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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


『桜の咲く頃』
●オープニング

「ちょっと、さんした君!」
 と碇麗香の声に呼ばれて、デスクへと向う。彼女がこの口調で自分を呼ぶ時には、無理難題を吹っかけられる時と決まっている。
 「これ、読んで頂戴」
 と言って渡された手紙の文面だけを見て、三下は絶句した。
 「Hello my name is jakoburefu」
 何だ、これは?
 「へ、ヘロウ……。いや、ハロウ。まいねーむいずじゃこぶれす?」
 目を白黒させて汗を流しながら、流暢とは程遠い発音で三下は最初の一文を読み上げる。 「ヤコブレフでしょ? 何、読めないの?」
 鋭い視線が突き刺さる。三下忠雄は汗を拭きながら、恐る恐る頷いた。
 「む、無理です。英語なんて読めませんよ。勘弁してください」
 「まったく、何やらせても役に立たない奴ね」
 碇麗香本人は呟いたつもりであろうが、どうひいき目に見ても聞こえないように言っている風には思えない。
 すがる様な目つきで上目遣いに自分を見る部下に、碇麗香は溜息をついた。
 「いいわ。誰か英語の出来る人間を連れて行きなさい」
 「へ?」
 と三下忠雄は鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔をした。
 「だから、チャンスを上げるからこの依頼をきちんとこなして見せろと言ってるの。誰でもいいわ、さんした君、あなたがアシストするの。分かっているわね?」
 「……はい」
 という事は、やはりこき使われるのだろうか?
 「もう、アポイントメントは取ってあるから、時間通りにその場所に行きなさい
分かったわね?」
 情けない表情のままの三下忠雄は、恐る恐る、聞く。
 「あの……怖い事は起きませんよね?」
 碇編集長はにっこりと笑った。
 「ええ。この依頼を失敗させたりしたら、保証の限りじゃないけれどね」
 彼女の笑顔は、間違いなく女神の贈り物だった。ただし機嫌を損ねたら最後、悪魔とは比較にならない罰を受ける羽目になるだろう。
 三下忠雄は冷汗を拭いながら、同行者を探す為に碇編集長の前を後にした。

 手紙の内容です。

 「こんにちわ。私の名前はヤコブレフといいます。ロシア人ですが、今はアメリカに住んでいます。突然ですいませんが、どうか私の願いを聞き届けては頂けないでしょうか?
 私は以前、日本にいた事があります。捕虜として。ずっと昔の話です。もう誰も覚えていない昔、戦争があった頃の話です。
 最近、夢を見ます。当時の夢です。恨みやつらみの夢ではありません。ただ、たった一つの場所が繰り返し繰り返し夢の中に現れてくるのです。大きな樹のある場所です。見事な花を咲かせる、あれは桜の花でしょうか……。どうかその場所を探して頂きたいのです。私も老い先短い身。最後になってこんな夢を見させるのは何なのか、何故こんな夢を見たのか。それを知りたいのです。よろしくお願いします」


●有と無
 パソコンのディスプレイの他には何も光源がない薄暗い部屋の中で、時折響くブーンという音はコンピューターの冷却ファンが回りだす音だった。
 極端なまでに静かなのには理由がある。
 麻生光希は頭に被っていたライダー用のヘルメットのようなものを外すと、「こんなものかな」とやや不明瞭に呟いた。
 それからHC(ヒュプノス・コンダクター)のスイッチを切り、脇に置く。
 後はニュートロン・イメージ・スキャナーで読み取った情報を元に場所を絞り込むだけだ。しかし、情報はあまり多いとは言えない。
 それどころか、曖昧過ぎると言った方が正確だった。
 光希は壁に掛けてある時計に目をやった。約束した時間までにはもう少し余裕がある。
 この装置は知人に作ってもらった物だった。
 脳内にあるイメージを読み取って、映像化するという趣旨の物だ。普通の人には扱えない。光希だけに合わせて作られた。
 人間の脳は有機物であり、パソコンに組み込まれたプログラムはデジタルなものだが、人間の神経反応が電気的なパルスによって成り立っているものであるのだから、それが有機的なものであれ、共通の部分は確かにある。
 コンピューターと、そのデジタルな信号と完全にシンクロできる能力を最大限に活かす為に作られたシステムだ。半催眠状態になった状態でHCで脳内にある情報をイメージ化し、画像データーとして抽出する。そのデーターを元に、光希はヤコブレフ氏が過去桜の樹を見た場所を探り出していた。
 地形が変わろうが、風景が変わろうが関係ない。
 できるだけ静かな場所の方が、リラックスできる。だから静かなのだ。コンピューターとシンクロするには、それがいい。
 
●真実の痕跡
 ヤコブレフ氏の宿泊するホテルのロビーで、光希はやや酸味のきつ過ぎるコーヒーに顔をしかめた。
 豆の程度はそこそこだが、淹れ方がよくない。コーヒーの味に角が立ってしまっている。これなら自分で入れた方がいい。もう少しまともなものを出して欲しいものだ。
 半分ほども残ったコーヒーのカップをソーサーに戻すと、フロントから歩いてくる老紳士の姿が目に入った。光希にはそれが今回の依頼者であるヤコブレフ氏だと分る。昨日電話で話しただけだが、声と話からイメージした姿そのままだ。
「こんにちわ、ヤコブレフさん」
 と、光希は立ち上がって歩み寄ると、右手を差し出した。
「あなたが?」
 とやや驚いたように老紳士は青色の瞳を見開いた。それから、自分の態度に非礼が在った事を詫び、「思っていたよりずっとお若いので驚きました」と理由を述べた。
 落ち着いた態度と声音から光希の年齢を実年齢より高めに思っていたらしい。
「お一人ですか?」との質問に、光希は頷いた。
「もうひと方おられると窺っていたのですが」
 というのは三下忠雄の事だろう。確かに最初は同行する予定だった。予定だったのだが、相手をするのが面倒だっので、途中でまいてしまった。
 いや、勝手にいなくなったのだと光希は思っている。
  
 そのままホテルのロビーにあるカフェに席を取り、これから訪れるいくつかの場所を提示しながら、光希はヤコブレフ氏に昨日の電話の他に何か思い出した事がないか、或いは話し忘れた事がないかを確認した。
 というのも、場所を絞り切れなかったからだ。
 夢の中に出てくるのは桜の樹だけだという。場所については思い当たる節がないという事だった。
「桜の樹自体は、ご覧になった事は?」
 ヤコブレフ氏は微かに表情を曇らせた。
「見た事は……あると思います。しかし、何処で見たのだったか。見たとすれば収容所ででしょうが……」
 光希は僅かに首を傾げた。氏の言っている事には、明らかな矛盾がある。
 一つには、今こうやって自分の手元にある候補地の風景写真だ。これは氏から聞いた情報を元にピックアップした場所だった。言葉の中に含まれる微かな情報の名残、それを光希自身が受け取ってイメージした場所。
 もしかすると、本当に忘れしまっているのかもしれない。だが、全く覚えがないはずがない。何かがあるからこそ、こうやって言葉の中に現れて、そして夢の中にまで現れるはず。
 ゼロとイチ。
 有と無。
 何もない所には情報は存在しない。
 少なくとも情報は在った。デジタルな結果だ。
 忘れているのでなければ、あるいは意図的なのかもしれないとも思う。
 忘れようとしている……?
 光希は写真を見つめるヤコブレフ氏の横顔を見る。その表情からは心の奥底までは読み取る事が出来ない。
「どうです。何かわかりませんか?」
 しかしヤコブレフ氏は静かに首を横に振っただけだった。
 写真は全部で十枚ほどもある。都内だけではなく、氏がかつて居たという収容所の在ったI県のものもある。そのどれ一枚として覚えがないというのだろうか?
「わからないんです。どれも皆見たような気がしないでもない。桜の樹はニューヨークにもある。どれも皆美しいが、同じに見えるんです」
 なるほどなと思う。
「けど、夢の中の桜の樹だけは違うように思えたんですよね?」
 だからこそ、こうやって日本にまで足を運んだ。アメリカにだって桜の樹は存在するのに、どうして日本を選んだのか?
 日本に何かがある事を、自身が知っているからではないのか。
「そうです。どうしてなんでしょうか? 桜の樹なんてどれも皆同じだ……」
 どうしてか。それは自分自身が知っているはずだ。分っているはずだ。だからこそ、ここにこうして、俺の前に座っている。
「ヤコブレフさん。あなたは戦時中、捕虜として日本にいたそうですね」
「はい。約二年間、収容所にいました。それはもうお話してあると思いますが?」
「ええ。確かにうかがっています」
「……?」
 何故今更確認のような事を聞くのかと氏の表情が言っている。
「戦争捕虜としてですか?」
 僅かな沈黙の後に投げかけられた質問の意味をわかりかねて、ヤコブレフ氏は首を傾げた。
「どういう意味ですか?」
「お気づきとは思いますが、その写真にはこの東京の物も含まれています」
 それが何だというのだ?
「それがどうかしましたか? 桜の樹はどこにでもある。この街でなくても」
 思った通りの答えだった。言葉にも表情にもそして態度にも、ほんの微かに1が現れている。存在を表す1だ。アナログじゃないデジタルに、明確に存在を表している。
「失礼ですが、あなたの居た収容所の事は完全調べさせてもらいましたよ。存在は公にされていないし、あまつさえ隠されている。資料も公開されていない」
 それは普通に探したならまず見つからないであろうと思われる資料だった。一般の人間が見られないように何重にも防護対策が取られている。国レベルでの秘匿ではないにしろ、I県では絶対に外へ漏れない筈の情報だ。
 だが、知っている人間はいる。という事は存在していると言う事だ。そしてそれが人間だけで在ったなら、光希にも手が出せないところだ。しかし、資料と情報とは破棄されず残っていた。デジタルな情報となって。
 何故その情報が残されているのかは分らない。始末されていてもおかしくないくらいのものだ。担当者が後世に発表される事を願って残したのか、或いは別の事情があるのか。
とにかくデジタルの世界に、収容所の情報は残っていた。
「どうやって調べたんです?」
 当然の疑問だろう。
「存在する情報は、必ず痕跡を残す。俺はそれを辿るだけです。アナログな情報と違って、デジタルな情報は消しても跡を残しますから」
 やや分り辛い説明だったが、氏には思い当たる節が在ったようだった。
「あなたはハッカーですか?」
「デジタルの世界を見知る術は心得ていると言っておきましょう」
 否定はしなかった。しかし積極的な肯定もしない。物事には曖昧にしておいた方がいい場合もある。だがデジタルは残酷だ。完全な否定をしないなら、それは1、肯定だった。
「不思議なのはヤコブレフさん、あなたの態度だ。気のせいでしょうか? 俺にはあなたが真剣に桜の樹を探しているように、探すのを望んでいるように思えない」
「何を言い出すんです。いきなり」
 困惑したように、老紳士は言う。
 それが光希の感じていた疑問だった。
 ヤコブレフ氏と話をする中で感じられる桜の樹の影は、不思議と質感がなかった。過去の思い出として、綺麗だったな程度の感慨しか感じられないものばかりだった。
 にもかかわらず、何故だろう。桜の樹そのものに対して執着がないのに、桜の樹という存在には固執している感じがする。桜の樹ではなく、桜の樹という存在を氏は樹に止めているのだ。
 だからこそ、ヤコブレフ氏の目に映った桜の樹が次から次へとイメージになって浮かび上がった。日本だけではもちろんない。アメリカのものもだ。
 一体何を隠している?
「言いましたよね。俺は情報が残す痕跡を辿るだけだって。情報が残す痕跡は二つしかないんです。在るか無いか。0か1かです。貴方の中には桜の樹という情報が間違いなく存在している。なのに貴方はそれを消そうとしている。けれど、消したって、消そうとしたって、存在していたという情報は残るんです」
 ヤコブレフ氏はやや視線を落し、僅かに逸らしたように思えた。
 氏の記憶の中に眠る無数の桜の樹。様々な場所、様々な時、ヤコブレフ氏は数多の桜の樹を見ている。別に桜の樹を見る事は特別な事ではない。街路樹、公園、いろいろな所に桜の樹はあるだろう。それが目に入る事はいくらだってあるはずだ。
 けれど、
 ヤコブレフ氏には、桜の樹というものが特別なものであるはずだ。だから記憶の中でも桜の樹それぞれが明瞭でなくても、桜の樹という存在は強く残っているのだ。
 だから、光希はそれをイメージし、あまつさえ数箇所ではあるがこうやって場所を知ることも出来た。
「答えて下さい、ヤコブレフさん。この写真の内数枚は、この都内ですよね?」
 光希の問いかけに、老紳士は反応をしなかった。いや、答えなかった。押し黙ってさらに俯いた事が、何も知らないという事への否定の証だった。
「貴方が居たのはI件のはずでしょう? 戦争捕虜としてだけ日本にいたのなら、どうしてこんな記憶が出てくるんですか?」
 導き出される答えは一つのはずだ。
 ヤコブレフ氏はこの東京にいた。どんな理由があるのかは知らない、だがそれを隠しているのは間違いない。そうでなければ……。
「それは……」
 と言ったきり、ヤコブレフ氏は言葉をつなげなかった。
 
 都内某所。
 桜の樹が見たいというヤコブレフ氏の要望を要れて、光希の選んだ場所がここだった。皇居の近くだ。
 突然老紳士がこんな事を言い出した理由は分らない。けれど、ただの気まぐれというのではなさそうだった。
「この国は大きく変わった。人も、風景も……」
 車窓から眺める風景に、老紳士は溜息とも思える微妙な吐息を吐き出した。
 「貧しい時代だった。食べ物がないという意味じゃない。むろんなかったが、それ以上に精神が貧しい時代だったんだよ」
 聞きながら、光希は何も言わない。老人は、誰かに向けて喋っているようには思えなかった。いや、少なくとも誰か全くの他人に向けての言葉ではないように思われた。
「誰もが戦争を嫌がっていた。戦争なんてしたくなかった。しかしね、誰も……誰一人として、戦争を行わないで済む方法が分らなかったんだ……」
 知らずの内に、光希は左肩に手を遣っていた。微かな痛み。もう痛みなどないはずだった。だが時々痛むような気がする。「NO.12」という刺青が、過去の痛みを忘れるなと警告しているのではないかと思えてしまう。
 ──忘れない。忘れるものか‥‥。
「沢山の人達が死んだ。日本人もロシア人も、世界中で多くの人が死んでいったんだ。戦争の為に、平和の為に」
 考え事をしている内に、いくつか老紳士の話を聞き逃してしまったようだ。
「けれど、今はこうやって平和になっているじゃないですか。その為の犠牲だったんでしょう?」
 チクリ。
 左肩の痛み。犠牲? 何のため? 平和の為? 何のための平和、誰の為の平和?
「そう思いたい。この平和な世界の為の礎になったんだと、私は信じたいよ──」
 その先を老紳士は言わなかった。ただ、項垂れて力なく首を左右に揺らしただけだ。
 車を停め、「少し歩こう」という老紳士に従って光希も車を降りる。
 老紳士が何を考えてあのような話を車の中でしたのかはまだ分らない。だが、意味があるのだろう。光希はあえて何も言わずヤコブレフ氏の後を歩く。
 少し肌寒いくらいの風が緩やかに吹くと、薄紅色の花弁が微かな香りを振り撒きながら宙を舞う。まるで色の付いた風が吹いているよう錯覚さえ受けるような光景だ。
「この光景を、忘れてしまっていたよ……」
 微かな呟きを光希は聞き漏らさなかった。
「それは御自分で、と言う事でしょうか?」
 答えは聞くまでもない。
「麻生さん。貴方の言う通りだ。私は、何も忘れてはいない。そうです、忘れられる筈がない。別れられるはずがないんだ」
 光希は少しだけ、眉を潜めた。
 『忘れない』
 同じ想いを、この老紳士は持っているのか。
「どうやって私の事を調べたのか、は教えて頂けないかも知れませんね。確かに、貴方の言う通りに私はここにいた。このトーキョーに」
 疑いのない事実だ。この老紳士の中に、確かに情報が存在した。痕跡が在った。欠片であろうとも、一部であろうとも、例え消そうとしても、消したという事実が残る。いたという事実は消せないのだ。
「軍人としてではなく?」
「その通りです。私は学ぶ為に日本に来ていた。そして一人の女性と知り合ったんです」
 ズキ。
 また、左肩に痛みが走る。さっきより少しだけ、痛みが増した気がする。
「当時はこの国はとても厳格な国でした。とても私達の交際は認められなかった。私も、彼女もその事を知っていた。だから……」
「秘密にしていた」
 光希の言葉に老紳士は振り向かない。ただ、顔を少し上げ、近くの桜の樹を見上げた。
「いずれは別れなくてはならないと感じていました。しかし、私達はまだ若かった。分っていても止められないものがあった」
 桜の樹を見上げたヤコブレフ氏の横顔が少しだけ見えた。その表情は厳しかったが、後悔の色はないように思えた。
 別れは意外に早く訪れた。
 戦争が始まったからだった。
 ヤコブレフ氏は国へと戻り、戦争へと参加する筈だった。いや、実際に戦争には加わったのだ。いくつかの戦闘にも参加した。
 だが──
「脱走……」
 その事実を聞き、光希の口をついて言葉が漏れた。
「多くの仲間が死んでいった。沢山の人達が、意味もなく。私はそれに耐えられなくなった。いや、それだけじゃないが……」
 言われなくとも想像はつく。
「逢えなかったんですね」
「その通りです」
 上げていた顔を俯けて、力なく言う。
 疎開か、或いは既に亡くなっていたか、理由は分らない。ヤコブレフ氏は何も語らなかった。知らなかったのかもしれない。
「私はその後、日本軍に捕まり、収容所へと送られました。今にして思えば、会えなかった方がよかったのかもしれない。逢っていれば、彼女にも何らかの罪を及ぼしたかもしれない。そういう時代だった」
 微妙なニュアンスがあった。まるで、逢えたのにそうしなかった。そういう風に聞こえた。
「一つ聞かせて下さい」
 振り向いた老紳士は、真っ直ぐに光希を見る。
「貴方は何をしに、この日本へ?」
「納得する為ですよ。麻生さん」
「納得?」
「そうです。この国へ来て、自分にはもう何も心残りがないと確認する為に来ました」
 気にしている唯一つの事。桜の樹。それが見つからず、ただの気のせいだと分ってしまえば、見つからなかったと納得できれば、自分に嘘をつき通せる。全てを時間の流れの中に忘れ去ってしまえる。そう思っていたのだと、ヤコブレフ氏は言った。
「しかしこうして、麻生さん。貴方は私が心の奥底へしまい込んでしまったものを掘り起こして下さった」
 苦笑を浮かべながらヤコブレフ氏は言い、一歩光希へと近付いた。
「こうなったのは、貴方の責任ですよ。こうなった以上、私にはやらなくてはならない事が出来た。手伝って頂けますね?」
 そう言って、老紳士は光希の手を取った。

●存在〜残るもの
 郊外にある住宅の一つの前に立ち、光希はヤコブレフ氏に「ここですよ」と告げた。
「ここですか?」
 と老紳士は訝しげな表情で視線を上方に向ける。確かに塀越しには桜の樹が見える。たった一本の桜の樹。
 最初にヤコブレフ氏と会ってから三日が経っている。
 あの日、もう一度ヤコブレフ氏に話を聞きなおした光希は、収容所にいた時ヤコブレフ氏が一つの伝言を受け取ったと言う事を聞かされた。
 それはヤコブレフ氏と交際していた女性からのものだった。
 直接会う事も出来ず、ましてや面会になどいけるはずもなく。それでも何とか繋ぎをつけた彼女はたった一言だけをヤコブレフ氏に伝えたのだ。
「桜の樹の下でお待ちしております」と。
 戦争が終わりかなりの時が経ってから、ヤコブレフ氏は一度だけその桜の樹を代理の人物に訪ねてもらっていた。
 だがその時には既にこの樹はなく、桜の樹が在った場所は大きなビルの立つ街の一角にしか過ぎなくなっていたという。
 なぜ自分で行かなかったのか? という光希の質問にヤコブレフ氏は「戦争は、消えない憎しみと悲しみを残すものだ」とだけ答えた。
 収容所で死んでいった多くの中間達、友人達。その恨みが消えるまでに数十年の時が必要だった。
 そして今、全てを忘れてしまう為に自身で日本を訪れたというわけだった。
 忘れる、つもりだった。
「もう樹は無くなっていると聞いていましたが……」
 その通りだった。無くなっている。だがなくならないものもあるのだ。確かにこの国は大きく変わってしまった。人も、風景も、街も、何もかもが。
 しかし変わらないものもある。
「ええ。無いですよ。桜の樹自体は」
 ヤコブレフ氏は首を傾げる。
 老紳士の話を元に、光希は再度頭の中に浮かんだ光景をスキャンし取り出して、調べなおしていた。それで場所と樹を特定し、さらにその桜の樹を切り倒した時の状況までを調べ上げた。コンピューターとシンクロして調べれば、存在しない情報以外は必ず導き出せる。
「伝言には続きがあったんです」
「続き?」
「そうです。もし、自分のいない間に桜の樹を訪れたなら、樹の根元を掘り起こして欲しいと。そこに貴方に当てた手紙があると言う事が伝わらなかったんです」
 もし、伝わっていたとしてもおそらくヤコブレフ氏に届く事は無かっただろう。手紙を掘り起こす前に、桜の樹は切られてしまっていたからだ。もちろんそんな事を代理人は知るはずもない。ヤコブレフ氏に宛てられた手紙がある事は、本人ですら知らなかった。
 伝言は何人かの人間を伝って届けられた。その際に、一部分が忘れられてしまったのだった。
 
 家の奥に通され、ヤコブレフ氏は桜の樹がある庭へと案内される。
 そこへ一人の若い女性が現れて、ヤコブレフ氏を桜の樹の根元へと導いた。
「曾孫に当たる人ですよ。ヤコブレフさん」
 それ以上の説明は光希はしなかった。もう十分だった。
「それじゃあ、まさか……この下に?」
 樹の根元まで行き、ヤコブレフ氏は目を見開いた。
 曾孫に当たる女性が優しげに微笑み、小さなシャベルをヤコブレフ氏に手渡した。
 老紳士はそれを震える手で受け取り、ややぎこちない動きで大地に当てる。
 彼女はずっと待っていた。その生涯を終えても、手紙だけがヤコブレフ氏を待ち続けていた。
 樹がなくなってしまった時、彼女の遺族が意思を引き継いだ。樹の根元に在った手紙を一旦掘り起こし、自分達の家の庭に桜の樹を植え、その根元に再び手紙を埋めた。特に遺言に在ったわけではなかった。
 けれども生前話に聞いていたこの事実を、彼女の子孫達は守り続けてきた。
 いつかきっと、訪れるであろう一人の男性の為に。そう信じていた一人の女性の為に。
「……私は、忘れようとしていた。忘れようとしていたんだよ……」
 土の中にビニールと油紙に包まれた手紙を見つけ、ヤコブレフ氏はガックリと膝をついた。声を詰まらせ手紙を取り出すと、それを胸に抱い。そして静かに涙が頬を伝うのに任せて泣いた。
 折りしも風が吹き、舞い散る薄紅色の花弁が老紳士を柔らかく包み込むように宙に舞う。
「光希」
 不意に名前を呼ばれたような気がして、光希は少しだけ首を巡らせた。
 分っている。
 もう彼女は存在しない。
 風に舞う花弁が、甘い香りを運んでくる。
 再び桜の樹に視線を向けた時、その樹の下に一組の男女が樹を見上げ、佇んでいた。
「……彩」誰にも聞こえないような小さい声で、光希は呟いた。
 あれは……自分。
 彩が振り向く。
「来年も、見に来ようね」と。
 隣の自分に言う。
「分ったよ」
「約束だよ」
 と彩が手を握る。
 その様子を、幻を、光希は目を細めて見つめていた。
 それは一人の女性の想いを守ってきたこの桜の樹がくれた、せめてものお礼なのかもしれなかった。

●世は事もなし
「そう、巻かれたの」
 大変だったわね。と微笑む怒り麗香の頬が引き攣っている。
「依頼は無事解決した」という報告を光希から受けた碇麗香は、さっそく三下忠雄に記事の提出を申し付けたのだが、早々に彼の姿を見失ってしまった三下が事件の真相を知る由も無い。
 意を決した三下が、事実を恐る恐る報告した時、彼に残された道はたった一つしかなかった。
「……それじゃあ二度と巻かれないように、しっかり身体に覚えてもらおうじゃないの!」
 クワッと目を見開いた麗香はそのまま三下忠雄を縛り上げて布団に簀巻きにすると、アトラス編集部のあるビルの窓から吊り下げる。
 哀れな悲鳴と共に、三下忠雄は人間蓑虫となってしまった。
「た、助けて〜〜〜!」
 という悲鳴が街の中にこだまする。
 いつもと同じ、平和なアトラス編集部だった。
 〜了〜  

 
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2937 / 麻生 光希 / 男 / 25歳 / ハッカー&『トランス』ドラマー】
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■         ライター通信          ■
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 はじめまして麻生光希様。とらむです。
 依頼を引き受けてくださりありがとうございました。
 思った以上に執筆に時間がかかってしまいました。ごめんなさい(汗
 興味深い異能をお持ちなので、何とか物語りに活かしたいと頑張ったつもりですが、
さて……。
 楽しんでいただけたなら、幸いです。
 御縁がありましたら、またどうぞよろしくお願いします。