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狙われた瞳2 ──それは天使の黒い翼──
盛夏をしめす積乱雲が東京の空に浮かぶ。
「うぅーん」
水鏡千剣破が、大きく伸びをした。
風になびく黒い髪。
いつもは濁っている空も、昨夜からの風が光化学スモッグを吹きちらし、成層圏の色を鮮やかにきわだたせている。
千剣破と左目と同じ色に。
あれから、すこしの時間が流れた。
季節は移り街は夏の装いだ。
だが、あの時の恐怖の記憶は、完全に払拭できたわけではなかった。
いまだに夢裏に自分の叫びで飛び起きることがある。
それほどまでに怖ろしく、苦い初陣だった。
「でも、次は負けない」
風になびく黒髪を撫でつける。少しだけあのころより伸びた。
挑戦的な光がオッドアイに揺れる。
彼女の性格は、積極攻撃型に分類されるだろう。
恐怖はたしかにあるものの、それを消すにはもう一度戦って、そして勝つしかない。
そう考えてしまうのだ。
一生こそこそ逃げ隠れする、という発想は千剣破にはない。
好戦的というか、恐れをしらないというか。
「あっつい〜〜」
制服の胸元をぱたぱたとする。
なかなか目の保養になりそうなスタイルだが、色気よりも元気さのほうが前面に出ている。
ちなみに、コスチュームプレイをしているわけではない。
こうみえても千剣破は、本物の高校生だったりするのだ。
戦巫女としての修行とはべつに、やはり高校くらいは出ておいた方がいいのである。
「つーかこうみえてもってどーゆーいみよ?」
明後日の方向を睨みつける千剣破。
もちろんそこには風が吹いているだけ‥‥ではなかった。
「‥‥あいつだ」
二色の瞳から放たれた強い視線が、男の背中を射る。
あいつとは、もちろん、死んだはずのお富さんではない。
怪奇探偵と呼ばれるむっさい三〇男でもない。
エイラム・ヴァンフェル。
いまだ解決せぬ連続殺人事件の犯人。
そして、千剣破の瞳を奪おうとした男。
表情を引き締め、少女が男へと近づいてゆく。
機会到来。
あの時の借りを、まとめて精算してやろう。
「ひさしぶりね」
微笑を浮かべつつ話しかける。
「‥‥あんたは‥‥」
驚いたように見返すエイラムは、前とは印象が異なっていた。
どことなく憔悴したような。
そんな感じだ。
立ち並ぶ倉庫群。
泡沫経済と呼ばれていた一時代には、多くの人と物資が出入りしていた。
だが今は、ゆっくりと朽ち果ててゆく廃屋の群れ。
ぎらぎらと輝く太陽が、二人の短い影を剥がれかけたアスファルトに映す。
「ここなら邪魔は入らないわ」
そういってリボンで髪を縛る千剣破。
鞄から五〇〇ミリリットルのペットボトルを取り出す。
「ほぅ?」
と、エイラムが目を細めた。
ホテルではスプリンクラーが暴走した。
それによってあの娘は能力を開花させたわけだが、コントロールできているとは、とてもいえなかった。
では、今はどうだろう。
「いくわよ‥‥」
とくとくとく、と涼やかな音を立て、ペットボトルから水が垂れる。
しかしそれは地面に落ちる前に、千剣破の右手に収束してゆく。
「さしずめ、ウォーターソードってところか」
「変な名前を付けないでよ」
じりじりと間合いを詰める少女。
右手にあるのはパンチダガーに近いカタチである。
斬るというよりも、突くことを前提にしたような。
「破っ!!」
繰り出される千剣破の拳。
「ふん」
間合いの外だ。
エイラムは避けようともしなかった。
が、
「くっ!?」
慌てたようにバックステップ。続いてサイドへと身をかわす。
「水には形がない。あたしの腕にあるものだけが、形とは限らない」
不敵な笑みを少女が浮かべた。
拳が突き出された瞬間。パンチダガーは三本の槍へと姿を変え、不規則な軌道でエイラムに迫ったのだ。
これにはさすがの殺人犯も驚き、かろうじて回避するのが精一杯だった。
「やるねぇ」
一転して跳ね起きた男が、閃光の速度で千剣破へ肉迫する。
「水の壁っ!」
その前に立ちはだかる、ごく薄い水の膜。
「こんなものっ!」
蹴り破ろうとしたエイラムだったが、
「く‥‥」
瞬時に考えを改め、右へ大きく跳ぶ。その頬から、微量の赤い雫が散った。
「よく気がついたわね。あのまま突進してくれたら勝負はついていたんだけど」
「ヒントをくれたからな。水には形がないって」
「失敗だったわ」
まんざら謙遜でもなく、千剣破が言う。
水の膜は防御のためではなかった。突破しようとすれば無数のカミソリに切り刻まれることになる。そういう罠だったのである。
水は、使いようになっては鋼鉄すら簡単に切り裂く。
いちはやく見抜いたエイラムが、すんでのところで回避したのだ。
とはいえ完全にかわしきるには距離が近すぎた。
ごく細かい傷が、男の左半身に幾つも刻まれている。
「警察まで、一緒にきてもらうわよ」
「嫌だといったら?」
「力ずくでも」
「上等っ!」
交差する二人。
エイラムは左肩を斬られ、千剣破は腹部を強かに蹴られた。
着地し、同時に振り返る。
いまは痛いだのなんだの言ってられない。
肋骨にかなりの灼熱感があるが、手当など後回しだ。
ぐっと水の剣を構える千剣破。
対して、エイラムの動きは鈍かった。それどころか、がっくりと膝を突く。
「なに‥‥?」
我が目を疑う。
前に戦ったときは、こんなものではなかった。
薬が効いていたということを差し引いても、もっとずっと迫力があった。
「なんなの‥‥?」
理不尽な怒りの感情がこみあげてくる。
この程度の強さの相手と戦うために、地獄のような特訓を受けてきたというのか。
「立ちなさいよ」
怒ったように言い放つ千剣破。
「いやぁ。無理でしょう」
声は、上方から聞こえた。
朽ちかけた倉庫の上。
たたずむ影。
白衣が風にたなびく。
「そいつは、もうすぐ死にますから」
「‥‥あなたは誰?」
「これは申し遅れました。ディラン・ベラクルスと申します」
丁寧に頭をさげる白衣の男。
ぎり、と、千剣破が唇を噛みしめた。
こんな場面で名乗るとしたら、可能性はふたつしかない。一つ目はなにも後ろ暗いところがなく、しかも自分の正義に酔いしれている場合。
つまり、子供向け特撮番組のヒーローと同じだ。
もうひとつは、生かして帰すつもりがない場合である。
どう考えても、
「前者って事はないわよね」
呟く。
千剣破は、エイラムの名を知っている。これは名乗られたからだが、あのときエイラムは千剣破を生かして帰すつもりがなかった。
だから名乗ったのだ。
しかし結局彼女は生きのび、彼の名を警察に伝えたことにてって、事態は新たな展開をした。
エイラムを取り巻く包囲網は、日に日にその範囲を狭めている。
遠からず、司法のメスがエイラムの喉元に突きつけられるだろう。
「そうなっては、いささか困るわけですよ」
慇懃無礼なディランの態度。
感情を露わにする分、エイラムの方が好感が持てる。
と、こんな事態にどうでもいい事を考える千剣破だったが、せいぜい冷淡な声を作って、
「それで?」
訊ねる。
「大変申し上げにくいのですが、証拠はすべて消させてもらいます」
「はいそうですかって消されてあげるとでも思ってる?」
「いいえ。あなたやエイラムは、悪足掻きをするタイプでしょうから」
くすくすと男が笑う。
「よく判ってらっしゃる」
ぼそりと、千剣破が呟いた。
同時に屋根から飛び降り、襲いかかる男。
水の槍が迎撃する。
「その技は見させてもらいましたよっ!」
「くっ!?」
空中で大きく軌道を変えるディラン。むろん、普通の人間にできることではない。
「アンタらもたいがい非常識ね」
追尾する水槍。
「お嬢さんの技も、充分に非常識だと思いますが」
ざざん、と水音。
ディランが手にした剣が、水の槍を切り裂いた。
「‥‥少なくとも、あたしには羽なんかないわよ」
睨め付ける。
男の白衣の背が大きく裂け、黒い一対の羽が出現していた。
まるで堕天使のような。
「あたしの日常を返してって感じよね」
「それはすいません」
笑みを絶やさぬままのディランが突進し、鋼の剣と水の剣が正面から衝突する。
「く‥‥」
「だいぶ水が少なくなってきたようですねぇ」
「余計な、お世話よ‥‥」
じりじりと押されてゆく千剣破。
冷たい汗が、背筋を伝う。
相手の力量が判ってしまった。
じつに計算高く、つねに最も勝算の高い方法を選択する。
戦いにくい相手だ。
「破っ!」
不完全な体勢からの回し蹴り。
むろん、当たるはずもなく、当たったところでたいしたダメージも与えられまい。
「やれやれ。こまったお嬢さんだ」
軽くバックステップでかわすディラン。
「とっとっ‥‥」
バランスを崩してよろめいた千剣破が、地面に手をつく。
「これで、終わりです」
振りおろされる剣。
「どうかしらね」
閃光とともに斬りあげられた水の剣が、鋼鉄製の剣を両断した。
「なっ!?」
半分以下の長さになった剣を携えたまま、ディランが後退する。千剣破の手にある水剣は、はるかに強さを増していた。
「ペットボトルが一本しかないなんて、あたしは言った覚えがないわよ」
地面に転がる切り裂かれた鞄。
それは、千剣破が倒れると見せかけて斬り、なかから水を補給した結果だった。
「鞄と教科書、弁償してもらうからね」
けっこうさもしいことを言いながら突進する。
一閃、二閃。
陽光が剣に反射し、即席の虹を作った。
舞踏のように華麗な動きで、ディランを追いつめてゆく。
千剣破は賭けに勝った。
ディランはきちんと計算を立てて、その上で動けるような男だ。だからこそ、その計算に足元をすくわれたのである。
あんな回し蹴りなど受けても良かった。掴まえて足を折ってやるなり、いくらでも選択肢があったのだが、あまりにも哀れな攻撃だったので回避した。
それこそがディランの失敗である。
そしてその失敗の分を挽回するために、焦りを生じさせてしまっている。
「くっ! はっ!」
なんとか千剣破の攻撃を凌ぐが、青年の体には無数の細かい傷が刻まれてゆく。
一度距離をあけて、体勢を整えた方が良い。
ディランがそう考えたのは当然だ。
彼には翼があり、地上を這い回るしかない少女の攻撃の届かない範囲にまでいけるのだ。
大きく翼を広げて飛び立つディラン。
瞬間。
「ぐわぁぁぁぁぁ!!?」
断末魔の声が響く。
「‥‥ペットボトルが二本だけだなんて、誰も言ってないのにね‥‥」
千剣破が呟いた。
青と黒の瞳に映るのは、背中から胸にかけて水槍で貫かれたディラン。
追いつめられた青年はいったん距離をあけようとする、そこまで読んで千剣破が仕掛けておいた布石である。
飛ぶとき、千剣破に後ろを見せることはできない以上、ディランの後背はがら空きになる。
翼があるから間合いを取ることができる。そう考えたのが彼の敗因である。
剣でも魔法でも特殊能力でも良いが、それに頼った瞬間から人は弱くなるのだ。
「‥‥なにか言い残すことは?」
問いかける少女。
これは義務のようなものである。
「‥‥‥‥」
答えはなかった。
エピローグ
「アンタ‥‥強いなぁ」
のっそりとエイラムが起きあがる。
ディランの言っていた通り死が近いのだろうか。かなりふらついている。
「‥‥俺も殺すのかい?」
男の瞳には、もはや戦意はなかった。
「‥‥‥‥」
無言のまま、水をペットボトルに戻した千剣破。
破れた鞄と一緒に抱き、踵を返す。
戦意を喪失した相手を攻撃することは、彼女の性格ではできなかった。
甘いのかもしれない。
敵はスポーツの試合相手ではなく殺人犯である。拘束して警察に引き渡すべきだ。
理性の声が告げる。
しかし、去ってゆく少女の足は止まることがなかった。
「‥‥俺にはもう、殺す価値もねぇのかもな‥‥」
遠ざかってゆく少女の背中。
エイラム小さく呟いた。
ちらりと視線を動かす。
陽光が、倒れ伏して動かない男を貫いた槍を照らしていた。
きらきらと。
墓標のように。
おわり
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