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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


タイムカプセル


------<オープニング>--------------------------------------

 その場所は思い出せない。何を埋めたかも思い出せない。
 ただあの頃のことを思い出そうとすると、決まって思い出すのは蝉の声だ。
 幾つも重なり合ったミンミンミンという音。急かすように鳴く蝉の声。
 そして川。美しい川だった。チョロチョロと緩やかに流れては、時折光を反射しキラキラと輝いた。むせ返るような緑の匂い。どんな匂いだったかは思い出せない。けれどその単語だけが頭に浮かぶ。
 記憶はふわふわと浮かんでは消え、それは酷く断片的で抽象的だった。
 広い空き地。川の景色は消え、木漏れ日の中自分はそこで懸命に穴を掘っている。
 穴を掘っているのは自分と誰か。顔は思い出せないが同じ制服を着た姿だけ、覚えている。
 彼。
 そうだ。彼だ。彼は誰だ。同じ制服を着た。彼は誰だ。
 中学二年生の夏。
 柏木永樹はある場所になにかを埋めた。
 それは何なのか。永樹には思い出せない。
 僕は一体、何処に何を、何の為に埋めたのだろう。



「カウンセラーの先生に進められて。来ました」
 応接ソファに座る男は、差し出された紅茶に手もつけずそう言った。
「僕の名前は……柏木永樹といいます。歳は、今年で27歳になります」
 この暑い中、男のシャツには汗染み一つない。
 東京某所にある、草間興信所である。
 今朝方振った一時的な雨がコンクリートの上で焼かれ、独特の匂いとなって窓から入り込んでくる昼下がり、所長の武彦は依頼人と向き合っている。
 本日最初の依頼主である柏木永樹は、とんでもない数値を記録し続ける東京の空とは無縁のところに居るような白い肌をしていた。
 汗という単語から、遠い場所に浮遊するかのような青白い顔。
 彼は自分の記憶が抜け落ちているのだと言った。
「僕の親は大学で心理学を教えていますので、その関係で良いカウンセラーの方を紹介して貰いました。元々、僕は精神的に不安定なところがあるようで」
 永樹はそこで少し悲しそうな顔をした。眼鏡の奥でふっと瞳を細める。
「それで元々は通い出したんですが。自分に抜け落ちた記憶があることは先生にもお話ししたんです。カウンセリングを受けてもう随分経ちますが、その部分の記憶だけは、今でも一向に思い出せません」
 武彦は無言で頷いた。続きを促す。
「先生は。その記憶にそう拘ることはない、と言いました。けれど……そう何度も思い出すのは、もしかしたらそれがとてもとても重要なことだからかも知れない。何かの事情があって、今僕はその記憶を失っているけれど。思い出せって。僕が僕に訴えているのかも知れない。僕はそう思ったんです。それに、今のままではその重要な部分が抜け落ちた僕は人として不完全なんじゃないかと。そんなことすら考えてしまうから……不安なんです、すごく。今のままだと。そして僕は考えました。僕は一体、何処に何を、何の為に埋めたのか。それを見つけることが出来たなら、僕の記憶も蘇るかも知れない、と」
「つまり。貴方が何処かに埋めたタイムカプセルを探し出して欲しい、ということですね」
 武彦はゆっくりと問いただす。
「はい」
 永樹は小さな声で頷いて、やっと紅茶に口をつけた。
 人探しではなくタイムカプセル探しとは。
 武彦は苦笑した。しかし何にしても金になる依頼ならば文句はない。
「手がかりなどはありますか」
「はい……ご質問にも、出来る限りお答えしますのでどうか宜しくお願いします」
 永樹は光の加減で深い茶色にも見えるサラサラした髪を揺らせながら、お辞儀した。

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 画像がスライド写真のように切り替わる。脳内の画像がリズム良く切り替わる。それらは全て、画家、加藤暢の新作の一部だった。全体を捉えたものもあれば、本当に一部だけを捉えたものもある。視点や捉える場所を変えた加藤暢の新作絵画は、止まることなくずっと脳内を回っている。
 それらは全て、今しがた見ていた物の残像と言ってもよかった。彼の絵を見た後は、それをすぐに脳から押しやることは出来ない。暫くそれは付き纏い、むしろその他のことを押しやってしまう。
 鼻腔がテレピン油以外の匂いを嗅ぎ取り、続けて今まで無音だった世界に音が入り込んできた。耳が、幼児玩具のプラスチック自動車がコンクリートの地面を滑る騒々しい音を聞き取る。
 それが合図となって十ヶ崎正はやっと我に返った。
 気がつけば、階段を下り舗道に出ている。自分がどうやって階段を下りたのか、記憶は曖昧だった。そもそもどうやって彼の部屋から出たのだろう。ちゃんと別れの挨拶はしただろうか。今になってそんなことを考え、正は思わず自分の足元を見た。ちゃんと靴は履いている。
 背後を振り返り、そこに建つアパートを見上げた。
 築三十年の安普請も甚だしいアパートだった。あそこに今はまだ、売れない画家と形容することで事足りてしまう青年が住んでいる。画家、加藤暢。けれど売れない最大の理由はその知名度にあると、正は信じて疑わない。
 彼のアートに触れた時の、不快感とも感動とも呼べぬ感情を、また、思い出した。加藤の作る人形。そして絵画。その製作過程を覗けるようになった今でも、彼を素晴らしいと思う気持ちは変わらない。加藤はまず、人形を作る。そしてそれを撮影し、拡大して、描く。そうして描かれた絵は、遠くから見ていればただの人物画とも思えるのだが、間近で見ると髪の毛の一本一本や産毛の流れまでが克明に描かれており、見るものに危険な執着すら感じさせる。その畏怖さえ覚えるほどの精密さに、今でも体が震えるほどだ。
 コンクリートから這い上がってくる熱気を追い払うように、正は軽く頭を振って足を進める。
 アパートを背にして夕日に向かい歩き出しながら、また彼の絵を脳裏に浮かべた。一ヶ月後に開かれる個展の配置も考える。どの絵をどこに配置しよう。入ってすぐに持ってくるのはあの新作にしようか。
 今は無名だが、彼はきっとこれから伸びるだろう。その彼の華々しい記録の一ページをプロデュースしてやれるということは、正自身の喜びでもある。知名度のせいだけで、売れないと苦しんでいる若い日本の素晴らしいアートを、全世界へ向け発信してやる。それが、ギャラリストである正の仕事だ。
 有名な画家の作品は何を言わずとも人は買っていくし、観賞しに来る。それは決して悪いことではないし、素晴らしい作品だからこそ人を惹き付けるということに違いはない。しかしそういうものは、金にしか興味のない人間が扱えばいいのだと、実際のところ思う。自分は金儲けの為ではなく、けれどビジネスとして、まだ見ぬ素晴らしい作品を掘り出し売り出していきたい。
 住宅街の間を縫うようにして、駐車場へ向かう。築三十年のアパートには、駐輪場はあるが駐車場はない。不便だった。
 甲高い声を上げながら走ってくる数人の子供とすれ違う。正は一瞬だけ、子供が抱えていたオモチャに目をやった。プラスチックのロボットだった。前を向いて、眼鏡を押し上げる。
 加藤暢が作る人形のことを思い出した。ついでに、それが展示出来ないことも思い出し、小さく溜め息をついた。
 今回の個展では、加藤の作った人形も是非展示したいと申し出ていたのだが、それは彼に頑なに拒否されてしまっていた。彼の人形はそれだけで立派なアートだと思うのだが、彼はそれをヨシとしない。もしかしたら自分の作る人形には商品としての自信がないのかも知れない。そう思い、どうして絵にするんだというような内容のことを問うたことがあった。彼は深く考え込んでから「それを絵にしないと意味がないから、かな」と言った。


 出会ってすぐのことだったと思う。エアコンのない彼の部屋で、扇風機の風を切る音を聞きながら、正は「どうして」と問い返した。「どうして、絵にしないと意味がないのか」と。
 彼はまた深く考え込むように首を捻った。
「聞かれると難しいですね」小さく笑う。
「嫌なら答えなくてもいいんだけれどね。観賞する者の純粋な好奇心で聞いてみたくなったんだ」
「例えば」
「うん」
「例えば。コップにヒビが入ってたとするじゃないですか」
「コップ?」
「はい。コップ、です。飲み口の所にヒビが入ってるとして。でも、割れてはないんです。ヒビが入ってるだけなんです。そういう時、危険だなぁ、と思うけどまだ使い続けたりしませんか」
「使わないかな。危ないだろう?」
「あぁ」彼は溜め息にも似た息を吐いた。「そうですよね。十ヶ崎さんほどの人がヒビの入ったコップを使うわけがない。でも……僕は新しいコップを買うお金がないから使うんです。危険だなぁって思いつつ、別に使えるかって思って。自分を誤魔化して。そしたら使ってる間は、そのヒビのことなんて本当に気にならなくなってたりして。それでたまにふと見つけてあぁ、そういえば、ヒビが入ってたんだなって気付く。僕の絵は……僕が絵を描くということは。つまりはそういうことだと思うんです」
「つまりは……自分を誤魔化す為に描いているということかい?」
 彼は頷かず、曖昧に微笑んだ。扇風機の風を切る音が、やけに耳についた。
「僕等は僕等にとって価値あるものを貫こうとした」
 突然彼はポツリとそう呟いた。
「僕等は僕等にとって価値あるものを貫こうとした? どういうことだい?」
「僕の絵の根底にあるのは、それだと思うんです」
「あぁ」正は小さく頷いた。「そう、か」
 つまりは自己を表現するものの一つとして、絵画を描いているというこだろうと思った。皆が皆そうだとは言わないが、アートを自己表現の手段にしている画家は多い。
 彼の言葉は、自分にとって価値のあるものを描いていきたいという決意にも聞こえた。
「いい言葉だね。僕等は僕等の価値あるものを貫こうとした、か」
 小さく微笑む。
「場面は違うけれどね。自分自身に判断基準を置くのは分からなくないよ。僕だっていつも、正しいことは自分自身の良心の中にあるだろうと思っているからね。法律や常識が翳す正義を鵜呑みにしたりはしない。判断の基準はいつもでも、自分の良心なんだ」
「そうですか」
 彼はただ、同意も否定もなく、曖昧に微笑んだ。



 加藤の人形を展示出来ないことは惜しいとは思う。けれど、それも彼なりの何かしらのポリシーがあるからなのだと気づいてからは、しつこく言うことをやめた。
 ポリシーをを捻じ曲げられることがどんなに嫌かは、良く分かった。だから人形は展示しないと約束したのだ。
「本当は。残念だと思っているんだけどね」
 正は小さく呟いた。公園に足を踏み入れる。駐車場に行くにはここを横切ったほうが早い。ブランコに小さな砂場、ベンチがあるだけの小さな公園だった。加藤暢と出逢った公園。
 あの時、ここのベンチに加藤暢は座っていたのだ。シオン・レ・ハイと一緒に。
 シオンのことは草間興信所で一度、見かけたことがある。白い肌に漆黒の髪を持ち、口さえ開かなければ物腰の柔らかい、上品に歳を重ねた紳士に見えるような男だ。しかし一度口を開けばそのギャップに驚いてしまうような、そんな男だった。
 二人はベンチの端と端に腰掛け何を喋るでもなく、たまたま一緒になったという風だった。ブランコに乗る子供を眺め、それぞれの物思いに耽っているように見えた。
 そういえばあの時、どうして自分はこの公園に足を踏み入れたのだろうか。
 そうだ。
 この近所に僕の紅茶を贔屓にしてくれているご夫人がいる。そこでのお茶会に顔を出した帰りではなかっただろうか。その時は丁度、前回草間興信所の依頼を手伝った際に知り合った変な男に後をつけられていて、車のナンバーが見られてしまうのを嫌だと思っていた。直接駐車場に行くのも気が引けて遠回りして歩いていたのだ。それで公園に入り、シオンの姿を見つけ声をかけたのだ。
「こんにちは」と。
 シオンは目をトロンとさせて、ゆっくりと正を見た。ニ三度瞬きしてから「あれま。十ヶ崎さんではありませんか」と言った。
 何処かからやっと戻って来た、といった風だった。
「休憩でもしてらっしゃるんですか?」
「いえいえ」とシオンは柔らかく微笑んだ。歳は四十二歳と聞いていたが、その微笑みは少年のようだった。「仕事がない時はこうして公園で子供達を眺めているんですよ。安らぐでしょう? まぁ要するに暇なんですが……あ、そうだ。私実は編み物も出来るんですよ〜。見ますか?」
 何も答えてはいなかったが、シオンは傍らに置いた紙袋からゴソゴソとピンク色の毛糸と編み棒のセットを取り出した。「兎ちゃんの服を編んでいたんです〜」
「兎?」その時になって始めて、正はベンチの足に首輪をつけた兎がくくりつけられていることに気付いた。いや。よくよく見ると紐の先は何処にもくくりつけられてはいなかった。ベンチの下でとぐろを巻いている。兎はただチョコンとそこに座り込み、感情の読み取れない目で前方を見つめていた。
「そうだったんですか」と答えて隣に腰掛けた。兎はピクリとも動かなかった。置物のようだ、と思った。
 編み物を取り出したら編みたくなったのか、唐突にシオンは編み棒を動かし始める。
「そちらの方はお知り合いですか?」
 シオンの横顔に言ってから、その隣に座る青年を見やった。まさか知り合いとは思わなかったが、何となく口に出しただけだった。青年は雲のような白い肌をしており、長い黒髪をそこいら中に跳ね散らかしていた。みすぼらしいとまではいかないが首口が伸びきった白いTシャツをきており、そこに赤や黄色、青などの色がポツポツと飛び散っている。
 あぁ、絵の具。
 正の思いつきと重なるように緩やかな風が吹いた。生ぬるさを孕んだ風だった。テレピン油の独特な匂いが、鼻腔に流れ込んで来た気がした。
「いえいえ。知り合いではありません。さっきフラリと現れましてねぇ〜。何してるんですかって言ったら息抜きを、と言ったんですよ。ね?」シオンは編み棒から目を逸らさずに青年に体を寄せた。トンと肩をぶつけられて、青年は「え」と驚いたように体を少しだけ揺らした。
「え? な、んで……すか」おずおずと掠れた声を出す。
 その時、シオンの傍らでじっと物置のように静止していた兎が弾かれたようにピョンと跳ねた。驚いた。正の心臓も音を立ててトクンと跳ねた。
 兎は走り出していた。「わ」と言ったのはシオンだ。編み物を横に置いて兎を追いかける。身を屈め手を前に突き出して、捕まえようとはしているのだろうが追いつかない。ブランコに乗っていた子供が「わぁ、何あれ〜」と言っていた。
 正は青年を見た。青年も正を見た。苦笑した。青年も黒い眉を下げて苦笑した。
 兎は幼稚園と公園の間を隔てるコンクリートの壁の前、申し訳程度に植えられた木々の前でピタリと止まった。「世話を焼かせますねぇ」とそれはそれは嬉しそうに言ったシオンが兎を捕まえ抱き上げようとする。ゆっくりと足を踏み出した。「わ!」
 シオンの片足が土の中に入り込んだ。落とし穴にはまったのだ、ということだけは遠目に見ていた正にも分かった。片足が穴にはまったシオンはバランスを崩し前のめりに倒れこんだ。
「誰ですかぁあ。こんな所に穴なんか掘ったのは!」憤慨というよりは泣きそうな声で言って、シオンは何はなくとも自分の服についた砂を払っていた。足を引き出し、また払う。
 そして。何かに気付いたように穴を覗き込み、正を振り返ったのだ。
「何か埋まってますよ!」と。



「それで、何が出てきたの!」
 シュラインは向かいに座るシオンに噛み付きそうな勢いで言った。
 緩やかというよりは突き刺すような、攻撃的な夏の日差しがブラインドの隙間から入り込んでいる。興信所のクーラーは老体ゆえ夏の厳しさにバテているのか、凄まじい音を立てて風を吹き出していた。
 厳しい暑さは衰える気配すら見せず続いていた。寒い冬よりは夏の方が活動的な気がして好きなのだが、こう暑くては体がついて行かない。
 クーラーの苦しそうな音の隙間から、パソコンメールの受信を知らせる軽快な音がした。依頼に関する下調べの報告かも知れない。けれどシュラインは視線を動かさず、前方を、シオンの顔を、じっと見つめる。今この目の前の人がもしかしたら、全ての謎を解くかも知れない。そう思うと身を乗り出さずにはいられない。
 ずっと釈然としないものを感じ、気にはなっていたのだから。
 そこに舞い込んできた「埋まっていたものを掘り起こしたんですよこの間」なんて話だ。これは神様が用意してくれた、素晴らしい偶然ではないかと期待したくなる。
 シオンはシュラインが前回の依頼の際、京都土産にと買ってきた麩焼き煎餅を、ゆっくり租借し緑茶で流し込んだ。「それがですねぇ」勿体ぶるような口調で言って次の煎餅を取り封を開けた。「スゴイものですよ」と続ける。
「だから、何なの」
「だからスゴイものですよ」
「そのスゴイ物は何なのかと聞いているのよ」
「それは」青い瞳が上目使いにシュラインを伺う。しかし溜め息と共に視線を外し、封を開けた煎餅から中身を取り出しゆっくりと租借する。
 一体、何が埋まっていたというのだろう。
 シオンの顔つきを見ていよいよシュラインは興奮してしまう。
 煎餅を租借し終わりほっと息をついたシオンが、仕方ありませんねと言わんばかりに体を乗り出した。チョチョイと手招きされるまま、顔を寄せる。
「なにが埋まっていたの」
 思わず囁いていた。シオンは左手を口の横に手を当てて密談するかのように言った。
「パンツィーですよ」早口だった。
 その後できょろきょろと辺りを見回す。
「え? ぱ。パン」シュラインは思わず聞き返した。
「パンツィーです、パンツィー。ピンクとか赤とか黒とか!」また早口にそう言って「キャ。おじさん照れちゃう〜」と顔を覆った。
 パン……ツィ。つまり、女性物の下着ということか?
 なんだ、それは。
「なんだ」シュラインは思わず、あからさまに脱力しソファに背を預けた。「ただの下着なのね」
「ただのって……びっくりしたんですよ! 恥かしかったし!」
「あぁ、そうなの。良かったわね」
 投げやりに言って、肘つきをポンと打った。
 馬鹿馬鹿しい。そう、思った。
 だいたい根拠も理屈もなく何かが埋まっていたというだけで話に乗ってしまうなんて、どうかしている。暑さのせいで頭が参ってたんだな。
 シュラインは自分のこめかみをキュッと押さえた。
「なんであんなに必死になって聞いていたのに、途端に興味を失くすんですか」
「必死だったことは謝るわ。こちらのミスだもの」
「途端に興味を失くしたことは?」
 溜め息をついた。なんだか責められているような気がした。
「奇しくもこの間、持ち込まれた依頼と同じだったから。仕方ないじゃない」言い訳する。
「依頼?」
「どこかに埋まっているなにかを掘り起こしてきて、記憶を取り戻して欲しいって依頼よ」自分で言っておいて何だが、要約するとわけがわからないな、とシュラインは思った。
「は?」案の定、シオンが眉を潜めている。シュラインは立ち上がり、武彦のデスクの上にあった書類を差し出した。
 ついでにメールのチェックもする。
 暫くはそこに目を通しているのかシオンは静かだった。しかし「そそそそそ。そんな! 死体なんかが埋まっていたらどうするんですか!」と声を荒げた。
「死体、ねぇ。まぁ、掘り起こせたら、の話よね。何にしても」
 メール画面をメモに取りながらシュラインは呟く。
「よぉ姉御。暑いけどちゃんと留守番してんか? 俺は所長と一緒に頑張ってんぜ」という書き出しから始まるメールは、必要な内容よりも無駄なことの方が多いように見えた。プリントアウトするよりは、必要な部分をメモした方が早い。
「どういう意味ですか」
「そういう意味よ」
 メモを取り終えて、シュラインが顔を上げる。
「調査の方は進んでらっしゃるんですか」
「嫌なことを言うわね、貴方」
 脳裏に女の顔が浮かぶ。眉を潜めた。
「嫌なこと、言いました?」シオンは相変わらず少年のような顔で微笑んでいる。「お手伝いしようかと思って。掘り起こすくらいなら出来ますよ」傍らにあった紙袋から、プラスチックで出来た赤い玩具のスコップと。
「何よ、それ」シュラインは思わず、目を見開く。
「キレイ好きなもので」
「スコップをくるんであるビニール袋じゃなくて。そっちの……それ、兎?」
「ここほれキャンキャン。パンツィーを見つけてくれた兎さんですよ」
 パンツィーはもういいんだって。
「穴掘りには彼女も付き合ってくれますよ」それはそれは愛しそうに、兎の首を指で撫でながらシオンが言う。メスだったのか。
「穴掘り……する日なんてこないわ。心配しなくても」
「それって、どういうことなんですか。さっきから」
「それがね」溜め息と一緒に吐き出した。



 シュラインらの話を聞いて、女は「まぁ」と言ったきり口を閉ざしてしまった。頬に手をあて、驚いたように目を見開き口をぽっかりと開けている。
 ファンデーションが小皺に食い込んでいた。
 見ちゃ駄目だと思うほど、そこに目がいってしまい、シュラインは困った。個人の自由なので放っておけばいいのだが、塗りたくれば重ねた歳がなくなるとでも思っているのだろうか、なんてことを考えずにいられない。タラコのような分厚い唇は、赤いツヤツヤとした口紅で光り、長時間顔をあわせていると吐き気を催してしまいそうだった。申し訳ないが、想像力は豊かな方だ。
 何か言ってくれ。沈黙の中にその顔を晒さないでくれ。それとも私が何かを言うべきか。
 考えていると隣から、草原に走るなだらかな風のような声が言った。
「ですから。柏木永樹さんにお逢いしたいのですが」
 セレスティ・カーニンガムの声だった。
 正直、ほっとした。シュラインは彼の美しい顔に視線をやりながら、頷く。その周りだけ、異様に甘い女の香水の匂いから解放されているかのように見えた。
 部屋の中は、女の香水の匂いで満たされていた。同じ物ばかりを愛用しているのだろう。白いソファは、毛並みが驚くほど良く座り心地も素晴らしかったが、匂いが染み付いてしまっている。
 もしかしたら、ソファにも同じ香水を吹き付けているのかも知れない。
 その瞬間、ギョロリと女の目がシュラインに向けられた。ただ見ただけだろうが、不快だった。女がクシャリと顔を崩す。それはまさに、崩すという表現がはまる笑顔だった。
「申し訳ないんですけれど」素人が奏でるバイオリンのような声だった。「お帰りいただけます?」
「帰、る?」本当に申し訳ないだろ、と思った。
 呟くと、女はあごの肉をたるませながら頷いた。「えぇ」
「何故でしょう」
 セレスティの声は、相変わらず不快やネガティブといった物をかもし出す色がない。不釣合いな時もあるが、こういう場所では便利だと思った。
「お恥かしい話なのですが」恥なら別のところでもう晒していますよ。と言いかけて飲み込んだ。
「永樹は。正常ではありませんのよ」
 女が目を伏せる。
「あの子は。カウンセラーの先生や私の力を借りてやっと生きているような子でございますの。今お聞きしました依頼というのも、お恥かしい話、精神状態が不安定になったあの子の嘘か妄想でございますわ。お手を煩わせることも御座いません。現実にないお話なんですから。全く、困った子ですわね。代わりに私がお詫び致しますわ。お時間を割かせてしまって、本当に申し訳なく思っておりますの。その依頼はどうぞキャンセルして下さいまし。キャンセル料の支払いはさせて頂きますので」
「しかしその。カウンセラーの先生に勧められて、うちの興信所を訪ねたと永樹さんは仰ってたんですが」
「そうですか」
「はい。ですから決して怪しいものでは」
「そんな」女は口元に手を当てて首を振った。「怪しいなどとは言っていませんわ。カウンセラーの先生ともお話しなくてはいけないでしょうね。ですけれど、興信所の方にまで首を突っ込んで頂くようなお話ではない、と申し上げておりますの。永樹が申しました依頼は、キャンセルして下さい」
 依頼はキャンセル? シュラインは眉を寄せた。昨日の今日でキャンセル? この暑い中、ここまで足を運んだのに?
「酷く、断定的な物言いをされるのですね」セレスティが微笑みながら言った。彼だから出来る芸当だった。シュラインもできるだけ険悪にはならないよう、口を挟む。
「永樹さんの、ご本人の口からキャンセルしたいという申し出を聞かないことには、こちらとしても依頼を取りやめるわけには」
「私はあの子の母親ですよ。証明が必要でしたら戸籍謄本でも委任状でもお持ちしますけれど? 私はあの子の母親ですもの。あの子の気持ちは一番分かっていますわ」
 つやつやに光った気持ちの悪い唇が、ゆっくりと吊り上った。
「まだ、何か問題がありまして?」



「彼と埋めた記憶ではなく、彼を埋めた記憶、とかな」
 ケーナズ・ルクセンブルクが言って、更にフンと鼻を鳴らした。綾和泉汐耶は、それでは少し、話が飛躍し過ぎではないか、と思った。
「もしもその母親が嘘をついているとするならば。それくらいの物が飛び出した方が面白いだろう」
 どうだ、といわんばかりに手を掲げる。
「面白いとか面白くないとかの問題ではない、でしょうね」
 汐耶は言った。ケーナズはまた、その程好く厚みのある唇を吊り上げた。
 ガラス張りの室内に、太陽の陽の光そのものだけが心地良く差し込んでいる。暑くはなかった。音の静かなエアコンが室内を適温に保っているせいだ。白いテーブルセットの周りには、色とりどりの花たちがバランスよく配置されている。リンスター財閥お抱えの庭師が手入れしているのだろう。
 セレスティカーニンガム邸にある、温室の中のガラス張りの部屋である。こうやって見ると、太陽もあながち悪い奴ではないように思えてくる。
 テーブルの下には芝生が植えられており、ケーナズの足元で茶色い髪をした青年が寝そべっていた。家で飼っているシャムネコだ、気にするな。とケーナズは言ったが気にはなる。しかし次第に気にしている自分の方がおかしいのではないか、と思えてくるくらい、皆は自然だった。
 茹だるような暑さのことも、悪質な万引きのことも、あらゆる現実感というものを忘れてしまえそうな空間だった。
「だいたいだ」
 ケーナズがテーブルの上にあるティーカップに手を伸ばし、言った。紅茶を口に含んだ後、喉を鳴らし続けた。「人の記憶というものは曖昧だ。だから依頼主の覚えている記憶の断片が真実であるとは限らない。深読みさせて貰えば。それは何かを埋めた記憶なのではなく、それそのものが埋めたい記憶なのかも知れんしな」
「だから、彼と埋めたではなく彼を埋めた、ですか」
 セレスティが微笑んだ。その微笑みからは、女性的な色気とでもいえそうなものがフワリと香る。自分こそ女性だが、同じような色気を微笑む度撒き散らせられるかと言われれば、首を傾げるしかない。
「そもそもなんで、依頼人の家なんかに行ったりしたんだ」
「そうですねぇ」記憶を来るように少しだけ小首を傾げたセレスティが紅茶を口に運ぶ。その声、その顔、その仕草。全てから、気品のある、揶揄すれば世間知らずの王子様のような雰囲気を感じる。けれど、その瞳は時に、鋭い光を帯びる。笑いながらでも人を殺めてしまうのではないか、と思ってしまうような。
 そういう部分が、強大な権力を持つリンスターの総帥で在り続けられる理由ではないかと思う。
「草間興信所に娯楽を探しに行ったのですがね」
「キミも暇だな」
 ケーナズのからかいにセレスティがフフフと笑う。
「新しい依頼があるというのでお話を聞いたんですよ。それが今先ほど話した内容ですが。汐耶さんもその前後にお話は聞かれてたんでしょう」
「えぇ」
 確かに、地図を手に入れたいから用意しておいて欲しいという話は来ていた。今現在の地図と、当時の地図。しかし用意はしたが、調査を手伝うことは考えていなかった。
「なんだ。調査依頼を受けなかったのは私だけか」
「依頼人が中学生だった頃の地図を手に入れたいからと言われただけですよ」紅茶を口に運び、素っ気無く言う。
「地図ね」ケーナズが小刻みに頷いた。「なるほどな。何かを埋めたとして。掘り起こすことを前提に埋めるものであればそう遠くには埋めないだろうしな。死体でない限り、は」
「心配しなくても死体は埋まっていませんよ」セレスティが微笑む。ケーナズは芝居ががった口調で「わからないじゃないか」と拗ねて見せた。
 いつだったかケーナズとセレスティは夫婦のようだと誰かが言っていたのを思い出した。まさにそのような会話だ、と汐耶は唇を吊り上げた。少年のような夫を宥める妻、だ。悪くない。
 そして自分と恋人未満のあの彼との会話はどんな風だったかと思い出す。比べるのが間違っている。彼は、飄々としすぎている。いや。私も。
 成人男子二人を捕まえて不謹慎かも知れないが、こういう雰囲気は少し羨ましい。
「それで。何故、依頼人の家に行くことになったんだ」
「連絡がつかなかったんですよ。彼とね」
「連絡がつかない?」
「彼は言ったそうですよ。依頼を持って来た日に『ご質問にも、出来る限りお答えしますのでどうか宜しくお願いします』とね。しかし面白い。その後何度連絡先の電話番号に電話をしても彼は受けなかったそうです。だから仕方なく自宅を訪れることにした。その場面に私が居たわけです。それで一緒に同行した。そして今お話した通り、お母様に追い払われたんですよ」
「それは本当にお母様だったんでしょうか」
 思わず、言った。
「私も、今そう言おうと思ったよ」
「草間の女将の言葉を借りれば」その言葉に、シュラインの顔を頭に浮かべる。「ソファには彼女の香水の匂いが染み付いていたし、あの家で生活しているという雰囲気はあった。年齢的に言っても矛盾はないわ。それに彼女と依頼人の写真もラックの上に飾ってあったわ。見ていない? ……と、いうことだそうですよ」
「つまりは疑ったんだな」
「女将は気が利く、ですからね」
「そうだな」
 ケーナズが小さな溜め息を漏らし頷いた。
「では何の問題もない。世の中には忘れていた方が良いということもあるんだ。きっと彼は、何らかの事情で依頼を取り消したくなった。けれど自分で言う勇気もないマザコンだから、母親に頼んだ。そういうことなんじゃないか」
 確かにそういうこともありうる、と思った。



 下駄の底が上手くペダルと噛みあわない。不安定な状態に、雪森雛太は舌打ちしたくなった。それでも懸命に漕ぎ出した。風が頬を叩く。景色が流れ始める。
 待ち合わせ場所である喫茶店へ向かった。
 聞き込みをした結果、中学生の頃の柏木永樹は余りに人脈のない男だったということだけが分かった。誰に聞いても「さぁ」と小首を傾げられ、その後で「あぁ」と言う。
 続く言葉は「そういえば居たっけな」だった。その後で質問するのも気が引ける。そういえばで思い出す人間の情報なんてないに決まっているからだ。けれど、質問を重ねる。あの人の喜ぶ顔が見たいが為だ。しかし予想通り帰ってくる言葉はまた「さぁ」に戻る。
 浴衣が肌蹴て、腿に風があたる。すれ違った主婦がチラリとだけ視線を寄越し、慌てて外した。気にならなかった。
 盗んだ自転車はそれなりに快適だ。下駄の違和感も、漕ぎ出せば気にならない。
 待ち合わせ場所である喫茶店ジュールは、歩いて行ける距離にあったが、今の格好では遠すぎた。駅で運良く鍵つきの自転車を見つけ盗んだ。浴衣なんて着てくるんじゃなかったと一瞬思って慌てて取り消した。夏は浴衣だ。歩きづらくても何にしても、夏は浴衣だ。涼しげな白絣の浴衣は気に入っている。
「こまめに水分取ってね、武彦さん」
 ふいに、今日、草間興信所を出る時にシュラインが言っていた言葉を思い出した。武彦は「あぁ」といい加減な返事を返し、シュラインが渡したペットボトルを「だけど邪魔だな」と面倒臭そうに戻していた。自分ならそんなことしないのに。と思う
 折角思いやってくれているのに。そう、思うのだ。
 喫茶店の前でブレーキをかけ、足をついた。スタンドを立てる時に、また下駄の不便を感じた。室内に入ると、体中の汗が冷たいエアコンの風を感じた。
 テーブルで煙草をふかす、草間興信所所長の武彦の姿を見つけた。その瞬間、これでまた武彦は株を上げるに違いないと思った。
「よぉ」
 武彦が雛太の姿を見つけ、手を上げた。
 雛太は乱れた髪を手ぐしで整えながらテーブルへと歩み寄る。椅子を引いて乱暴に座った。
「おい。股を閉じろ、股を。野郎のパンチラなんか見ても嬉しくない」
 無視して武彦の分の水を飲んでやる。氷をガリガリと噛み砕いた。
「それで。どうだった」
「どうもこうも」溜め息をついた。「全然よ」
「そうか。やっぱりな。どんなことを言ってた」
 雛太はテーブルに膝をついて、そっぽを向いたまま言った。
「さぁ。あぁ。そういえば居たな。さぁ。どうだったかな。中学生時代のことなんて覚えてないよ」暗唱して、武彦の顔を見る。「なんか俺。洋輔の後釜みたいになってねぇ?」
「草間興信所で寝泊りしてるんだから、仕方ないな」
「俺、本業は学生なんだけど」
「それは知らなかったな」
 雛太はわざとらしく溜め息を吐いた。
「で。そっちはどうだったんさ」
「こっちは完璧だ。もう終わる」
 武彦が煙草を灰皿にこすり付けた。その顔を見る。眉は細くない。自分はどうだっただろう。太くはないと思う。武彦の目は細い。自分は大きい。鼻はきっと負けてない。俺だって高い。高いけど、少し鼻先がとんがってるかな。それはチャームポイントだぞ。うん。唇は、いや。唇も。きっと俺のがバランスいい。なんだ良く良くみれば、武彦、大したことないじゃん?
「なんだ」武彦が眉を寄せて見返してくる。こういう鬱陶しい表情をするから女性は引くんだ。間違いない。間違いはないが、だったら姉御はなんで好きなんだ? もしかしたら、そういう他に奪われ無さそうなんが趣味なのかも。
「お前は今、絶対に失礼なことを考えてるな」
「なんで」
「そういう卑しい顔をしてる」
 武彦が身を乗り出して、雛太の顔を覗きこんだ。
「当然のことを考えてたんだよ」軽く言って、椅子に体を預けた。「とりあえず。姉御がやりたそうだったからなんしょ。この調査をし始めたの」
「なんだそれは」
 武彦は小さく笑った。瞳を閉じたまま、小刻みに首を振る。
「関係ないさ」
「蟻の吐く息で地球の温度が一度上昇するようなこのご時世、何が起こっても関係なくなくなーい?」早口で言った。身を乗り出した。
「そういえばさ。そのぉ所長はさ。恋とかどーなん?」
「恋?」
「女とかさ」
「あぁ」武彦は唇を吊り上げる。「唐突だな。お前は。いつだって勝手に頭の中で話しを進めてる」
「ごめんね。回転早くて」
「女は苦手だな」
「だよな」分かってはいたけれど。
「なんだって?」
「いや。まぁ。あんまり軟派には見えないなっていう話で」
「まぁいいさ」武彦は椅子にもたれて腕を組んだ。「俺の場合は。そうだな。分析と組み立てと結果なんだ」
「分析と組み立てと結果?」
「そうだ。俺は何事もそうやって順序立てないと気が済まないところがある。だから女に関しても行動を分析して、自分の中で組み立てて、結果を出すんだ」
「それで?」
「疲れる」
「は?」
「疲れるんだ。面倒臭くなる。どうせ分析したって人同士だからな。相手を理解しようと執拗に思うことよりも、自分をちゃんと持つということの方が大事なんじゃないかと気付くようになる」
「フーン?」
「相手のことなんて、調べなくても知っていけばいい。自分をちゃんと持っていれば、相手は自分を知っていく。それで合わないなら、はいさよなら、だ」
「分かるけど。恋とかって好きとかって違うんじゃん? 俺も……その、分析と組み立てと結果ってのは分かるけどさ。それが出来ないから恋って辛いんじゃん? たぶん」
 武彦は小さく頷いて煙草を咥えた。煙を吐き出しキュと唇を持ち上げる。
「だからな。これは冷めた大人の意見なんだ。恋だナンダと騒ぎたいなら、俺に聞くより同年代の奴に聞いた方がいい」
 溝。
「溝」
「なに?」
 そういう男が好きな女のことを知りたいから、困ってるんじゃないか、と思った。
「とにかく。どうすんだよ。これから。人脈の線は消えたし、依頼人本人とは連絡つかないし。道、途絶えたんじゃねぇ?」
「あと一つ、ある」武彦が人差し指を突き出す。「カウンセラーだ」
「だぁから。そのカウンセラーだって依頼人と連絡取れなきゃどうしようもなくね? まさか日本中の病院を訪ねて回るとか言い出すんじゃないだろうな」
「まあ。それもいい」
「マジで言ってンの?」
「でもまぁ。何かしらの手がかりやヒントがあった方がいいのは確かだ」
「ないから困ってんじゃん」
 武彦は小首を傾げて微笑みながら、横目に雛太を捉えた。
「運に頼るのも実力のうちだ。女のことは分からんがな。こういうのは得意なんだ」
 そう言って、ゆっくりとした動作で懐から旧型の携帯電話を取り出した。



「では。調査はしないということですか」
「そうね。そうなるわね」頷いてから訂正した。「しないっていうか出来ない、ね」
「あぁ。そうでした」緊迫感のない声でシオンが頷く。
「所長がやらないって言うんだもの。出来ないわよね」
 シュラインは小さく息を吐き出した。
 武彦は今、他の依頼の調査に出かけている。「母親にしろキャンセルと言ってるんだからキャンセルだろう。連絡だってつかないし、どうすることもできない」なんてつれないことを言ってさっさと次の依頼に取り掛かってしまった。
 けれど釈然としない。依頼人自身の口から「キャンセルです」と聞くまできっと、釈然としないのだろう。
 何とか、カウンセラーにでも話を聞けたら、と思う。けれど、東京の街にはカウンセラーなど腐るほど居るのだ。何故、依頼人が最初に興信所を訪れた時、紹介したというカウンセラーのことを聞いておかなかったのかと悔やまれる。
 武彦がやらないならば、私が一人でと言ってやりたいのは山々だったが、他に仕事を抱える身ではそうもいかない。残念ながら、一人で解決できるような内容ではない。
 依頼人不在の調査なんて、手伝ってくれる人が居るとは思えない。そもそもそこに何の意味があるのかと問われれば、困るのだ。結局、母親の態度が気にかかるというだけなのだから。
「では。私と兎ちゃんの出番はありませんかねぇ」
 兎と戯れるシオンを見る。
「ねぇ。貴方も調査から一緒にやってみない?」
 その言葉にシオンと兎が同時に振り返った。
「それは」興味をなくしたようにまた兎を見る。「出来ませんよぉ。私。推測とかそういうのは苦手ですから。探しに行くまでは、冷たいジュースでもご馳走になりつつ留守番していますよ。推理とか推測とかは得意な人に任せるのが筋ですよ。私は穴掘り担当」
「で、す、よ、ね」
 脱力して椅子に背を預ける。
「汐耶さんに頼んでた地図ももう要らないか……謝っておかなきゃ」
 呟いてデスクにある電話の受話器を取った。



 ポケットの中を探る。携帯が、なかった。
 しまった。加藤の家だ。
 正は小さく溜め息をついて、キーを回した。エンジンを切り、車から降りる。
 今頃気づくなんてと落胆した。確かに駐車場に来るまでずっと、携帯のことなんかスッカリ忘れていた。
 ドアロックをかけて身を翻す。来た道を戻り始めた。公園を横切り、住宅街の中を縫うように歩く。アパートの階段を昇り、加藤の家のブザーを試しに鳴らした。
 その後で、コンコンと控え目なノックをする。
 暫し沈黙があった後、ゆっくりとドアが開いた。
「はい」
 鬱陶しそうな声と、黒髪の頭が見えた。
「僕だよ。ごめんね。忘れ物をしたから」外から大きくドアを開いてやる。すると加藤が引き摺られるようにして顔を上げた。
「あぁ、十ヶ崎さんでしたか」掠れた声で言って、社交辞令の笑みを浮かべた。
「寝てたのかい?」
「えぇ、ちょっと休憩を」小さく会釈して、体を翻す。「どうぞ」
「すぐに出て行くから。携帯を忘れたんだ」
「そうでしたか……気付きませんでした」
「マナーモードにしてる携帯は、蚊よりも害がない。ペースメーカーを入れてない人には」
「あぁ」背後で加藤が笑った。「確かに。無音ですもんね」
 入り口に立って、乱雑な部屋を見渡した。
「ありますか」背後から追い抜いた加藤が、タオルケットの丸まったパイプベットに腰掛けた。「あぁ」言いながら、視線を巡らせる。
 立てかけられているキャンバスの後方、蜜柑箱の上に座布団が乗った訪問者用の椅子の上に、正の携帯はあった。
 そういえば。加藤の家で一度だけ電話を受けたのだ。もちろん、その時は外へ出て会話をしたが、戻ってきてポケットへ仕舞い入れるのを忘れたのだろう。
「あったよ」携帯を手に取った。「ごめんね。お休みのところ。じゃあ。また明後日」
 加藤に見送られ、部屋を出た。そこで、手の中にあった携帯のディスプレイが光った。着信だった。名前を見ると草間武彦と表示されていた。
 小首を傾げながら電話を受ける。
「はい。十ヶ崎ですが」
「草間だ。今は……外か?」
 錆びた鉄の階段を下りる。カンカンカンと音が鳴る。
「はい」
「何処に居る?」
「K町のスミールというアパートに」
「あぁ。あのディスカウントショップの並びにある」
「えぇ……そうです」足を止めた。「どうかされました?」
「実はちょっとな。お前に頼みたいこというか聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
「詳しいことは電話では話せないが。以前。記憶がなくなった友人が居ると、言っていたな?」
「あぁ、えぇ……と、いうか曖昧に。錯乱したり、ですね」
「その時、何処かの病院にかかったりしなかったか? 精神安定剤を処方して貰ったり、な」
「詳しくは知りませんが」
「まぁ。いい。今は藁にも縋りたい気分なんだ」
「仰ってる意味が良く」
「説明する。丁度今、近所の喫茶店に居るんだ。待ち合わせしよう」
 一方的だなと苦笑した。また足を踏み出す。その背後で。
 大きな物音がした。



「空白の中にある記憶が、良い物であるとは限らないでしょう。平凡であるとも限らない。平穏であるとも……まぁ、死体が出てくるとまでは言いませんが」そこでケーナズに視線をやって唇を若干、歪めた。「私も、ケーナズさんが仰るように知らなくてもいいこともあると思います。彼に連絡が取れなくなったのはつまり。怖くなったからではないでしょうかね。自分自身の空白の記憶を知ることが」
「ありえるな」
 その時、汐耶の携帯電話が鳴りだした。ディスプレイを見る。
「噂をすれば。草間興信所からですよ……失礼」
 受話ボタンを押して携帯を受ける。
「綾和泉ですが」
「シュラインです」
「あぁ、はい。なんでしょう?」
「お願いしていた地図なんだけれど。もう使わなくなったから……」
 テーブルの向かいでケーナズが口を挟む。「三人の暇児と一匹が手伝うと言っていると言ってくれ」
「誰か居るの?」
「えぇ。セレスティさんのお屋敷でお茶会を」
「なんだ」シュラインが落胆したような声を出した。「聞いたのね」
「えぇ。でも、ケーナズさんが手伝う、と仰ってますよ」
「本当?」
「えぇ。セレスティさんとケーナズさん。それから、人科のオスペット一匹」
「人科……あぁ。女神ノ会の」
「女神ノ会?」
「あ。ううん。なんでもないわ。依頼人不在と知って手伝ってくれるって? ……あれ。汐耶さんは?」
「私は……」
「どうしたの」
「実は今」
 言いかけて、席を立つ。受話口を押さえて「失礼」とガラスの部屋の外に出た。
 途端にどっと体が汗ばむ気がした。
「実は……図書館で私、魔術書の管理をしていますでしょう? それが盗まれたんです。全部ではないんですけれど、二冊ほど。今は、絶版になっている物が多いですから。手に入れようと思えば、高額なお金を支払わなくてはならないし。オカルトブーム以降に魔術に興味を持った若い学生たちは、喉から手が出るほど欲しいと思うんですよ。足元を見るかのように値段は釣りあがるし、だから盗むのだと思うのですが。あるいは、そういうマニアに売りつけるのが目的か」
「そう、か」
「えぇ。だから、積極的にお手伝いすることは出来ないんです。今日一日はお休みですから、大丈夫ですけど。仕事中は出来るだけ監視していたいので」
「取り戻したいわね。奪われた本も」
「もちろん」汐耶は太陽を見上げて目を細めた。「取り戻しますけど」
「じゃあ。ケーナズさんに電話代わってくれる?」
「わかりました」

10

「おいで」
 目の前で透き通るように青白い手が開かれた。主人に連れられここに来た時から、美しい人だと思っていた。間近に見ると、その余りの美しさに恐ろしい、と思った。
 それでも広げられた手には得体の知れない引力があり、半ば引き摺られるようにして、ユウはその彼の手に頭を突き出していた。髪に指が絡まる。ゆったりと引っ張られる。そしてまた撫で付けられる。ユウは瞳を閉じて、彼の膝に頬を預けた。
「可愛い子ではないですか」
「キスをせがむ時の顔はもっと可愛い」揶揄するように主人が言った。
 嘘じゃん。
 フンと鼻を鳴らしてやった。だいたい一度だってキスをせがんで、キスしてくれたことがあるか。
「しかしどっちかというと。こういう反抗的な態度の方が好きなんだ」
 ペンと頭を叩かれる。「可愛い顔を見るとついつい知らん顔をしたくなる」
「意地悪なご主人様ですね」
 彼の声は柔らかい。その手も、柔らかい。思わずその手を取った。彼の顔を見上げる。主人と同じ青い瞳。けれどこちらの方が色素が薄く、微笑色にゆったりと細められている。
「私もこんなペットが欲しいですよ」
「だったら台風の日にふらふらと外を歩いてみればいい」
「台風の日?」
「こいつはこんな顔をして悪いことを企むんだ。こんな悪党を世に放つと世間様の迷惑になる」
「本物の悪党ならもう悪いことやってるって」ユウは瞳を閉じたまま素っ気無く言う。
「私の傍に居るから出来ないんだよ」
「偉い自信」舌を出した。
「新薬の開発が終わるまでお前を放るわけにはいかないな……こいつはな。こんな顔して、私から情報を引き出そうとしたんだ。この私から。小癪だろう」
「そうなんですか。悪い子ですねぇ」
 おおらかに彼が微笑む。細い指先が耳の後を擽る。自分が本当に猫ならば、喉をゴロゴロと鳴らしているだろう。鳴らす喉がないのが惜しい。
 もう片方の手も取って、ユウは彼の膝の上にゆっくりと跨った。
 透き通るような頬に唇を落とす。ついでに小さく舐めた。
「おいおい」主人が苦笑する。ユウはそっちに顔を向け微笑んだ。
「チュウされたい」彼の顔を見た。「チュウしたい」
「私にはチュウされたい。セレスティにはチュウしたい。なるほど」主人が声を上げて笑う。
「なにをしてらっしゃるんですか」
 背後から呆れた声が降って来た。彼の膝に乗ったまま、ユウは振り返る。
 電話を片手に綾和泉汐耶が立っていた。

11

「うわ。臭ぇ」
 部屋に足を踏み入れた途端、攻撃的な匂いが雛太の鼻腔を突いた。思わず、眉を潜める。
「油絵の具の匂いですよ」
 十ヶ崎が飄々と言い、室内へと足を進めた。
「結局、あのすごい物音は何の音だったんだ?」
 前方を歩く武彦も、眉を顰めながら言う。
「彼の部屋が」十ヶ崎はそこで言葉を切る。六畳ほどの部屋の入り口で立ち止まった。雛太は脇から部屋の中を覗き込んだ。愕然とした。人の手足と思われる物が、部屋中に散らばっている。
「ば。ばばば。バラバラ死体?!」
「人形です」十ヶ崎は素っ気無く言って、部屋の中に入って行った。腕の一つを取り、溜め息を吐く。「あの電話の背後で聞こえた音は。彼の部屋の物がひっくり返る音だったんですよ。全く、安普請も甚だしい。早く引っ越して欲しいですよ」
「すみません」室内で人形に埋れていた黒髪の青年が、頭を掻いた。
「急いで来て損したな」
「ホント」
 雛太は唇を歪め、突き出した。
「言うけどさ、草間武彦さん。アンタが慌てたんだかんね」
「そんな事言ったってお前」武彦が室内で手足を片付ける十ヶ崎にチラリと視線をやる。「すごい声だったんだぞ。背後で鳴った音よりも、コイツの大声がだな」
「誰が爆発事故だよ、バカヤロウ」
 武彦はそっぽを向いて喉を鳴らした。
「来たからには手伝わないといけねーんじゃねーの」
 小さく舌打ちして、足の踏み場もないような部屋に入り込んでいく。本物そっくりの人の手や足、そして驚くべきはその顔の数、だ。どれも同じような顔をしているが、数だけは多い。まるで幾つもの生首がそこに転がっているようだ。もちろん、血を垂らしていたり半目を開けて苦悶の表情を浮かべているわけではないのだが、無表情に転がっている分、よけいに怖かった。
「うわー。なんだこ」
「触らないで」
「え」
 雛太は顔に手を差し出した格好のまま、止まる。そして思わず、青年の顔を、見る。
「その。その顔には触らないで下さい。すみません」
 青白い顔が、すまなそうに歪む。
「あ、あぁ」気圧されて、頷いた。体を起こし、顔の傍から離れた。青年が大事そうに顔を手に取った。傍らにあったダンボール箱に詰めた。
「しっかし。何したらこんな散らかるんだぁ?」
「元々、部屋は散らかってましたから」苦笑するように青年が言う。「押入れから物を取り出そうとして……整理してなかったものだから。一つだけ取り出すつもりが全部ひっくり返っちゃったんですよ」
「駄目だぁ。ちゃんと整理整頓しないとさ」
「ですよね」
「あったり前じゃーん、な。オヤジ」武彦の顔を見る。武彦は眉を寄せ、考え深げに顎を撫でながら小首を傾げていた。
「ん? どしたん」
「ん? あぁ。いや。この顔。何処かで見た気がしてな……キミ。この顔にはモデルが居たりするのかい」
「え」
 青年が弾かれたように顔を上げる。「い。いえ」何故か、目を逸らせた。
 あやしい。
「好きな女の顔だな、さては」
「そ。そんな。違います」分かり易い動揺だな、と思った。
「彼の好きな女性に、どうして見覚えあるんだろうな」
「芸能人だからさ。な? そうだろう?」
「いえ、あの」
「待て。皆まで言うな。分かってるって。まぁな。そういう憧れの気持ちってのも分かるけどさ。憧れは所詮憧れなんだよ。辛いな。いや。分かるぞ。手の届かない女に憧れてしまうってのは辛い。しかも、え。これってまさか、恋じゃん?! なんて気付いてしまった時の驚きようと落胆っぷりったらないな。分かる。分かるぜ」
「雛太」ポンと肩を叩かれる。
「オヤジにはわかんねぇんだよ。俺ら若者の心は」
 武彦は肩を竦めた。「失礼さ加減が、洋輔といい勝負になってきたな」
「だけどな。悪いことは言わねぇ。芸能人とか年上の女とかはやめとけ」
 空を見て、聊か格好をつけてみた。「あ……はぁ」青年はオズオズと頷いた。
「しかし何だな。暑いな」
 雛太はその場に腰を下ろした。その時、尻で何か、紙のような物を踏んだ感触がした。「お?」思わず尻を上げて、そこを見る。
「なんだ。これ」尻の下にあったものを手に取った。それは、封筒だった。年期が入っているのだろうか、封筒は所々が折れて皺になり、黄ばんでいた。
「あ」
「ん?」
「それ。何処にありました?」
「うん。ここ」
 雛太は青年に向かい、自分の尻を指差した。
「それを探してたんです。良かった。絵を描き始める前、いつもこれを見るものですから」
 青年は微笑み雛太の元へ這って来る。受け取って、大事そうに胸に抱いた。
「大事な物なんだ?」
「えぇ。まぁ」少年がはにかむ。
「何が入ってンのラブレター?」
「いえ。地図と。欠片と。思い出です」
「フーン?」
 小首を傾げて覗き込んだ。
「けれど僕はずっと。てっきり少年だと思っていたよ」
 青年の背後で唐突に、十ヶ崎が言った。
 なにがだ? 
 思わず、その顔を見る。彼はじっと、青年の作った人形の顔を見つめていた。
 なるほど。人形の話ね。
「いやもうその話は終わったって」
「完成した絵画を見たら分かると思うけれど、これは確かに少年人形だよ。そうだろう? 加藤くん」
 雛太に構わず、正が問いかける。青年は「いえ、あの」と口ごもった。
 そして隣で武彦が「あぁ。そうか思い出したぞ」声を上げた。

12

 走り回っている兎を見ていると、自然と唇が吊り上ってくる。彼女を拾ったのは二ヶ月ばかし前のことだった。彼女は捨て犬ならぬ捨て兎というやつで、ダンボール箱に詰められ、道端に放られてあった。ダンボール箱から出ようとせずに、クルリとした瞳でただ、無表情に前方を見つめていた。
 その姿を見ると、胸がキュンとした。すぐに拾った。それ以来、彼女と一緒に生活している。
 食費は増えたが、幸せも増えたので良しとしようと思った。
 食わしてやれるのは雑草ばかりだったが、いつか新鮮なにんじんやらを食わしてやれる日が来ればいいな、と思っている。
「私は可愛い彼女の為になら何だってやってられるのですよ。だって。彼女を見ている時の私は、体の全てが優しさになりますからね」
「なにが?」
「え」
 シオンはハッと口を噤んだ。シュラインが眉を寄せて瞬きしている。「大丈夫?」
「あ。いや。兎ちゃんを見てたら何か」目尻に溜まった涙を拭う。「口に出しちゃってましたか?」
「出してたわ」
「すみません。何か。花畑の中を駆け抜ける兎ちゃんを見てたらついつい。余りに可愛くて」
「あ。相変わらず、わけのわからないテンションでせめてくるわね、アナタ」
「そうですか。照れるなぁ」
「褒めてないわよ」
 シュラインが依然として眉を寄せ、言った。
 シオンはコホンと技とらしく咳払いをしてみる。
「しかし。すごいお屋敷ですね。ガラス張りの部屋があるなんて。あぁ。いいなぁ。いいなぁ。兎ちゃんをこんな部屋で飼いたいなぁ」
「どうでもいいけど。ちゃんと話、聞いてる?」
「何の話ですか?」
 シュラインがやれやれと溜め息を吐く。その向かいで、ケーナズが言った。
「対抗催眠か……なるほどな」
 セレスティが銀色の髪を揺らしながら頷いた。
「カウンセラーの方がどんな治療をされていたかは分かりませんが。彼自身、思い出したい思いだしたいと言いつつも今、思い出せていないということは。自分自身がそれを封じ込めている、ということでもあるのでは、と」
「彼の依頼内容は、記憶を取り戻して欲しい、だったな」
「えぇ。そうよ」
「だったら記憶を取り戻してから、埋めた物を掘り起こすのも手っ取り早いな。それにそれだったら、死体が埋まっていたとしても心の準備が出来るしな」
「死体?」
「さきほどから彼が、そう言って聞かないのですよ」セレスティが微笑む。
「それはまた、話が飛躍しているのね」
「そうでしょう」汐耶が苦笑する。
「何にしても、母親が何かを隠そうとしているのは間違いない」
「でもその、母親が紹介したカウンセラーがうちを紹介したのよ。おかしいと思わない?」
「まぁ。それは聞いてみないとわからん問題だが」ケーナズが腕を組む。「可能性とすれば、良心の呵責ということがある」
「なるほどね」
「では。とにかく。依頼主、柏木永樹を母親の元から連れ去ってくる。ということだな」
「でも本当に手伝ってくれるの? 依頼主を連れ去ってきて、だからキャンセルだって言ってるだろ。なんて言われて、それから問題が大事になることだってあるのよ?」
「草間興信所の御紙は気が利くが」ケーナズがフンと鼻を鳴らす。「心配性すぎるということもある」
「そうなった時は、母親の力を借りず自分で言いましょうね、と説教してあげればいいではありませんか」
「そうだ。自分の蒔いた種くらい自分で回収しろ、と言ってやればいい。そしてもしも、まだ記憶を取り戻したいと言ったならば。彼に対抗催眠をかけ、彼の封じ込めてある記憶を引き出せばいい。汐耶がいる」
「そうですね」
「でも」シュラインはそこで言葉を切り、汐耶の顔を見た。続いて、ケーナズとセレスティも見た。何とはなしに話を聞いていたが、皆が見るのでシオンも、見た。
「汐耶さんは、ねぇ?」
 シュラインが汐耶を見て、歯切れ悪く言う。
「いえ。別に今日中にカタがつくのであれば問題はありませんよ」
「何か、あるのか」
「いえ……ちょっと」
「珍しいじゃないか。歯切れが悪い」
 ケーナズが言うと、汐耶は眼鏡を押し上げ困惑したように小首を傾げた。
「図書館の万引きに悩んでるのよね」
 隣からシュラインが口を挟む。汐耶は困惑した表情のまま「あぁ、えぇ。まぁ」と頷いた。
「汐耶さんは責任感が強いから。そういうの、自分のせいとか思っちゃうんだと思うの」
「べつにそういうわけでは」
「なんだ、乙女。可愛いことを言うこともあるじゃないか。ではそっちも解決してやらんとな」
「確かに。力になってあげたいんだけどね。魔術書の万引きを探すなんて、難しいわよね。借りて行った人が返さないとか。そういうことではないんでしょう?」
「えぇ。そういうことならばこちらもやりようがあるんですけど。防犯タグも起動しないよう、抜き取られているし……あれを抜き取るの、かなり難しいんですけどね」
「もう。真っ向から盗む気ってことよね」
 シュラインの言葉に汐耶が重く頷く。
 何故かその時、シオンの頭に浮かんだのは、パンツィーだった。思わず自分で自分に驚いた。こんな真昼間からパンツィなんて!
 しかしその記憶の隙間から、茶色く四角いものが顔を出した。
「あ!」と思わず声を上げる。
「なん。なんなの」
「シュラインさん! 私、言い忘れてましたけど。パンツィーと一緒に埋まっていたものがあったんですよ! 今、思い出しました」
「いいわよ。もう、その話は」
 肩を竦めるシュラインを無視して、汐耶に向かう。
「あのォ。その魔術書っていうのは……なんか。分厚い本でしかも中身にグチャグチャと英語が書かれていて、これくらいの」両手で四角形を作った。「本の表紙にこんな」両手で楕円を作った。「絵みたいなのが描かれてあるやつですか」
「えぇ……って。何故、シオンさんご存知なんですか? 魔術書に興味でも?」
「いや。見たことあるなぁ、と今、思い出しまして」
「ど」汐耶が身を乗り出した。「何処でですか!」
「パンツィと一緒に」
「ぱ。パン。パンツィ?」
「ええ!」シュラインが目を見開く。「もしかして下着と一緒に埋まっていたものって!」
「はい!」
「そ。そ。それで! 貴方それ。どうしたの?」
「埋めなおしましたよ」
「はぁ?」
「だって。小判ザックザクなら掘り返しますけれどね。そういう物は人様のものですからね。十ヶ崎さんは警察に届けなさいって言ったんですけど。あの人が何処かに行ってから私、埋めなおしたんです、ちゃんと。なくなったら困りますでしょう。埋めた人も、ね」
 皆がやれやれと言わんばかりの顔で見る。何故だ、と思った。しかし、フワフワとした茶色い髪の青年だけはウンウンと力強く頷いてくれていた。
 少し、心強くなる。
「本は。どうしたんですか」
「もちろん。埋めましたよ。本も」
「ではそれを見に行こうじゃないか。その本を私がサイコメトリーすれば犯人だって分かるかも知れない。シオン、案内してくれ」
「名案だわ。そしたら汐耶さんも依頼の手伝いに乗り気になってくれるでしょ」
「その前に僕、トイレに行きたいんだけど」
 茶色の髪の青年が言った。ケーナズがウンと眉を寄せる。
「ペットに発言権はない」
「知らないよ。車で漏らしても。助手席をアンモニア臭くしてやる」
 ケーナズは唇をつり上げ、意地の悪い微笑みを作った。
「私の知り合いの猫に、膀胱炎で死んだ猫が居るんだ。主人の言いつけを守ってトイレを我慢した結果なんだがな。良い子だろう? お前も。それくらいの根性を見せたら漏らしても許してやる」
 青年が悔しそうに眉を寄せた。青年は負けたんだな、と思った。

13

「何を思い出したんだよ」
「この人形を何処で見たか、だ」
「だから、芸能人だろう?」
「いや。たぶん。違う」
「違う?」
 雛太は眉を寄せた。それからもう一度、人形の顔を見た。思い当たるものはなかった。
「俺には検討もつかねー」
「お前は見ていないからな」
「見てない?」
 武彦は青年の前に座り、人形の顔を見た。
「この人形にはモデルが居る。そうだな?」青年の顔を見た。青年が小さく頷く。
「俺はこの顔に良く似た顔の男を知ってる」
「本当に、知ってるんですか?」
「あぁ。知ってる」
「知ってるわけない」
 青年が小さく呟いた。
「彼は死んだんだ。僕がこの手で埋めたんだ」
「俺は。君のその記憶に、用がある」
 武彦は人差し指を突き出して、トントンと彼の額を打った。

14

 予想に反し、それはまだそこにあった。
「案外、残っているもんなのね」
 シュラインが言った。ケーナズは頷いた。
「私。かなり深く、キッチリ埋めましたから」
「しかしそれは……手で掘った方が早いんじゃないか」
 小さなスコップを動かす、シオンの背中に言う。じれったくて仕方がない。
「大丈夫ですよ。塵も積もれば山となると言いましてね。小さな事からコツコツと、とも言うでしょう?」
 まるでそれでは砂遊びではないかとケーナズは思う。
 その隣でシャベルを動かすユウが鬱陶しそうに眉根を寄せた。確かに、しゃがみ込まれて土を掘られるのは邪魔だろう。
「休憩してないで早く掘りなさい」
 手を振って、ユウを促す。隣でセレスティが「厳しいですねぇ」と微笑みながら呟いた。
「でしょ? ヤんなっちゃう。僕、マジでセレスティさん家の子になりたい」
「なれるものならなってみろ。三日で水に沈められるぞ」
 チッと小さく舌打ちしたユウが、またシャベルで土を掘り起こし始める。三回ほど土を掻き分けた時、さじの部分が何かにあたった。砂を噛むような鈍い音がする。
「出た?」
「出ましたね」
 汐耶が前に出る。土の中を覗き込み、それを拾い上げた。半透明のプラスチック容器である。その側面には、確かに女性物の下着と思われるようなものが透けて見えていた。
「ああああ。パンツィですよ!」
「ちなみに、聞きますが。これは使用済みではないですよね?」
 汐耶が横目にシオンを見る。シオンはニ三度瞬きをして、「えええええええええええええ」と大絶叫した。「そ、そそそそ。そうなんですか!」
「こちらが質問しているのですが」
「そんな。知りませんよ!」
「そうですか」
 溜め息を吐いた汐耶がプラスチックの箱を開ける。覚悟したような変な匂いはしなかったようで、汐耶の顔つきは変わらない。躊躇いもなく手を入れ、中から本を取り出した。
 二冊。
「あぁ。これです……ケーナズさん」
 一冊の本を手渡される。小さく頷いて、左手を本の上に乗せた。瞳を閉じて大きく息を吸い込む。
 髪の毛がフワリと風に乗る感触がして、断片的な映像が頭の中に流れ込んで来た。

 茶色。ただの茶色の画面。
 人。黒い人。黒い服を来た人。大柄な男。ネクタイ。スーツ。
 パソコン。パソコン画面。ネットオークションの画面。数字。十万円。
 また茶色。ただの茶色の画面。
 目。大きな目。黒い、大きな目。
 京町屋とそして……

 爆発するように、画面に白い閃光が散った。

 溜め息と共に、目を開ける。
 顔を上げ、前方に居る、ユウを、見た。
「悪党を放つとロクなことがない」
「うっそ」ユウは小さくジーザスと呟いた。その場にしゃがみ込む「やっぱりか」
「どういうことなんですか? 何が見えたんですか」汐耶が言う。
「女神ノ会のロゴ。そして、コイツの顔」ケーナズは憮然とした表情で、ユウを指差した。その場に居た人間が、息を飲む。「コイツの仕業だ」
「僕じゃないよ。僕の手下じゃん」泣きそうな声でユウが言った。
「彼が……盗んだ、んですか?」
「いや……一言で説明するのは難しい。が。盗んだ実行犯はこいつじゃない。コイツの手下だ」
「手下?」
「コイツはつい最近まで女神ノ会などという宗教の教祖をやっていてな。それはもう、金儲けだけが目的のふざけた団体だったんだが。つまりはこの本が盗まれた時期、こいつの手下とも、部下とも、信者とも言える男が。コイツを喜ばせようとしてその本を盗み売りさばくことを考えたんだろう。そして一先ずここに埋めたのが。そのまま、刑務所に入れられてしまったんだな」
「はした金で僕が喜ぶと思ったのかな。相変わらずバカな男だな」
「刑務所?」
「実行犯は今、刑務所の中だ。母親を殺したんでな」
「母親?」
「まぁ。そういう事件があったんだ。草間興信所でな。何なら女将に後で詳しく聞けばいい。とにかく。実行犯は居ないにしても、諸悪の根源はコイツだ」
「違うって」
「では。この。下着は?」
「わからんな」
「何なら刑務所に行って聞いてくれば」
「おい。お前。そんなデカイ態度を取っていいと思っているのか」
「だって。だって知らないじゃん。あの男が勝手にやったんでしょ。僕はむしろ、被害者だ。そりゃ。本の話は聞いてたよ? でも、やれとか、やってやってなんて言ってないから」
「やられたらやり返す、が心情だったな、汐耶」
「え?」突然話を振られ、面食らったように目を見開く。けれどすぐにオズオズと頷いた。
 ケーナズは喉を鳴らし意地悪く微笑んでやった。
「汐耶は怖いぞ。大事な物を盗んだんだ。お前の大事な物も盗まれるだろうな。玉を一つ取られるくらいは覚悟した方がいい」
「そんなぁ」
 ユウが眉根を下げて、その場にヘタリ込んだ。

15

「あ〜れ? 姉御じゃねぇ?」
 背後からそんな声が聞こえ、シュラインは振り返った。雛太と、武彦。それに十ヶ崎と見知らぬ青年が、公園の入り口に立っていた。
「どうしたの」声が裏返りかけた。もちろん、まさかこんなところで出逢うとは思っていなかったからだ。
「そっちこそ何やってんだぁ?」
 雛太が走りこんでくる。その後に武彦と十ヶ崎と青年が続いた。
「どうしたんだ。こんな所で。何をやってる」武彦が眉を寄せる。
「それはこっちのセリフだが」ケーナズは手に持っていた本を意味もなくパラパラと繰った。「何処かの所長さんがね。依頼がキャンセルだ、と言われたくらいで諦めた様子だったもので、そこの女将が勇姿を集め、これから。依頼人を連れ去りに行こうと思っていたところだったんだよ」
 ケーナズが揶揄するように言う。その隣から、車椅子に乗ったセレスティが言った。
「依頼人を確保さえすれば、対抗催眠で記憶を取り戻せますからね」
「そうだ。セレスティは名案を思いつくだろう?」
「ほう、なるほどな」武彦がこちらに顔を向ける。「女将は気が利く。奇遇だったよ」
 サングラスの奥の瞳が苦笑していた。
「実はこっちは。重要参考人を確保した」
「どうして?」思わず、武彦に噛み付きそうな勢いで言った。「他の調査で出かけたんじゃ」
「だからぁ。姉御のた……いってぇ」
「え?」
「足。足踏ん。踏んだ!」
 雛太が武彦を睨みつけながら声を荒げる。
「あのォ」シオンだ。「ところで。誰が浚ってくるんでしょうか」
 何にしても、一歩も二歩もずれる男だ、と思った。
 つまりは、依頼人を浚うのは誰の仕事か、と今頃気になったのだろう。
「それは」
 ケーナズが言ってゆったりと唇を持ち上げる。皆が一同に、シオンの顔を見た。
「あぁ。この顔。何処かで見たような気がしますよ」
「変態兄のお屋敷ではないか」
「あぁ……そういえば……えッ! 私ですか!」
「カキ氷。奢ってあげるから」
 シュラインは慰めでは無くとどめの言葉を吐いた。

16

 シオンはカキ氷をスプーンですくい、口に運んだ。とても嬉しそうだ。カキ氷はシオンの顔面を塞いでしまうほどに大きいが、雛太と二人で果敢に挑戦している。
 セレスティが屋敷のお手伝いに頼んで作らせた特注品だった。時折、氷を兎に舐めさせる。明らかに嫌がっていた。その暢気な光景の隣では、深刻な顔つきをした青年二人が座っていた。柏木永樹と、加藤暢という青年だった。
 柏木永樹は少し戸惑っているようだった。それも致し方ないことと思う。もちろん、こんな場所に突然連れてこられた戸惑いはあるだろうがそれ以上に、隣の加藤の視線が原因なのだろう。
 加藤は信じられないものを見つめるような瞳で永樹を見ている。
「紅茶を飲みましょう。落ち着きますよ」
 十ヶ崎が永樹に紅茶を勧めた。永樹は小さく会釈して、また居住まいを正す。
「どうして。あんな場所を歩いていたの?」永樹に向かい、切り出した。
「あ。は。母から。許しが出たので……あの。もう。依頼はキャンセルした、と言われたんですが……これは、その」
「貴方は。依頼をキャンセルしたいと思ったのですか?」
「え?」
「彼は、興信所のお手伝いをして下さってる、セレスティ・カーニンガムさんです」
「あ、どうも」永樹が小さく会釈する。
「貴方自身が依頼をキャンセルしたいと。思われたのですか? 確かに私は貴方のお母様からお断りのお言葉を頂きましたが。貴方自身の口からは貰っていませんよ。貴方の口から聞くまでは、納得が出来ませんでしたから」
「あぁ」彼は溜め息にも似た息を吐いて、セレスティに顔を向けた。そしてそれを小刻みに振った。
「僕は。本当に知りたいと思っていたんです。今でも知りたいと思う気持ちは変わりません。こうして逢えて……本当に良かったと思っています」
「じゃあさ。あんでおふくろにキャンセルだなんて言わせたんだよ。俺はやりたいんだってガツンと一発だな。言ってやりゃあどうにでもなるじゃんさ。しかも、連絡もつかないなんてさ。ホント。感謝して欲しいわけよ」
「連絡がつかなかったことは謝ります。母にばれて……部屋に……と。閉じ込められていたので。でも。僕は彼女の言うことに逆らえないんです。僕は母がいないと何も出来ない。僕は……僕はこんなだから。母がいないと何も出来ないんです。彼女に逆らうことは出来ない」
「アンタ、それでも男かよ」
「それで。その……軟禁状態が解かれたので貴方は外に出ることが許された、と」
「はい」
 雛太の言葉にすっかり意気消沈してしまったかのように、彼は小さく頷いた。
 シュラインはまた、シオンを横目で見た。つまりは彼を浚うこともなく、シオンはカキ氷を手に入れたのだ。本当に彼は、何て運が良いんだと思う。彼に言わせれば、たまには良いこともないと〜と言うだろうが。
「だから僕は。なんとか彼女にばれないように。またカウンセラーの先生に何処か、紹介して頂くつもりでした」
「カウンセラーとアンタのおふくろは繋がってンでしょ。またチクられるんじゃん?」
「あ」永樹は驚いたように目を見開いた。「先生、が?」
「いや。わかんねーけどさ」
「どうして貴方の母親にバレたかはこの際置いておきましょう。執拗に貴方のことを思っている母親だから、やりようはいくらでもあるでしょうし。それに私達が訪ねたことで確信を持ったのかも知れないし……でも、依頼人と連絡がつかないなんてあんまり無いことだから。ごめんなさいね。とにかく今は、この場所がバレてないことを祈るだけだわ」
「私の愛車を舐めて貰っては困るよ」ケーナズが微笑んだ。「追ってがついてこれるとは思わないね」
「そりゃ、あんな凄まじい運転だったらな」
 ケーナズと共に、先に車でセレスティ邸へ到着していたらしい雛太は、スプーンを振り回しながら唇を尖らせた。
「とにかく。今、まだ君は記憶を取り戻したいと思っているんだね」武彦が、言った。
 永樹は頷く。
「隣に座る青年が。鍵を握っている」武彦が加藤暢を指で指した。
「彼、が」
 永樹はやっと、加藤と目を合わせた。
「永樹、なんだな」吐息を吐くように、加藤が言う。
「彼を覚えているか」
 武彦の言葉に永樹は眉を寄せて首を振った。
「どうして……」
「君が何かを埋めた。それは何なのか。彼は知ってる。その後、君がどうなったかも、彼は知ってる。失った記憶を取り戻すためのプロフェッショナルもここに居る」
 武彦の言葉に、汐耶が頷く。
「キミの記憶は。カウンセラーによって封じ込められたものです。私はそれを、解放することが出来ます」
「順序は逆になってしまったが」武彦は溜め息を吐いた。「後は君が決めればいい」


002



「なんだ。最近見ないと思っていたら。彼の元で働いているのか」
 十ヶ崎のギャラリーの前で待ち合わせたケーナズが、いち早くセレスティの背後に居る青年を見つけ言った。その隣で場違いな格好をしているのは、雛太だ。
 何てラフな格好だろう、とセレスティは思わず吹き出してしまいそうになる。ビーチサンダルで絵画鑑賞とは逆に洒落ているのではないか、とすら思った。
 もちろん、揶揄だ。
「言っとくけど洋輔、京都に帰ったぜ」
 背後に向かい言う。
「知ってます」浅海は、憮然として答えた。
「お知り合いですか」
 汐耶がさして興味もなさそうに言う。
「彼は」セレスティは背後を振り返り、浅海を見た。「元は草間興信所の依頼主だったんですよ」
「私達は草間を手伝うごとに身内を増やしている」ケーナズが笑う。「しかしまだ想っているとはな。キミも中々しつこいな」
「セレスティさんの言葉を聞いて、一応俺もいろいろ考えたんです。今のままでは洋輔君にも振り向いて貰えないだろうって。だから、自分を鍛えなおす為にも、ですね」
「今っていうか、ずっとだよ。別にアイツ、ホモとかじゃないと思うし」
 雛太がピシャリと遮った。なるほど、そういう身も蓋もない言い方もあるのか、と思った。
「では。行きましょう」
 セレスティは苦笑して言う。背後に目配せし、車椅子を押して貰う。
 十ヶ崎のギャラリーで、今日は加藤暢の個展が開催されていた。
 中に入ると受付に加藤の姿があった。その隣には、加藤が描く絵画のモデルである、柏木永樹が立っている。



 あの時永樹は、決意を秘めた目で汐耶に記憶を取り戻して欲しいと言った。
「あぁ。暇ですねぇ。いい天気ですねぇ。兎ちゃん散歩行きたいですか? ンー。そうでちゅか〜。シュラインさんにお願いしてみましょうね。カキ氷でも食べに行きませ」
「私は暇ではありません」
 シュラインはピシャリと言って、シオンをいなした。
「怖いでちゅねぇ。おう、怖い、怖い」
 それを無視して、タイムカプセル依頼の全容を整理する。調査報告書に纏め上げるためだった。この報告書は永樹に渡される。その後どうなるかは、知らない。母親に見せるのか。たぶん。見せるだろう。
 彼は、母親から解き放たれる術を知った。
 人には、支えて貰わないと生きていかれない人が居る。分からない人はそれを、甘えだと言う。けれど、確かに人は一人では生きていけないのだと、シュラインは思う。
 柏木永樹の失われた記憶とは、加藤暢と愛し合った日々の記憶だった。
 愛し合うといってもまだ、中学生だ。それほど深い、本当の愛というのではなく、プラトニックな物だっただろう。一緒に映画を見たり、一緒に買物に行ったり、深夜まで話し込んだり、花火をしたり。友情から抜け出すかどうかの、甘い日々だったに違いない。
 しかしそれを快く思わなかったのは、母親だった。あの、皺皺ババアだ。自分の子供が自立していくことをヨシとしない。あの母親だ。
 二人はまるでロミオとジュリエットのように、引き離されることとなった。その頃丁度、二人がこっそりと空き地で飼っていた猫が死んだ。
 二人はそれを空き地に埋めた。猫の死骸。それは二人にとって、どんな物だったのだろう。二人の気持ちが大きくなるように、猫も育っていった。もしかしたらそれは、二人の愛の象徴だったかも知れない。
 では、途切れ途切れに思い出していたあの川は何だったのか。
 それも、永樹は思い出した。
 二人で。良く遊んだ川だったそうだ。
 そして二人は母親の残酷な嘘によって引き裂かれることとなった。
 母親は加藤に自分の息子は死んだと嘘をついた。そして、引っ越した。それほど遠い引越しではなかったらしいが、加藤にはそれを知る術もなかった。母親の差し出した何者とも分からない骨を、永樹の骨と思い、大事に埋めたらしい。加藤がそれを、結果として嘘だと知るには十余年もの月日がかかってしまったのだ。
 柏木永樹は生きている。
 加藤にとって、それはどんなにか素晴らしいことだっただろう。
 愛する人の人形を作り、それを描き続けた画家、加藤暢。
 自分にとって価値のある愛を貫こうとした二人をいつまでも忘れず、ずっとその気持ちを込めて絵を描き続けたのだ。
 実際にやられたら気味が悪いかも知れないけれど、なんてロマンチックだろうと思わずにはいられない。
 パソコン画面に向き合いながら、個展はまだ開かれているだろうか、と思った。
 雛太が帰ってきたら聞いてみよう。そしてもう一度一緒に行ってくれるか聞いてみようか。
 そういう絵画なら。私も一度くらいは見てみたい。



「こういう絵画も、良いですね」
「そうでしょう。新しい力です。日本にも面白いアートは沢山ありますからね。掘り起こしていきますよ」
 十ヶ崎が微笑む。
 セレスティはまた、加藤暢の新作に目を向けた。
 絵の隅に加藤のサインと、くにゃくにゃとした蛇のような文字で『僕等は僕等にとって価値あるものを貫こうとした』と描かれてある。
「私がこれを買っても宜しいでしょうか」
 言葉は、口から自然に漏れていた。




END




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 2254/雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた)/男性/23歳/大学生】
【整理番号 0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号 3419/十ヶ崎・正 (じゅうがさき・ただし)/男性/27歳/美術館オーナー兼仲介業】
【整理番号 1883/セレスティ・カーニンガム (せれすてぃ・かーにんがむ)/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【整理番号 3356/シオン・レ・ハイ (しおん・れ・はい)/男性/42歳/びんぼーにん +α】
【整理番号 1481/ケーナズ・ルクセンブルク (けーなず・るくせんぶるく)/男性/25歳/製薬会社研究員(諜報員)】
【整理番号 1449/綾和泉・汐耶 (あやいずみ・せきや)/女性/23歳/都立図書館司書】


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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 思想の壁にご参加頂き有難う御座いました。
 執筆者下田マサルで御座います。

 依頼を解決する道のりで、皆様の個性が出ればと思い書かせて頂きました。
 ご購入下さった皆様と
 素晴らしいプレイングやPCをお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝致します。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                       感謝△和  下田マサル