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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


冷たい手

------<オープニング>--------------------------------------

 纏わり着くような熱気が体を覆う。
 秋山達也はぬるい息と共に、寝返った。
 体中が汗ばみ気持ち悪かった。冷たい場所を探して、足先が布団の上を弄り滑る。しかしそんな場所があるはずもなく、体がどんどん火照っていくのは止められない。
 カーテンの向こうでブーンと車が走り抜けていく音がする。
 達也は小さく舌打ちして、クーラーもない部屋を呪った。
 薄っすらと瞳をあける。真っ暗闇だった。けれど暫くして瞳が慣れると、部屋の壁の輪郭が薄っすらと浮かび上がった。
 熱帯夜。こんな夜は眠いのに眠られない。そんなチグハグな体の欲求に、頭は冴えて苛々する。
 達也は寝るのを諦めた。気分転換にベットに転がるテレビのリモコンを探し出し、電源ボタンを押す。ベットの横に置いてあるテレビ画面からばっと光が溢れた。
 眩しさに目を細めながらチャンネルを変えていく。洋画にアニメにバラエティ。歌番組。
 興味を引くような内容の番組も特になく、CMに入ったところで達也はふとテレビから視線を逸らせた。深い意味はなかった。ただ、ふと。
 そしてそれを見つけた。
 それはベットの端でコソコソと蠢いていた。
 自分が見たそれが信じられなくて、達也は呆然とした。
 手。人の手だ。
 手首から先が全くないその手は、しかし正しく人の手だった。マネキン人形のようでもあるが、マネキンの手は動かない。それにこの手には妙な生々しさがあった。
 硬直する達也の前でコソコソと動いていた手は、ふと達也を認識したように爪をこちらに向け静止する。
 達也はどうすることも出来ないでいた。驚きに体が竦み、耳だけがテレビの雑音を聞き流している。
 それはコソコソとまた動き出した。指を足のように動かし進む。
 ペトリとそれが達也の足に触れた。その瞬間、体がビクリと飛び跳ねた。
 それはとても冷たかった。



「いやもうなんつーか。俺今、本当にそういうのやってないから」
 久坂洋輔は携帯に向かい、ウンザリした声を上げた。
 カーテンのない窓から容赦ない夏の日差しが差し込んでいる。寝る以外に帰ることのないアパートに、カーテンは不要と思ってつけなかったのだ。しかし今は少し後悔している。カーテンはやっぱり必要だ。
 洋輔は電話の向こうから聞こえてくる声にいい加減な返事を返しながら、バタリとそこに寝転がった。
 京都に戻ってきてからというもの昔の友人や仲間やその連れが、自分が少し前まで興信所でアルバイトをしていたことをドコからか聞きつけ何かと電話を鳴らしてくる。
 今度は高校時代の友人だった。
「頼むよ。こういうので動けるのお前しか居ないじゃん。昔さぁ。良く喧嘩の仲裁とかさぁ。やってくれてたじゃんさ。強ぇし」
「金払ってどっかに頼めよ」
「事情が違うんだよ……なんつーか。ちょっと変なんだ。手が、さ」
「手?」
「たぶん。人の手みたいなんだけど。手首から先がねぇんだってさ。しかもそれが動いてんだってさ。冷たい手。別に今ンとこ悪さをするわけでもないからあれなんだけど。気味悪いだろ。調べて欲しいんだよ」
 フーンと洋輔はまたいい加減な返事を漏らした。
「ねぇ。あのさ。そいつなんかやばいクスリでも打ってんじゃねーの。っていうか俺、超能力とか霊感とか本当悪いけど全然ないよ」
「分かってるけど……トラブルつって思い浮かぶのお前ぇしか居ねぇしさ。しかも……そいつだけじゃないんだよ。その手を見てるの」
 怪奇事件発生。
 洋輔は小さく、溜め息をついた。

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 ポケットを叩いて携帯と財布があるのを確認した。テレビを消した。忘れたことはないか、と素早く自問する。特に無い。
 さて。と身を翻した。部屋の隅にある、物置のようになったテーブルから原付自動車とアパートの鍵がついたキーホルダーを取る。それもポケットに捻りこむ。
 入り口を見た。
 ブーという音がした。インターフォンの音だった。連続してまたブーっと鳴った。
 誰だ。洋輔は小首を傾げる。
 部屋を横切り、ドアの目から外を見た。
 驚いた。思わずドアから飛びのいた。慌てて鍵を開け、ドアを開けた。
「きちゃった」
 目の前に立った雪森雛太は、肩を上げて小首を傾げた。
「か。か〜わ〜いい〜」抑揚のない声で言った。
「知ってるって」雛太は、突っ立っている以外どうすることも出来ない洋輔の肩をポンポンと叩いた。そのままぶつかるようにして部屋の中に入り込んでくる。「はいはいはいはい。って、うわ。狭ッ。なんじゃこりゃ。しっかしなんだ。お前の住んでるトコって田舎じゃね? もう、びっくりよ。道も迷いに迷ったって。しかもさ。京都、一方通行多いって。真剣。びっくり」
「いやいやいやいやいやいや」
 洋輔は呆然と雛太の背中を見送っていたが、やっと我に帰り、背中を追った。「何してンのよ」
「何って?」
 雛太が振り返る。キョトンとした顔は、残念ながら少し、可愛い。
「いやいや。何って何って、びっくりすんじゃん。いきなり、さ」
「えー。うっそー。びっくりしたんだー。フーン。ごめんね」
 感情のない声で言って、雛太はよっこらしょとそこに座った。それから思い出したように手に持っていた紙袋から長方形のものを取り出した。「ほい。これ。土産。ヒヨコ饅頭!」
「う」手の中に押し込まれる。「嬉しくねぇー」
「なんだよ」雛太が見上げてくる。洋輔はハーと溜め息をついた。
「なん。なんで来たん? っていうか、何で来たん?」
「なんでってまぁ。元気してっかなぁっていう」
「違う。交通手段は何を使ってきたんですか」
「あぁ。車?」
「車? うっそ! あ。あのポンコツでぇ?」
「うん、あのポンコツで。まぁ。ポンコツなんには辟易したけどな。それ以外は問題なしよ」頷いて唇をつり上げる。こめかみをトントンと叩いた。「なんつーか。ココが違うわけよ、ココがね。並じゃないかんね。お前に住所聞いて、地図見て。それでもうばっちりよ。っていうか、自分でもちょっとびっくり? 普通に辿り着けちゃったかんね。あ、それでさ。車。家の前泊めてあるけど駐禁取られない? っていうか、駐車場とかないの? あー。でも金取られるトコやめてね。俺、今。金無いから。あ。出してくれるんだったらイイけど」
「ちょ。ちょちょちょちょちょ。ちょっと待ってね」頭を整理する。眉が寄る。首が、曲がる。「え。東京から来たん?」
「うん」
「いきなり?」
「うん」
「ええええええええええ。京都までぇえ?」
「うん。まぁ。何つーか。思い立ったら吉日っていうか。こっちもいろいろあんだよ」
「もぉなんつーか。お前。いろいろびっくり人間だな」
「なんだよぉ、洋輔ぇ」雛太が脛を拳で打った。「久しぶりじゃねぇかぁ。どうだ? 久しぶりに見る愛しの俺の顔は。嬉しいだろう?」
「ゴメ。嬉しさを噛み締めるより前に、がっつりビックリが先に来てる」
「まぁ。お前は頭の回転が遅いかんな。いつもお前にはいろいろ驚かされて来たけれど、今日は仕返しが出来て嬉しいよ」
 そして雛太は大きな伸びをした。
「あー。疲れた。運転、疲れるわ。しっかし。なんだ。この家はお茶も出ないのか」
「出るかよ」溜め息交じりに言った。
「で。お前、座らないで何してンの」
「立ってンだよ」また溜め息交じりに答えて、「あー」と思い出す。「で、さぁ。俺さぁ。実は今日これから、出かけないといけないんだよね。もう。すっごい忙しいンよ。実はね。忙しいの。今のびっくりで忘れてたけど」
 ポケットから携帯を取り出し、ディスプレイに表示された時計を見た。
「あー。時間だ」
「はぁあ? マジで言ってンの」
「うん。だからさ」ヒヨコ饅頭のパッケージを雛太に差し出した。雛太は受け取り脇に置いた。
「何よ」
 眉を寄せている雛太の脇を掴む。引っ張り上げた。
「イタタタタ。イタ。イタイ。あにすんの。お前」
「立って」
「はぁ?」
「立って。雛太くん」
「なんで」
「一緒に行くからだよ」
「は?」雛太は自分の耳に手を翳した。「あに言ってンだよ。俺は疲れてンだよ」
「よし。行くべ」
 手を取って引き摺って行く。「車、アタイが運転したげるから」
「ちょ。ちょっと。ちょっと。何処行くンだよ!」
「手を見に行くの。あーあ。丁度良かった。原チャじゃ面倒臭いと思ってたンだよねぇ」
「は。意味不明。なんだ。なんだよ」
「悪いけど俺。立ち直り早いから。うーん。雛太、お前は相変わらず小せぇなぁ」
 引いていた手を引き寄せて、雛太を抱きしめる。「うるせぇ!」胸元にパンチが入る。
 洋輔は、小さく笑った。



「隣、いいですか」
 男性の声に、シュライン・エマは顔を上げた。
「あら。小日向さん」
 講師の小日向圭介が立っていた。黒い髪の毛を緩やかに撫でつけ、白いポリシャツにチノパンといういでたちの小日向は、知らない人が見れば学生とも見える。けれどこれで、れっきとしたD大の文学部講師なのである。
 ついさっきも磯辺教授が言っていた。
 この爽やかな眼鏡の顔と、気さくな人柄で小日向は生徒にも人気がある、と。
 けれど。とシュラインはその時思った。
 眼鏡をかけている、ということと、爽やかな男という言葉は繋がっても良いのだろうか。眼鏡の男は知的であって、眼鏡の男は物静かであって、眼鏡の男は口を開けば理屈ばかり言う。そういうイメージを真っ向からぶち壊すような、眼鏡をかけていてけれど爽やかな男だなんて反則だ。
「こんにちは」小日向は小さく会釈して、トレイをシュラインの隣に置いた。「って。朝、お逢いしたばかりですけどね」
 まだOKの返事は返していなかったが、小日向はもう隣に座る気らしい。別に断る気もなかったけれど、そういう行動をされると少し癪に障る。
「今日はもう、講義はないんですか」カレーライスを口に運んだ。
「えぇ。今日はもう」小日向は割り箸を割りながら、微笑んだ。「教授にはもう、逢われましたか?」
「えぇ。逢いました。それで、食事を取ってたんです。小腹が空いちゃって」
「そうだったんですか」
「小日向さんはてんぷらうどん、ですか」
「あぁ、えぇ」
「私。余り関西に来てるっていう実感とか沸かないんですけど。このうどんの汁を見ると、ああ関西だな、って思うんですよね」
「そうか」小日向はてんぷらを崩しながら頷いた。「関東は汁が黒いですもんね」
 うどんを啜り、小日向は「あぁ」と何かを思いついたように言う。
「じゃあ。今日はもう、御用時は済まれたんですね」租借しながら言った。
「まぁ」
「では」小日向が眼鏡を押し上げる。「一緒に、京都見物に出かけませんか」
「え」
「ご案内しますよ」
 ご案内しますと言われても。シュラインは微妙な表情を作りながら小首を傾げた。
 返答に困る。
 カレーに視線を落とし、スプーンでルーをかきよせた。
「そうそう。Y神社」
「マジでかよー。俺、昨日飲み行った帰り見たぜぇ? あそこでそんなんなってンの」
 その時、入り口から二人組みの学生が入って来た。TPOをわきまえないような大声が食堂に響き渡る。
「お。小日向じゃん?」
 学生の一人が小日向に向かい指を差す。じっとこっちを見ていた小日向は、その声に顔を向けた。
 正直、少しだけホッとする。
「ホントだ」
「なーんしてんだぁ」学生はダラダラと歩み寄ってくる。「お。隣の女、ビジーン」
「何食ってンのって、うどんかよ! 貧乏臭ぇ」
 学生の一人が小日向の肩を叩く。
 これは慕われているというよりは、舐められているのではないか、とシュラインは思った。人気という言葉も使いようだ。
「モテないからってこんな所で女引っ掛けてンじゃねーって」
「おい」
 小日向をからかっていた学生の脇腹を、もう一人の学生が突付いた。食堂を見渡している。「あいつ、居ないぜ。こっち構ってないで別の場所探そうぜ。時間、遅れる」
「あ、そっか」学生は小刻みに頷いた。
「結局お前らは何しに来たんだよ」小日向が苦笑する。
「あー。人探し? でも、居ないみたい。行こうぜ」
「じゃーな。小日向。夜はほどほどにしろよ。あんましつこいと引かれんぞ」
 苦笑して学生の背中を見送った小日向が「参りますね」と頭をかいた。
 シュラインも合わせて苦笑を浮かべてやる。もっとしっかりしないと。そう言いそうになって飲み込んだ。彼にアドバイスする権利もない。
「じゃあ。私もそろそろ失礼しますね」
 食べかけになったカレーライスは勿体無いが席を立つタイミングを逃したくはなかった。シュラインはトレイを持って立ち上がる。
「あ」小日向は曖昧な笑いを浮かべた。「そうですか?」
「えぇ。では」
 会釈して、テーブルを離れた。



 地図だけを頼りに歩いていたら、人通りの多い場所に辿り着いていた。それほど広くない二車線の道をタクシーや車が混雑しながら通り、舗道を多くの人が歩いている。車と人との境目が曖昧で、車に跳ねられても良いのかとさえ思えるほど、車道にはみ出て歩いている人も居る。舗道の脇には自転車が、重なり合うようにして止められており、置き去りにされているのか駐車されているのかすら分からない。
 規模は違うけれどシオン・レ・ハイは池袋の町を思い出した。
 だからといってどうということはない。ここは間違いなく池袋ではないのだし、道に迷っていることに変わりはない。
 ここは一体どこなんだ。シオンは真っ黒の空を見上げた。陽はもうとっくに暮れていた。時計を持っていないので正確な時間は分からなかったが、さっき駅で見た時計の針は午後九時頃を差していたような気がする。見ず知らずの土地で兎ちゃんと二人ぼっち。いよいよ心細い。自分のおなかに手を当てると、くぅと情けない音がした。
 阪急電車に乗り込み河原町駅で下り、人に流されるまま地上に出た。自分がもうどうやってここまで来たかも思い出せなかった。どうしよう。そんな思いが胸を痛いほど突いた。
 携帯電話でもあればな、と思う。けれど、携帯電話は草間興信所からちゃんと渡されてはいたのだ。道に迷ったら連絡しなさい、と武彦にも言って貰っていた。なのに、自分はそれを忘れてしまったのだ。
 忘れ物を届けに来て、自分が忘れ物をしてしまうなんて。
 こんな自分を追って誰かまた忘れ物を届けに来てはくれないだろうか。
 そしてまたその人が忘れ物をしたりして。

 笑えない。

 シオンは小さく溜め息を吐いた。
 これから。どうしましょうかね。
 バックの中に居る兎に問いかける。返事はない。あるはずもない。けれど問わずにはいられない。
 行き交う人々は皆、目的を持っているように溌剌と歩いている。こんな所で突っ立っているのは自分くらいだろう。
 また、溜め息が出た。うな垂れた。
 その肩に何かがぶつかった。
 シオンは顔を上げる。
「おっと。ごめん」
 細身の腰にビンテージっぽいジーンズをはいた、学生風の男性だった。足取りがふらふらとしている。ン、とシオンに向き直り、顔を突き出した。
「何やってンのーう、こんなトコに立ってぇ。え? 歌でも歌ってンかいな」
 明らかに酔っ払っている風だった。吐く息が酒臭い。
「あのォ」道を聞こうと思い、口を開いた。そこでもう一人、学生風の男が現れた。
「おい、お前。何やってんだ……スミマセン。こいつ、酔っ払ってンですよ」
「おい。おいおい。なぁ。オジサンも連れってっちゃおっか」
「はぁあ?」
「だーいじょうぶ、大丈夫。ね。オジサン。手。見たくない?」
「手?」シオンは目を瞬かせる。
「そう。手。あんだ。こんなトコでぶつかったンも何かの縁だ。一緒に行こうぜ。手。手、見に行こう」
「いや。あのォ」
「よし。行こう、行こう。ドンドン行こう。お。そこのお姉ちゃんも一緒にどう?」シオンの肩を抱いて道行く人に向かい大声を上げた。
「もう。ホントすみません。お前、飲みすぎだって」
 男がシオンから友人を引き離す。けれどシオンはその手を掴み。
「あのォ。そこってぇ。食べ物ありますか」と言っていた。



「あれ? 友達?」
 乗り込んできた男は、後部座席にあるCDケースを脇に押しやりながら言った。運転席に座った洋輔がおう、と返事を返す。
「あっそ。宜しくね」男が運転席と助手席の間から勢い良く顔を出す。「俺、タケシ」車体が揺れた。雛太は何よりもまず、タイヤの空気圧を心配した。それからふと思いついた。
「つかさ。これ俺が車で来てなかったら、お前ら何で行くつもりだったん?」
「や。ニケツで?」
「そうそう。原チャの」タケシが笑い、洋輔の頭を叩く。
「お前ら、中学生かよ」脱力した。
「だって。車って、金かかんじゃん? 面倒臭いって」
 洋輔が軽く言う。パーキングのギアをドライブに入れた。
「では。出発進行」
「それで。どこ行くン?」
「だから。手を見に行くんだよ」
 また手だ。
「さっきからそれ。何なん?」
「行ったら分かるって」洋輔は横目に雛太を見た。「頼りにしてんぜ」

λ

 夢の中で電子音が響いていた。それはどんどんと大きくなっていき、壇成限ははっと目を開けた。耳元に転がっている携帯電話の着信音が、大音量で鳴り響いている。
 うめき声を上げて、携帯を手に取った。手探りで通話ボタンを押す。
 携帯を耳に当てた。
「はい」
 掠れた低い声と共に、重い、溜め息が出る。
 夏休みに入り、限のアルバイト先であるビデオレンタル屋は多忙を極めていた。住宅街に建つ小さな個人商店だったが、だからこそ人の多い時には対応に困る。アルバイトも重なる時は重なるもので、一気に休みを取られたり辞められたりして、実質、新人のアルバイトと共にシフトを回しているような状態だった。新人バイトは何かというと限に電話をかけてくる。あれはどうしたらいいんですか。これはどうしたらいいんですか。覚えの悪い人というのは、時として人に迷惑をかけるから嫌いだ。
 今度一度教えたことを聞いてきやがったら殺してやる。そう思って次の声を待った。
 しかし、聞こえてくる向こう側の音は、やけに騒がしい。覚醒しきってない頭の中に、男性の笑い声や雄叫びが流れ込んで来た。それでやっと、限はこの電話がアルバイト先からではないことに気付いた。
 こんなに騒がしいわけがない。
「よぉーーーーーーーーーーーッ。限ゥ〜。なんしてーーんのッ」
 予期せぬ明るい声が言った。
「俺だよー。俺俺。なに、寝てたの」
「はぁ?」額に手を当てる。また低い声で言った。「よー、すけ?」
「そうそう。今さぁああ。ちょっともう。雛太と遊んでんのよぉお。お前も来いって。マジで。ヤバ。うわ〜、冷たいって! ちょ」
「行かない」
 電話を切る。
 騒がしそうな声も、遊びも、今の僕には必要ない。
 でも。そういえばアイツ。京都に帰ったと言ってなかったか。
 考えてる横でまた電話が鳴った。受けた。洋輔だった。
「あー、なんか電波悪くてごめん」能天気な声が言う。
 苛立ちに奥歯を噛み締めた。ちょっとの睡眠時間だって大切にしたい時に迷惑極まりないではないか。俺はまた明日の朝から仕事なんだ。使えない新人の面倒だって見てやらなきゃいけないし、役に立たない店長の代わりだってしなきゃいけないし。
「今度かけてきたら……殺す」無意識に殺すという単語で舌を巻き、凄んでいる自分が居た。
「え。なん。ちょっと聞こえな」
 電話を切った。
 ついでに。
 アルバイトも知ったこっちゃない。
 電源を切った。



 先ほどからずっと、トモヤは愚痴り倒しであった。
「だからさ。もう俺はさ。この夏はさ。諦めたわけよ。恋愛大殺界中なんだよ俺はさ」
「はいはい」隣でカツヤが呆れたように言う。「そんなこと言ってもどうせめげずに、またすぐナンパにでも出かけんだろぉが」
「うるせぇ! な? おっさん。おっさんは分かってくれるよな? な?」
「えぇえぇ。分かりますとも、分かりますとも」
 全然分かってはいなかったが、シオンは頷きトモヤの背中を撫でてやった。こういうのは、得意である。
 二人の名前は、さきほど聞いた。酔っ払いが、トモヤ。その友人がカツヤと名乗った。名前なんて覚えても意味がなかったかも知れなかったが、大は小を兼ねるというので覚えた。
「だってさ」トモヤはふらつきながら自分の頬を引っ張り、顔を左右に広げた。「こーーーーんなんなんだぜぇあ」
「ええ」シオンは目を見開いた。「そんな女性が……存在するんです、か?」思わず問い返す。
 トモヤは先ほどからずっと、合コンに来た女の顔が余りにも好みではないだとかいうことを一生懸命に語っていた。
「コイツ。女と顔合わした瞬間、酒に逃げてンの。でさぁ。そんな強くもない酒大量に煽っちゃってさぁ。このザマよ」
「そうだったんですかぁ。大変でしたね」
 シオンはまた、寄りかかってくるトモヤの背中を撫でた。
「だってさぁあああ!」トモヤはまた顔を伸ばす。「こーーーなんなんてさ!! よっぽどのことじゃんさ!」
「よっぽどのことですよ」頷き、同意してやる。
「あい? なんだって? 聞こえない」
「よっぽどのことだと思います」
 シオンは一言一言を区切り、トモヤの耳元で大声を出してやる。トモヤがうんうんと頷いた。「だろう?」
 しかしそれにしても。木屋町通りという場所は煩いなぁ、とシオンはぼんやり思った。
 さきほど聞いたところによると、シオンが立っていたあの場所は木屋町通りと四条通りが交差する場所であるらしかったが、東京のこともロクに知らないシオンが京都の地名などを聞いてもピンともプンともくるはずがない。しかしそこはそれ「そうなんですかぁ〜」といい加減に頷いておいた。
 物を食わしてくれるというので二人から離れるわけにはいかなかったし、道も訪ねたいと思っていたので二人に続き、細い道へと入っていった。これが木屋町通りなのだと教えて貰った。それほど広い道ではない。車道には、車外へと音楽が漏れ出している物騒な車が何台も列を作っていた。整備された舗道があるにはあるのだが、脇には自転車や原付自動車がこちゃこちゃと止められており、おまけに街路樹まで立っているので狭さは強調されてしまう。
 ぶつからないように歩くのが精一杯で、颯爽と歩くなんてことは出来そうにない。
 さらに、数十メートル感覚で路上アーティストがギター片手に歌を歌っている。まるでひっちゃかめっちゃかな場所であった。
 二人は飲み直しをするために木屋町に来たのだと言った。馴染みの店があるらしい。酒は良いので、食い物をくれ、と思った。
 どれくらい歩いただろう。千鳥足のトモヤと共に歩いているので、長時間歩いた気がしたが実はそれほど距離はないだろう。二人は、ある雑居ビルの前で立ち止まった。
 正確には、カツヤが先に立ち止まり、行き過ぎるトモヤとシオンの首根っこをひっつかまえた。
 雑居ビルの中に入って行く。エレベーターに乗り込み三階へ上がった。

 店内は赤と黒と白とを基調に作り上げられていた。
「うーん。おじさん。こういう雰囲気、ちょっぴりドキドキしちゃう」
 入り口でまごまごとしていると、トモヤに手を引かれた。
「ほい、おじさん。こっちこっち」
 隣の声がやっと聞こえるくらいの音量で、店内には低音の響く音楽が流されている。
 先に店内に入ったカツヤは赤いソファに腰掛けていた。手を引かれるままに、その向かいに腰掛けた。
「なぁ! 店長ぉ〜」トモヤがカウンターに向かい声を上げた。「ビール三つね」
「なんか食いたいンだっけ?」
 テーブルにあるメニューを覗き込みながら、カツヤが言う。シオンは力強くハイと頷いた。
「ピラフとかなんかいろいろあるけど」メニューを差し出す。シオンは受け取り「からスパって」とメニューに視線を走らせた。写真付きのメニューのからスパがどうも気になる。からあげ、スパゲティ、和風と書かれてある。いろいろ見た結果、結局それを指差していた。
「店長、からスパ〜」
 カツヤが言う。しおんの腹がクゥと鳴った。
 音楽でかきけされた。



「これ。いいっしょ。ドープっしょ」
 洋輔が言う。店内でかかっている音楽のことだろうとは予想がついた。けれど、雛太は見た目より座り心地の良い赤いソファに感心していた。店内に入った時は、サイケデリックだなと思っただけだったが、座ってみると案外心地が良い。これなら眠れそうだ、と思った。
 肘つきと背もたれの間に身を寄せて、腕を組む。いつでも眠りに入れる体制になった。
「で、あい。何飲む? 焼酎でイイ?」
 肘うちされて、「あぁあん」と眉根を寄せた。
「飲み物だよ。奢るし。何飲むかって」
 驕り。「日本酒か焼酎か高いやつ」口が勝手に動いた。
「渋いな!」タケシが笑う。
「じゃあさぁ。とりあえず高くないけどでコレでイイっしょ?」
 テーブルの上に並べられた鍛高譚とラベルの貼られたボトルを手に取って洋輔が言った。
 テーブルには五人の男が居た。皆、同じものを飲んでいた。「なんでもいい。ねみーし」雛太は素っ気無く答えて目を閉じた。
「ちょー。寝るなよ!」
 突付かれて薄目を開けると、グラスの半分以上に焼酎を注がれていた。水はちょっとである。
「それ。それ、入れすぎなんじゃね?」思わず体を起こす。
「だーいじょうぶ、大丈夫」
 マドラーでグルグルと、乱暴にかき混ぜた洋輔はホイっと雛太に差し出した。「まま。一口」
 ぐいと押しやられ、乱暴に口に運ばされた。紫蘇の香りが鼻腔をつく。口に運ぶと紫蘇の香りが一段と強く広がった。けれど、悪く無い。むしろ中々いけるではないか、と思った。
「でさぁ。店長。今日、達也は?」ソファに寄りかかった洋輔が、カウンターに向かい声を上げる。
「達也は、まだ来てないなぁ」カウンターに座った男が言った。
 店内はまだ、真昼間ということもあり、雛太らともう一つのソファで眠っている男二人組み以外に客の姿はない。カウンターの男は、コップをゆっくりとした動作でコップを磨いたりしている。
「人に依頼しといて遅れるかぁ? あの野郎」洋輔がぼやくと向かいに座ったタケシが言った。
「じゃあさぁ。とりえあず先に見ない?」
「そだな」頷いてコップを煽った洋輔が「ちょ、店長。手持ってきて」と言った。
 冷たい飲み物と紫蘇の香りのせいで、眠気が少しばかり飛んでしまった雛太も思わず構える。手とは一体何なのか。はやる気持ちを抑えるために、コップを口につけたまま、うーっと声を出した。コップの水面が波立った。何してんの、と声をかけられた。声をフェイドアウトした。
 カウンターに居た男が奥に消え、暫くしてまた現れた。手に、手を持っている。
 手。
 手だ。
 雛太は思わず口からコップを剥がし、唖然とした。視線を手に固定させたまま、コップをゆっくりとテーブルに置く。
 手首から先のない、それは正しく手であった。
 髭にドレッド頭の店長が、それをまるで料理の皿を置くかのようにテーブルにポンと置いた。
「はい、手」
「おおおおおおおおお」
 テーブルに居た男らが一斉に声を上げる。雛太も微かに呻いた。
「達也、マジで捕まえたンだ」誰かが興奮したように言う。
「そう。捕まえたらしいよ」店長は頭を指先でポリポリとかきながら、素っ気無く言った。またカウンターに戻る。なんて脱力系な人なんだ、とその背中を見て少し、思う。
「で。さ。これがどうしたわけ?」
 雛太も思わず身を乗り出して言った。
「うん。これをここに居る奴みんなが見てるらしいんだわ」
「そうなんだ」
 そこでやっと雛太はちゃんとそこに座る五人の男の顔を見た。皆、微かに頷く。
「で。体はどこにあんの」何気無く、言った。
「え。全然、平気な感じ?」
 タケシがびっくりしたように言う。雛太は「まぁ」といい加減に答えた。
「アツイじゃーん」
「でそ。こいつ。しかも頭イイ系だしね。密かに」
 何故か洋輔が自慢げに言う。「へぇー」と皆が声を上げた。
「いやいや」雛太は小首を傾げて、とりあえず手を手に取った。「で。体、何処にあんのよ」
「それわかんねーから調べてンじゃん」
「おま。こっちでも草間アルバイトみたいなことしてンのな」
「たまたまよ」素っ気無く言って洋輔が雛太の手から手を受け取る。その時だった、手が突然動いた。まるで握手するかのように、ギュッツと洋輔の手を握った。
「いた。いたたたたたった」仰け反りながら、手をばたつかせる。「イタイ。イタイ。なんだ。これ!」
「あ。動くんだ」また、素っ気無く言ってやった。
「じゃあとりあえずさ。ペンとか握らせてみねぇ? 字とか書くんじゃん?」
「おーーー!」タケシが拍手した。「それ。イイ。アッタマいいじゃーん」
「ま。」ソファにもたれかかり、踏ん反り返った。「常識じゃん?」



 刺すような日差しだった。
 シュラインはバスの時刻表を覗き込み、腕に巻いた時計と見比べて溜め息をついた。
 バスが来るまでにはあと、三十分ほどある。
 予定より早く大学を出てしまったのだから仕方ない。
 ベンチに腰掛け「どうしようかな」呟いた。傍らに置いてあるディオールのバックに意味もなく手を入れる。携帯電話と手帳、財布が入っているが、手帳に手を伸ばしかけて、携帯を掴んだ。
 武彦に電話を入れてみよう、と思った。
 番号を呼び出しコールする。5回ほどコールしたところで愛想のない声が耳をついた。
「はい。草間興信所」
「あ。もしもし、武彦さん? シュラインです」
「あぁ」愛想のない声には変わりがない。武彦は電話が苦手だった。「どうした」
「いえ。そっちはどうかしら、と思って」
「まぁ……普通だ」
「ちゃんと水分は取ってる? 冷蔵庫に入れてあるおかずはちゃんと温めて食べなきゃ駄目よ」
「分かってる」声が、苦笑色に緩んだ。「俺は小学生じゃない」
「あら? そうだったの? それはゴメンなさい。貴方って。放っておくと三食蕎麦ばかり食べるとか、ピザばかり食べるとか。やることまるで小学生だから、私もついついそんなことを言っちゃうんだわ」
「悪かったな」苦笑と溜め息が聞こえる。
「そういえば」声色を変えて武彦が言う。「シオンにはもう逢ったのか」
「え? シオンさん?」
 思わぬ名前に意表を突かれる。
「逢ってないのか? お前を追いかけて行ったんだがな。ほら。忘れ物をしただろう、お前」
「忘れ物? してないわ」
「D大の名前が入った茶封筒が草間のデスクの上にあったから……てっきりお前の忘れ物だろうと」
「違うわ」思わず頭振り、「あぁ」と言った。「それは違うのよ」
「なんだ。紛らわしい」
「ごめんなさい。あぁ。それ、草間に忘れてたのね。失くしたと思ってたんだけど。別に京都に持って来てもらうほど大切な物ではなかったのよ……それで、シオンさんを?」
「あぁ。暇だと言ったんでな。使いに出した。電話がないからてっきり逢えたんだと思ってたよ」
「逢ってないわ。どうしましょう……シオンさんとは連絡つかないの?」
「それがなぁ。あいつ、俺が渡した携帯電話を忘れて行ってな」武彦はそこで暢気にも小さく笑った。「そうか。逢えてないか。ハハ。何処行ったんだろうな」
「笑い事じゃないわ」思わず声を強めて、ことの発端は自分にあることに気付きシュラインはうな垂れた。「ごめんなさい」
「まぁ」武彦の声は相変わらず暢気だ。「そういうこともあるんじゃないか。いつか会えるだろう。向こうだって子供じゃないんだし。バス代だって渡してあるし、なんとか帰ってくるだろうさ」
 そんな暢気なことで良いのか、と思った。
 彼はそんな甘くない。きっと甘くない。
「じゃあ。気をつけて帰って来いよ。こっちは大丈夫だからな」武彦があっけなくも電話を切る。
 静止する携帯電話を見つめ、シュラインは溜め息を吐き出した。
 探すにも、何処をどう探して良いのやら。
 しかし、このまま帰るのも気が引ける。
 電話をして正解だったのか不正解だったのか。シュラインはまた、溜め息を吐き出した。
 そしてふと思いつく。
 草間興信所元、アルバイトの久坂洋輔だ。
 彼は今、京都に居る。トラブルシューターというならば、シオンを探すのも簡単ではないだろうか。
 そうだそうだ。ついでに「暑い日が続くけれど、様子はどうよ」と聞いてやればいい。喜ぶだろう。
 携帯のメモリーを呼び出し、通話ボタンを押す。
 プププという電波を飛ばす音が長く続き、その後。
 プー、プー、プー、という話中を知らせる音がした。
 なんだ。
 シュラインは思わず唇を突き出す。
 念のためもう一度かけてみた。やはり、話中である。
 なんと使えない男だろうか。
 アルバイトをしている時から、相も変わらず、やっぱり外さない男である。
 携帯持ったまま脱力した。
 さてどうしよう。

「シュラインさん!」
 突然名前を呼ばれ、シュラインはハッと顔を上げた。D大I川キャンパスの、車両通用門の方向から走ってくる男が居る。
 小日向だ。
 なんだ、しつこいな。
 思わず、眉を寄せる。そんなシュラインの前に、小日向は息を切らしながら辿り着いた。
「忘れ物です」
 今日は忘れ物のバーゲンセールか?
 小日向は一枚のカードを差し出した。IDカードだった。
 教授室にある特別観覧の文章や、学生論文などを見る時に用いるカードだった。
 しかし。
 自分の分はちゃんと手帳に挟んである。
「私のではありませんよ」
 息を切らす小日向の頭上に言ってやる。「え」と顔を上げた小日向は、きょとんとした顔をして、カードを見た。
「でも。名前が」
 そうだ。IDカードの裏面には自筆の名前がある。だからこそ、そんな嘘だか何だかは分からないけれど……って……え?
 シュラインは思わず小日向の手を覗き込んだ。確かにそこに、シュラインのサインがあった。
 慌ててバックから手帳を取り出す。中を開く。カードが。
 なかった。
「えぇ! どうして!」
「落ちてましたよ? 食堂に」
「そんな」口走り口を噤んだ。俯き、顔を上げた。一先ず、お礼を言うべきだ、と思った。「どうも、ありがとうございました。すみません。お手数おかけしてしまって」
「いえいえ」小日向が微笑む。
 その背後を、さきほど食堂で見かけた学生二人組みが歩いて行った。
 シュラインは思わず「あら」と声を漏らす。
 二人はもう、何かの話に夢中でシュラインと小日向には顔を向けない。
「だからさ。その手を達也が捕まえたんだって!」
「うそだぁ」
「本当なんだって。それがさぁ。偉く冷たいらしいよ〜。冷たい手、だな。ありゃ」
 冷たい手。
 学生の背中を視線で追う。
 何となく。気になった。
 同じように背中を見送った小日向が「学生は好奇心旺盛だからなぁ」と苦笑する。
「最近。変な噂が飛び交っているんですよ。冷たい手が所構わず出没するとかで。全く、変な物に熱中しますよね」
 冷たい手。シュラインは胸の中でその言葉を繰り返した。冷たい手。
 ここは暑い。
 冷たい手。
 熱のある体や額に手を置かれた時の、ひんやりした感触を想像した。
 暑い夏に、冷たいのは大歓迎である。
「それって……手、なんですか」
「手、です。手首から先のない」小日向は苦笑する。「全く、馬鹿げてる」
「小日向さんは見てらっしゃらない?」
「あぁ。見ていませんよ。見るわけないじゃないですか。どうせ、幻覚か作り話ですよ」
「詳しいお話は知ってらっしゃるんですか?」
「まぁ。聞いた限りですが」小日向は眼鏡を押し上げる。「シュラインさんは……興味がおありなんですか?」
「いえ」口ごもる。洋輔の顔を頭に浮かべた。
 冷たい手。洋輔も、知っているだろうか。
 小日向が居るにも関わらず、シュラインは携帯のリダイヤルを押していた。まだ、話中。
 着信拒否を疑いたくなった。
 本当に使えない男ね!
「どうか……されました?」小日向が言った。
 その顔を見上げる。
 あぁ。そうだ。手よりも何よりも。シオンを探さなきゃ。
「あの……人を探したいんですけど」

λ

 携帯の電源を入れると、留守電マークがディスプレイに表示された。
 それを三秒ほど見つめて限は考えた。
 どっちだろう。
 アルバイトか洋輔か。
 でも今日の朝逢った新人は、特に何も言ってなかったし。たぶん。洋輔だろう。
 そう思いつつ結局、聞いてみることにした。
 女性のアナウンスの後、留守録が再生される。
 騒音。雄叫び、叫び声、「なんだぁ? 電波悪いの限じゃーーーん」
 一番近くで、洋輔の声が言った。
 電波じゃないって。
 舌打ちでもしたい気持ちで限は電話を切った。エプロンを外し、ロッカーに押し込む。溜め息を吐いて、パイプ椅子に腰掛けた。
 パイプ椅子の上げたキュッという小さな悲鳴が、自分自身の悲鳴に聞こえた。疲れた、と思った。今日もやっと一日が終わった。そんな感じだった。
 さて帰ろうかと腰を上げた時、携帯が鳴り出した。
 ディスプレイを見た。洋輔と表示されている。思わず、顔を顰めた。
「はい」と低い声で言うと軽い声が言った。「おう、限。元気?」
「元気じゃない」
 昨日の今日じゃないか、と思った。
「あっそ」電話の向こうは慌しい。軽く答えた洋輔は、息継ぎも疎かに「それでさ。ちょっと今すぐ京都までかっ飛んで来てほしいんだけど。都合つく?」と言った。
 たぶん。今まで生きてきて、一番眉が寄った瞬間だ、と思った。
「つくわけないだろう!」声が裏返りかけた。
「いや。そこをさ。ちょっとなんつーか。チョチョイとさ。かっ飛んで来てほしいのよ。ほら。お前、死にたい人のこと分かるとかさ。能力あったじゃん? それ。使ってほしいんだよね」
「無理」
「いや。そこをこう、ちょちょい」
「キミ。いい加減にしろよ」
 自分でもこんな声が出るのか、と思うほど低い声だった。
「え?」
「いいか。僕は……僕は」
 言っているうちに腹が立ってくる。能無しバイト、能無し店長。ここ数十日の過酷な労働が脳裏をくるくる巡る。
 皆、僕を何だと思ってるんだ。
「僕は! 能無しの新人アルバイトと能無しの店長の間で毎日こき使われて! 役にも立たない奴等の尻拭いして、毎日クタクタで。疲れてるんだ。それでまだ、京都に来いだと? 何を考えているんだ」
 言い出したら新人が無能なのも洋輔のような気さえする。そうだ。その通りだ。何処かで声がした。
「そうやって自分の言いたいことばっかり言って、わがまま放題で……人を振り回すのもいい加減にしろ!」
「や」
 短く洋輔が言う。
「ご。ご……ごめ。そ。んな怒るなよ」
「煩い! バカ!」
 自分で言って、自分がびっくりした。バカ? え?
 しかしついてしまった勢いは引っ込められず、限はそのまま電話を切った。
 ふんと勢い良く息を吐き出す。
「壇成さ、ん? ど。どうかしたんで、すか?」
 控え室のドアが開いて、能無し新人バイトが恐る恐る顔を出した。
 キミの愚痴を言っていたんだ。とは言えなかった。



「割り勘な」と言われ、ハイと勢い良く頷いた。
 酒が体の中を勢い良く暴れ回っている。ふわふわと心地良く、天井を見上げると目が回りそうだった。なのでそれも酒で流した。向かい酒というやつですよ! と思った。
 テーブルの上はもう、ひっちゃかめっちゃかであった。空いたグラスが乱雑に置かれ、枝豆の皮も散らばっている。皿からは食べかすが零れ、スナック菓子も至るところに転げ落ちていた。
「もーーーーーーーーう! おじさん! 飲んじゃいますよ!!」
「おおおおおおおおおおおおおお!! いけいけ!! 飲め飲めぇえええええ」
 トモヤが大絶叫を上げる。他のテーブルからも拍手が起こった。
 シオンは何だかとっても嬉しくなった!
「シオンはレベルアップした!!!」勝手に口から言葉が飛び出す。シオンはとうとう、ブランドもののシャツを脱ぎ捨て上半身の裸体を晒した。
「おおおおおおおお。イイ体してんじゃーーーーーーん!」
 また拍手が起こる。シオンはニコニコと微笑みながらソファの上に立ち上がり、グラスを掲げた。
「ほーい。一気飲みしますよ〜。音頭はどうしましたかぁ〜」
「えーっと」
 カツヤが小首を傾げる。拍手をして言い出した。「シムラけーん」
「古ッ、つかサムッ。それはもう、反則っしょ!」
 隣でトモヤが爆笑している。「だってもう。さっきから一気コールばっかじゃん!」カツヤが手を叩きながら言う。
「しゃーねぇなぁ!」声を上げたトモヤが一緒になって手拍子し、音頭を取った。
「ほい。ほい。ほいほいほいほい、シムラけーん、シムラけーん。のーんでのんで、アイン。のーんでのんで、アイン」音頭に合わせ、飲んで、アインをする。「かとうちゃー。かとうちゃー。のーんでのんで、ペッ。のーんでのんで、ペッ」
 音頭に合わせ、飲んで、ペッをする。鼻の下に手をやり、ペッ。
 シオンはますます嬉しくなった。
 全部を飲み干し、ガッツポーズをする。背もたれに手をつきながら、ふらふらした足取りで、何とかソファから下りると、「ほい」と次を差し出された。
 なんと! シオンは聊か、びっくりぎょうてんする。
「かんぱーーーーーーーーい」
 しかし勢いに飲まれて乾杯していた。口をつける。
「ほい。乾杯一気ということで!」
「飲んじゃって、吐いちゃって、やっちゃって。ほい、飲んじゃって、吐いちゃって、やっちゃって」
 シオンは飲んだ。横目に見ると、トモヤも一気で飲んでいた。
 なんて楽しい夜なんだ! と思った。
 兎ちゃんも人参食べてるし!
「あーーーーーー。おじさん。マジサイコー。めちゃくちゃおもろい」
「そうですか。そうですか」
 シオンはもっともっと嬉しくなった。
「見ろ。手も喜んでんじゃね?」
 トモヤがテーブルの中央に置かれた手を指差す。そうだった。忘れていた。手があったのだ。
 それはピアノ演奏者のように指先をばたつかせていた。確かに、見ようによっては喜んでいるようにも見える。けれど、やはり少し気味が悪い。
「ヒトデだ! ヒトデだ!」声を上げて飛び跳ねた。「大根だ! 人の手の形をした蜘蛛だ! 宇宙人だ! 妖精さんだ!」
「そうだそうだ! 大根だー!」
 よし。よし。
 シオンは小さく拳を握った。そうだ。大根だ。
 手に手を伸ばす。きゅっと掴んだ。
「あくしゅうーーーー!」
 回りから拍手が起こった。それから隣に座るカツヤにどうだ、と言わんばかりに自信のある目を向けた。
「いや。そんな目で見られても」
 トモヤとは違い、それほど酔っ払ってはいないらしいカツヤが小首を傾げながら言う。
 そうか。と手を離した。
「とりあえず」傍にあるスナック菓子を口に放り込んだ。「パソコンのキーボードか携帯電話を持たせてみるというのはどうでしょう」粗略しながら言った。
「おおおおおおおおおおおう! それ! そうだ! それ、一発じゃん!」
 トモヤが肩を叩いてくる。シオンはなんだかとっても良い気分になった。
「誰か! 誰か携帯!」
 トモヤの呼びかけにカツヤが「いや。だからさ。お前。自分の出せばいいじゃん」と言う。「あ」トモヤは一瞬、素の顔になり「そっか」自分のポケットから携帯電話を取り出した。
 メール作成画面にして、手に向け、差し出す。
 手は一瞬だけびっくりたように揺れ、それから静止した。投げ出された携帯を、掴む。
「お」
 テーブルに居た三人は食い入るようにそれを見つめる。
 文字が打たれた。
 手が、携帯から離れた。
「自殺の、呪い?」
 トモヤが呟く。
 一瞬、場が。
 静かに、なった。
 音楽だけが、鳴り響いていた。

λ

 過酷な労働は続いている。けれどそれも今日までだった。
 寝室に入ると溜め息が出る。肩に、錘のような疲労感があった。
 しかし心地良い。今日までだと思うからこそ、だ。
 明日には、休みを取っていた連中が戻ってくる。やっと。やっとだ。
 寝室の電気をつけたところで、限はベット脇のテーブルに置かれてあるメモに気付いた。
 同居人が書いたものらしい。
「草間興信所の武彦さんより、連絡がありました」
 どういうことだろう。考えながら、ベットに転がり込んだ。連絡しなきゃ、と思いつつ、落ちてくる瞼に勝てない。
 そうか。携帯の電源はここ数日切っていたから。家の電話にかけたんだ。言伝してくれたんだな。
 そう思った。思ったけれど、瞼は閉じて行った。



「おい。そろそろ起きろよ」
 脱力系店長が、別のボックス席に座る二人組みに声をかけた。雛太はソファに踏ん反り返ったまま、首だけを動かしその光景を見る。
「カツヤ。トモヤ。お前らいい加減にしろ」
「ちょ」
 ソファの上に丸まっていた男が声を漏らした。意味のない言葉らしい。店長はその男に向かい、「こら。トモヤ。商売の邪魔なんだよ」と言った。
 そうか。トモヤというんだな。
 別に何の役にも立たないけれど、雛太はその名前を頭の中で繰り返した。
「じゃあさ。とりあえず。ペン。ペン持って来てよ。店長」
 隣で洋輔がソファから身を乗り出し、言った。
「えぇ?」脱力系店長が、ゆったりと問い返す。「何に使うんだ」
「字、書かせるんじゃん。手に」
 当然、と言わんばかりに洋輔が言う。店長はまたドレッドの隙間を指で書いた。
「あのさぁ。それ。もうやったんだわ」
「え」驚いて、思わずそっちに顔を向けた。「やったって!」
 自分の功績を奪われたようで少し、癪に障る。
「そうそう」隣のソファの下から声がした。地面に寝そべっていた男が起き上がる。ボサボサの髪を掻きながら、「それで。自殺とか書かれてさぁ」と掠れた声で言った。
 店長が言っていたのから推測するに、それがカツヤだろうと雛太は判断する。カツヤはそのまま、店長を見上げ「水くれ」と低い掠れた声で言った。
 こっちまで喉が痛くなるような声だ、と思った。明らかに二日酔いのそれである。
「自殺って?」カツヤに向かい、言った。
「知ンね。字っていうか携帯持たせたンだけどさ。たぶんさ。Y神社の自殺のことと関係あるんだと思うンだけど」
 携帯。なんと。
「そ。それ。お前らどっちかの案なわけ?」
「いんや」目を擦る。「シオンとかいうオッサンの案」
「ええええええええええええええええええええ」
 雛太は声を上げて洋輔を見た。洋輔も目を見開いて、雛太を見た。
「えええええええええええええええええええええ」
 二人でまた、声を荒げる。
「し。シオンって! シオンって! シオン・レ・ハイっておっさん?」
「さー。あー。うん。そんな名前だったっけかなぁ。返事は勢いのイイ、ハイ! だったけど?」
 そんなことは聞いてない。
 また洋輔の顔を見た。
「え。え。じゃあ。お前ら昨日、そのオッサンと飲んでたわけ?」
「うん」
「じゃ。じゃあ。そのオッサンは何処行ったわけ?」
「迎えが来て」
「迎え?」
「シュ……シュ?」カツヤが小首を傾げる。「シューティング。じゃねーや。シュ。シュ。シュー。シュールでキレーなオネーさん?」
 雛太は、眩暈がした。



 星は、東京より見えた。
 シュラインは小さく息を吐き出す。もう日も暮れてしまったのに、とうとうシオンとは逢えなかった。
 一体彼は、何処に行ってしまったのだろう。
 もちろん。武彦が言った通り、彼も成人男子なのだし、野たれ死ぬなんてことはないだろうとは思うのだが、一方で、彼ならありえるのではないか、とも思う。
 知らない町。
 不安になった。
 観光客が回りそうなところを小日向に案内して貰いながら回り、金閣寺も銀閣寺も、東寺も二条城も、清水寺も法然院も嵐山も見た。
 観光ルポが書けるんではないか、と思うくらい行った。
 そして最後に、八坂神社も、見た。
「まだまだ見る所があるんですけどね」
 四条通りを下へと下がりながら、小日向が喜々として言う。
 これではちょっとした観光である。本来の人探しということを忘れているんではないか。小日向の嬉しそうな顔が癪に障る。
 悪いけれど。
 武彦さん以外の男のことなんて、考えられないんだからね。
 冷たい目で何度もそんなことを思った。
 磯部教授の元へ通うようになって、数回。この男は毎度こんな調子だった。いつもは適当に逃げていたのだが。
 今回はこれは。捕まってしまったというのだろうか。
 女性として愛されているということに快感を覚えるどころか、自分が女性として見られているのだ、ということに嫌悪すらした。たぶん。そういう欲は生まれつき薄いのだと思う。
 それとも。一点集中しすぎているのか。
「何処かで。食事でも取りませんか」
 隣を歩く、小日向が言った。
「いえ。ホテルで食事を」
「まだ。探していない場所があるんですよ。それにほら。シュラインさんは、手のことも気になってらっしゃったでしょう」
「手?」呟いてから思い出した。あぁ、そうか。冷たい、手。
「学生らの溜まり場があるんですが。顔を出してみますか? まぁ。そこで食事をすることは出来ませんが。彼等に話を聞くことなら出来ますよ」
 僕がいるから。
 胸を張りそう言いそうな勢いで、小日向が言う。
 つまりは舐められてるんじゃない。という言葉をすんでのところで飲み込んだ。
「じゃあ」シュラインはおずおずと頷く。「少しだけ」
「では。参りましょう」
 どさくさに紛れて小日向が手を掴む。全身が総毛立った。
 小日向の手は生暖かい。気持ちが悪い。それならまだ、手首より先の手の方がよっぽどましだ。
「あの。手を繋がないでも歩けますので」
 彼の手を引き離し、折り目正しく言う。
「あ。すみません」わざとらしい微笑みだった。
 四条通りから、わき道へ入って行く小日向に続く。「木屋町通りです」小日向が説明する。「ここです」雑居ビルの一つで立ち止まる。
 エレベーターに乗り込もうとする小日向を放って階段に歩いた。「何階ですか」
「あ。三階ですが……」
「じゃあ。階段を使いましょう。エレベーターに乗ることないわ」
 出来るだけ明るく言ってやる。
 こんな男と密室で二人きりなんて。溜まったもんじゃない。
 階段を上りきり、廊下に出る。左右に扉がある。「こっちです」後からついて来た小日向が、右側の扉を指差した。
 木で出来た扉を開けると、中からとてつもない爆音と、騒がしい声がする。
 一歩、思わず後退り、恐る恐る中を覗き込む。
「あ!」
 シュラインは、思わず声を上げていた。
 そこに。
 裸で踊り狂うシオンが、居た。
 なんということだろう。なんと暢気な笑顔だろう。
 額を手で押さえ、神が居るなら祈りたい気分だった。前方を睨みつける。中に入った。ずかずか入った。皆が見る。関係なかった。
 シオンの前に立った。シオンがゆっくりと顔を上げる。
「まぁ。シュラインさんではありませんか!」満面の笑みで言う。
 この暑い中、どれだけ探したと思っているの! あんな男と二人で!
「貴方はもう、ホテルで自粛!」
 シュラインは大声で怒鳴っていた。

λ

 草間興信所のドアを潜ると、ソファに雛太と洋輔、そしてシュラインとシオン、武彦の姿があった。
 オールキャストか、と限は聊か面食らう。
「お。来たな! 切り札!」
 ソファでグダリとしていた洋輔が声を上げた。ヨッと手を翳す。
「京都行ったんじゃないの」
 冷たく言うと、洋輔は肩を竦めた。
「だって。お前が、東京来いって言うからさ」
「言ってない」
「言われたも、同然じゃん。怒られたモンね」
「それで。なんだったんですか?」
 武彦に向かい、言った。
「うん。京都で発生している、謎の冷たい手のことなんだが。お前には死者と会話する能力があるだろう。手から聞いてほしいんだ」
「手?」
 意味が分からず、小首を傾げる。
 シュラインが、草間のデスクから何かを取り出した。
 それは正しく、手、だった。



「あ。うわ。洋輔さんだったんすか。こんにちは」水を飲んだカツヤはやっと気付いたように言った。洋輔が「おー」といい加減な返事をしている。
 けれど今はそれどころではない。
 まさか、シュラインが来ていたなんて。
 シュラインが来ていたなんて!
「ところでさ。洋輔さんって、年上の女とかいったことある?」
 ソファから身を乗り出したカツヤが言った。
「そりゃあ。あるぜ」
 洋輔が飄々と答える。そうなのか、と顔を見やる。
「どう? どういう感じ?」
「えー。なんでよ」
「いやそのシュールな美人がさぁ。うちの大学出入りしてるからさぁ。いきたいなぁ、とか思ってさぁ。っていうかうちの。講師が。どうも狙ってるみたいなんだけど。アイツ。まじですっげぇ、ヤバイのよ、女いくの早すぎで。だからさ。あれにヤられるくらいだったらさ」カツヤが両手を合わせて、お辞儀しながら言う。「俺も手合わせ願いたいじゃん」
「チョチョチョちょちょちょちょちょちょちょちょちょ」自分でも何を言っているのか分からない。「ちょ」落ち着け、俺。「ちょっと待て」
「あん?」
「いやもういろいろ突っ込みどころ満載だ!」自分で言って頭を抱えそうになる。けれど隣から発せられる洋輔の視線にハッとなる。
 小さく深呼吸した。
「その……シュールな美人はシュライン・エマだな」頭の中を整理する。
「あー。そうそう。なんだ。え? 知ってンの?」
「ちょっとまて。順番に行こう。それで? その……えー。シュラインを狙っている……講師?」
「そ。小日向。D大の文学部講師」
「なぬ」
 口から勝手に言葉が飛び出る。洋輔に目をやり、またハッとした。
 口を噤む。深呼吸する。
「そ。それで。その。二人は」
「さぁ? なんか。昨日言ってたの聞いたらぁ。今日川床行くとか言っててぇ。ありゃもう、イクな」
「い。いいいいいい」思いっきりどもり、咳払いをする。「イクって」
「小日向。マジやべーんよ。あいつさ。大学では俺らに舐められてる講師ィみたいな顔してさ。気弱そうな顔してンだけどさ。やることスゲェかんね。影ではクスリとかミンザイとか流してるし。アイツ」
 十本の指が同時に鍵盤を叩いたような音が、頭の中で鳴った。
「女にそういうの使って、ヤっちゃうんだわ。あいつ。やべぇー。怖ぇー」
 ハハハと軽く、カツヤが笑う。待て、笑いごとではない! と思った。
 その時、隣に座ってた洋輔が突然プッと吹き出した。この緊急事態に何事だ、と思った。仮にも世話になった姉御がクスリを使われるか否かという時に吹き出す奴が何処に居る。
「はいはい。分かった、分かった」洋輔がポンと肩を叩いてくる。「それでお前の行動少し可笑しくなってたんだ」
「お。おかしい?」
「だってさぁ。何か。イキナリ来るとかさぁ。お前だったら考えらんねじゃん?」
 ドキッとした。雛太は思わず顔を背ける。「そんなこたあぁねぇよ」
「お前さ。俺に聞きたかったんじゃん? 姉御のこととか。恋愛の話とか?」
「ばっか」フンと鼻を鳴らした。
 胸がドキドキしていた。内心、実は、ヒヤリとした。「誰がお前なんかに」
「俺にはわかる。あぁ。そうか。お前、そうだったんか」
「だっから」苦笑を取り繕う。「なにが?」
「なぁ」洋輔は、雛太にではなくカツヤに言った。背伸びするようにカツヤの顔を下から覗き込む。
「その川床、何処?」
「え。なんでっすか」「いいから。おせーて」
「あいつが……いつも使うのはF家っていう店ですけど……」
「あぁ。F家ね」
 呟いた洋輔が焼酎を煽った。雛太のグラスに焼酎を足し、突き出した。
「飲め。いくべ」
「は?」
「姫を浚う王子は誘拐犯にはならない」
 洋輔は微笑みながらそう言った。

λ

 手を見た。手も、限を見るかのようにじっと指をこちらに向け静止していた。
「京都に。Y神社ってある?」
 手と見詰め合ったまま、限が言うと洋輔は「あるぜ」と頷いた。
「そこが今。自殺の名所になってない?」
「あぁ」言ったのは雛太だ。「Y神社の自殺がどうとかそういえば言ってたような」
「私も聞いたわ、そういえば」シュラインが頷く。
「手は」限はそこで言葉を切った。その手にそっと触れる。「無意味な死がないように。そう、言っている」
「無意味な死?」
「その。Y神社で自殺した者は、必ず成功するという噂が立ってるらしい。だから皆、そこで死のうとする。少し嫌なことがあったら死にたい。そんな感覚で皆、そこを訪れる。でも本当は、駄目なんだ」
「駄目?」
「死にたいなんて言っちゃ駄目なんだ。生きてることがどんなに素晴らしいことか。分かってないんだ。彼は……この手の持ち主だけど……、彼は。言ってる。この姿になってもう一度世の中を見て。楽しいこといっぱいあったのに、勿体ないことをしたって。後悔している。もっと仲間と飲み歩いたり、そういうくだらない日々に楽しいことが沢山あったのに、と」
 誰かが溜め息を吐いた。限は手を見ながら続けた。
「彼は。もうすぐ消える。後悔の念を抱きながらだから、天国へ行くことは出来ない。手は。あの神社で自殺した者が、もう一度だけ世を見るチャンスを与えられた姿だと彼は言っている。そしてもう二度と、こんな馬鹿げたことを人間がしないように。自ら命を絶つような、そんな真似はしないでほしいと。伝えて回るために存在するのだと、言っている」
「じゃあ……つまり。どうしたらいいんだ」
「その神社で自殺したら良いなんていう、下らない噂は消すことだ」
 武彦が静かに言った。



 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 川床から見える景色は悪くなかったが、シュラインは箸が進まず、それどころか困っていた。てんぷらに塩をつけては置き、つけては置き、を繰り返している。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 昨日、シオンを見つけホテルに帰ったまでは良かった。もう一つ部屋を取るのは面倒だった為、シオンと同室になってしまったがそれも別にこの際どうでもいい。
 パンツィ一つでキャッッキャ言う彼を、男だ、とも思わない。
 だから、いい。
 けれど問題はその前だ。「彼が見つかってよかったですね」と小日向が言い、それはとてもとても恩着せがましかった。
「どうも有難う御座いました」と言って去ろうとしたシュラインに小日向は言ったのだ。
「食事くらい付き合っては頂けませんか?」と。
 無碍に出来ない自分が悪いのか。
 確かに。そういう気もしなくはない。
 けれど、大学に出入りする内はまだ、険悪なムードにはなりたくない。だいたい、告白されたわけでもないのに、どうやって拒絶するのだ。そこはそれ、大人の駆け引きをするしかない。
「どうしました? お口に合いませんか?」
 小日向が微笑む。シュラインは「いえ」と曖昧な返事を返した。
「でも。シュラインさんとこんな風にご飯を食べられる時が来るなんて。嬉しいです」
「はぁ」
「夜景、キレイですね」
 風が通り過ぎ、鴨川に並が立つ。向こう側の岸に建つビルや街灯の光を反射し、キラキラ輝く。
 確かに、きれいだ。
 武彦と一緒に見れたら。そう、思う。
 顔を戻すと小日向と目が合った。
「さ。いっぱい。どうですか?」
 小日向が酒杯を差し出す。小さく会釈し受け取った。日本酒が並々と注がれ、シュラインはそれを暗澹たる気持ちで見守った。
 チビリとだけ口をつけ、酒杯を置く。
 口の中に、ほんの少し違和感がした。
「もっと、飲んで下さいね。お金の心配はなさらずに」
「いえ。そういうことではないんです。お酒は苦手なので」
 嘘である。
 けれど嘘も方便と言うではないか。
 その時こめかみに、つくようなツキンとした痛みが走った。
「どうかしました?」
「いえ」
 精一杯笑顔を浮かべる。弱みを見せるのだけは嫌だった。
「僕は。始めてみた時から貴方のことを。お慕いしておりました」
 呟くようにサラリと小日向が言った。
「長かったなぁ。ここに、連れてくるまで。そうそう。貴方の」眼鏡の奥でゆったりと瞳を細める。「IDカードを盗んだのは僕ですよ」
「え……?」
「それくらいやらないと。貴方には近づけませんから」相変わらず、小日向は微笑んでいる。しかし爽やかなんて言葉とは程遠い笑みだった。始めて見る表情だった。
 やっぱり。とシュラインは思った。
 やっぱり、眼鏡と爽やかって言葉は繋がらないのよ。反則だったのよ!
「でも。どうやって」
「簡単ですよ。こう見えて。僕は手先が器用ですから」
 頭の痛みが酷くなる。
「貴方がカレーライスを頬張っている間。貴方が学生を見ている間。チャンスはいくらでもありました」
 目が霞む。瞬きを繰り返す。
 これは。とシュラインは思う。
 これはきっとキレてもいい場面よね。
 傍にあった水差しを掴んだ。立ち上がった。それを小日向の顔目掛け、投げつけた。
 水をかけるでなく、投げつけた。
「この反則やろう」
 冷たく言う。
「イキがいいなぁ」水差しをよけて小日向が笑う。「自分の立場分かってますか」
 頭を振る。痛みを追い払う。その時だった。
「助けに来たぜ!」
 声と共に、唐突に扉が開く。
「あ」驚いた。「アンタたち、なにやってンの」
 シュラインはそこに立つ、雛太と洋輔とゆかいな仲間達とでも形容できそうな一同を見て、唖然とする。
「姫を助けるのは王子の仕事、だってさ」
 洋輔が笑う。雛太が「はぁ?」と眉根を寄せる。
 自然と、笑みがこぼれた。
 王子様にしては少し。
 可愛過ぎじゃないかしら、と思った。

λ

 慰労会と題された飲み会は、興信所の近所にある居酒屋で開かれた。誰を慰労するんだ、と言ったら、お前に決まってんじゃん。と二人に言われた。
「親友じゃん? 言いたいこと言って、ナンボっしょ」
 雛太がししゃもをかじりながら、素っ気無く言う。洋輔が「ンだンだ」と頷いた。
「だいたい。仲良くない奴に、いろいろ言うとかないじゃん。俺らもう、中学生じゃないんだし。いちいち文句つけに行ったりしないじゃん」
 新人アルバイトを思い出した。確かにどんなに能無しでも、どんなにムカついても、嫌味は言ったって怒りを爆発させることはまぁ、ない。
 大人になるとはそういうことだ。
「まー。なんつーか。俺ら基本的に二人、ヤな奴だしな。わがままだしな。限もそういうの言ってくれて良かったと思ってンのよ」
「うんうん」雛太が頷いて、ハタ、と洋輔を見る。「俺は別にヤな奴じゃねぇ!」
「自覚してない辺り、もう最悪って感じでね」
「あんだとぉ?」眉根を寄せて顔を上下運動させながら、雛太が凄む。限はビールを口に運びながら「どっちも最悪」と素っ気無く言ってやった。
 二人が限に顔を向ける。
「わー。限さん。キツくないですかー」雛太がハッと吹き出した。
「ま。なんつーか」洋輔も笑う。「ヒステリックな限ちゃんも。犯したいほど可愛くて。俺、スキよ」
 嬉しく無い。と思った。
 けれど妙に、「なんだ」と思った。

 なんだ。こういうの。親友なんだ。

 限は無表情にからあげを口に運んだ。



「じゃあさ! もう今日は騒いじゃおう!」
 千鳥足の洋輔が大声で両手をばたつかせながら、仕切った。
「どっからのじゃあなのよ」呆れ返ったかのようにシュラインが言う。
 川床の部屋をのっとって、小日向をシメて気絶させてから、雛太らはたらふく酒を飲んでいた。もちろん。会計は全部、小日向持ちである。どうもそこの女将と洋輔は顔なじみだったらしく、問題は一つもなかった。
 とりあえず。
 部屋を出る時、小日向の股間を蹴り上げておいてやったので、雛太にも問題はない。
「限に電話しちょおおーーーーーーーー!!」洋輔が絶叫する。ポケットから「ジャーーン!」携帯を取り出した。
 フラフラと揺れながら、手の中の携帯電話を懸命に操作している。「やっぱりね。これだけ揃ったらね、限にね。電話しないとね」
 歌うように呟きながら、ボタンを操作する洋輔の隣で、タケシともう一人の友人が、雄叫びを上げながら鴨川に飛び込んだ。水をぶっ掛ける。
 雛太は苦笑を浮かべるシュラインに少しだけ視線をやった。
 嬉しいと思ってくれてれば、いい。
 武彦の隣に居るシュラインは許せるが、他の男の隣のは見たくない。助けて貰えてよかったのだと。彼女にはそう、思っていて欲しかった。
 鴨川に下りてくる道中で彼女は言った。これ。武彦さんに言ってやったらどんな顔するかしらね。もちろん、雛太に助けられたということではなく、小日向に襲われそうになったことだろう。
 けれど、それでいい。
 雛太は大きく息を吐き出し、空を煽る。
 小さな星が輝いていた。
「イエーーーーーーーーーーーーーース!」
 雄叫びを上げて、土手を駆け下りた。勢い余って体制を崩す。川の底に手を突いた。跳ねた水が、顔にかかる。
 確かに。こんな日には限も居れば素敵に違いない。そう、思った。
「よぉーーーーーーーーーーーッ。限ゥ〜。なんしてーーんのッ」
 夜空に向かい明るい声を出す洋輔に向かい、水を飛ばした。





END



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 2254/雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた)/男性/23歳/大学生】
【整理番号 0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号 3356/シオン・レ・ハイ (しおん・れ・はい)/男性/42歳/びんぼーにん +α】
【整理番号 3171/壇成・限 (だんじょう・かぎる)/男性/25歳/フリーター】


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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 思想の壁にご参加頂き有難う御座いました。
 執筆者下田マサルで御座います。

 依頼を解決する道のりで、皆様の個性が出ればと思い書かせて頂きました。
 ご購入下さった皆様と
 素晴らしいプレイングやPCをお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝致します。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                       感謝△和  下田マサル