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<東京怪談ノベル(シングル)>


ホームビデオ〜作品No.28(撮影:父)〜

 父が帰宅した。
 多忙をきわめる海原家の父である。母は母で仕事を持っているし、姉は彼女独自のつとめがある。妹も案外、鉄砲玉なので、食卓に家族が揃うことなど滅多にない家なのだったが、そのなかでも、父が帰宅するのがもっとも珍しく、貴重なことであるのだった。
 そのとき、みなもは、ちょうど父の書斎を掃除しているところであったから、もしかすると虫のしらせというやつだったのかもしれない。父が撮影してくれたホームビデオが並んだ棚にはたきをかけているところへ、当人が帰ってきたのである。
 せんから南方へ出かけて携わっていた仕事がようやく一段落したのだそうだ。
 日灼けした父からお土産だ、と、包みを渡される。
 ふわり、と不思議な香りがみなもの鼻をかすめた。

「せっかく、お父さんが帰ってきたのに、私しかいないなんて」
 母も姉も妹も、たまたま留守をしていた。
 みなもは残念そうに言ったけれども、ほんのすこしだけ、父とのふたりきりの時間を独占できるのだ、という思いがその中になかったとは言い切れない。
 父がくれたお土産は異国の茶葉だった。お湯を通すと、エキゾチックな芳香がリビング中に充ちる。
「家は変わりはなかったかい」
「ぜんぜん」
 笑いながら、みなもは応えた。
「退屈過ぎるくらい。お父さんは? 今度のお仕事はどうだったの?」
 珍しい外国の話を期待して、みなもの瞳が輝く。
 カップに口をつけると、今まで経験したことのない味だった。すこしスパイシーな、ハーブティーのようであったけれど、独特の酸味が舌の上で躍る。
「さる国の……密林の奥にある遺跡に行っていたんだよ」
 父はソファーにくつろぎながら、微笑を浮かべて話し出した。
「アンコール=ワットみたいな?」
 アルカイックスマイルの仏像が壁面に彫り込まれた寺院の姿を思い浮かべる。
「そうだね。でももっと古い時代のものだ」
「ふうん……」
「文化の特徴は、しかし、新大陸のそれに似ている。マヤやアステカのような。なんといっても、生贄の風習があるところがね」
「生贄――」
 おもわず、おうむ返しに口をついて出た、不吉な言葉。
「そう。ブタを生贄にささげることで、神託を得ようとしたんだね」
「ブタ? ブタが生贄になったの?」
 みなもは問うた。本で読んだが、マヤやアステカでは人間が生贄として心臓をえぐり出されたのだ。ブタにはかわいそうだが、人間よりはましだ、と彼女は思った。
「そう。地域や神話によって違うが、ブタを神聖なものと考える文化はわりとある。だから、純潔の乙女の魂と融合して、それは神への供物にふさわしいと考えられた」
「え……乙女――?」
「そうだよ」
 父が、どこか謎めいた笑みを浮かべる。
「ブタといっても、ただのブタではない」
 うたうように、あやしい伝説を父は語った。
「その民族の、神官たちのあいだに、何世紀にもわたって伝えられてきた、それは秘薬なんだ。密林の奥深くの闇の中で、ひそかに、だが連綿と受け継がれてきた。今回の仕事の目的のひとつでもある」
「ど、どんな……」
 聞きたくないような……聞いてはいけないような気がしたが、生来の好奇心には勝てないみなもだった。
「乙女をブタに変える薬」
「まさか――」
「ただのブタじゃない。神のブタだ。ブタの姿と、乙女の姿の――半人半獣の姿をした……神聖な存在。そうなることで、神への捧げものになる資格が与えられた」
「…………」
 渇いた口の中を、お茶でうるおす。無言で、話の続きを促した。
「生贄の習慣を持つ多くの文化において、生贄になることはむしろ名誉なことだ。現代人が想像するような悲壮な行いではない。マヤでは生贄を決めるために競技が行われたが……生贄になるのは競技の勝者だったんだよ。争ってでも勝ち取りたい名誉だったんだ」
「その……ブタにされた女の子は……」
「むろん身体を切り裂かれ、血を絞りとられることになる。生贄だからね」
「…………人間なのに」
「そうではないんだ。ブタになったのだからもう人ではない。神聖で、栄光ある贄なのだから」
 なんて壮絶な話なのだろう。みなもは思った。ぞくり、と背筋を這う悪寒。――お父さんが怖い話をするから…………いや、違った。本当にさむけがする。これは――
「みなも」
 父の笑顔が、ぶわっ、と、眼前にいっぱいに広がったような気がした。
「お茶は美味しいかい?」
 父のお土産の、異国のお茶。
 不思議な味と香りのする、飲んだことのない薬草茶だ。見れば、父は、自分のために注がれたカップにまったく手をつけていないのだ――。
(しまった)
 刺すような痛み。
 頭の中に、ぐるぐると、父の言葉がよみがえってくる。
 ――その民族の、神官たちのあいだに、何世紀にもわたって伝えられてきた、それは秘薬なんだ。密林の奥深くの闇の中で、ひそかに、だが連綿と受け継がれてきた。今回の仕事の目的のひとつでもある……
(まさか)
 ぐう、とみなもの喉が鳴った。
 叫び声をあげるよりもはやく、全身に痛みが広がっていく。
 ――乙女をブタに変える薬。
 びくびく、と四肢がふるえる。ざわざわと、皮膚の下で、なにかが起こっているのだった。
「…………い――いや……っ」
 やっとのことで出た声に、返ってきたのは、低いふくみ笑いだけだった。満足げな、父の笑み。
「た、たすけ…………て――」
 伸ばした手が、変化していくのを見て、みなもは鋭い悲鳴をあげた。
 みなもの細い、五本の指が、みじかく、太く、硬く変質してゆき……それはもはや指ではなく、ひづめに変わっていた。
 びり――、と布が裂ける音。服が、変わり出した体型に合わなくなっていくのだ。
「おと――う……さ……」
 声を出そうとしたが。
 喉の構造も変わっているらしいのだ。不気味な、ぐうぐういう音しかでなかった。
(乙女をブタに帰る薬)
 みなもの心臓を掴む冷たい感情。
(ただのブタじゃない。神のブタだ。ブタの姿と、乙女の姿の――半人半獣の姿をした……神聖な存在)
(あたし…………ブタになってる――)
 涙がにじんだ。しかし嗚咽の声は、ぐひひ、と、忌わしい獣の声になっていた。
(おとう――さん……)
 はっ、と、みなもは目を見開いた。
 父は微笑んでいる。
 のみならず。
 ハンディカムのビデオを片手に、じっとみなもを見下ろしているのである。
 テープが回っている。
 撮影されているのだ。
 レンズに移り込む、リビングの床の上でのたうちまわる、人とも獣ともつかない、あやしい姿。
(いや……)
(撮らないで)
(だって、あたし――)
 ぶひ。
(ブタなのに)
 ぶひひ。ぶひ。
 カメラの眼から逃れようと身をよじる。
(どうしてこんなこと)
(お父さん……)
 声にならないその思いを読み取ったように。
「そうではないんだ」
 父は言った。
「みなもじゃない。ブタなんだ」
 平たい鼻に開いた、濡れた鼻腔をせわしなく動かし、声をあげる獣人は、たしかにもはや、みなもではない。破れ切らずに、身体にまとわりつく服と、頭頂部から背中にかけてわずかに残った青い髪だけが、そのなごりをとどめるにせよ――。
(生贄――)
 ふいに、新たな恐怖が、みなもをとらえた。
 ブタに変えられた自分はどうなるのか。どうされようというのか。
(ブタを生贄にささげることで、神託を得ようとしたんだね)
 どこかしら嬉しそうな父の言葉。
(ブタを神聖なものと考える文化だったんだ。だから、純潔の乙女の魂と融合して、それは神への供物にふさわしいと考えられた)
 生贄――。
 捧げものとして、あたしは…………
 みなもは泣いた――いや、鳴いた。
 屠場へと引き立てられる獣の声で、鳴いたのだ。
 そのさまを、父はあくまで穏やかな微笑のまま、ビデオで撮影している。



 目を覚ますと、自室のベッドにいた。
 キッチンには、いつのまに帰ってきたものか、母が夕食の支度をしている。
「あれ。お父さんって……」
「なにいってるの?」
 母は笑った。
 リビングでは姉と妹が並んでテレビを見ているばかり。
 たしかに、父が帰ってきて…………南国のお茶のお土産をもらって――。
「…………」
 夢だったのか。
 みなもは、思った。
 リビングに入ると、ふわっ、と、嗅いだことのないような残り香がした。

 その後。
 みなもは父の書斎の、ホームビデオの棚に、ビデオテープが一本増えているのを発見したが、それは彼女の気のせいだったということにしている。

(了)