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夜のお勤め
------<オープニング>--------------------------------------
「よぉ。お前、帰って来たんだってな」
暗闇の中で男の声が言った。その声は、こっちが咳払いしたくなるほどハスキーな声だった。
「誰」
久坂洋輔は瞳を閉じたまま、素っ気無く言った。
合唱するかのようなタイミングで、スズメがチュンと囀った。その音に、朝を感じた。眠りに着く前、やっと白み始めたばかりだった空はもう、完全に明けたのかも知れない。頭の片隅でそんなことを思う。
どれくらい眠りに落ちる寸前の、暗闇の中を彷徨っていたのだろう。
陽が昇りきってしまうまでに眠ってしまいたいと思いながら、タオルケットの中に身を沈め、やっと瞳を閉じたと思ったら、しつこく鳴り続ける騒音のような携帯電話の電子音に引きずり出された。
心地良い、眠りの泥の中から。
こんな時間に誰なんだ。
「誰? 淋しいこと言うなよ。久しぶりじゃん、洋輔ぃ」
「知らない。切るぞ」
「俺だよ、マーコート」
マコト?
誰だ。もう一度思い、そして考えた。
思い当たった。目が開いた。
「はぁッ?」タオルケットを剥ぎ取り体を起こす。「んーだよ! もうお前ンとこまで連絡入ってンの?」携帯に噛み付いてしまいそうな勢いで、洋輔は言った。
向こう側に居る男は笑っている。ヘヘヘと耳につくハスキーボイスはあの頃とちっとも変わっていない。
「入る入る。ンーなもん。お前帰って来たなんてビッグニュース、一発だからさ」
「っていうかさ。別にここ最近、ずっと連絡取ってなかったじゃん。何今更、知り合い気取りなわけ?」
溜め息と共に額を押さえ、脱力する。
「まぁそう言うなって。お前もこうして連絡してきて欲しくて電話番号変えないんだろォ」
「あー。それ、イタイ勘違いね。電話番号変えたらいろいろ面倒じゃん。だから変えないだけだよ」
「うそうそ」
フンと鼻を鳴らす声が聞こえた。バカにされたような笑いに、本気で電話番号を変えてやろうかと思った。「だったら今すぐ電話切って明日朝一で電話番号変えてやらぁ」口にも出す。
「ちょっと待ってって」相変わらず人を食ったようなハスキーボイスが言う。「電話番号変えてもイイけどさ。俺の頼み聞いてからにして欲しいんだよね」
「なんで俺がお前の頼み聞かなきゃなんねーんだよ。意味不明」
「店長だろー」ねばりつくような声。チッと舌打ちした。
四年前、洋輔がまだ十八歳だった頃、ホストクラブでアルバイトをしたことがある。その頃、本業は木屋町にあるキャバクラのチーフ業だったのだが、その繋がりの友人に頼まれ仕方なく手伝った。その時マコトはその店の雇われ店長だった。
「元だ。っていうか、それほど別に可愛がって貰った覚えもねーけど」
「可愛がったじゃーん」
酔っ払ってチュウされたりだとか? 殴られたりだとか? 料理作らされたりだとか? 女横取りされたりだとか?
あれが可愛がるというのなら、鎖に繋がれ炎天下の中放り出される飼い犬になった方がよほど可愛がられている気がする。
「最悪。思い出した」
「そりゃあ良かった。でさ。俺の店、今実はヤバくてさ」
「そのまま潰れちまえバカヤロウ」
「マサ。覚えてる? 昔俺の下で働いてた奴。アイツ今雇われ店長なんだけど。その店がさ勢いづいてさ。ホスト殆んど引き抜かれちゃったんだよねぇ。客もこねーし。マジ潰れるかも知ンねー」
「だから潰れろバカヤロウ」
「もう。頼れる奴、お前しか居ないんだよねぇ。何つーか。店閉めるにしたって、閉店パーティしようにもさ。ホストいねーし。辛いんだわ、実際。手伝って、くんねぇ? 出来れば。お前の友達とか、呼んでさ」
「俺の友達にホストなんかチャラチャラしたもんやる奴いねぇ」
「そこをなんとか。頼むよ。もうさ、分かるよね。俺、切羽詰ってンの。辞める時くらいさぁあ。楽しい思い出残したいんだよ」
うーっと唸った。舌打ちが出た。溜め息も、出た。
「あーもう。とりあえず今から寝るんだわ。起きたらもっかいかけるから。そん時まだ切羽詰ってたら、もう一回話して」
答えを待たず電話を切った。そしてそのまま電源を落とした。
辞める時くらい、楽しい思い出残したい。ハスキーな声が纏わりつく気がした。
タオルケットを引っ被った。
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001
1
雨が振っていた。
蛍光灯の光りが室内を照らし出している。それを弱々しいと感じてしまうのは、ここ最近、元気な太陽ばかり見て生活していたからだろう。
ブランドの向こう側が暗いのは、少し淋しい。室内が世界から隔たれて、浮いているようにすら感じる。
控え目な雨音と暗い室内は、確実にシュライン・エマの集中力を奪っていた。腹や尻に違和感があるような落ち着かないものを抱えたまま、一生懸命文字を目で追うものの、二三行を追ってはすぐに顔を上げ視線を逸らしてしまう。
だから雨は嫌いなんだとシュラインは思った。
所長の草間武彦はそんなことが全く気にならないのか、デスクに向かい黙々と作業を続けており、時折紙擦れの音をさせるだけである。
雨だから依頼人も来ないかも知れない。また論文から目を上げてそんなことを考える。
一方で今、何かしらの理由で困っているのに、雨だからといって明日にしようなんて暢気なことを考える人が居るわけもない、とも思う。
考え直した。
雨だろうが暑かろうが寒かろうが、依頼人はやってくる。だから今日はただ、いつも通りに暇なだけなのだ。雨は関係ない。
また、論文に目を落とす。つい先日、他の用で訪れた京都D大学教授から、読もうと思い借りてきたコピーだった。「希少言語に関する倫理的考察」と銘打たれたその論文は、シュラインが読むに不足はない。
前年度の卒業生の論文だというが、出来も良く面白かった。
どんな子がこの論文を書いたのだろう。文字を追いながらシュラインは想像する。会ってみたい気がした。きっとこの子は今頃、通訳か翻訳家を目指し頑張っているに違いない。
シュライン自身は表に立つことが余り好きではなかったので通訳という仕事にはつかなかったが、友人に通訳をしている人くらいは居るし、希少言語についての話ならいつまでだって出来る。
出来るなら会って話をしてみたかった。
では。なくて。
シュラインは胸の中で自分を戒めた。ついついやってしまった想像で、また中身を理解することがおろそかになってしまう。文字を追うことが出来ていても、それを言葉として理解していなければ意味がない。
理解して読み、分かり、頭を働かせていることが楽しみなのである。
それなのに脳の中は、「このまま読み進めたいのに」という気持ちと「雨音が気になる。苛々する。もう読みたくない」という、相反する二つの気持ちが渦巻いていて、全く集中してくれない。
溜め息が出た。とうとう論文を投げた。脇に置き、脱力した。
眼鏡を外しテーブルに置いて、重くなった目を擦る。
「ねぇ」デスクに向かう武彦に言った。
「なんだ」
武彦は目も上げない。
「何か飲む?」
「あぁ」今度は一瞬だけ目を上げた。「そうだな。貰おうか」
よもや自分でいれるなんてことを言うはずもないことは分かっていたが、当たり前のように言われて少し腹が立った。
これはもしかしたら。
女性特有の月のものが来るという、前兆かも知れない。
集中力がないのも、些細なことで苛々するのも、もしかしたらそのせいかもしれない、とシュラインは考えた。
頭の中で日付を確認する。今日はいつだっけ。ああそうか。間違いない。
溜め息が出た。余りそういうことが精神状態や体に影響するタイプではなかったが、いかんせん今日は雨が降っているのだ。
悪いことが重なったんだな。
シュラインはキッチンに向かうべく立ち上がる。何気無く、武彦を通り越しその背後、ブラインドの下りた窓を見た。暗い。気分が更に滅入った気がした。
デスクの上の電話が、甲高い着信音を鳴らし出したのはちょうどその時だった。
「はい。草間興信所」
電話を受けた武彦から視線を外し、キッチンへ向かう。
「ああ。なんだお前か。ああ。ああ。届いたよ。ああ。うん」
素っ気無く武彦が返事をする声が背後で聞こえる。狭い事務所内である。どこに居たって、聞く気がなくとも会話は聞こえる。
お前か、ということはたぶん知り合いなのだろう。考えながら、食器棚にあるカップを二つ取り出し、ティーパックをさした。
「ああ。そのことなんだけどなあ。まだ言ってないんだよ。俺の予想によると、たぶん今は機嫌が悪い」
電気ポットなんて物もないので、水を入れた鍋を火にかける。シューっという音を立てながら水は熱され、沸騰し湯に変わっていく。壁に寄りかかりながら、鍋の下で揺れる炎をぼんやり見つめた。
「俺の予想は外れない。正確な分析の元だ……あー。うるさい。気持ち悪く無い。気持ち悪いと思うお前が気持ち悪い。俺の分析はもっとストイックなものでだな」
鍋の湯をカップに注ぎ、それから陶器のポットに注いだ。
「分かった。分かったよ。煩い奴だな。お前は本当に。嫌な顔をされるのは俺なんだからな」
カップの湯を捨て、ポットの湯を注いだ。
「ちゃんと伝えておく。しかしな。どっちも中々の強敵だぞ。それから俺のことはその……ああ。そうそう。そういうことで、一つ、頼む」
紅茶の入ったカップを持って応接ソファに戻る。ティーパックをさしたまま、武彦の前にもカップを置いてやる。「ああ、すまんな」受話器の話口を掴んで小さく言った。
「どういたしまして」
ソファに戻り、紅茶を飲みながら横目に伺った。
「じゃあな」
一方的とも取れる受話器の置き方をした武彦は、溜め息をついて紅茶を口に運んだ。
静寂な部屋に、喉が上下する音が響く。
「なんだな」
武彦が呟くように言った。
「なにが?」
「まあ。何というか。頼みたいことがあるんだが」
「唐突ね」肩を竦めてやった。「それに珍しく歯切れが悪いじゃない」
「そうでもない。とにかく依頼なんだが。出張して欲しいんだ。京都に」
「京都?」
問い返したら苦笑が返ってきた。
「そう怖い顔をするな」
「あら。してたかしら」
「してるよ」武彦は溜め息をついた。「行きたくないと顔に書いてある」
「まあ。そうね。私、正直だから仕方ないわ。と、いうことは今の電話は洋輔から?」
「いやまあ。今の電話は関係ない」
「詮索されるのが嫌なのかしら。ああ。そうね。そう思って振り返ると気になるセリフもあったわね」
「参ったな」武彦は全然参った風ではなく髪をかきあげた。「本当に関係ないんだ」
「あらそう」いい加減に相槌を打った。
武彦のそういう無表情が、実は一番あやしいんだということをシュラインは知っている。
2
目覚めて一番に聞こえたのは、窓の外からポツポツと滴り落ちる水の音だった。
何かに打ちつけられるような水の音。規則的でもないその音が、睡眠と覚醒の間で酷く耳障りに感じた。
雪森雛太は寝返りを打ちながら、眉根を寄せた。小さく呻く。
腕に鼻を擦りつけ、タオルケットに足を絡めながら、ベットの何処かに転がっているはずの携帯を探した。薄目を開ける。携帯は鼻先に転がっていた。
時間を見る。午後一時。
欠伸と共に携帯を放り投げ、仰向けになった。目を擦り息を吐く。
「う〜」
足先を伸ばし体を捻る。片方の腕を大きく伸ばすと、また大きな息が出た。完全に目が覚めた。
相変わらず窓の外で、水の音がしている。
雨か。
雛太は何の感慨もなくぼんやり思った。その傍らで、携帯電話が着信音を鳴らし出した。
目を向けた。手に取った。ディスプレイを見た。
非通知。
小首を傾げた。
そのまま受けるのを躊躇っていると音は止んだ。留守番電話に繋がったのだろう。受ける気もなかったので別に構わない。けれど携帯は、またすぐに着信音を鳴らし出した。やはり、非通知である。
非通知拒否の設定をしておけばよかった。
雛太は少しの苛立ちを抱きながら、通話ボタンを押しすぐに切ボタンを押した。
けれどまたすぐに、鳴る。
ストーカー。思わずそんな言葉が頭に浮かんだ。
もちろんそんな心当たりは全くないし、脈絡のない思いつきだったのだが、妙に当てはまる気がして少し、恐ろしくなる。
通話ボタンを押し、切ボタンを押した。それから設定画面を慌てて開き、非通知着信拒否の設定をする。
それを遮るようにまた、電話が鳴った。
このやろー。
雛太はいよいよ苛ついてしまい、電話を受けた。「いい加減にしろ!」
怒鳴りつける。「誰だ!」
電話の向こうは何も言わない。それどころかすぐに切れてしまった。
ストーカー。またその言葉が脳裏を過る。次に、浅海という男と小日向という二人の男の顔が頭に浮かんだ。
ああ。そうだ。
もしかしたら俺は、恨まれているのかも知れないぞ。
浅海には手厳しいことを言った記憶があるし、小日向からはシュラインを奪還したという記憶に新しい事件もある。
着信が鳴らなかった少しの間に、とっとと非通知拒否を設定して雛太は考える。
報告しよう。
ベットから這い出て、キッチンに続くドアへと歩いた。
ノブに手をかける。少し開く。そこで「ホスト?」と、誰かに問いかけるようなシュライン・エマの声が聞こえた。
雛太が近頃寝泊りしているのは、雑居ビルの一室にある草間という興信所の事務所内である。所長の武彦と、以前はアルバイトの洋輔が生活していた住居スペースに、ベットの余りがあるのでそれを使わせて貰っている。
興信所は何かと便利な場所にあった。
自分は街中へ出ることが多い。買物も飲み会も、遊びも。やはり人の多い場所に集まろうという話になる。
実家は郊外にあるのだが、そこから街中へ出ることを考えれば興信所は交通の便がよほど良い。だからついつい、電車なんかで出かけた帰りに興信所に寝泊りする機会が多くなり、気がつけば何やかんやと荷物を持ち込んでいる。見る度に気持ち悪いかも、と思ってしまう、武彦の隣に並ぶハブラシとか、枕とか。
その寝泊りの代わりと言っては何だが、興信所の依頼調査を手伝ったりもする。学生が本業だが、合コンに異性交遊にと勤しみ、余り知識を貪ることはない同級生たちと一緒に居るよりかは、興信所の手伝いをしていた方が幅の広い大人になれそうな気もするし、ためになる気もする。
例えば世に言う上の位、というのを目指さないのであれば学歴なんて必要ないし、学歴がなくても自分なりの人生の満足を勝ち取っている人が居るということも、興信所の手伝いをしている内に知った。
全身刺青の弁護士だって居るしな。
なんてことを考えてたら、大学二年生5度目の夏ももうすぐ過ぎて行ってしまいそうだった。
「ホスト?」
雛太は扉の前で呟いて、小首を傾げた。
隠れるようにして扉の隙間から顔を出す。キッチンのスリガラスの向こうで、応接ソファに座る人影が揺れている。それがたぶん、シュラインだろう。
「そうだ。コイツだ。源氏名はマサ。本名、高岡雅彦だ」
「ふうん。ホストクラブねえ」
「ホストクラブぅ?」雛太は目を見開いて、囁くように繰り返した。
どういう話なんだ、一体。
「それで。どうして私なのかしら」
「まあ。洋輔曰く。こいつの調査をしたいんだが、自分の周りの人間だと面が割れているし、かといって知らない人間では信用がおけないし、どうにも困ってということらしいが」
「それでは」
二人の会話を聞きながら、雛太は考えた。
ホストクラブ? 調査? 源氏名? 調査? 洋輔?
言葉を繋ぎ合わせると、マサという源氏名のホストの調査を、シュラインにやって欲しいと洋輔が言っている。ということになるのではないか。しかも、京都で、だ。
「私ではなくてはならない、という答えにはなっていないわ。そうじゃないかしら?」
「アイツも知り合いはそれほど多くないんだ。きっと」
「女性の知り合いくらい居るはずよ」
「いろいろあるんだ。複雑なんだよ……こっちは。それにほら。そこいらの娘だと、ミイラ取りがミイラになんてことにもなりかねないだろう? 硬派な女の知り合いは居ないということじゃないか。お前以外は」
「信用して頂いてるのは有り難いけれど。女なんだから私だって」
聊か笑いの含んだような声でシュラインが言う。
「心配なんてしてくれないんでしょうけど。それとも……あら。歯切れが悪かったのはそのせいかしら?」
「勝手に言ってろよ」
武彦の苦笑が聞こえる。雛太はベットに戻り携帯を手に取っていた。
洋輔の番号を探す。
見つけた。コールした。
長い電波を飛ばす音の後、おかけになった電話は電波の届かない場所にあるかなどという間抜けたアナウンスが耳を突いた。
なんだ、こんな時に!
雛太はもう一度、洋輔にコールする。
3
観葉植物の鉢を屋根の下に移動させた。
ベランダにかかる小さな屋根だった。人が雨宿りするスペースはないが、観葉植物が酸性の雨から逃れるには丁度良い。
柵の間から見える外の景色には、色とりどりの傘が散らばっている。
踏切遮断機から一定のリズムで甲高い音が飛び出しており、傘達はそこに立ち止まっていた。
「それでさあ」
部屋の中から声がして、壇成限は室内に目を戻した。部屋の半分を閉めるような大きな白いソファでは、膝を抱えるようにして雛太がそこに座り手の中で携帯を弄んでいた。
「お前の方には何か、話来てない? 洋輔から」
「いや?」
「あっそ」
「うん」
頷くと頭にかかった水の雫が跳ね落ちた。ついでに肩にかかった雨を振り払う。室内に足を入れた。窓を閉め、カーテンを閉めた。
雨の日に仕事が休みでよかったと、限は少し、思う。アルバイト先であるビデオレンタル店は、雨だと必然的に客の数が増す。
客の多い日は、人の動きも多くなる。動いている人の数も増える。余りにも暇でボーっとしているのも好きじゃないが、人がバタバタと動いているのを見るのも好きじゃない。息苦しくなるからだ。だから雨の日が休みで、良かったと思う。
今日の予定は家で読書だった。せっかくの休みにわざわざ外に出ることもない。
けれどそこに雛太が訪ねてきた。そしてつい今しがた、洋輔の携帯が繋がらないことと、繋がらないと何故困るのか、ということを説明した。
「なあ。それ、マジで言ってンの?」
「うん」
いい加減な返事を返しながら雛太の前を横切る。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し一口飲んだ。
「あ〜そう」
「うん、そうだよ。ないよ。なんで?」
「なんでって……なにがよ」拗ねたような声で雛太が答える。
そう「なに」がと言われれば「なんで」かなんて分からない。
ソファに戻り、その前に腰掛けた。
「じゃあ。行ったらいいんじゃないかな、京都まで。家、知ってんでしょ?」
拗ねたようにストラップを掴み携帯を振り回す雛太に向かい、言ってやる。彼の手が止まる。上目使いにこちらを見る。
「え〜」満更でもないような顔で雛太が嫌がった。「なにお前。京都に行きたいんだ?」
「いやいや。僕は別に行きたくないけどさ」
「えー。だったら別に俺も行きたくないけどさ」
「でも行かないと問題は解決しないんじゃない? 忙しいシュラインさんをいちいち京都に呼び出すなって言いたいんでしょ。まあどうせそんな事で洋輔が引き下がるとも思えないから、行ったが最後、手伝わされると思うんだけどね」
「一緒に行く」
「は?」
「だからあ」雛太はソファに踏ん反り返って溜め息を吐いた。「お前が言い出したんじゃん? お前が行きたいんだろ? だから。そうだな。仕方ないから俺も一緒についてやってやるっていうスタンスで、だな」
「一つ聞いていい?」
「あによ」
「どうしてそんな、偉そうなの?」
「そういう、仕様です」
飄々と答えた雛太はパンと手を打った。
「あー。そうかー。行きたいかー。しゃーねえなあ。そんなに洋輔の携帯が繋がらないことが心配か!」
「別に」苦笑した。「どっちでも良いけどさ」
「なあ。洋輔に言われたら言ってよね。僕が行きたいって言ったってさ」
言うのは別に良いけれど、と限は思った。
言うのは別に良いけれど、それで懐かれると困るんだよね。
002
1
背後から聞こえてくる水の音のせいで、テレビの音が良く聞こえない。洋輔は苛立ちを溜め息に込めて、テレビのボリュームを上げた。
部屋にあるのは14インチ程度の小さなテレビだった。
ステレオですらない。更に部屋は小さなワンルームだし、すぐ後に流し台があるしでテレビを見ている時に水仕事をされるのは良くない。
とっても、良くない。
洋輔は少しの間、音量を上げたテレビに集中していたが、最後にはどうもパシャパシャと水の跳ねる音が気になってしまい「なあ!」と声を上げた。
「なあ。ちょっと。もう、いいじゃん。やめなよ」寝転がったまま、顔だけ背後に向ける。
「はいはい」シオン・レ・ハイが振り返った。「もう終わりますからね」
「あとでやってよー。もう俺、これちゃんと見たいんよ」
「もうすぐ終わるんですよ。後でやるより今やった方がいいでしょう?」
「んー」喉を鳴らし唇を突き出した。しかしシオンは気にもかけず、また水仕事を再開させる。
意外に頑固なんだな、と洋輔は思った。そしてそういえば、と思い出す。
そういえば京都に帰ってくる日もついてくると言って聞かなかったもんな。
つい先日、人のものと思われる手の噂を調べていたときである。丁度上手い具合に、その時仕事の出張で京都を訪れていたシュラインの忘れ物を届けるため、シオンは京都へと来ていた。
その後、一旦東京へとは戻ったものの、忘れ物をしたらしいシオンは、洋輔について京都に行くと言って聞かなかった。それで結局今、まだ京都に居る。
忘れ物はといえば、ただの服だ。
京都を訪れた日の夜、洋輔らが良く行くショットバーでてんやわんやの大騒ぎをし、その時脱いだ服の一部を忘れた、というだけらしい。ネクタイと言っていたか、タイピンと言っていたか、靴下と言っていたか。
それはもう忘れたけれど、とにかくそんな下らないものだ。そんなもんいつか俺が送ってやるよ、と洋輔は言ったが、いつかでは駄目なのだと彼は言った。人にとってはどうでも良さそうな、譲れない部分やら自分なりのコダワリやらがあるのだろう。
まあ。人なんて皆、何かしらそういう部分はあるものだ。だから洋輔は彼を連れて帰って来た。泊まるところも、お金も忘れて来てしまったというもので、自分のアパートに泊めてやることにした。お礼に毎日炊事洗濯などの家事をこなしてくれる。
それは、有り難い。料理も上手だし、そういう部分では案外器用だ。
しかし問題は、発作的に行われるところと完璧主義なところにある。
とてもきれい好きだと言うシオンは、真夜中だろうが早朝だろうが、気になってしまえば掃除機などを出してくる男である。どうやっても明日やれと言っても、気になって気になって仕方がないので今やらなければ! と言う。料理やその他家事についても、病的なまでにキッチリこなす。家事なんてアバウトでもってマイルドにやればいいのにな、と思う洋輔にとっては案外、厳しい。
テレビに視線を馳せたまま、まだかまだかと待っていたら、やっと水の音が止んだ。
洋輔はこっそりと溜め息を吐く。振り返り見ると、タオルで手を拭きながら、シオンが部屋へと入ってくるところだった。
「終わったンか」
「終わりましたよ。今日も一日ご苦労様でした」
「うん。ご苦労様でした」
これでやっとテレビが見れると、いそいそと画面に視線を戻すとポンと肩を叩かれた。
「それでね。洋輔さん」
「んー?」
「ホストってなんですか」
「は?」思わず、その顔を振り返る。
「いえ。さっきちょっと電話をしているのを聞いたものでね」
「ああ」テレビ画面に視線を戻す。「なんかあ。なんだろうな。女の相手をして金貰える仕事、かな」
「やっぱり!」
シオンが声を荒げる。「やっぱりそうですか! いやーあ。おじさんそうかと思ってたのですよ。ずうううううううううっと前に、草間興信所にあるテレビで見た記憶がありますからね!」
「あー。そうなんだ」
「はい!」
「良かったじゃーん」
「はい! 女性のお相手をしてお金を貰える職業があるなんて、夢物語かと思っていましたよ!」
「そうなんだあ」
「はい! もう本当にあるなんて、おじさんびっくりしちゃった!」
「そうなんだ〜。良かったじゃーん」
「はい! でもそれってどれくらい貰えるんですかね。一日、千円くらいは貰えるんですかね」
「んな」画面を見たまま苦笑した。「もうちょっと貰えるっしょ。頑張って働いてハチゴーとか入ったら十万くらいは普通に行くんじゃない?」
「じゅ! 十万!」わーと声を上げたシオンは「ところでハチゴーって何ですか?」と問うてくる。
「八時から五時のこと」
「なるほどお! じゃあそれはもう。私も手伝わないといけないですよね!」
「だよね〜……え!」
「ああ。ホストかあ。おじさん。ドキドキしちゃうなあ」
「や。シオンさんさ、ちょ」
「大丈夫。任せなさい。私に任せなさいよ。私はね。こう見えてもね。もう物凄くご婦人受けが良いんですからね」
「まあ。そうかもしんないけど、っていうか、いや。あの。どっちかっていうとご婦人が来るよりかは若い子が来るのが多いとおも」
「ああ。面白そうですねえ」
心なしか、目をキラキラと潤ませたシオンがゆっくりと空を煽る。
「い。著しく……ヤル気になってる」
どうしよう。
その時、部屋にブーっと人の訪問を告げるベルの音が鳴った。
洋輔は入り口を振り返り、小首を傾げた。誰だ、と思い、それとも……まさかと考えた。
早くないか?
慌てて立ち上がり、入り口に向かう。ドアを開けた。
雛太と、限が立っていた。
2
ドアを開けた洋輔は「ああ」と笑った。それは苦笑にも嬉しそうな笑みにも見えた。
気持ちが悪い、と限は思った。
「また車で来たンかい」
扉を大きく開けた洋輔が言う。
隣に立っていた雛太はその問いには答えず洋輔の首元をガッと掴み上げた。
若干、洋輔の方が背は高かったが臆することはない。腕を上げて睨み上げている。
「お前。いい加減にしろよ! 何やってんの。っていうか何やってんの?! もうほんと、信じらんねー馬鹿だよ! お前はよ!」
「はいはい、ゴメンね。なんで? 心配してくれたの?」
驚くでもなく洋輔が、雛太の手を掴む。ポンポンと叩いた。
「か!」雛太は洋輔の首元から手を勢い良く外し、言った。「限が心配スンだろぉ」
「そうか! 限か!」
洋輔が笑いながらこっちを見る。余り、見て欲しくない。
「いやあ。ありがとう、ありがとう」
ギュッと抱きしめられた。
「いいよ。そういう無表情な顔。大好き」
「僕は好きじゃない。顔も、洋輔のことも」
「っていうかそういう無表情な裏で俺のことを本当は心配してくれてるっていうのが何というか」
「それは勘違いだ」
雛太に脇腹を突付かれた。
「そうだぜ! 限の奴ったら、俺もびっくりするくらい慌てちゃってさああ! もう何だ。わたわたして! それでさあ。京都行くつって聞かないからさ。俺はついて来たわけよ。ついでにお前に言いたいこともあったしな!」
「そ」体を離し、洋輔が泣きそうな顔をつくる。「想像出来ない!」
限は、雛太の顔を見た。
何を言ってももういいが、煽ってはくれるな。と、思った。
「この無表情な顔がだぜ! びっくりすんだろ!」しかし雛太はそんな気持ちに反し、指を差し笑顔を浮かべる。煽ってくれるな。煽ってくれるな。
今日ばかりは、思ったことが顔に出ればいいのにな、と少し、思った。
「そうかそうか! ごめんな! 俺もやりたくてやったわけじゃないんだけどさ、仕方なかったんだ。まさか限にまで心配かけるとはな! いやあ。俺もびっくりだ。まま。入れ入れ」
「ん?」雛太が眉を寄せ小首を傾げた。「やりたくてやったわけじゃないって……何?」
「あ」
洋輔が口元を押さえる。
「ま。入って説明スンよ」
3
「顔なんて、機能してればそれでいいと思うんだけど。生活に困らない程度に、目があって鼻があって、口があって、くらいにね」
「まあ。そうかも知れんがな」武彦が手の中から写真を奪う。「こういう顔は好みじゃないか?」
「好み? 好みねえ」
シュラインは考えるフリをしながら、ソファの隣に座る武彦の横顔を盗み見る。
彼は一体今、どんな気持ちでそんな言葉を言ったのだろう。例えば私が今、ここで「そうね。好みといえば好みかも知れないわ」と答えたら、どんな顔をするだろう。
何年月日を積み重ねても、女は時に、そういう言葉で男を試してしまいたくなる生き物だ、といつか。男と女の関係やその恋愛形式をマンションの契約に例えてみたら、男は引っ越さない限りここに住みたいと意思表示していることなんだ。いちいち契約更新するかと聞くなと言う生き物で、女はいちいち契約更新するのかどうかと問いただしたくなる生き物だと。
そういう話をいつか、本で読んだことがある。
それを読んだ時は全く意味がわからなかったが、そうか。これがそうか。とシュラインは妙に感心する。確かにそう言うならば。今、武彦の前だけで私は、女になる。ということだろうか。
「こういう。生物としての機能以外の機能が発達しているというか、例えば整っているとか、だな。そういうことも女なら見るんじゃないか?」
「分からないわね」結局そう、答えた。「希少言語辞書や古辞書に囲まれた方がまだ興奮するわ」
「なるほどね」武彦が苦笑して頷く。その苦笑が気に入らない。
「あら、じゃあ何かしら。思わぬ眼福を与ったことに、感謝すればいいって言うの?
「眼福。ははは。そんな言葉を言う奴に、生物機能以外の顔の機能なんて効果ないな」
「そうよ。生物機能以外、関係ないわ。全く。この間のことと良い、京都のイメージ変わりそうよ」
「この間? 何かあったのか?」
何だか問い返されたことが少し、嬉しい。シュラインは思わせぶりに微笑んだ。
「まあ、そうね。なんだかもっと、古風でストイックなイメージがあったのに、ということかしら」
「どういうことだよ」武彦が苦笑する。「ま。とにかく、お前なら大丈夫だな。しっかり洋輔の調査、手伝ってやってきてくれ」
「えぇ」足元にある、ヴィトンの旅行用鞄に視線を落とした。出発まで後一時間。余り、用意に時間がかからなかったため新幹線の時間まで、こうして草間興信所で時間を潰している。
シュラインが興信所のドアを訪れた時には、雛太の姿はなかった。問うと、先に京都へ旅立っているという答えが返ってきた。久々の二人きりの時間か、とふと思った。かと言ってどうということもない。何気無い。ただ、少し特別なだけだ。
そしてそんな特別な時間は、興信所の扉がトントンとノックされる音で、別れを告げた。
×
扉を開けるとそこに、小学生くらいの女の子が立っていた。銀色の長い髪を二つに分けて結い、赤いクルンとした瞳が印象的な少女だった。胸に耳の垂れた兎を抱き、肩から赤いポーチを提げている。
シュラインを見上げると少女はペコリと小さく頭を下げた。シュラインも釣られるようにして頭を下げる。
「あの」意外に大人びた声が言った。「シオンちゃん。探してるんですけど」
「え?」
その時後から武彦の声がした。
「なんだ。キウィか」
「キウィ?」振り返り、武彦に問いかける。
キウィと呼ばれた少女は扉の隙間から事務所内に入り込み、武彦の前でまた頭を下げた。武彦がその頭を軽く撫でる。そういう仕草は余り見たことがなかったので、シュラインは聊か驚いた。
「彼女の名前はキウィ・シラト。シオンのまあ、身内みたいなものだな」
「ああ」小さく頷いた。「そうだったの。はじめまして。私は、シュライン・エマ。宜しくね」
微笑みかけると、キウィは小首を傾げて小さく微笑んだ。唇をキュッと持ち上げる。大人びた顔、だ。と思った。そんなはずはないのに妙に、女性を感じた。
そのギャップに同性であるシュラインですら、少しドキっとしてしまう。
武彦に向き直ったキウィはその膝に寄りかかるようにして、それはそれはとても可愛らしい声を出した。
「あのう。キウィね。シオンちゃんが居なくなってしまって、困っているのです」
兎の耳を撫でながらモジモジと言う。
「ああ」武彦が目を緩ませた。「そうか。何も聞いてなかったんだな?」
「はい。聞いてなくて。びっくりしたのです」泣きそうな声で言った。クルンとした瞳で武彦を見つめた。
「そうか、そうか。それは、災難だったな。悪かった。全く。アイツも悪い奴だな。なんでちゃんと言って行かないんだ。今度会ったら叱ってやろう」
デレデレという言葉がとってもお似合いに、武彦が顔中の筋肉を緩ませながら言った。その光景を見ながら向かいのソファについたシュラインは、何故かああ。と妙に納得した。
それから思い出した。少し前、テレビで見た内容を。
そこでは可愛らしい仕草や可愛らしい声を出す二十代半ばの成熟した女性を、周りの女達がブリッコだと言い、嫌っていた。けれど、同じことを小学生くらいの少女がやると、それは可愛らしいということになり、愛される条件になっていた。
つまりブリッコとは、少女だけに許された武器と言っても良い物なのだ。いけ好かないなんて思う前に、性別を越え全ての人間がその可愛さに脱帽し、万が一いけ好かないなんて思おうものなら、自分の心の狭さを露呈するようなものだと捉えられてしまう。
シュライン自身はブリッコをする少女も女性も嫌いではないし、成熟した女性が例えそういうことをしたとしても、自分を良く見せようと努力している一環なのだろうとドライに捉え、精一杯生きてるんだな、なんてことを思うだけだが、全ての女性がそうというわけではない。どちらかといえば嫌う女性の方が多いだろう。
「キウィはシオンちゃんが居ないと困るのです。だから草間ちゃんに見つけて欲しいのです」
武彦は顔を緩ませたまま何回も頷いた。
「大丈夫だ。見つけてやるよ。心配ない」
「シオンちゃんの居場所を知っているですか!」
ピョンと飛び跳ねるキウィを見て、シュイランは思った。
ブリッコがどうとかなんていう。
冷静な分析をしている自分は、もしかして可愛くないのか?
そんなことを考えた自分と内容に、同時に小さく苦笑した。
4
「つまりさ。お前ら俺が普通に呼んだって絶対こないじゃんさ。グチグチ言うしさ。面倒臭ぇとかさ」
洋輔は得意げに言った。
「それで所長に頼んだンだよね」
「頼んだって、何をだよ」
「だからあ。まずう。姉御に話振って貰って、それをお前が聞く。っていう感じの」
「はああああ?」
雛太が絶叫する。
「ま。それにこの後の話もそうしておくとで進み易いしね」
「意ッ味わかんねーよ! 意味わかんねーよ!!」大きなジェスチャーをして雛太がふうと溜め息を吐く。「二回言ってみた」
「さらに俺の携帯が繋がらなかったら、お前絶対来るンだろうな、って思ったンだよねえ。ゴメンね。着信拒否なんかしちゃって」
「聞かせる」
小さく雛太が呟いた。「ああ」額を打った。
「もしかしてあの非通知は」
「さっすが。勘いいじゃーん?」
「俺が起きてるかどうか知る必要があったんだな。手の込んだことするぜ。お前って奴はよ」
「愛の力?」洋輔はニヤリと唇をつり上げる。「だからさ。お前らは俺を愛しているし俺はお前らを愛しているしで。絶対上手く行くと思ったんよね」
二人のやり取りを見て、その通りだ、と限は思った。全くもってまんまとその通りになっている。
愛しているかどうかなんてことは知ったこっちゃないが、とにかく一つ言えることは雛太が短気であるということだ。ハッキリしない物事も余り好きじゃない。
ある程度のところで勝手に見切りをつけ、スルーするというこも好きじゃない。
なるほど。上手くことが運んだなと、感心すらした。
「それに。限が俺を心配してくれるなんていうビックなお土産もついて来たしな」
しかし。そこからが、間違っている。
「ま。そんなワケで、美男子お二人には、ホストとして働いて貰おうと思います」
「は?」
いち早く雛太が言った。
「は? 今、は? え?」
「えって、え? なに。ホストだよ。ホスト」
「ホストっていうのは」限は言った。その時、ずっと置物のように黙っていたシオンがはっと顔をこちらに向けた。聊か、ギョッとした。
「ホストクラブですよ! 女性の相手をするお仕事ですよ〜!」
「あ、ああ」小さく頷いた。「やっぱり、そうか」
「ぜ! 絶対やらねええ!!!! ありえねええええ!!」絶叫した雛太が肩を叩いてくる。「なに、お前。納得してんだよ。絶対やらないだろ! 当たり前だろ、バカヤロウ」
「ああ、うん。まあ」
「へえ。二人とも。そういうこと言うんだ?」
「なにがよ」
洋輔は携帯を取り出し、何やらコチョコチョと操作していたが「ほい」と画面を皆に向けた。しかし、瞬時に「あ」と引っ込める。
「あ。間違えた」何気無く言って、画面を変える。しかし限は見た気がする。確かにあれは、雛太の寝顔だったような気がする。
「なに? 見ちゃった?」洋輔がニヤリと笑ってこちらに視線を寄越した。「ヒナには内緒ね」唇に人差し指を当てる。「あ。心配しなくても、限のもあるかんね」
別に。
そういうものがあっても、全然嬉しくない。
「大丈夫ですよ! 私も手伝いますからね!」
「はあ? シオンさんよ、マジで言ってンすか」
「どうやらマジ臭いのよねえ」洋輔が小さく肩を竦める。「とにかくホレ。これ見てみ。姉御のベストショット。なんつーかさ。携帯で写真撮れる時代って素晴らしいよね」
「おま!」雛太が慌てて画面を隠そうとする。そこからヒョイと逃げた洋輔は意地悪く笑った。「ま。なんだな。俺はお前の味方だし、お前を愛してるけんどさ。愛は時に歪むものでさ。お前の気が他に向いてるってのもムカつくし、幸せになって欲しいなんて言って自分以外の人間とっていうのもムカつくし。だからさ。お前が俺の頼みを聞いてくれないっていうなら、俺はこれを小日向に送ろうと思うんだ」
「だからの意味が分からなんだよ! オメーーは!」
「限ちゃん」絶叫する雛太を放り、洋輔がこちらを向く。携帯画面を突き出される前に、限は言った。
「僕は別にやってもいい」
どうせどっちでも良いと思っていたのだ。こんな所までやってきて抵抗する程のバイタリティだってないし、オマケに見たくないものを見せられるくらいなら、素直にやると言った方がいいに決まってる。
「う。裏切り者!」
「大丈夫ですよ。私がついてますからね」
シオンがそっと雛太の肩を撫でる。
「ウルセー! 引っ込んでろ!」殴られた。
いきり立ってる時の雛太に注意。シオンに言ってやればよかった。
限は、そう思った。
003
1
「お姉さん。お姉さん。何処行くの? 一人?」
行く手を阻むように目の前に男が飛び出してきた。若い、スーツ姿の男である。シュラインは来たな、と思った。
地面を見ていた顔を上げる。聊か向こうが息を飲むのが分かった。
「なにぃ〜。むちゃくちゃ美人やーん。えー。何の職業してんのぉ?」
「貴方に関係あるかしら」冷たい声で言った。
歳の頃は二十代前半だろうか。可愛らしい顔をした青年だった。
しかし、シュラインはそういうものに全く興味がない。普段ならば間違いなく素通りしている。
「ごめんごめん」男はおどけたように体を逸らせた。「そりゃあ関係ないって話だよね。っていうかこっちの人じゃなくない? 喋り方とかなんか、違うじゃん」
「そうかしら?」
いい加減な返事を返し、冷たい目で男を見下ろす。
言われたことには出来る限りニコやかに答えろ。渡されたメモにはそう書かれてあった。
マサというホストを調査するための必要事項が記入されたメモだ。自分が男に靡かないということは、どうやら武彦曰く折り紙付きらしいが、靡かないだけではこの調査もうまくいかない。
そのホスト攻略とでも言うものを、武彦が洋輔から聞きメモしてくれた。
声をかけられたらとりあえず立ち止まる。立ち止まりさえすればある程度嫌がってみせてもホストは強気になる。など、言われなくても分かるだろうという、人間関係の基本のようなものがいろいろと書かれてあった。
自分がそこまで無愛想で経験がないと思われているのか、それとも武彦の老婆心か。どっちにしても苦笑が出てしまう。
シュラインはこの調査でマサの店の規模、ホストの人数、名前などを調べる必要があった。店の中に入らなければならない。キャッチをいう方法でマサの店のホストに声を掛けられ、連れていかれる風を装うこととなった。そして基本料金のみで店を出る。
その辺りのかわし方は自信がある。
それでメモなわけだが、それを渡された時は何も思わなかったがこうして対面してみると、ただ頷いてやるのも癪に障る気がする。もちろん仕事だということは忘れていないし、ちゃんと頃合は見るつもりだが、ホストという職業は女を楽しませるものだと聞いた。
実際、そのスーツ姿を見たら「だったら楽しませてみなさいよ」そんな気持ちが頭を擡げた。
任務のついでだ。こんな機会でもなければ一生こういう人種と口を聞くことはないだろう。だったらそこはシビアに、その口の旨さというのも見てみたい気がする。
それですぐに引き下がるようなヘタれた男ならば、やっぱりそんなモンか。プロ意識もないお遊びなんだな、と嘲笑ってやるつもりだった。
「なんなーん? 何か怒ってる?」
「そんなことはないわ」
「でもいいよねえ」
「なにが?」
「怒っても美人な人は。ほとんどの女が怒ったら最悪なんだよ? 百年の恋も冷める。でも、お姉さんにだったら毎日でも怒られていいと思うよ」
「あら。私の彼は、私がグチグチ言うの嫌いみたいだけれど」
「それは彼氏が駄目だね。鍛え直したらなアカンで、それは。マジで」
「彼氏が居ると言って驚いたら放って行くつもりだったんだけど」
「ンナ。彼氏くらい今どき居ーひん方がオカシイって。それにそんな美人じゃあね。男が放っておかないっしょ」
「美人だなんて思わないわ。必要だとも思わないし」
「それは姉さんが女で、美人だからっしょ? 今の言葉、普通の女聞いたらめちゃくちゃ怒るよ。でも何だったかなあ。誰かが言ってたなあ。美貌は望む者のみに与えられるわけではない。謙虚な美人、僕、めちゃくちゃ好きよ」
「あら、そ」
「連れないなあ。分かった」男はそこでパンと両手を叩いた。「俺と姉さんの間には広くて深い溝がある。でしょ? それは埋めとかないとね。暇ある? 暇やったらちょっと語ろうさ」
「貴方と男女感を語る気はないけれど」
「いや、俺。そこの店で働いてるのよ」男が建ち並ぶ雑居ビルの一つを指差す。「あ、忘れてた。俺の名前、ヒサシね」
「結局、お金が目当てなんじゃない」
「美人が金のこと言うンは反則っしょ。よし、行こう」
ヒサシがシュラインの手を掴む。引っ張り歩く。
結局力ずくかよ。と突っ込みたくなった。けれど、と思う。
男とは元来、単純であるべきなんだとシュラインは思っている。それは生物学的な意味でも、だ。進化の過程で男は頭を使わない代わりに力を備え、ただ単純に闘うために強くなった。
そして女は、力がない故に陰湿にずる賢くなった。そして男の帰りを待つための、家を守るための包容力を持った。そういうものだと思っている。だから、武彦は特例としてもそれ以外の男がゴチャゴチャと理屈をつけたりするのを見るのは、鬱陶しいしお前はそれでも男なのか、と思ってしまう。
だから今日のところは引き摺られてあげても良いと。ま。仕事だっていうのもあるんだけれど。
その時、男と引き摺られてあげる自分との前に、一人の男が立ち塞がった。
「手を離していただけますか。彼女は僕の、知り合いなんですが。ここで、待ち合わせをしているんです」
シュラインは目を見開く。
小日向だった。
一番嫌いなタイプの男だ。単純でもなければ馬鹿でもなく、自分を狡猾と思い込み、ごちゃごちゃと理屈を並べる。その思い込みはとても醜い。
チッ。この男。こんな所で何をやっているの。
「これが彼氏ィ?」ホストが声を上げる。「うっそーん」
シュラインを振り返った。
な、わけない。と、言ってやろうと口を開きかけた。けれど先にホストが口を開く。
「んなわけないよな。ごめんね。間違えた。待ち合わせしてたの?」
シュラインはブルブルと首を振る。
「ああ。多いのよねえ。木屋町は。こういう輩が。悪いけどおっさん。俺が先に彼女を見つけたの。そういう割り込み醜いよ」
「本当に知り合いなんだ」
小日向は自分が助けてやるんだとでも言わんばかりに胸を張った。
知り合いには違いない。けれど、それは大学内だけの話だ。本当は大学内でもゴメン被りたいのだが、そういうわけにも行かない。
先日、あれだけこっぴどく雛太や洋輔らにやられたのに、シュラインが仕事で大学に顔を出せば、何かと後をつけてくる。彼の頭の中では、あのことはなかったことになっているのかも知れない。
全く、変なところだけ単純なんだから。
「知り合いじゃないわ。さ。行きましょう」今度はシュラインがヒサシの手を引く。「私は彼と飲む約束をしているんです。失礼ですが、用件でしたら大学の法で伺います」
そして小日向の体を追い越した。
追いかけてきたら殴ってやると思ったが、小日向はそのままシュラインらを見送った。一体何がしたかったのかワケが分からない。
「知り合いだったの?」
シュラインに手を引かれながら、ヒサシが言った。
「嫌な男よ」
「知り合いには違いない?」
「まあ。知り合いといえば知り合いだけど」シュラインは溜め息を吐いた。「仕事上のよ」
2
グラスと灰皿、氷とミネを並べ、各テーブルの用意をする。店内にある三つほどのテーブルは、全て準備が整っていた。後は、キッチンの奥で着替えをしている今日の従業員達の準備だけだ。
しかし、とマコトは不安になる。
洋輔が連れてきた三人の男は、どう見てもあまりにもホスト向きとは思えなかったからだ。
確かに、三人とも顔はいい。素晴らしいと思う。
けれど、それだけではやっていけないのがホストという業界なのだ。それは洋輔にも重々に言い聞かせておいたはずなのに。
マコトはボトルの並べ替えをしながら小さく溜め息をついた。
問題はそれぞれに、ある。
まず一人目。
明らかに怒っている。
客の世話をするどころではないんじゃないのかと思うくらい、不機嫌に見えた。愛想も良さそうだとは思えない。確かにとても可愛らしい顔立ちをしており、少年のような無邪気さが女の心を擽るとも思えなくないが、いかんせん無愛想では話にならない。
そして二人目。
人形みたいだった。
整った顔だから余計にそう思うのかも知れないが、とにかく感情という感情のない無表情とはまさにこれかと思うくらいの、能面だった。
白衣を着たら大層似合うのかも知れない。研究者の観察眼とも言える冷たい目で見つめられては、女性も困るのではないだろうか、と思う。
そして三人目。
一番、まともではあるが一番歳を食っていた。同年代だと洋輔は言い張っていたが、絶対に違うと思う。
明らかに歳を食っているのだと、思う。
「テンチョー。どうよ」
キッチンから三人の男が出てくる。
「うん……、っていうか。君。不良の就職面接じゃないんだから。ネクタイ、ちゃんと締めてくんない?」
明らかに不機嫌だった顔の男に言う。
「あーん?」凄まれた。「ウルセー。スーツなんか普段着ねんだよ。ったく。俺はこういうナンパなこと、大嫌いなの、マジで」
男は首元を弄りながら舌打ちする。「あーもう。襟が鬱陶しい」
「隣の君は。うん……スーツ似合うね」
ただし、固い。頭の切れる官僚と言った風だ。どうやってもホストには見えない。
「で? もう一人は?」
「それが」
「すげえぜ!」洋輔が言った。「あー。うわー。元祖ホストだあって感じ」笑いを噛み殺す。その時ばかりは怒った顔の男もにやりと表情を緩ませた。
「あれはびっくりだ」
一体どんなことになっているんだ。
マコトは不安になる。その時、キッチンから最後の男が出て来た。
「お待たせ致しましたね」
低いバリトンの声で言う。
マコトはうわ! と思った。思ってからああ確かに元祖ホストだ、と思った。
いや、違う。
元祖、執事だ。
何がそんなキラキラしているのかは分からないが、ブラックライトに反射するミラーボールのように男は光りを背負い、目の錯覚かとは思うがバックに薔薇の華をしょってるようにさえ見えた。
「き。キラキラしてる」
「まあ。なんと言いましょうか」バリトンの声がフフフと笑う。「私に任せて頂いたら、女性はイチコロですよ」
そう言ってスーツの裾をはためかせながらソファにゆったりと腰を下ろした。
「シオンさん。人格変わってンやん」
「ふふふ。洋輔さん。ここがね」うっとりとした声で言って、空を見る。「私の居場所かも知れませんよ」
「じ」声が掠れた。マコトは咳払いする。「じゃあまあ、とりあえず。名前、聞きたいんだけど」
テーブルの上にあった煙草を取った。
火をつけようとしたその時、ソファの男がガッとこちらを向いた。え。と身が竦む。男はマコトを凝視しながらダダダダダ、と走り寄って来た。
なんだ。なんだ。なんなんだよ!
怖くて身を引いた。カウンターの前で止まった男は、指先からボッと火を出した。
火を出した? 思わず自問自答してしまう。でもだって。出たように見えたんだってば。
「そ。それは」
「手品ですよ。ふふふ。さあ、煙草の火をおつけしましょう」
指先から出る火に手を添えて、男が差し出す。
「あ。ありがとう。でも」顔が引き攣る。「お、俺のは。つけなくていいんだよ」
「ご遠慮なさらずに、さあ、さあ。全ておじさんに任せなさい」
「だ。ダンディズム!」
洋輔が横からチャカす。それから隣の男と一緒にヒャヒャヒャと笑った。
無表情な男は相変わらず、ボンヤリマコトの顔を見ている。
「大丈夫なのかこれは」
呟いて、マコトは恐々と男の火に咥えた煙草を近づけた。
「名前ね。コイツ。ヒナ」
洋輔が隣の不機嫌な顔をした男を指差した。
「ひなああ? なんだよ。俺はいつから鳥になったんだよ!」
「いいからいいから。源氏名源氏名。それからあ」
無表情な男を指差す。
「彼はカーくん」
「うわ!」ヒナがプッと吹き出す。「アホっぽ! 一昔前のアイドルみてえ!」
「洋輔。それはやめて欲しい」
無表情な男が少々眉を寄せて言った。なんと。人形が喋った。いや、顔が動いた。
マコトはいろいろと小さく驚いた。
「いいじゃーん。可愛くて」
「僕は限でいい。マコトさん。僕は限です」
「あ。ああ」
洋輔が下唇を突き出して「はいはい。彼は限くんです」と言った。そして続ける。
「で。向こうのおじさんが」
「シオンです。以後、お見知りおきを」
火まで出した手品師の執事さんは、洒落た仕草で一礼した。
「これが。今夜のメンバーだかんね。おっしゃ! 今日も一日頑張るか!」
洋輔が声を上げて、店内奥にあるジュークボックスの前に行った。
「お前、久しぶりぶりね」
挨拶なのか、ジュークボックスを平手で叩く。
「んじゃ。気合い入れていきまっしょい」
洋輔お気に入りの洋楽ブラックミュージックが店内に溢れた。
3
ワカナは店のドアを潜ると、前に通る西木屋町通りを東に向かい歩き出した。
橋を渡り大声で歌い散らす路上ライバーの前を素通りし、雑居ビルをいくつも過ぎ、四条通りへと出る。
阪急の河原町駅の地下道が、十字路の隅でポッカリと大口を開けている。その隣には路上駐車されている自転車がこちゃこちゃとまるまっており、さらには横断歩道のせいでそこに小さな人溜まりが出来ていた。その横を通り過ぎようと身を捩った時、男は向こうからぶつかってきた。
密接する人の間を縫うようにして歩くワカナの体に、真正面からぶつかってきたのだ。
衝撃の後、体が後方へと飛んだ。目を上げると、背の高い細身の男が自分を見下ろしていた。
「ああ、スマン」
ぶっきらぼうな口調で男が言う。
ワカナはそれを無視して立ち上がった。手についた砂利を叩き落とし、バックの紐を握りなおす。
男の横を通り過ぎようとした。
腕を掴まれる。
余りに強い力だったので、反動で足元がぐらついた。
「おっと」男の手が腰に回った。
目が、合った。男は、この薄暗い中色付きのサングラスをはめていた。
「スマンな。こんな細い腕を掴む機会が余りなくてね。加減が分からなかったんだ」
肩を竦めて見せた男が、ワカナから体をはがす。
「なに、ナンパ?」
攻撃的に、ワカナは言った。
「そんなに自分に自信があるのか」
責めるというよりは呆れるように言った男が、ジャケットの内ポケットから煙草を取り出した。
慣れた仕草で火をつける。人差し指と中指の深いところで煙草を持ち、空に向かって煙を吐き出した。
「だったら」
「え?」
「ナンパだったら」男はワカナに向き直る。「どうするんだ?」どうでも良さそうに、言った。
4
「あれで良かったの?」
ビルの陰から出て来たキウィを見て、男が言った。
頼まれた通りにことを運んだので問題はないだろう。去って行く背中を見送って、よし、とキウィは頷いた。
「うん。いいの。良かったなあ。ちゃんとやらなかったらね。キウィね。キウィね。怒られるところだったのよ」
「そうなのかい?」
男が目尻を下げて猫撫で声を出す。
気持ち悪いったらありゃしない。唾でも吐いてやろうか、と思うほどだった。
「うん。そうなの。だからお兄たま。ありがとう!」
しかし笑顔で言ってやる。男はどんどん目尻を下げて何度も頷いた。
「うんうん。力になれてよかったよ」
「うん。ありがとう! じゃあ、キウィ忙しいからもう行くね!」
バイバイと手を振って歩き出す。しかしその肩を掴まれた。
「ちょっと待って! 君のような小さな子供がこんな場所で一人、危ないよ」
「うん? 大丈夫だよ。キウィ、シオンちゃんのところに行くから」
「シオン?」
「うん。知ってる人が、この辺りの店に居るの。だから、大丈夫なの」
「いや。危ないよ。君を放っておくなんて、僕には出来ないよ」
「いやもう本当に、大丈夫だから」
「いやいやいや。この辺りはね。キウィちゃんが思うよりもずううううっと、ずううううううっと、危ないんだよ? 本当だよ? おじちゃんが送っていってあげるよ。大丈夫だよ。心配しないで」
眼鏡の奥の瞳を細めながら、男が言う。
変態め。
キウィは冷たい目でその顔を見つめた。
お前の方がよっぽど危ないではないか。
こっちはいろいろ聞いてるんだぞ、この野郎。
「送っていってあげる。絶対、送っていってあげる」
しつこい男。
舌打ちでもしてやろうかと一瞬思ったが、キウィはふと考え直した。
「本当にちゃんと送って行ってくれるぅ?」
「ほ。ほほほほ。本当だよ! 大丈夫だよ!」
「どうして? キウィに優しくしてくれるの? キウィのこと、好きだから?」
「す。すすす」
上目使いに男の顔を覗き込んでやると、男は聊か頬を赤くさせ「そ。そういうやましいことでは!」と言った。
君を潰してしまいたいほど、愛しいよ! 可愛いよ! と実はその顔に書いてあることを、この男は自覚していないのだろうか。
まあ、いい。
頼まれた内容にはなかったが、使えるものを使ってもバチは当らないだろう。
「じゃあお兄たま。マコトという人がやっている、パーダンというお店、知ってるかしら?」
「パーダン! 知ってるけれど……それってホストクラブじゃないか」
「ほすとくらぶ? なんだかわかんないなあ、キウィ」
「いや。まあうん。大丈夫だ。おじさんがついてるから、ね」
5
店内には爆音のヒップホップが流れていたが、江里の頭の中では中世ヨーロッパ的な静かなクラッシックのメロディが流れていた。
まず目が行ったのは彼の指だ。
その細く白く長い指先はなめらかに動く。菓子盛からチョコレートをつまみあげる時、そしてそれを口に運ぶ時、指に思わず目を奪われる。指の美しい男は、きっと私生活も美しい。手とは生活の中で一番使われる部分だ。
そこがこんなにも優雅できれいな男が、自室で汚らしい生活を送っているとは思えない。
そしてそれを証明するかのように、ストイックで美しいその顔。
肌は透き通るようにきれいで、しみ一つない。世間とか現実とかいうものから、彼は遠く隔たれている。そう、感じた。
来て良かったと、江里はしみじみ思う。
正直、マコトから電話を貰った時はあまり乗り気ではなかったのだ。そもそも、ここいらに居る男には飽き飽きとしていた。
女なのだし男が好きなのは当たり前で、男なのだから女が好きなのは当たり前なのだろうけれど、何となく最近、そういう現実に飽き飽きとしていた。まだ二十代でそういうことを言うのは早いよ、と良く言われるが、江里にはもう、男なんてどれも同じに見えてしまい、世の中に男と女という生物しか居ないということにつくづく飽きていた。
そこで考えたのは、自分の行動範囲のせいではないだろうか、ということだ。
同じような場所には同じような人間しか集まらないのならば、自分の行動範囲を変えるべきだ。
だから、ホストクラブやら夜の町やらからは足を洗おう。もっと違う場所にこの身を投じようとマコトの店からも足を遠ざけていたのだが。
居たではないか。
江里は嬉しくて小躍りしてしまいそうなくらい、テンションが上がった。
夜の町にだって、こういうストイックな人が居たではないか!
「あの、シェーカー振ってるおじさん、面白いね」
グラスを口に運びながら、カウンターを指差す。そこでは「だばだば」という擬音で表せてしまいそうな動きで、俳優のように渋い顔のおじさんがシェーカーを振っていた。
奇声とも言える声をあげながら、リズム良くシェーカーを振り、カウンターを行ったり来たりしている。
「そうかな」
しかし彼は色のない瞳をただ江里に向けて、小首を傾げた。
「ど。どうでも良かったよね!」
「まあ。別に。基本的には」
その、色のない茶色い瞳を見ていると、催眠術にでもかかったかのように体の力が抜けた。
ああ。今日はもう、どうにでもして欲しい。
「あの、さ。限くん、さ」
「うん」
「か。彼女とかってさ。居るの?」
ホストに向かいその発言もどうかと思ったが、彼ならばきっと正直に答えてくれるに違いないだろうと。いや正直な話きっと、そこいらのホストの言う「居ないって!」とは違う、もっと素敵な「居ない」を聞けるに違いないと思っていた。
「彼女は。いない」
「きょ。興味がないとか!」
「さあ? 考えたこともない、かな」
ストイックな言葉に、グッときた。
そうだ。
そうでなければならない。
江里は思った。
何たって彼は野に咲く一輪の花なのだから。
その時、入り口の扉が開く音がして「いらっしゃいませーい」という威勢の良い声がいくつか飛んだ。
狭い店内だ。誰が入って来たかも見える。
入り口に立っていたのは、小学生くらいの小さな少女だった。
顔つきが変わったのは、カウンターに立っていたおじさんだ。思わずと言った風にシェーカーを落とし、呆然として、それから慌てた。物凄い慌てっぷりだった。「キウィさん!」と声を荒げ、カウンターから消えたかと思うと、キッチンのドアから顔を出した。
「ど。どうしてここに! ちゃんとお留守番してて下さいと言ったでしょう?!」
言われた少女はキョトンとした顔をして、それから可愛い仕草でプンと唇を突き出した。
「だってえ。暇だったんだもん!」
ばかばかあ! と続けそうな勢いの少女にそう言われ、おじさんは「ああ!」と額を押さえる。
「それは申し訳ないことをしましたよ!」
俳優ばりに渋い顔のおじさんが、その場に膝をつく光景は傍目に見ても面白い。なんだこれは、余興なのか。
わたわたと慌てたおじさんは「ごめんね。ごめんね」と可愛く言った。
「ささ。むさ苦しいところではありますが、入って下さい」
まるで姫を扱うように、少女をエスコートしたおじさんだったが、それを止めたのは一番端、入り口のすぐ傍のソファで接客していたマコトだった。
「や。子供はまずいっしょ。まずいっしょ。マジで」
それを聞いて、江里は呟く。
「確かに、子供はまずいよねえ。だってどう見ても小学生じゃない?」
それから、隣に座る彼の顔を見る。
「そうだね」
全く興味が無さそうだった。菓子盛の器をかき混ぜている。そこから埋れたスコーンを取り出し、口に運んだ。
なんということだろう!
なんと美しいのだろう。
そうだ。そんなことどうでも良い。
いいのだ、何もかもどうでも。
彼とアタシが居れば。
6
可愛らしいと表現される種類の男の良さは、困惑の表情を浮かべた時、より一層強調される。
なんて可愛らしい青年なのだろう。
響子は隣のテーブルに座る青年を見て思った。
隣でキャンキャン喚く若い女が鬱陶しいのか、彼は眉をギュッと寄せ、時折その体を押しやっている。若い女には分からないだろうが彼のそういう横暴さの影には、困惑や戸惑いといった不器用さからくる物がある。
まだ少年のようなクルンとした黒い瞳と、尖った鼻先、触ると柔らかそうな頬、赤い唇。
そんな童顔な顔をした男が、人に懐くことを知らず攻撃的に生きているとしたら、それは何と愛しいことだろうか。
少女にやましい妄想を抱く男が居るように、女だって少年の輝きに熱を上げることだってあるのだ。
「ねえ」
向かいに座るマコトを手招きした。耳に口を寄せて「あの子とチェンジして欲しいんだけど」と彼を指差す。
「ああ。別にいいけど? 虐めんなよお。なんか。キレやすいみたいだから」
虐めないわけがない。
響子はグラスを口に運びながら小さく笑う。
虐めないわけがない。
童顔と不器用がセット売りされているなんて、稀なんだから。
×
マコトに席のチェンジを言い渡され、雛太は正直ホッとした。
本当ならばカウンターの中で店の中を見渡していたいのだが、そんなことをすればここぞとばかりに洋輔はシュラインの写メールを小日向に送りつけるのだろうし、今はまだ軽はずみな行動は出来ない。
全く、苛々する。
どうしてこの俺が、あんな煩いだけの女の相手をしなきゃならない。あいつ。後で絶対、鼻血出るまで殴ってやるかんな。
雛太は洋輔の顔を睨みつけて、前を素通りした。それから、指定されたテーブルの前に立った。
小さく会釈してソファに座る。
「こんにちは」
先に声をかけてきたのは向こうだった。
雛太は目を上げ、少しだけ息を飲む。
長く茶色い髪をクルクルとカールさせ、ついでに瞳を縁取る睫もしっかりとカールさせたその女性は、大人の色気みたいなものを惜しみなく出していた。
本来、こういう女性が雛太は苦手だ。
あまりにも濃すぎる色気を見ていると、胸焼けを起こしてしまいそうになる。しかし何故だろう。
雛太は目を瞬かせて、思わず彼女から目を逸らせた。
ふと下にやった目に飛び込んだのは、それほど大柄でもない彼女が着ている黒いドレスの、胸元から覗く膨らみだった。
おわんをそのままひっくり返したような形の良い膨らみは、無用なほど大きくなく、掌で包み込めば少し余りそうなくらい……って、何を分析してるだ、俺は。
目を上げると、形の良い唇をきゅっと吊り上げている彼女と目が合った。
うわ。どうしよう。
何故だか雛太は意味もなく焦り、自分のグラスに酒を注ごうとする。氷を上手くつかめず、何度か落とした。
「あ、いや、ど、どうも」
テーブルの上に転がる氷をわたわたと掴み、グラスに落とす。その間にも、酒のせいなのかそれとも別のもののせいなのか、それともそのどちらものせいなのか、体温が上昇し耳が熱くなる。
「こちら。祇園でクラブ経営してるママさんなんだよね」
「え?」
目を上げるとグラスを持ったマコトが立っていた。
「俺も良いかしら。響子さん」
洒落た仕草で肩を竦めたマコトが響子の隣に座る。
雛太は嬉しいような嬉しくないような、複雑な心境になった。
「俺、若い頃から贔屓にして貰っててさ。独立する前からのお付き合い。前は結構、大きい店居たかんね。俺ってば」
マコトが響子のグラスの酒を作りながら説明する。
「ねえ。マコトくん」響子はゆったりとした仕草で足を組みかえた。「二人きりにして欲しいわ」
ハスキーな声で響子が言った。雛太は突然、「そうか」と気付く。
そうか。
胸焼けしそうな色気だけの女なら、確かに物凄く苦手なんだけれども。
彼女の場合はそんな、ただ放出すれば鬱陶しいだけの色気を、程好い甘さにするスパイスを知っているんだ。
なんてな。
俺ってば、大人。
「私の名前は響子よ。貴方は?」
「ひ。ヒナっす」
「今宵は楽しみましょう。私、貴方のような可愛らしい子。大好きなの」
「か。可愛らしい、スカ」
雛太は思わず顔を顰める。けれどすぐに頭を掻き「いやあ。良く言われるンすよ!」と言った。
本当は、言わせるわけがないけれど。
7
「お兄たまは何歳なの?」
「ええ? 俺ぇ? いくつに見える?」
洋輔は陽気に答えて、グラスを口に運ぶ。
どうやらシオンの同行らしいキウィという少女のテーブルについたのはつい先ほどだ。シオンは今、トイレに行っている。
「キウィわかんなあい」
赤い瞳をクルクルさせて、キウィが上目使いに自分を見た。
ああ。どうしよう。可愛いかも。
思わず洋輔はその瞳から目を逸らせない。
「あのね。あのね。キウィね」
「うん」
キウィが言い憎そうに小首を傾げる。それからちょっとうな垂れて、洋輔の腕に擦り寄ってきた。柔らかい頬の感触に、思わず鼓動が跳ね上がる。
げえ。俺ってば、なに、ロリコン系?!
「ねえねえ。向こうのお姉さん、可愛いね!」
何を思ったかキウィは唐突に指を差す。洋輔はそちらに顔を向けた。雛太とお客の響子さんのテーブルだった。
キウィの言うのは響子さんのことだろう。
「うん。キレイね」
「指輪とかもキレイ」
「うん。キレイキレイ」
「バックも可愛いなあ!」
「うん。可愛い可愛い」
「キウィもあんなバック欲ちい!」
「うん。そうだね。買ってあげるよ! って、オイ!」
洋輔は思わず仰け反り、キウィの顔を見る。彼女は相変わらずニコニコと洋輔の顔を見ている。
「あー。いや。っていうか、キウィちゃんにはまだ早いんじゃねえ?」
「ヤダヤダヤダヤダヤダ! キウィもあんなヴィトンのポーチ欲しいんだもん!」
「ヴィ、ヴィトンって言いました?」
「うん?」
キウィが天使のような顔で小首を傾げる。
「ぶいとん? なに、それえ?」
「いや。い。うん。ゴメ。なんか俺、酔っ払ったくさい」
洋輔は思わず、額を押さえる。そうだ。こんな子供がヴィトンだなんて言うはずないじゃないか。
「それでね。あのねあのね!」
「う、うん」
「キウィ、お金持ってるんだよ! ほら!」
キウィは自分の赤いバックから、明らかに偽者と分かるダンボール紙で出来たお金を取り出した。隅に小さく、子供銀行券と書いてある。
なんと微笑ましい。
「本当だ!」
洋輔は大袈裟に驚いてやる。
「すげえ! 大金持ちじゃん?」
「でしょ! でしょ! だからね! キウィね! ピンドンとか下ろしたい!」
「ぴ。ピンドン?」
「それをね! 頭から浴びてるお兄たまとか見たい! それでね! 頭で割るの!」
「うん。いや、っていうか、え?」
「どうして? 見てみたいの!」
「だって、ピンドンって、ピ。え?」
洋輔はキウィの口からピンドンなどという言葉が出たことに驚く。
なぜ。なぜだ。
なぜこんな幼い子供がピンクのドンペリを略してピンドンというだなんてことを知ってるんだ! いや、それより何より、どうして酒の名前なんかを知ってるんだ!
「あ!」
キウィがパチンとその紅葉のような手を叩き合わせる。洋輔はわけもなくビクっとした。
「そうだ! キウィね! キウィね! 子供銀行で働いているんだよ!」
「こ。子供銀行?」
「うん。そうなの! それでね。今ね、子供銀行ではチョキンをボシュウしてるの!」
「ちょ、ちょきん?」
「お兄たまもお金を持っていたらね。キウィに預けて下さいね!」
「うん。いや、っていうか、俺、チョキンとか興味ないし。っていうか、今ある分は将来に残さない主義っていうか」
「ダサ」
「え?」
ダサって言った。今言った。絶対、言った。
洋輔はまじまじとキウィの顔を見つめる。
「募金してくらさい。お願いちまつ」
目を潤ませて、キウィがすり寄ってくる。どうすることも出来ず体を固まらせている洋輔の耳に、「何をやっているんですか!」という声が聞こえた。
どうやらシオンがトイレから戻ってきたらしい。
「あ。シオンさん。よ、良かった」
「どうしてキウィさんが泣いているんですか!」
「い、いや俺が泣かせたわけでは」
「いくら洋輔さんでも許しませんよ!」
普段の温和な顔つきからは想像も出来ないくらい顔を強張らせて、シオンが洋輔の胸倉を掴んだ。
「や。やあ。ちょっと待って。俺はだってコイツが」
「コイツ! コイツ! なんということを言うのですか! もう! 許しません!」
まさに投げ飛ばされそうな勢いだったその時、それを制したのはキウィだった。
「もういいの。シオンちゃん。もういいの。ごめんね。ごめんね」
「あわあわあわあわ。キウィさんが謝ることはありませんよ!」
物凄い挙動不審っぷりでキウィに駆け寄ったシオンは、その頭をそっと撫でる。
勝手にしてくれ、と思った。思ったけれど、その反面、シオンさん、気付いて! 気付いて! とも、思った。
「彼女は私の天使なのですから、大事にして下さいね!」
何が貴方をそうさせるんだ。
「これくらいしっかりしてないとね。あのおっちょこちょいのシオンちゃんとね、一緒になんていれないんですよ」
こっそりと囁いてきたキウィの言葉に、洋輔はもう一度、シオンさん、気付いて! 気付いて! と、思った。
003
1
明らかに周りが騒がしくなってきた。
見るからに、雛太も洋輔も、シオンも酔っ払っていた。
「限くんってえ。ほんとう、なんか変わらないねえええ。お酒、強いのお?」
隣の女も、酔っ払っていた。
酔っ払ったシオンはとにかく服を脱ぎ出すし、雛太は雛太で隣に座る女性の胸に顔を埋めていた。
どうして皆、そこまで我を忘れられるか。と聞きたいくらいだった。
そして、退屈だった。
いつも何となく思うことだが、そういう時自分はいつも置いていかれたような気分に少しだけなる。
皆が笑っている時、皆が泣いている時、自分だけはいつも、何を思うことも出来ないから。
欠伸を噛み殺し、なんとなく入り口の方を見る。
扉が開いた。
その音に反応した店長らが「いらっしゃいませえ!」と声を上げる。
客が入ってくる。二人連れだ。その男の方の顔を見て、限は眉を上げた。
草間武彦だった。
へえ。なんで?
グラスに口をつけながら限はぼんやり思う。
立ち上がったのは雛太だった。
物凄い音を立ててフラフラ立ち上がったかと思うと、ヨレヨレになりながら入り口の方へと歩いた。
「あん、れえ? た、けひこさん、スカ?」
目を瞬かせながら顔を覗きこむ。
「頑張ってるか、雛太」
何が可笑しいのか雛太は突然大声で笑い出す。
「いやいや。ちがうんよ。ここではオイラ、ヒナ、って。ええええええええええええええええええええ! お前、本当に草間武彦なのかよ!」
ヨレヨレでガッと武彦の胸倉を掴む。そのまましなだれかかるようにして「うえー。ぎもちわづー」と呟いた。
その様子はまるでコントだ、と限は苦笑する。
「おいおい。大丈夫か? なんだ、派手にやってるんだな」
「ちが、え?っていうか! なんだ。その隣の女は何なんだよ!」
「近所でな」武彦は雛太の体を支えながら、髪をかきあげる。「ナンパしたんだ」
「ワカナじゃん!」
マコトがソファに座ったまま大声を上げる。
「なんでえ? おま、マサの店の客になったんじゃねえのかよ」
ハンと鼻を鳴らす。酔っ払っているのだろうが、余り良い言い方ではなかった。
「なんぱああ!!?!?! てめえ! コラ!」
思いっきり舌を巻き、雛太が武彦に体当たりする。「どういうことだ? アアン?」
「どうもこうも」溜め息と一緒に吐き出して、武彦はチラリとソファで話し込む洋輔に目をやった。洋輔は素知らぬ顔だ。「そういうことだよ」
「だっからああ!」千鳥足で、もう凄んでいるのか抱きついているのか分からない雛太は、それでも武彦に食ってかかる。「どういうことだよお! お前には、居るだろおがちゃんと!」
「まあまあ。今日のところは。雛太、しっかりしろ」
「うっせええ! てめえ! お前はそういう……オエ。いいか! 俺はな! だからそういうのは許さないっていうか!」
「なにを言ってるんだ」
「もういい!!」
少女のようにカナきり声を上げた雛太が、わーんと自分のソファに戻る。
「もういいよ! もういいよ! 響子。アイツが俺を虐める!」
お客の胸元に顔を埋めた。
やれやれと言った風に武彦が肩を竦める。
それから女性を連れてカウンターに腰掛けた。なにやら親しげに顔を突き合わせ話をしている。
どういうことかは分からないが。
こういうところをシュラインさんが見てはいけないことは確かだよな。
そう思っていると、また扉が開いた。
いらっしゃいませの声。そして入り口に立つ人物を見る。
その瞬間の雛太の顔が面白くて。
限は今日ここへ来て始めて、少し腹の筋肉を動かした。
2
「もしもし?」
肩を叩かれ、雛太はハッとした。
「電池の切れたロボットみたいだけど、どうしたの。固まっちゃって」
響子が顔を覗き込んでくる。
「い。いやぁ」
雛太は慌てて響子から体を離した。何だかとてつもなく、我に返った。例えるならば、エロビデオを見ている最中に母親が顔を出したかのような気まずさだった。
どうしよう!
あろうことか、シュラインが来店したのだ。何故だ。雛太は頭の中を立体的な迷宮のようにして考える。自分が来たのだから、シュラインは京都に来ずに済んだのではないのか。
しかし実際に居る。間違いない。雛太は自分の頬を抓ってみた。夢でもない。
シュラインは入り口のところで立ち止まっている。
ああ。そうだった。
ジーザス。額を押さえて、空を煽った。
なんと間の悪いことだろう。武彦と女が一緒に居る所に来店してしまうなんて。
「ねえ。ちょっと。本当、どうしたの?」
「ちょ、黙って、マジで」
えーっと雛太は顔を顰め、眉間を指でかいた。
「マジで言ってんのぉ?」
「誰も何も言ってないわね」
「あー」
とりあえずシュラインには見つからないよう、気休めだったが体制を低くしてグラスを掴む。しかし中身がからっぽだった。横からグラスを奪われる。
響子が無言で酒を作ってくれた。
「あー。悪ィ。ありがと」
とにかく。
今は何はなくとも、この事態をなんとかしなければ。そう思っている尻から、洋輔がソファから立ち上がり「おーう! 姉貴、お勤めご苦労さんでした」と声を上げた。
シュラインが顔を向ける。
うわ! と雛太は思わず顔を背けた。こんな姿、見られたくない。絶対に見られたくない。
軟派なイメージは嫌なのだ。どう足掻いても嫌なのだ。
なんというか。ここで見つかってしまったら男としての尊厳とか云々とかがなくなってしまうような。そんな気さえしたのだ。
「ふうーん。なあーんだ。マコトさんの店だったんだ?」
しかし背後で知らぬ男の声がしたので、雛太は恐る恐るそこへ顔を向けた。
そこにスーツ姿の明らかにホストと分かる男が居た。
「だってえ。お姉ちゃんつれないからさ。俺を放って何処行くかと思ったら」
「あと。つけてきたの?!」
シュラインが驚いた声で言う。
「制限時間でハイさよならなんて。淋しいもんね。でもまあ、ここで飲みなおすんだったらいいよ。俺、付き合うから」
男はそう言ってシュラインの肩を抱く。
なにごとが起きているんだ! と雛太はあんぐりと口を開ける。
あの男は何者なのだ?
「あーあ。私もう、暇だわ。歌でも歌っちゃお」
何者もクソもホストだろう。見て分かる。そうだ、ホストだ。じゃああれは、マサというホストだろうか?
いや何にしてもとりあえず、自分は洋輔にハメられたのだ。
シュラインは来ないって言ったのに! 来ないって言ったのに!
このヤロー。
店内に電子音で作られたカラオケのメロディが流れ出す。しかし雛太は横に居る響子のマイクを引っ掴み、「こらあ、洋輔え! テンメエエ!」と大声をあげた。
004
1
ひっちゃかめっちゃかだったことは否めない。
最後には乱闘騒ぎにまでなった店の中は、ホストクラブとして機能していたかというと小首を傾げるしかない。
散らかったテーブルとカウンターを見つめながら、マコトはホッと溜め息を吐く。そして苦笑した。
しかし、楽しかったには違いないのだ。
ギスギスとした雰囲気が店の中に蔓延してるでも、客の取り合いがあるでも、数字の計算をするでもなかった。ただ純粋に、会話を楽しみ、騒ぎに焦り、歌い、踊り、楽しんだ。
「ありがとう。楽しい閉店パーティだったよ」
ソファに眠る、三つの体に向かい、言った。
殴り合いになったもので、洋輔とヒナの顔には鼻血やらが飛び散っている。その隣で相変わらず何事もなかったかのように、無表情に眠るのは限だ。
何事かは分からないが突然殴り合いになった二人を見て、彼だけは唯一冷静に「いつものことです。すぐ済みます」と言った。
限の言った通り、二人の乱闘はすぐに終わりその後は何故か、カラオケでイージューライダーを熱唱し出した。
それから客も巻き込んで、サライを歌いだした。24時間テレビかよ! と思ったが、気がつけば少し感動していた。
なんだか。そういう意味の分からない方向へテンションが上がってしまうような悪酔い方は、悪くない、と思う。
マコトは椅子を回転させて、カウンター正面に向き直った。並べられたボトルを見る。
「閉店かあ」
なんだか、酷くしみじみとした。
「閉店じゃないぜ」
背後から声がした。
ギョっとして振り返った。
「洋輔……」
「店閉めるのはまだ早いんじゃねえ?」
欠伸交じりにノンビリと洋輔が言った。口元を押さえ、「イテ」と声を漏らす。
「この馬鹿。本気で殴りやがって」
眠る雛太の額をコンと打った。
2
「仕事だったんだから、仕方ないじゃないか」
どうでも良さそうに呟いた武彦が、鴨川の川縁に仰向けに寝転がった。
薄っすらと空は白み始めている。そんな中途半端な色からシュラインは目を戻し、寝転がる武彦の顔に視線をやった。
「仕事とは、どういうことかしら。いろいろと謎が残っているわ」
「いいじゃないか。楽しんだんだから。久しぶりにシュラインの歌が聞けて良かったよ」
「だから。どうして武彦さんが居たのか、って聞いてるのよ」
「そうですよ! だいたいあんな場所にキウィさんを一人で来させるなんて! あぶないにも程があります!」
隣に座っていたシオンが声を潜めたまま、荒げた。
「なんだな。眠ると普通の子供に見えるな。彼女も」
仰向けの体制から横に転がった武彦は、シオンの胸の中で眠るキウィの顔を見つめた。
その横顔を見ながら、一番聞きたいセリフを飲み込んでシュラインは言った。
「どういうことか説明してよ」
「何を説明するんだ」
「全部よ」
「そうです。全部です」
溜め息を吐き出した武彦がよっこらしょと起き上がる。ジャケットの内ポケットから煙草を取り出した。
「謎解きは探偵の仕事か。洋輔の奴め。ちゃんとするって言ったクセに」
「え?」
「いや」小さく首を振り、喉を鳴らす。
「まあ、なんというか。始まりは洋輔が、マコトから受けた要請だ。店の閉店パーティをするもんで、手伝って欲しいという話だな」
「それは私も知っていますよ。だから手伝ったんじゃないですか」
「うん。まあそうだな。しかし、そもそもどうして閉店パーティなんてことをすることになったのか、と言えば、マコトの店のホストを全部引き抜いたヤスという男のせいだ。だから洋輔はまず、その男のことを調べたいと思った。まるで、マコトの店を潰すためにやっているように見えたからな。一個の店から全員のホストを引き抜くなんてことは、不自然だ」
「それは知ってるわ。そのヤスという男を調べるために私は京都くんだりまで来たんだから」
「うん、そうだな。まあ、調べたことは後で聞こう。それでだ。お前を京都に派遣したはいいがな。仕事と割り切っていても、お前は融通の利かないところがある。嫌なことはどうあっても嫌だ。そういう女だからな。心配になったんだ」
「何が」
「調べる前にだ。声を掛けられた段階で、男を殴り倒すんじゃないかってことをさ」
「そんな」シュラインは思わず苦笑する。「私は一体、どんな女と思われているのかしら」
「そこでキウィの出番だ。たぶん。彼女は」そこで武彦は自嘲気味に少し笑った。「俺の見る限りではお前よりもよっぽど大人の男の扱いを知っている。シオンにも逢いたがっていたようだし、俺は彼女を連れて京都に向かうことにした。小日向、だったか?」
シュラインは武彦の口から何気無く飛び出したその言葉にドキっとする。
「その男のことは洋輔から聞いていた。馬鹿とハサミは使いよう、などと言っていたな。こちゃこちゃと細工したのかも知れん。まあとにかく、キウィとその男を使って、もしもシュラインが道端で男とゴチャゴチャし出したら小日向を出動させればいい、と言ったんだ」
「そんなあ。彼女はまだ、七歳の子供なんですよ!」
「まあ。そうなんだが」
武彦は口ごもる。シオンには何を言っても無駄と思ったのだろう。
彼女が本当は、幼いゆえにとても狡猾で天使がゆえに悪魔だということを。
しかし。
一番聞きたいことの謎だけはまだ、解けていない。
あの、女は誰なんだ。
自分から聞き出すのも気が引けて、シュラインは押し黙った。その隣で武彦が、また仰向けに寝返った。
「あの女の名前はワカナという」
「え?」
「マサの女らしい。元はマコトの客だったらしいが。調べて欲しいと頼まれたんだよ」ゆったりと目を閉じる。「仕事だと、言っただろう。納得、したか」
「納得出来ません!」
シオンが声を荒げる。
「納得しませんからね! もう。この代償は三食昼寝付きで払って頂きます! キウィさんが無事だったから良かったものの。私は彼女が。彼女の身に何かあったらと思うと……!」
「ま。まあ。シオンさん」
涙ぐむシオンの肩を叩きながらシュラインはゆっくりと空を見上げる。
真っ白な空。
夜が、明けた。
END
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 3356/シオン・レ・ハイ (しおん・れ・はい)/男性/42歳/びんぼーにん(食住)+α】
【整理番号 0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号 2254/雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた)/男性/23歳/大学生】
【整理番号 3171/壇成・限 (だんじょう・かぎる)/男性/25歳/フリーター】
【整理番号 3801/キウィ・シラト (きうぃ・しらと)/女性/7歳/たくさん遊ぶこと☆】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。
夜のお勤めにご参加頂きまして、まことにありがとう御座いました。
ご購入下さった皆様と
素晴らしいプレイングやPCをお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝致します。
それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
感謝△和 下田マサル
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