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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


微睡の終り


●序

 痛みに目が覚める。
 閉ざしたままの瞼に、カーテンの間から洩れた朝日がちらちらと射すのを厭い、腕で目許を蔽った。
 自然、鼻に近付いた指先。
 微かに、不快な鉄銹の臭いがして、反射的に指を握り込む。ちり、と爪に痛みが走った。
(――覚めるな。俺はまだ眠い。眠いんだ。だからまだ夢を、夢の続きを見させてくれ)
 思うが、既につい先ほどまでは鮮やかだった夢は断片だけを残し、最早その内容を思い出すことはできなくなっている。頭は完全に現へと切り換えを済ませ、身体の方も徐々に感覚を取り戻してゆく。
 深く息を吐く。
 呼吸に上下する胸に、必死に無視しようとしていた、けれどそれが敵わなかった痛みを、感じる。痒いような、熱いような、痛みを。
(また、か)
 諦めたように腕を下ろして、目を開けた。視界に映るのは、眠る前と何ら変わりのない自室である。――否、掛けていたタオル地の毛布が、ベッドから床に落ち掛けていた。それが寝苦しくて無意識に蹴り落としてしまったものではないことを、少年は知っている。
 ゆっくりと体を起こして、拳を開いた。深爪するほどに短く切っていたはずの爪の間に、赤黒く凝固したものがある。
 血だ。
 虚ろな視線を今度は胸許へ持ってゆく。寝巻の上衣は釦を引きちぎられて、胸は露になっていた。
 そこに、首筋から下腹部に掛けて、胸を中心に無数の紅い傷痕が走っている。
 まるで、獣に引っ掻かれたような。

 ***

 草間興信所の黒電話が鳴ったのは、ようやく空が朱色に染まり始めた、夏の夕のことだった。
『あの……そちらでは怪奇現象を扱ってるって聞いたんですけど』
 相手は若い男の声だ。まだ十代かもしれない。
 所長の草間武彦は、「怪奇」という言葉を聞いた途端にがっくりと肩を落とし、もう何度、何百遍繰り返したかしれない文句を返す。
「申し訳ありませんが、うちは別にそういった類を専門にしているわけでは――」
『専門にはしてないけど扱ってるんですよね?』
 言葉を誤ったか。
 はっきりと「怪奇の類は禁止です」と答えれば良かったかもしれない。壁に貼られた色褪せた貼り紙をちらりと見、武彦は後悔する。
『俺、助けて欲しいんです』
 しかもそう話を切り出されれば、もう断ることは不可能に近い。
 溜息を落としつつ、相手の名前と連絡先を尋ね、書き留める。相手は早馬二知可(はやま・にちか)と名乗った。
「……助けて欲しい、とは具体的に?」
『狙われてるんです、俺』
「狙われてる?」
『そう、狙われてるんです、きっと。このままエスカレートしたら、そのうち殺されるかもしれない』
 一気に話は深刻だ。
 武彦は受話器をしっかりと持ち直して、事の詳細を聞く。
「狙われてるって、誰に」
 たっぷりの沈黙の後に、相手――二知可は答えた。
『……俺に』


●舞い込んだ依頼

「ハヤマ・ニチカ……さん、ですか」
 セレスティはモーリスから聞かされた草間興信所からの依頼の内容に思案を巡らし、その名を呟いた。
 午前の執務室は豊かに光が満ち、強い光を苦手とするセレスティのために特殊加工のされたガラスとカーテンだが、それでもやはり、幾分眩しく感じられる。セレスティは伏せた瞳を数度瞬かせた。
 早馬の呉服屋のことは確かに以前から知っている。そして経営者の息子である早馬二知可の名も、聞いたことがあった。二知可の父――早馬流丞といった――とは直接会ったことがあり、その時に家族のことが話題に上がったのだった。
(どうしましょうか……)
 吐息を落とす。
 依頼の内容を考えるに、二知可の周囲についても調べた方が良いだろう。彼に起こる現象の原因は様々推測されるが、そのうちのひとつの可能性――なにか、家系的なものが関与しているかもしれない。
「……如何されますか」
 低い美声が主の意向を伺う。
 セレスティは傍らに控える部下の翠眸を見上げ、
「草間さんに、今回の調査に携わる調査員が一名増えてもいいか、訊いてくださいませんか」
 問うた。
「既にそう伝えてあります」
 笑みを含むモーリスの返答に、セレスティは微笑を唇に形作った。
「早いですね。すると草間さんの許可は得られたということですか」
「はい。……今からでも早馬家について調べてみましょうか?」
「いえ、まずは依頼人である二知可くんに会うことにしましょう。他に原因が見付かるかもしれませんし、ご実家の方は関係ないかもしれません」
 セレスティは慎重に、そう選んだ。
 興信所への集合は午後一時。セレスティはそれまでに可能な限りの仕事を片付けてしまおうと、次第に高くなる陽を背に、デスクの上の書類を手に取った。


●午後一時、草間興信所

 集合時間に興信所には、海原みあお、セレスティ・カーニンガム、モーリス・ラジアルの三名の調査員が集っていた。
「シオンはもうすぐ帰ってくる。とりあえず、暑くてすまんが、座って待っててくれ」
「……クーラー、効いてますか」
 これ、とモーリスは時折軋むような音をたてながら稼働するクーラーの下に立ち送風を確かめる。風は来る。来るがしかし、ただ室内の生温い風を再び吐き出しているようにしか思えない。涼しさはまったく感じられなかった。
「動いてるだろ?」
「動いているだけでしょう」
「ないよりはマシだ」
 そう答えながらも、武彦はちゃっかり自分だけ団扇を使っている。ハードボイルドを目指す心持ちも連日の猛暑には挫け気味のようだ。
 みあおは、
「扇風機の方がまだ涼しいよ」
 と武彦の手から団扇を奪うと、応接テーブルの上に広げていたノートと筆記具を片付ける。
 モーリスはクーラーが何の役にも立ちそうにないと判断し、窓を開けた。風が室内に入る。思ったより涼しかった。ソファーに腰掛けるセレスティを気遣うと、暑さに弱い主は大丈夫です、と微笑みを返す。
 そこへ、近所のコンビニエンスストアのロゴが印刷されたビニール袋を手に、シオン・レ・ハイが帰ってきた。
「ああ、皆さんもうお揃いですね。ただいま帰りました」
 シオンは一同に向け穏やかな笑みで帰宅の挨拶を済ませると、武彦へ袋の中身の確認をしてもらう。昨夜は興信所を寝床としたので、武彦に使い走りさせられていたのだった。武彦が中身を覗くと、みあおも横からひょいと同じように覗き込み、「みあおはこれ!」と果汁入り炭酸のペットボトルを指差した。
 武彦は他の飲み物も確認して、シオンからレシートと釣銭を受け取り、そちらもぴったりの金額だと確かめて、深く頷いた。
「よくやった。この時間ならそこの横断歩道にもあの交差点にも、募金活動してる奴は居ないしな。変なセールスにも引っ掛からなかったようだ。よかったよかった」
 年上――しかも一応42歳であるシオンに向かって、徒歩5分のコンビニへのおつかいに「よくできました」と言うのもおかしな表現だが、実際シオンに現金を持たせるとたちまちのうちに買わされ喝上げされてと消えてゆくのである。
 しかもシオンは、
「はい、ありがとうございます」
 素直に褒められたことに対して礼を言った。
 そんなやり取りに、モーリスは微笑を過ぎらせると、
「これで、今回の調査員は全員揃いましたか」
 武彦に確認する。
「いや、あと一人――」
「いらっしゃいますよ、そちらに」
 武彦の言葉に重なるように、セレスティが告げる。夏の強い陽光ゆえにか瞑目していたが、ふっと蒼の瞳を覗かせた。そちら、とセレスティの視線が示した先を追い興信所のドアの傍らを向くと、いつの間にか、日本人形の少女はそこに在った。
「うわあ!」
 思わず声を上げた武彦に、一同の冷ややかな気もする視線が集まる。武彦はすまん、と詫びて改めて少女――四宮灯火を迎えた。
「あー、と、全員集まったな。……灯火、せめて居るなら居ると言ってくれ」
 灯火は変わることない表情の面を僅かに傾け、
「……申し訳ございません……それでは……次は、挨拶の言葉とともに……お伺いします……」
 それもちょっと違うような、と武彦は悩んだが、灯火がソファーの端に収まったのを見ると、自分の机に戻り今回の詳しい依頼内容を調査員に知らせることにした。
 机に置かれたファイルの脇では、シオンの白い垂れ耳兎が書類の間で眠っている。シオンに問うと、起こさないようにとの返事があったので、武彦は言われた通りにそっと書類を選び手に取った。
 その間に、気を利かせたモーリスがペットボトルを手に隣室へ向かい、コップにそれぞれの飲み物を注いで戻ってきた。真っ先にみあおが自分の所望のソーダを取る。他のメンバーのコップの中身は烏龍茶だった。冷蔵庫が故障していたので氷も入っていないが、たまには良いだろう。
 武彦は全員が話を聞く態勢になったのを確かめてから、やっと探偵らしい表情になり、依頼の説明を始める。
「依頼してきたのは早馬二知可、20歳。都内の私立大学に通う学生だそうだ。住所は聞いてるから、俺の話が終わったら行ってくれるか? 場所は分かりやすいと思う」
 各々頷く。
「で、肝心の依頼内容なんだが……眠っている間に自分が自分を傷付ける、と言ってるんだ。引っ掻いたりしてな。その行為がエスカレートしてきて、最近は命の危険まで感じているらしい」
 既に聞いていた内容だが、全員の前で確認することにより、認識の齟齬が生じないようにと武彦は繰り返した。
 なにか質問あるか、と訊いた武彦に、シオンが律儀に手を挙げる。
「はい、シオンくん」
「彼は病院には行ったのでしょうか? 20歳というと、まだ不安定な時期ですし、脳や精神になにか問題があるとも考えられます」
 それには、セレスティも頷いた。
 武彦は自分がメモした紙を見遣りながら言葉を選ぶように少し思案し、答えた。
「それなんだが……不本意ながら俺がなんて呼ばれてるか知ってるか?」
「怪奇探偵!」
 嬉々とした返答がシオンではなくみあおの口から発せられた。少女の清々しいまでの断定に、武彦はちょっと遠い眼差しになる。が、今はそんな場合ではないとすぐに戻ってきた。
「……まあ、そうだな。二知可も俺がそう呼ばれてるのを承知でうちに依頼してきた。――その意味が分かるか?」
 一同は刹那沈黙し、それぞれに考えを巡らせる。
 モーリスが口を開いた。
「つまり、彼は自分の身に起こっている現象が、『医学では治せない類のものと知っていて、草間さんに依頼をした。そして草間さんの方も今回もまた怪奇系の依頼だと踏んでいる』……そういうことですね?」
 武彦は「そう、『また』な」と渋々ながら頷いた。
「……草間様が……そうお思いになられたのは、何故でしょうか……?」
 それまで黙って話を聞いていた灯火が補足に問うた。黙って、というよりは、整いすぎた日本人形には静寂こそが似合うようにも思える。微かに上向いた顔の輪郭を黒髪が撫で、揺れた。
 武彦の答えは短かった。
「爪だよ」
 爪、と幾人かが音もなく呟き返す。
「詳しいことは依頼人に直接聞いてくれ。……俺が指摘した爪というのはな、電話で依頼を受けた時、二知可は特に引っ掻き傷に困っていたようだから、なら爪を切ればどうだ、と言ったんだ」
 爪を短く切ってしまえば、少なくとも引っ掻くことはしなくて済む。
「ところが、二知可はそんなことはとっくにしている、と答えた。それこそ深爪するぐらいに切ってるんだそうだ」
 切ったはずの爪が、眠っている間に自身の肌を傷付ける。
 確かに今回の依頼も、『怪奇ノ類』とみて良いようだった。


●車内にて

 興信所を辞した調査員たちは、モーリスの運転する車で二知可宅を目指した。
 目的地に近付くにつれ、武彦が分かりやすいと言った意味が分かってくる。二知可が住むマンションは、一年前に完成したばかりの高層の高級マンションだった。庶民なら誰もが羨む、といったところだが、残念ながら今回の調査員の中には一般家庭並みの金銭感覚を持つ人物が存在しなかったので、特に話題には上らなかった。
「怪奇……霊現象となると、私はお役に立てそうにありませんね……」
 助手席で、シオンが呟いた。
 その横顔をちらりと窺い、モーリスが答える。
「確かに、彼を傷付けているのが、なんらかの異形のチカラである可能性は高いですね。しかし、彼を追い詰めているのはそれだけでしょうか?」
「それだけ……とは?」
 モーリスは表情を変えることもなく、ハンドルを切る。
 今度の返答は、後部座席から返ってきた。
「……まだなんとも言えません。彼に会い、彼から詳しい事情を聞いてから考えることにしましょう」
 セレスティだ。
 その隣では外を眺めるのに夢中なみあお――しかし話はしっかりと聞いているようだ――と灯火が並んで座している。
 車は滑るようにマンションの駐車場に入った。


●二知可

 あらかじめ武彦から連絡が行っているということで、応対は早く、部屋で調査員を出迎えたのは中学生ぐらいの『少年』だった。
 健康的に日焼けした肌に、すらりと伸びた手足。長めの不揃いの漆黒の髪は癖ひとつない。ただ、夏だというのに長袖のシャツを纏っていることと、虚ろげな眼差しが、どこか危うい印象を与えた。
「どうも」
 一言そう挨拶をよこし、不躾な視線を隠そうともせず、まるで値踏みするように調査員たちを見る。みあおは視線が合うと、負けじと強く目を合わせた。少年はそれに僅かに怯んだように、視線を外す。
 玄関先で睨み合っていても仕方がないと、セレスティは挨拶し、入ってもいいかと尋ねた。穏やかで紳士的なセレスティの態度に、少年は慌てたように「あ、ああ、すみません」と皆を中へ招き入れる。ぞろぞろと入っていく列の中で、音も立てずに進みゆく日本人形の姿にぎょっとしていたが、誰もなにも言わずにリビングに向かったのを見ると、首を傾げながらも一同にソファーを勧めた。適応力はあるらしい。
「アイスコーヒーでいいですか?」
 全員が席についたのを見届けると、少年はキッチンへ向かいながら訊いた。
「みあおはジュースがいい」
「ジュース……オレンジとグレープがあったと思うけど」
「オレンジ!」
 みあおは先ほどの睨み合い(?)などなかったかのように、元気にオレンジジュースを頼んだ。興信所で喉を潤してきたが、少しでも外に出るとやはり冷たいものが飲みたくなる。少年は他の男性3人組からアイスコーヒーでいいとの返答を得て、一番近くに座った灯火を見た。
「……わたくしは、結構です……お気遣い、なく……」
 からくり人形だとでも思っていたのか、しっかり自分を見て喋った灯火にまた少年はびっくりしていたが、「そうか」と答えてキッチンへ消えた。適応力は抜群らしい。
 シオンはキッチンの中で動く少年を見ながら、首を傾げた。
「弟さん、でしょうか……?」
 二知可は20歳だと聞いていた。童顔にしても、体型も幼すぎる。彼は精々15歳程度にしか見えなかった。
 モーリスは、視力の弱いセレスティに彼の容姿を詳しく伝える。シオンの予想は、セレスティによって否定された。
「いいえ、二知可くんにはご兄弟は居ないはずです」
「では彼は――」
 そうシオンが言い掛けた時、トレイに飲み物を乗せた少年が戻ってきた。それぞれの前にコースターを添えその上にグラスを置く。ストロー、ミルクも置かれ、今度は氷もしっかり入っていた。配り終えると、少年は空いていたみあおの隣のソファーに自分も腰掛ける。その気配に、セレスティがまず自己紹介した。次いでモーリス、みあお、シオン、そして灯火と順に名乗ってゆく。すべての紹介が終わると、少年は
「よろしくお願いします」
 頭を下げた。
 それに、少し困惑したように、シオンが尋ねた。
「それで、君は……?」
「え? 俺?」
 少年は目を瞬かせ全員を見渡し、「あ」と呟いてからようやく自分の名を口にした。
「二知可です。早馬二知可」
「ハタチには見えないね」
 オレンジジュースの入ったグラスを両手で持ちながら、みあおがずばりと指摘する。
 二知可は気分を害した風もなく、立ち上がると、隣の部屋からカード状のなにかを持ってきてテーブルの上に投げ出した。シオンが手に取り確認する。大学の学生証だった。間違いなく眼の前の少年の顔写真が印刷されたそれに、『1983年11月14日生』とある。今年21歳になる計算だ。
「本人ですら気色悪ぃけどな、高校に入ってからまったく成長してないんだ。さすがに周りも気味悪がるんで、最近は学校行ってないけど。休学手続きしてこなきゃな」
 最後の方は独り言ちる二知可へ、みあおは声の調子を変えず
「気持ち悪くはないよ」
 とさらりと言った。二知可は僅かに目を瞠り、みあおを見た。
「まったく成長してない、というのは?」
 セレスティが問う。
「まったくってわけじゃないんだけど……髪や爪は伸びるし……でも、それも前に比べると伸びるスピードが遅いんです」
「では成長してないというより、成長スピードが著しく落ちた、ということですね?」
 はい、と二知可は頷いた。
 セレスティの質問の後を、モーリスが次ぐ。
「そのことに気付いたのは、いつ頃だった?」
「中学の三年に上がるまでは背もぐんぐん伸びてて、突然止まったから……多分、その頃だと思います」
 彼には『自分が自分を傷付ける』ということ以外にも不可思議な現象が起きているようだった。
 シオンはなにから尋ねたものかと悩みながら、連れの兎を膝の上で遊ばせている。
「……早馬様」
 不意に、灯火は二知可の名を呼ぶ。二知可が振り向くと、
「ご自分に、殺められるのではと、心配していると……お聞きしました……そのことに、ついては……?」
 感情の色を感じさせぬ青い瞳が、二知可を映す。
「ああ、それが本題だよな……ここまでひどくなったのは、一週間ぐらい前からだ」
「いつから、どんな症状が現れたのか、具体的に話してくれるかな?」
 モーリスの質問に、二知可は慎重に記憶を手繰る。
「初めは、二ヶ月ほど前です。なんだか……違和感があったんです」
「違和感?」
 問い返されて、二知可はなんと言ったものか分からないという風に、眉根を寄せた。
「……今でも眠る時とか、目覚める時とかに、感じる違和感なんです。嫌な、感じのする……」
 とりあえず違和感についてはそれ以上深くは訊かず、モーリスは先を促す。
「二ヶ月前に違和感があった。それが最初ということだね。それから?」
「しばらく……一ヶ月くらいかな、その違和感が続いて、最初は『なんとなく』感じてた違和感も、その頃にになるとはっきり感じるようになってたんですが……」
 二知可はそこで一旦言葉を切ると、やおら自分の左腕のシャツの袖を捲り上げた。晒された腕に、はっきりと見て取れる――傷、そして痣。見える限りでは手首を中心にそれらは広がっていた。
「初めて自分に傷を作ったのはここです。朝起きたら手首に掴まれたような痣があって。その時は夢でも見て寝惚けて掴んだんだろうって、気にしなかったんですけど」
「……一度ではなく、繰り返し傷を作るようになったのですね?」
 二知可の傷を真剣に見詰めながら、シオンが訊く。
 二知可はその言葉に頷くと、忌々しいものでも見たように眉を顰めてシャツの袖を元の通りに戻した。夏でも長袖を着ているのはこの傷のせいだろう。
 と、モーリスが唐突に提案した。
「二知可くん、シャツを脱いでみてくれないかな」
「は?」
 思わずそう洩らした二知可に、モーリスは事もなげに続きを述べる。
「傷の具合を診てみないことにはね。草間さんからの話では、首筋や胸の辺りにも傷があるのだろう? それに私は医者だから、もし皆の前で脱ぐのが嫌なら隣室で診せてもらっても構わないよ」
 それもそうだ、と二知可はふと周りを見回し、女性は小学生と人形しか居ないのだということを確認してシャツのボタンに手を掛けた。
 恥ずかしがっていても仕様がないと、無造作にシャツを脱ぐ。露わになった上半身は、決して病的に痩せてはいなかった。むしろその逆で、しなやかな筋肉に付けられた傷が惜しまれるほどである。
 そう、傷。
 武彦から伝えられた通り、二知可の身体には無数の傷痕があった。首筋から下腹部、先ほど見せられた腕と、鋭い爪痕が幾重にも肌を裂いている。
 傷は、胸を中心に付けられているようだった。
「――いいですか」
 調査員のそれぞれが頷くのを見ると、二知可はシャツを再び着た。
 他になにか、と尋ねた二知可に、今度は灯火が発言した。
「……早馬様の……寝室を、見せていただけませんか……?」


●夢の続き

 リビングの隣の二知可の寝室は、驚くほどに物のない空間だった。中央の窓辺に置かれたベッドと、隅の机以外には、床に抛られたバッグぐらいしかない。ただ、机の上には筆記具や本などが乱雑と乗っていた。
「……いつも、この部屋でおやすみに……?」
 灯火の問いに、二知可はベッドを軽く整えながら答えた。
「ああ。ベッドの周りは特になにも置かないようにしてる。前は机はここにあったんだけど、夜に暴れた時に腕をぶつけちまって、それから模様替えしたんだ」
 苦笑して指差すベッドの横には、確かになにか物を移動したような跡が見て取れた。
 灯火は部屋の全体を見回し、不意に押し黙る。この無機質な部屋に人間の手を介して作られたものが存在するだろうかと、やや心配になりながら部屋全体に『問いかけた』。
 灯火は自身がそれゆえにか、人間に作られた物たちの意志を聞く。
 突然沈黙した灯火に二知可は首を傾げたが、表情らしい表情の浮かばぬ灯火の面がどこか真剣さを帯びているように思えて、邪魔にならないようにと距離を取って様子を見守った。
 灯火の音声ではない『声』が問いの言葉を部屋に響かせる。
 ――早馬様の……寝ている時のご様子を……わたくしに、教えてくださいまし……。
 しばらく、部屋は静寂だった。灯火の声に応えるものはないか、と諦めかけた刹那、ひとつ答えが返った。『声』の主を辿ると机の上、部屋に似合わぬ萌葱の縮緬がペンスタンドの下から覗いている。コースターだろうか。
 ――……貴方様は、ご存知ですか?
『声』は再び応じた。

「終わったのか?」
 時間にすればほんの数十秒のうちに、灯火は意思の疎通を済ませた。二知可へ頷きながら、今一度部屋を見回す。不審なものも、気配も感じられなかった。
「……早馬様、いつもどのような夢を見ていらっしゃるのか……わたくしに、教えていただけますか?」
「夢?……特に関係ないとは思うけど。最近は家族の夢をよく見るかも」
「ご家族……ですか?」
「夢のなかだから、本当の家族かどうかも怪しいけどな。養子なんだよ、俺。俺の本当の家族は、俺が生まれてすぐに死んだとか聞いてるし」
 顔も知らぬはずの家族の夢。
 今回のことに、関係はあるのだろうか。


●意味するもの

 灯火と二知可が隣室に消えた後で、残った調査員たちは見解を述べ合った。
 モーリスはセレスティに、二知可の傷の様子と、またその他に気付いたことも添えて伝えた。
「彼の傷は、傷の位置から考えても本人が付けたものに間違いないでしょう。傷の具合については、人間が付けたにしては鋭いような……話の通り、獣の爪のように思いました」
 シオンも神妙に頷く。みあおは飲み終わったグラスをテーブルに置くと、ソファーに深く座り直して足をぶらぶらと遊ばせた。
「でもやっぱりあの傷はお兄さんが付けたんだと思うな。お兄さんの爪の間に、固まった血が見えたもん」
「すると、彼が眠っている間だけ、爪が伸びているということになるのでしょうか。それも、獣のように鋭く?」
 シオンの言葉に全員が同意したようだった。
 セレスティが先を進める。
「その原因が、二知可くんがなにかに憑かれているからなのか、それとも彼本来のチカラなのか……後者だった場合は、少々難しいことになりそうです」
 憑かれているのなら、祓えばいい。
 しかし元来具わっている彼自身の『チカラ』のせいならば、原因が分かったとしても、どういった対処をすべきか難しいところである。
 ――セレスティは更に言葉を継ぐ。
「私は二知可くんのお父上と交流があるのですが、二知可くんは養子なのだそうです。本当のご両親は既に他界していると聞いています。ご親類もないということで、友人である早馬氏が引き取った、と」
「では、彼の実家を調べれば、少なくとも家系的なものかどうかは分かるのでは」
「私も、それは考えました。……というより、その可能性が高いのです」
 モーリスが、調べますか、と主に低く囁く。セレスティはゆるく首を振った。
「早馬氏は、あまり『そのこと』については触れたがらないようですから、今から調べるよりも、彼に直接訊いた方が早いでしょう。……もうすぐ、夜です」
 夜。
 怪異は今日も、彼のもとに訪れるのか。
 みあおは一連の話をすべて聞き終えても、変わらぬ愛らしい笑顔のままで言った。
「お兄さんが多重人格でも、獣本性がある獣人でも、なんにしても問題は多分簡単だと思うけどな」
 それを能天気な発言、と咎める者は居なかった。
「……みあお嬢は、彼が大丈夫だと思いますか」
 セレスティの呟くような小さな問いに、みあおは花開くような笑みで応えた。
「まだ大丈夫。まだ間に合うよ。みあおが『そう』だったからね」


●眠り、そして目覚めの時

 隣室から二人が戻ると、入れ替わるように他の調査員も二知可の寝室を覗いた。そして互いに問題のないことを確認する。部屋や場所がなんらかの影響を及ぼしていることはなさそうだ。
「で、俺に寝ろって?」
 調査員全員にそう乞われて、二知可は頭を悩ました。
「……いや、そんな大勢に観察されながら眠れってのは難しい話だと思うんですけど……」
 確かに、一理ある。
 では誰か一人だけが二知可とともに部屋に残り、二知可が眠ったのを確認してから他の調査員を呼ぶ、というのはどうだろう――そんな案も出たが、部屋に親しくない人物が居ると眠れない、とやはり二知可によって却下された。
 それでも一応やってみようということで、ベッドに横になる二知可へ、シオンは白兎を手に近付いた。
「兎?」
 シオンの腕に抱かれた垂れ耳兎は、人懐っこい性質もあって大人しくしている。二知可の枕脇に下ろされると、辺りを窺う仕種を見せたが、すぐにベッドのやわらかなスプリングに慣れたようにその場所に落ち着いた。
 少しでも安心して眠ってもらえたらいいとの、シオンの配慮だった。
 ところが。
「おや……?」
 二知可が兎に触れようとすると、明らかに兎は二知可の手から逃れた。移動のしにくいベッドの上を引きずるように動くと、シオンのもとへ戻ってくる。
「……怯えているようだね」
 再びシオンの手に収まった兎にモーリスが手を伸ばしてみるが、今度はそんな様子はなく鼻先をモーリスの指へ押し付けてきた。みあおも兎に触れてみたが、やはり変わらない。
「俺、なにかした……?」
 自分の掌を見、眉を顰める二知可だが、心当たりはない。そもそもシオンの兎に触れるのはこれが初めての機会なのだ。
 仕方なく二知可の傍に兎を置くのは諦めて、誰が部屋に残るかを決める段になった。
 と、
「……あの……」
 灯火が一同に向け告げる。
「皆様、わたくしに……触れてみてはくださいませんか……?……先ほど、この部屋の様子を……『訊いた』ところ……早馬様の、寝ている時のご様子が……得られましたので……」
 二知可を含む全員が、言われた通りに灯火に触れる。
 触れた途端、それは映像として各人に伝わった。灯火が二知可の部屋にあったコースターから汲み取った意思に、チカラを注ぐことで視覚へと具現化したのである。

夜明けが近いのか、仄めく室内の中央に誰かが眠るベッドが見える。二知可だ。規則的に上下する胸部が穏やかな寝息を伝える。特に変わったところはない。しばらくそのまま――不意に映像が乱れる。“早送り”でもしたのだろう――あ、と誰ともなく呟きが洩れた。動いた。二知可の腕が。左腕が痙攣しながらシーツを握る。そして突然右腕が左腕を強く掴んだ。左腕の痙攣はまだ止まない。苦しげに二知可の喉が震える。左腕が再び動いた。右手の拘束が外れる。左腕は上方へ向かい、首を掴む。否、掴もうとして宙を掻き、甘い闇のなかでその指先が輝いた。爪だ。いつの間にか二知可の左腕の指先には長く鋭い爪が伸びている。振り下ろされる。布を裂き皮膚を裂く、紅い

「もう、いいでしょう」
 セレスティの声が映像を中断した。
 一同の視線は二知可に集まる。二知可は瞬きすることも忘れたように、細い呼吸を繰り返し、シャツの上から胸許を強く握り締めていた。その横顔に、汗が流れる。震えている。傍に居たシオンが二知可の無事を確かめようと、その肩に手を伸ばした。
「――ッ」
 シオンは咄嗟に手を引く。明らかに常人では捕捉不可能な速さで眼前をなにかが過ぎった。閃く。
 爪だ。
「いッ……!」
 二知可の声に再び視線を向けると、振り上げられた爪――二知可の左腕は、しかし振り上げたままの不自然な体勢で空中に縫い止められていた。
 アーク、そう短く呟く声がモーリスから聞こえる。
「……ちょっと応用編、ですけどね」
 モーリスが僅かに細めた翠の瞳の先では、半透明の青い『檻』が、二知可の左腕を囲んでいた。が、その『檻』が纏う光が弱くなる。二知可が拘束を外そうとしているのだ。モーリスは更に『檻』を強固なものとしようとしたが、セレスティが止めた。
「それ以上は二知可くんの身体に負担が掛かります」
 二知可は苦痛に表情を歪め、右手は左の肩を掴んでいた。左腕の暴走を抑えようとしている。けれど意志に反し、腕は『檻』から逃れようともがく。
 そこへ、

「認めちゃえば?」

 みあおの言葉が、投げられた。
「……な、に……?」
 唐突なそれに、二知可は苦痛のなかで問い返す。
「認めちゃいなよ、『それ』。だって、『それ』はお兄さんの深層心理に存在していて、欲求なり本性なりを抑えられてるせいでストレスが溜まって、お兄さんが眠ってる間に『出て』くるんじゃないかな」
 二知可はその言葉の意味を考えようとして、『檻』を破ろうとする力が不意に弱まった。その隙にセレスティは二知可に触れ、その血流を問題のない程度で操作し整える。シオンは、二知可の肩に手を添え、これ以上暴走しないようにと軽く押さえ込んだ。
 灯火はといえば、シオンの傍に居た兎をいつの間にか机の上に避難させ、そこから様子を窺っていた。
「……どういう、ことだよ?」
 大分呼吸も落ち着いてきた。暴走は一時的なものなのだ。
 モーリスが『檻』を上手く調節しながら答えた。
「彼女の言った通りだよ。君が自分で自分を傷付ける原因は、君自身にあったということだね」
「俺自身?」
 動揺する二知可の肩を、シオンはぽん、と優しく叩く。そうして、
「その爪、そのチカラ……それらは元々貴方自身に具わっていたものです」
 二知可に、真実を伝える。
「俺の……? じゃあなんで、俺のチカラなのに遣いこなせないどころか、自分を傷付けるんだ?」
 縋るような視線が彷徨う。
 みあおは二知可の前に進み出ると、
「お兄さんが『その存在』を認めてないからなんだよ。暴走するのは」
 ね? と首を傾げて「だから認めちゃいなよ」と繰り返した。
「認めるたって……こんな気色悪ぃチカラ――」
「気色悪い? 気持ち悪い? イヤ?」
 みあおは二知可に畳み掛ける。
「ならみあおや、ここにいる皆も気持ち悪い?」
「!」
 二知可は衝かれたように目を見開く。やがて、ふるふると首を横に振った。
「悪い。そういう意味じゃなくて……」
 ふと、灯火が兎を机に置いて、二知可の前まで移動してきた。やはり表情のない面が、二知可を正面から見据えた。
「……早馬様は、わたくしを……どう、お思いになられましたか……?」
「え?……最初は、確かにびっくりしたけど、『そういうこと』もあるんだって、知ってるからな。だから今は、別に……」
 僅かに宙に浮き、言葉を喋る日本人形は、常人から見れば確かに不気味に映るのだろう。しかし二知可は、最初こそ驚いたものの、今は普通に接している。
 セレスティが、穏やかに、笑みを浮かべた。
「ならば自分も、認めてあげてくれませんか」
「認めたくないのは分かるけど、今ならまだ間に合うだろうから」
 みあおの言葉に、二知可はゆっくりと、深く、頷く。
 モーリスが『檻』を解除すると、二知可の左腕はベッドの上にぱたんと下ろされた。一気に緊張が解け、息を吐く二知可の頭を、シオンの大きな手が優しく、撫ぜた。


●終

 ――総帥、早馬様がお見えです。
「直接私の書斎までお通ししてください」
 返事はすぐに返り、間を置かず廊下をこの部屋へ向かってくる気配がする。
 早いですね、とセレスティは嘆息して、使い慣れた車椅子を部屋の扉の方へ向けた。ノックの後に、秘書に先導された客人が姿を見せる。客人は自分の秘書と思しき連れは廊下で待たせ、一人で入室してきた。セレスティも秘書へ下がる旨を命じ、到着の知らせから数分と経たずに、書斎で客人と二人きりになった。
 客は、早馬流丞。先日の草間興信所の依頼主である早馬二知可の義父にして、リンスター財閥とも取引のある呉服屋の主である。呉服屋、と本人がそう名乗るので皆そう呼ぶが、実際は繊維工場なども複数抱える大会社を纏める人物らしい。好々爺然としたその風貌に、早馬翁と呼ばれている。業界では好人物として知られている老人だが、セレスティはどうにも好きになれなかった。
「……お久し振りです、早馬翁」
「ええ、ご無沙汰しておりますな。相変わらずお美しいことです」
 そう言って、人懐っこく笑う。
 セレスティはゆるく膝の上で指を組み、蒼の瞳で老人を真直ぐに射抜いた。
「そうそう睨まれますな。……否、総帥は弱視でしたか。これは失礼を――」
「そんなことはどうでも良いのです。今日の来訪は、二知可くんの件ですね?」
 はあ、と芝居掛かった仕種で、老人は頷いた。
「ええ、先日はうちの息子が総帥にご迷惑をお掛けしたそうで――なにか、言っていませんでしたか」
 不意に、語尾が低くなる。セレスティは、軽く柳眉を顰めた。
「なにか、とは?」
「いえ、なにも言っていないのなら良いのです」
「貴方なら、とうに二知可くんがなにを興信所に依頼したのか、調べてあるはずでしょう? それ以上になにを訊きたいのです」
 老人は僅かに言い淀んだが、すぐに元の調子になりさっさと退室しようとする。
「いえ、ですからなにもなかったのならいいのですよ。……お忙しいところを失礼しました。いずれ、また」
 恭しく頭を下げ、セレスティの返事を待たずに老人は出て行った。来る時も去る時も、風のような男である。
 セレスティは閉じられた扉をしばらく眺めていたが、なにを思ったか視界に入った花瓶の水を数滴宙に舞わせた。ぱしゃん、と軽い水音が、小さな瓶のなかに響く。
 その音に洗われるような気分になりながら、車椅子を書架の前に進めた。


 <了>


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1415/海原・みあお(うなばら・―)/女性/13歳/小学生】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2318/モーリス・ラジアル/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】
【3041/四宮・灯火(しのみや・とうか)/女性/1歳/人形】
【3356/シオン・レ・ハイ/男性/42歳/びんぼーにん +α】

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■         ライター通信          ■
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草間興信所調査依頼『微睡の終り』にご参加くださりありがとうございました。
執筆を担当いたしました、ライターの香守桐月(かがみ・きづき)です。
今回はいつもよりストーリー性を重視してみたつもりです。
……つもり、程度になっているような気がしますが(汗)←毎度。
少しでもお楽しみ頂ければ、嬉しいです。
それではまたお逢いできることを祈りつつ失礼します。
この度は本当にありがとうございました。