたので、現在の壱華さんの性格からは懸け離れるかもしれない、という危惧はありましたが、私なりのシリアス・ややダーク路線で書いてみました。
壱華さんのバックグラウンドは、突き詰めると、とても掘り下げられそうだな、と思いまして、私自身、壱華さんと「あの人」にはとても惹かれながら書いておりました。
今回、この話を書かせて頂くにあたり、勉強になったことも多くありました。
誠にありがとうございました。
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