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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


エレベーターボーイ


------<オープニング>--------------------------------------


 行きは良い良い帰りは怖い。
「おい。おい、どうした。幸也? 幸也! ゆ……」
 音の無くなっていく世界の中で、幸也はそんな歌を思い出していた。



 朝目覚めると、カーテンの隙間から雨音が聞こえていた。
 その瞬間から気分は少し滅入っていた。

 ビニール傘に雨が降り立ち、パンパンと弾けるような音がする。
 久坂洋輔は、眉を顰めながら草間興信所への道のりを歩いていた。
 脇には借家が建ち並ぶ細い道である。傘から垂れていく水で、Tシャツの肩の部分はずぶ濡れになり、でこぼこのコンクリートの隙間に溜まった水は、足を踏み出す度に容赦なく跳ねズボンを濡らした。
 朝から最悪だった気分は、ここに来て更に下降し続けている。
 こんな雨の日に、わざわざ買物へ行かせるとはどういうことだ。
 洋輔は、脳裏に浮かんだ草間興信所所長に向かい文句を垂れた。舌打ちと共に傘をクルリと一回転させる。フラフラと道の真ん中を歩きながら、どうせ濡れるならばと水を振り撒いた。
 パーン。
 そこに、威勢のよい車のクラクションが聞こえてきた。
 洋輔は「あーん」と眉を顰めながら後を振り返る。道全部を占領するかのように走ってくるのは、黒いベンツだった。
 うーわ。やにこ〜。デカイ車のクセに広い道走れってカンジだし。
 洋輔はやれやれと、借家の玄関先に入り込んだ。
 そのままじっとベンツに視線を注ぐ。その時、またパーンと威勢の良いクラクションの音が鳴った。
「よけてるし。一体何の自慢なんだっつの」
 パーン。パーン、パーン。
 クラクションが激しさを増す。
 洋輔は小首を傾げて、前方を見た。
 男性が一人、道の真ん中を堂々と歩いていた。
「えーー」
 洋輔は思わず声を漏らした。
 クラクションの音が聞こえないのだろうか。
 洋輔はもう一度小首を傾げると、その男性に向かい駆け寄った。
 ぐっと腕を掴むと、男は驚いたように目を見開いた。
「あぶないっすよ」
 男は背後を振り返る。車を確認すると、「あ」と小さく声を漏らした。とにもかくにも洋輔は男の手を引っ張って、また別の借家の玄関先に入り込む。
 パーンとクラクションを鳴らして黒いベンツは水しぶきを上げ通り過ぎて行った。それを舌打ちで見送った洋輔は、男に向かい言った。
「あぶないっしょ普通に。何、自殺志願者?」
 男はフルフルと首を振る。
「ま。どっちでもイイんだけど」
 男はまた首を振った。それから必死に耳を指差す。
「は? 何。何が?」
 男の伝えたいことは分からない。けれどただ洋輔は、様子が変だとだけ悟った。



 その噂が現れたのはいつなのか誰も知らない。けれど肝試しを気取る時、その話は必ず出るほど有名な噂だった。
 舞台は取り壊されずにある「廃墟ホテル」だ。実際にそのホテルの残骸は今でもあって、ちょっとした幽霊スポットとなっている。回りには工事中の白いビニールフェンスが立てられ、その間からのっそりとビルの頭上だけが突き出している。深夜に行けば確かに気味が悪い。
 そんな外装が噂を呼ぶのだろう。取り壊されないのは取り壊せないからで、工事に着手しようとした人間は皆何かしらの不幸を背負い、爆破はいつも失敗する。そんな風に言われている。
 しかし噂は単なる噂に過ぎない。本当は金銭的な問題で、誰も手がつけられないだけなのだろう。真実はそんなところにあるはずだ。けれど若者達は幽霊の仕業だ、とフィクションに興じる。
 幽霊の現れる場所。それは今はもう動かないエレベーター。
 幽霊は少年で、エレベーターボーイと名づけられた。
 彼は少年特有の無垢な残忍さでもって人の命を奪い、遊ぶ。

「まぁ。その噂なら俺も聞いたことあるけどさぁ」
 洋輔は、木下幸也の携帯を覗き込みながらそう言った。
 幸也は頷き、また携帯メール作成画面に文字を打つ。
『僕はそこに行き、音を失った。耳が聞こえなくなったんだ』
「だーからさ。そっからが意味わかんないワケよ」
 洋輔は自分の顔の前で手を振る。幸也は小首を傾げてから、文字を打った。
『僕は、大学のサークルで心霊研究会というのに所属している』
「またそれはマイナーな」
『その仲間と一緒にあのビルに行った。そして僕は見たんだ。エレベータボーイを』
 洋輔は懐から携帯を取り出した。
『うそうそそんなん。あれは単なる噂じゃんすか』
『見たんだ。彼が現れた瞬間、そのエレベーターは動いた。彼は僕から音を奪ってやると言った。どうして音だったのかは分からない。けれど音だった。その帰り、僕はふっと気を失い、気がつくと耳が聞こえなくなっていた』
 その時、草間興信所のドアが勢い良く開いた。
 所長の草間武彦が、むっとした顔で入ってくる。
「雨漏りだ」
 溜め息をついた武彦は、ふと応接ソファに座る洋輔と幸也を交互に見てきた。
「所長、どう思う?」
「何がだ」
 眉根を寄せ、武彦が問い返す。
 洋輔はんーと唸って。
「何か。ようわからんけど。事件……です」
 わけがわからないといった顔の草間にそう言った。


------------------------------------------------------------


001


 ガラス製の引き戸が開いて客が入ってきた。
 モップで集めた店内の埃が、客と共に入り込んできた熱風にあてられ舞い上がり散らばっていく。壇城限は溜め息と共にいらっしゃいませを吐き出した。
 午前九時五十何分。きっとまだ十時にはなっていない。
 開店前である。
 個人規模の小さな店舗であるから、店員が鍵を開けたその時が開店だと勘違いしている客は多い。
 そういう客を寄せ付けない為に、看板を入り口の前に封鎖するように置き、店内灯もつけずにいるのだが強引な客というのは存在する。どうやらこの男もその部類らしかった。
 常連客ならまだしも、見たこともないような男である。
 けれどいちいち開店前ですがというのも億劫で、限は黙々と散らばった埃をモップの下に引いていく。
 男は何も言わず店内を見回った。何も言わない自分も悪いが、男も相当に変な奴だと限は思った。だいたい薄暗い店内を見たらすみません、まだですか。と問うてくるものだし、もうちょっと所在なさげに見回るものである。
 目ぼしい埃を全て取り終え、最後に店の外へ吐き出そうと入り口のドアを大きく開けた。
 暑い。
 ジリジリと肌を焼くような暑さにハロゲンヒーターを思い出す。夏の暑い日にハロゲンヒーター。
 逃げ出したくなるような思い付きだった。
 限は妄想を追い払うようにバタバタとモップを振る。
 埃がフワフワと空を舞った。
「すみません」
 背後からの声に、限は無言で振り返った。
 やっと声をかけてきやがったか。そんな気持ちでもあった。
「あのう。君が、壇成限くん?」
 唐突に名前を呼ばれたもので、限は驚いた。どうして自分の名前を知っているのか。しかし、そんなことはおくびにも顔に出さない。警戒心だけを表立って表情にし、眉を寄せ「はぁ」と頷いた。
「いやぁ、そうか。びっくりしたよ。店長から何も聞いてない?」
「店長?」
 自分は今日からここでアルバイトをすることになったんだと男は言った。
 そんな話は聞いてない。
「店のことは壇成くんに聞いてくれって言われてたんだけど」
 限は首を振った。
「バイトが入るなんて聞いてないよ」
「おかしいな」
 男は小首を傾げた。それからふと顔を上げ、限の顔を。
 見た。


第一章

―1―


 スピーカーから流れ出してくるのはモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第28番、ホ短調k.304だった。
 モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの中でもとりわけ葛城樹が愛するこのk.304は、モーツァルトが母の死を予感し書かれた曲とされていたが、近年自筆譜による研究でその解釈は間違いだったと証明されている。しかしこの曲の主題はあくまで濃厚な憂いを漂わせており、この曲が作曲されたとされるマンハイムでの求職活動の失敗やアロイージア・ウェーバーへの失恋などの悲しい体験が、やはりこの主題に少なからず影響しているのではないかとは推測される。
 アレグロの流れに乗ったピアノの調べは寂寥の感が溢れ、そこにヴァイオリンの透明な調べが重なるこの九小節の主題が、樹は堪らなく好きだった。
 いい加減重くなってきた瞼を閉じて、音の中にゆったりとトリップする。
 音だけで構築された作曲家の持つ哲学や物語は始動し始め、樹は無意識の内に自分の指を動かしていた。音を追うように、見えない鍵盤を弾く。
「おい。音楽とめろよ。気が散るだろぉ」
 脇腹を突付かれ樹は目を見開いた。
 想像の中の木陰の草原は、蒸し暑い夏のアパートの一室に姿を変え現実が目の前に広がっていた。
「あぁ、ごめん」
 樹は口の中で小さく呟き、オーディオの電源を落とした。
 隣の部屋で写譜作業をしていた同級生、江口友郎が、その顔を汗で光らせ仁王立ちしている。
「なにこんなトコで休憩してんだよ。明日までにパート譜仕上げないと駄目なんだぞ」
 この部屋の持ち主でもある友郎は、徹夜明けの血走った目で樹を見下ろす。樹は小さく肩を竦めて見せた。
「わかっているよ。でも。焦っても駄目なものは駄目だから。それに焦って書いて間違ってたら、もっと怒られるよ」
 勢い込んでいた友郎は、樹の言葉にふと口を噤んだ。
 小さく頷き額をペチンと手で打った。
「ごめん。ちょっと苛々してた。ちきしょう。早く終わんないかなぁあああああ!」
 大きなため息とそんな事を言い、その場へぐったりと倒れこむ。
「お前はなぁ。確かにあんなクソな先輩が作曲した曲をシコシコ写譜するのなんて似合わないよ。お前だったらもっとすごい大作が書けるもんな」
「そんな話はしてないよ」
 樹が素っ気無く答えると、友郎は何を思うのか少し黙った。
 樹も床に足を崩して座りながら、開け放たれた窓の外に視線を馳せた。何本もの電線が、窓の外を走っている。友郎は始めてこの部屋に樹を上げることになった時、しきりに恐縮していた。樹のマンションやその育ちを知っていたからだ。汚い所でゴメンなを連発し、帰るか? を連発した。
 けれど樹はこの電線の見える窓も嫌いではないし、人工的な涼しさのないこの部屋も嫌いではない。
 大学にはいろんな人が居る。そこに来て、樹はまた少し自分が狭い世界に居たことを知る。
 それはとても素晴らしいことだ。
「悪かったよ」
 彼はポツリと言った。樹は窓から友郎に顔を向ける。
「なにが」
「樹を巻き込んで、さ」
 樹は苦笑した。
「だって。困ってたんだろう」
 友郎は唇を尖らせ小さく頷くとよっこらしょっと起き上がった。
「困ってた。樹が手伝ってくんなかったら、絶対終わってない。感謝してるよ。お前にも、可也にも」
「後は僕と可也に任せて、友郎は少し眠るといい。一睡もしてないだろう」
「いいよ。元々俺が先輩から言われた写譜だったんだし。俺も頑張る」
「そう?」
 友郎がバタバタと騒がしい友人であることには違いない。人に物を頼む時は必死の形相で土下座だってするし、どうも人にそういう顔をされると放っておけない樹はなんだかんだと彼に振り回される。
 けれどまぁ。
 そういうことがあってこその、人間という気もする。
 樹は起き上がり隣の部屋とを遮っていた襖を開けた。可也はテーブルに向かい写譜ペンを走らせていたが、顔を上げ二人を睨みつけてきた。
「何話してたの」
 冷たい声で言う。
「何って。なんでも? ただちょっと疲れたなぁ、ってな。なぁ?」
「うん」
 何気無く頷いた樹の顔を可也が睨みつけてくる。
 その瞳の真意は分からなかったが、可也はいつもそうだった。友郎と話をする友人を誰彼かまわず今と同じような目で睨みつけている。きっと、嫉妬深いのだ。
 友郎と可也の二人は幼馴染であると聞いたことがある。詳しくは知らないが、少なくとも二人は同じ私学の高校出身だ。
 可也は小さな溜め息をついて「そう」と素っ気無く言った。
 また、写譜ペンを走らせる。
 友郎の顔を見ると、酷く気まずそうだった。樹はさして気にするタイプでもなかったが、可也のこの態度に腹が立つ友人が今まで居たのかも知れない。
 もしも嫉妬することが変な意味ではなく友郎を好きだという気持ちからならば、真っ先に考えるのは友郎を困らせないことではないのだろうか。
 樹はそう、思う。
 大切な人にはいつも笑っていて欲しいと思うのだ。
「ま。まぁ、な。しっかし暑いな!」
 友郎は取り繕うように言って、テーブルに座った。楽譜を自分の手元に手繰り寄せる。
 樹もその向かいに座り写譜を再開する。
「あ」
「どうしたの」
 友郎はこめかみを写譜ペンでトントンと叩きながら言った。
「暑いと言えば。この間さ。幸也居るじゃん。木下幸也。アイツ。幽霊ホテル行ったらしいぜ! 肝試しに」
「幽霊ホテル?」
「幸也?」
 樹と可也は同時に声を発していた。しかし樹の小さな呟きは可也のドスの聞いた低い声にかき消された。
 樹にだって分かる。
 友郎は話題の振り方を間違えてまた、可也を怒らせてしまったのだ。


―2―


「ハーン。今度のヤマはこれなんだ」
「ヤマ」
 言葉を繰り返してシュライン・エマがハッと笑った。
 雪森雛太は「だってヤマじゃん」と繰り返す。
 調査依頼書をテーブルに投げた。
「さっきまで寝起きの低血圧で酷い有様だったのに。この子ったら復活したのかしらね」
 言葉と共に雛太が枕代わりにと自宅から持ち出して来たクッションが投げつけられる。雛太はそれを両手でパンと受け取って、腹に抱えた。
「そりゃあぁなぁ。枕を抜かれたら、起きるしかないっしょ」
「びっくりするくらい喚いてたわ。足をバタつかせて。あんな様、幼稚園児だってしないんじゃないかしら」
 シュラインがまた笑う。
「俺は寝起きが悪いの」
 雛太は口の中でモゴモゴと言った。
「ここを寝床にするのは良いけれど、これからは起床、六時よ。嫌なら奥で洋輔と一緒に寝なさい」
「ヤだよ。アイツひっつくんだよ。暑いし」
「じゃあ六時」
 雛太ははーと溜め息をつく。寝起きのボサボサした髪を弄り倒しながら呟いた。
「で? 所長は?」
「出張」
「洋輔は?」
「さぁねぇ。サボリなんじゃないかしら」
「そうかぁ」
 胡坐の上に肘をつき、顔を乗せる。そのままブラインドの下りた窓を見た。外はどうやら快晴らしく、陽の光がここぞとばかりに差し込んでいる。
 窓の向こうから蝉の世話しない声が聞こえた。
 きっと外は今日も暑いだろう。
「ねぇ。姉御は今日はどーすんの」
「これの調査よ」
 シュラインが書類の束を持ち上げて上下に揺らした。その四隅をテーブルの上でトントンと叩き束ねた。
「さて。私はちょっと図書館まで出かけるけれど。貴方ここで留守番してる?」
 シュラインが立ち上がる。
「んー」
 雛太はどっちつかずの返事を返してソファに転がった。
「ねぇ。それって一人でやんの?」
「手伝ってくれるの?」
「そうだなぁ」
「どっちよ」
「うーん……手伝い。ますん」
「どっちよ」
 今度は苦笑交じりにシュラインが言った。


002


 結局、景石の位置が決まらずマウスを投げた。
 デスクの脇に置かれた時計を見る。短針が午前一時を差していた。小一時間ほどパソコン画面と格闘していたことになる。
 モーリス・ラジアルは椅子の背もたれに背を預け、ふっと溜め息をついた。
 腹の辺りで手を組み合わせ、ユラユラと椅子を左右に行き来させては画面に視線を投げる。
 リガーデンの図面を書き出したのは、ほんの暇潰しの気紛れからだった。
 けれどこんな二次元の空間を見ているのに嫌気がさして結局投げ出した。
 どうせ庭を前にすれば手が勝手に動き、何も考える暇なくデザインは決まって作品は出来上がっている。
 モーリスはブラインドが下りた窓の外に視線を馳せた。
 ふと思いつき椅子から立ち上がる。室内灯を消し、ブランドを上げて外の景色を見た。
 月は見えない。ここからはマンションの回りの闇と、そのもっと先、微かに煌びやかな夜景だけが見える。
 マンションの回りは、不安になってしまうほど暗かった。まるで自分が何かから隔たれているような錯覚に陥る。だけどその先の夜景。町の風景だ。東京の、殺伐とした。星の光を殺しながら光る街の夜景。
 瞳の中でそれは宝石のようにキラキラ輝き、美しいと人に錯覚させる。
 けれどモーリスは知っている。
 それをただ在るべき姿に変えてしまったら、残骸だけが残ることを。
 夜景を見ていたモーリスの背後で携帯が振動し、着信を知らせた。
 こんな時間に電話をかけてくる人物と言えば主人しか思い当たらない。そもそもモーリスの携帯番号を知っている人間は限られている。
 猫のように人の間を飛び回るモーリスを捕まえ独り占めしたいと思う人間が、今はまだ現れていないことの現われだろうか。
 彼等は美しいモーリスを真に独り占め出来るとは夢にも思っていない。
 謙虚なのか、プライドが高いのか。
 人に捕まりたいとは思わない猫科のモーリスだが、本気で自分を捕まえようと躍起になってくれる人間が居るならば見てみたい。猫の気紛れは。いつだって飼い主を惑わす為にあるのだから。
 電話を受けると、受話器の向こうから澄み切った声が聞こえてきた。
 リンスター財閥の総帥。人当たりの良さそうな風貌と虫も殺さぬような優しい微笑の奥に、それだけの財閥を抱える力量を秘めた人。
 時間があるなら今すぐ来て欲しいということだった。
 モーリスは自嘲気味に唇を歪めた。時間は全て、主人が左右するものなのに。
 電話を切り目を閉じた。主人の気配を辿り転移する。


―3―


 ガラスの自動ドアを潜ると、ヒンヤリとした冷たい空気がシュラインの首筋を覆った。余りの気温の変化に体がついて行かず、シュラインは思わずその身を竦める。
 汗に濡れた体に悪寒が走った。
 興信所の古いエアコンに慣れた体に、都立図書館の冷え具合は異様とも思えた。
 シュラインは小さく身震いしてから足を進める。
 ここに来たのはもちろん、今回の依頼に出て来たあの幽霊ホテルのことを調べる為だった。
 あの建物の存在自体や噂自体を知っていたとしても、その歴史や廃墟となった経歴などをシュラインは詳しく知らない。そこで図書館の膨大な資料の中からそれらに関する文献、記事をピックアップして貰う為、司書である綾和泉汐耶とは数日前に連絡を取り合っていた。今日はその検索結果を見にやって来た。
 噂は所詮噂である。
 しかし火のないところに煙は立たないとも言う。
 シュラインは形のある真実が知りたかった。
 汐耶は図書カウンターに座りパソコン画面を覗き込んでいた。
「綾和泉さん」
 シュラインが声をかけると、その隣の人間と一緒に汐耶が振り返った。小さく会釈する。シュラインも会釈を返した。汐耶は隣の女性に何事か囁いて、シュラインの元に近寄った。
「ごめんなさいね」
「いいんです。今日は休みでしたから」
 シュラインは小さく肩を竦める。
「もっと悪いわ」
「請求されていた建造物に関する新聞記事と、その歴史についてなどの情報の用意は出来ていますよ。こちらです」
 汐耶の後を歩きながらシュラインは頷いた。
「相変わらず仕事が早いわ」


―4―


 検索ボックスに幽霊ホテルという文字を打ち込んで検索ボタンを押した。
 案の定出て来たのは、夏場になると賑う怪談話のサイトばかりのようだった。ページ総数1444件。
 これを見たらいかに幽霊ホテルがあるか。皆がそういう類のものが好きか分かる気がする。
 そもそも今回の依頼とは全く関係ない地方の幽霊ホテルの話題が明らかにあるので、今回の依頼に上がっている幽霊ホテルがある場所と幽霊ホテルの文字を打ち込んで、雛太はもう一度検索ボタンを押した。
 検索結果が表示される。今度は103件に減った。
 1444件が103件。あの場所以外にも、幽霊ホテルは存在してたのだ。しかも、数多く。
 そのうち100件が怪談とは関係ない話なのだとしても、日本の中で少なくとも1000以上、誰かが幽霊ホテルという言葉を使っている。
 雛太は少しだけ、日本の広さを見た気がした。
 シュラインが出かけて行ったあと、この場で出来る調査をしようと前向きに考えた雛太は、草間のパソコンを使いネット検索を試みていた。
 とりあえずは検索結果が表示された画面を開いたまま、ソファから立ち上がりキッチンへ向かう。冷蔵庫からアイスコーヒーのペットボトルを取り出しコップに流し込んで砂糖とミルクをドバドバ入れた。
 所長のデスクの裏からラジオつきのモサイCDラジカセを取り出し、洋輔セレクトの洋楽集を大音量で流し始める。内容は主にヒップホップとアールビーだった。これしか聞かないというほど好きなわけでもないけれど、勢いがつく曲は嫌いじゃない。
 テーブルにコップを置いてから、雛太は飛び跳ねるようにしてソファに雪崩れ込み、胡坐をかいた。
「うし」
 気合いを入れてリンクを押す。
 そもそも幽霊ホテルの正式名称すら知らない雛太である。
 エレベーターボーイの噂なら知っているし、中には入らなかったが肝試しに行ったこともあるけれど、あくまで噂は噂として処理していたし、こんな機会でもなければあの噂の真実を確かめようとする日なんてこなかったかも知れない。
 そうしてふと思う。
 自分がいかに受け身で意味のない情報を鵜呑みにして生きているかなんてことを。
 リンクを一つずつ開いていく。一つ目は欲しい情報などは全くない、ただの日記サイトだった。幽霊ホテルの文字を探すのも面倒になるくらい長文の日記が書かれてある。
 そんなサイトがいくつもあり、五十件ほどのページを開いて閉じてと繰り返したところで、雛太は「あー」と呻いてソファに頭を預けた。
 半分ほどページを見ていって分かったことは、あの幽霊ホテルの正式名称がレノマンホテルであるということと、そのレノマンホテル取り壊しに関わっていた会社が潰れているらしいということだった。
 しかしもちろん、どれも噂の域を出ない情報である。
 雛太は短パンのポケットからクシャクシャになった煙草のソフトパッケージを出し、火をつけた。それを加えたまま空を煽る。
 何もしてないけれど、疲れた。むしろもしかしたら、何もしてないから疲れるのかも。
 雛太はふと思い立って携帯電話を取り出した。
 発信履歴の一番最初にある人物にコールする。電話の相手は誰でも良かった。気分転換だ。
 集中力があるのかないのかそんなことは知ったこっちゃないが、自分はもっとダイレクトなことにしか興味を示さないことは間違いない。やってすぐに結果が出るもの。ガッと勢いのあること。
「向かないんだよなぁ、こういうの。面白くねぇし」
 コールの合間に言って、膝をかいた。
 5コール。しかしそれにしても遅いではないか。雛太は少し苛々して眉を寄せた。
 自分は気分で電話に出ないが、人が電話に出ないとムカついてしまう。繋がりたい時に繋がるからこその携帯なのに。くそう。
 雛太は電話を切り、今度は着信履歴の一番最初にあった人物にコールした。
 洋輔はツーコールめで電話に出た。
「おう、おまえ今何してんの」
 ソファに転がって問いかける。洋輔は「言わない」と即答した。
「いやいや、言えよ」
「あのさ。それでさ。なんか最近お前、限と連絡取った?」
「え。なんで?」
「なんかさぁ。今日、限ンち行ってみたんよ。そしたらアイツ、なんか様子が変なんだよ」
「変……って、どんなふうに?」
「冷たい。クールだ」
「いやいやいやいやいや。今までも常にそんな感じだろー」
「違うんだよ! なんか違うの。えーっとなぁ。なんか……そう! 突っ込みに愛情がないんだよ」
「多分お前になんか常に愛情はないぞ。俺もだけど」
「あぁーん?」
 洋輔が電話の向こうで声を荒げる。眉を顰める顔がありありと思い浮かんで、雛太はプっと吹き出した。
「俺はこんなにお前らを愛してンのに!」
「あー、はいはい暑苦しい……でもそういえば。俺も今さっき電話したんだけどさ。アイツ電話受けなかったな」
「うっそ。ほら。やっぱりおかしい。休みなのに電話受けないなんて」
「常にあんま受けないだろー」
「お前が言い出したクセに」
「じゃあさぁ。コッチなんとかなったらとりあえずそっち行くわ」
「え。雛太今何してんの」
「エレベーターボーイの依頼の手伝い」
「そっち噛んでンのかよー」
「そもそもお前の仕事なんだけどね」
「でも。こっち来てもあんま意味ないかも。だってアイツ、集会行くとか何とか言って出てったし」
「集、会?」
 雛太は言葉を繰り返して小首を傾げた。意味は分からなかったが、変というものを放っておくのは良くないだろうと瞬時に判断する。
「とりあえず今、お前後追える? で。なんか進展あったら教えてくれよ」
 携帯電話に向かい、言った。


―5―


「レノマンホテルが建設されたのは、東京オリンピックが開催された1964年です。各国からの集客を見込み、一流ホテルに便乗し建設されたました。当時の需要はそれなりにあったらしいですが、1990年代初頭のバブル経済の崩壊を受け、そのホテルを経営していた会社が倒産。1992年には取り壊し作業に取り掛かられましたが、結局たらい回しにされただけで残骸は今も残っています」
 パソコン画面に表示された新聞記事の内容を素早く纏め上げ、汐耶が解説する。シュラインはメモを取りながらなるほどねと頷いた。
「じゃあ次はあのホテルで起きた事件や事故などの報告をお願いします」
 汐耶は頷き、マウスを操作して画面を切り替えた。
「あのホテルでの死亡者は二人居ます」
「まぁ。二人も」
「一つ目は自殺ですね。事故死とされています。四十歳代の男が屋上から飛び降りています。それからもう一つは……殺人事件です。十代の少年がエレベーター内で絞殺されています」
「十代ね。年代的に気になるわね」
「被害者氏名、高本彬。死亡当時十四歳、中学二年生。当時はそれなりに大きく取り上げられていたようですが、結局犯人は捕まっていません」
「捕まってない」
「それから」
 汐耶はゆっくりと椅子を回転させシュラインを振り返った。
「リンスター財閥がこの建物の調査に乗り出しているようです」
「リンスター財閥?」
「えぇ。今朝方、私にメールで草間興信所からと全く同じ要請が来てましたので」
「つまりは。この建造物に関する事件や事故の報告と、その歴史についての?」
「はい。それと+α」
「そうだったの」
 汐耶はパソコン画面に視線を戻した。
「傘下の会社がこの土地を買収するみたいですよ。いつまでもあのまま残骸を晒しておくのもどうかと思いますしね。リンスターに買われた方があの土地も幸せでしょう」
「ふぅん」
「ただ。曰くつきであることは間違いないので。向こうは向こうでその曰くを何とかしたいと思ってるのでしょう」
「肝試しの場所が一個減っちゃうわけね」
「調査には行かれるんですか」
 汐耶マウスを操作しながら問うてくる。シュラインは頷いた。
「行くわ。もちろん。私は根拠のない噂話は嫌いだから今は裏を固めているけれど。現場を見ることも大事だもの。幽霊の仕業にしろ生者の仕業にしろ、ね」
「生者……なるほど。そういう可能性もあるわけですか」
「あるわ。幽霊なんかよりもよっぽど。時に人は怖いものなのよ」


003


 目を開けると薄暗い闇の中に立っていた。
 レノマンホテル。通称幽霊ホテルの敷地内に転移したモーリスは、今現在自分がどの位置に立っているのかを見極めるため辺りを見回した。自分のすぐ横に建物の側面がある。目の前には雑草の生い茂った敷地が広がり、どうやら自分は建物の真横に移転したのだと知る。
 さきほど主人から、レノマンホテルに関する調査を命令された。財閥の傘下の会社を使い、この場所を買い取るのだと言う。
 この先何を建てるつもりなのかは知らないが、何にしても人間にはちと手に余る物件なのには違いない。
 足を踏み入れただけで感じる霊気と、図書館司書である綾和泉に調べて貰った結果のこの建物内であった二件の死亡事故。
 この物件を扱えるのは、人が持ち得ない能力が使えるリンスター財閥を置いて他にない。
 モーリスはもう一度瞳を閉じて、手っ取り早く全てを解決させる為にハルモニアマイスターの復元能力でこのホテルを元あった姿に変えようと試みた。幽霊もクソも何もかも。全てをあるべき姿に戻してしまえば、取り除くのも簡単というわけだ。
 しかし思わぬ邪魔が入った。
「よくぞお集まり頂きました」
 背後からキーンという音と共に、大音量の男の声が聞こえてくる。
 モーリスは目を見開いて、眉を寄せた。
 壁伝いにそっと近づきヒョッコリと顔を出した。建物と建物の間。ちょっとした広場となったそのスペースに、ライトが設置され数十人の人間が集まっていた。それは何の集まりか良く分からない。
 マイクを持ち喋っているのは、蜜柑箱ほどの台座の上に立った男。年齢などの様子は良く分からないが小柄な男だった。
 モーリスは溜め息をついた。
「新しい仲間を紹介しよう。壇成限くんだ」
 男がまたマイクで何やら喋っている。
 何にしても今日は調査ができないということだ。
 全く手間をかけさせてくれる。今すぐこの人間どもを全て檻に閉じ込めことを済ませてやりたいところだが、如何せん人間という生き物は口が煩い。
 それに手荒なことを主人も望まないだろう。
 モーリスはフンと息を吐き出すと、その場から身を翻した。


―6―


「どうして幸也となんか連絡取り合ってるの」
 可也は裏返った高い声で友郎を怒鳴りつけ、今まで自分が写譜していた譜面を引っ掴み投げつけた。
 それが友郎の顔面に命中する。友郎は投げつけられた譜面を手元にかき集め、溜め息をつく。
「ごめんな」
 可也にではなく、樹に言った。
 樹は面食らってしまいただ「うん」と頷く。
 金切り声を上げたり、そもそも声を荒げたりする人自体が余り周りに居ないので、そういうシーンはどうして良いか分からない。帰った方が良いのか、しかしこのまま友郎を置いて帰ってしまったら、友郎は明日隅田川に浮かんでいるのではないかとか。考え過ぎかも知れないがそういう気迫が今の可也にはある。
「別に幸也と連絡を取ってるわけじゃないよ。ただ偶然この間会ったからさ」
「偶然になんで会うんだよ!」
 今度は写譜ペンを投げつけた。
「だから偶然だって」
 友郎は苦笑して、写譜ペンを脇に置いた。
「ぼ。僕、帰ろうか?」
「帰りたい?」
 友郎はチラリと樹に視線をやる。その瞳から、助けて、と聞こえた気がした。
 樹は腰を浮かせようとした微妙な体制のまま動けなくなる。
「い」
 小さく頷いて生唾を飲み込んだ。
「居るよ」
 樹の言葉尻と重なるようにして、はーっと大きなため息が聞こえる。
 安堵の溜め息だろうかと樹は友郎を見た。
 友郎は俯いて、胡坐をかいた膝の辺りを手で打った。パチンと気持ちの良い音がする。
 暫くの沈黙の後、友郎は低い声で言った。
「実は。それで幸也と喋ったんだ」
 重大な病の告知でもするように、重々しく言う。
 それは言っても良いことなのだろうか。
 樹はどうして良いか分からず、眉を下げチラリと可也の顔を見やった。
 可也は額から滑らせた手で髪を掴み目に涙を溜めていた。歯を噛み締める音がする。
「あ。あいつ、なんだか様子がおかしかったしさ。そしたら耳が聞こえなくなったって」
「耳が聞こえない?」
 樹は思わず呟く。
 それはたった一言だったけれど、とても恐ろしいことに思えた。耳が聞こえない。自分がもしもそうなったら。樹はそんなことを真っ先に考えた。
「それがどうしたっていうんだ!」
 しかし吐き捨てるように可也が言う。
「耳が。聞こえないのはただ事じゃないよ。君も音楽家ならば、それがどんなに恐ろしいか分かるだろう?」
「そうなんだ。そうなんだよ」
 縋るような瞳で友郎が樹を見る。
「いや。あいつは音楽家じゃないけどさ。それにしたって、耳が聞こえないってさ……大したことじゃなかったら。俺だって心配しない。でも、耳が聞こえなくなったってさ。病院に行っても原因不明だって言われたらしいし。普通じゃないよ。ただ事じゃない。アイツは今。その音を取り戻すために、なんだったかな……草間だったか。とにかく興信所に調査依頼して貰ってるらしいんだ」
「草間興信所?」
 樹は驚いて声をあげる。気を抜いていただけに、草間の名前が出たことにはびっくりした。
 しかし友郎は樹の声の原因を違う意味にとったようで、取り繕うように「違うんだよ」と言った。
「違うんだ。そう、いや。俺もおかしいと思ったよ? なんで興信所なんだって。でもさ。さっき言った。肝試しで幽霊ホテルに行ってから調子おかしくなったって言うしさ。その興信所は、とにかくそういう方面に強いらしくて。俺も意味は全然分からないんだけど……だから。俺も何の足しにもならないかも知れないけど……協力してやろうと思うんだ。友達が困ってる時に協力してやらないなんて、駄目だろ? 助け合うのが友情だろ?」
 その通りだ、と樹は思った。
 人はいろんなところで支えあい生きているのだ。自分だって予備校時代に沢山の人に支えて貰ったり助けて貰ったりした。
「そういうことなら僕も協力するよ」
 樹が言うと、友郎がありがとうと頷いた。もしかしたら今日友郎は、このことを可也に切り出せなくて樹を呼んだのかも知れない。けれどむしろ、それで良かった。優しさだけでは生きていけないかも知れないけれど、優しさをなくしたら人は終わりだ。それを樹は、温かい肉親に囲まれて思い知っている。
「友達じゃないからだろ!」
 可也はその小さい体からは考えられないくらいの大声で喚いた。テーブルを拳で叩き、それだけでは収まらなかったのかテーブルをひっくり返した。
「なにが」
 勢い込んで可也が立ち上がる。
「なにが、心配だ! あんなもの、なくなればいい。愛してるを聞いた耳なんて、聞こえなくなってしまえばいい」
 荒い息を吐き出して、可也は脇に押しやられていた自分の鞄を引っ掴んだ。
「帰る」
 ガタガタと慌しく可也が部屋を出て行く。友郎は深いため息を吐いた。
「アイツは。勘違いしてるんだ」
 小さく、呟いた。
 人の温かさを知らない。可也の行動は正にそう見えた。
 樹はそんな可也を可哀想だ、と思った。


004


 フラフラとした足取りでマンションのエントランスを潜って行く限の背中を見た洋輔は、なんだなんだと小首を傾げた。
 一緒に酒でも飲もうかと、かの便利屋が居るコンビニで買物を済ませ限の自宅に遊びに遊びに来たところである。
 いつもなんだかノラリクラリとしている奴には違い無かったが、あんなにフラフラした足取りは見たことがない。
 もしかしたらもう、飲んでるのかも。
 洋輔は後を追い、エントランスに入り込んだ。限はエレベーターに乗り込もうとしている。
「おーい。限ぅ」
 背後から呼びかけた。しかしその問いには振り返らずに限は黙ってエレベーターに乗り込む。
「なんだよ。無視かよ。おーい!」
 常々相手にはされていない風情なので、これくらいは平気な洋輔である。
 スキップするようにエレベーターに近づき、しかし飛び乗ろうとしたところで扉が閉まった。
「え」
 窓から限の茶色い瞳が、何の感情もなく洋輔を見下ろしていた。
 なんて表情だ。
 あんな表情、見たことがない。常々鬱陶しそうな顔もするし、たまには本気で怒って近寄るな。とも言われるけれど、あんな冷たい目は見たことがない。
 本を読むと面白いよ、と貸してくれたり。
 口調はいつだってクールだが、真に優しいところのある男だったのに。
 なのに。
 窓から見えたあの顔が、頭を離れない。
「なんか……怒らせるようなこと……したかなぁ」
 洋輔は泣きそうな声で呟いて、その身を翻した。


―7―


 ドアを開けた途端涼しい空気が流れ込んで来て、シュラインはまた図書館に戻ってきてしまったのかと思った。
 しかしそこには見慣れたデスクがあり、見慣れた事務棚があり、見慣れた応接ソファがある。間違いない。草間興信所である。
「なんでこんなに冷えてるのよ」
「うん? だって姉御暑いだろーっと思って? クーラー一番低い気温にしておいたの」
 ソファに座った雛太が言う。シュラインは肩を落とした。
「電気代勿体からやめてね。お願い」
 溜め息をと一緒に吐き出して、部屋を横切りクーラーの温度を二十七度に戻した。
「寒い寒い」
 窓を開け、外の空気を入れる。
「何してンの。暑いじゃん」
「で。何してたのアンタの方は」
 シュラインは雛太の向かいに座った。雛太は頬杖をついたまま「調査に決まってんじゃん」と軽く答える。
 シュラインは肩を竦めた。
「本当かしら」
「エレベーターボーイの調査ですか」
「そうそう調査、え?」
「あら」
 シュラインは声の発された方を向く。そこに、モーリス・ラジアルが立っていた。
「来てたの」
「今、来ました」
 モーリスは胸元に手をあて、洒落た仕草でお辞儀する。
「びっくりしたーーーーーーー、なに」
「失礼しました。私、モーリス・ラジアルと申します。今回調査されている、レノマンホテルの件でお邪魔しました」
「リンスター総帥の右腕さんよ」
「何を仰いますか」
 モーリスが苦笑する。シュラインは微笑して「右腕さんよ」ともう一度繰り返した。
「聞いたわ。あの土地を買い取るんですって?」
「綾和泉さんからお聞きになったんですね」
「えぇ」
「ちょ。ちょっと待って。どうなってんの。何。なにが?」
「煩いわねぇ。アンタも草間興信所調査員の一員ならこれくらいで騒がないで適応しなさい」
「草間興信所で起こることは、だいたいいつも俺の想像の斜め上を行くんだよ!」
 シュラインは苦笑して雛太に手を掲げた。
「こちら、雪森雛太さんよ。うちに最近寝泊りしだしたから、いろいろ手伝って貰ってるの」
「ど。どうも」
「お目にかかれて光栄です。主人がいつもお世話になっております。実はリンスター財閥の傘下の会社があの土地を買い取ることになりまして、うちもその調査でレノマンホテルを調べておりました。草間興信所も別件で、この物件を調査されていると小耳に挟んだものですから」
「なるほど。っても、なんで入り口から入らないんだよ。びっくりこくじゃん」
「趣味です」
 モーリスは瞳を細めて優雅に微笑む。
「驚いた人の顔というのは、いつでも本当に面白い」
「悪趣味ね」
 シュラインは小さく首を振った。
「それで。今回の御用は?」
 シュラインが仕切り直すと、モーリスは育ちの良い猫のような仕草でソファに近寄った。
「草間興信所の皆様もあの建物内を探索されるのでしょうか」
「そりゃあまぁねぇ。事件は現場で起きてるからねぇ」
「でしたら、今夜にして頂けませんでしょうか。こちらとしてもあの土地を早く買い取って次の段階に移りたいものですから。今夜、あのホテルに関する曰くの全てを解き明かそうと思います」
「どうして今日なの」
 モーリスはニッコリと微笑んだ。
「あのホテルの空き地で集会が開かれていることはご存知ですか」
 そしてそう問うた。シュラインは小首を傾げる。
「集会?」
「集会!」
「何かの集まりってこと?」
「そうです。何の集まりかはハッキリしませんが数十人という人が集まっていることは確かです」
「なるほど。そんなに沢山の人が居るとやりにくいわね。何にしても」
「しかしながら今日はその集会が開かれません」
「その情報は確かなの」
「えぇ」
 モーリスは落ち着き払って頷いた。
「実は。数日前私はあのホテルの実地調査に向かいました。その時は草間興信所の方がこのホテルに関する依頼を行っているとは知らなかったもので。その時、その集団を見かけました。どうも超能力がどうとか言っていましたが。その集会の最後に、次は何時何時と言い合って別れておりました。したがって今日は集会はありません」
「それにしたって今日だなんて急だわ」
「こちらも。仕事ですので」
 モーリスは毅然と言って、その顔にとろけそうな微笑を浮かべる。
 しかしシュラインは知っている。この笑顔が食わせ物だということを。
「ですから調査をされるならば本日ご一緒にお願い致します」
「今日、ねぇ」
「宜しくお願い致します」
 モーリスが丁寧に頭を下げる。
「それでは」
 そしてその格好のまま、その場からふっと姿を消した。
「強引」
 シュラインは溜め息をと一緒に吐き出した。
「ねぇ?」
 向かいに座る雛太を見やる。しかし雛太はいつからか話を聞いてなかったようだ。指先を世話しなく動かしながら携帯電話を耳にあてている。
 頭の回転の速い彼のこと。何か、関係のある事柄を思いついたのかも知れない。
 暫くして相手が出たのだろうか、雛太は怒涛の勢いで喋り出した。
「おい! お前、ちゃんとやってる? それ、それ! 今回の依頼と関係あるかも知れないぞ」
 シュラインは眉を潜めてその会話に耳を傾ける。雛太の隣に座りなおし耳をくっつけた。
「やー。それなりに追ってるけんどさ。なに、どうしたんイキナリ」
 声からして電話の相手は洋輔のようだ。
「なんかさ! ちょっと繋がりかけてるよ。それ!」
 雛太が声を荒げた。


―8―


「なんかさ……樹を利用したみたいで悪かったな」
 沈黙を破って友郎が言った。
 樹は首を振る。
「助けたかったんだろう? 幸也さんという人を」
「あぁ。だって、友達だからさ」
 溜め息を滲ませるようにして友郎が言う。樹は「分かるよ」と頷いた。
「さっき」
 畳の上に散らばった譜面をかき集めながら、樹は言った。
「え?」
「さっき。君は勘違いしてるって言ったけど。どういうことか……聞いても良いかい?」
「俺と幸也のことを勘違いしてるんだ。アイツは」
「具体的には?」
 友郎はふっと口を噤む。
「言いたくないならいい。無理には聞かないよ。でもね。僕も君に協力すると言った以上は、ちゃんとしたいと思っているんだ」
「聞いたら。驚くさ。俺だって信じられないくらいなんだからさ。世の中にはいろんな人間が居るってことでさ」
「僕が何も知らないお坊ちゃまだって?」
「違うよ! そんなんじゃない」
「僕はそんなやわじゃない……つもり、だよ」
 ん、と小さく頷いて友郎はまた口を噤む。
「あの、さ」
「なに」
 友郎はテーブルの上に置かれた譜面に目を落とし、指でそれを弄びながら言った。
「俺とアイツが同じ高校出身だってのは言ったよな」
「うん」
「幸也も同じ高校なんだ。それからもう一人。達樹っていう奴とさ。いつも四人でつるんでたんだ。今幸也はその達樹と一緒の大学でさ。心霊研究会なんてサークルに所属して楽しくやってんだ」
「うん」
「でも高校時代……さ。なんだろうなぁ。男子校だったからかな。妙な噂も多くあってさ。男同士とか……そういうの」
 最後の方は声を潜めて友郎は言った。樹はそれでも「うん」と頷いてやる。
「俺に関して言えば一切そういうことはないし。他の奴らも絶対そういうことはないんだ。ただほら、男同士って楽しいだろ。そりゃ……彼女が欲しくないかって言われれば欲しいけどさ。アイツらと遊んでンのも悪くないし。大体俺、そんなモテる方でもないからさ。だからずっと一緒に居たんだ。そしたらそういう噂が立ってさ。それも何処をどう間違えたか俺と幸也でさ。俺らが愛してるなんて体育館裏で言い合ってた、とかさ。馬鹿みたいだろ? 馬鹿な話だよ。本当に。男でもさ閉鎖された中に居ると女みたいになる奴が出てくんだろって。噂言って喜んでさ。そういう女々しい奴が出てくんだろうって、俺思ったよ。相手にしなかったぜ。どうせ、根も葉もない噂だからさ。でも、そん時……可也は今みたいに怒ったんだ。きっと軽蔑したんだろうな。友情で四人がちゃんと繋がってるって思ってたのにさ。なんか……一種の裏切りみたいなさ。なんか、あんま上手く言えないけど」
「うん」
「それ以来、アイツはあんなになったんだ。俺はなんもしてないから俺は悪く無いって言えばそれまでな気もするけどさ。でも、アイツには信じて欲しいし、また昔みたいに四人で遊びたいじゃん? だから……」
 そこまで言って友郎は口を閉ざした。
 樹はただ小刻みに頷いた。友郎の言う言葉に共感する。分からないのは、可也の行動だった。
 彼は何故、そこまで激怒したのだろうか。彼は何故、今でもこんなに友郎を苦しめるのだろうか。
 しかしただ一つ分かることは、このまま友郎が幸也という青年に力を貸すことを、可也がヨシとしないことだ。
「分かった」
 樹は小さく呟いた。
「分かった……って?」
「こうしよう。僕が幸也さんと一緒に草間興信所に行くよ」
「え?」
「大丈夫。心配しないでくれ。実は僕、草間興信所は知っているんだ。所長のことも知っているし、そこで働いている人達も知っている。親戚がいろいろそこでお世話になっているからね。僕が驚いたのは君の口から草間興信所の名前が出たことなんだ。だから君は一先ず、可也を追いかけて行った方がいいと思う。僕には良く分からないけれど……可也もまた君を大事に思っていると言うことには違いないだろうから」
「大事に」
「現し方の違い……なんだと思う。本当に良く分からないから、迂闊なことは言えないけれど。執着するってことは少なくとも、嫌いだからではないと思うから。だから君は行ってやるべきだ。可也の所へ」
 樹は力を込めるように小さく頷いて、友郎を見た。


―9―


 テーブルに広げたA3寸の大きな紙に、雛太はペンを滑らせて言った。
「だからつまり。このビル、レノマンホテルはバブルで一緒に崩壊したと。んで、今は廃墟と。でぇ。あ、今はリンスター財閥が狙ってると」
 文字を書き、丸印で囲み、矢印を引っ張り込む。
「で。更に変な集会が開かれていて。そこに限が関係してるかも知んない。と」
「それはこの際、あんまり依頼と関係ないんじゃないかしらねぇ」
 シュラインは自分で入れた紅茶に口をつけながら横槍を入れた。
「エレベータでの殺害された少年の方がまだ、どっちかっていうと関係がある気がするわ。ただねぇ。その集会の内容にもよるのよねぇ。私、今回の事件には幽霊とか云々とかじゃなくて、人の力が加わってる感じがしてるから」
「人?」
「もちろんただの人じゃくて、催眠術とか超能力とかそういう関係。だってほら。エレベーターボーイの噂ってとっても有名でしょう。それを使って、まぁ便乗という言い方をしても良いけれど。木下幸也を襲う計画を誰かが立てたという可能性も、考えられるでしょう。何にしても生者、ね」
「なぁーんか話がややこしくなってきたな」
「ややこしく見えるのは、パズルのピースが出揃ってないからよ。あといくつかは分からないけれど、そう多くはないと思うわ。それが揃えば、これは完結。さっさと次の依頼に取り掛かれるわけよ」
 シュラインは背もたれに背を預け、溜め息を吐き出した。
「とにかく。今夜。今夜が勝負よ。そこで全てピースが出揃うか、っていうことね」
「依頼主のこの木下幸也なんだけどさ。話は聞けないの?」
「なぁーに言ってんの今更」
「だって俺は今日の朝噛んだトコでしょ。その依頼主の話とか全然分かってないんだよね。調査書に書いてあること以外は」
「事件当日、木下幸也は他一名、これは心霊研究会というサークルの仲間みたいだけれど、と一緒にあのホテルへ行き、エレベーターボーイに襲われ聴覚を失う。木下幸也のみ変調をきたした模様。耳は聞こえないけれど声は出るわ。ただ。自分の声が聞こえないという感覚に抵抗があって、喋らないみたいなの。木下幸也本人は、当日の調査を誰にも知られていない、といっているわ。サークルと言っても部員は彼とその時同行していた男性だけだしね。二人しか知らないはずだ、と。で。一応私もその同行者を疑ってみたんだけれど、全然駄目。木下幸也とその同行者は高校時代からの親友らしくて、幸也は絶対の信頼を彼に置いているわけ。当然ながら本人にも全く心当たりなし。あったら自分で解決するんだって。それから、これは余談だけれど、催眠術なんかには多分自分はかからないタイプだと思う、と言っていたわ。実際かかった経験がないから分からないけれど、だって」
「ふぅん……なるほど。そこまで調べてたんだ」
 それから雛太は何を思うのか、顎に手をあて口を噤んだ。
「関係ないかも……知れないけれど。限も催眠術なんかには絶対にかからないタイプだと思うんだ〜」
 シュラインは雛太が言わんとしていることを読み取って、うーんと頷いた。
「でも。洋輔の話では今さっき限くんは集会に行くと行って出かけたんでしょ。今日はその問題の集会は開かれないわ」
「もしこれが姉御の言うように、本当に生者の仕業だったならば。その集会をしているという団体は物凄く怪しいよ」
「でも。そんな話は出なかったわよ。木下君からは」
 シュラインは自分で言ってから「あぁ」っと感嘆の溜め息を漏らした。額に指をあて小さく首を振る。
 そうだ。話が出るはずがない。もしも本当に催眠術をかけられているのだとしたら。自分でそのことを言うはずがないのだ。
「あの建物がなくなればその謎の集団はどうするかしら」
「場所を変えるね。居場所を突き止めるのがもっと困難になる」
「でも、今日は問題の集会は開かれないって」
「幽霊ホテルではやらないってダケのことかも知んないじゃん。もしかしたら限はその団体とは関係ないかも知れないけどさ。でももしも、催眠術なんて屁でもないぜって感じの限ですらかかる強力な能力を持った奴がその集団に居るとしたら……今は他の手がかりないしさ。とりあえず追うしかないんじゃないか」
「でも。後を追うにしてももう出かけてしまってるんでしょう。あのアホが後をつけるなんて気に利いたことするなんて考えられないし」
 考える時の癖でついつい手を口元に置く。雛太がその手を握ってニッコリ微笑み顔を覗き込んで来た。
「なんつーかさぁ」
「なによ」
「俺って天才? あいつちゃんと後つけてる。俺様が命令したし」
「え。本当?」
 雛太は胸を張って得意げにゆっくり頷いた。
 シュラインはその頬を引っ掴んでぎゅーと引っ張った。
「イハ、イハイ」
「ごめんなさい。なんだか嬉しくてつい。アンタが余りに可愛い顔してるもんだから」
「意味わかんねー」
 雛太が頬をさすりながら文句を垂れる。シュラインはその体をギュッと抱きしめた。
「あー。可愛い可愛い……いいわ。今日からアンタを洋輔使いに任命してあげちゃう」
「いや。別にいらんし」


第二章

―1―


「うん。そう。あのコンビニと公園のある……イエスイエス。そこ歩いてんの。何処に向かってんのかは全然わかんね」
 額から汗が滑り落ちてくる。
 まだ走っている方がましかも知れないと思う炎天下の中、洋輔は前方を歩く限の背中を見つめながらシュラインに自分の居場所をアナウンスしていた。
 ゆっくり歩くことがこんなに苦痛とは知らなかった。
 汗で耳元にある携帯電話がヌルヌル滑る。
「動くっても普通に歩いてるだけだから。うんうん。うん。分かった。うん。そう。そんなこっから急に離れたりはしないと思うし。うんうん」
 つい先日前までは梅雨に入りましただなんだと言っていた天気予報が、もう今日には梅雨明けだと言い真夏日の記録を報道していた。どうにも暑くて仕事をする気になれなかったので、草間興信所から逃げ出したのだが結局今自分は何をしているかといえば、働いている。
 ただ単に友人の心配をしただけだったのに。
「俺って。結局なんだかんだ言って草間興信所に戻ってないか」
 電話を切った後、洋輔はポツリと呟いた。
 ポケットに携帯電話を捻りこむ。とにかく今は、目の前の背中を追うことに集中した。


―2―


 ドアが開いたので、雛太はシュラインが忘れ物でもしたのかと思った。
 しかしそこに立っていたのは、見知らぬ男二人だった。
 一人はサラサラとした黒い髪の長身の男だ。前髪に天然なのかわざとなのか、銀色のメッシュが入った目を見張るばかりの美青年である。しかしそれを嫌味に見せないのは生まれたての子犬のような雰囲気だ。繊細で純粋。この先もこの後も、決して主人に噛み付いたりしないような賢そうな子犬だ。
 もう一人は神経質そうな顔をしたきつい目をした男。目は決して細くはないけれど、アーモンド形の目は少々釣りあがっており猫を連想させた。
 雛太は無類の猫好きであるが、人間でも猫っぽい奴が好きかというとそうではない。何せ自分がきっと、どちっかと言えば猫科だからだ。
 付き合うならネズミだとか全く関係ないところで爬虫類だとか。そういうのがいい。
 子犬の彼が口を開いた。
「すみません。僕の名前は葛城樹と言いますが。シュライン女史か草間所長はいらっしゃいますでしょうか」
「あー。すみません。今出かけてます……依頼ですか」
「貴方は」
「あー。なんだろう……アルバイト、です」
 微妙に。
 雛太は心の中だけで付け足して、立ち上がり二人を促した。応接セットのソファに座らせて、自分も向かいに座る。
「あの。今日はどういったご用件で?」
 自分のセリフが妙にはまった気がして、雛太は少しだけ嬉しくなった。
 俺ってば。営業向き?
「彼の名前は木下幸也さんといいまして、じ」
「あ!」
 雛太は手をパンと叩いて樹の言葉を遮った。
「あの。エレベーターボーイの」
「あ。はい」
 樹の顔がパッと明るくなる。そのシュークリームのような笑顔に向かい雛太はうんうんと頷いた。
「実は今、俺もその依頼にかんで……あ、お手伝いしてるんですよ」
「そうだったんですか」
 樹は頷いて、隣に座る猫に微笑みかけた。


―3―


 トントンと肩を叩かれて、洋輔は振り返った。
 そこにはシュラインと、ショートカットの髪の。
 洋輔は眉を潜めた。
「え。女で良いんだよね」
「アンタってのっけからそういう失礼とかぶちかましてくれるわよね」
「いいんです。なれてますから」
 女性は抑揚のない声で言って会話をバッサリと切った。
 夏場だというのにそこに立つ二人の女性は、パンツルックを余りに涼しげに着こなし嫌味にも見えた。
 モデル張りの長身に、スレンダーな体を持つ二人である。二人に囲まれたら、身長がめちゃくちゃ高いわけでもない洋輔はたちまち霞んでしまう。
「彼女の名前は、綾和泉汐耶さんよ」
 汐耶の会釈に洋輔は小さく会釈を返した。
「草間の粗大ゴミ。アホバイトの久坂洋輔です」
 ドラマで見た女優に似ている、と思った。めちゃくちゃ好みだ。
 好きですと言ったら問答無用で殴り倒してくれそうなところがとっても良い。
 俺が走り回ったら、もう何やってんの。この馬鹿、としかりつけてくれそうで、ゴネテも相手にしなさそうで、けれどあきれ果てながらも無表情に後についていてくれそうなところがとっても良い。そういえばシュラインを始めて見た時も、同じ感を抱いた。
 そんな所を見ているのかと怒られそうだが、ペタンコの下っ腹ときゅっと締まった腰元がまた堪らなく良かった。それを抱き寄せたらまた柔らかかったりして。
 なんてな。
 やっぱり付き合うなら女が良いに決まってンだよ。
 洋輔はふと、ここ数ヶ月の災難を思い出してしまい眉を潜めた。
「ニヤニヤしてるかと思ったら、急に難しい顔して。気味悪い」
「思ったことが顔に出るのは専売特許」
 洋輔を見てシュラインは肩を竦める。
「で。限くんは何処に居るのよ」
「前、歩いて……あれ?」
 洋輔は前方を振り返る。そこに、限の姿は無かった。
 何事だ、と目を見開く。
 もしかして、消え、た?
「あのビルに入りました。後を追いましょう」
「そうね。馬鹿は放っておいて」
 二人が歩き出す。
 なんだよ! 意地悪!
 洋輔は待って待ってと後を追った。


―3―


 昔、動物園で一度だけ見たチーターの子供を思い出していた。
 小さい体ながらもやはり野獣だからか、チータの子供はかなりのヤンチャ坊主で、その爪を色んな場所に立てては飼育員を困らせていた。しかしその柔らかく潰れてしまいそうな顔を両手でそっと包むと、微かな声を漏らし喉をゴロゴロと鳴らした。
 どうしてそんな近くでそれを見たのか、記憶は定かではない。体験学習だったのかも知れないし、たぶんそうだろう。そんなことでもなければ、チーターの子供を見る機会なんてそうそうないから。
 幸也は音のない世界の中で、そんなチーターの子供に良く似たその彼が、ただパクパクと口を動かす仕草だけを見つめていた。
 彼の名前は雪森雛太というらしかった。
 紙にマジックで書かれた字は大きく読みやすく、幸也は小さな体の人ほど大きな文字を書くなんて言葉をふと思い出した。
 誰に聞いた言葉だっただろうか。
 雛太は今、自分の隣に座る樹と何やら会話を交わしている。
 友郎の友達だとは信じられないほど、美しい顔をした人だ。しかし信じられなくても音大なんて洒落た場所に通っている友郎だから、彼と知り合うことも分かる気がする。クラシック。貴族の音楽。
 彼には正に、それが似合う。
 今回、自分を助けてくれると言った友郎に代わり樹が自分を助けてくれるのだという。
 たぶん、可也にでも怒鳴りつけられたんだろうな、と思った。
 樹は決してそんなことを言わなかったが、間違いないだろう。
 目だけをしっかり前に向け頭の中でいろんな事を考えていた幸也の顔を、雛太がふと見てきた。
 視線がぶつかる。
「どうかしました?」
 紙に書かれた文字が差し出されて、幸也は慌てて首を振った。
 余りにジロジロ見すぎてしまったらしい。自分が見ていると意識してなくても、彼は見られてると感じたはずだ。聴覚を失ってからというもの、幸也は目を開いたままボーっとしてしまうことが多くなった。
 音が聞こえない世界の中では、自分の心の声だけが全てになってしまうから。
 幸也は苦笑して頭をかいた。「すみません」と紙に書き返した。
 また会話に戻った二人は、微笑んだり頷いたりしながら何事かを進めているようだった。
 ふと、雛太の体が跳ねて壁際に顔を向けた。
 樹を見やると彼も壁に顔を向け、笑顔を作っている。
 何事かと顔を向けると、そこにピッチリとスーツを着こなした美しい顔の青年が立っていた。
 口を余り動かさず何事かを言い、胸に手をあて会釈している。
 幸也は驚きに目を見開いた。何事か、と思った。
 けれど自分の驚きに加担してくれるものは何もない。心臓の鼓動でさえ、鳴っているのか鳴っていないのか分からない状態だった。
 何より驚くべきなのは、自分のこの状態なのだ。吃驚はすぐに引っ込んだ。幸也はすぐにその美しい人を観察した。
 彼は正に、高価な猫を連想させた。
 取立て目が大きいわけでもなければ、その顔が猫に似ている。ということでもなかった。しかしその妖艶さが正に人を魅了することを知った猫のようだ。
 頭の先からつま先までが余りに整っており、それはもう何処か作り物めいていて「これは蝋人形です」と言われれば、そうか。と納得出来そうな気がした。
「モーリス・ラジアルさんです。今回の調査に彼も同行します」
 紙に走り書きされた文字を読んで幸也はおずおずと頷いた。


―4―


 エレベーターに乗り込もうとした洋輔の襟首を引っ掴み、シュラインはその頭を叩いてやった。
「何考えてるのよ!」
「え。いや、後を追おうと思って」
「アンタって本当。救いようの無い馬鹿ね!」
「なんだよいきなりぃぃ」
「エレベーターは危険です。このままここに閉じ込められたらということも考えられますし、これが一方通行の機械であることも忘れてはいけません。こういう場合、階段で行くのが妥当でしょう」
 抑揚の無い声で汐耶が言って、階段を指差す。
 シュラインも頷いた。洋輔が「はいはい」と肩を竦める。
「で。さぁ。なんで今回、こういうことになったんさ。幽霊ホテルの探検に行くんじゃなかったんか」
 エントランスを横切りながら、洋輔が呟いた。
「女って。良くも悪くも現実主義なのよねぇ。もちろん、夢見るなんてこともあるけれど。裏づけが欲しい、と思ってしまうものなの。何っていうのかしら。行動の伴わない好きを言われても嬉しく無いみたいな」
「意味がわからん」
「ただ単に、幽霊のせいだ! と言われても納得出来ない。ってことよ」
「汐耶ちゃんも?」
 チャン付けされたことが癪に障ったのか、汐耶は無表情に洋輔を見やった後「確かにそういう面はあります。事実は事実として受け止めますが、裏付けのないことは余り好みません」と素っ気無く言った。
 洋輔が考え深げに「ふぅん」と頷く。
 エントランスを抜け蛍光灯の冷たい光が射す階段の踊り場に出た。
 階段を昇ろうとしたところで、後に続いている洋輔の頭を掴み押しやってやる。
「え。なに」
 洋輔が面食らったように後退る。
「アンタはお留守番」
「はぁあああああああ?」
「アンタが来ると余計な仕事が増えるわ。それにここに誰かが残って見張ってないといけないしね。お願いします」
 完結に言い残してシュラインは洋輔に背を向けた。



―5―


「感じますね」
 樹が言うと、その隣でモーリスが黙って頷いた。
 霊感というものがない雛太は何かを感じることは出来なかったが、彼等が言うのだから何かが居るというのは間違いないのだろう。
 雛太は今、あの幽霊ホテルに居た。
 陽はまだ暮れてはいないが、やはりそれでも薄気味悪い。以前この場所に友人と肝試しに来た時も、結局中に入らず帰ってしまった。その時は何よりも友人が嫌だとゴネたからだが、今この場所に立ってみてあの時入らないで良かったのかも知れない、と思う。
 真夏なのにそこには冷たい空気が取り巻いていた。
 雛太はポケットから取り出した携帯電話に文字を打ち込み幸也に見せた。
「本当に居るみたい。幽霊」
 幸也は黙って頷く。携帯を打ち込み返事を返してきた。
「僕は見たから」
「だよな」
「それでは。始めます」
 モーリスが言った。雛太は携帯からそちらに顔を向けて小さく頷く。
 彼はレノマンホテルを復元させると言った。しかし具体的に何が始まるのか良く分からない。
 モーリスは腹の辺りで手を組み合わせ深呼吸を二度ほど繰り返した。その体から、水色の光がぱーっと放たれる。空の青と溶け込んで、それは幻想的な美しさであった。
 モーリスの回りを包み込んでいたその光は、ゆらゆらと揺れながら前方に建つレノマンホテルの残骸へ伸びて行きそれらを包み込む。
 バッと眩しい光が一瞬にして弾け、思わず雛太は目を覆った。
 次に目を開けた時。
 そこにレノマンホテルが、あった。
 驚きに目を見張る雛太の隣でドンという音がする。何事かと振り向くと、幸也が同様に目を見開いて尻餅をついていた。
 刺激が強すぎたんだな、と思う。
 超能力やなんだが身近にある雛太でも正直驚いたのだから、ただの人である幸也にとっては信じられぬものを見た気なのだろう。
 思わず苦笑が漏れる。
 ここで待ってな。
 雛太は携帯にそう文字を打ち込んで、幸也に見せた。


―6―


「なんだよ。結局俺はいつもこんなんかよ」
 洋輔は地面の石を足の裏でズリズリと擦り、呟いた。
 太陽が嘲笑うかのように、頭を焦がす。暑かった。
「だいたい。俺が心配したんじゃん。俺が心配したんじゃんか! 限のことをさ!」
 ビルの前に座り込み文句を言った。
 けれどそれは虚しく響いた。
 誰も何も言ってくれない。入り組んだ場所に立つ建物だけに、人通りも余りない。
「ま。いっけどさぁあ」
 踏ん反り返って溜め息を吐き出した。
 その時だった。洋輔の視界に歩いてくる二人の男の姿が見えたのは。
「なーんすか。あれは」
 ぼんやりとそれに視線を注ぐ。
 前方を歩く小柄な男は正に早歩きといったふうで、顔を顰めていた。その後を、気弱そうな長身の男が追っている。
 長身の男は小柄な男の肩を掴んでは振り払われている。何だか険悪なムードだ。
「こんな所になんの用があるんだよ!」
「煩い。触るな!」
 時折そんな荒い声が聞こえる。
「ケンカ、にしてはなんかな、微妙」
 洋輔は膝の上で頬杖をつきそれを観察した。


―7―


 中に入ると一際強い霊気を感じた。
 それは悪臭のように空を漂い、けれど匂いの発信源が必ずあるように霊気にも必ず発信源がある。それを注意深く辿って行けば、その元に辿り着ける。
 モーリスの能力によって蘇ったレノマンホテルの内部は、頭上にあるシャンデリアの光で黄金色に染まっていた。
 レノマンホテルがまだ全盛期だったその時代を、そっくりそのまま再現し目の前に突き出されている。行きゆく人々は半透明で、それはどういった現象でそういうことになるのかは良く分からなかったが、彼等に自分達の姿は見えていないようだった。
 樹は思わず感嘆の溜め息を漏らす。
「なーんか。時代の流れみたいなん感じる」
 隣でも雛太がそんなことを呟いていた。
 霊気は西の方角から強く発されていた。モーリスもどうやらそのことに気付いているらしく、黙ってそっちの方角へ歩いて行く。
 ホールを抜けたところに、エレベーターはあった。
 霊気は更に強まって、敏感な樹は頭がグラグラするのを感じる。強い念に当てられて、酔ってしまいそうだった。
「ここですね」
 モーリスが抑揚のない声で言う。樹は頷いた。
「でも、これ。どうやって入るンだ」
 雛太が柱に取り付けられた丸いボタンを押し込んだ。何度押してもエレベーターは動かず、扉も開かない。
 モーリスが黙って前に出て、扉に両手をつけた。
 強引に開く。
「そういうの……アリなんだ」
 中には、十代くらいの青白い顔をした少年が焦点の合わない目をして立っていた。
 樹はその彼の顔を覗きこむ。
「あの」
 呼びかけにも彼は動かなかった。彼はまるで自らの全てに蓋をしたように、何の反応も示さなかった。
 これでは埒があかない。
 モーリスが一歩前に出て、その腕を引っ掴んだ。
「えぇ。そ、それはアリ?」
 しかし彼は酷く強い力でそこに縛りつけられているようでピクリとも動かない。モーリスは人を食ったような微笑を浮かべて小さく頷いた。
 胸元からメスを取り出す。手術などに使われる刃物のメスである。更に胸元から長い紐状の物を取り出した。鞭だ。
 あの胸元はどうなっているのだろう。
 全然そんな場合ではなかったが、樹はそんなことを少しだけ考えてしまった。
「そ。それ。それどうすんだよ」
 モーリスはただ雛太に微笑を返し、鞭を一振りした。地面に叩きつけられてピシッと音がする。
「黙って見ていて頂ければ」
 鞭を振りかざすとその先を少年に向かい投げつけた。クルクルと体に巻きつく。それをグイッと引っ張りながら、メスで彼を繋ぐ空間を割いた。
 パンと光が弾けて少年の足が一歩。動く。
 そのまま少年をエレベーターから引き摺り出したモーリスは、メスを胸元に戻し自分の真横に手を翳した。
 空間がグニャリと歪んだかと思うと、そこに黄色の折が現れた。
「おー」
 雛太がパチパチと拍手する。
 モーリスは鞭に巻かれた少年を、檻の中に放り込んだ。
「さて。どうしてあげましょう」
 モーリスが鞭を手に持ちゆったりと微笑む。
 その瞬間。少年は格子を両手で掴んだ。鬼のように歪んだ顔で唸り声を上げる。
「出して。出せ! ここから出せ!」
 それまで全てに蓋をしていたように見えた彼の顔に、どっと感情の全てが溢れ出て来た。
 青白い顔がポウっと赤みづく。幽霊なのに、それはとても生きている人間のように見えた。
「出せ! 行かなきゃ。行かなきゃ駄目なんだ。彼、彼のところ。僕は行かなきゃいけないんだ。出せ。出せぇええええええええええ」
 彼の絶叫と共に、樹の頭の中で何かがパンと弾けた。
 彼の念が余りに強い為か交流だけに留まらず、その記憶の一部が樹の中に流れ込んで来る。
 音が聞こえる。何かのメロディ。あぁ。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ。
 第二十八番。K.304。
 彼もその曲に強い想い入れがあったのだろうか。今、樹と彼はシンクロし同じ記憶を共有している。
 口元から音が溢れ出てきた。体が感じるままに樹はそのメロディを声で演奏する。

 早く行かなきゃ。
 誰の元に。
 愛する人と約束したんだ。僕らの恋路は誰にも邪魔はさせない、と。
 駆け落ちするはずだった。二人はそうして永遠に結ばれるはずだった。
 なのに何故僕はここに居る。なのに僕は延々どうしてこんな場所に居る。
 先生どうか。絶望しないで。僕は必ず行くから。どうか必ず。最上階のあの部屋で。
 また、僕のバイオリンを聞いて欲しい。そしてまた、下手くそだって僕を叱って。
 行くから。必ず行くから。嘘じゃない。僕は貴方以外の何かなんて選ばない。
 だからどうか。僕をあの部屋へ……
 
 樹の頬を涙が伝う。
 どうしてこんなにも悲しいのだろうか。
 どうしてこんなにも。
 悲しい恋をしたのだろうか。

 彼はもう死んでいるんだ。
 君ももう、死んでいるんだ。
 もしかしたらあの時飛び降りた男性は。

 次に樹の口をついて出て来たのは、フォーレのレクイエムだった。
 様々にあるレクイエムの中でも、神の救いに対して確信を失わないフォーレの優しく明朗なこの曲調が、彼を救ってくれれば良いと願いを込めた。



「大丈夫?」
 気がつくと、雛太が自分の顔を覗き込んでいた。
 樹はゆっくりと体を起こし、頭を振る。
「中々の美声でした。今度はサロンでお聞きしたい」
 モーリスがゆったりと微笑む。回りを見渡すと、そこにはもうレノマンホテルはなくただの残骸が広がっているだけだった。
「あの……幸也、さんは」
「ここに居る」
「音は?」
 樹の短い問いに、雛太は黙って首を振った。
「どうして元に戻らないんでしょうか」
 勢い込んで樹が言うと、モーリスが例によって人を食ったような微笑を浮かべる。
「幽霊が原因じゃないからでしょうね」
「うわ。なにそれ、嫌味?」
「霊は居たけど、悪さはしないってこと、でしょうか」
「霊と見れば悪者怖いものと決め付ける、人の概念を信じた結果がこれだということですよ」
「じゃあ。どうすれば」
 その時、雛太の携帯がけたたましい音で鳴り出した。
 全員がそこを見やるなか、モーリスだけがつっと一礼する。
「それでは。任務が完了致しましたので、私はこれで」


―8―


 エレベーターが止まったのは五階だった。
 階段を昇りきるとそのフロアには銀色のプレートが掲げられたその部屋しかなかった。
「つまりはここに入ったってことよね」
 踊り場からヒョッコリと顔を出して、その部屋を観察する。
「どうします?」
 汐耶が言った。シュラインはそうねぇ、と呟いてポケットから携帯電話を取り出した。
 雛太の携帯にメールを打つ。
 自分の居場所と現状を伝え、携帯を閉じた。
「中に、何があるかしら」
「どうでしょう」
「もしもの時は闘える?」
 汐耶は眼鏡を取り、唇を吊り上げた。
「それなりには」
 シュラインは頷き同じように唇を吊り上げた。
「行きましょう」


―9―


 建物の前までやってきた男性二人は、とうとうそこで大喧嘩をし始めた。
 小柄な男が長身の男を殴りつけたのである。目にいっぱいの涙を溜めて。
 洋輔はすっかり観客となり、それをぼんやり見た。
 人を前にして良くやれる。とは少し思ったが、面白いのでじっとしていることにした。まさか置物とは思ってくれないかも知れないが、今丁度二人は二人の世界に入り込んでいるし邪魔をするのも悪いだろう。
 キャンキャンとスピッツのように吼えて、小柄な男がまた長身をひっぱたく。
 何だか喧嘩というよりは、駄々を捏ねている子供とそれをあやしている大人。にも見えなくはない。
「だからさ。なんでこんな所に来たんだって聞いてるだけじゃないか」
「ここに達樹の兄貴が居るからだ!」
「た。達樹? な、なんでその名前が」
 長身の男はまた振り上げられた小柄な男の腕を、今度はシッカリと握り締めた。
「達樹が……何の関係があるんだ」
 今までに無く真剣な声で言った。


―10―


 扉を開くと、奥まった場所にあるデスクに座った男と限が同時に振り返った。
 シュラインが目配せしてくる。汐耶は素早く頷いて、だっと中に入り込んだ。
 デスクに座っていた男が声を裏返らせ「な。なんだ!」と喚いた。余りに典型的な反応過ぎて、シュラインがふっと笑っている。表情にこそ出さなかったが、汐耶も苦笑したい気分だった。
 これで奥から手下でも出て来たら完璧ね。
 シュラインが勢い良く男に飛び掛る。汐耶は汐耶で限の方に近寄った。
 そしてその顔を見た瞬間、この男は封じられているのだということに気付く。
 何を、と言えば聞くことを。
 耳が聞こえない云々の話ではない。要するに外部からの接続が不能になった状態だ。壁を作り、周りを遮断している状態。
 それは聞くことを封じられているのと等しい状態。
 汐耶は試しにその横っ面を思いっきりひっぱたいた。パーンと気持ちの良い音が鳴り、少々自己主張のないけれど良くみれば丹精なその顔が横に飛ぶ。
 しかし何の反応もない。
 彼はただまた色の無い瞳で汐耶を見た。
 汐耶は人差し指を突き出し、その額をつんと押した。そのまま鼻筋、唇、首、胸、腹と指を下ろして行く。
「今から封印を破ります」
 瞳を細めて、男の方を見た。
「何をするんだぁ、モゴ」
 絶叫する男の口を、シュラインがふふふと笑いながら塞いだ。


―11―


 蹲る洋輔の姿を見つけて、雛太は小走りに駆け寄った。
「おう。何してんの」
「レフリー」
 頬杖をついたまま、洋輔がノンビリと答える。雛太は「はぁ?」と小首を傾げた。
「あれは?」
「赤コーナー。駄々っ子のダダさーん。青コーナー大人さーん」
「なにが。ねぇ、何が」
「可也! 友郎!」
 樹と幸也がバタバタと走り寄ってくる。
 その慌てた声に雛太は「知り合いか」と小さく呟いた。
「樹……幸也! どうしてここに」
 長身の男が振り返る。その頬に、小柄な男のパンチがヒットした。
「な。なにをしているんだ」
 樹が慌てて二人の間に入る。
 小柄な男はそこでううううと声を漏らし、その場にストンと座り込んだ。
「達樹が全部悪いんだ。あいつが。あいつが。言い出したんだ! 幸也が余りに一人で生きていくって顔をするから。俺がずっと傍についているのに、知らん顔をするからだって。あいつが……達樹が。そう言ったんだ。あの日。あの幽霊ホテルに探索に行くことになった日。達樹は兄貴に頼んで、耳を聞こえなくして貰うと言った。全く偽の記憶を植え付けることは出来ないからと、あの日を選んだんだ。俺に相談を持ちかけて来た時も、俺は止めなかった。そうなればいいって思ってたから。そうすれば。お前はもう、幸也の心配をしないだろうって。あいつが黙ってればその知らせを聞くことはない。もう、もうお前は幸也を見ない。連絡も取り合わない。そう。そう思ったんだ! でも違う。お前はやっぱり幸也の心配をした。偶然逢っただと? そんな偶然あってたまるか! なんでこんな時に限って偶然逢うんだ! なんだよ。いつまでたっても達郎は俺を見てくれないじゃないか! だからあいつの耳を元に戻して貰うんだよ! お前……お前に心配して貰ってるアイツなんか。あいつなんか……」
 雛太は声には出さず「うわー」と口を動かした。
 隣では洋輔が同じような顔をしてそこに見入っている。
 泣き崩れた小柄な男は、長身の男によって抱え起こされた。
 これでいよいよ終わりかな。と思った次の瞬間。
 パーンと長身の男が小柄な男の頬を引っ叩いた。
「いい加減にしろ」
 まるで子供をあやすように、長身の男は声を荒げた。


―12―


 カッと目の前が白く弾けた。
 目を見開く。
 限は状態が飲み込めず、目をパチクリさせた。
 瞬間。ヒュッと何かが飛んでくる気配がする。
 咄嗟に上半身を逸らし、それをよけた。
「完了ですね」
 ショートカットの女性が目の前で言った。


第三章



 ガラス製の引き戸が開いて一人の男が入って来た。
 モップで集めた店内の埃が、男と共に入り込んできた熱風にあてられ舞い上がり散らばっていく。限は溜め息と共におはよう御座いますを吐き出した。
 午前九時五十何分。きっとまだ十時にはなっていない。
 開店前である。
 なんと珍しいことだろう。
 店に来ることすら珍しい店長だったが、更に今日は開店前である。今度はなんだ、と聊かの批難を込めて限はチラリと店長の顔を見た。
 つい先日。この男はインチキ臭さ丸出しの変な超能力者の会にハマって、オメオメと自分の店の居場所を教えアルバイトの限にまで迷惑をかけた。
 その超能力の会の会長は、まぁそれなりに能力がある男には違いなかったのだろうが能力の使い方をことごとく間違えていたのだと思う。
 人の為に使えとは言わないが、自分の私利私欲、ましてや世界制覇の為に使うなどとはチャンチャラオカシイ。
 魔王はいつだって勇者に倒されるし、のび太くんはいつだって最後には泣いている。
 もちろん。何かしらの情報があれば自分だって身構えることが出来ただろうが、不意をつかれてスッカリ策にハマってしまい情けないがここ数日間の記憶がすっぽり抜けている。
 気がつけばなんだかんだと、誰かに抱きしめられていた。
「あの〜。壇。壇成く」
「なんですか」
「やめ。やめたりしないでね」
「分かりません」
 限は冷たく言ってモップをかけた。
 もちろん、辞めるつもりなどは毛頭ない。ここでのバイトは自由が利くし、案外嫌いじゃない。
 でもそれくらいの意地悪は許されても良い気がした。
「た。頼むよ〜。君はとても優秀だし……君にやめられたらこの店はとっても困るんだよ」
「僕もここ数日間。とっても困りました」
 洋輔はもうあんなことがないようにと泊まり込んでくるし。
「いや。悪かった。本当に悪かったよ。な。ほら。夏休みもババーンととってさ。リフレッシュしてくれていいからさ。そしたらまたちゃんと戻ってきてくれよ〜。頼むよ〜」
 モップをかけて歩く限に店長がウロウロとついて回る。けれどいちいち鬱陶しいですというのも億劫で、限は黙々と散らばった埃をモップの下に引いていく。
 目ぼしい埃を全て取り終え、最後に店の外へ吐き出そうと入り口のドアを大きく開けた。
 暑い。
「夏休み。本当にくれますか」
「もちろんだよ!」
 店長がニコニコと言った。
 蝉がミンミンと鳴いている。
 夏休み。悪く無い。読みたい本も溜まっていたし、数日間ノンビリできるなんて素晴らしいじゃないか。
 限はほんの少しだけ唇を吊り上げた。








END









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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号2254 /雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた)/男性/23歳/大学生】
【整理番号3171 /壇成・限 (だんじょう・かぎる)/男性/25歳/フリーター】
【整理番号2318 /モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】
【整理番号0086 /シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号1985 /葛城・樹 (かつらぎ・しげる)/男性/18歳/音大生】
【整理番号1449 /綾和泉・汐耶 (あやいずみ・せきや)/女性/23歳/都立図書館司書】


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。
 エレベーターボーイにご参加頂き有難う御座いました。
 執筆者下田マサルで御座います。

 依頼を解決する道のりで、皆様の個性が出ればと思い書かせて頂きました。
 ご購入下さった皆様と素晴らしいプレイング達に感謝致します。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                       感謝△合掌  下田マサル