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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


夜のお勤め

------<オープニング>--------------------------------------


「よぉ。お前、帰って来たんだってな」
 暗闇の中で男の声が言った。その声は、こっちが咳払いしたくなるほどハスキーな声だった。
「誰」
 久坂洋輔は瞳を閉じたまま、素っ気無く言った。
 合唱するかのようなタイミングで、スズメがチュンと囀った。その音に、朝を感じた。眠りに着く前、やっと白み始めたばかりだった空はもう、完全に明けたのかも知れない。頭の片隅でそんなことを思う。
 どれくらい眠りに落ちる寸前の、暗闇の中を彷徨っていたのだろう。
 陽が昇りきってしまうまでに眠ってしまいたいと思いながら、タオルケットの中に身を沈め、やっと瞳を閉じたと思ったら、しつこく鳴り続ける騒音のような携帯電話の電子音に引きずり出された。
 心地良い、眠りの泥の中から。
 こんな時間に誰なんだ。
「誰? 淋しいこと言うなよ。久しぶりじゃん、洋輔ぃ」
「知らない。切るぞ」
「俺だよ、マーコート」
 マコト?
 誰だ。もう一度思い、そして考えた。
 思い当たった。目が開いた。
「はぁッ?」タオルケットを剥ぎ取り体を起こす。「んーだよ! もうお前ンとこまで連絡入ってンの?」携帯に噛み付いてしまいそうな勢いで、洋輔は言った。
 向こう側に居る男は笑っている。ヘヘヘと耳につくハスキーボイスはあの頃とちっとも変わっていない。
「入る入る。ンーなもん。お前帰って来たなんてビッグニュース、一発だからさ」
「っていうかさ。別にここ最近、ずっと連絡取ってなかったじゃん。何今更、知り合い気取りなわけ?」
 溜め息と共に額を押さえ、脱力する。
「まぁそう言うなって。お前もこうして連絡してきて欲しくて電話番号変えないんだろォ」
「あー。それ、イタイ勘違いね。電話番号変えたらいろいろ面倒じゃん。だから変えないだけだよ」
「うそうそ」
 フンと鼻を鳴らす声が聞こえた。バカにされたような笑いに、本気で電話番号を変えてやろうかと思った。「だったら今すぐ電話切って明日朝一で電話番号変えてやらぁ」口にも出す。
「ちょっと待ってって」相変わらず人を食ったようなハスキーボイスが言う。「電話番号変えてもイイけどさ。俺の頼み聞いてからにして欲しいんだよね」
「なんで俺がお前の頼み聞かなきゃなんねーんだよ。意味不明」
「店長だろー」ねばりつくような声。チッと舌打ちした。
 四年前、洋輔がまだ十八歳だった頃、ホストクラブでアルバイトをしたことがある。その頃、本業は木屋町にあるキャバクラのチーフ業だったのだが、その繋がりの友人に頼まれ仕方なく手伝った。その時マコトはその店の雇われ店長だった。
「元だ。っていうか、それほど別に可愛がって貰った覚えもねーけど」
「可愛がったじゃーん」
 酔っ払ってチュウされたりだとか? 殴られたりだとか? 料理作らされたりだとか? 女横取りされたりだとか?
 あれが可愛がるというのなら、鎖に繋がれ炎天下の中放り出される飼い犬になった方がよほど可愛がられている気がする。
「最悪。思い出した」
「そりゃあ良かった。でさ。俺の店、今実はヤバくてさ」
「そのまま潰れちまえバカヤロウ」
「マサ。覚えてる? 昔俺の下で働いてた奴。アイツ今雇われ店長なんだけど。その店がさ勢いづいてさ。ホスト殆んど引き抜かれちゃったんだよねぇ。客もこねーし。マジ潰れるかも知ンねー」
「だから潰れろバカヤロウ」
「もう。頼れる奴、お前しか居ないんだよねぇ。何つーか。店閉めるにしたって、閉店パーティしようにもさ。ホストいねーし。辛いんだわ、実際。手伝って、くんねぇ? 出来れば。お前の友達とか、呼んでさ」
「俺の友達にホストなんかチャラチャラしたもんやる奴いねぇ」
「そこをなんとか。頼むよ。もうさ、分かるよね。俺、切羽詰ってンの。辞める時くらいさぁあ。楽しい思い出残したいんだよ」
 うーっと唸った。舌打ちが出た。溜め息も、出た。
「あーもう。とりあえず今から寝るんだわ。起きたらもっかいかけるから。そん時まだ切羽詰ってたら、もう一回話して」
 答えを待たず電話を切った。そしてそのまま電源を落とした。
 辞める時くらい、楽しい思い出残したい。ハスキーな声が纏わりつく気がした。
 タオルケットを引っ被った。


---------------------------------------------------------


001



 カートを押しながら、いくつもの棚を見送り歩く。
 日本人作家う行の通路を入った所に、その男は立っていた。
 歳の頃は三十代後半といったところだろうか。寝起きのまま整えられるということをされていない黒い髪に、痩せた頬をしたこの男の顔を見るたびに、綾和泉汐耶はいつも、きっとこの男は何事に対しても大雑把なのだろう、というようなことを考える。
 男は詰まらなそうな顔で分厚い本のページを繰っていたが、汐耶が入ってきたのに気付き顔を上げた。
「よお」
 低い声で言う。
「偶然、ではなさそうね」本の詰まったカートを押し、返却作業を進めながら汐耶は素っ気無く答えた。「用件は何かしら」
 けれど、用件ならばもう分かっている。
 男は曰く付きの本ばかりを取り扱う、小さな古本屋の店主だった。
 持っているだけで人を不幸にする本だとか、人を不幸にする方法が書かれてある本だとか、持つだけで悪魔に体を乗っ取られ人格が変わってしまう本だとか。
 言葉で説明してしまえば「曰く付き」の「曰く」なんて、そんな陳腐なことに違いないが、その陳腐な、もしくは些細なことで不幸になった張本人は。
 ただ気に入った本を買っただけなのに不幸になってしまった張本人は、陳腐だからこそ無念に違いない。
 男はそういう曰く付きの本のありかを突き止め一般人から奪還し、そしてあるべき場所、持つべき人の場所へと本を戻す作業をしている。
 と、いうと物凄く正義の味方みたいな気もしてくるが、彼本人を見たらそんな気はしない。本人も「そういう力のあるモンを、馬鹿に持たせたくないからだ」と言っている。
 そして汐耶には、そういう何かが憑り付いた本の根源を、封じる力があった。諸悪の根源を封じる力だ。
 だからきっと、男はその用で、わざわざ汐耶の働く図書館まで足を運んだのだろうと予想はついた。
 持つだけで悪魔に体を乗っ取られ人格が変わってしまう本、つまり怨念や悪魔が憑り付いた本の封印を頼むためだ。
「用件?」男がハンと鼻を鳴らした。「俺がデートの誘いを申込みに来たことがあるか」
 今度は汐耶が鼻を鳴らしてやる番だった。「分からないじゃない? 貴方の気持ちの動きなんて、一度も考えたことがないもの」
 返却本の一冊を取り出し、棚に戻す。
「それで、依頼の内容は何なのかしら」
「やっかいな本がある」
「貴方がやっかいな本以外の話をするのなんて、見たことがないわ」
「一般人なんかが持っちゃいけない本だ」
 男はジャケットの内ポケットから一枚の写真を取り出した。
「持ち主はこの男だ」
 棚に寄りかかったまま、男の手から写真を抜いた。汐耶は「ふうん」と眉を上げる。「魔術書を所有しているようには見えないわね。と、いうか。本にすら興味がなさそうに見えるわ」
「真面目な奴が人を刺す時代だ。遊んでそうな奴がもっと悪いことをしたって不思議じゃない」
「その理論でいくと、現代は悪者ばかりになっちゃうわね」
「京都に出張して貰うことになるだろう」
「京都?」
 問い返し男の顔を見て、それから写真に視線を戻した。
 京都。何故だかそういう魔術書が多い場所だ。時代背景からか魔界都市とさえ呼ばれる京都には、本だけに限らず曰くつきのものが沢山ある。
「男の名前は遠藤正史。詳しい話は、昼休みにでもしよう。そこの喫茶店で待ってるよ」
 男はそう言うと、片手を軽く上げて背を向けた。
「急な話ね」
 汐耶は小さく肩を竦めた。



 紙擦れの音と共に、溜め息が聞こえた。
 モーリス・ラジアルはそれを聞こえなかったことにしてやり過ごし、広げた図面に目を走らせる。
 目を上げるとそこには、建設途中のビルがあった。
 まだ先の話だが、完成すればここには主に、リンスター財閥の傘下会社の支店やオフィスが入ることになる。
 以前ここにはホテルが建っていた。
 幽霊が出るなどという噂のあったホテルだ。取り壊しすら出来ず放置されていたものを、リンスターが数ヶ月前に買い取り、取り壊し、そして新たなビルを建設した。
 今日は一日諸事情により工事が行われないと聞いたので、モーリスはリンスター財閥のお抱えガードナーとして下見に来ていた。
 青い線で描かれた図面と、今自分が立っている場所とを比較しながら「ここに植えるのは何の木にしよう」「何の花にしよう」と大まかなシュミレーションをする。
 このビルが出来上がったところを想像し、もしもここにアレを埋めたら。これを埋めたら。それらが咲く季節、それらが実をつける季節、ここはきっとこんな風になるだろう。なんてことを想像する。
 日本に着くまでに時間のかかる植物や、手に入りにくい植物などの注文を早めにしておくためにも、シュミレーションは必要だった。
 緑が、むさい生活を豊かにしてくれるものなのだと。
 信じて疑わない人間達の為に働く気はさらさらないが、そういう物に触れている時は自分自身が心地良いのでこの仕事のことは好きだ。
 けれど。
 その楽しい一時を一瞬にして遮る音がした。
 また溜め息だ。モーリスは脳の片隅で苛付いた。するとその小さな思い付きのせいで頭の中にあった全ての物が、ふっと飛んでしまう。集中力が途切れ、現実が顔を出す。
 モーリスは目を閉じたまま、眉を寄せ微かに舌打ちした。
 この男はいちいち癪に障る。
「なんで居るんですか、君は」
「え!」
 モーリスに突然見つめられ、浅海は驚いたように体を揺らした。
「あえ。ああ、すみません」
「君も仕事で来たならば、とっととやるべきことをやってはどうですか。私の後をいちいちいちいち付いて周ってないで」
「で。ですよね」
「それとも何でしょう? 私のお尻を付回しているのが、そんなに楽しいのでしょうか」
「ち。違いますよ!」
「だったらどうして私の隣をチョロチョロついて回るんですか。君の仕事はどうしました? 計量は済んだんですか」
「まだ、です」溜め息交じりに浅海が言う。
 溜め息をつきたいのはこっちだ、とモーリスは思った。
「だいたい」図面を折りたたみ言う。顔を上げた。「そんなに気になるならば。この際、ハッキリさせてみてはどうでしょう」
「は。はっきり?」
「貴方の溜め息の理由はどうせ、洋輔という青年のことでしょう。この間、京都に行った時、何も聞けず、何も言えなかったことがそんなに悔やまれるのなら、今一度京都に行き、確かめてくるが良いでしょう」
「そ。そんなことは」
「私は私の仕事の邪魔をするものは嫌いです」
 折りたたんだ図面を脇に持って歩き出すと、浅海もついて歩いた。
「仕事の時に私情を持ち込むような人も嫌いです。見ていて気分が悪い」
「はあ」
「隣で溜め息ばかりつかれては、仕事になりません」
 工事中の囲いを潜り、舗道に止めてあった車に向かう。助手席のドアを開けると、浅海が驚いたように言った。
「か。帰るんですか」
「隣で溜め息ばかりつかれては、仕事になりませんから。それとも君は、もう二度と私の前で溜め息は吐かないと誓えるのでしょうか?」
 抑揚のない声と、睨みつけるようなモーリスの視線を受けて、「す、すみません」と浅海はただモゴモゴ謝った。
 それを尻目にモーリスは助手席に乗り込んでやる。運転席に乗り込み、エンジンをかける浅海の隣で、ジャケットの内ポケットに入っていた携帯電話を取り出した。
 微かな車の振動を感じながら、発信履歴にあった番号をそのままコールする。
「もしもし。モーリスですが。今、何処にいらっしゃいますか?」
 横を見ると、浅海がじっとコチラを見ている。視線を逸らし、窓の外を見ながら会話を続けた。
「ええ、ええ。そうですか。分かりました。いえ、実は、お話したいことがありますので。ええ、ええ。宜しければ今すぐ。ええ、では。向かわせて頂きます」
 そして携帯を切る。
 と、待ち望んでいたように浅海が言った。
「ど。何処に」
「草間興信所」
 素っ気無く答えて助手席に身を埋めた。
「さっさと行って下さい」



 携帯の着信に、ユウは飛び上がりそうなほど驚いた。
 トクトクという自分の心臓の音を聞きながら、ソファで膝を抱え暫くその携帯電話を見つめていた。
 ガラステーブルの上で携帯はブルブルと振動しピカピカと光り、自己主張している。
 誰からだ。とユウは思った。誰からだ。もしかして、アイツか。
 黒い髪をした、ぽややんとした青年の顔を脳裏に浮かべる。外見もさることながら、内側からも少年のような可愛らしさを滲み出しているあの青年の顔を思い浮かべる。
 彼のする仕草の一つ一つが、きっと思い余って潰してしまいそうなほど可愛いらしいと、ケーナズ・ルクセンブルクは考えているに違いない。そういう滲み出る気持ちみたいなものを、ユウはここ数日の間で何回も見ていた。
 アイツだったらどうする。
 ガラステーブルに置かれた、ケーナズの携帯をじっと見つめる。
 借りたゲームを返すとか、返さないとか、そんな話だったらどうするんだ。
 そんなの。消してやるに決まってる。
 ユウは携帯を手に取った。風呂に入っている間に消してやる。けれどちょうど、音は止んだ。ゆっくりと画面を開こうとしたところで、家の電話が鳴り出した。ユウはまた、飛び上がりそうなほど驚いてしまう。
 前につんのめりそうになりながら、慌てて受話器を取った。
「もしもし、ルクセンブル」
「ケーナズしゃん!」
 聞いたことのある声が耳を突いた。それから、思い出した。
「洋輔?」
「え? 誰?」
「ユウだけど」
「ああ。ユウ! なんだ。ケーナズさんは?」
「今、風呂だよ」
「ああ。そう」
「なんの用?」
「いやさ! それがさ! ちょっと困ったことになってんのよねえ」
 その人を食ったような声にユウは眉を顰めた。
「なに、またあの人を使うつもり?」
「そう嫌そうな声を出すな。仕方ないじゃん、いろいろ困ってんだからさ。頼る人他に居ないしさ。まあ、この際、お前でもイイんだけどさ」
「お前でもイイってどういうことよ」
「ホスト、やって欲しいんだわ。ホスト」
「え?」
「ホストだよ。分かるだろォ? まあ、とにかくさ。急いでるんで、それだけ伝えといて。詳しい話はまた後でするかんさ。ホストクラブで一日だけホストする気があるのかないのか。それだけ聞いといてよ。よろぴく。じゃあ」
「ちょ」
 電話が切れる。
 なんと一方的だろうか。
 ユウは受話器を見つめたまま、あきれ返る。それから考えた。ホストクラブで一日だけホストの仕事をして欲しいと言った、洋輔の言葉に対してだ。
 ホストということは女性の相手をするということだ。ホストクラブで働くということは、酒を飲むことだ。
 酒を飲むということは、変テコリな勢いだってつくということだ。
 変テコリは勢いがつくってことは。
 いろいろといろいろな面倒が起こる、ということなのだ。
 黙っておこう。
 そんな仕事、ケーナズにさせるわけにはいかない。
 ユウは勝手に結論づけ、受話器を置いた。
「電話だったのか」
 背後から聞こえた声に、またユウは飛び上がりそうになった。
 なんと間の悪いことだろう。
 風呂上りのケーナズがそこに立っている。
「う。うん。洋輔から」
 言ってしまってからしまったと思ってももう遅い。
「洋輔」
 ケーナズが唇を歪め眉を上げた。
「なんの用だって?」
 タオルで顔を拭い、冷蔵庫からビールを取り出しているケーナズの背中を見つめながら、何と言おうかと考える。
 元気かと聞いていた? わざわざそんなことくらいで電話してくる仲なのか? 嘘をつこうにも、情報が少なすぎて上手く言えそうにない。
「どうした」
 缶ビールのタブを引きながら、ケーナズが眉を潜める。
 しかしその顔を見ているうちに、ユウはふと考え直した。
 そうだ。洋輔の頼みを聞くということは。
 京都に行くということではないのか。と。
「うん、なんかね。頼みごとがあったんだって」
 何気無い顔を取り繕い、ソファに腰掛ける。
「頼みごと?」
 肩を竦めたケーナズが、こちらに向かい歩き、やはりソファに腰掛けた。
「ホスト、やって欲しいんだって?」
「ホスト?」
「うん」
 フンとケーナズが鼻を鳴らす。
「あいつめ。私のことを呼べば飛んでくる便利屋だと思ってるんじゃないのか」
「そ。そんなことはないよ。めちゃくちゃ頼み込んでたよ、なんか、普通、に」そうでもなかったかな、と思えば、思わず語尾が弱まった。
 けれど京都へ行くということは、アイツが訪ねて来ることもない、ということなのだ。
 頑張ろう、と思った。
「まあ。でも目の付け所は悪くない」
 ケーナズがビールを口に運び息を付いた。
「ホストくらい、やれと言われれば私にも出来る。だが、そうだな」そこで横目にユウを見て、唇をゆったりとつり上げる。「私よりも適任者が居るじゃないか。なあ、ユウ」
「ぼ、僕?」
「経験者がやるのが一番いい。洋輔もお前を誘うために電話してきたんじゃないか? 行ってくればいい。京都に里帰りだ」
「僕一人で、ってこと?」
「心配しなくとも、家出にはカウントしない。居候でゴロゴロとしてるくらいなら、働いた方がいい。お小遣いをちょっとくらい稼いでくればいい。お前にだって買いたいものの一つもあるだろう。それで生活費まで稼いでくれるなら、尚いいがな」
 フフンと笑いながらビールを味わうケーナズの横顔を見ながらユウは、もしやコイツそれで邪魔者の僕を追い出そうとしているんじゃあ。と考えた。
 そうだ。それであの、黒髪の少年とランデブーなことをしようとしているんだ。
 きっとそうだ。そうに違いない。
 友人だなんて言って。
「だって」ユウは俯き小さく呟いた。
「ん?」
「だって! ペットの世話は飼い主の仕事じゃないか!」
 目を剥いてケーナズを見ると、ギョっと体を引かれた。
「な。何を怒ってるんだ」
「だって! だってペットの世話は飼い主の仕事なんだから! ケーナズも来ないと駄目なんだよ! ぜったいに!」
「意味が、わからん」
 ケーナズは小首を傾げて苦笑した。



「まったくアイツも人使いが荒いというか。怖いもの知らずというか、なあ」
 そう言って、草間武彦は煙草の煙を吐き出した。口元から離れた白いそれは、ふわふわと空を舞いやがて消えた。
 東京某所にある、草間興信所である。
 セレスティ・カーニンガムは所長の武彦に呼び出され、事務所を訪れていた。
「少し一緒に居る間に、貴方に似たのではないでしょうかね」
 本題に入る前に、何となく話の内容が向いたのは洋輔のことだった。先日、京都に言ったことを話していたのである。
「それは」武彦が唇を突き出した。「俺が人使いが荒く、怖いもの知らずだ、と言いたいのか」
「どうでしょう」曖昧に返してやる。
「はいはい。どうせ俺は人使いが荒く怖いもの知らずで、貧乏だよ」
 自嘲気味に言われたその言葉に苦笑していると、壁際から突然その声は振ってきた。
「失礼します」
 武彦が驚いたように体を揺らす。
「あらまあ。お早いおつきで」セレスティはただ、壁に目を向け小さく微笑んでやった。
「お前は。突然現れるのをやめろ」
 呆れたように言う武彦に向かい、モーリスは「すみません。こんにちは」と微笑んだ。
「お話がある、と言ってらっしゃいましたね」
 セレスティが言うと、モーリスは顔を向け「ええ」と頷いた。
「実は」
 その時、草間興信所の扉が空いて勢い良く入ってくる男が居た。浅海だった。モーリスは浅海に顔を向けると手を翳し、またセレスティを見た。
「彼に、暇をやって下さい。もちろん。そのまま、解雇して下さっても結構なのですが」
「ええ!」
 驚いたのは浅海だった。
「そ」
「どうやら彼は仕事に集中できないようです。このままでは人様にすら迷惑をかけかねない状態ですので、とっとと自分のことは決着をつけさせるべきではないかと」
「なるほど。決着というのは、洋輔くんのことでしょうか?」
「そうです」頷いたモーリスは、浅海に向き直る。「君は京都に行って、とっとと問題を解決してくるべきだ。それであっさり振られれば、諦めなさい」
「諦められるのなら、とっくにそう」浅海はうな垂れた。「しています」
「だったらリンスターをやめるべきだ。セレス様の御慈悲で置いて貰っているんだよ。役にも立たないくせに」
「す。すみませ」
「まあまあ」セレスティはやんわりと言った。「何にしても、京都に行ってみてはどうでしょうかねえ」
「や。やめろってことですか、それは」
「そういうことではありませんが。逢いたいならば行ってきても良いですよ、ということですよ」
「ちょっと待て」
 武彦が口を挟んだ。
「お前ら、京都に行くのか?」
「彼だけです」モーリスが素っ気無く言うと、浅海はいよいよ眉を下げ懇願するように言った。「せ。せめてじゃあ。モーリスさんも一緒に」
「うるさい。なつくな」
「なんだ。京都に行くのか!」
 武彦がパンと手を叩いた。「なら、話は早い」
「どういうことでしょう?」
「いやあ。洋輔に頼まれてたんだ。セレスティにも話をしてくれないか、とね。まあ、自分で直接言えと言ったんだが、何だかゴチャゴチャと理屈を捏ねてな。忙しい人だし何だしと……おまけに、セレスティが来ないなら俺にホストをやれと言って」
「ホスト?」
「ああ。そうだ。そうそう。ホストクラブで働いてくれないか、と言うもんでな。洋輔の知り合いの店なんだが。どうもホストが全員、引き抜かれて潰れかけているんだそうだ。それで閉店パーティをしたいもんで、ホストをやれるくらいの人物は居ないかっていう話が来たらしいんだが」
「ホスト、ですか」
 モーリスが小首を傾げ呟いた。
「そう。ホスト」
 皆、一様に目を丸くした。



「京都?」
 ヴィヴィアン・マッカランは小さく呟いてから、ドアノブにかけていた手を引っ込めた。
 そしてもう一度、今度は胸の中で呟いた。
 京都?

 ヴィヴィアンがセレスティと共に買物にでも出かけようと彼の自宅を訪れたのは、今から一時間ほど前のことだった。自宅に居た使用人に彼を呼び出して貰うと、草間興信所に居ると教えられ、ならばと電車に乗り込み草間興信所の事務所が入っている雑居ビルに辿り着いた。
 それがつい先程のこと。
 中から話し声が聞こえたもので、何となく耳を澄ませていたら、セレスティと武彦の会話が聞こえた。
 聞いた話の内容を繋げれば、セレスティが京都へ行ったという話になった。
 しかもあの、モーリス・ラジアルも一緒に、だ。
 とんでもない事実を聞いてしまった気分かも。
 ヴィヴィアンは慌てて草間興信所のドアにとりついた。中から聞こえてくる会話に耳を澄ませながらも、悔しいというべき感情が腹の中に渦巻いていく。
 そんな話、アタシ聞いてないしぃ。
 しかも、話の内容から察するに、京都に行ったのは旅行とも遊びとも言えるような雰囲気だ。
 思うべきことは二つある。
 どうしてアタシを誘わなかったのか。
 例えば、まあ。何にしても少しは仕事だったことにしてみよう。では何故、それをアタシに話さなかったのだろうか、とも思う。
 そうなればいよいよ悔しい。
 何故だ、何故だ、何故だ、何故だ。頭の中が立体的な迷宮になりそうな手前で、ハッと思い当たった。
 男だけで行きたかったからだ。
 ヴィヴィアンは自分の思いつきに自画自賛したい気分になる。
 そうだ。男同士で行きたかったからだ。間違いない。
 恋人のアタシを置いて京都に行くのに、それ以外の理由なんて思いつかない。
 そうだ。アタシは知っている。
 モーリスとセレさまが実は、とんでもなくとんでもない関係なことを。そしてセレさまは、そういう輩な男どもに囲まれてもいけしゃあしゃあと笑い、微笑み、それがどんなにか男の心を擽っているかも分からない天然的なところのあることを。
 つまりはとにかく、男同士でナニがアレでアレがナニなわけなのだが。
 とすると、つまりは。セレスティ自らが意図していなかったにも関わらず、あのモーリスが悪巧みをしてセレさまと二人きり、もしくはもっと凄いいやらしいことをしようと企み、強引に旅行に連れて行った。ということになる。
 なるほど。
 謎は全て、解けたわ。
 セレさまがそんなことをオメオメと、恋人のアタシに対して口に出せるハズがないもの。
 かわいそう。かわいそう。セレさま。
 あんなことや、こんなことをさ、れ……ッ! ぎゃあ。
 ヴィヴィアンは思わずその場でしゃがみ込み、頭を抱える。
 モーリスでなくとも誰であっても、セレスティを一目見れば男は皆、そういう気分になることをヴィヴィアンは確信している。あの白い肌やら銀色の美しい髪やら、青い瞳やら、何やらナニやら、とにかく物凄くきっと、絶妙に男心を擽るに違いないのだ。
 あの顔で微笑まれてみなさいよ! 理性なんて吹っ飛ぶわよ!
 けれど。そういうことを言うと、大抵の人間はあきれ返る。
 美しい顔だというだけで、体が普通より少し華奢だというだけで、眼鏡だというだけで、仲良さそうに歩いているというだけで、ちょっと連れションしただけで、男子校だと言うだけで、ホモにされてはたまらない。などと言う。
 言う。
 言うのだ。
 だが実際、そうなのだから仕方ない。
 ヴィヴィアンはいつもだからそれが間違ってるんだってば! と思う。
 他人事にするのは間違っていると思ってしまうのだ。
 だって、そうだ。犯罪だって災害だって雨だって、いつ自分の身に降りかかるかは誰にも分からない。つまりは男性同士の恋愛も、きっとそういった物と同じで。
 自分だけは大丈夫、と思っていたら、傘がなくて困るような羽目になるに違いないのだ。
 雨は全ての人の上に降りかかる。
 きっと、犯罪だって災害だってそうだ。
 そして男同士だって、女同士だって。
 とにかく。何にしても。隣のホモに要注意。
 ヴィヴィアンはよしと顔を上げた。
 とりあえずの要注意人物であるモーリスの動向をもっと探らねば。
 立ち上がったところで、ビルの階段から物凄い勢いで駆け上がってくる足音が聞こえた。
 顔を現したその人物に、あ、と思う。
 一度だけ見かけたことがある。向こうは自分に気づいていなかったかも知れないが、確かそれは浅海忠志とかいう最近、セレスティの近くで働いている青年だった。
 もしや。こいつも。
 注意深く青年の顔を見ていると、「入りますか」と声をかけられた。
 ヴィヴィアンは思わず「い、いえ」と言う。青年は「そうですか、すみません」とヴィヴィアンの体を押しやって中へと入って行った。
 何よあれえ。感じ悪いしぃ。
 けれど思わずまた、中の動向を伺ってしまう。
 肩に下げていたヴィトンヴェルニの赤いバックから、マルチカラーのモノグラムが散った可愛らしい手帳を取り出し開く。中の話を何一つ聞き漏らすことなくメモしようと思った。
 ヴィヴィアンはとりあえず、空白ページに「洋輔」「京都」とメモをし、丸で囲んだ。

002



 久しぶりに訪れた京都だった。
 しかし観光にも行くことが出来ず、汐耶はホテルの一室に居る。
 仕事の休みは纏めて取ることが出来なかった。取れたのはたった一日。仕事を終えてから、すぐにも新幹線へ乗り込み京都駅に着いたかと思うと、今度はタクシーで四条通りにあるこのホテルへと移動した。
 こんなにもトンボ帰りになるならば、持って来てくれれば良かったのに、と思う。
 出来ないから汐耶を呼んだのだろうが、そう思わずには入られない。
 特殊な能力があるのも、良いことばかりではない。
 ベットの上にポツンと置かれた分厚い本からは、禍々しい気が漂っていた。
「これのこと?」
 傍らに立つ古本屋の店主に言う。彼はゆっくりと頷いた。
「とりあえず、何とかして本だけは確保しておいた。と、いうかくすねてきたんだ。だから封印して貰ったらすぐにも持ち主に戻さなきゃならん」
「あの、木下昌司という男のところね」
「ああ」
「それにしても」
 汐耶はベットの上にある本を見つめて小さく首を振った。苦笑する。
「感じる気は本物なのに、どうしてこんなにも間抜けなのかしら」
「まあ。題名がな。こんな本に悪魔が宿るっていうのも、面白いよな」
 ベットに置かれた本の表紙には「輝く貴方! ホストの極意!」と名打たれてある。
 こんな本を読む人間が居るということ自体汐耶にとっては面白い話だが、それ以上にこんな本に憑り付くモノもどうかと思う。
「要するに。人間の欲望の話なんじゃないか」
「欲望?」
「なんか。こんな本を読んでる人間の心を操るくらい、チョロそうじゃないか」
「なるほどね」
 頷きながら、まあどうでも良いのだけれど、と汐耶は思う。
 眼鏡を外し、自己の能力を解放させた。
 さっさと仕事を済ませて、体を休めよう。
 明日の昼には、東京に戻らなきゃいけないのだから。

×

 ほっと小さな溜め息を付き、汐耶は椅子に腰掛けた。
「お疲れさん。助かったよ。後のことは俺らに任せてくれ。下のモンに本を戻させておく」
 古本屋は軽い口調で言った。
「ええ」
 汐耶はだるい頭を指で支えながら、いい加減に頷いた。
「この本の持ち主だが。ホストクラブでホストなんかをやっていたらしくてな。それで知り合いの店を辞めて、独立したらしいんだ。しかも偉く容赦のない方法で、その知り合いの店のホストを全部引き抜き自分の店で働かせたらしくてな。本についたモノのせいとはいえ、元々の妬みなんかもあったんだろうし。怖い世界だよな」
「女の腐ったような、と良く言うけれど、男も腐れば同じになるんじゃないかしらね」
「厳しいな」彼はヘヘと小さく笑った。「でもまあ。そうだな。実は俺は男子校出身なんだがな。女から隔たれて男だけの世界に居るとな、気を緩める奴が出てくるんだ。それこそ今お前が言った、腐った男だ。根性の捻じ曲がった、女々しい奴らだ。そういえば。こんな話は知っているか」
 ふと口調を変え汐耶を見ると、「蟻って居るだろ?」と言った。
「アリ? 昆虫の?」
「そう。虫の蟻。働き蟻。知ってるか? 働いている蟻だ」
「知ってるわ」
「あれはな。実は全部が全部働いているわけじゃないんだ。働き蟻と銘打たれているにも関わらず、実は全体の五パーセントくらいはいつもやる気がなくてサボってばかりいるサボリ蟻ってのが居るんだよ。それで、その五パーセントのサボリ蟻を排除したとするだろ? これで全部が働いてチャンチャン。と思うんだ。それが違う。さっきまで働いていた蟻の中から、また五パーセントくらいがサボリ出すんだよ。で、サボリ蟻だけを集めてみたら、なんだかさっきまでヤル気のなかった蟻の中から、それなりに働く蟻、というのが出現してな。結局、やっぱり全体の五パーセントがサボり蟻として残るんだ」
「銘打ったのは人間でしょう。勝手に人が言ってるだけだわ」
「そうだ。つまりはそうなんだ。男と女も、性別なんてのも。だから、男ばっかりの中に入れられると、人間だって同じ、蟻のように歪んじまうのさ。全体の、五パーセントが。な」
 古本屋は得意げな顔をした。それからベットから取った本を小脇に抱え、汐耶の前に立った。
「それで」チョイっとお酌を上げるような仕草をする。「どうだ? 一杯。奢るぜ」
「貴方と?」汐耶はフンと鼻を鳴らした。「やめておくわ。蟻の話なんか聞きながら飲んだら、気分が悪い」
「良い店があるんだがなあ」
「またにして。今日は疲れているの。それに、料理を楽しみたいって気分でもないし。飲むなら一人でショットバーにでも行くわ」
「そう、か」
 彼は小刻みに頷いた。
「じゃあ、また。頼むぜ」
 片手を上げて去っていく。
 汐耶は顔も洗わずベットに倒れこんだ。
 大きく、溜め息を吐く。
 折角京都に来たんだから、と思いながら瞳を閉じた。



「ホントお前の友達なのかよ」
 カウンターの方から小さな呟きが聞こえた。
 ユウは何気無く顔を向ける。この店の店長であるマコトと目が合った。
「それにまさか、お前まで洋輔と知り合いだったとはな」
 からかうように言われ、ユウはフンと鼻を鳴らす。
「まさか、この店が潰れそうだったなんてね」皮肉を返してやる。
 マコトのことは、何度か顔を合わせたことがあるので知っていた。
 以前やっていたユウの店も、この近所の雑居ビルにあったからだ。キャッチに出ればおのずとこの男の顔を見ることになる。
 ライバルだと思ったことは一度もないが、それなりにこの店も客が入っていたことを知っている。
 まさか洋輔が手伝って欲しいと言っていた店が、マコトの店だったとは。
「まあ。何つーか。すげええ! しょ!」
 洋輔がオーバーな声を出す。手を大きく広げ、ユウらが座るソファに向かい翳した。
「ユウ以外? すげえんじゃねえ? 皆、むちゃくちゃカッコいいしさ」
「でっしょ? そうっしょ? 輝きが違うっしょ」
 余りにも得意げな表情をするもので、どうしてお前が得意げになる必要があるのか、とユウは苦笑する。
「だってさ。良かったね」
 ソファに座る面々に向かい、言った。
 そりゃあ、輝きはまるで違う。全然、違う。
 スーツ姿になったケーナズ、セレスティ、モーリスの三人は、本当にとても美しかった。男としてというよりも、人間としての完成された美があった。
 その辺りに歩いている男が見たら、生きているのを辞めたくなるような、美だ。
 店から貸し出された、安物のスーツでさえ、高価な物に見えてくる。
 黒のスーツに白いネクタイ。その黒尽くめの衣装が、彼等の白い肌を引き立たせている。
 カラコンなんか使用しなくても、瞳は透き通るような青や緑だ。
「お前は省かれてるんだぞ」
 ケーナズがソファに寛げ言った。ユウはプウと唇を突き出す。
「しかしまあ。馬子にも衣装、だな」
「うっそ。それって褒めてくれたの?」
「馬子にも衣装が、か?」
 三人に笑われ、「ひっでえ。からかわないでよ」とまたユウは唇を突き出した。

×

 おどけたように唇を突き出すユウを笑いながらも、モーリスはカウンターに居る洋輔を見ていた。
 そして、今頃はまだ東京に居る浅海の顔を思い浮かべた。
 まったくあの意気地があるのかないのか分からない男には、あきれ返る。
 いざ京都に行くとなったら尻込みした挙句、浅海はモーリスに、代わりに聞いてきてはくれないかと言い出した。自分のことをどう思っているのか、ということを、だ。しかしモーリスは、聞くつもりなど毛頭なかった。聞いてやる義理だってない。
 どうだっていいのだ。あんな意気地なしは。
 モーリスは洋輔から視線を外し、テーブルの上に用意されている氷入れの中から小さな氷を一つ取り出しポイと口に放りいれた。がりがりと噛み砕く。
 もうちょっと、男らしくはなれないのだろうか。
 見ていて鬱陶しいのだ。溜め息をつく姿などは。
 自分の放つ言葉によって、参る人間を見るのは嫌いじゃない。むしろ、好きな方だ。しかし、勝手に参っている人間を見るのは好きじゃない。
 勝手にへこんで、自分とは関係のないところで動いている。
 そんな男は、大嫌いだ。
 本当に、もうちょっと男らしければ。
 男、らしければ?
 そこまで思ったところで、男らしければ「何」なんだ、と自問した。
 答えなど出るはずもない。男らしくても何でもないのだ。
「どうかしましたか?」
 柔らかい声に訪ねられ、モーリスは「いえ」と首を振った。
「余りにキレイな主人に、見とれていたんですよ。スーツお似合いです」
「それは、君もですよ」
 柔らかい微笑が言った。

003



 キョロキョロと周りを見渡している、明らかに挙動不審な女性が居た。
 時間はだいたい、午後十時。木屋町通りの人通りもピークになる時間帯だった。
 短いスカートをはいた女やら、爆音を漏らしながら通り過ぎる自動車やら、奇声を発する男性の団体やらと、いろいろな人間や景色が入り乱れる中、洋輔は何となくその女性のことが気になってしまい、西木屋町と木屋町通りを繋ぐ小さな橋の柱に腰を寄りかからせ、観察する。
 女性は、美人というより可愛らしいといった風だった。
 腰までありそうな長い銀髪を靡かせ、あれは何というファッションだったか、友達には絶対いないような服を着ている。とにかく、黒と白ばかりが目立ち、フリフリした服だ。それが妙に当てはまっていて、その姿は歩くフランス人形のようにも見える。木屋町通りには確実に不釣合いだった。
 周りを取り囲むのは夜のネオンと、何だか青臭いそれでいて活発な路上ライバーの歌声と、そして夜の町の女と男、普通というビラを背中に貼り付けていそうな若者と、まだ自分が若いと思い込んでいるような親父達の姿ばかりである。
 彼女はそんな中で浮いている。別次元から来たかのようにすら見える。
 だから、洋輔の目も止まってしまったのだろう。
 暫くぼんやり眺めていると、夜の町の男達が案の定彼女の前に群がった。
 セリフは途切れ途切れにしか聞こえてこないが、だいたい見当がつく。
「ねえ。彼女、何してンの。一人? 彼氏と待ち合わせでもしてンの? 一人だったらさあ。俺らと遊ぼうよお。俺ら、この近所の店で働いてるンだけど」
 長い髪の女性は、胸の辺りで手をばたばたと振りながら男達を振り払っている。
 しかし、一人で追い払えるほど彼等は簡単ではない。
 他の人間達も、彼女らのやりとりを何の興味も無さそうに見やっては、通り過ぎて行く。洋輔は小さくと溜め息を吐き出した。
 助けてやるか、と思った。
 タタタと駆け寄り、「ねえ。それ。俺の連れなんだけど」と、輪の中に割り込んだ。
 すると男達は案の定「アアン?」と凄んでくる。それを無視して彼女の顔を見た。
 彼女は、近くで見ると兎のように真っ赤な目をしていた。充血しているわけではない。目の玉が赤いのだ。
 やはりどうやら、普通にこの辺りの女性ではないのかも知れない。彼女は上目使いに大きなクルンとした瞳で洋輔を見上げた。
 泣き言でも出てくるのだろうか、と思ったら少女はプンと唇を尖らせて「アタシ。別にアンタとも知り合いじゃないしぃ」と言った。
「人探してンの。ヨウスケって人よ。この辺りに居るって聞いたんだけど。アタシ、地図見るの苦手だしい。誰か知らない?」
「ヨウスケ? え。洋輔って」
 洋輔は彼女の口から自分と同じ名前が出たことに驚いてしまい、口ごもる。
「あー。っと。えと。ヨウスケってどんな字書くの?」思わず、間の抜けたことを聞いてしまう。
「字までは知らないしぃ。とにかくセレ様の知り合いなのよ」
「せ。セレ様ってもしかして。セレスティ・カーニンガムのこと?」
「そうそうそう」
 彼女は嬉しそうに微笑み力強く頷いた。
「って。なんでアナタが知ってるわけ?」
「い。いや。何というか。俺、たぶん。アンタが言ってる洋輔だと思うんだ」
 また、間の抜けたことを言う。



 店内には爆音のヒップホップが流れていたが、江里の頭の中では中世ヨーロッパ的な静かなクラッシックのメロディが流れていた。
 まず目が行ったのは、彼のその、細く長い指先だった。
 爪の先までもが透き通るように美しく、それは更に、優雅に滑らかに動いた。
 菓子盛からチョコレートを摘み上げる時、そしてそれを口に運ぶ時、江里の視線はいちいちそこに釘付けにならずにはいられない。
 手とは生活の中で一番使われる部分である。
 何をするにも使われるその手が、こんなにも美しい男に、不様な生活は似合わない。
 実際、彼の行動の一つ一つには品があった。
 グラスを持ち上げる仕草や口調、や足を組み変える仕草にまでも、品が感じられた。
 それの集大成として、その美しい顔なわけだが、肌は透き通るようにきれいでシミ一つ見当たらなかった。彼はきっと世間や現実などというものから遠く隔たれている。そう、感じた。
「ご気分でも、悪くなりましたか?」
 彼がその形の良い唇をゆったりと持ち上げる。
「それとも。私の顔に何か?」
 揶揄するように言われ、江里の耳がカッと熱くなる。慌てて首を振った。
「アナタに見つめられるのも悪くありませんが。穴が空くのではないかと心配になってしまいます。瞳はね見るためにあるのではなく、見つめ合う為にあるんですよ」
 彼がゆったりとグラスを持ち上げる。「乾杯しましょう」
 江里は夢見心地でグラスを持ち上げ彼のそれとカチンと重ね合わせた。そして「来て良かった」としみじみ思った。
 正直、マコトから電話を貰った時はあまり乗り気ではなかったのだ。そもそも、ここいらに居る男には飽き飽きとしていた。
 女なのだし男が好きなのは当たり前で、男なのだから女が好きなのは当たり前なのだろうけれど、何となく最近、そういう現実に飽き飽きとしていた。まだ二十代でそういうことを言うのは早いよ、と良く言われるが、江里にはもう、男なんてどれも同じに見えてしまい、世の中に男と女という生物しか居ないということにつくづく飽きていた。
 そこで考えたのは、自分の行動範囲のせいではないだろうか、ということだ。
 同じような場所には同じような人間しか集まらないのならば、自分の行動範囲を変えるべきだ。
 だから、ホストクラブやら夜の町やらからは足を洗おう。もっと違う場所にこの身を投じようとマコトの店からも足を遠ざけていたのだが。
 居たではないか。
 江里は嬉しくて小躍りしてしまいそうなくらい、テンションが上がった。
 夜の町にだって、いや。夜の町だからこそ、こんなにも美しい人が居たではないか!
 だいたい、美しい男と言えば夜だ。
 吸血鬼だって夜にしか活動しないし。
 ああ。もう、彼が吸血鬼だってもイイ。むしろアタシの血を吸って欲しいとさえ思う。彼の刃を感じながら、その流れる金髪に触れてみたい。
 その時、入り口の扉が開く音がして「いらっしゃいませーい」とマコトの威勢の良い声が飛んだ。
 狭い店内だ。誰が入って来たかも見える。
 入り口に立っていたのは、フランス人形のような長い髪の女性だった。
 フリフリとした白と黒のレースが舞う、黒いワンピースを着ている。
 隣に居る彼といい、彼女といい。何だここは、フランス辺りに建つ古城か! と思う。
 顔つきが変わったのは彼女だった。
 中を見やるなり、「セレ様あ。やっぱりここに居たんですねええ」と大声を上げたかと思うと、隣のテーブルに向かいダッと駆け寄った。
「おやまあ」
 透き通るような声が聞こえた。
「んもう! アタシを置いて行くなんて、ヒドイですぅ。淋しかったですぅ」
「それは申し訳ないことをしましたね」
 余裕なのか何なのか、薄く笑顔を浮かべたその男性は、彼女の頭をそっと撫でた。
 明らかにムッとした顔をしたのは、隣に座る客の女だ。それを無視して、長い髪の少女はソファに座った。
「アタシも一緒に飲みますう」
「おやおや、そうですか」
 男の方は相変わらず笑顔だ。何だそれは余裕なのか、鈍いのか、と江里は思わず考える。
 長い髪の女性はプウと頬を膨らませ、男性の腕を取った。
「いっとくけどォ、セレ様はアタシのステディなんだしぃ」
「な。なによ! でも今日は私と飲むって言ったんだから!」
 二人の女に囲まれて「おやまあ」と相変わらず男は微笑んだ。
「ちょっと。何か。修羅場みたいね」
 江里は小さく呟いた。それから隣に座る彼の顔を見た。
「まあ、そんなことよりも。私の存在に、彼女が気付いてしまわないよう。そのことだけを祈りたいですね」
 彼は洒落た仕草で肩を竦め、江里の顎を摘む。
「彼女に見つかったら、君との大切な時間が壊されてしまいますから」
「そ」
 思わず江里はうっとりと眉根を下げる。眉だけではない。催眠術にでもかかったかのように体中の力が抜けて行く。
「そうですよね」うわ言のように囁いた。
 なんということだろう。彼はなんと美しいのだろう。
 そうだ。そんなことどうでも良い。
 いいのだ、何もかもどうでも。
 彼とアタシが居れば。



 走って行ったヴィヴィの背中を見送って、洋輔はまだ西木屋町に居た。
 キャッチに出ると行って、店を抜け出してから一時間ほど経過している。抜け出すというのはもっと言えば、逃げ出したとも言える。
 そもそも、女の相手をする仕事など自分に向いているわけがないと思う。
 仲間といい加減な話をしたり、自分の好きなことばかり言っているのは大好きなのだけれど、好きでもない女の話を聞いてやったり、好きでもない女の気分を良くしてやったりなんかは、全然したくない。
 どちらかといえば、気分を良くして欲しい方だし、どちらかといえば、甘えたいタイプだ。
 それに、嘘だってつけない。
 騙すことは出来るが、自分の気持ちに嘘をつく、ということがどうやったってできやしないのだ。
 言葉で誤魔化しても、顔に出てしまっている。
 これで好みの素敵なお姉さんでも居れば連れて店に戻るんだけどなあ。
 溜め息と共に、木屋町通りをぼんやり眺める。
 その時、洋輔の視線は公衆トイレの前を横切っていく一人の女性に釘付けになった。
 女性は白いシャツに黒いパンツという飾り気のない格好をしていた。長い足を大またに動かし、短い髪を靡かせながら颯爽と歩く。伸びた背筋のラインがとても美しかった。
 うわ! 好み!
 洋輔は慌てて通りを渡り、女性の前に立ちはだかった。
「おねーさん、一人? なにし」
 しかしその顔を見た途端、洋輔は思わず口を噤む。大きく息を吸い込んだ。
「あああああああああああああああああああ!」
 彼女に向かい指をさし、大声を上げる。
「汐耶ちょーん!」
 汚れ一つない眼鏡のレンズの向こうから、冷たい目で汐耶は見返してくる。
「なにをしているんですか」
「ちょちょちょ。汐耶ちゃんこそ何やってンさ」
「歩いています」
「いやいやいやいや。なんで? なんでこんな所で一人で歩いてンの。え! 嘘! マジ? だってここ、京都だよ?」
「京都に居てはいけませんか。あなたこそ。草間興信所を辞めたと聞きましたが」
「いや。俺、実家がこっちの方にあってさ! いやあ。奇遇だなあ! なに、仕事で来てたの? ちょ、なに、今はとにかく、暇なわけ?」
「暇、ではないですが」
 汐耶が小さく口ごもる。
「ね! この近所にさ。俺の知ってる店があんのよ。どう? 行かない? 一緒に」
「貴方の知り合いの店に?」
 汐耶は明らかに嫌だと言った風に眉を潜めた。こんな小僧の知っている店が、どんなモンかと値踏みをしているのかも知れない。
「あ、そうだ!」洋輔はポンと手を叩く。「実はさ。ケーナズさんとか、セレスティさんも来てンだよね」
「二人が?」
「そう。二人が。ねえ、ねえ。だからさあ。一緒に飲もうよぉ」
 どさくさに紛れ、その腕を掴んでやった。
 細い、腕。洋輔の胸がコトリと脈打つ。
「まあ」汐耶が溜め息と一緒に吐き出した。「嫌だと言っても無駄なのでしょうから」
「やった!」
「別に行こうと思っていた店もないですし」
「ごめんね。俺、強引で」
 笑顔で言って汐耶の腕を引っ張った。
「良かった。これで俺、嘘もつかずに楽しく今夜を終えられそうよ!」
 歌でも歌うように、洋輔は言った。



 嘘も方便、という言葉がある。
 いつだったか、人は仮面をつけて生きている、と言った人間も居た。
 ケーナズはグラスワインをゆったりと口腔の中で味わいながら、そんな言葉をボンヤリ頭の中に浮かべていた。それから、自分が育った環境を思い出していた。自分が恵まれた環境で育ったことや、嘘を吐く必要すらない家庭で育ったことを、だ。
 なのに今、自分の口からはすらすらと嘘が出ていく。
 いつだったか、素晴らしい嘘というのは「歌を歌うのと同じことだ」と例えた人がいた。音をなぞる、という一点で、突拍子もない、繋がりもない音を出せない。つまりはやはり嘘だって、前とは全く関係のない、突拍子も、繋がりもない言葉を言えない。ということらしいが、それを聞いた時、妙に納得したものだ。
 歌を歌うように嘘を吐く。
 今、自分はきっとそんなことをしている。
 そして丁度、同じ人が言っていた心理テストのような例え話を思い出した。
「例えば」
 ワイングラスを傾けながらケーナズは言う。
 女が「ええ」と夢見心地のような声で呟いた。
「例えば。君と彼氏がデートをしている最中に、君が暴漢に襲われてしまったら。君は彼氏にどうして欲しい?」
「どうして、とは?」
「見られたくないから目を瞑っていて欲しい、とかね」
「ああ。そうねえ」女は生活感のない長い爪で顎を押さえ、少しの間小首を傾げた。「でも。今貴方が言ったみたいに、目を瞑っていて欲しいかも知れないわ。やっぱり、愛する人には見られたくないもの。そんな姿」
「そうか」
「貴方は?」
「僕? 僕はね」
 そこでケーナズは、マスカラに縁取られた女の瞳を覗き込んだ。
「何があっても、最後まで見届けるよ。そして、彼女にも僕を見ていて欲しい。もしも、彼女を救えない立場だったら、だけどね」
「見ていて欲しいの?」
「ああ。彼女と見つめ合っていたいんだ。そしたら僕と彼女の心は通じ合い、その時、僕等は見つめあっている世界以外をないものにする力を持つと思うんだ。僕と彼女と、見詰め合う二人以外は、この世界からなくなるんだよ。僕は彼女の心を救う。心が通じ合っていれば、どんなことがあっても二人の関係は壊れたりしないんだ」
 自分で言っておきながら何だか、何とファンタジーかと呆れてしまう。それでも続ける。おざなりな言葉を言う。
「例えどんな窮地に陥ろうとも、どんな場所に居ようとも。そこに君が居て、僕が居るなら。それでいいんじゃないかな」
 そんなわけがない。
 その人に振れ、その人を自分だけのものと愛し愛され、囲うことが出来ない愛に何の意味があるというのだろう。
 どうしてこんなにも嘘が上手くなったのだろう。
 それが、大人になるということか。
 ケーナズが頭の中で、実はそんな哲学とも呼べないようなことを考えている時。
 女はただ、面白いほど惚けたように自分を見ている。

×

 口の上手い男ならいくらでも居るのだろうが、乗せられる男、というのはそう多くない。
 響子は彼の口から飛び出る言葉一つ一つに、感嘆の溜め息を吐く。
「例えどんな窮地に陥ろうとも、どんな場所に居ようとも。そこに君が居て、僕が居るなら。それで、いいんじゃないかな」
 彼はそういう言葉を、まるで息をするかのように自然に吐いた。例えばそれを、セリフのように言われたら冷めていたかも知れない。
 けれど、彼の整った顔から、息を吐くように吐かれる自然な言葉に、誰が我に返ることなんて出来ようか。
 ああ。口が上手くて。更に顔も良い男が居るなんて。
 響子はうっとりとその顔を見上げる。
 きめが細かそうな肌の上に、涼しげな青い瞳と、意思の強そうな唇と、びっくりするほど通った鼻筋をバランス良く配置し、日本人の脱色なんかでは絶対に出せないような黄金の髪をし、スリムでいて、沢ってみると筋肉を感じる体躯を。
 彼はその全てを持っている。
 まるでそう、ハリウッド映画の俳優のようだ。
 セレブの気品が溢れ、それでいて気取りがない。
 響子はただうっとりとしてしまい、その横顔を見つめた。
 と。
 ドンと隣のテーブルの女が自分の背中にぶつかって来た。
 狭い店内である。隣のテーブルともそれほど間隔はあいていない。
 良い気分を遮られ響子はもう、とその女に目を向けた。
 さきほどから彼女は物凄い勢いで酒を口に運び、どうやら今は、ボトルごと一気飲みしていたらしい。
 優雅な気分が台無しだ。
 ちょっとと文句をつけようとしたところで、彼の横顔を見た。
 彼の前で声を荒げることなんて出来ず、響子はすんでのところで言葉を飲み込んだ。
 言いたい言葉を飲み込むのは、始めてだった。
「ねえ。隣、煩いわね。何処か他の場所で飲みなおさない?」
「皆が嫌いでも、僕が嫌いとは限らない」
 彼は人を食ったような笑顔を浮かべ、バリトンの声で囁いた。
「僕はこの雰囲気が好きだけれどね」
「そ。そう」
「ただし。君の誘いを断っているわけじゃない。行きたいなら、何処へでも行きましょう姫」
 笑顔を讃えたままの唇が、グラスの端をつっと啄ばむ。
 ああ、と思った。
 夜な夜な身悶えするオンナなんて、オトコの浅はかな妄想だとばかり今まで思っていたけれど。
 そうか、そうなのか。
 これが身悶えするということなんだな。
 響子はぼんやりとした目を向けたまま、自分もグラスを口に運んだ。
「さっきの例え話と同じことさ。例えどんな場所であったとしても、君と僕が居る。それで、いいんじゃないか」
 そうだ。いいじゃないか。
 いいのだ、何もかもどうでも。
「ねえ。言ってね。私、貴方が飲みたいと思うお酒なら、どんなに高くても下ろすから」
 彼とアタシが居るのなら。



 暫く何処かに消えていた洋輔が戻って来た。
 彼のことは十八歳の頃から知っているが、数年経った今見ても、余り変わったな、という印象を受けない。
 つまり、成長してないということなのだろう。
 男なんてだいたい、そんなモンだ。アキナはグラスを傾けながら、自嘲する。
 単純でお馬鹿で、実は女よりも乙女だったりする。
 ありもしない女の幻想を抱き、自分の都合の良い女を作り上げ、それでエヘエヘとマスを書いているようなのばかりだ。
 と。いうようなことを言うと、アンタは歪んだ男しか見ていないなどと言われるのだが、だってそうでしょう、と思わずにいられない。
 単純でもなく、アホでもなく。
 性から切り離された、ストイックでプラトニックな男性が居るのなら見てみたい。
 もちろん。更に、カッコ良い男で、だ。
 本当は何処までもストイックでプラトニックである時点で既に、男であることを捨てているようにも思えるし、かといって、その人の中に本能のまま動いているという部分が少しでも見えたらやはり幻滅してしまう自分が居る。
 矛盾したことを言っているのは分かっている。だから、もう。男は諦めた。
 それでもナンダカンダ言いつつ少し、淋しくなってしまうから。今日はついついマコトの誘いに乗って店へと顔を出してしまった。
 カウンターでマコトとグダグダ話込みながら、洋輔も戻って来たことだし挨拶だけしてそろそろ帰ろうか、とも思う。
 洋輔だって、キャッチで客を拾ってきたのかも知れないし。
「すみません。隣、宜しいですか」
 低い、透明な声が耳を突いた。
 女とも、男とも呼べそうな中性的な声だった。アキナはグラスから顔を挙げ、そこに立つ人物に顔を向けた。
 その瞬間。稲妻が落ちた気がした。
「あ、あの」
 上ずった声をあげ、それから何を言うべきか悩み、アキナは結局口ごもってしまう。
 その人が余りに美しかったからだ。
 白いシャツに黒のパンツという、質素な井出達だったが眩いばかりの光りをその人は放っているように見えた。曇りも汚れも、埃すら一つない、透明なフレームのない眼鏡をかけて、顎より少し上程度で切りそろえられた艶やかな黒い髪をしている。
 とんがった鼻と、細く青い瞳と、たっぷりとした唇といった顔のパーツは、その人の顔を女にも男にも見せる。中性的な顔立ちというのがあるなら、きっとこんな顔のことを言うのだ、と思った。
 華奢な体は縦に長く、まさにストイックという言葉がピッタリなように見えた。
「あの」
 おずおずとその人は言った。小首を傾げながら、曖昧な笑みを浮かべている。
「私の顔に何かついてますでしょうか」
「あ。あ。ごめんなさい。私ったら。ど。どうぞ、どうぞ座って!」
 椅子を引いてやり、上についている埃まで払ってやった。
「汐耶ちょん。何飲みまっか」
 コースターを置きながら、洋輔が軽い調子で言う。汐耶と呼ばれたその人は、「そうね」と小首を傾げた。細く白い首筋から血管が覗き、それを辿るとシャツの間からチロリと鎖骨が見えていた。
 アキナは顔に血が昇るのを感じてしまう。
「なにがあるんでしょう? 気分としては、強めのものが欲しいのですが」
「強め。オッケ。じゃ、とりあえずはさ。テキーラベースで。あー。辛めがイイ? 甘めがイイ?」
「辛めがいいわ」
「りょーかい、りょかい」
 リズムを取るように頷きながら、洋輔がシェーカーにテキーラを注ぐ。
「しっかしさあ。俺、マジで嬉しい。汐耶ちょんに逢えるなんてさ」
「そう」
「なに、仕事?」
「ええ。ちょっとね。厄介な本があって」
「へええ。だって何つーか。すげえもんね。汐耶ちゃんってさ。超能力! ハンドパワーです! みたいなん」
「馬鹿にされてるみたい」
「してないしてない! 断じてしてない!」
 笑いながら言った洋輔がシェーカーを上下に振り出した。
「俺、ちょっとの間、チーフとかバーテンとかやってたかんね。こういうの得意なん」
「そうだったの」
「あ。あの!」アキナはその輪の中に強引に入っていく。
「ご。ご趣味は?」口からポロリと零れていた。
「は?」
 言ったのは、マコトだ。「なに、は? 何言ってンのお前」
 からかうように笑われる。それでもアキナには汐耶の顔しか見えていなかった。
「ど。読書ですけど?」
「読書!」
 ああ! 
 アキナは自分の額を平手で打った。神が居るなら今すぐ感謝の祈りを捧げたい気分だった。
 ありがとう、神様。
「え。マジ、なに。どうしたの?」
「ちょっと変だけど、気にしないでね」
 洋輔が汐耶に向かい言う。汐耶は「ええ」と困ったように頷いた。
「ちょっとお前!」
 マコトにグイっと服を引っ張られる。
「なによ」
「耳、貸せ!」
 今度は耳を引っ張られた。
「なに、分かってンの。お前。この人、女だぜ?」
「知ってるわ。でも。いいのよ、そんな些細なこと」
「さ。些細?」
「私ね」
 アキナは汐耶に向かい言った。
「分かってるんです。貴方、きっと。男性に興味ないでしょう?」
「はあああ?」
 絶叫したのはまた、マコトだった。汐耶は呆然とただ、目を丸くしている。
「いいのよ。隠さなくても」
「恋人なら、居ますが」
「え!」
「ええええ!」
 洋輔とアキナの声が重なる。
「こ。恋人居るんですか!」
「恋人居るんですか!」
 二人に詰め寄られ、汐耶は「ええ」と苦笑しながら頷く。
「恋人というか。まあ、そのような、雰囲気になれたらいいな、と思う人は」
「えええええええええええええええええええ。あ。貴方は、た。淡白な人なのでは!」
「淡白?」
 何を言い出すんだ、とばかりに汐耶が眉を潜める。暫くそうしていたが、最終的にはふっと苦笑した。
「まあ。淡白と言えば淡白なのかも」
「ほら。やっぱり」
「マジでかー!」
 悔しそうに言った洋輔が、汐耶のコースターの上に出来上がったカクテルを置く。カクテルグラスに注がれた液体は、あくまで透明で、それでいて炭酸の泡がプツプツと湧き上がっているような、まさに彼女にぴったりのものだった。
「貴方は。透明な人なんです、きっと」
「透明?」カクテルグラスを口に運び、汐耶が言う。赤い唇に啄ばまれるカクテルグラスになりたい、と一瞬アキナは思う。
「嬉しく無いわね。居ても居なくても一緒じゃない、ってことみたい」
「居ても居なくても一緒なのではなくて。余りに透き通っていてこう。何というか。掴めないっぷりが掴みたいと思わせるような」
「なに、それ」
「自分でも言ってて良くわからないわ」アキナもブルブルと首を振った。
「でも。正直なところ。淡白に生きてきて、困ることも多いの。例えば彼と、二人きりになった時とか。自分がああ、女だったんだな、と気付いてしまう瞬間とかね。戸惑ってしまうじゃない?」
 飄々とした顔つきで、そんな可愛らしいことを言ってしまって、汐耶はクイっとカクテルグラスを空ける。
「おかわり。おいしいわね。これ。同じもので」
「へいへい」
 頷く洋輔の向かいで、アキナはただアア、汐耶に見惚れた。
 そしてなんと可愛らしい人なのだろう。なんと、素敵な人なのだろう。と、思った。
 彼女はきっと、それでいい。
 と。いうかきっと。それがイイのだ。
 男の本能にはあんなにも幻滅してしまうのに。彼女の本能にはこんなにも愛しさを感じてしまうなんて。
 なんか。
 自分を悟ってしまった気分。
「とにかく。今日は語り明かしましょう! 私、今日はもう帰りたくない気分なの!」
 汐耶の細い腕にアキナは頭を寄せる。
 アタシはきっと、男じゃなくて女を愛してしまう人間だったのね。
「は。はあ」
 汐耶は曖昧に頷いた。



 彼女は相当酔っ払っているように見えた。
 そろそろ、飲むのを辞めさせた方がいいのかも知れない。
 セレスティはワイングラスを傾けながら、ヴィヴィアンの赤いホッペを見つめ思った。
「本当に、お強いんですね、お酒」
「え?」
 突然矢を向けられ、セレスティは聊か間の抜けたような声を出す。
「ああ。私のことですか。そうですねえ。まあ、お酒は好きですから。しかし、そういう貴方も中々お強いではありませんか」
 開店して間もなく店に入って来たその女性客は、セレスティとほとんど変わらないペースでお酒を飲みながらも、まだ意識はしっかりとあるようだった。
 それに対し、ヴィヴィアンは。
 遅れて入って来たにも関わらず、ホッペがもう赤い。
 何だかそんな些細なところに、セレスティは堪らない愛おしさを感じてしまう。
 例えば、飲食する場の雰囲気であるとか、酒の種類であるなどが聊か関係があるのだとしても、お酒に対し強いはずの彼女の酔った姿は可愛らしいと感じてしまう。
 余りにその姿ばかりを見てしまうと女性客がムクれてしまうので、そうそうには見ていられないのだが、思わず目を向けたくなるような。
 そんな可愛らしさが今の彼女にはあった。
 男ばかりの店に彼女が居るというのも。中々に心配な物なのですねえ。
 始めてのそんな感情に、セレスティは思わず唇をつり上げてしまう。
 ヴィヴィアンはスナック菓子の盛られた皿を指で弾いていたかと思うと、突然スクリと立ち上がり、「ヴィヴィ。ちょっと行ってきますぅ」と敬礼した。
「ど。どちらへ?」
「お手洗いですう」
 そう言って、フラフラした足取りで消えて行く。
 その背中を見つめながら、セレスティは妙に「ああ。自分は彼女を愛しているのだな」ということを実感した。
 何故今だったのか。どうしてそんなことを思ったのかは分からない。けれど妙に、そう思った。
 私は彼女をきっと、愛している。
 そして彼女が女性で、自分が男性であることを、強く感じた。
 人の姿になって一度たりとも、男性であることや女性であることを深く考えたことはなかったのだけれど。
 人に何故、男性と女性があるのか。
 何故、体の構造が違うのか。
 そんなことが、脳ではない部分からトロトロと溶け出してきて体の中を満たしていく。
「これで。ゆっくり飲めますね。セレス様」
 ギザギザとした女性客の声が耳を突いて、腕に柔らかい頬の感触を感じた。
「こんな素敵な人と一緒に居られるなんて、夢のよう」頬を擦りつけながら、彼女は夢見心地に呟く。
「貴方に夢をご提供することが出来るなんて、光栄です」
 微笑みながら、そうは言ったが。
 セレスティは、少し鬱陶しいなんていう感情を、生まれて始めて抱いていた。

×

 そういうことは生まれて始めてだった。
 何も要らない、と思ったのは生まれて始めてだった。
 ケイコにとって「物欲」というものは、この世の中で最大の物だった。
 そして男は自分に尽くすもので、男は自分に物を与えてくれる生き物なのだと思っていた。
 けれど、彼を始めて見た瞬間。
 ケイコはもう、何も要らないとそう思った。
 今まで集めて来たブランドのバックも服も、化粧品もアクセサリも、何もかも、引き換えになるというのならくれてやる。とさえ思った。
 彼はそのどれもが適わないくらい、全ての美を持っていた。
 控え目な鼻筋、大きすぎない瞳、銀色の長い髪。笑顔を作る時には、顔の皺という皺が一切出なく、蝋人形のようにつるんとした肌が輝くくらいだった。年齢を聞いても答えてくれないが、その落ち着き払った余裕の仕草を見ていると、そうとう食っているのか、とも思う。
 けれど外見は、十代の男性にも負けないような初々しさと輝きがあった。
 なんて、ミステリアス。
 なのになんて、質素なの。
 もう、ケイコは、どの新作のバックを見た時よりもうっとりせずには居られない。
 今すぐ彼を羽交い絞めにして、困った顔を見てみたいような。
 それで居て、彼に今すぐ強引に押し倒されたいような。矛盾した二つの感情を抱かずには居られない。
 一寸の隙もなく着こなされたスーツの隙間から、得体の知れない、嵐の前の海のような、強烈な色気が少しずつ漏れている。
 彼はそうだ。野に咲く一輪の薔薇。しかも、白。
 夢見心地という言葉の意味を体で実感しながら、ケイコはそっと、微かに海の匂いのする彼の髪に顔を寄せる。



 ヤバイ雰囲気だ、とユウは思った。
 このまま飲み続けてしまうと、ヤバイ。とユウは思った。思ったけれど止められない。
 ますます、ヤバイ雰囲気だった。
 若かった頃、こういう状態になることが時々あった。
 店に好きな人が居る時のことだ。
 飲めば悪良いすると分かっていて、酒を飲み続けてしまう。いや、本当は悪良いしたいが為に酒を飲んでいたのかも知れない。悪良いして、全てを酒のせいにして、愛する人に甘え、強引に奪う。
 酒の力がなければ何も出来ないのか、と思ってしまうほど、若い頃は恋愛に対し不器用だった。
 しかし今、数年ぶりにそんなヤバイ自分の雰囲気を感じている。
 このまま、こんな冷静な自分が飛んでしまったら、どうなるのだろう、と焦る気持ちと、けれどそれを思うまま放出させてみたい願望と。
 ゴチャゴチャとした曖昧な気持ちが自分の中で渦巻いている。
 自分がついていた客も帰ってしまったし。どうしよう。一旦、外に出た方がいいかも知れない。
 ユウは自分のテーブルの片付けもせず、ぼんやりとソファに座ったまま考え込んでいた。
 すると突然、バシンと頭に衝撃が走った。
「ちょっとォ! ユウさああん。アタシの話、聞いて欲しいんだけどォ」
 トイレから戻って来たらしい銀髪の赤い瞳をした女性は、突然そんなことを言ってドシンとユウの隣に腰掛けた。
「なん、なに?」
「アンタ! ペットだってホントなの?」
「は?」
「アタシ、聞いたの。アサミさんから。ユウさんがケーナズさんのペットだって」
「そ。そうなの」
 ユウは気圧されたようにオズオズと頷く。
「だったらちゃんとペットで居て欲しいのよねえ。アタシ、セレスティさんのステディだしい」
「え? 付き合ってンの?」
「うん」
 彼女は素っ気無く頷いて、テーブルにあった誰の物とも分からないグラスに酒をドバドバと注いだ。氷は殆んど溶けている。ロックというか、ほぼストレートだった。
「大丈夫なん? そんな、飲んで?」
「え?」
 彼女は赤くキョロンとした大きな瞳でユウを見る。それから「ホイ」とグラスを突き出した。
「え? ぼ。僕の?」
「そうよ。アナタの。ちょっと語りたいのよ。いろいろ」
 強引に差し出され、思わず受け取る。彼女はユウにグラスを渡しておいてから、自分も同じように誰の物とも分からないグラスにドバドバと酒を注いだ。
 バーボンをストレートで飲む女性。中々カッコイイではないか。
「ねえ。きみ。名前、なんてーの?」
「アタシはヴィヴィアン。よろしくね」
 その可愛らしい笑顔からは想像も出来ない飲みっぷりで、彼女はグラスの中の液体をグイっと煽った。

×

「いや。だからさああ。僕だってさああ!」
 ユウは虚ろな目を瞬いて、ヴィヴィアンの顔に一生懸命視点を合わせる。
 ヴィヴィアンの方はヴィヴィアンの方で、同じような顔つきで「あによお」と呂律の回らない口調で言った。
「だからさ……オエ。僕だってさ。そうそうそのなんだな。アレだよ。嫌だったよ」
 あれ? 自分は今、何を言っているのだ?
 もう、何を喋っているのかもわからなくなりながら、ただ熱心に語りたいという気持ちと勢いだけでユウは口を動かした。
「ヴィヴィだって、ヤだしい。すっごく悲しかったわけえ。分かる? とにかくなにあれ。へいてんのへきれき。ってやつう。まあ。なに、あのモーリスのヤロオがセレ様誘ったんじゃないってトコはまあ、よあったんだけどお」
「うんうん」
「きみね!」
 ヴィヴィアンがヘロヘロになりながら、ユウを指差した。
「だめよ。やめてよ。京都に誘うのとか!」
「いや。いやいや。僕じゃないって」
「うそよ! アタイ、アサミさんにきいたんあからあ! アンタ、セレ様に近寄ったらタダでおかないわよ。ちょっと小奇麗な顔してるからってええ」
「小奇麗? うそ。僕?」
「あなたよ」
「小奇麗なくらいじゃ駄目なのかなあ」
「ねえ。やっぱりアナタもセレ様好きだとおもうう?」
「ケーナズしゃん」
「っていうかどうなの。それってどうなのよ。セレ様はオトコなの。分かる? オトコの子なのよ」
「うんうん」
「でも隣のホモに要注意だからね!」
「うんうん」
「嘘じゃないもん。アタシ、ぜったいそう思うもん」
「だよね。まっちがいない」
「嘘じゃないぞー!」
 ヴィヴィアンがオーっと手を上げる。ユウも何だか分からないが、とりあえずオーと腕を上げた。
「ちゃ。とりあえずうう……オエ。君はあ。たぶん、アレだよ」
「あれえ?」
「オトコの人、好きなんだよね」
「はええ? オトコォ?」
「ちがう、ちがう」
 ユウはわけが分からなくなりながら、目の前で手を振った。
「ちゃ。だから、キレイなオトコとか、好きっしょ。いやだから。きほんてきにい。オトコ好きじゃんさ。それは君がオンナ。っしょ? うん? うん。いや、だから。オンナがオトコを好きなのは、良い」
「だよねえ」
「最後まで聞いてって。だから。違うんだよ、いや。だから。とにかく」
 自分でも何が言いたいのか分からなくなりながら、それでもユウは続けた。
「問題はああ。君が、オトコを好き過ぎるところにあるんだと思うんだあ」
「オトコを、好き過ぎる?」
「好き過ぎるんだ。愛してるんだろ? 取られたくない、と思う。オンナになんか取られたくないって思うでしょ。同じオンナだもん」
「いやいやいやあ。セレ様をオンナの人に取られるなんてイヤあ」
「だしょ。だよね。僕もヤだもん。いや。僕はオンナはいいの。だってぼく、オトコだもん」
「ほええ?」
「誰にも取られたくないって思うのは、ゴウマンなのよ。だからね。ぼくは、違う性別ならイイと思うのよ。だってなんか。勝てなそうでしょ。無敵そうっしょ。だから、イイの」
「無敵戦隊〜! チャキーン」
「ガッチャマアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!」
「そうだそうだああああ!」
「あー、もういいんだ! とにかく。スタンドバイミーを入れてくれ!」
 ソファにゴロンと横になり、ユウは大声で叫んだ。



 低音の音楽が店内に流れ出し、ケーナズは聞き覚えのある歌だ、とカラオケの画面を見た。
 そこにスタンド・バイ・ミーと表示されている。
「うわー。やりやがった。ユウの十八番じゃん?」
 カウンターからマコトの声が上がる。
「噂で知ってンよ。ユウがこれ歌い出したら、絶対落としたい女が居るとか? 何とか?」
 マコトが言った言葉に洋輔が「マジでか! マジでか!」と両手を叩いて喜んでいた。
 ふうん。
 ケーナズはソファに寛げ、画面を見つめる。
「ケーナズも歌、歌わないの?」
 隣で客の女が言った。ケーナズはわざとらしく小首を傾げる。
「考えておくよ」
 答えながらも、頭の中では選曲をしていた。その合間にも、ユウのスタンド・バイ・ミーが歌いだしを迎える。
 何ともテンポのずれた歌だった。
 明らかに酔っ払っているのだろう。ただ。音程だけはしっかりとしていた。
 背中に、横顔に。執拗な視線を感じる。けれどケーナズは頑なにそれを無視した。
 尻の辺りが妙にむず痒いような居心地の悪さを感じる。
 けれどそれは同時に、少し温かかった。
「いいわよねえ。この曲。私も好きなのよね。何だか。こう。無償の愛って感じがして、いいわ。だって黙って傍に居てよって、ことでしょう。これって」
 肩に彼女の頭の重みを感じながら、黙って傍に居てか。と考える。
 無償の愛。そんな物に、ケーナズは余り興味を感じない。
 欲しいものは欲しいと。出来る限りのことをして、そうやってこの手に掴まないと気が済まないと。
 自分はいつもそんな恋愛ばかりをやって来たのだ。
 しかし手に入れるということは。次のステップに移るということだった。
 いつだって、この先が一番辛い。
 手に入った物を失う怖さ。それを失いたくないと躍起になっている未熟で、不様な自分。
 手に入る前より、幸せが倍になっているのと同じくらい、いや本当はそれ以上、幸せの倍以上ものネガティブな感情を抱くことだってある。
 進めばいつでも、悩みだってステップアップしてしまうのだ。
 本当はただ。この歌のように傍に居て欲しいだけなのだ。
 失わず、何も奪わず、何も奪われず、平穏と安楽の中、二人でただ時を過ごしたいだけなのだ。
 ならば。
 まだ。今はこのまま。
 ふとそんな単語が脳裏を過り、ケーナズは妙に「なんだ、そうか」と思った。
 今はまだ。このままで。
 そういう選択肢もあるんじゃないのか。
 ただ、単純に愛されること。
 進むことも終わることもない愛もあって良いんじゃないかと。
 自分が焦って進んできた通りの道が、ユウにも用意されているわけじゃない。
 ならば。
 今はまだ。
 このままで?
 ただ単純に愛されることを楽しむのも悪くない。
 彼の気持ちからのらりくらりと逃げ続け。
 本当に失いたくないと思ったら、その時また頑張ればいいじゃないか。
 だから、ダーリン傍に居て。きっと、一人より二人が楽しい。
 それだけでいいんじゃないか。
 ケーナズはそんなことを、ふと、考える。

003



 目を開けるとひっちゃかめっちゃかになっている店内が目に入った。
 気付かない内に寝てしまっていたらしい。
 モーリスは目を擦る。
「おや。お目覚めですか」
 頭の上から声が降ってきた。目を上げるとセレスティが微笑みながら、カウンターでまだ、グラスを傾けていた。
「まだ。飲んでらしたんですか」
 客が帰ったのが、確か午前二時から三時くらいの間だった。
 その後の記憶がぽっかりとないので、たぶん。その辺りから眠りについてしまったのだろう。
「ええ。汐耶さんと。店長とね」
 カウンターには確かに、綾和泉汐耶と店長マコトの姿がある。
「タフ。ですね」
 モーリスは苦笑して微かに首を振った。頭上全体に、どんよりと何か重い疲労感のようなものが乗っかっている。ふと見ると、隣のテーブルではケーナズと洋輔が。そのまた隣では、ユウとヴィヴィアンが、頭を突き合わせ寝入っている。まるで子犬か子猫か、と言った風だった。
 片付けも終わっていない室内は、何だか少し閑散とし物悲しい。
 ライトを落としていない店の中は、こんなにも広かったのだろうか、と思わずにはいられなかった。
「閉店パーティとしては」モーリスは溜め息を吐きながら、体を起こし立ち上がる。喉のイガイガを咳払いで追い払い、続けた。「どうでしたか」
 汐耶の隣に腰掛ける。
「閉店では、ありませんよ」
 汐耶が素っ気無く言う。
「閉店では、ない?」
 モーリスは思わず問い返す。カウンターに肘を突き、身を乗り出した。
「そう。実は。私は今回、仕事で京都を訪れていたのですが。私が封印した書籍の持ち主というのが、この店から店員全員を引き抜いたという張本人だったわけなんです」
「それ、で?」
「つまり。本の効力をなくして、店をやっていけるほどデカイ男じゃねえってことだよ。アイツは」
 得意げに口を挟んだのはマコトだった。
「それはまだ、分かりませんが」
「そうに決まってンぜ。アイツに皆を引っ張っていく力なんてあるもんか。きっと戻ってくるぜ、他の奴らはさ」
「と。自信を持っておられるようなので。閉店パーティではない、ということになったんです」
「じゃあ。店は続けると?」
「おうよ!」
 マコトはビっと親指を突き出す。
「それに」
 ニヤリと笑って、モーリスを指差した。「江里でしょ」
 次にセレスティを指差す。「ケイコ」
 更に、汐耶を指差した。「アキナも」
 汐耶とセレスティ、モーリスの三人は思わず顔を見合わせる。
「きっと。キミ達目当ての客がこれからも来るだろうね。だから、どうだろう。定期的に。手伝って貰うっていうのは」
 マコトが笑顔でカウンター内から身を乗り出してくる。
「勘弁して下さい」
 思わず言ったら、三人の声が重なって。
 モーリスは少し、苦笑した。











END






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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 1481/ケーナズ・ルクセンブルク (けーなず・るくせんぶるく)/男性/25歳/製薬会社研究員(諜報員)】
【整理番号 2318/モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】
【整理番号 1402/ヴィヴィアン・マッカラン (う゛ぃう゛ぃあん・まっからん)/女性/120歳/留学生】
【整理番号 1883/セレスティ・カーニンガム (せれすてぃ・かーにんがむ)/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【整理番号 1449/綾和泉・汐耶 (あやいずみ・せきや)/女性/23歳/都立図書館司書】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 夜のお勤めにご参加頂きまして、まことにありがとう御座いました。
 ご購入下さった皆様と
 素晴らしいプレイングやPCをお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝致します。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                       感謝△和  下田マサル