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地下300メートルの怪談
千代田区の地下深くに広がる秘密領域に、『調伏二係』の事務室はある。
この陰気な空間では、黒服・黒眼鏡の職員たちが、首都圏を中心に日本国内で頻々と起こる怪奇事件の調査という職務に日々、従事しているわけだが……。
その日、八島真は宿直当番であった。
「♪〜」
最初の異変は、八島が鼻歌まじりに職員用のシャワーを使っている時だった。
「…………?」
どうして、シャンプー中は背後が気にかかるのだろう。なにかの気配――。裸の背中に冷風を浴びたような感触があって、ぞくりと身をふるわせた。
――ガタン。
物音だ。八島はあわてて、シャンプーの泡をおとすのもそこそこに、腰にタオル、目に黒眼鏡(なぜか)だけという格好で脱衣場に飛び出す。……だが、むろん、誰もいるはずなどない。
他の職員たちはとっくに帰宅している時刻。この地下秘密領域には、八島ただひとりしか、おらぬはずなのだ。
しかし、それ以来……。八島はつねに、奇妙な視線のような気配、誰かがどこかにひそんでいるような物音を、感じつづけることになったのである。
そしてその夜遅く。
「…………」
宿直室の薄い蒲団の上で、寝苦しさに八島は目を開いた。
――ギシ。
「……っ」
なにかいる。闇の中に、なにものかの存在を、八島ははっきりと感じた。そっと、枕元の黒眼鏡へ手を伸ばす。
――ガタンッ、バタバタッ。
ひときわはげしい物音に飛び上がった。一気に頭が醒めて、身を起こすと、人影などは見えはしないが、たしかに閉めたはずのドアが開いている。ぽっかりと、奈落のように口をかけた闇の向こうからは、ひんやりとした空気が流れこんでくる。
「あ、あのさ……榊原クン」
翌日。おずおずと、八島は部下の職員に切り出した。
「ここってさ……。『出る』とかいう噂あったっけ」
「ハァ?」
返ってきたのはありったけの不信と嘲りのこもった声音と視線だった。
「『出る』って霊現象のことですか? そりゃ出るでしょうよ。封印倉庫のほうにはありとあらゆるヤバイものがもういっぱいいっぱいで――」
「いやいや、そうじゃなくてさ……」
「そうじゃなければ何なんですか。ここは首都圏の霊的防衛の拠点ということで、国家予算で結界が敷かれてるんですよ。そんなところに浮遊霊だの自縛霊だのという話になったら国家の威信にかかわるってもんです」
「…………そう――だよね」
「まさか、『見た』んじゃないでしょうね」
一瞬、言葉につまった八島だったが、力いっぱい、首を横に振る。
「ですよね。うっかり外部から引き入れてしまうこともあるかもしれませんけど……そんなことになったら係長の責任問題ですものねェ」
なにげない部下の一言は八島の黒スーツの胸に深々と突き刺さるのだった。
かくして。
ひそやかに、闇のネットワークを、八島からのSOSがかけめぐることになった。
【18:00】
「みなさん」
突然、立ち上がった八島は、手を腰の後ろで組み、黒服の胸を張って、『二係』の職員たちへと呼び掛けた。
「高度経済成長期以降、我が国の国民の年間総実労働時間は減少傾向にあります」
ぽかん、と、黒服の職員のたちの、疑問符をそのまま表情に変えたような顔が、係長を見返している。
「しかしながら、欧米諸国と比較すればまだまだ短縮の余地があります。そもそも我が国の時間当たり労働生産性は欧米先進国に比べ決して高くはありません。これは我が国の経済システムが本当に効率的なのかという問題でもあるでしょう。このため、週40時間労働制の実現、年間総実労働時間の1800時間程度に向けての短縮のために、完全週休2日制の普及・促進、年次有給休暇の完全取得の促進、連続休暇の普及・拡大、所定外労働の削減といった、いわゆる時短に向けての方策が進められなければいけないのです」
八島の指が、奇蹟をしめす聖人のごとく、柱の時計をさした。
「本日は金曜日。そして時刻は午後6時です。みなさん。今日はもう仕事を終えて帰宅してください。そしてわが『二係』としても我が国の労働環境の健全化に貢献しようではありませんか」
その力強い演説が、しかし、職員たちのあいだに巻き起こしたのは不審げなどよめきだけだった。
「あの……」
係長補佐をつとめている榊原が、八島の言葉を何ひとつ額面通りには受取っていない顔つきで、おずおずと口を開いた。
「すいませんが、仰っている意味がよく――」
「きみもたまには早く帰りたまえよ!」
しかし八島に遮られる。
「ほら、なんとかって新しいゲーム買ったんじゃなかったの? さあさあ、柏木くんはデートがあるんじゃない? 住谷さんは英会話スクール行ってるって言ってたよね? 堀口くんはたまには家族と食事でもしたらどう?」
強引に、職員たちの背中を押し、襟首をつかみ、事務室の外へと追い出す。
ほどなく――
実に『二係』始まって以来ではないかと思えるような、定時を過ぎて誰もない、という状態になった。
「……さて、と」
一人きりになった事務室で、八島の黒眼鏡がたくらみを宿して輝く。
【19:00】
「あの」
「え。あ、はい」
そこは東京メトロ『二重橋前』駅、地下構内である。
長髪をうしろでゆわえた、背の高い壮年の男はシオン・レ・ハイ。構内をうろうろと行ったり来たりしている彼にそっと近付いて声を掛けたのは光月羽澄だった。
「もしかして、道に迷ってらっしゃるんじゃありません?」
「はあ? いや、ご冗談を。こんな地下通路で……それじゃあやしい人じゃないですか」
あわててシオンはかぶりを振るが、実際、あやしいたたずまいの男なのである。
くす、っと羽澄は微笑むと、一枚の名刺を差し出した。
「あ!」
それは、先程からシオンが手にもっているものと同じ名刺に相違ない。
「私、光月羽澄っていいます。……八島さんのお知り合いの方ですか?」
「あー、いや、そうじゃないんですけど……草間サンところに寄ったら仕事があるよって……泊まりの仕事があって助かりました、はい」
「私も『二係』にお邪魔するのははじめてなんですけど。……たぶん、こっちでいいと思いますよ」
「えっ」
シオンは目を疑った。
光月羽澄は銀色の長い髪の美少女だ。ふわり、と風もないのにその髪がゆらいで――彼女の横顔が吸い込まれるように消えていくのは、たしかにただの壁としか見えないところで……、しかし、その瞬間、シオンは手の中の名刺がどくん、と、脈打ったような気がして、はっと目を見開く。
「あ――、あれえっ!?」
ふたりは――
長い長い、どこまでも続くかのような、地下通路に立っていた。地下鉄の構内ではない。打ちっぱなしの壁が、だまし絵のように無限に続くかに見え、天井ではうす暗い蛍光灯がジジジと音を立てている。
「さ、行きましょう」
狐につままれたような表情のシオンを、羽澄が促した。
チン、と音を立てて古めかしいエレベーターがその到着をつげた。
「ようこそ、おいでくださいました」
ホテルのボーイさながらに、八島が頭を下げて、男を迎え入れる。
「なに。店も閉めてきたことだ」
言葉通り、バーカウンターからそのまま抜け出してきたとでも言うようなシルクのシャツの上に皮のベスト――巌嶺顕龍がかるく微笑を浮かべて、ひっそりと静まりかえった『二係』の事務室に足を踏み入れた。さりげなく、視線を周囲を投げかける。その眼光に、一瞬、鋭いものが混じった。すでに検分が始まっているのだ。
「まさか、この俺が国の機関で寝泊まりすることになるとは」
苦笑まじりに呟く顕龍を、八島が先導した。
「顕龍さんにいらしていただけてかなり心強いですよ。さ、こちらのVIP用ソファーへどうぞ。――そして、ご紹介しましょう」
ソファーには先客がいた。
そっと会釈をすれば、銀の髪が流れる。不思議な青い瞳が、顕龍を見つめた。
「セレスティ・カーニンガムと申します」
「麗香さんにご紹介いただいたんですよ。こちら、巌嶺顕龍さん」
「よろしく頼む。しがないバーの親父だが、今日は八島くんの用心棒というところかな」
「おや、お店をなさっておられる? 実は、私、ワインをお持ちしたのですよ」
セレスティは、彫像のように整ったおもてに、微笑みを浮かべた。彼のかたわらにある小さな木箱にはどうやらワインが収まっているらしかった。
「夜は長いですからね。――八島さんもよろしいのでしょう?」
八島がなにか応えようとしたが、それはかなわなかった。
ガン――!と、頭上から落下し、その脳天を直撃したものがあったからである。
「よっ、と」
天井の通気口のフタを蹴り落とし、フロアに降り立ったのは、紺のコートに身を包んだ一人の男だった。
「…………」
きょろり、と、澄んだ海の色をした瞳が周囲に視線を巡らす。
「探してる奴なら、足の下だぜ」
「え。あっ」
男は革靴の下で伸びている八島を見下ろした。
「入口の下に立ってないでよ、もう」
通気口から出現した男は言った。八島の背中を降りると、一同を見回して、かるく一礼をした。
「城田京一です。よろしく」
「おう。楽しい夜になりそうじゃねぇか」
応じたのは――先程まではいなかったはずの人物である。
いつのまにか、セレスティの隣……「VIP用ソファー」とやらの真ん中に、藍原和馬がふんぞり返っているのだった。
【20:00】
「……なんで、俺がやらなきゃいけないんだよ。こいつをブチ抜いたのはそこのセンセイだろうが」
ぶつぶつこぼしながら、和馬が脚立に登る。通気口に元通りフタをするためだった。
「すまないね。まあ、こういうのは若い人に頼んだほうが」
傍で京一が、その様子を見上げている。
「あいにく俺のほうがはるかに年上だと思うがね。第一、ココから颯爽と007ばりに登場した張本人がそれを言わない!」
「ああ、和馬さん、ちょっと待って。これを」
息を吹き返した八島が、水を入れたバケツと、ぞうきんを持ってあらわれた。
「なんだこりゃ」
「そこ、掃除したいと思ってたんですよ。ついでだからダクトの中、拭いちゃってください」
「ンだと、ゴルァ!」
和馬が牙を剥いた。
「またバイト代お支払いしますよ」
「おウ、それで思い出したぞ。こないだのバイト代、日給1万円のはずが9千円しか振込まれてなかった!」
「何言ってるんですか、そんなの源泉徴収を引いたのに決まってるでしょう。常識ですよ?」
「知るか!俺はできて百年経っていない決まりには従わん!」
「あのー、八島さん、すいません……」
和馬が、手渡されたバケツを突っ返そうとし、ひらりと、それをかわした八島の後ろから近付いてきていたシオンが被害にあった。
「わっ」
「あーあ」
「ちょっと和馬さん。事務室に水まくのやめてください」
「何!俺のせいか!?」
「び、びしょ濡れだぁ」
「シオンさん平気ですか? 着替えをお持ちしないといけないですねぇ」
チリリン――。
事務室の時ならぬ騒ぎをよそに、宿直室には涼しげな音が響いていた。
「風鈴かね」
顕龍の問いかけに、羽澄は頷く。彼女は満足げに、部屋の四隅に下がった、渋い鉄色の風鈴たちを眺めた。
「南部風鈴だな。良い音色だ」
「これで部屋に結界を張っておきます。……みなさんもいるから、ま、念のため、っていったところですけど」
「この一件、どう見るね」
羽澄は肩をすくめた。
「どうでしょうね。正直、自分だけでなんとかできない八島さんでもないと思うし。気のせいとは言わないまでも……さして深刻なものじゃないんじゃないでしょうか」
「なかなか茶目っ気のある登場の仕方ですしね」
セレスティが会話に加わってきた。
「話では八島さんをそっと見ていただけのようですね。……ファンかもしれないですよ」
ふっ、と、形のよい唇に笑みがのぼる。
「でもこんなことでもないと、『二係』をゆっくり見てまわる機会なんてないから、幽霊さまさまかも。そうだ、ここの内部の見取り図とかあったら借りてこよう」
羽澄が足取りもかるく部屋を出てゆく。
「確かに、背中をとっておきながら何も仕掛けてきていない以上、命が狙いというわけではなかろうが」
と顕龍。
「なにかお考えが?」
「たとえば、情報が目的という推測もなりたつ」
「……なるほど。国家の秘密機関ですものね、こちらは」
顕龍は手を開いた。そのてのひらの上を、複数の脚をもつ小さなものがかさこそと這っている。
「風鈴の結界も風流だが、地を這い、闇にひそむものの力が有効なこともある」
唇の端を吊り上げた。
「小さな友人たちの力を借りるとしよう」
「本当にわたしでよかったのかい」
京一は、キャスターのついた椅子を一脚ひっぱりだすと、腰を下ろしながら訊ねた。
「他のみんなと違って、霊音痴なんだよ。察知できないんだ」
「そういうことなら、ご心配なく」
言いながら、八島が示した方向には――
濡れた服のかわりに、黒服・黒タイ・黒眼鏡に身をかためたシオンがいた。京一の視線を感じて、びっ、といんちきなモデル風のポージング。
「…………何?」
「ですから、『二係』支給のユニフォームなら霊的な力の波動を感知したり、防御したりできるということです」
「…………」
「シオンさん、さっきのロッカーからもう一着お願いします。……城田さん、身長は何センチです?」
【20:30】
かなり異様な光景である。
会議スペースの広いテーブルに一同は集まっていたが、並んで席についた八島、シオン、京一の三人は黒ずくめの、『二係』の制服で、まるで三つ子のような格好だった。羽澄と和馬が、笑いをかみ殺している。
「これが『二係』を含む、宮内庁地下秘密領域です」
八島が、テーブルの上に青焼きの見取図を広げた。
「この部屋がここですね」
一同がのぞきこむ。
「ずいぶん広いんですねぇ。この廊下は、途中で途切れてますけど、この先は?」
「わかりませんね」
「……はい?」
シオンが頓狂な声を出した。
「わからない、ってどういうことです?」
セレスティの問いに八島は、
「『二係』はその一部が異界化しているからです。界鏡現象が頻繁に観測されるようになる前から、『二係』は異界の研究をしていました。高峰研究所との合同研究という形でね……亡くなった私の兄と――神聖都学園大学の河南教授も参加していたのですが」
と応えたが、余談だと気づいたのか、咳払いをひとつ挟むと、
「ま、それはともかく。今夜はこの事務室と、隣の宿直室をベースキャンプにして……手分けして夜回りをお願いしようかと」
【20:45】
「そうはいっても、“腹が減っては…”っていいますものね。これ、つくってきましたから、よかったらどうぞ」
そう言って、羽澄が持参した重箱のフタを開けた。
「これか!うまそうな匂いがしてると思ってたんだ」
「ほう、これは豪華だ」
大勢でも分けやすいように、との配慮だろうか、ごはんはずらりと並んだ稲荷寿司。それに、だし巻き卵、鶏のからあげ、アスパラのベーコン巻き、海草サラダなどが彩りを添えている。
「わ、私もいただいてもっ?」
「もちろんですよ。さあ」
「あ、ありがとうございます〜」
シオンが涙を流さんばかりの様子で、割り箸を渡そうとした羽澄の手をしっかと握った。
「食事の期待などしていなかったが」
顕龍がうっすらと笑った。
「だな。カンパンでも食わされるもんだと思ってた」
「和馬さん。一応、ここにもキッチンがありますし、私も独り暮らしが長いですから」
「飯つくってんのか?」
「見回りの班わけどうしましょうね」
「話そらしたな!」
「美味しいですよ、とても」
「全部、きみがつくったの? 大したもんだ」
「ありがとうございます」
セレスティと京一に褒められて、羽澄はにっこりと笑った。
「褒め過ぎですよ、みなさん。……っていうか、普段、どんな食生活してらっしゃるんです?」
一同の箸が止まった。
セレスティ以外は、あまり芳しい返事ができない男たちであるらしかった。
【21:38】
「ふう。一通り歩き回ったと思うが……霊の気配はなかったよな?」
「どうかな。これ借りたけど、今いちピンとこなくて」
和馬の懐中電灯の光が、暗い廊下の奥へと投げかけられる。
「どこかから“連れて”きちまったんじゃないかと思ってたんだがな」
「でもさ」
黒眼鏡の京一は言った。
「物音を立てるのなら霊でなくてもできるよね。というより、むしろ、物理的な存在だからこそ音を立てるとも言える」
「けど、こんなところに忍び込むなんてことができる………………よな……やろうと思えば」
通気口から入ってきたのは他ならぬ京一だった。
「うん。正直、ここは軍事的にはさほどよく出来た施設とはいえない。まあ、日本のはたいていそうなんだけど」
「……おい」
和馬の声に緊張が走った。
懐中電灯の光の輪の中に、半開きになった扉が浮かび上がる。
「ここ……」
ふたりがのぞきこんだのはダンボールが積み上げられた、埃っぽい部屋の中で――
「誰かいたみたいだ」
京一が膝を落として、床にちらばったその痕跡を調べた。
「こいつぁ、保存食か。誰かが食ったんだな?」
「つまみ食いをした職員がいたか……そんなハズないよね」
「食い物を盗む幽霊か……」
【22:10】
「おや」
顕龍の片眉が動いたのは、なにも八島の物真似ではなかろうが……。セレスティがそっと、人さし指を唇にあてる。
「お疲れなのでしょう」
ソファにもたれて、八島は舟を漕いでいた。
テーブルの上にはセレスティ持参のワインボトルが開けられている。
「ふふ。呑気なものだな」
八島のデスクに、顕龍は腰掛けた。
「あいにく俺はデスクワークの経験はないが……。四六時中こんなところで忙殺されていては、鬱積や疲れも溜まるというものか」
見るでもなく、ちらかった机の上に積み上がった書類の山や、散乱した文具類に目がいく。
「…………」
飾ってあるのか、ただ単にそこに突っ込んであるのか、判然としない様子で、ペン立てと電話機の隙間に、一葉の写真があるのを、彼はみとめた。
かしこまった様子で、直立不動の“きおつけ”をしているのは八島に違いない。
だがそのかたわらに、同様の黒服だけれども黒眼鏡はかけていない、男の姿がある。緊張した面持ちの八島に対して、男はうっすらと笑みを浮かべている。背景はどうやらこの『二係』のようだった。
写真を裏返してみる。
99年4月 初登庁 兄と
そんな文字が書かれてあった。
「巌嶺さん」
セレスティが、顕龍に声を掛ける。
「八島さんを、宿直室のほうへ運んであげてはいかがでしょう。お手数おかけしますけれど」
「そうだな」
セレスティは顕龍に比べればいかにも華奢だし、脚が不自由なのを顕龍は気づいていたので、素直に頷く。――その前にもういちど、写真に目を落とした。
なるほど、ふたりの顔立ちはどこか似ているようだった。
【24:05】
羽澄があくびをかみ殺す。
「もうおやすみになっては」
「そう……ですね」
「なに。俺がド貧民のままでか!」
和馬の抗議をよそに、セレスティと羽澄はカードを片付けはじめる。
「なにも起こらないみたいですね」
「これだけ人がいてはね」
「でも気配もないわ」
「そもそもここに出現できるだけでも力の強い霊だということがわかりますし……そう――、むしろ、上手なのは相手のほうなのかも」
意味深な微笑を、セレスティは浮かべた。
「おう、そうだ」
ふいに和馬が声をあげる。
「藍原さん?」
「八島のニイさんは寝てるんだよな?」
にやり、と悪魔的な笑み。
「あの眼鏡の下を見るチャンスだ!」
いそいそと、和馬は出ていくのだった。
「……。セレスティさんは、なにか予想されていることがあるんですね?」
「そういうのともすこし違いますけれど――。ただ、邪悪なものではないのだと思いますよ。なにせ……」
そのときだった。
絹を裂くような――とは言い難い、野太い男の声の悲鳴が響き渡ったのは。
羽澄とセレスティが驚いた顔を見合わせる。しかも、悲鳴はふたつだった。
「な、何ですか――って、和馬さん!? 何してるんですか!」
「今の悲鳴――」
「いったい何が……ああっ!?」
「…………」
苦虫を噛み潰したような顔で、和馬は牙を剥き、揺れていた。
捕獲された野生動物よろしく網に包まれ、天井からブラ下がって揺れているのである。
「かかったかい? あれ」
あぜんとして和馬を見上げる羽澄、セレスティの後ろからひょっこりと京一が顔を見せた。
「幽霊の正体って和馬くんだったの?」
「違わい! ってか、キサマの仕業か! ここはヴェトナムの密林じゃないんだぞ!」
「いやだな。いくら何でもヴェトナムに行ってるほど年寄りじゃないよ。――八島くんどうする? 犯人捕まえたけど」
「犯人じゃねぇっつうの!」
「えーと……」
八島は寝起きの混乱した頭で吊るされた和馬を見ていたが……
「ちょっと待ってください。私が寝ぼけていただけかもしれませんが、さっき――」
「そうよ!」
羽澄が叫んだ。
「もうひとつ悲鳴がしたわ」
そのもうひとつの悲鳴の主は、すぐ隣の、宿直室付のキッチンの床に伸びていた。そしてその脇に立っているのは――
「顕龍さん」
「シオンさん、どうしたんですか?」
どやどやと駆け付けてきた一同に向って彼は、
「見ての通り気絶している」
と応え、シオンを助け起こして気合いを入れた。
「はっ! ……あ、ああ、みなさん――出た、出た、出たんですよ!」
「何が出ましたか――」
問いかける八島に答えるように、がさがさ、と物音。はっとして集まった視線の中にあらわれたのは……
「あ――」
「可愛い!」
羽澄が思わず声をあげる。
「おやおや」
セレスティがこらえきれずに笑いを漏らした。
「う、うさぎちゃーん!」
「シオンさんのうさぎなの?」
シオンはその垂れ耳兎を抱き上げるとそっと頬ずりをした。
「すいません……こっそり連れて来てたんです。一緒に泊まってよいかどうか聞きそびれちゃって。……それが姿が見えないので探しに来たら――この部屋に誰かいて……急に飛び出してきたからびっくりしちゃって――」
「ここにもトラップしかけておけばよかった」
京一が呟いた。
「誰かいた、って……でも――」
「案ずるな」
力強く言ったのは顕龍だった。
「いた」
そして闇に沈む廊下の向こうへ臆することなく駆け出してゆく。
「顕龍さん!」
「俺の呪蜘が獲物を見つけた」
そして。
【24:17】
顕龍を追った一行は、床の上でじたばたもがいているひとりの男と、彼を冷徹に見下ろす顕龍の姿に行き着いた。
「この人が――」
「“『二係』の幽霊”の正体、ですか?」
「やれやれ。枯れ尾花もいいところだね」
羽澄、セレスティ、京一が口々に言った。
その男は――
ぼろぼろの衣服に、垢じみて黒く汚れた肌、手入れを放棄されて久しい蓬髪……まぎれもない、ホームレスのようだった。
男の周囲の床には、金属製の長い針が突き立っている。それが、なんらかの呪力をもって男の自由を奪っているようだった。採集された昆虫のように、彼は床から起きあがれないでいるらしい。
「マジかよ。戸締まりくらいしっかりしとけ」
「そんなはずありませんよ。この地下領域に、招かれざる人間が入りこめるはずは……」
「そう? そんなに難しくなかったよ」
通気口から出入りしている男が言った。
「城田さんは私の名刺をお持ちでしょうが!」
「八島くん」
顕龍が示した。
かさこそ、と、蜘蛛のようで、そうでない、不気味な蟲がホームレスの男の身体の上を這い回っている。そしてそれがポケット(なのだろうか。服のひだの内側)からひっぱりだしてきたものは――
「八島さんの名刺だわ」
「お知り合いだったんですか?」
「いや、そんなはずは……」
「これをどうしたね?」
有無を言わさぬ口調で顕龍が尋ねる。
「ひ、ひろった……」
嗄れた声で、男は応えた。
ガス漏れのようなためいきが、一同のあいだから発せられる。
「さて。後は八島くんの仕事だ」
顕龍は静かに言った。
「八島くんの職場で、君の仕事を奪ってしまっては申し訳ないからな」
【26:49】
――ィィン……
「…………」
かすかな音を聞いたような気がして、羽澄の意識は浅い眠りの中から引き戻される。
――リリィ……ン
がばり、と、身を起こす。気のせいではなかった。ごくわずかだが――風鈴が鳴ったのだ。
「うそ……」
夏も終わりの季節、まして地下領域の夜は冷える。羽澄は肩の上からカーディガンを羽織ると、そっと、あてがわれた部屋のドアを押し開けた。
外は真っ暗な廊下。
こつ、と音がしてはじかれたように振り向けば、
「セレスティさん」
無言で頷きつつ、セレスティが杖を片手にこちらへやってくるところだった。
「気づきましたか」
「一件は落着のはずじゃ……」
「でも敵意は感じません。……こっちです」
なにかに導かれるように、ふたりが向ったのは、事務室だった。
セレスティは周囲の気配を探るように、感覚を研ぎすませていたが、やがて、たおやかな指を泳がせるように、闇の中に手を差し伸べた。
「おいでになるのでしょう? ……どうか、姿をお見せください」
ゆらり、と――
まるでそこが深海ででもあるかのように、闇がゆれた……ような気がした。
「あ……」
羽澄が小さく声を出す。
ふわり、と、青白い燐光に包まれた、まぼろしのような男の姿が、真夜中の事務室を背景に浮かび上がり、視界をよこぎったのだ。
彼は黒いスーツに黒いネクタイを締めていた。そしてその顔は――
ガタン。
静寂を破る物音。
「八島さん」
「まさか……」
八島の顔は――黒眼鏡のせいですべてをうかがうことはできなかったにせよ――誰も見たことがないほど青ざめ、狼狽の色を浮かべていた。
彼はなにかにすがるように、闇の中へと手を伸ばし、飛びかかるように足を踏み出した。
「八島さん!」
その過程で、通り道にいた羽澄とセレスティをなかば強引に押し退けさえした。
行く手を邪魔する椅子を蹴飛ばし、彼は走り出して――
*
「…………」
「なんだい騒がしいな。わたし、明日出勤だったんだけどな。っていうかもう今日だけどね。……って、あれれ」
京一が顔を見せたとき、他のメンバーはあきれ顔でそれを見上げているところだった。
すなわち、網に包まれ、天井からブラ下がって揺れている八島を。
「あー、ここにも仕掛けておいたんだっけ。忘れてたよ」
「…………お帰りになる前に、全部、解除していって下さいますよね……」
「うーん。他にどこに仕掛けたっけなあ。よく覚えてないんだよね」
「な……!?」
「あー、でも爆弾とかじゃないから……」
「これは人騒がせだったな。さ、もう一眠りするか」
「今度こそチャンス! おとなしくその眼鏡の下を見せやがれ!」
「あのぅ、また兎ちゃんがいなくなっちゃったんですけど……」
「それなら、ほら、ここですよ。……可愛いですねえ」
「八島さん。今回の件の口止め料は今朝の朝ゴハンってことでどう? 行ってみたかったホテルのブッフェがあるのよ」
「…………なんでもいいから降ろしてください……」
(了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1028/巌嶺・顕龍/男/43歳/ショットバーオーナー(元暗殺業)】
【1282/光月・羽澄/女/18歳/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1533/藍原・和馬/男/920歳/フリーター(何でも屋)】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2585/城田・京一/男/44/医師】
【3356/シオン・レ・ハイ/男/42歳/びんぼーにん +α】
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■ ライター通信 ■
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40代の男性PCさんが3人も(笑)!
どちからかというとお若いPCさんが多い中、希有なノベルではないでしょうか(笑)。
リッキー2号です。『地下300メートルの怪談』をお届けいたします。
『二係』お泊まり会企画ということで、いちおうややコメディタッチシナリオの
つもりだったんですけど、そんなには弾け切れませんでした。
が、まあ、これもリッキー2号らしいかな、ってことで。
ちょっと意味深にぼかしたままのところもありますが、そんなに深い意味とか、
なにかの伏線とかってこともありませんです。真相はご想像通りのことと思いますよ。
>シオン・レ・ハイ
こちらのPCさまでははじめまして。兎ちゃんを愛するグラスハートな
美中年シオンさまに実はけっこう癒されたライターです(笑)。
また『二係』に遊びにいらしてくださいねー。
それではまた、機会があればお会いできればさいわいです。
ご参加どうもありがとうございました。
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